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邪馬台国への道・PART2「卑弥呼の館・邪馬台国の風景」(佐賀新聞) ― 平野・宮本・高島鼎談(星野之宣短文あり)
http://www.asyura2.com/0505/ishihara9/msg/202.html
投稿者 シジミ 日時 2005 年 8 月 24 日 23:50:48: eWn45SEFYZ1R.
 

邪馬台国への道・PART1「吉野ヶ里の実像と邪馬台国の人々」(佐賀新聞)の続きです。

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/002.htm

「邪馬台国への道(RoadtotheKingdom)―新・吉野ケ里学」第2弾は、「卑弥呼の館・邪馬台国の風景」をテーマに、平野侃三・東京農業大名誉教授、宮本長二郎・東北芸術工科大教授、高島忠平・佐賀女子短大学長が、建築と環境面から当時の生活や技術を探った。緻密(ちみつ)な都市計画のもと拡大を続けた日本最大の環壕(かんごう)集落や大型建物の存在は、のどかな農村集落の弥生のイメージを一変。地域を治める「クニの中枢」として機能特化した古代都市像を浮かび上がらせた。

緻密な計画「クニ」拡大

平野 弥生時代の600年をかけ小さな集落が古代のクニに成長していった。その過程を1つの遺跡で連続して見ることができ、考古学ファンは注目した。偉大な遺跡だけに環壕(かんごう)集落だけでなく周辺環境も重要で、保存整備に当たっては水田や自然など当時と同じ環境の中で、弥生のクニを浮かび上がらせることを念頭に置いた。

高島 遺跡自体の歴史的価値に、こうした研究者の熱意も加わり、保存面積は環壕集落の20数ヘクタールだけから、弥生の原風景を再現するため117ヘクタールに広がった。

平野 当時の環境再現を考えると、それだけの広さは必要だ。その後の調査で、環壕集落北側には甕棺(かめかん)墓群や集落なども出ており、今の公園範囲でもまだ狭いかもしれない。

高島 40数ヘクタールに上る国内最大規模の環壕集落に加え、主祭殿など大型建物の確認は古代建築史を塗り替えた。魏志倭人伝の卑弥呼の館のたたずまいともよく符合し、話題となった。

宮本 弥生時代に、あんな巨大な掘っ立て柱はそれまで一般的ではなかった。律令時代のものと見間違えたぐらいだ。吉野ケ里遺跡が弥生の大型建物の存在を証明し、決定付けてくれた。そういう意味で歴史的な確認だった。

高島 仮整備で目玉施設になったのが屋根までの高さが約12メートルもある物見やぐら。復元は柱穴の大きさなどから推定したが、当時は復元に対して批判もあった。

宮本 復元依頼を受け、まず頭を抱えたのが梁(はり)間4.5メートルもの広い床面をどうして支えるかだった。参考にしたのが上小紋遺跡(島根県)で出土した柱材と中国貴州省「トン族」の高床倉庫。いずれも通柱に貫穴を穿(うが)ち、梁間に大引きを貫通させる「大引貫式」(図1参照)が想像できた。具体的な形は中国の漢墓に納められていた土製の櫓(やぐら)がモデルになった。これは私の予想だが、十数メートルという当時では非常に高いやぐらの足下を、貫で固めず、そのまま床を高く上げるというのは危険すぎた。
 ただ貫は東大寺南大門が最も古いとされ、平安末期以降にしか日本には入ってこないといわれていた。研究仲間からは非難を受け肩身が狭かったが、その後の発掘などで貫の存在が明らかになり、今や貫を使った形跡は縄文時代にもあることが分かった。


中枢機能持つ古代都市

高島 大型建物といえば北内郭の主祭殿も驚いた。1辺が12.5メートルもの正方形の建物は弥生時代には存在しないと考えられていた。あの発見で弥生のイメージががらりと変わった。

宮本 単層ではとても支えきれず、総柱型の「台輪式」(図2参照)という工法の重層建築にした。床下柱の上に土台を置き、その上に建物を重ねる方式で、奈良県の唐古・鍵遺跡にもある。いずれにしても主祭殿は集落では1番高い。祭祀(さいし)の場だけでなく、領内のシンボルタワー的な存在だったはずだ。

高島 視点を少し広げて都市計画の角度から見ても吉野ケ里は興味深い。発掘を指揮する県教委の七田忠昭さんが当時、「成立時期は違うが主祭殿と墳丘墓の中心線が同じ軸線に乗る」と指摘した。その線をさらに南に延ばすと今度は祭壇へとたどりつく。吉野ケ里遺跡では、この南北のラインに沿って施設が配置されている。

平野 確かに集落形成で、この軸線がかなり意識されているようだ。

高島 中国の後漢には「座北朝南」という思想があった。北側に支配者の王宮を、南向きに臣下の居住地や門を配置する都城構造だ。こうした思想が吉野ケ里にも伝わり都市計画で活用されたというのだ。
 もう一つ、吉野ケ里には夏至の日の出と冬至の日の入りを結んだラインも存在する。日陰測定による暦が伝わっていたと推定したい。1年を通じ中国と同じ生活を送ることがステータスでもあったわけで、人民支配に重要な意味を持つ。次に植生に話を移したい。

平野 脊振山系から張り出す吉野ケ里丘陵の実態をつぶさに調べた調査があるが、古い時代は恐らく常緑広葉樹で覆われた照葉樹林帯だった。その後の弥生の開拓で落葉の広葉樹林が入り、南にススキの原野も発生した。遺構は現在順調に整備されつつあるが、植生を含めた景観も重視していきたい。

宮本 水田はどのように形成されたのか。

高島 後期後半(2〜3世紀)の水田を推定できる遺構はまだ見つからない。別の場所で稲作が行われていた可能性もある。都市と農村が機能分担されていたということだ。証拠に吉野ケ里周辺には小集落が点在。巨大環壕集落になったときはクニの首都としての機能に特化していた。

宮本 では生活の場としてのたたずまいは、どうイメージする。

平野 当時も今も生活するために水は必ず必要だ。吉野ケ里はちょっとした高台に位置し、東側の田手川から直接水を引くのではなく沢があったと思う。その湧水(ゆうすい)を活用しさまざまな生活の仕組みがあったはずだ。

高島 浅い谷がいくつか入っており発掘中も何カ所か湧水が出た。吉野ケ里人も恐らく使っていたのだろう。南に約4キロのなだらかな大地が広がるだけに大集落の立地には最適だった。

平野 ただ前期から中期にかけての環壕(かんごう)集落は、後期後半に全壊している。なぜ無くなったか。私は、この時期に別の集団が入り支配関係が変わり、1等地を空けさせたとみているが。

高島 考古学的には平野さんと違う見方をしている。クニをつくり上げたのは渡来系の人たちだろうが、時期は平野さんが考えている中期より古い。恐らく弥生前期に丘陵南側で最初の集落を築き、それが継続的に発展、拡大しクニへと発展していった。支配層は草分け的一族の中でも祭事の主導権を握っていた人たちだろう。祭事や農事の日時を決め、租税の起源とされる供物を集め、経済力をつけ覇権を拡大していった。

平野 縄文時代からの連続性はあるのか。

宮本 2つの点から連続していると見る。1つは建築技術。弥生時代は構造物が巨大化するが、それを支える技術は縄文時代に成立している。貫(ぬき)をはじめ梁(はり)や根太(ねだ)の継ぎ手技法「合欠(あいがき)」などだ。これら技術は現代にも引き継がれている。いずれも4,000年前の桜町遺跡(富山県)から出た建築部材で確認されている。
 もう1つは縄文時代に2つあった集落形態を弥生時代も引き継いでいる。縄文時代の拠点集落だった三内丸山遺跡(青森県)は吉野ケ里遺跡と同様、機能別に配置されていた。これに対し一般遺跡は中心に墓があり、その周りに祭場や住居が配置され、環状集落と呼ばれる同心円状のつくりだった。

高島 祭祀(さいし)権を持った集落が中心となって地域社会をつくる社会構造も似ている。範囲はどちらも数百fぐらいだったようだ。縄文では三内丸山や多摩ニュータウン遺跡。弥生では吉野ケ里の隣の横田丘陵の松原遺跡も中心的集落だった。ただ吉野ケ里の場合は中心的集落のいくつかが政治的にまとまり、その中核的集落となった。いわゆるクニの中枢として存在した。広さは現在の神埼郡を大きくしたぐらいだろう。

高島 最後に古代集落の建築、植生を復元する意義をどう考える。

宮本 研究の積み重ねで当時の建築技術も随分解明され、展示物としては忠実に復元できるようになりつつあるが、技術を忠実に守ると建築基準法に違反し、人が入ることはできなくなる。心苦しいことだ。ただ人々の目に訴える復元自体を進める意義は大きい。

平野 自然と共生しながら人間社会は発展してきた。それを目でみせるのが復元の技術。その代表は縄文であれば三内丸山遺跡、弥生であれば吉野ケ里遺跡だろう。人間活動が活発化していった時代に自然はどのように変化していったかを体感してもらう。「弥生人の声が聞こえる」という吉野ケ里歴史公園のコンセプトにも合致する整備をこれからも望みたい。


エッセー・星野之宣(漫画家)

昔『ヤマタイカ』という古代史をテーマにした長編漫画を描いたことがある。取材のために2度ほど九州を訪れた。もっぱら福岡・熊本限定だったが、起伏に富みつつ雄大な風景は僕の故郷北海道にも通じるものがあって嬉(うれ)しかった。
 
 都市に暮らしていると想像しにくくなるが、例えばそうした遮るもののない風景の中、地平線の彼方(かなた)から雲が巻き起
こりこちらの山の方まで拡(ひろ)がって雷鳴が響き始める。全天を縦断するような巨大な稲妻が頭上を走りぬけていく。雨の匂(にお)い濃い空気の中でそんな光景を目にした古代人は、大蛇の姿をした水神をはっきりと感じたことだろう。

 そんな心象風景を想像してみると楽しい。土偶や埴輪(はにわ)の表情に胸打たれることがあるが、やはり作った古代人の素朴な心に触れたためだと思う。

 すっかり九州びいきになったせいもあるが、僕は一応「邪馬台国九州説」の立場でいる。一応、というのは邪馬台国の一部の勢力が畿内に大移動して大和朝廷の基盤となったという「東遷説」に与(くみ)しているためだ。

 しかし、少なくとも日本列島最初のクニは九州に発生した可能性が高いと思っている。中国にも近く朝鮮半島と向き合う九州には、大陸の人間や文化、情報などがダイレクトに伝わってくる。良かれ悪(あ)しかれ、そうした刺激、緊張感の中で、クニというものは発達し整備されていくものだろう。

 吉野ケ里遺跡は大規模な環濠(かんごう)に囲まれ、物見櫓(やぐら)や柵などを備えて
いた。身分の高い人間の墓があり、宮殿もあったらしい。牧歌的な弥生集落のイメージはない。外界を強く意識し戦おうとする城砦(じょうさい)都市の姿があるのみだ。

 戦うということは逆に言えば、外に対して集団で守るべきものを持っていたということでもある。クニは、こうして生まれた。後に現れるクニの連合体・邪馬台国や古代国家の最初の萌芽(ほうが)は、まさに九州の吉野ケ里にあったのだ。

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