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「シオニズムと対決するユダヤ人たち」からの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第3部)
http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/622.html
投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 5 月 23 日 05:44:39: SO0fHq1bYvRzo
 

「シオニズムと対決するユダヤ人たち」からの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第3部)

(写真は、2005年5月6日、反シオニスト正統派ユダヤ・ラビたちがパレスチナ人に連帯して立ち上がる街頭行動:「イスラエルは聖なる土地のいかなる部分でも支配する権利は無い」「ユダヤ教はシオニズムを拒否する」というプラカード、およびパレスチナの旗が見える。)
http://www.nkusa.org/activities/Demonstrations/nyc050605/IMG_0032.jpg


【シオニズムとユダヤ研究の一助として・・・】

ナエイム・ジラディ(Naeim Giladi)著、『イラクのユダヤ人(The Jews of Iraq)』の翻訳は今回で最終回です。第1、2部は以下です。

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http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/454.html
「シオニズムと対決するユダヤ人たち」からの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第1部)
http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/535.html
「シオニズムと対決するユダヤ人たち」からの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第2部)
(参照)
http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/257.html
「シオニズムと対決するユダヤ人たち(Jews Against Zionism)」からの翻訳(1)
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http://www.jewsagainstzionism.com/zionism/impact/iraqijews.cfm

イラクのユダヤ人(第3部)


究極の犯罪者ども


[シオニストの指導者たち]

彼らは、ユダヤ人の国を確立させるためには、パレスチナの住民を周辺のイスラム諸国に追い出し、そしてそれらの諸国からユダヤ人を移入させなければならないことを、最初から分かっていた。

●テオドル・ヘルツルはシオニズムの建設者であり、それを社会工学(social engineering)によって成し遂げることができる、と考えていた。彼の1885年6月12日の日記に、彼は次のように書いている。シオニストの移住者は「一文無しの人間達をかきたてて国境を越えて連れて来なければならないだろう。中継する国々の中では彼らのために雇用を斡旋し、我々自身の国では雇用を拒否することによって。」

●ネタニヤフ首相の思想的な先達者であるウラジミール・ジャボチンスキー(Vladimir Jabotinsky)は、このような移送が実力によってのみ実行できたことを率直に認めた。

●イスラエルの初代首相であるダヴィッド・ベン・グリオンは、1937年のシオニスト会議で次のように語った。提案されるどのユダヤ人国家であっても『アラブ人口を区域外に移さなければならない。もし可能なら自発的な意思で、だめなら強制的に、である。』と。1948〜49年に75万人のパレスチナ人が根こそぎにされその土地が没収されたあと、ベン・グリオンは安価な労働力市場を充たすべきイスラム諸国のユダヤ人に目をつけなければならなかった。「密使たち」が、トリックか恐怖のどちらかを使ってユダヤ人たちを立ち去るように「説得する」ために、これらの国々にもぐりこまされた。

イラクのケースではその両方が使用された。教養の無いユダヤ人たちは、盲が見えるようになりびっこが歩けるようになり、たまねぎがメロンのように大きく育つメシア的イスラエルの話を吹き込まれた。教養のあるユダヤ人たちは爆弾を投げつけられた。

爆弾事件の2、3年後、1950年代の初期に、イラクで一冊の本が出版された。アラビア語で「シオニストの蝮の毒」と題された。著者は1950〜51年の爆弾事件の捜査を行った一人であり、その本の中で彼はイスラエル人たち、特にイスラエルから派遣された特使の一人であるモルデカイ・ベン・ポラット(Mordechai Ben-Porat)が、それに関与すると見ている。これが世に出るや否やその本は本屋からも姿を消した。米国大使館を通して働くイスラエル・モサドの局員がこの本をすべて買い上げ破壊した、と噂された。私は3度にわたってイスラエルで手に入れたものを私まで送ってもらおうとしたが、そのたびにイスラエル検閲当局は郵便局でそれを妨害したのだ。


[英国指導者たち]

英国はいつでもその最大の植民地的利権に添って行動した。この理由でアーサー・バルフォア(Arthur Balfour)外相は1017年に、第1次世界大戦でのシオニストの協力に対する見返りとして、ロスチャイルド卿にかの有名な手紙を送ったのである。第2次世界大戦の間、英国人たちは西側陣営にある顧客となる国々を維持することに第一の関心を抱いていた。一方でシオニストたちの最大の関心はヨーロッパのユダヤ人をパレスチナに移住させることであった。それがナチスとの協力を意味するとしても、である。(私の本の中で、私はベン・グリオンとシオニスト指導者たちによるこの種の交渉の例を数多く取り上げている。)

第2次大戦後、国際社会のチェス盤では共産主義者が資本主義者に対して戦った。米国とイラクを含む数多くの国々で、ユダヤ人たちは共産党の大きな部分を代表した。イラクでは労働者階級インテリゲンチャである何百人ものユダヤ人が共産党と社会党のヒエラルキーの最重要ポストを占領した。資本主義陣営でその顧客となる国々を維持するために、英国はそれらの政府に親英の指導者を確保しなければならなかった。そしてもし、イラクの中でのように、そういった指導者が追い出された場合には、一つか二つの反ユダヤ暴動が、首都に進駐して「正当な」指導者を復権させるための格好の口実となりえたのである。

その上、もしすべてのユダヤ人社会をイスラエルに移植することによってイラクから共産主義の影響を取り除く可能性があるのなら、そのときには、それをしない手は無いのだ。特にイスラエルとイラクの指導者が共謀している場合には。


[イラクの指導者たち]

摂政アブド・アル・イラーとその首相であるノウリ・エル・サイードのどちらも、ロンドンから直接の指示を受けていた。1948年の終りまでに、エル・サイードは、すでにイスラエルの首相ベン・グリオンにウイーンで会っていたのだが、イラクと英国の仲間たちといっしょに、人間の入れ替えの必要性について協議を始めていたのである。イラクがユダヤ人たちを軍用トラックに乗せてイスラエルまでヨルダン経由で輸送し、そしてイスラエルから追い出されたパレスチナ人の一部を受け取る、ということである。彼の提案には相互の財産の没収も含まれていた。ロンドンは、このアイデアは余りにも過激だ、ということで拒否した。

エル・サイードは代案を出し、イラクのユダヤ人の生活を、イスラエルへ立ち去ってしまうほどに惨めなものにさせる状況を作り始めた。ユダヤ人の国家公務員たちは解雇された。ユダヤ人商人たちは輸出入の許可を拒否された。警察はユダヤ人たちを些細な理由で逮捕し始めた。それでもなおユダヤ人たちの大部分は立ち去ろうとしなかったのである。

1949年9月にイスラエルはスパイであるモルデカイ・ベン・ポラットをイラクに派遣した。いわゆる「シオニストの蝮の毒」の一人である。ベン・ポラットが最初にやった事の一つは、エル・サイードに近づき、彼に、イラクのユダヤ人から市民権を取りあげる法律を制定させるために、金銭的な報酬を約束することだった。

そのすぐ後に、シオニストとイラクの代表者たちは、バグダッド在住の諜報員を介して伝えられたイスラエル作成のモデルに従って、その法律の素案を作り始めた。その法案は1950年3月にイラク議会を通過した。それによって政府は、この国を立ち去ることを望むユダヤ人に対して一回だけの出国ビザを発行することができるようになった。そしてその3月に爆弾攻撃が始まった。

60年の後、当時クネセット(Knesset)のメンバーであったユーリ・アヴネリ(Uri Avnery)が発行するイスラエルの雑誌ハオラム・ハゼー(Haolam Hazeh)は、バグダッドでの爆弾攻撃についてベン・ポラットを非難した。自身がクネセットのメンバーであったベン・ポラットはこの告発を否定したが、この雑誌を名誉毀損で訴えることは決してしなかった。そしてイスラエルにいるイラク系ユダヤ人たちは今もなお彼のことを「Morad Abu al-Knabel(爆弾のモルデカイ)」と呼び続ける。

私が述べたように、このことはすべて10代の人間の理解をはるかに超えたものだった。私はユダヤ人が殺され始めたと思った。そして我々を約束の地に連れて行ってくれる組織が存在した。だから私はイスラエルへの脱出(エクソダス)を手伝った。後にイスラエルで、偶然にだが、私はこれらのイラク系ユダヤ人の一部と出くわすことになった。彼らが、私がかつて彼らに行ったことのために私を殺してしまいたいという感情を示すことは、決してまれではなかったのだ。


和平のチャンス

1953年10月にイスラエルがヨルダンのキビア(Qibya)村を襲撃したとき、ベン・グリオンはネゲブにあるセデー・ボケル(Sedeh Boker)キブツでの出張ボランティアに出かけていた。そのような時には労働党は彼を訪ねていく人々のバス・ツアーを組織するのが常であった。そこで彼らは羊を追って働く元首相の姿を見た。しかしそれは単なる見せかけでしかなかった。実際に彼は日記を書き見掛けの背後で活動し続けた。私はそんなツアーの一つに出かけた。

我々はベン・グリオンに話しかけてはならないと言われていたが、私が彼に会ったとき私は、イスラエルが議会を持つ民主国家であるのにどうして憲法を持っていないのか、と尋ねた。ベン・グリオンは言った。「少年よ、(私はそのとき24歳になっていたのだが)聞きなさい。もし我々が憲法を持っているのなら我々は国の境界についてそこに書かなければならなくなる。そして今のそれはわが国の国境線ではないんだよ。」「ではどこが国境線なのでしょうか。」私は聞いた。「サハル(Sahal)の行くところならどこでも、そこが国境なのだ。」サハルとはイスラエル陸軍である。

ベン・グリオンは、イスラエルは分割案を受け入れると世界に語り、アラブはそれを拒否した。次にイスラエルはアラブの国家と約束された土地の半分を占領した。そして彼はまだ十分ではないと言い続けた。イスラエルはもっと土地を求めた。一つの国が隣国の土地を取り上げることを望んだら、どうやって彼らとの平和を作ることができるだろうか。一つの国がその国境線に満足すると言おうとしないなら、どのようにして安全保障を求めることができるだろうか。そのような国にとって平和とは不便なものであろう。

私は今、多くのアラブ諸国の指導者たちが最初からイスラエルと和平を結ぶことを望んでいたことを知っている。しかしイスラエルは常にそれを拒否した。ベン・グリオンはプロパガンダでそれを覆い隠した。彼は、アラブ諸国はイスラエルを海の中に突き落としたいのだ、と言い、ガマール・アブデル・ナセル(Gamal Abdel Nasser)を、イスラエルを破壊することが最高の目標である「中東のヒトラー」と呼んだ。彼は米国と英国がナセルをパーリア【インドの不可触選民:訳注】のように扱うよう求めた。

1954年に米国はナセルに対する非難を弱めつつあるように見えた。すると6月の3週間で、多くの爆弾テロが起こった。カイロとアレクサンドリアの米国情報センターで、英国が所有する劇場で、そしてカイロの中央郵便局で。アレクサンドリアの映画館への焼夷弾攻撃の試みは、爆弾が犯人たちの一人のポケットから転げ落ちたために失敗した。これによって、テロリストたちが反西側エジプト人ではなく、エジプトと米国の温かい関係に水をさそうとするイスラエルのスパイであることが明らかになった。このことはラヴォン事件(the Lavon Affair)として知られるようになった。

ベン・グリオンは彼のキブツに住み続けていた。首相のモシェ・シャレット(Moshe Sharett)は、英国のモーリス・オーバック(Maurice Orbach)卿のオフィスを通してアブデル・ナセルに接触中であった。シャレットはナセルに捕らえられたスパイに対する寛大な処置を求めた。そしてナセルは両国間の状況の悪化を避けるために彼の力でできる限りのことをやった。

それからベン・グリオンは1955年2月に国防相として復帰した。この月の後半にイスラエル軍はガザにあるエジプト軍キャンプとパレスチナ難民を襲撃し、54名を殺害して多くの負傷者を出した。その襲撃の当夜、オーバック卿はナセルに対するメッセージを送っているところだった。しかしその軍事行動のために続けることが不可能になった。オーバックが電話をかけたときに、ナセルの秘書が彼に、この攻撃はイスラエルが平和を望んでいないことを証明している、そして彼は仲介者として時間を浪費している、と語ったのだ。

11月になってベン・グリオンはクネセットで、平和と理解を求めるためにどこででもいつでもアブデル・ナセルと喜んで会うだろう、という声明を出した。次の朝イスラエル軍はサバハ(Sabaha)地区にあるエジプト軍キャンプを攻撃した。

ナセルがイスラエルとの和平達成を悲観的に感じていたにも関わらず、彼は他の仲介を通してその試みを送り続けた。一つは米国フレンド奉仕委員会(the American Friends Service Committee)を通して、他はマルタの首相ドム・ミントフ(Dom Minthoff)の線、そしてユーゴスラビアのマーシャル・チトー(Marshall Tito)を通す道もあった。

特に期待が持てそうだったのは、ロンドンタイムズの編集長デニス・ハミルトン(Dennis Hamilton)を通してのものだった。ナセルはハミルトンに、ベン・グリオンと2時間か3時間座って話をしさえすれば、紛争を収めて二つの国の戦争状態を終わらせることができるだろう、と語った。この言葉がベン・グリオンの耳に届いたとき、彼はハミルトンと会うように手はずを整えた。彼らはロンドンのイスラエル大使アーサー・ルリア(Arthur Luria)を連絡役として話を進めることを決めた。ハミルトンの3度目のエジプト行きの際ナセルは彼に会って、ベン・グリオンが、1インチたりとも土地を譲らないし一人の難民をも戻らせないだろう、と述べた演説のテキストを見せた。ハミルトンはベン・グリオンが自分の口で和平の使命を突き崩しイスラエル・アラブ紛争を収めるチャンスをつぶしてしまったことを知った。

ナセルは、彼の友人で週刊誌ルズ・エル・ユスフ(Ruz El Yusuf)のイブラヒム・イザット(Ibrahim Izat)を派遣し、政治的空気を探るために、またもしイスラエルが平和を望むのであればどうして攻撃が起きるのかを知るために、イスラエルの指導者たちと会談させた。イザットが会った中の一人が軍の前参謀長イイガル・ヤディン(Yigal Yadin)であった。1988年、彼は私に次のような手紙を書いた。

『親愛なるジラディ氏へ。

あなたの手紙は、ほとんど忘れかけていてほんのいくつかの詳細しか覚えていないあることを、私に思い出させてくれました。

イブラヒム・イザットは、もし記憶に間違いなければ、外務省かその支局かの要請の元で、私のところにやって来ました。彼は私の家にいてそして我々は何時間も話しました。私は彼がナセルの遣いで来たと言っていた記憶はありません。しかし彼がその意識で来ていたと理解できたことに間違いはありません。

ナセルが英国とフランスの反対にも関わらずスエズ運河の国有化を決定したとき、ラジオ・カイロはヘブライ語でそれを伝えました。

もしイスラエル政府が英国とフランスの帝国主義者に影響を受けていないのなら、両国の間には大きな理解が次第に生まれてくるでしょうし、エジプトはイスラエルのスエズ運河への通路を持ちたいという要求を認めることでしょう。

イスラエルはエジプトに対しては何の意図も無いと答えました。しかしちょうどそのときに、イスラエルの代表者たちはフランスにいて、1956年に起こるべき3方向の攻撃を計画中でした。

その間中ベン・グリオンは「中東のヒトラー」と言い続けました。これは1970年9月、ガマール・アブデル・ナセルが去ってしまうまで続きました。そのとき、ダヴィッド・ベン・グリオンは記者団に、奇跡中の奇跡だ、と言ったのです。

彼が死ぬ1週間前に私はアブデル・ナセルからの使者を迎えました。彼はイスラエルとアラブ世界の問題解決のために緊急に私に会いたいと求めました。

一般の人は驚きました。彼らはアブデル・ナセルが和平を今まで望み続けたことを知らなかったのです。しかしイスラエルはそれを妨害しました。

イスラエルとの平和を望んでいたアラブの指導者はナセルだけではなかったのです。他にも大勢いました。アブデル・カリム・カセム(Abdel Karim Qasem)准将は1958年7月にイラクの実権を握る前に、秘密合意を結ぶためにイスラエルに代表団を送る地下組織を率いていました。ベン・グリオンは彼に会うことすら拒否しました。私はイスラエルでジャーナリストをしていたときにこのことを知りました。しかし私がこのことのほんの一部でも公表しようとすると、いつでも検閲が「不許可」の印を押したのです。

現在、ネタニヤフ(Netanyahu)の時代で、我々は再び、平和を作る利益を欺く新たなイスラエル首相の目撃者となりつつあります。ネタニヤフとリクードはアラファトを盛り立てて、イスラエルの「安全保障」のためにもっともっと抑圧的な方法を確立するように要求しています。遅かれ早かれ、パレスチナ人はアラファトの、イスラエルの買弁としての強権的手法にうんざりしてしまうだろう、そして彼は殺されるのではないか、と疑っています。そうなればイスラエル政府は言うでしょう。「見なさい。我々は彼にすべてを与える準備があったのだ。あなた方はアラブ人たちを信用してはならない。彼らは互いに殺しあう。いまや平和について語るべき者は誰もいない。」と。』


結論

アレクシス・デ・トケビレ(Alexis de Tocqueville)はかつて、複雑な真実よりも単純な嘘の方が世界にとって受け入れやすい、ということを見て取った。近頃では、ユダヤ人は反ユダヤ主義のためにアラブの土地から立ち退かされた、あるいは、決してアラブではなくイスラエルこそが平和を追求した、といったシオニストの嘘の方が世界に受け入れやすくなっている。真実ははるかに識別が可能なものである。世界の舞台でのより大きな俳優が糸を引いているのだ。

これらの俳優たちは自分たちの犯罪に責任を負わされるべきである、と私は信じる。特に彼らがある種の思想的使命を聖壇に祭って、それによって、無実の人々に対して意欲的にテロを行い、略奪し、殺害する場合である。

私は同時に、これらの指導者の子孫が犠牲者とその子孫たちに償いをする、それも単なる賠償ではなく、歴史的な記録を真っ直ぐに正すことによってそのようにする、道義的責任がある、と信じる。

このことが、私がイスラエルで、イラクでの財産と地位を残して立ち去ることを強いられたイラク系ユダヤ人の補償を求めて調査組織を作った理由だった。これが、私がイスラムの地からやってきたイスラエルのユダヤ人の嘆きをもってイスラエル政府と闘う「ブラックパンサー」に参加した理由だった。そしてこれが、私がこの問題についての私の本を書いた理由だった。それは、歴史的な記録を真っ直ぐに正すこと、なのである。

我々イスラムの地出身のユダヤ人は、自然発生的なユダヤ人とイスラム教徒の敵対のために祖先の地を離れることはしなかった。そして我々アラブ人は――私は私の妻の言語ゆえに、また私が自宅で未だにその言葉を話しているがゆえに、自分をアラブ人と言うが――われわれアラブ人は、数多くの機会にあのユダヤ人国家との平和を探ってきたのである。そして最終的に、米国市民・米国納税者として、私は次のように言わせてもらおう。我々米国人はイスラエルにおける人種差別をやめさせ、ヨルダン川西岸、ガザ、レバノン南部、そしてゴラン高原での残虐な土地・財産の剥奪をやめさせる必要があるのだ。


脚注

ミレシュティン(Mileshtin)の言葉がイスラエルの新聞ハダショット(Hadashot)の、1993年8月13日に発行された記事の中で引用された。著者であるサラー・ライボビス・ダール(Sarah Laybobis-Dar)は1948年の細菌兵器の使用について知っている多くのイスラエル人にインタビューした。ミレシュティンは、バクテリアが、空っぽになったアラブ人住民の村のすべてに使用された、と語った。

【以下、いくつかの脚注があるのだが、何に対する注釈であるのか明らかでないため、この訳文からは割愛する。】


【『イラクのユダヤ人』訳出、終り】

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Jews Against Zionism(Torah-True Jews) ホームページ
http://www.jewsagainstzionism.com/

(他の反シオニスト・ユダヤ運動のホームページ)
NETUREI KARTA AROUND THE WORLD
http://www.nkusa.org/index.cfm

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