投稿者 ODA ウォッチャーズ 日時 2005 年 11 月 16 日 03:06:59: ilU7eLmFtsv5I
存在は、認識であり、「檻」の存在、自分自身を包括する「檻」の存在を認識する行為は、自分の「鑑」であり、自分自身である。
「檻」を破るとは、自分を破ることであり、自己否定であるが、自己認識でもある。
自己は自己を客観化することによって、自己を否定し、その結果、自己を認識するからである。
ここまでは、カント以降、現象学的理解から、構造主義までの理解である。
構造主義の徹底化によれば、自己自体の存在を否定する立場も生まれる。
構造こそが、実態であり、自己は、幻影である。
しかし、自己を幻影と看做すことは、「生活世界」の立場からは、到底、許せない、個人の尊厳を冒すことにも繋がる。
ここに、構造主義を乗り越えようとする、「脱構造主義」「ポスト・モダン」のスタンスがある。
客観的な経済、価値独立社会などを仮定し、構造の中立性を仮定する「似非科学」こそ、糾弾されるべき、特権階級の科学だ。人間の欲望の体系の、一部が、認識であり、認識事実であり、構造である。
人間の生活世界を超えた存在の仮定は、よほどの注意が必要であり、現在の科学に置いて、最も、合理性を持つと考えられる、「数学的合理性」の担保を必要とする。
ODA ウォッチャーズは、繰り返し、同じテーマを主張しているのだ。
(参考)
Re: ODAウォッチャーズは熟読し、推敲した上で、極力、的確に表現している。
http://www.asyura2.com/0510/idletalk15/msg/713.html
投稿者 yu-min-yu 日時 2005 年 11 月 15 日 12:46:59:
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