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「固有の領土」なら韓国に分がありそうだ。半月城さんの文献紹介を読んだ感想。
http://www.asyura2.com/0502/senkyo8/msg/1060.html
投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 3 月 21 日 00:10:17: SjhUwzSd1dsNg

(回答先: Re: フツーの日本人なら「竹島は日本の領土」と思うのが当然? このさい双方の主張を聴こう 投稿者 木田貴常 日時 2005 年 3 月 20 日 11:22:49)

むむー。竹島だけには日本側にも理由があると思っていたのだが・・。『三国史記』はもっているし、この話も知っていたのだが、竹島のことだとは気がつかなかった・・。

(1)『三国史記』(作成年:1145)の時点では「于山国は溟州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という。」という認識。
(2)『世宗実録』(作成年:1432)では「他国・・ではない」「于山、武陵二島は県の東の海中にある」という認識。
(3)『高麗史』(作成年:1451?)の時点では「一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清明であれば望み見ることができる。」という認識。
(4)『新増東国輿地勝覧』(1531)では『高麗史』の記述を変更して、本文で二島とし、註で一島説としました。

日本側の文献資料はどうなのだろうか?

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/
(ロ)江戸時代の初期(1618年)、伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から鬱陵島を拝領して渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していたが、竹島は鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも1661年には、両家は幕府から竹島を拝領していた。

15世紀までは韓国領だが、17世紀には日本領ということならよいのかな? しかし、「固有の領土」なら韓国に分がありそうだ。

----
http://www.han.org/a/half-moon/hm093.html

 「韓国の固有領土」説はどうでしょうか。韓国ではもちろんそのように信じ
られていますが、それなりの根拠があるのでしょうか。しばらくはこの「韓国
の固有領土」説を検証したいと思います。
  その際「于山」という語がキーになります。「于山」は于山島を意味する
場合と于山国を意味する場合があります。ここの掲示板で両者を混同している
かたもおられるようなので、議論がまぎれないよう「于山」という語をはじめ
にはっきりさせておきたいと思います。

  この語の使い分けは朝鮮の史書でも初期のころはあいまいでした。しかし
「竹島一件」の前後より次第に明確になり「輿地志がいうには、鬱陵島と于山
島は皆于山国の地である。于山島はすなわち倭(日本)がいうところの松島で
ある(注)」との見解が固まり、増補文献備考(1908)などで確定的になりまし
た。これをあらためて書くと下記のようになります。

 于山国=于山島(松島)+鬱陵島

  さて、本題の于山国の歴史ですが、朝鮮の正史に登場したのは『三国史
記』が最初でした。この史書は高麗時代の1145年に編纂されたのですが、于山
国はこう記述されました(注2)。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
三国史記巻四 智證王
 13年(AD512)夏6月、于山国が服属してきて、年ごとにその地の産物を貢
ぎ物として献上した。于山国は溟州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島
という。この島は、百里四方ほどで、それまでは交通が困難であることをたの
みとして服属しなかった。伊喰(注3)の異斯夫が何瑟羅の軍主となった。か
れは、于山国の人たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させ
られないが、計略をもってすれば、服属させることができると考えた。(そこ
で)多くの木製の獅子像を作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくと、
偽って次のように言った。
「お前たちがもし服属しないならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ」
(このことを聞いて)この国の人々は恐れおののいて、降伏した。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  tihiroさんによれば、鬱陵島には史跡として朝鮮南方型の支石墓があるの
で、紀元前から韓族が居住していたようでした。その人たちが于山国をたてた
ようですが、新羅が隆盛するや同国に征服されたようでした。
  この当時、于山国はまたの名を鬱陵島とされましたが、于山国のなかに于
山島が含まれるのかどうかは明記されませんでした。それでも韓国は歌の影響
で小学生でも智證王時代以来「独島は我が地」と信じられているようです。
  日本でも韓国でも鬱陵島と竹島=独島を一対と考える傾向が強いので、そ
れも無理からぬところがあります。

  一方、朝鮮正史でなく野史の『三国遺事』にも同じような于山国征服の記
述がありますが、こうした資料や個人的な資料は必要がないかぎり取りあげな
いことにします。時々、ここの掲示板で個人的な資料や認識を特筆大書するか
たがおられますが、国による資料や認識と個人的なそれとは峻別したいもので
す。

(注1)「輿地志云 鬱陵・于山皆于山國地 于山則倭所謂松島也」
(注2)三国史記巻四 智證麻立干
 十三年、夏六月、于山國歸服、歳以土宜為貢、于山國、在溟州東海島、或名
鬱陵島、地方一百里、恃嶮不服、伊喰(注3)異斯夫、為何琵羅州軍主、謂于
山人愚悍、難以威来、可以計服、乃多造木偶師子、分載戦船、抵其国海岸、誑
告曰、汝若不服、則放此猛獣踏殺之、国人恐懼則降
(注3)伊喰は新羅官位17等級のうち第2等級。喰は、正しくは「にすい」
  に食と書く。JIS範囲外のため表示不能。

  (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

『高麗史』における于山の記述
Yahoo!掲示板「竹島」#887
2003/ 1/26

  前回書いたように、新羅時代の認識は于山国=鬱陵島であり、于山島の名
は登場しませんでした。この図式は初期の高麗にそのまま受けつがれました。
于山国について、高麗史は女真族との関連でこう記述しました。

 「顕宗9年(1018)、于山国が東北の女真の侵略をうけ農業がすたれたので、
李元亀を派遣して農機具を下賜した(注1)」

  初期の高麗にとって最大の敵は女真族でした。かれらが建国した契丹は、
高麗の盟邦である渤海を滅ぼしたうえ、しばしば高麗に侵入してきました。か
れらは北方の国境地帯のみならず、鬱陵島にまで侵入しました。遊牧騎馬民族
であるかれらが海を渡って鬱陵島に侵略するとは意外です。

  それはさておき、于山島の名前は高麗史にはじめて登場しました(注2)。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『高麗史』巻58、地理志3、蔚珍縣
 鬱陵島:県の真東の海中にあり。新羅の時に于山国と称された。ときに武陵、
ときに羽陵ともいう。島は百里四方で新羅の智證王12年(ママ)に降伏した。
(高麗初代)太祖13年(930) にその島民は白吉と土豆を遣わし、貢ぎ物を献
上した。
 ・・・
  一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清
明であれば望み見ることができる。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  于山島の名が一説の形で書かれたところをみると、当時、于山島の認識は
確固たるものではなかったようです。その于山島の比定ですが、一説の内容か
らすると于山島は竹島=独島をさすものと思われます。
  鬱陵島の近辺でめぼしい島は、現在の韓国名で竹島と観音島しかありませ
んが、それらは鬱陵島からの距離がそれぞれ2km, 数十メートルと近く天気が
清明でなくても十分見えますので、これらは該当しないようです。そうなると、
残る島は竹島=独島しかありえないことになります。

(注1)『高麗史』巻四世家、顯宗九年十一月丙寅
 以于山國 被東北女真所寇 廢農業 遣李元龜 賜農器

(注2)『高麗史』巻58、地理志3、蔚珍縣
鬱陵島:在縣正東海中 新羅時稱于山國 一云武陵 一云羽陵 地方百里 智證王
一二年(ママ)来降 太祖一三年 其島人使白吉土豆 献方物 毅宗十一年 王聞
鬱陵島 地廣土肥 舊有州縣 可以居民 遣溟州道監倉 金柔立往視 柔立回奏云
島中有大山從山頂 向東行至海一萬余歩 向西行一萬三千余歩 向南行一萬五千
余歩 有村落基址七所 有石佛鐵鍾石塔 多生柴胡蒿本石南草 然多岩石 民不可
居 遂寝其議 一云于山・武陵本二島 相距不遠 風日清明 則可望見

・・・・

『世宗実録』と于山島
Yahoo!掲示板「竹島」#1067
2003/ 2/ 5

  太宗時代に武陵(鬱陵)島を空島にする方針が決定され、島民はしばしば
本土に連れ戻されましたが、その後も賦役などを逃れるためにこの島に渡る人
は絶えなかったようでした。
  太宗の三男で第四代国王の世宗は、先王の時に武陵島へ派遣された金麟雨
をふたたび按撫使に任命し、島民を連れ戻したことが『世宗実録』に記録され
ました。時は1425年、日本では足利義量の時代です。

『世宗実録』世宗7年10月乙酉條(注1)
  于山 武陵等處 按撫使、金麟雨が本島に役を避けた男女20人を捜索、捕
らえて復命した。最初、麟雨は兵船二隻で茂陵(ムルン)島に入ったが、船軍
46人を乗せた1隻はつむじ風にあい、行方不明になった。
  王は諸卿に「麟雨は20余人を捕らえたが、40余人を失ったので、何の
益があろうか」と言った。
  この島は別に特産物もなく、逃亡者の動機はもっぱら賦役を逃れようとす
ることにある。礼曹参判・金自知は、今回捕らえた逃亡者を法律にしたがって
処罰するよう述べた。
  王は「かれらは他国へ密航したのではない。また前にも赦したことがある
ので処罰は適当でない」として、兵曹に命じてかれらを忠清道の奥深い山郡に
移し、ふたたび逃げ帰れないようにしたうえで3年間賦役を免除した。

・・・・

(注1)『世宗実録』世宗7(1425)年10月乙酉條
 于山武陵等處按撫使金麟雨 搜捕本島避役男婦二十人 來復命 初麟雨領兵船
二隻 入茂陵島 船軍四十六名 所坐一艘 飄不知去向 上謂諸卿曰 麟雨捕還二十
餘人 而失四十餘人 何益哉 此島別無異産 所以逃入者 專以窺免賦役 禮曹參判
金自知啓曰 今此捕還逃民 請論如律 上曰 此人非潛從他國 且赦前所犯 不可加
罪 仍命兵曹置于忠清道深遠山郡 使勿復逃 限三年復戸

・・・・

『世宗実録地理志』江原道蔚珍県
 「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くな
く、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。
一に鬱陵島ともいう。その地の大きさは百里である」

・・・・

http://www.han.org/a/half-moon/hm066.html#No.434


「歴史会議室」
【名  前】半月城
【タイトル】竹島(独島)と朝鮮側の認識
【メッセージ】 '99 12/12 22:41
・・・
  さて于山島にもどりますが、この名が史書に現れるのは先の『世宗実録』
(1432年に成立)が最初で、日本より約200年ほど早いとされています(注
3)。これが竹島(独島)かどうかが、日韓の間で大きな論争点になりました
ので、これにふれたいと思います。
  当時、朝鮮では鬱陵島に空島政策(1403)が実施されていたこともあって、
于山島について正確な知識に乏しく、その後の文献では于山島を鬱陵島と同一
視する資料すらあらわれました。
  すなわち『高麗史』地理志(1451)ですが、その本文では一島説をとり、註
で二島説を記しました。その後、時代がくだって『新増東国輿地勝覧』(1531)
ではその誤りが正されたのか、本文で二島とし、註で一島説としました。

「歴史会議室」
【名  前】半月城
【タイトル】竹島(独島)は見えるか
【メッセージ】12/19 09:45

  鬱陵島から 95km も離れた小島の竹島(独島)が本当に見えるのかどうか、
実は私も半信半疑だっただけに、みなさんの議論は参考になりました。これは
『世宗実録』など韓国側資料の文献批判に影響する重要な問題なので、この際、
すこし真剣に考えたいと思います。

  まず、実際に鬱陵島から竹島(独島)を見たという報告ですが、『軍艦新
高行動日誌』(1904.9.25)に、<松島東南望楼臺ヨリ望遠鏡ヲ以テ見タル「リ
ャンコ」島>として島の観測図が紹介されています(注1)。

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