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Re: 大切なのは世界を解釈するのではなく、世界を変革すること。
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投稿者 南青山 日時 2006 年 2 月 28 日 04:35:32: ahR4ulk6JJ6HU
 

(回答先: Re: 唯物弁証法は、何を説明するのに役立つの? 投稿者 健奘 日時 2006 年 2 月 27 日 23:55:37)

健奘さん、どうもです。

>しかし、唯物弁証法というのは、何をとらえるのに、役立つのか、よく分からない。

小生も、最初、よく意味がつかめませんでしたね。
ただ、ヘーゲルの次のような考え方を知って、なるほど、唯物弁証法は一つの歴史の解釈であり、希望の原理なのだということがよくわかりました。
吉本隆明の「丸山真男論」の冒頭の一節です。(『柳田邦男論・丸山真男論』ちくま学芸文庫、p.242)

「しかし、かれ〈引用者注、丸山真男、以下かっこは同様〉、その時、ヘーゲルが世界理性のモチーフをどこからひきだしてきたのかをよんだろうか?
 ヘーゲルは同じ著書〈『世界史の哲学』〉の、「実現の手段」のところでこういう意味のことをいっている。歴史をながめてみると、そこには人間の精神がうみだした害悪・罪悪・栄華をきわめた帝国の没落がみつかる。また修辞的な誇張でなしに、民族や国家や個人的な徳性のもっとも優れたもの、潔白なものが蒙った不幸がみつかる。こういうものを歴史のなかに眺める悲しみから逃れるには、現在の目的な関心のなかに自分をおくか、または静かに岸辺に佇んで混乱した廃墟の遠景をみつめるところに退くよりほかはない。しかし、こういう歴史がのこした犠牲は、どうすれば救済され、どうすれば鎮魂されるか。ヘーゲルはこう自問してこう答えている。

〈ヘーゲル『世界史の哲学』からの引用〉
 しかし、また我々が歴史を民族の幸福、国家の叡智、個人の徳性が犠牲にされたかかる屠殺台と考えるとき、思想にとっては必然的に、この膨大なる犠牲は何のために、いかなる目的のために捧げられたのであるかといふ問題が起こってくる。ここからして通常我々が考察の一般的端緒とした見地(世界史への理性観)への問題が生じてくる。この見地からして我々は、かの恐ろしき画像を我々に提供して感情を憂鬱にし、反省沈思せしめた諸々の事件を直ちに手段の分野として規定し、そこに我々は実体的規定、絶対的目的、或は同じことであるが、世界史の成果であると主張されたものに対する単に手段のみを見ようと欲するのである。(岡田隆平訳)」

続けて、吉本隆明はヘーゲルの弁証法的歴史観や世界理性、絶対精神がどうして考え出されたのか、その背景には、人間の歴史が血にまみれた罪悪史のヴィジョンとして現れて、ヘーゲルを戦慄させた。それを(理性的に、哲学的に)逃れる道を探すなかで、「これらの血まみれた罪悪の歴史を、そのまま何ものかを貫徹し、何ものか絶対的なものが展開されるための手段と考えればよいではないか」とヘーゲルの歴史哲学、ひいては壮大な彼の哲学の体系の背景を考察しています。

人類の悲惨な歴史のあることを目の前にして、それでも人間にとって、理性にとって希望の道はあるのかと自問したときに、その答えとしてヘーゲルの(絶対精神へ至る過程としての)弁証法、歴史哲学、哲学体系、さらに絶対精神といった考え方がある、というのが吉本隆明が述べようとしていることです。

この辺りは、フランス革命とその背景にあった当時の民衆の悲惨な生活を目にして『レ・ミゼラブル』を書いたヴィクトル・ユーゴーとも通じるところがあります。
ユーゴーは冒頭の「序」に次のような言葉をのこしています。

「法律と風習とによって、ある永劫の社会的処罰が存在し、かくして人為的に地獄を文明のさなかにこしらえ、聖なる運命を世間的因果によって紛糾せしむる間は、すなわち、下層階級による男の失墜、飢餓による女の堕落、暗黒による子供の萎縮、それら時代の三つの問題が解決せられない間は、すなわち、ある方面において、社会的窒息が可能である間は、すなわち、言葉を換えて言えば、そしてなおいっそう広い見地よりすれば、地上に無知と悲惨とがある間は、本書のごとき性質の書物も、おそらく無益ではないであろう。」(『レ・ミゼラブル』豊島与志雄訳、岩波文庫)

『レ・ミゼラブル』が書かれたのは1862年、ヘーゲルの『世界史の哲学』(平易な改訳版が『歴史哲学講義(上・下)』として岩波文庫から出ている)の講義が行なわれたのが1822〜31年(ヘーゲルの死後1837年に出版)と、世界史、とくにヨーロッパ史が悲惨な体験(ナポレオンやフランス革命)をしているさなかに書かれています。
マルクスはこうした時代的背景を背に青年期を送り、その思想の背景には、ヘーゲルやユーゴーの心を痛めた人類史の悲惨な展望があると思います。
ヘーゲルの哲学がこうした背景を語らずしてその本質に届かないように、マルクスの思想、哲学にもこうした背景が色濃く影を落としています。

ここで、冒頭の健奘さんの問いに戻ると、唯物弁証法が考え出された背景には、まず悲惨な現実があり、血に染められた悲惨な歴史(人類史)があった。
マルクスは、ヘーゲルも同様ですが、空理、空論を楽しんだのではなく、悲惨な現実を目の前にして、一人の人間としてできることを行なったのです。
ヘーゲルは、人間がこの宇宙に登場した意味を、単に凄惨な歴史を刻むためだけでなく、その向こう側に絶対精神(絶対知)に至る過程を見ようとした。
マルクスは、こうしたヘーゲルの考え方に強く影響を受けつつも、観念の歴史を想定するのではなく、現実をなんとかしようとした、そのためになぜこのような現実がうみだされたのか、その理由を、人類の歴史のなかに見いだそうとした。
その答え(の一つ)が、史的唯物論あるいは唯物弁証法と呼ばれるものです(と小生は理解しています)。
お決まりですが、こうしたマルクスの思想を象徴する言葉として、マルクス(エンゲルス)の思想的転回期に書かれた「フォイエルバッハに関するテーゼ」の中の有名な一節を紹介しておきます。(『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』廣松渉編約、小林昌人補訳、岩波文庫、p.240)

「哲学者たちはただ世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。肝腎なのは、世界を変革することである。」

ずいぶんと長くなってしまいましたが、健奘さんの「唯物弁証法というのは、何をとらえるのに、役立つのか」という問いに対して答えるとすれば、『レ・ミゼラブル』の時代から150年ほど過ぎましたが、われわれの時代にもまだ「人為的に地獄を文明のさなかにこしらえ」「下層階級による男の失墜、飢餓による女の堕落、暗黒による子供の萎縮」が残されていると小生は考えているのですが、それに対して何を為すべきかを考えるとき、ヘーゲルからマルクスへと進む世界、人間、社会、人間精神の理解の仕方、考え方はいまでも大いに参考になるし、活用すべきであり、大いに役に立つものだ、というのが小生の答えです。
マルクスは、マルクスの生きた時代に対して、彼の思想を背景にして変革の道を探しました。
我々は、我々の現実に対して、変革の道を探さなければなりません。
マルクスの思想は発展的に受け継ぐにしても、マルクスが現実に働きかけた方法や手段は、そのままいまの現実に適用できないし、さほど意味があることではないと思います。

>たぶん、思い込んでしまったことを、説明するために編み出した考え方ではないのだろうか?思い込みとは、労働者という規定と、労働者を止める、ということ。これが真であることを議論するため(証明するため)、まず、歴史は、弁証法的に発達する、という命題を立てる。現在は、資本家と労働者は対立している。この対立を終わらせるのは、弁証法的な必然だ。従って、労働者は、労働者であることを止める。これは、歴史的な真だ、と。

現実を変革するために理論があるのであって(理論なき変革はただのアナーキズムですから)、理論に現実が追従するわけではありません。
ヘーゲルにはわりとそうした考え方の残滓があると思いますが(もちろんヘーゲルは周到にそうした考え方をとる背景を説明していますが)、マルクスはそうしたヘーゲルを徹底的に批判しています。

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