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密教よりも先に、般若三蔵からサンスクリットを学んだ空海<藤原肇 vs 池口恵観>
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投稿者 αメタボル 日時 2005 年 8 月 09 日 04:20:53: unHFO/3sXGcQQ
 

(回答先: 空海の茶店「阿修羅窟」と渤海経由の中国密航説、およびライシャワーの研究「入唐求法巡礼行記」<藤原肇 vs 池口恵観> 投稿者 αメタボル 日時 2005 年 8 月 09 日 04:07:43)

引用:若き日の修験者・空海のコスモロジーと錬金術(下)


世界最大の文化都市を体験できた空海

藤原 留学生の空海が遣唐使に加わって訪れた唐の都は、九世紀の冒頭だから唐王朝が衰退し始めて絶頂期を過ぎていたが、長安の人口は百万を数えていたから、経済的にも文化的にも世界最大の大都市でした。海路ではインド人やアラブ人がやって来たし、シルクロードから来たペルシァ人やトルコ系の人が住んで、国際都市の長安は多様な文化が交じり合っていました。

池口 奈良も長安を模倣して作った町だったが、当時は奈良から京都に都が移ったばかりだし、日本では長安を手本に平安京の建設が始まり、本場の長安はスケールの点で桁違いだから、空海は世界都市の長安に目を見張ったでしょう。なにしろ、中央には道幅が、百メートルを超える大路があり、東西南北にそういう大路が交差しているわけだし、当時の長安は今の京都の四倍か五倍の広さで、奈良の十倍くらいの面積を持つ大都市です。

藤原 京都の場合は未だ作り始めだったから、未だ奈良よりも貧弱な町だったでしょうね。

池口 そうでしょう。京都へ桓武天皇が遷都したのは794年であり、空海が長安に着いたのが804年の年末だったから、京都の町は未だ骨格を作っていたのです。それに今年は空海の入唐1200年目に当っており、長安の空海について話をできたというのも、何か不思議なお大師様の導きかも知れません。

藤原 私もそう思います。どうしてかと不思議に思っていましたが、空海は長安について直ぐに青竜寺には行かずに、恵果和尚の青竜寺を訪問したのは半年後です。その間は私が仮説として考えたように、例の別送便の到着を待ったのでしょうか。

池口 別送で金を送ったと言う説には証拠がないから、一つの可能性として脇において考えた方が良いと思うので、一般に知られた説を中心に考えて見ます。遣唐使の一員として長安に到着した空海にとっては、遣唐使としての公務が優先なのは当然であり、最初の二ヶ月は使節団員として官舎に住み、皇帝の接見などの公務で多忙でした。そして、遣唐大使の藤原葛野麻呂が日本に帰国した後で、始めて留学生として自由な行動が出来て、留学僧に馴染みの西明寺に移り住みました。藤原さんが問題にする青竜寺に行く前には、空海は約四ヶ月ちかい時間があったので、サンスクリットの勉強をしていたようです。また、長安にはマニ教やイスラム教も伝わっていたし、寺院も何百もあってとても壮観だったようです。しかも、密教の場合はその50年前の八世紀の前期に、インドから善無畏や金剛智が訪れていて、「大日経」などの仏典の漢訳を始めています。また、金剛智の弟子でバラモンの血を引く不空金剛が、一度セイロン島を訪れてから再び長安に戻って来て、重要な密教の経典を持ち帰り熱心に布教したから、密教の黄金時代と呼ばれる時代が訪れています。

藤原 確か不空三蔵は空海の師の恵果和尚の先生でしたね。

池口 そうです。空海に密教を伝授した恵果の先生の不空は、「金剛頂経」の漢訳をしたし五台山に道場を開いています。また、楊貴妃で知られた玄宗皇帝もそうですが、次の二代の皇帝から篤い帰依を受けたことで、密教は不空の指導によって隆盛を極めています。


空海が長安で灌頂を受け金剛遍照になった意味

藤原 密教を学ぶために長安に行った空海なのに、密教よりも先にサンスクリットを学んだと言う状況が、フランスに留学した私が大学に登録するより、フランス山岳会の会員に登録して山ばかりに登り、一段落してから大学生として勉強したのに似て、仲間に会ったという感じがして実に愉快です。

池口 矢張りなんと言っても若かったから、個人的に一番やりたいことから始めたのでしょう。それでも、空海は言葉を密教の習得より優先したのではなく、インドの大学で密教を学んだ般若三蔵の所に通って、サンスクリットやインドの宗教事情を教わり、密教についての勉強もしていたのは確かです。般若三蔵は『華厳経』や『理趣教』の漢訳を終わり、それを空海にプレゼントしたのを見ても分かるが、恵果と同じように空海に強い影響を与えた人だから、青竜寺に恵果を訪ねるのが少し遅れただけです。

藤原 そして訪ねて行ったら「待ちかねていた」と言われて、たちどころに秘伝を授けられて灌頂を受けたのだから、空海は実に運が良いということが出来ますね。

池口 それは空海がもの凄い実力を持っていたので、恵果阿闇梨は最初の一分でそれを見抜いたし、自分の残り時間が短いと知っていた。だから、「服命尽きなんとするに付法する人なし」と言って空海を後継者に決め、大急ぎで両部密教の総てを空海に伝授して、灌頂を終えると「金剛遍照」の灌頂号を与えたのです。そして、早く日本に帰って密教を伝道するように遺言して、恵果大阿闇梨は四ヶ月後に亡くなっているのです。

藤原 余りにタイミングが良すぎて不思議でならないが、この灌頂を境にして空海は求道者から布教者に大転換してしまうし、20年間の留学予定を2年余りで打ち切って、大量の仏典を持って日本に戻ることになります。でも、あれだけ大量の経典や仏具を買い求める資金は、とても留学用の資金だけでは賄えないので、一体どうやって手に入れたのかを考えた結果、渤海経由の別送便の仮説を考えたわけです。

池口 ことによると、恵果和尚が総て面倒を見たのかも知れません。色んな本に謝礼が必ず必要だということが書いてあるが、得がたい人材を自分の後継者に出来た時に、謝礼を貰おうと考えるのは狭量で通俗的な考えであり、私なら自分の持っているものを全部投げ出して、有望な後継者への贈り物にしたいと考えます。そんなことは当たり前ですよ。

藤原 それが悟った人の自然な考え方かも知れません。世の中が私有財産制度になってから忘れているが、総ては天や宇宙からの一時的な預かりもので、預けられた時に天や大地に有難うと感謝して、お礼の捧げ物として納めたのが宗教心の出発点です。感謝の気持ちを山やピラミッドに託したのに続き、それが牧畜や農耕の時代には神殿や杜になり、その仲介役や管理者として神官や僧侶が現れ、古代文明が始まったのだろうと思います。

池口 その名残が寺院や神殿に残っていまして、住職や神父は寺院を預かっていても所有者ではなくて、いつでも次の人に明け渡す預かり物です。そこで恵果和尚は青竜寺を跡継ぎの空海に渡しても良いが、彼は日本に戻って密教を広めなければならないので、寺の代わりに仏典や仏具を献呈したのであり、そう考えれば、宗教人として最高の遺贈の実現になって、それが物心両面での両部密教の伝授でした。

藤原 空海が「金剛経」と「胎蔵経」の両方を伝授されて、密教の中心が長安から日本に移してしまうことになるが、偏狭な縄張り意識にとらわれることなく、空海と言う弟子の能力に全面信頼した恵果和尚は、随分と見上げた度量と見識の持ち主ですね。

池口 恵果阿闍梨は唐がこれから衰退に向かうと予見して、後継者として見込んだ空海に遺言の形で「汝はそれ行きてこれを東国に伝えよ。努力、努力」と言って亡くなっています。また、国境や縄張りは俗世界で通用する価値基準であり、学問の世界では最も優れた弟子が師の衣鉢を継ぐのは当然です。現に金剛智や善無畏はインド生まれの人だったが、出身地にこだわらずに命を懸けて唐に渡って、人材育成と布教に生涯を費やしています。長安のお寺は学びたい人には門を開いていて、宗派に関わらず誰でも受け入れていたから、空海も色んなお寺に師を求めて訪ね歩いたし、そこで般若三蔵に出会いサンスクリットを学んでおり、青竜寺に恵果阿闇梨を訪ねて認められたのです。

藤原 そうでしたね。空海の留学は肩書きや資格を取るためではなく、一番の先生に師事して最高の学問の総てを手に入れて、それを世の中に役に立たせることで、多くの人を救いたいと願って唐まで出かけたのです。そういう学ぶ意欲に命を懸けている人には、学びの場は出身地や年齢などに関わりなく、修行の場が提供されていることが大切だし、長安のお寺が閉鎖的でなかったのは素晴らしいです。

池口 お寺や学校は誰にでも開かれた場所であり、学問をしたい人や悩みを持つ人に対して門を開き、お互いに必要なものを与え合うのは当然です。この世はものが巡って動いているのであり、自然も社会もあらゆる分野が循環で成り立ち、この生態環境の中で生命現象は営まれているのです。


喜捨の精神とお布施の正しい意味

藤原 われわれは今の日本の宗門や家元制度に毒されて、自発的な喜捨でなく礼金や集金されるのに慣れ過ぎており、分かち合うという気持ちを喪失しています。だから、恵果和尚への御礼として私まで別送便の仮設を考えたが、高貴な精神の持ち主は与え合うという感じで、気持ち良く自分が持つものを与えられるのです。だから、貰うことも与えることも天の摂理だと思って、「積善の徳」を積むことが大切だと空海は理解したので、空海は師の好意を有難く受け取ったのでしょう。

池口 それを強く意識したが故に恵果阿闇梨の碑に、空海は「受くることあって貯えることなし」と師を讃えた上で、恵果和尚から多くの布施を貰ったことへの感謝として、有名な「虚しく往きて実ちて帰る」と書いたのだと思います。

藤原 お布施というとお寺に渡すものと思っているが、お互いに喜びの心で出し合うのがお布施だと理解すれば、社会への恩返しの寄付や喜捨もお布施だから、空海が恵果和尚からお布施を貰ったということですね。

池口 そう考えたら良いと思います。ただ、仏教の世界で使っているお布施という言葉では〔布施〕の中に大きく分けて三のものがあってそれは〔財施〕、〔法施〕、〔無畏施〕に分けられます。

藤原 〔財施〕は分かるが他の二つは耳にしないので、どんな内容かを教えて頂かないと施しようがないけれど、お布施と喜捨では意味が違うのでしょうか。

池口 喜捨は感謝や慈悲の心で喜んで差し出すことであり、日本では捨てると言う語感が悪いので施すという言葉を使うが、自分が持つものを提供するのが布施です。具体的には財施は金銭や物品を必要としている人に提供し、物質的な苦悩を取り去るのに手を差し伸べることであり、困っている人に何かを教えてあげて、精神的な目に見えないものを施すのが法施です。また、自分の労力を使って他人の役に立つとか、救ってあげるという行為を指して無畏施と呼びますから、ボランタリー活動などはこれに含まれます。

藤原 言うならば、お布施は人間愛で英語のフィラントロピーに当り、日本語なら且那としての心構えと実践力のことですね。

池口 旦那という言葉はサンスクリットのダーナに由来しており、自分の持っているものを喜んで差し出し、相手のためになる行為をすることを意味します。だから、集め集めて手にしたものを欲しい人に分け与え、学んだ知識や受けた愛情を必要な人に分け与えれば、世の中は総てにおいてスムーズに循環するのです。

藤原 最近の日本は政治がまともに機能していないので、人間としての信頼関係が崩れて社会がギスギスしています。そのために、ゆとりを持って旦那になろうという人が激減して、カネはおろか舌を出すのも嫌だという人ばかりで、これが末法かと思いたくなって淋しい限りです。これは私の体験に基づく偏見かも知れないが、同じ旦那役をやるにも三つの段階がありまして、下はカネを出すけれど中は心を提供するし、上は時間を差し出すのだと思っています。

池口 それは偏見です。布施をするという点では同じであり、「貧者の一灯」というように大小の問題ではなくて、喜んで与えるかどうかが大切だと思います。他の人間に対して真正面から見据えるという姿勢で、温かい眼差しと大いなる慈悲の心で向かえば、そこに自ずと何かを提供するお布施の心が生まれ、善が善を呼び良いことの連鎖反応を生むのです。

藤原 何かして貰ったら素直に感謝の気持ちで受け入れ、そのお返しのお礼をしようと考えるのではなく、別の人に何かをして上げて感謝をトスすれば、それが循環して分かち合いの心が無限に広がります。日本人はお礼のやり取りがとても好きで、ピンポンみたいに相互の間でお礼の繰り返しをして、外に向かって開いて行かない傾向があるが、池口さんが言った良いことの連鎖反応が必要ですね。

池口 金剛智や善無畏はインドから布教に来たし、不空三蔵も西域から長安に来ているように、皆が自発的に布施を通じて慈悲の連鎖に加わり、それを自分の使命だと思って生きているのです。それは密教だけでなく?教〔拝火教〕や景教〔原始キリスト教ネストリア派〕でも同じであり、シルクロードを通ってはるばる長安まで来て、布教を続けていると言うのは並大抵のことではありません。

藤原 私もそう思います。当時の長安では拝火教や原始キリスト教を始め、マニ教や誕生したばかりのイスラム教も盛んで、大地母神への信仰は喜捨の習慣が強くて、その根底には感謝する精神が流れています。それを空海は長安の異郷の中で感じ取ったし、古代信仰に共通の原始共産主義的な平等思想が、ユートピア的な考え方と結びついていたので、そこに信仰の原点を感じ取ったのだと思います。初期の宗教活動には施療行為が結びついており、宗教家は人間レベルで一種の医者の役目を果たしたし、社会のレベルでは社会活動家としての役割を担って、人々の幸せな生活のための活動をしたのです。


帰国した空海の衆生済度の生き方

池口 それをお大師様は「衆生済度の悲願」と言っており、「済世利民」のために井戸を掘ったり貯水池を作ったりして、世の中を良くして民の幸せの実現のために、お寺や学校を作って教化しようと実行しています。それは空海の灌頂号の「遍照金剛」が物語っていて、「遍照」は光があまねく照らすという意味であり、「金剛」は永遠不滅の最も尊いものを意味するから、これは大日如来であるということです。

藤原 大日如来そのものとは実に凄いですね。

池口 それだけ空海が得難い貴重な人物だと考えたから、恵果阿闍梨は何千人もいた弟子の中から、外国から来たにもかかわらず空海を選んで、自分が持っていたものを残らず伝授した以上は、謝礼などを期待するはずがありません。だから、コップの水を次のコップに移すように総て伝授されたので、空海は20年の留学予定を2年で打ち切って、これ以上唐にいる必要はないと考えて帰国したのです。

藤原 これも空海流の中退のバリエーションですね。

池口 留学を自分の都合で途中で打ち切った点では、確かに中退だが勉学を止めてしまったわけではなく、船に乗るまでの期間を利用して更に学ぶために、華厳宗の名高い学者の神秀や竜興寺の順暁阿闍梨にも会い、唐の宗教問題についての話を聞いています。

藤原 日本に帰りついてからの空海の活躍については、真言宗のものだけでなく多くの本が扱っているし、私には付け足すだけの見解もありません。地質の専門家としての私は鉱山開発に関係しましたが、若い頃にダム工事や井戸を掘る仕事もしたから、空海が鉱山に関係しただけでなく各地で井戸を掘り、監督として讃岐の万濃池の土木工事に関係したので自分と似た仕事をした点が興味深いのです。

池口 万濃池は空海が50歳に近くなっていた頃に、故郷にあった灌概用の万濃池が何度も決壊し、どうしても修理がうまく行かなかったから、讃岐の国司から工事監督の別当を任されたので、高野山の結界内の悪神を追い出した後で引き受けました。それまで幾度も大工事をしても直ぐに壊れていたのに、空海は僅か三ヶ月で修築して有名ですが、これは伝教大法師としてやった仕事です。空海はその前に別当として兵庫の港の改築もやり、土木工事についての知識と技術を身につけたのは、唐に留学した時だろうと言われています。

藤原 隋の煬帝は大運河を作ったから土木技術はあったが、井戸掘りはペルシアからウズベク方面にいい技術が伝わっており、カナート〔Qanat〕という地下水を井戸で結ぶシステムとして、昔から利用されていた非常に進んだ技術です。古代文明では井戸を掘るのは建築技術と共に石工が独占しており、そこにフリーメーソン〔自由石工組合〕の源流があると言われるし、古代巨石文明の伝統を受け継ぐ集団として、金属を扱うグループと並んで支配者として権勢を誇っていました。

池口 それから、筆の作り方も長安で学んだことは明らかで、その関連で墨の製法も学んだと思われるのでして、空海は好奇心の塊みたいな万能の人でした。

藤原 その通りでして、墨と炭は同じ炭素で出来ているのです。だから、修験を通じて錬金術のノウハウも学んでいる空海は、金属精錬の炉で燃料として木炭を使うので、従来の黒炭より火力の強い白炭の製法も学んだから、炭焼き窯の排気口のことを弘法穴と呼ぶし、炭焼きの元締めが熊野の別当だったそうです。だから、中世の天皇は熊野詣によく出かけているし、紀州の田辺は熊野の別当の窓口であり、田辺は炭で中世日本のエネルギーを支配して、田辺の人間による炭のネットワークがあったようです。

池口 その炭が備長炭ですね。全国を布教する時に井戸を掘っただけでなく、煙の出ない白炭の焼き方を教えて歩いたようで、大宰府や槙尾山の周辺には白炭の産地があり、高野山周辺を含めてほとんどが空海のゆかりの地です。


日本最初の私立総合大学の綜芸種智院

藤原 高野山は僧侶が学問と修行をする場所だが、それとは別に京都の東寺の直ぐ近くに綜芸種智院を作り、それが日本最初の総合大学だと言われていますね。

池口 はい。空海が教育者としても非常に卓越していたのは、平安時代の初期に綜芸種智院を庶民のために開いて、総合的な教育の場を広く提供したことです。当時の京都には特権階級のための国学が一つあるだけで、これは官吏になるための国立官吏養成所であり、身分が低い者や貧しい庶民には無関係でした。そこで、仏教だけでなく道教も儒学も学べる総合大学を作って、一流の先生を集めて奨学金も与えたのです。

藤原 それにしても、奨学金まで提供したと言うのは凄いですね。しかも、仏教大学ではなくて総合大学というのは寛大であり、柔軟性に富んだ発想の建学精神で感心します。でも、同じ私立でも勧学院とか奨学院という学校があって、都の大学や地方の国学と競っていたのと違いますか。

池口 そんなことはありません。他の私学は貴族の子供しか入れなかったのに対し、空海が作ったのは庶民の子供が学べる学校であり、この万民が入れる学校は留学中の長安で見た、町のあちこちにある誰でも行ける塾が手本でして、それを発展させた奨学金まで与える壮大なアイディアの実現でした。理想としては当時の世界に誇るものでしたが、残念なことに空海が入定してから18年ほど後に、綜芸種智院は経済的な理由で維持できなくなり、25年という短い寿命で潰れてしまったのです。

藤原 東寺に行く途中に綜芸種智院跡という表示があった、種智院大学という名前の大学は存在しないのですか。

池口 種智院大学と高校がその後に出来ていますが、沼地を埋め立ててそこに移転しておりまして、私は学校の敷地が埋立地というのは良くないと思います。空海は環境としての土地をとても大事だと考えていて、大学は人里はなれた自然の中にあるべきだし、高野山大が空気の良い高野山の上にあるのに較べ、種智院大学の移転は大失敗だと思っています。

藤原 それは文字を見れば簡単に読み取れることで、山に住めば仙人になるが谷間や低地に住めば俗人になるだけであり、仙人と俗人の違いを目の前で示されても、その意味していることに気づかず盲目同然なのは、実に情けない限りだと思わざるを得ません。

池口 その通りですね。言葉の中にはっきり意味が封じ込まれているのに、それを読み取れる人が余りいないというのは、今の日本を覆っている大きな問題です。また、言葉の持つ精神に対して鈍感になってしまい、人間として考える訓練が出来ていない原因は、きっと教育が悪いからではないかと思います。

藤原 テレビ言葉が氾濫して日本語がとても乱れていますが、自分が発している言葉を大切に扱おうとしないことは、人間としての自分を粗末にしていることです。

池口 日本語が乱れているのは言葉を大切にしないからで、呼吸が乱れると声も乱れてしまうのであり、「響くを名づけて声と言うなり」というように、正しい言葉を使って生命力を高めれば、それが宇宙に響いて良い声が自然に出ます。難しい知識をやさしい言葉で解説することも衆生の救済であり、学校は身体と言葉と精神の浄化の場所だから、晩年の弘法大師は生命の根源と対話するために、綜芸種智院を日本人に残したのだと思います。

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