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矢板 04.11.22  【渡来人研究会】
http://www.asyura2.com/0505/ishihara9/msg/185.html
投稿者 愚民党 日時 2005 年 7 月 30 日 01:02:47: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 毛野氏族概観  【古代及び中世氏族の系譜関係】 投稿者 愚民党 日時 2005 年 7 月 30 日 00:51:59)

矢板 04.11.22

秋も紅葉の季節になり、今回は以前から掲示板で話題になっていました栃木県の矢板市泉町のほうにバイクで出かけてきました。朝東京をたち外環道から東北道に乗り、1時間ほど走りました。そして矢板インターで降りてすぐ左に曲がって30号線に入って10分ほど走ると、矢板市にさしかかります。矢板市にさしかかる手前の木幡交差点を右折すると、すぐに木幡神社につきました。

この木幡神社は、坂上田村麻呂が東北遠征の際に建立したとされる平安初期からの神社だそうです。木幡神社の由来については、山城国宇治郡木幡村許波多神社を将軍が信仰していたことにあるそうです。この木幡の語音や山城の地名を考慮するとあるいは秦氏等の渡来系氏族の神社と関係するかもしれません。

その後、また30号に戻り矢板市を抜けて10分ほど走り泉町に入りました。入るとまず右手に堀越遺跡の看板が見えてきました。そこを右折すると田畑の真ん中に堀越遺跡の説明看板が立っています。今は小川沿いの田畑になっていますが、古墳時代前期の全国でも2番目に古い50メートル四方の方形区画遺構が発掘されたそうです。そして古墳時代の豪族居館が考えられているそうです。さらに荘園の施設らしき掘立柱建物跡も出土しているそうで、この地がなんらかの古代から中世に掛けての支配拠点のひとつだったことを考えさせられます。

さて、その後30号を北へほんのすこし走ると右手に瑞雲寺の看板が見えてきます。そして右手に曲がりすこし行ってさきほどの堀越遺跡の小川を渡ると瑞雲寺に着きます。着いてそのお寺の方にご挨拶しましたら、お寺の裏手の丘陵沿いの立野古墳にご案内いただきました。見晴らしのよい丘陵沿いに円墳がありました。よく整備されており、石室内も覗けるようになっております。説明によると、6世紀末から7世紀初頭の円墳であることが判明し、特に出土品の刀金具に銀象嵌が施されているそうです。この銀象嵌を施すこと自体の起源は朝鮮南部カヤ地域にあるようです。また「治天下獲□□□鹵大王世」銘で雄略天皇との関連が指摘されている鉄剣にも銀象嵌が彫られていて、これらの鉄剣と象を通しての大和王権の支配を考える説もあるそうです。その後お寺の方に当地名産のりんごをご馳走になったりと暖かくもてなしていただきひさしぶりに感謝のひとときをすごすことができました。

その後お寺の方に寺山観音寺に行く方法をお聞かせいただき、さっそくそこに向かいました。30号に戻りすこし北上し、左手に見える泉小学校を左折して高速道路をくぐり山腹方面に向かいました。その途中旧跡荒井家住宅に立ち寄り道をたづねて近道をお教えいただきました。この荒井家住宅は、県北部の土間1室構造とは違いこの地域特有の土間に2室を持つ構造を持つそうです。

そしてこのことにみられるように、諸所古式の建築手法を残しており、この地域の古来の建築のあり方を知る上で重要だそうです。そこからご指摘に従い、細い山道をしばらく走っていくと左手に寺山観音寺が見えてきました。山奥にしっとりとたたずむお寺の周囲をひとり歩くのも、また都会人にとってはこころの癒しのひとときでした。この寺山観音寺については次のような起源があります。720年に元正天皇の御代の高原山鬼人退治のおりに、大将軍藤原房前の祈願によってこの地に霊験をあらわし、そこに行基が建てたという伝承を持つ法楽寺がありました。そしてその後803年に消失した後、806に現在地に建てられたのが起源だそうです。この元正天皇、行基、藤原氏の3者関連伝承は関東各地に残っており、先の高麗郡や多胡郡建郡についてもその系統の伝承がみられることは2002年度報告にまとめておりますのでご参照ください。

帰りはまた紅葉の山道をひとり下り、先ほどの30号線沿いの小学校前に着き、高速道路そばの喫茶店で食事を取りました。このそばに泉中学校があるのですが、かねて掲示板に次のようにご意見ありました。ご意見によるとこの中学校裏手の高速道路建築の際に、渡来人系と見られる墳墓が40基ほど発掘され、また泉地域北方に製鉄遺跡が出土しているとのご報告でした。そこで、食事後喫茶店の方にその辺のことをお聞きするとそばの神社の行き方についてお教えいただきました。その喫茶店から300メートルほど砂利道をとおり、高架をくぐると中学校裏手にたたずむ三島・箒根神社に出ました。場所的にはこの神社の周囲がちょうど中学校と高速道路との交差地なので、この周囲に渡来系とみられる墳墓があったのだろうと思われたのですが、すこし小高い丘の上に神社が建っており、どこかしらこの地の集落の信仰の拠点ではなかったかと感じました。この神社についての手がかりとして、三島神社については、愛媛県伊予や東海、伊豆に本拠があるようで、三島大明神とのつながりを考慮すべきかと感じます。時代的には果たして中世からさらに古代に遡れるのかなど不明な部分が多いようですが、今後その辺も調査してみたいと思います。

今回の矢板市泉町周辺地域の探索については、またこの地がかつて「井吹里(せんぷうり)」と朝鮮風?に呼ばれていたというご指摘を当地の方(亭主さん)から掲示板にご指摘をいただいていました。そのことに由来して話題があがったものが今回の探索の起源でした。そして今回の探索では、泉町を中心に3キロ圏内に堀越遺跡、立野古墳、寺山観音寺、三島・箒根神社、渡来系墳墓郡、製鉄遺跡があり、すこしはなれて木幡神社があることを確認できました。

あらためてこのことを考慮すると、確かにこの地が古代からの支配の拠点であり、代々有力な支配者たちに受け継がれたこと、またかつて掲示板でご指摘(紀氏さん)いただいたように、近江の伊吹山周辺から茨城北部へ移住してきたとされる渡来人との関連や河内鋳物師などの渡来系技術者集団の移住についても、やはりその辺考慮してみてもよいかもしれません。さらに古墳時代あるいは奈良時代、平安時代にいたるまで、何度も渡来人が移住してきた可能性についても、あるいは考えなければならないようです。その辺現在進行中の2003年度渡来人研究会研究報告でさらに詳しく調査してまとめてみたいと思いますので、また今後ともよろしくお願いします。


http://www.asahi-net.or.jp/%7Erg1h-smed/yaita041122.htm



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