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【殺人の自由化】無善悪4【コンパスと定規と6つの角】まだ読んでないが参考になりそうで…ここに保存したい、いいかな?
http://www.asyura2.com/05ban/ban4/msg/1006.html
投稿者 SV問題 日時 2005 年 12 月 10 日 08:58:16: ed3m9sVxNwNrE

(回答先: 【殺人の自由化】無善悪3【コンパスと定規と6つの角】まだ読んでないが参考になりそうで…ここに保存したい、いいかな? 投稿者 SV問題 日時 2005 年 12 月 10 日 08:54:20)

【4】

 

少年犯罪の背景

 

1998年2月現在、
いわゆるムカついて「キレる」という暴力や殺人事件が急増している。
社会通念や専門家はそれに対して、各自の経験と知識内でいろいろな見解を述べる。

戦後の「大量消費社会と環境破壊のツケが回って来た」と言う者もいる。
「ミネラルやカルシュウムの不足、さらには日本人の体質に合わなかった肉食が約100年
も続いた弊害だ」という者もいる。
「食品添加物や汚染物質による環境ホルモンの影響だ」と言う者もいる。

沸いて来る推測のどれもこれも、それぞれに「一理ありそう」でもあるが、
あらゆる問題が複合的に作用しているようであるが故に、
決定的な原因も解決法も見当たらないのが現状だ。

中学生、小学生の事件が取り沙汰されるが、その原因を彼らの自我が狭くて堅いせいだ
と、彼らに責任を押し付ける事は、ほぼ不可能である。
「子供は、未熟だから」と大人は言うが、
厳密な意味での未熟さというものは、本来無害なものだ。
だから、「未熟」である事が事件の原因ではない。むしろ、
彼らに無作為に情報や物質を与え「半端に成熟させた」社会にこそ原因がある。

‥‥

たとえば、戦前には、「子供のご機嫌を取る娯楽」など、今ほどには存在しなかった。
あると言えば、「駄菓子屋」が唯一の店舗であり、
子供は、限れた少ない玩具で自主的に遊びを作り出していた。

「娯楽施設」と言われるものは、主に大人のものであり、
飲む、打つ、買う(つまり、ドラッグ、賭博、売春など)、あるいは、
映画や劇場は、基本的には「大人のための施設」だった。

つまり昔の日本(極端に言えば明治維新以前)には、
「子供のための遊び」「子供向けの何か」などというものを生産する体制にはなかった。
子供のための遊びが産業として急激に登場したのは、まさに戦後である。
その始まりは、「子供向け」のマンガとゲーム機器だ。

昔の子供の遊びというものは、その道具からルールまで、主に「彼らが作ったもの」で
あった。明治維新以前の子供のゲームは、子供自身が作っていたのだ。

また、昔の子供は、お金など持っていなかった。
だから、店先では子供などは「このクソガキ」と言われた。

しかし、今は大人が子供を商売の相手、すなわち消費者と見なす。
かつての「ガキ」は、今では金を落として行く「大切なお客様」なのである。
だが、企業が、子供を市場とした段階からすべては狂い出す。

もともと娯楽施設というのは、社会生活に少々疲れた大人の「ガス抜き」であればいい
ものをなんら、自活もしていない子供が、ただ親や企業から、
「勉強をして、言う事を聞く良い子になる事」とひきかえに、玩具を与えられる。

しかも、それはあまりにも与え過ぎだ。
試しに、ペットや野生の動物に大量の餌をやってみればいい。
なんでも、与え過ぎれば、どんどんと、ずうずうしくなるに決まっている。
やがては、もらえるのが、「当然」のような顔と態度になってゆくのだ。

‥‥

しかし、現代の子供達は一体何を見て育ったのか??。
そして一体、彼らは何を「脳の食物」として摂取して育ってきたのか??。
言うまでもなく、彼らは、親や社会や教師を見て育ち、
そして、彼らの与えた「餌」、すなわち物質や観念を食って育ったのだ。

子供というのは、親を映す鏡である面がある。
親というのは社会を映す鏡でもある。
社会というものは人間を映す鏡である。
そして人間は宇宙の原理を映す鏡でもある。

彼らを「消費者という動物」として扱う企業は、
子供たちに無数のゲームやおもちゃという「娯楽用具」を与えて来た。
そして、社会は「人権や自由という理屈」をも彼らに与えて来た。
しかも、半世紀前と違うところは、膨大な量のテレビや雑誌、
マンガやビデオやコンピューターによる情報が、さらにそれに付加されている事だ。

しかし情報が増えれば、かならず「選択肢が増える」。
あなたがデパートへいけば、どれを買うかで目移りするだろう。

物事の選択肢が増えるという事は、自由で多彩、多角的という側面を持つが、それは、
何かを「実際に経験する以前に」、多彩な情報で「迷ってしまう」という弊害をも作り
出すものだ。

現場で経験的に迷うのは人間の学習になるが、
経験する前から、あれこれと推測する為の情報や、
物事の「前例」に関する情報があると、
あなたには経験もしていないうちから「物事の先読みをする」という悪癖が起きる。

ところが、結局これらは、「情報を制する事をしないと生き残れないぞ」と騒ぎたてた
大人社会が生み出した結果でもあるのだ。
金融を動かしている株取引などは、まさに情報と先読みが勝負を決めるのだから。
また科学の分野では確かにデータは役に立つ。データこそが役に立つ。

しかし、データが役に立つのは、科学者の科学的姿勢、探求心、創造意志や研究の目的
意識がある場合にのみ限られるのだ。
また、実際に、科学者の多くは雑多な知識や情報などには全くかかわらない。
彼らは、いわゆる良い意味での「専門バカ」である。

一方、庶民や子供達は科学者ではないし、特定の研究分野を持っているわけではない。
そんな「方向性もないところ」へデータばかりを詰め込んだところで、
それは情報のウィンドウショッピング、情報の読み捨て、使い捨てになってしまう。

だから、科学あるいはあらゆる種類の『専門分野』では情報は多角的であってもよいだ
ろう。だが単なる「スナック菓子の代用品」のような情報は頭のゴミにしかならない。

そんなゴミ情報(たとえば世間話)を交換することを、
人間同士のコミニケーションなどと呼んだところで、そこからは、やはり
「ゴミ」のような人間関係しか生まれはしないのである。
・・・・・・・・・
‥‥

さて、少年たちが「キレる、ムカツク、殺す」には、いろいろな原因があるだろう。
したがって、ここで私も、そうした複合的な原因の「一つ」と思わしき事だけを述べる
に留めたい。
・・・・・・・・・

『明確な敵』の不在と『共通の敵』の不在

現代の少年、あるいは大人にとって、もっとも欠落しているものの一つに、
『明確な敵』あるいは『共通の敵』というものがある。

実は、『共通の敵』というのが、人間関係や地域社会を時には飛躍的に改善し、
統一してきた事があるという事実を洞察するとよい。

戦争中、日本は欧米を国民の『共通の敵』にまわすことで、統一を持っていた。
戦後、日本は貧困という『共通の敵』を持つことで庶民が団結してきた。
学生運動のころ、国家権力が彼らの『共通の敵』となっていた。
一昔前の日本では農村にとっては、よそ者が『共通の敵』になっていた。
一昔前の暴走族たちは敵対するグループが仲間にとっての『共通の敵』になっていた。
宗教組織では、対立する異教徒、または無信仰な人々が『共通の敵』とみなされる。

自主的な思索もなく「徒党を組むこと」が良い事ではない、のは言うまでもないが、
必ずしもそれが悪いとも言えない面がある。

というのも、何かの『共通の明確な敵』が存在する時には、
奇妙なことに人間は、それによって他者との共感を感じることが多いからだ。

あなたに、もしも親しい友人がいるならばだが・・・その友人との会話の中には、
必ず『共通に嫌うものの話題』があるはずだ。

人間は、お互いに、同じ好きなものを通じて共感することもあるが、
それと全く同じぐらいに『お互いに同じ嫌いなもの』を通じて共感することが多い。
大人社会でも「悪口」「陰口」というのが、ひとつのグループの統一性を形成する要因
のひとつだ。

私は、会社に勤めていたころ、比較的転々と転職をしたが、そのつど、まずその会社に
入って真っ先に観察したのは、
社員の各自が何を、あるいは誰を嫌っているかという点だ。

その結果分かったことは、何かの共通の趣味の話題を通じて平和的に溶け込むよりも、
相手が嫌っている人物(たいていの場合は、上司や社長であるが)の事を、ののしる事
によって共感関係を作ってしまうことが最もたやすいという事だった。

奇妙な事に、会社内部で、相当に険悪な仲の人間同士でも、
あるひとつの『共通の敵』というものがそこに入ると、
いとも簡単に関係が改善されることが多いものだ。

同じことは、家庭でも言える。親子が共通に嫌うものがあれば、
その家庭はある程度統一がとれるし、何よりもコミニケーションが少なくとも成立する。
子供が、「学校のセンコーが気に食わねぇー」と言った時、
親もまた「オレもそうだったぜ」と言えば、多少の共感が発生する。

子供が「こんな勉強なんか、やっても無駄だから、学校へ行きたくない」と言ったら、
父親が「俺だって、こんな会社なんかいきたくないぜ。
だって生活必需品を作っているわけでもなし、無駄なエネルギーを使ってゴミを作って、
それで商売しているんだからな」と言えば、そこになんらかの共感は発生するだろう。

しかも、「悪口や不平」というものは、偽善的な説教なんぞよりも、
通常は、『本音』で話すものだ。

ただし、もしも悪口と不平すらも、
あなたが「他人や子供の顔色を見ながら言う」のであれば、
そんな事はやめたほうがよい。
「何を」話すか、「何を」共感するかという対象に関係なく、
常に「本音」でなければそれは効力を持たないからだ。

‥‥

さて、では現代の子供達に『共通の敵』は存在するだろうか??

戦後社会の大人たちは貧困を『共通の敵』として戦い、
とにかく発展して裕福になる事を「共通の味方(口実)」にしてきた。

ところが、今では下手な発展イコール環境破壊であり、その環境破壊や、食用の家畜に
遺伝子操作をしている大人が子供に言う「生命の尊厳」などには何の説得力もない。
また、勉強して大学へ行ったところで、そうやってやっと入った企業も倒産する。

こうした現代における『共通の敵』とはなんだろう??
この問題を考える時には、見逃してはならない問題がある。

それは我々は、価値観の多様化を提唱してきたが、もしも価値観が多様化すれば、
とうぜん、それによって『敵も多様化する』という事だ。

そうなると子供達の間に、あるいは人類には、
『共通の敵』というものが存在しずらくなる。

もしも学校の生徒全員にとって、教師というものが『共通の敵』であり、
その教師と面と向かって子供たちが戦うのであれば、
そこでは子供の中に『共通の敵』があり、ある程度の統一が取れる。

だが、現代の子供は、教師を敵と見なす価値すらもそこには認めず、単に無視する。
というのも、もともと、我々の意識に何かが「敵」として現出するためには、
そもそも敵として見なすだけの存在の重さがなければならない。
敵としてみなす事自体、相手の存在感をまず認める事だからだ。

親子や教師と生徒が面と向かって争うならばまだいいが、もはや子供達は、
親教師には、闘争の意味すらも見い出せないほどシラケている。
だが、これは当然のことであり、それは子供の責任ではない。

‥‥

自殺が比較的肯定されるようになったこの時代、
あるいは精神世界の情報が行き渡った現代では、肉体の生存だけに価値を置くことには
かなりの無理がある。人生、長生きすればいいというものではないし、
太く短く、強烈に生きて死ぬ方を好む者が多いはずだ。

『共通の敵』を持つという点では、オウム真理教や、数々の新興宗教あるいはキリスト
教などの伝統的宗教は、ある程度の統一性を彼らの内部に持っている点では、
現代の社会とは多少異なるものだ。

むろん、その論理の「是非」は別問題としても、
冒頭で述べたように、彼らには同じ『共通の敵』というものが存在する。
彼らの敵とは、「国家権力」、あるいは「社会通念」や人間の「煩悩」、
そして「悪魔」や「世紀末思想」などだ。

『共通の敵』を持つ集団組織は、個人としては愚かであるが、
一方では内部の統一性を得ることが出来るというメリットがある。

多様な価値観の集団は、個人としては賢明であるが、
一方では、統一性が取れなくなる。

だから宗教組織であれ、政治組織であれ、社会であれ、統一性の為には、
『共通の敵』が必要とされているのかもしれない。

‥‥

個人が突然に、ささいな事で、ムカツク、キレる。
これらは『明確な敵』という、はけ口が存在しない事、すなわち、
他人と共有できる『明確な敵』が存在しない事も原因の一つなのだろう。
もはや、彼らの『共通の敵』があるとすれば、それは「社会そのもの」なのだろうか。

おそらく、現代の子供は、たとえある日突然に、
異星人が突然に地球人を食用として食いにきても、
その宇宙人すらも、彼らの『共通の敵』とはならないだろう。
なぜならば、そもそも地球人類の存亡という問題すら、
彼らには「どうでもいい事」だからだ。
また、異星人がかならずしも、敵とは思えないような情報も多く彼らは吸収している。

ならば、現代の子供、そして大人、すべての人々が、共感し、
たとえ過疎的であれ、方向性や統一性を生み出せる『敵』とは何だろう。
おそらく、それは、『人間存在への疑問』『生きる事の虚無感』、
そして『思考というものへの嫌悪感』だろう。

 

‥‥

 

●すべては学歴を評価した
大人社会と企業の責任である●

 

極論すれば、子供達や中学生には何も非はない。彼らに自主的な価値観や才能や意欲を
持たせないようにしてしまったのは、大人社会だからだ。

最近の、いわゆる【キレる】子供達の根本原因は、日本特有の「学歴社会」の、しかも
その「残留物」による弊害の一点に絞られる。

そもそも社会や企業が、高学歴などを評価しない社会であったのならば、親たちも自分
の子供に必要以上の勉強など押し付けたりはしなかったのだから。

その昔、子供とは「子供の社会の縄張りの中」で『遊ぶ』ものだったのだ。約20年前
は、子供に勉強など強いれば、「教育ママ」と呼ばれ、また子供も「ガリ勉」と言われ、
周囲からはむしろ白い目で見られた時代があった。という事を思い出して戴きたいもの
である。

 

‥‥

 

ところで、今、ナイフなどで問題行動を起こしている子供たちの「その親の学生時代」
とは、一体どんな時代だっただろうか?。

おそらく、彼らは「楽しい学生時代」というものを経験した最後の世代のはずなのだ。
仮に25歳で子供を持ったとして、現在中学生の子供をかかえる親は、現在40歳前後
だろう。ちなみに私は1998年2月現在39歳である。

こんなエピソードがある。

私は中学生のころからナイフマニアだった。あるとき、放課後、廊下で友人にジャック
ナイフを向けて「恐喝ゴッコ」をしていた。
まぁー、言うなれば洋画のシーンのマネである。そこへ通りかかって、私たちを見た一
人の教師は私にこう言った。
「おおっ、かっこいいナイフじゃないか。・・でも手を切らないように気をつけろよ」。
私「はい」。これで終わりである。


職員室に連れて行かれるわけでもなく説教をくらうわけでもなく、ただ「使い方の注意」
をされただけである。
言うまでもなく、これは約23年前の話である。そして、当時はそういう時代だったの
である。

ナイフを持っているからといって、生徒がそれで事件を起こすなどとは教師も思っても
いなかった。誰かが単なる遊びや趣味でナイフを持っているからといっても、誰もそん
な事を特別な目では見なかった。

私の両親すらも、私がナイフを集めて持っていても、「ケガをしないように注意した」
のみであり、刃物を取り上げるなどという事は全くなかった。ナイフを持っていること
と犯罪や暴力は結び付いてなどいなかった時代だったのだ。
・・・・・・・・・
また、当時は、子供同士の間でさえも、ケンカで刃物を使えばどういう事になるかは分
かっていたために、私たちの時代のケンカは、素手でやるのが礼儀であり、それがルー
ルだった。

むろん、それは恐らくは、文化を通じて伝えられた日本特有の「武士道精神」から受け
継がれたものではあろうが、それにしても、そのルールは誰が決めたのでもない。それ
が子供にとっての「かっこいいケンカ」「当たり前のケンカ」であった。


また、素手で勝ったからこそ、仲間の中でも力を認められたのであり、凶器というのは、
そもそも反則であり、卑怯だと見なされた。凶器を使えば、それこそ仲間外れにされた
のだ。

しかし私たちの世代の少し後から、暴走族が角材やチェーンで武装するようになった。
そして、今では警棒、金属バット、催涙スプレー、スタンガン、ナイフである。

 

‥‥

 

さて、ではそのころから学校や社会では、何が変わっていったのだろうか??。私が高
校生の時には、自分の「進路」について考えた事などなかった。私が進路を考えたのは、
短大の半ばあたりでやっと現実的に考えたものだった。

高校生の時でも、学生は自分の将来の進路などというものを考えたのは、せいぜい高校
2年の終わりごろからだった。では、それまでは何をしていたか??。言うまでもなく、
我々は、ひたすら「遊んでいた」のである。

私は幸いに「受験戦争」などというものを経験しなかった。私のすぐあとの世代から、
それは始まった。

私が小学生の時、塾へ行っている者など、わずかだった。私立中学を受ける者が、ほん
の少数だけ行っていただけだ。

そして、中学、高校でも、そもそも勉強ばかりをする者などは、「ガリ勉」と呼ばれて、
馬鹿にされていたのである。
子供時代とは、そもそも『遊ぶもの』だったのだから。

つまり、受験戦争など、ほとんど知らない私たちの世代は、よい高校から良い大学、そ
して良い企業、良い収入、良い老後、という価値観などは、全く頭にはなかった。

確かに、既に学歴社会の色彩は始まりかけていたが、それとても、多くの中小企業自体
が、別に学歴を問うわけではなかったから、大手はともかく、小さな企業では、学歴や
経験不問の求人広告が多かった。
だから何をやっても「いちおうは食っていけそうな時代」だったのである。

今の子供のように、小学生のころから将来の進路に基づいた行動をしなければならない
理由は何もなかった。
自分の就職や進路などは、高校を卒業する間際あたりで考えればよかったのである。

 

‥‥

 

ここで非常に重要な事は、大人社会と子供社会の間には、20歳の前後あたりに「縄
張り」のようなものがあったという事だ。

20歳までは、とりあえず子供たちの社会であった。自分のやりたい事は、とりあえず
20歳過ぎたら好きにやろう。
それまでは我慢するなり、遊んでいよう・・・と。

そのように、20歳あたりを境界線とした「暗黙の縄張り」が、大人と子供の間に明確
に存在していたのだ。
ところが、この境界線を破ったのは、大人たちだったのだ。縄張りを破ったのは断じて
子供ではない。「大人が破った」のだ。

すなわち大手企業への就職=高収入となり、高収入=平均的幸福の条件となり、何もか
もが、そのための学歴、そのための学習、そして、そのための内申書という構造が生ま
れた。内申書は教師や親が子供たちを脅迫する材料となったのだ。

私は幸いにも、中学高校が続いている(当時は3流の)私立校へ入った。だから、内申
書が進学に影響するなどというストレスもなかった。

しかし公立の中学では「内申書」という「脅迫要素」があり、それが子供へのストレス
となる。親が求める「いい子」とは「内申書」にまずい事をかかれない子供ということ
なのだ。さらに既に述べたように、自分の進路などは昔は大学生ですらまだ決まってい
なかった。

しかも、さらになんと愚かな事に、内申書に良く書かれるためのマニュアルまであり、
熟では内申書への対策法、教師への接し方(むろん、良い点数になるための詐欺行為)
まで教えるところさえある。
ボランティア活動なども内申書の為にやるという子供もいるわけである。
これで、もしも大人がそうしたマニュアルに従った子供を評価したら、一体どうなると
思っているのだ?。「大人なんか騙すの簡単だ」と子供は思うだろう。
これでは子供に『詐欺』や『偽善』を教えているのは教師や親や熟ではないか?。
我々の子供のころなどは「子供は正直でいなさい」が唯一の戒律だったとさえ言える。

たとえば学力重視が必ずしもいいわけではないが、学力だけしか重視しない事も、仮に
もしもそれはそれで徹底すれば子供も「勉強さえやっておけばいいんだろう」となり、
そのかわり授業中の態度は悪くても問題にしないといった「ガス抜き」も成立していた。
評価基準がひとつだけという事はむろん問題もあるが、今では評価基準が2つもあり、
これでは子供たちには、内申書と成績の両方のストレスが溜まってしまう。

そもそも、私たちの時代には「大学へ行く」という場合には2つの意味を持っていた。

1:ひとつは、自分の就職や興味に直接かかわるような専門分野の大学へ行くこと。
2:そしてもうひとつは、進路の事など後回しで、「遊びに行くところ」「新しい出会
いの場」としての大学である。

大学へ行ってしまえば、あとは自由。親からもとやかく言われない。そのせいで、「入
るまでは大変で、入ったら遊ぶ」という日本の大学生と、欧米の「実力主義の大学」と
が比較されて、随分と批判を受けたこともあったものだ。

しかし、それもいつの間にか忘れ去られ、中身のない、ただの教育制度と古い価値観だ
けが現在まで継続しているのである。親や大人たちが、社会や企業の価値観を小学生の
領域にまで侵入させたのである。


ここのところを棚に上げて、ストレスから非行や暴力に走る子供を、「良識がない」と
か、「当たり前の事が分からない子供だ」と、責めるような者は、そもそも根本問題を
すり替えている。

子供社会と大人社会の『縄張り』を破ったのは、まぎれもなく大人なのだ。前文書の
『少年犯罪の背景』でも述べたように、子供をターゲットとした玩具を生産して子供社
会へはいり込んで儲けようとしたのも、大人たちではないか。
だが本来、「子供の社会」と「大人の社会」は、別々の異なる価値観、異なる世界観、
異なる感性で分離している事が健全で当たり前なのである。

しかし、どうして小学生たちが「将来の進路を年頭に入れた学習」などを、親から強要
されなければならないのだ??。これらは全部、戦後の消費社会を生きて来た親や社会
が押し付けたことではないか??。


しかもバブル以後、もうすでにとっくに、学歴などが通用する雇用体制ではないのにも
かかわらず、「ただの成り行き」で、いまだに同じことを繰り返しているのだ。

親は、子供をまるで自分たちの「老後の保険」とでも見なしているのだろうか??。
親が子供に「勉強しろ」というのは、老後に自分が動けなくなった時の面倒を子供に見
てもらおうとする計算があるのだろうか??。

だから、現在の教育現場のあらゆる歪みの責任は間違いなく、大人社会、大人の企業の
価値観、そして大人が子供に与えた情報(ドラマやアニメ)にある。
・・・・・・・・・
そもそも、20年前には、大人社会の「裏側」を扱ったドラマなどはなかったのだ。
ドロドロになった人間関係や、大人の使う策略や偽善や虚偽をドラマにしたものなど、
そんなに多くはなかった。映画ではあっただろうが、お茶の間のテレビの中には、その
ようなものは、ほとんど存在しなかった。当時、「子供が見る番組」として存在してい
たのは、お笑い番組と、歌番組、アニメやクイズ番組などである。

しかし、今の子供達は、報道番組やトレンディードラマを通じて、人間の不正、不倫、
暴力、汚職、犯罪といった大人社会のすべてを見ているのである。これで、暴力の方法
や恐喝方法や、嘘のつき方や、社会の裏側を「覚えるな」という方がどうかしている。
・・・・・・・・・
そして、結局は、おそらく、このままいけば、子供の暴走のみならず、大人社会全体の
ストレスの解決法として、人類は、必ず脳内麻薬である「プロザック」や「ピセタム」
を飲ませるという安易な方法に走ることだう。
その時、人類は「取り返しのつかない事」をしてしまった事に気がつくだろう。

 

‥‥

 

▲では、どうしたらいいのか??▲
●答え= 寺子屋へ戻れ!●

 

まず親たちは、あなたの子供の勉強内容、つまり中学や高校の教科書を見てほしい。
子供ノとやかく言う、そのあなた本人は、いったい現在の中学の何年までの学力レベル
だろうか??。

そもそも、親が子供に教える事も出来ないような内容の学問が、どうして必要なのだろ
うか??。私が小学生の時、その教育レベルというものは、親が教えることが出来たも
のだ。だから、親子の間で勉強に関しての話が成立した。学校で分からなかったことは、
家で兄弟や親に聞けば分かったものだ。

だが、今では「子供と親」の間に、あまりにも学力レベルの違いがありすぎる。しかし、
かつて学校で習った内容で、いまだにあなたに役に立っている知識はどれほどだろうか。
全くではないにしても、おそらく、ほとんどありはしない。

そもそも、義務教育のレベルがなぜ、こんなにも「無意味に」高くならねばならないの
か??。なぜ、こんなにも多くの教科がなければならないのか??。人間が生活して行
くのに必要な基礎教育は、極論すれば、この現在でも、やはり「読み書きソロバン」な
のである。

現代ならば、これに、英語とパソコンの基礎が加わるだけで義務教育など十分である。
あとは、おなじみの、美術・音楽・体育といった、いわば点数のつけられない教科であ
る。また、農作業や簡単な工業実習や、調理などの授業もあってもいいだろう。

そして、そもそも高校からは、多くの学校を「職業訓練」を中心とした専門学校にすべ
きである。また、学術研究に進みたい者には、そのような学校を用意し、そこへ行けば
いい。

専門学校以外の、現在の多くの大学と社会の間には無駄な溝がある。つまり、大学へ
行ったところで、社会の実践の中では何の役にも立たないような大学があまりにも多す
ぎるという事である。それなのに、ただ大学を出たからというだけのレッテルをもらう
為に行く大学などには、全くなんの意味もありはしない。

すなわち、「大学へ入るための勉強」などは、そもそも全く無意味なのだ。だから、
まず義務教育である中学3年までの教育内容を、可能な限りレベルを落とし、本当に必
要な学習や素材だけに絞るべきである。

ほぼ全員が、同じ程度の学力に至るようにして、落ちこぼれなどというものが存在しな
いようにすべきである。
ただし、飛び級は小学生の時から全面的に認めるようにすべきだろう。

また、極論すれば、中学生の3年あたりでは、個々の生徒が関心を持たない教科は、
やらなくてよいようにすべきである。

とにかく義務教育までは、いくつかの「サンプルとしての教科や実習」をばらいまいて
おき、あとは、子供が自分で学びたい方向を決めればよい。

むろん、中学を卒業したらすぐに何か技術をつけて就職しろという事ではない。中学以
後、約4年ほどは、あれこれと専門学校を転々としてみればいいのである。

かつての日本では、学問は自ら「学びたくて行ったもの」だ。そもそも、学問とは、
いやいやながらやるものではないのである。

 

‥‥

 

さて、話が教育論に脱線してしまったので、ここでもう一度「殺人」の本質について
まとめるために、EOという神秘家の言葉を以下に記しておきたい。

結論・『殺戮は悪と言えるか否か?』EO


この結論の主旨は殺人や殺戮を「肯定」するのが目的ではなく、
殺人や殺戮が少なくとも「悪と言える根拠がない」事を論じるのが目的である。

すなわち、殺人や殺戮を善とも悪とも、どちらにも断定しない位置から、
これらの問題を扱うことになる。
・・・・・・・・・

一般に殺戮や殺人は、悪と定義される。しかし、その根拠については、
いかに曖昧であるかを論じる事で、人間の洞察のなさを露見するのが目的であり、
殺人を肯定するのが本論の目的ではない。

むしろ、殺戮や殺人の衝動を人間の当たり前の属性として冷静に眺めてみて、
深く考えもせずに殺戮という行為を、ただ感覚的・観念的に「悪」として定義して取り
扱った事が、結果として人間社会に引き起した『自己矛盾』を洞察してみようというわ
けである。

我々が殺人をしない理由

殺人に関して、いかなる処罰もないという自由の中で、人類が殺人をしなかったら、
その時には、人間の精神性には何かの価値があると我々は認めてもよかろう。

だが、もしも投獄や死刑という処罰による脅迫がなければ、殺人は、何十倍にもなるこ
とだろう。すなわち、人間が殺人をしない主な理由は、宗教上のものでも、精神性や愛
によるものでもなく、投獄や死刑の罰則によって自分が苦痛を受けるのが怖いという、
ただそれだけの理由である。

誰も殺人を悪とも思わないし、とがめもしない世界で、(たとえば戦場で)なおかつ、
殺人を行わない、いかなる理由が貴方にあるか??。
そこでは、殺人は悪どころか、その量によっては勲章と年金まで戴けるのである。

死刑の形態の矛盾について

アメリカでは被害者の遺族の前で死刑が執行されるらしいが、
日本ではそのような事はない。

しかし、現代社会で暴力と殺人がいとも軽く行われる原因のひとつは、
死刑を人の目から隠すことが大きな原因のひとつであると推測される。

しかし、死刑とは、もともとは「さらし者」にすることによって、
庶民に『警告』を与えるのが、その本来の純粋な目的であった。

江戸時代までは罪人は「腐るまでさらし首」にしていた。あるいは首切り場には、
大勢の見物人もいた(子供だってそれを見ていたことだろう)。
また、外国でも拷問と死刑は、常に公衆の面前で行われてこそ「警告としての意味」が
あった。それが本来の死刑のあるべき姿だった。

ところが、死や死体というものを病院や警察や屈折したモラルが、
それらを我々の目から見えなくした。
現代では死体や死刑は醜いもので、まるで、汚物であるかのように扱われるのである。
しかし死刑を執行するならば、本来の「さらし者」の形に戻さねば、
いかなる殺人犯罪の抑止効果もあるまい。

すなわち、ガスではなく、首切りでも首吊りでも、飢えた鮫や猛禽類に食わせるのでも
よいから死刑は「より残酷な方法」で執行され、
しかもそれは、「公開」されるべきである。

それができないのならば、
もはや死刑が脅威として実感できる脅迫効果もなくなった現代では死刑などは必要ない。
死刑とは、本来は本人を処罰する事以上に、庶民への「警告効果」こそが、その目的の
ひとつだったからだ。


被害者の命の『重さ』が異なる事実と、

罪の『重さ』が量られる奇妙な基準

非常に奇妙なこと、あるいは当然のことなのだろうが、
殺人とその罪悪感には、かなり段階的なコントラストが存在する。

1)死体の損壊の状態の程度によって残虐かそうでないかの感覚的決めつけがある。
たとえばバラバラ死体は凶悪に見えて、薬物投与は残虐に見えない。

2)バラバラにしたり埋めたりして、遺体処理の手が込んでいるほど殺意と事後処理が
「冷静に継続している」とみなされ、より残虐な行為または犯罪者であると見なす傾向
がある。
一方、毒物をコップに入れただけの殺人の場合には、同じ結果であるのに、
なぜか、この感覚的な見方は変わるのである。
むろん、被害者が死に際して受ける苦痛の程度が考慮されているのだろうが。

3)被害者の社会的位置づけで、残虐か、そうでないかの感覚的決めつけが存在する。
たとえば、刺殺された被害者が酒びたりのホームレスだった場合と、
暖かい家庭に生まれた幼児だった場合には、ここにもなぜか比較が存在する。

さらには、被害者が有名な芸能人や政治家だった場合には、その死、または犯罪は、
マスコミにとっての大切な「ビジネス」となるのだ。

したがって、「命は公平ではなく」被害者の社会的有用性、経済的影響範囲によって、
あきらかに、そこには「値段」がつけられているのである。

さらに欧米では、有色人種と白人では、社会的な価格が違うというわけだ。
したがって、被害者が有色人種であった場合も、その価格には変化が起きる。

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