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(回答先: パーフェクトゲーム 投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 8 月 03 日 09:35:51)
新聞記者が見たビルマ派遣軍幹部連中腐敗の構造
http://kurohune.hp.infoseek.co.jp/Burma/imparl/huhai.html
以下、コピペ。
−−−−−−−−コピペはじまり−−−−−−−−−−
第一線では将兵が食無く弾無く、敵戦車に蹂躙されながら死闘を繰り返していたとき彼らはラングーンで、はたまた日本の軽井沢にも似た避暑地メイミョーで何をしていたのか? 前線へ出ようともしない参謀たち、戦の状況も理解できず、夜な夜な酒と女を求めて料亭通いを繰り返す幹部たち、彼らに比べるとノーパンしゃぶしゃぶ狂いの大蔵君がかわいく見えてくる。いや、目の届かない在外公館では外務君達によって今でも同じようなことが繰り返されているのかもしれないが。
昭和17年半ばの様子を読売新聞記者若林政夫氏は次のように書いている。
星の旦那たち
3カ月ぶりにラングーンに帰った僕はその復興ぶりにまず驚いたが、同時にラングーンが印度人の街でありビルマ人の街ではないことを発見して2度驚いた。印度人の生活力の旺盛さは華僑を凌ぐくらいだ。ラングーンの目抜き通りを歩くと、めぼしい商店や気の利いた飲食店はどれもこれも印度人か、中国人経営、ビルマ人経営なんか一軒もなかった。
三度びっくりしたことは陸海競って専用料亭を持ち、日とともに日本の女の子が殖え、いやな言葉だがいわゆる慰安所という、お女郎屋が雨後の筍のようにニョキニョキ出来てゆくことだった。
そのお職は、なんといっても陸軍の星の旦那方が御専用の粋香園にとどめをさす。こいつがラングーンに進出したことについてはこんなことが、まことしやかにいわれていた。
粋香園というのはかっての軍都久留米の料理屋で、例の割腹自殺をした杉山元帥が久留米の師団長時代にごひいきにしていた家だとかで、大の客筋の師団はなくなる。統制統制でにっちもさっちもゆかなくなって、廃業のご挨拶におやじが元帥邸に伺候したところまあ少し待て、俺が、いい口をさがしてやるということになった。それからまもなく戦争がはじまる、すぐ上京せよということで、お前ラングーンに行けということになったのだと。ありそうなことだ。
それはともかくとして、ラングーン一流のクラブをいただいて、そこに陣取ったこの一隊は総勢150名になんなんとする大部隊で、芸妓、はんぎょく、はもとより女中、下働き、料理番。これまではわかるがあとが凄い。髪結いさんに三味線屋、鳴物屋、仕立てやに洗い張り屋にお医者さんまで、これが婦人科兼泌尿器科医であることはもちろんのことだ。それに青畳、座布団、屏風、障子、会席膳一式まで海路はるばる監視哨つきの御用船で、つつがなくラングーンに御着到になったのだ。
湿気の多いビルマでは三味線も太鼓も、鼓も、こわれやすいし、御相手がお相手で、相当の破損を覚悟してのこと、暑いビルマではおべべも、汗まみれになるというので仕立屋さんや、洗い張り屋さんの配属となったもの。それでも輜重行李から、衛生隊まで引きつれての進撃ぶりは大したものだ。それだけにお値段も滅法おたかく相手にもしてくれなかったが、なにもかも留守宅送金の僕ら軍属どもには無用の長物、高根の花だった。
灯ともしごろともなれば、青、赤、黄の小旗のついたトヨダさんが門前に並んで、椰子の樹陰から粋な音じめがもれてくるという始末で、チークの床に青畳を敷きつめた宴会場では明石か絽縮緬の単衣かなにかをお召しになった久留米芸者のお座付きからはじまってあとは、例によって例の放歌乱舞が日ごと夜ごとの盛宴に明け暮れていた。
S奴姐さんはA参謀、M丸さんはY隊という具合で、僕ら軍属や民間人はとても姐さん方に拝謁を得るのは難事中の難事だった。安い方の食堂であやしげなおすしの皮剥ぎをやりながら、何のことはない下手なラジオを聞きながら一杯やっているようなもので、奥座敷からさかんにきこえる嬌声に指をくわえ、膝を抱えて、「馬鹿にしてやがる! 戦地だぞ」 なんて、はかない正義感に鬱憤をもらしながらビルマ女のお酌で防腐剤入りの日本酒でテーブルをたたいてトラになるのがせいぜいだった。
錨の旦那たち
海軍の錨旦那た方はバンドの川っぺりにこれは基隆仕立の遥地亭という、いともこじんまりしたやつを、御設営になってしんみりとチンカモでやっていた。大衆的なのは白木屋が陥落と同時に開いた食堂だ。ここにはあの僕らを苦しめた印度支那山脈を、自動車路の完成と同時にいちばん乗りしてきた女性としての山越え第1号のM子さんがいた。若い将校どもは肉感的な彼女に、われこそは、われこそはと名乗りをあげていた。その他アリラン、バーマ、インド、支那仕立と、金と暇さえあればお好み次第。上下の別はあっても、勝った、勝ったで、あの悲惨な敗退なんか誰も考えず、酒と女に憂き身をやつしていた型だった。
東条勝子夫人がM検を提唱したのもあながち怒れもしないし、笑えないような始末だった。じめじめと暑いビルマの雨期に防腐剤の多い日本酒のがぶ呑みでは、誰だってそういい智恵が出ないのは無理もないことだった。僕らが帰るころからますますさかんになって行った、こうした方面の女性が、あの敗走時、どういう運命におかれただろうか、それを考えるとぞっとする。
−−−−−−−−−−−−−−以上コピペ終わり−−−−−−−−−−−−−−−−
文中、
>東条勝子夫人がM検を提唱した
とありますがM検とはどうも徴兵時のホモテストみたいなもんで、一応M検の体験談を語り合っているサイトがありましたのでご紹介。
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徴兵検査、M検の記録保管庫
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hinoki/4247/index2.html
以下、掲示板より抜粋
−−−−−−−引用はじまり−−−−−−−−
徴兵検査の記憶 投稿者:慎太郎 (6月26日(日)19時01分16秒)
http://21seiki.com/cgi-bin/maison7/vroom.cgi?021
先日掲載済みの前編を含めた、全編を掲載します。
軍隊体験記録 −徴兵検査の記憶−
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投稿者 : 元・海軍二等兵 青木新平さん
これは元・海軍二等兵さんからいただいた手紙をパソコンに打ち込んだものです。
元・海軍二等兵さんは徴兵検査だけでなく、国民徴用令による徴用中あるいは海軍にお
いて何度もM検を受けた方です。
さらにM検はもちろんの事、徴用工や海軍兵隊時代に、軍隊の権威のもとで何度も性的
陵辱を受けたそうです。寮長や上官に呼び出され素っ裸にさせられての性器玩弄、縄でく
くられ、鞭による性器責めを中心とする悪戯、拷問、強Mへの調教をされたのです。しか
し、今ではその時の苦しさも懐かしんでおられるようです
この体験は60余年も前、軍国日本、滅私奉公、軍事最優先の時代に、強大な軍隊の権
威に一切逆らうこともできず、上官から強Mに調教されてしまった男の体験談です。
『兵隊画報』でも分るように軍隊とは男だけの世界であり、初年兵は別として上官には
意外と暇が多いのです。日常は昼の訓練だけで、その後上官は暇になります。元・海軍二
等兵さんが上官から悪戯されたのは暇つぶしの遊びだったようです。
これといった娯楽施設のない軍隊で暇になると行われる遊びとしては、いじくると意志
に反して変化する男の身体への悪戯でしょう。兵隊の体を玩弄するにしても体格の良い方
が見世物としても面白く、また性器の立派な兵隊を選んだ方が弄り回したときの変化が大
きくて見応えがあるのでしょう。
元・海軍二等兵さんがあらゆる場面で寮長、上官に玩具にされたのは、いい体格をして
いるだけでなく、立派な陰茎と金玉が加虐する対象として興味を引いたからのようです。
写真で拝見しましたが元・海軍二等兵さんの身体は頑強そうで立派です。そして、その
性器は平常時でも相当な巨根で、金玉も大きく重そうに垂れていてとても見事です。元・
海軍二等兵さんに元々Mとなる素質があったから加虐する寮長、上官に目を付けられたの
でしょう。
元・海軍二等兵さんは軍隊時代に教え込まれ、染み付いた被虐の喜びが忘れられずに、
今でも機会があれば強Sの人にプレイをしてもらいたいそうです。
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私は今80歳。この年代の者であれば誰もが徴兵検査、M検の思い出を多く持つが、あ
まり語らず、また聞いてももらえぬ。
身体検査、M検などはそれを必要とする職に就くなら、検査をするのも仕方がなかった
と思うかもしれないが当時のその場の空気、雰囲気が違うのだ。この体験は60余年も前、
軍国日本、滅私奉公、軍事最優先の時代の話なのである
男子満20歳になると兵役に服従せねばならない義務が課せられていた。その為の徴兵
検査は桜の咲く頃から初夏に行われる。
昭和19年、戦争の影響で食料、衣料が配給制となる混乱の中、ますます人手不足、物
不足となり布の一片すら手に入りにくいという状況だった。
そんななか、どうやって工面したのか、私は白い越中褌を締めて検査場にいった。この
日の心得に『褌着用』とあり、違反すれば懲罰を受ける懸念からだ。当時の若者にはすで
に白いランニングパンツが定着、褌は過去の老人専用となっていたが、徴兵検査において
は創軍当時のまま、白い越中褌が強要されていた。
徴兵検査の前日、我ら壮丁(壮丁:徴兵検査受験者をこう称していた)は村役場に集合
し、兵事掛の中年職員から説明を受けた。
「規律正しく行動せよ。今回の検査官は特別厳しい方と聞いた。動作はキビキビ活発にせ
にゃあかんぞ。検査は素っ裸でやられるが、恥ずかしがってチンポを手で隠したり、女々
しい態度をしたら、こっぴどく叱られビンタくらうぞッ。それからチンポの皮も剥いて検
査されるから、今夜は風呂でチンポの垢、きれいに洗ぅとけ。」
当時の若者はこの検査の来る数年前から、徴兵検査でチンポを検査されるという事に常
に威圧感を持たされていた。親兄弟にも見せた事のないチンポ、どの様にして検査するの
か。マスかきした事や、何回マスをかいたか等が判ってしまうのだろうか? 勃ってしま
いはせぬか、触られたら自然に勃ってしまう。大勢の見ている中で勃ってしまったら恥だ
と、人にも聞けず一人悩んだものだ。
先輩達が面白がって「態度のわるい者や病気を見つけられた者はその場でビンタ、広い
検査場内に全員の検査がすむまで素っ裸で起立させられ、説教を喰らう」などとおどし話
を聞かせるので不安はいやが上にも増すのだった。
当時の壮丁たちは実生活の場で主人や親方、先輩の言いつけや命令には、文句なしに従
うべしと躾られていた。目上の人の言う事に逆うなど思いつきもしないのが当たり前の時
代であった。
仕事上で失敗などをすると叩かれ、殴られ、時には裸にされる等の仕置きは当然の事と
して受け入れていた。しかし、軍隊はそんな世間以上に厳しいと聞かされ、想像もしたり
で恐れ敬遠していたものだった。徴兵検査とはそんな暗い恐怖のイメージで若者の心に喰
いついていた。楽しい時、晴れ晴れした時でさえ、この暗鬱がフッと蘇るのだった。
勇躍、心弾んで検査を受ける、そして入隊するのだ、そんな者は一人も居なかった。勇
ましさを偽装して検査を受ける、それが徴兵検査の実態であった。
島内一番の大きい小学校の講堂が検査場だった。あちこちの村から壮丁が集合、200
人はいたか。定刻、現役下士官のさびのある兵隊特有の音声、きびしい号令で壮丁一同、
講堂に入り徴兵官来臨を待つ。
見渡せば村長、駐在、町会議員、在郷軍人会の退役将校、それに何々婦人会のおばさん
達が紺の上っ張り着用の正装、さらに女子青年団までが来ている。一同は3mほど離れて、
急ごしらえの机の前に腰掛け、真剣な面もちでこちらを見ている。
広い講堂、その一段高い舞台までは距離15m以上はあったか。時局柄、電灯は消され
ていたが、カーテンが持ち去られ広く開いた窓からの自然光でよく見渡せる。静粛、咳払
いのみ聞こえ、まもなく始まる検査儀式に緊張の空気。
やがて舞台横の出入り口に物音がすると、「気をーつけッ!」と声量豊かな号令、戦地
で鍛えた賜もの。入ってきた徴兵官一行五、六名。麗々しい軍服の正装、威厳があり圧倒
される。一行は舞台に上がり中央机の奥に立ち、時をして「昭和19年度徴兵検査、只今
から開始ッ、するゥーッ!」とするゥーッに力込めた芝居がかった号令に呆気にとられ、
しばし空白。人により違いはあろうが何故このように滑稽な言い方をしたのであろうか、
今も疑問である。
四班に区分され一班50名、「全員裸になれッ!」、下士官の反抗しがたい命令で一斉
に褌一丁となり検査官が位置に就くを待つ。
見物の、いや御国の為に見学忠勤している来席のお偉い方々に、之ぞ軍国日本男児の有
りようと感動を与えたのではなかろうか。間近のお偉ら方と吾ら壮丁の間には隔離する衝
立、カーテンの一枚とて無くすべてが丸見えであった。恥ずかしいの気持ちが去来するも、
手違いを叱責されるのを恐れ、ひたすら緊張していた。
一年前に学校でうけた徴兵予備検査の通りに検査は順番に進行して、ついにM検となる。
椅子に腰を下ろしている検査官の前に、五人ずつが越中褌も外した素っ裸で順番を待つ。
間違わぬように前の者の仕草や動作を注視し見習う。
一人が済んで去るとすぐに次の者がパッと進み出る。床に描かれた四つの印、正しくそ
の印に手足を置いて四つん這い、四肢全開の体勢をとる。腕、脚をピンと完全に伸ばすと、
ちょうど尻穴が検査官の顔面に位置する。両手で尻臀をグッと開かれた後、尻臀をパンと
掌で叩かれるを合図に起立してクルリと向きを変える。今度はチンポが検査官の眼前に位
置する。
マスかきしている事が分かってしまうのだろうか。マスかきの経験がないように見せる
ためには包皮を被せて純情に見せるのがよいと先輩は言っていた。しかし私のチンポは人
並以上に発育しており完全露茎である。被せようがない。
さらに徴用工時代の寮で受けた性器虐待のため陰茎の根本には縄と鞭による小さな傷跡
がいくつもある。この傷跡を花柳病の跡と間違われないかという不安があった。
検査官は暫時、チンポを見つめ、さらにつまみ上げて裏側、表側とたんねんに見る。チ
ンポの尿道側2カ所を指で強く弾く。3本の指先でチンポを握り、力をいれてグイッと更
に根本までムキあげた。カリの部分が引きつるまで剥きあげられる、その勢いにアッと声
が出そうだった。
チンポはわずかに勃起し始めており、もう目の前が真っ白となっていた。婦人会のおば
さん連中や町村の偉いさんとの間には衝立もなく、こちらを見ている姿がボーッと見える。
自分はチンポを握られ、扱かれ、それを丸出しにして皆に見られているのだと恥ずかしい
姿を思った。徴用工時代の寮で何度も身体検査を受けたがこれだけ大勢の注目している中
で勃起しはじめたチンポを晒すのは恥ずかしかった。
最後に両方の親指で亀頭の唇を開き診てようやくM検は終了した。根本の傷跡は詰問さ
れることもなく見逃されたようだ。
そのあとどうしたか記憶にない。脱いだ褌の置き場に戻る時、順番待ちで板床にあぐら
の壮丁達が私の性器を注視しているのを感じた。検査が済んで帰り来る他人の性器は大き
く感じていたが、その時の私の性器もすこしふくらんで長くなり、歩くにつれてブラリブ
ラリと揺れていた。
傍らの白いホーロー製洗面器にクレゾール消毒液が有るも、医官が手洗いしてるを見な
かった。病気発見時のみの為であったか。
徴兵検査での統計で、何パーセントが包茎であったなどの発表を見るも私は信用しない。
ムケ切ったのを見られるより皮かぶりの方が純情めいて、マス知らずと見られたいが為、
わざと被せている者がいるからである。
徴兵検査はなつかしい思い出だ。多くの年輩が語る時、検査場全体を思い浮かべなつか
しむ。M検は語らずその思い出の中に埋没するのだ。
恐怖の徴兵検査は私の場合、あっけなく過ぎたが、それ以上に忘れられぬ屈辱の思い出
がある。国民徴用令による徴用身体検査だ。
国民徴用令は徴兵前の若者を安賃金で兵隊なみに強制労働させる新設の法律であった。
16歳から20歳までの若者を軍関係の工場で強制的に働かせる徴用工制度は、少年達を
全員、寮に入れ軍隊の予備的な場所として厳しい躾をした。
軍隊が管理している軍需工場で一旦睨まれてしまうと、厳しい懲罰を受ける。軍隊並に
厳しく管理され、上の者の命令には絶対逆らうなどできぬのだ。
工員不足の民間航空機製造会社に私は16歳で徴用された。同じ日、関西各地から集め
られた仲間はいずれも16歳から20歳の約30人で、全員強制的に入寮させられた。
徴用初日の昼食後、集合を命ぜられての身体検査を受ける。10人ずつ横一列に並び、
大勢の若い見習看護婦が見学する中、素っ裸にされ、気をつけの姿勢で次々とM検を受け
る。50がらみの中年医官よりチンポを剥き上げられ、傍らの見習い看護婦達は好奇の目
にて観察。
全員のM検がすむと、私ともう一人が呼ばれて前に並び全裸直立不動で立たされた。大
人並に発育した私の露茎性器と、剥こうにも剥けぬ子供様の包茎性器が看護婦達の前に発
育状態の見本として示されたのだ。
医師の指示で見習い看護婦達が順番にふたつの見本を握って触診。剥け具合を較べてい
たか。若い女に握られ私のチンポはやがて勃起状態となった。人手不足の男性に代わり大
量の看護婦を即席で養成しなければならないと言う、やむなき事情の故であった。当時の
世相として、特に軍関係では入学、入社時に全裸の性器検査を受けるのは当たり前の扱い。
しかし16歳の私には冷酷、恥辱の体験だった。
あとから振り返って思えば、徴用工寮で行われたM検には、徴兵検査でのM検と較べて
滅私奉公、緊迫、静粛という雰囲気がなかった。それどころか検査全体の監督をしていた
寮長の指示には新米徴用工をいたぶるような加虐的雰囲気があった。
戦地帰りの元下士官が進行役ではあったが徴兵検査の如くには進行しない。係の者も不
馴れで、我らは長時間素っ裸で起立させられていた。寮長はこうした情況を少しでも長く
して楽しんでいたような節が感じられた。
その寮での徴用工生活は2年であったが、その間、何度も性的シゴキを受け、寮長の加
虐的嗜好をはっきりと思い知らされた。
(終)
−−−−−−−−−−引用終わり−−−−−−−−−−