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この阿修羅掲示板では原則的な立場を表明すべきであると思います。
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/512.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 7 月 24 日 17:19:31: YdRawkln5F9XQ
 

(回答先: 試行(仮説−検証) 投稿者 如往 日時 2005 年 7 月 24 日 10:29:31)

如往さん、横レスありがとうございます。

私はこのような掲示板での対話は原理・原則論についてまず意見交換すべきであり
各々の置かれている具体的状況によって異なる意見にならざるを得ない対象について論議すべきではないと思います。
Kさんは次回以降の選挙でどう闘うかを問題意識の中心に持っており、私の問題意識の中心ではありません。
このような問題意識の優先順位に違いがある人間同士が話を噛み合わせようとしたら原理・原則論について議論するしかないと思います。

私は別に選挙の中で「君が代反対」を訴えようと主張しているワケではありません。
選挙の中では「首相の靖国参拝反対」と「郵政民営化反対」を中心にすべきだと考えております。
「君が代反対」については既にその闘争をしている人間がいる中でその事を支持するかどうかというだけの問題です。
私は支持をするのであり、靖国参拝反対を訴える時にもその立場を下ろす事なく共闘をすべきだと言っているのです。
Kさんはそれに対して共闘するためにはそのような主張を下ろすべきだという手練手管の問題として提起され私にとってはそのような取引をする事がいかにも軽いやり方だと思えるという事なのです。

>試行(仮説−検証)
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/510.html
>投稿者 如往 日時 2005 年 7 月 24 日 10:29:31: yYpAQC0AqSUqI

>(回答先: 「もう、やめましょう。」とおっしゃりながら沢山書きますね。 投稿者 ワ>ヤクチャ 日時 2005 年 7 月 23 日 20:01:32)


> ワヤクチャさん、そして考察者kさん、こんにちは。
> 横レスにて失礼します。


> 究極的には各々が運動の何処に身を置いているのか、あるいは置こうとしているかに係っていると想いますし、それはまた人々の体験や現時点の立つ位置によって規定されるだろうと考えています。

そうです。
少なくともこの阿修羅掲示板はそれぞれのテーマについて基本的立場をめぐって議論すべきであるし、運動論を原理原則論よりも優先すべきでは無いでしょう。

>無論、運動体を囲む状況の変化や運動体自体の内部情勢の変化によって、人々の視座>が変容することもあり得ることだと想っています。

はい。

> 運動体を一つの生き物であると同時にある種の経営主体と見做すことが可能ならば、大衆化路線と脱大衆化路線の二つの路線を同時的にあるいは交互に併用していくことが肝要だと思います。

その分類はいかがでしょうか?
私は脱大衆化路線を歩む者ではありません。
自らの主張を一人でも多くの人に理解してもらうために努力しております。

>前者は一般に流布すべく多数派形成を目指し遠心力の拡張を図っていくことに、後者は運動体の独自性と組織への求心力を高めていくことに相当します。

多数派形成は自らの主張を多数にしていく事でなければ意味がありません。
選挙に勝つ為に主張を下ろすのであれば選挙に勝っても意味がありません。

>これは、製薬会社が一般薬用と医師薬用の二分野の商品構成をすることにも似ています。そして、最終的には広義の大衆化すなわち大多数の支持を得ることによって、ないしはそのプロセスを通じて経営基盤の定常化及び強化が成し遂げられるのではないでしょうか。

> 外見上はどちらかと云うと考察者kさんが理論派で、ワヤクチャさんが行動派のよう見られるかも知れませんが、私は本質的には考察者kさんもワヤクチャさんも共に行動派だと思っています。

だと思います。
しかし、行動するにも一体何を主張するのが正しいのか?
という問題がありその事を考える為に阿修羅に来ているのです。

>そして、考察者kさんは大衆化路線を優先し、ワヤクチャさんは脱大衆化路線への志向性が強いと謂えるかも知れません。

私は「大衆化路線」の人間です。
戦争が無く、環境にも負荷を与えず、経済的に平等な社会を作る為には
多くの人との共同作業が不可欠です。

>どちらにも相応の理論や想い入れといったものがあるでしょう。最終的に運動の成否を決定するのは二つの路線が鋭く対立し片方を制することではなく、分担を認容しあるいは補完し合うような律動が生まれるか否かであると想います。

私はKさんの立場が分かるつもりです。
彼は選挙に勝つ戦術をもっぱら考えているのです。
その為に自らの主張を下ろしていってるのです。
自分が多数派の中にいる事が大事なのでしょう。
しかし、それでは中身がありません。
Kさんの仲間は生活は安泰かも知れません。
しかし社会的に意味がある集団が形成できたかどうかはまた別問題です。

> ところが、両者共に現実の運動への係わりの頻度が不足していることが対話の不毛性を現出してしまっていると感じます。

確かに私は現実の運動への参加が不足しているかも知れません。
しかし、それ以前に「何を世に訴えるべきか?」をココで模索しているのです。
現実に行われている闘争も支援しながら「何をなすべきか?」について自問し続けているとも言えます。

>考察者kさんには運動への過度のコミットメントを求めるものではありませんが、例えばデモと併走することでも構いませんので、アホらしいと感じつつも人々の熱気に触れて欲しいと思います。

そういう事は大事かも知れませんね。
しかし、私はこの阿修羅でも多くの人々の「世の中をよくしたい。」という情熱を痛いほど感じております。
ある意味、デモ隊よりも濃厚な意識を持った人々が、この世に起こっている森羅万象から何をなすべきか?を考えている場なのです。
このような密度が高い意識に触れながら自らを鼓舞する力がここにはあると思います。
ここで行われている事は運動では無いなどとは言えません。
匿名であったとしてもそれぞれが精一杯自らの主張を訴える場であるのです。

>ワヤクチャさんには運動の現場で持論を展開し、仲間からのフィード・バックを受けとけることによりその脱大衆化理論を洗練していって欲しく思います。

運動の場では私は意見を述べるよりも働く事を選択します。
これまでそうやってきました。
運動では協働関係が一番でありテーマは決まっているのですから後はそれを広げる行動をするダケという事があるのです。

>そして、お二人にはその成果を逐次ここ阿修羅に持ち寄っていただきたく希望します。

私にはそれはできません。
私は匿名性を確保しておくべき理由があるのです。
ここでは皆さんとの認識の一致を求めていきたいと思います。
闘争報告の場では無いという事です。

> 信義に殉じるのは個人の勝手であるとの観方もあります。当然ながらその処し方に拙劣さがあったとしても、それは反面教師として学び他事に活かすべきことであります。しかし、仮にも社会変革を志す者ならば殉死者達の発意をきちんと受けとめることから始めなければならぬでしょう。1967年10月の第一次羽田闘争における京大生山崎博昭氏の死と、同年11月のエスペランチスト由比忠之進さんの焼身自殺、それ等は70年安保世代の胸奥に刻印された墓碑銘であり、単なるノスタルジーではない、原点です。

私はお二人の事を知っております。
純粋な願いを行動に移した為に殉死した人々の事は忘れる事はできないでしょう。
60年安保の時の樺美智子さんもそうでしたね。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kannba.htm
私は高橋和巳氏の「死者の目に映るもの」というエッセイで
樺美智子さんが最後に見たこの世の風景とは靴底だったのではないか?
という文章を読み、死者を弔うとはこういう事では無いかな?
と思ったものでした。
決して「バカなヤツだ。東大までいって。」などという感想では無いのです。
【高橋和巳 樺美智子】
http://www.google.com/search?num=50&hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=%8D%82%8B%B4%98a%96%A4%81@%8A%92%94%FC%92q%8Eq&btnG=Google+%8C%9F%8D%F5&lr=lang_ja
闘争の中では様々な悲惨な事も起こります。
三里塚でもそうでした。
しかし、だからといって悲惨を回避しようとして事なかれ主義になるのはもっと愚かしいと思います。
もちろん、Kさんは勝つ為に一生懸命に考えておられるのであり、闘争から逃げたいという事では無いでしょう。一番効率がいい闘争をすべきであると。しかし、そのような闘争を選んでいる余地など無いのが多くの人々の現実では無いのでしょうか?
それぞれが一番大事だと思う事をやるまででしょう。
我々はそういった人々に対して「その闘争よりもこちらの闘争をするように。」などとは言えないのです。その闘争も支援し、自ら提起する闘争にも理解を求めるという事しか無いのです。その意味でKさんが「君が代」反対など孤立する闘争でありするべきでは無いなどと言うのはおかしいと思いました。

> 後に続く世代の人達にとって原点とは何なのだろうと考えることがよくあります。嘗て阿修羅ではD-dogさんにそれに類似した質問を発したのですが、断じてD-dog氏個人の問題に帰せられることではありません、しかし明確に把捉することは叶いませんでした。結局は各人で試行(仮説−検証)していく中で原点(依拠すべきもの)を確認していく他はないのではないかと想っています。私にとっての行動派とはこの試行する人間を意味します。

私には全ての人が試行しているように見えます。
試行の仕方がそれぞれ異なっているだけです。
自分はこう考えこう行動するという事を多くの人々に訴えながら試行する事。
この積み重ねの彼岸に未来があるのだと思います。

しかし、できれば仲間が欲しい。
だから意見を述べ、賛同者を募り、批判して合意を形成しようとするのです。
合意の為の批判であり敵対的批判ではありません。

では、また、お会いしましょう。


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