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行動右翼 民族正当防衛 クーデター合理 三無主義(無税・無失業・無戦争) 百の理論より 「命をかける」
http://www.asyura2.com/05ban/ban4/msg/742.html
投稿者 桑の実(市区町村) 日時 2005 年 11 月 12 日 03:21:54: Szt/imEacmcv6

(回答先: 竹下は最初の妻が首吊り自殺〜 自殺した秘書〜 死体の状況が不自然〜 暴力団〜 投稿者 横路美菜 日時 2005 年 11 月 12 日 01:22:26)

 戦後数年間は、敗戦という歴史的事実と右翼の思想的な基盤となっていた天皇の神格否定、国家神道の解体、さらにはGHQ(連合国軍総司令部)の占領政策に基づき、200有余に及ぶ右翼団体に解散命令が出され、またその指導者が公職追放を受けたことにより、右翼運動は致命的な打撃を受け、一時閉塞状態となりました。
 一方、終戦直後の共産主義運動や労働運動の急速な進展は、反共運動の組織化を促し、多くの反共団体が結成されました。これらの団体には、従来の右翼団体が反共団体を装ったもの、戦前の右翼運動を否定し反共主義を中心に新たな運動を行うものなどがみられました。
 朝鮮戦争の勃発(昭和25年6月)とこれに続く公職追放解除(26年8月)、日米安全保障条約の調印(同年9月)等内外の情勢の変化により、解散させられた右翼団体が相次いで復活しました。

 戦後の左翼運動の盛り上がり、とりわけ昭和34年以降の日米安全保障条約改定反対闘争(60年安保闘争)を中心とした大衆運動の盛り上がりは、右翼に「共産主義革命」に対する危機感を増大させ、その結果、いわゆる「行動右翼」と呼ばれる団体が多数結成されました。これらの団体は、反共活動を重視し、街頭宣伝車を使用した活動を展開していきました。
 また、このような危機感を背景に、
●  衆議院面会所において、河上丈太郎社会党顧問にナイフで切りつけ、左肩部に全治3週間の傷害を与えた「河上社会党代議士殺人未遂事件」(35年6月)
を皮切りに、
●  総理官邸において岸首相に登山ナイフで切りつけ、左臀部6か所に全治2週間の傷害を与えた「岸首相傷害事件」(同年7月)
●  日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎社会党委員長を短刀で殺害した「浅沼社会党委員長殺人事件」(同年10月)
●  天皇陛下を誹謗する記事を雑誌に掲載したとして中央公論社社長の妻及び家政婦を殺傷した「嶋中事件」(36年2月)
等一連の右翼によるテロ事件が続発し、社会に大きな衝撃を与えました。
 こうしたテロ気運の盛り上がりの中、「国家、民族の危機を救うためには実力行動もやむを得ない」とする、「民族正当防衛論」や「クーデター合理論」が主張され、戦後初の右翼によるクーデター企図事件といわれる「三無(さんゆう)事件」(36年12月)が発覚しました。この事件は、「三無主義(無税・無失業・無戦争)」政策の実践を訴え、共産革命の企図を封じ、国家革新の実現を目的に、政界関係者等の殺害、国会議事堂の襲撃等を企図したものです。
 40年代には、70年安保闘争の高揚や、45年7月に日本共産党が「1970年代後半に『民主連合政府』を樹立する」という展望を明らかにしたこと、日中国交正常化と台湾との断交(47年9月)という我が国の外交路線に大きな転換がみられたことなどの諸情勢に刺激され、右翼は一層左翼勢力に対する対決姿勢を強めました。こうした情勢を背景に、
●  地方遊説中の宮本日本共産党委員長を刺身包丁で襲撃した「宮本日本共産党委員長襲撃事件」(48年5月)
●  成田社会党委員長の殺害を企図し、肉切包丁を所持して同委員長に接近しようとした「成田社会党委員長殺人予備事件」(49年5月)
が発生しました。
 さらに、「我が国における左翼勢力の急激な伸張の一因は、ソ連、中国、北朝鮮等の共産主義諸国にある」として、これら諸国の各種行事や代表団の来日等の機会に対決行動の盛り上げを図り、このような中で、
●  バイバコフ・ソ連副首相を木刀で殴打した「バイバコフ・ソ連副首相暴行事件」(43年1月)
●  ノビコフ・ソ連副首相の宿舎に侵入した「ノビコフ・ソ連副首相宿舎侵入事件」(45年4月)
等が発生しました。


「浅沼社会党委員長殺人事件」
(昭和35年10月12日、東京)(共同)  「三無事件」で押収した銃器類
(昭和36年12月、東京) 

 昭和45年に入り、民族派学生団体は、全国の大学でこの時期に高揚した過激派の学園紛争に対抗して学園正常化を目的に逐次結集し始め、「我が国混乱の原因は、ヤルタ・ポツダム(YP)体制にあり、これを打倒する必要がある」として、既存の右翼と一線を画して「核拡散防止条約批准阻止」といった活動を展開しました。
 こうした中、45年11月、「三島事件」が発生しました。この事件は、作家の三島由紀夫らが、憲法改正等を目的として当初武力クーデターを企図しましたが、実現が困難なため計画を縮小し、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内所在の陸上自衛隊東部方面総監部において、自衛隊員に決起を促す「檄(げき)」を読み上げて割腹自殺したものです。右翼は、この事件に強い衝撃を受け、「従来の運動は表面的なもので命をかける熱意に欠けていた」、あるいは「百の理論より命をかけた一つの行動」等と理論より行動を主張する声を強めました。この事件にみられるような行動重視の傾向は、その後、50年のロッキード事件で表面化した政財界の汚職、選挙での保守勢力の後退に伴う右翼の危機意識と結合して一段と強まりました。
 また、若手を中心とした「新右翼」と呼ばれる一群が誕生したのもこのころです。
 「新右翼」は、「自民党から共産党までの政党はもちろん、右翼も左翼も含めて、戦後30年間に培われた既成のメカニズムはすべて体制側とみて打倒する」との認識の下に、
●  「YP体制打倒」を掲げて散弾銃、日本刀等を所持して経団連会館に乱入し、人質を取って立てこもった「経団連会館襲撃事件」(52年3月)
●  地上げ問題に抗議しての「住友不動産会長宅人質立てこもり事件」(62年1月)
等を引き起こしました。
 他方、40年代後半以降、右翼運動を行う傍ら、街頭宣伝車を使用し、企業等への執拗な糾弾活動を行い、その中止と引き替えに経済的な支援を得ようとする暴力団系の右翼団体、いわゆる「街宣右翼」が現れ始めました。これは、街頭宣伝車の普及により、少人数で効率的に資金獲得が図れるようになったことや、39年から始まった「暴力団壊滅作戦」から逃れるため、暴力団が政治結社を結成したことなどが大きな要因とみられます。
 右翼運動といえば、「暴力団によく似た姿形の男たちによる大音量の街宣」とイメージされるようになったのもこのころからです。

 昭和天皇の御病気、崩御に伴って活動を自粛していた右翼は、大喪の礼の終了とともに活動を再開し、自粛期間中の日本共産党、過激派等左翼勢力の反天皇制運動、土井社会党委員長や本島長崎市長の「天皇戦争責任発言」、大喪の礼の執行方法に対する政府、与党への抗議活動を活発化させ、
●  過激派の迫撃弾発射による皇室攻撃をとらえた「前進社中国支社に対するけん銃発砲事件」(平成2年1月)
●  天皇戦争責任発言をとらえた「本島長崎市長に対するけん銃発砲殺人未遂事件」(同年1月)
等を相次いで引き起こしました。
 さらに、国内外の諸問題に敏感に反応して、
●  天皇陛下御訪中問題等に抗議した「自民党本部けん銃発砲立てこもり事件」(4年2月)
●  北朝鮮との国交正常化交渉に抗議した「金丸自民党副総裁に対するけん銃発砲殺人未遂事件」(4年3月)
●  反皇室報道に抗議した「宝島社本社に対するけん銃発砲事件」(5年11月)
●  細川前首相の「侵略戦争発言」に抗議した「細川前首相直近におけるけん銃発砲事件」(6年5月)
等のけん銃使用「テロ、ゲリラ」事件を引き起こしました。また、こうしたけん銃使用によるものも含め、多くの「テロ、ゲリラ」事件が暴力団系右翼により引き起こされました。
 また、8年には、暴力団系右翼団体等が、「住専問題」をとらえた街宣活動に取り組み、その過程で、「国会正門突入及び車両焼燬事件」(8年1月)等を引き起こしました。
 こうしたけん銃使用「テロ、ゲリラ」事件、あるいは暴力団系右翼による「テロ、ゲリラ」事件が多発した背景として、
●  右翼が、バブル経済全盛期に経済社会に進出していた暴力団と、経済社会活動を通じてつながりを深め、けん銃を入手しやすい状況となっていたこと
●  バブル経済崩壊後、暴力団が、暴力団対策法の施行(4年3月)を契機とした暴排運動の盛り上がりと警察の厳しい取締り等を背景として、新たに右翼を標榜したり、右翼に接近、介入する傾向を強めたこと
が挙げられます。
 また、14年10月から15年11月にかけて、北朝鮮関連施設、オウム真理教関連施設、教職員組合関連施設、政界要人等を攻撃対象として、けん銃の発射、爆発物類似物件の設置、けん銃実包等同封の脅迫文の送付等、11都道府県にまたがる総計24件に及ぶ「建国義勇軍国賊征伐隊構成員らによる広域にわたる連続銃撃・脅迫等事件」が発生しました。これに対し、警視庁を始めとする13都道府県警察による合同捜査本部は、「刀剣友の会(日本人の会)」会長ら17人を検挙するとともに、同捜査過程において、本件犯行に使用されたけん銃等銃器10丁を発見・押収し、同事件の拡大を防止しました。

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