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 ★阿修羅♪
自国の兵隊さえ人間扱いしない国が、他国を攻めたらどうなるか。ネットウヨたちの想像力欠如はもはや病的。
http://www.asyura2.com/0601/asia4/msg/480.html
投稿者 gataro 日時 2006 年 5 月 12 日 13:09:21: KbIx4LOvH6Ccw
 

(回答先: Re: 旧軍にそっくりではなく、どこかの国の旧軍を引継ぎでしょうね 投稿者 Kotetu 日時 2006 年 5 月 12 日 10:33:33)

http://tseiso.hp.infoseek.co.jp/ml/e5_sigoki.html から転載。

私的制裁・人権蹂躙・差別
兵士の自殺


0339 Re 逃亡兵と捕虜
 中国戦地で日本人捕虜が発行したと思われる新聞を見たことがあります。教育を受けている捕虜20名位の写真が載っていました。内容は記憶していません。
 軍隊内の組織的な抵抗は聞いたことがありませんが、私の仲間はビンタをとられて耳が聞こえなくなったと言って、手拭いで顔をぐるぐる巻きにして暫く歩哨にも出ないで通しました。個人的な反抗です。ビンタをとった古参兵が心配なのか「お前、本当に聞こえないのか」と言っても「ハア-」ととぼけた顔をしていました。年上の面白い男でした。

 私は古参兵を射殺しようと思ったことがあります。中国の農家の物置で分隊の銃を数丁並べて手入れをしていた時、入って来た古参兵に手入れの仕方が悪いと物凄いビンタを頂戴しました。テ-ブルの上には今磨いたばかりの銃と弾が有りました。殺意を感じたのか古参兵は立ち去ってしまいました。

 あの時、射殺していたらどうなっていたろうか。彼にも悲しむ親、兄弟がいたろうし、私はともかくとして、私の親、兄弟も汚名を着て村八分にあっていたと思います。復員後母にこのことを話したら気丈な母は、ぶち殺せば良かったのにと怒りました。私の左耳は時々音が割れて聞こえるときが有ります。医者にかかっても直りません。

 出すかどうか迷っていたので今になりました。やはり出してみます。理不尽に痛めつけられても、反抗することも出来ず、歯をくいしばるか自殺を選ぶしか方法の無かったのが日本軍隊でした。


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0347 私もビンタで難聴になりました
 生れ故郷である栃木県烏山町でのことですが、私は国民学校5〜6年生の2年間(敗戦になる直前です) 海軍から復員してきた担任教師に、いつも殴られていました。一度、特にひどいビンタを受けて、とうとう難聴になってしまいました。現在でも、他の人には100%聞こえることが、80%くらいしか聞こえません。(そのため大事だと思われることは質問して確認するようにしています)
 戦時中は、学校で先生に暴行されても訴えることなど考えられませんでした。「直撃弾一発!」などという掛け声と共にゲンコツが脳天にくだり、よくコブができたものでした。私はけっして「おとなしい子」ではなく、喧嘩早い相当な「ワル」で、目立つ少年でしたので、恰好のターゲットだったのかも知れません。しかし、他の先生に殴られた記憶はほとんどありませんので、この元軍人教師の暴行は相当ひどかったのだと思います。

 戦争直後の何年かは体罰はなくなりましたが、しばらくすると「愛の鞭」という美名のもとに体罰が復活しました。「一億総保守化」と言われた70年代から特にひどくなったように思います。しかし、体罰を肯定する教育が欧米では通用しないことはご存知の通りです。米国では解雇処分になることもあります。ヨーロッパ諸国でも同様だと思います。

 戦地での暴行についての投書を読んで暗い少年時代を思い出しました。同世代(1933年生まれ)の方には 類似の経験をお持ちの方もおられると思います。「銃後の」生活の側面として語り伝える必要を感じ投書した次第です。


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1576 汽車遊び、銃爆撃機遊び
 「汽車遊び、銃爆撃機遊び」という名称は聞いた事がありませんが、昔の映画で、軍隊内の陰湿ないじめのシーンを見た記憶があります。
 古参兵に目をつけられた新兵に対するいじめなのですが、兵隊たちが人間ピラミッドのようなものを作り、ターゲットになってしまった兵隊はそこを鶯の真似をして「ホーホケキョ」とか「ピーチクパーチク」とか言いながら許されるまで行ったり来たりするのです。
 宴会の余興ならまだしも、こんなことをマジでやらされたら、例えば大学出の新兵などはプライドがずたずたになったでしょうし、まさにその目的のためのいじめだったのだろうと推測できます。「汽車遊び、銃爆撃機遊び」というのも、あるいはそのような類に属するものだったかも知れません。あくまでも私の推測です。見た映画のタイトルも思い出せませんがご参考までに・・・


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1577 Re ごめんなさい
 記憶なので確かではありませんが 小説『遠い接近』松本清張著の中に「汽車遊び」が有ったと思います。 二等兵の主人公が毎日の訓練を終えて部屋に帰ると、腰痛を装って密かに除隊を計ってる古参兵が外出出来ないストレスを発散させるため、主人公をいじめる方法として「汽車遊び」があったと思います。 バケツを車輪に箒をクランクというのか水平のバーに見立てて蒸気機関車とし長時間やらせた。
 「重爆撃機遊び」は記憶にありません。『遠い接近』の一読をお勧めします。赤紙発行が軍でなく役場の兵事係が人選しており、袖の下を使うことで不公平があり、戦後それに復讐するストーリーでした。役立たずですみません。


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1578 Re ゴメンナサイ!
 イジメの方法、イロイロと知ってますが、やられたことは御座いますが、やったことは御座いません。便所の中で、首を釣った気の弱いヤツも居たそうです。
 「私的制裁厳禁」と言う「命令」が出たことが在ると、ウッスラ記憶が御座いますが、その後も続きました。
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1579 ありがとうございます
 実は、私も少し調べてみようと思い、近くの古本屋に出掛けて、『季刊現代史』第4号「特集 現代史のなかの兵士像」というものを購入しました。そこに、「戦争中の初年兵日記」というものがあり、「ミンミンぜみ(柱にのぼってミーン・ミーンと鳴く)、自転車(机と机の間に入り両腕で身を支え空中でペダル踏み)、うぐいすの谷渡り(寝台の下を渡り歩きホーホケキョと啼く)、おいらん(銃架をのぞき穴にみたててチョイと寄ってらっしゃいよとやる)などたくさんの種類がある」とありました。
 M様が教えてくださったのは、このなかの「うぐいすの谷渡り」に該当するのだろうと思いました。それでも、「汽車遊び」や「重爆撃機遊び」はなかったので、T様のご指摘はありがたく思えました。感謝致します。早速、松本清張『遠い接近』を探して読んでみたいと思います。

 もしかしたら、私の質問で、私的制裁のことを思いだされて、不快な気持ちになられた方がいらっしゃるのではないかとおそれています。もし、そうであればお詫び致します。みなさん、ありがとうございました。


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1580 Re 本について
 軍隊の私的制裁をお調べのようですが、私は19歳徴兵2年目で敗戦の年の7月1日入営、8月15日敗戦9月27日召集解除、即日現場復帰でしたし、入営した旭川連隊の所属中隊長が「私的制裁禁止」の命令を徹底して実行させていましたから、直接には経験がないので、他の方の報告を期待していましたが、無いようですから隣の中隊で実行されていた私的制裁について少しだけお話ししましょう。
 私的制裁は、娑婆っ気を早急に払拭するために行うと言っていますが、実際には古年需兵の鬱憤はらしや俺も新兵の時やられたんだからと言う姑の嫁いびりに似た順送りが主原因だと思われます。人間、意地悪をするときには知恵がわくもので、ありとあらゆる事を上官の命令=天皇陛下の命令として、強制されました。

 対象者は新兵の内でも、公務員、教員、警察官、看守、鉄道員など民間で指導的な職業の者がねらい打ちにされました。どなたかが言われていましたように、トイレで首をつる兵もでました。多分私の中隊で禁止が厳命されたのは近い過去で自殺者が続発したのではないかと思われます。または私の中隊の新兵さんは、幹部候補生要員ばかりだったため前もって隊長が手を打ったのかも知れません。

 私の知っているいじめの名称は「鶯の谷渡り」「ミイミイ蝉」「申告各班周り」などです。内容は「鶯の谷渡り」は、各班にはベッドが10台ずつぐらい向かい合わせに計20台ぐらいが置いてありますが、これを山と谷に見立て鶯は小さいんだぞと怒鳴り新兵に蹲踞(ツクバイ)の姿勢をとらせて、山と見立てたベッドに上がらせては「ホーホケキョー」谷に降りては「ホーホケキョー」と際限もなく続けさせるのです。見物人はニタニタ笑い、「元気がないぞ」「姿勢が高い」「なんだ本当に泣いているのか、鶯だ、鶯だ馬鹿野郎」こんな調子です。

 新兵は誇りも、名誉も奪われ、漸く生きている動物またはそれ以下に変質させられるのです。「ミイミイ蝉」は内務班の柱にしがみついて「ミイミイ」と鳴かせるんですが足が床についてはいけません。これも体に相当応えます。「申告各班周り」は、関係のないことを各班で申告して回るんですから各班の班長・古兵は「ああ始まったな」と直感しいろいろ文句をつけやり直しを繰り返させ、または、新たな遊びを強制して笑い者にします。以上、ご注文のいじめは解説できませんでしたが参考にしてください。

さて、『戦中用語集』ですが、眼をとおしていました。そこに「私的制裁」の項があって期待したのですが、掲載されていませんでした。また、他には、北村恒信 『「戦前・戦中」用語ものしり物語』(光人社)も見たのですが載っていませんでした。そこで、このメーリングリストで聞こうと思ったのです。宜しくお願いします。

 人は過ぎ去った悪事(人権蹂躙)の軌跡を明らかにしたがらないものです。敵の捕虜を医学実験の材料にしたとか。首を何人切ったとか。毒ガスの実験にガス室に入れ殺してしまったとか。アジア諸国の人々に言いしれぬ罪悪を重ねていますが、今となっては(その方々はもう80代かその直前です)口をつぐんでしまわれる方が大多数ではないでしょうか。

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1586 感謝とお願い
 私のぶしつけな質問に丁寧にお答えいただきありがとうございました。あの後、日本近現代史の先生から(−ここではK先生としておきます)、近現代史編纂会編『陸軍部隊戦史』(新人物往来社)を紹介していただき、そのなかの「兵営と兵隊」の項で、私的制裁の状況(ビンタ、給水塔まわり、バケツ上げ、銃口のぞき、食事抜き、食缶かぶり、自転車乗り、せみ、ウグイスの谷渡り、女郎屋など)が記してあり、だいぶわかったような気がしてきました。
 ですが、KI様からのメールを読んで、臨場感あふれる記述には、その本の説明もかなわないように感じました。知識とは異なるリアルさというのを感じました。
 やはり、K先生ですが、この間、日高六郎氏の文章を紹介してくれました。それには、体験者の方の感覚が、知識と思想に活力のある息吹を吹き込むとして、

「その独特の感覚とは、第一には、一つの時代を支配している、全体的な雰囲気、第二には、その時代のなかで(同時にその時代のなかの「私」のなかで)生起した、ときには重要な、ときには平凡なディテール(こまごましたことがら)についての感覚である。この全体性とディテールの感覚を持っているということは、体験者の特権である」
 というものでした。 KI様のメールにそのことを強く感じました。ありがとうございました。そして、もう一つ、知りたいことがあります。
 それは、戦場と読書のことです。『きけ わだつみのこえ』を読んでいると竹田喜義さんという方の文章に、文字、活字に飢えて、「メンソレータムの効能書を裏表丁寧に読み返した」というシーンがでてきます。とても心に残るところなのですが、どこかで、本を持って戦場に行ったというのを見た気もします。
 あ、そうです。これもK先生が紹介してくれた宮柊二の「文庫本 万葉集を 秘めてきぬ 装具はづして背嚢をさぐる」という歌です。これ以外にも戦場に万葉集を持っていったというのを紹介してもらったような気がします。たぶん、いろんなケースがあって一律ではないと思うのですが、本を持っていったりしたのでしょうか。そして、本を読む時間をとることはできたのでしょうか。お教えいただければと思います。


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1587 兵隊いじめ
 わたしが陸軍に徴集されたのは戦争末期で、内地の防衛にあたっていたのですが、もう2〜3年早く生まれていましたら、どうなっていたか知れません。MLで兵隊いじめが話題になっていますので、横レスで失礼ですが、いじめにあった新兵(初年兵)のわたしの体験談を、回顧録から抜粋してご披露します。ただし、兵営に居住でなく国民学校(小学校)が兵舎に使われていました。
 夕食後は、自由時間で身の回りを整理したり、雑談したりの憩いのひと時であるが、きまって頃合を見図らって初年兵整列がかかる。「今日の訓練のザマはなんだ」「それでも帝国軍人か」と鉄拳制裁が始まる。反抗的な目付きをしょうものなら、突き飛ばす、足で蹴りつける。暴行は消灯前の点呼まで続く。隣でも始まったらしく怒号が聞こえてくると、下田班長は後を三年兵にまかせて、隣へ殴りに出かけてゆく。「貴様ら班長殿に申し訳ないと思わんか」と下田の悪の声がしてくる。隣の班長も迷惑なことである。

 ある晩、T上等兵から「伍長殿のお呼びだ」といわれて、下士官室へ行った。「俺は知らんぞ」と言われて急いで戻ったら、鉄拳制裁中。列に加えられ、したたか殴られた。「せっかく出してやったのに、飛んで帰ってくるとは、しようがない奴だ」と翌朝、上等兵に言われた。

 新兵いじめには、古兵にとって楽しめる伝統的なメニューがある。寝台の上を乗り越え、次の寝台の下をくぐり抜け、上下上下を繰り返しながら、休みなくホーホケキョと鳴かせる「鶯の谷渡り」。柱に滑り落ちないように抱きつかせ、ミーンミーンと鳴かせる「蝉」、「今年の蝉は鳴きが悪いなあ」とからかう。

 もっとも広く知られているお仕置きは、銃の手入れ不良に課せられる「三八式歩兵銃殿」。銃を面前に捧げて、両腕を前に突き出す。そのままの姿勢で「三八式歩兵銃殿。このたび、わたくしは、あなた様に、まことに申し訳ないことをいたしました。今後絶対に絶対に大切にいたしますので、どうかお許し下さい」と唱えさせる。「許すと返事があったか」「返事はないであります」「返事があるまでお詫びしろ」「はいっ、返事がありました」「ばかっ、銃がしゃべるか」といびられる。腕がしびれてきて骨身にこたえる。


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5762 差別とは
 兵隊の差別問題は私には難しい問題ですね、階級制度は絶対服従で、天皇の代理だと言っていました、しかし、戦地の最後になると階級での差別より、戦友としての親密な関係になっていました。其のあらましを「青春兵系譜」に記しています。お暇な時にご一読お願い致します。YH
戦前戦後変転の人生であった「青春兵系譜」

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8045 迫撃砲
 ご存知のように、米軍基地に迫撃砲弾が撃ち込まれ20名以上が亡くなったようです.驚いたのは、呆然と佇む兵、抱擁しあう兵、死者の傍らで泣く兵・・・ストライカー旅団、米陸軍の精鋭部隊をはじめ兵士としてたたき上げの訓練を受けた大人の職業軍人たちがこんなになるほど迫撃砲弾が恐ろしいものなのだとしたら、はるかに強力な砲弾が頭上に降り注いでいる全く無防備なイラクの市民、老人や女性や子供たちの恐怖はいかばかりなものなのか・・・
 米国防長官が戦死者の遺族に宛てておくる報せに手書きのサインをするのが当然なのに、サインまで印刷したものを送っていたため、激しいブーイングが起こっているそうです。よく送られてくるダイレクトメールと同じやり方ですね.アメリカでも兵士の命などというものは二束三文の安売り商品みたいなものなのでしょうか・・・YM


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8046 Re 迫撃砲
 このニュースを聞いて、一昨日ご紹介しました次の短歌を思い出しました。
 「遺骨なき箱より夫の名を記す一片(ひとひら)の紙わが膝に落つ」 どこの国でも、軍隊は非情なものですが、当時の大日本帝国では、ブーイングなどは考えも及ばないことでした。

アメリカでも兵士の命などというものは二束三文の安売り商品みたいなものなのでしょうか・・・

 今度は俳句をひとつ。「第12回伊藤園:お〜いお茶新俳句大賞」で、大賞を受賞した作です。N
 「一銭五厘のいのちながらえ雪と住む」北海道 早川たけお 77歳
作者より
昭和十九年私は、満州で三等兵として馬の世話を任務としていました。ある時、馬の世話をしている私たちに向かって上官が「おまえたちは一銭五厘※で買えるが馬は買えない。だから大事に面倒をみろ」といわれました。そのことを思い出して作りました。※戦時中は、出兵の通知をする「赤紙」の郵送料が一銭五厘であった。
選評
戦争時代の召集令状は赤紙と称し、一銭五厘のハガキだった。容赦もなく、戦場に駆り立てられた負の時代。運よく帰還できて故郷に帰れても、きびしい雪の環境が待っている。その中でいのちながらえ生きてきた作者の生命力と勇気を讃えたい。
「第12回伊藤園:お〜いお茶新俳句大賞」

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8047 Re 迫撃砲
 質問なのですが、「三等兵」とは、どのような意味なのでしょうか。何を比喩しているのか良くわからないのですが・・・。
 それから、「赤紙の郵送料が一銭五厘」とありますが、公用郵便だったら切手の貼付はなく、普通の切手貼りでも葉書なら、二銭か三銭(どちらも乃木大将図案)であるはずなのですが・・・。Wa
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8049 Re 迫撃砲
 昔のことをよくご存知ですね。なかなか鋭い質問です。

質問なのですが、「三等兵」とは、どのような意味なのでしょうか。何を比喩しているのか良くわからないのですが・・・。

 確かに昔の陸軍の階級の最下級は二等兵ですから、「三等兵」というのはありませんでした。作者が自らを三等兵と言われているのは、一番下っ端の兵士としていわば自嘲的に言っておられるものと思います。

それから、「赤紙の郵送料が一銭五厘」とありますが、公用郵便だったら切手の貼付はなく、普通の切手貼りでも葉書なら、二銭か三銭 ( どちらも乃木大将図案 ) であるはずなのですが・・・。

 おっしゃるとおりです。赤紙(召集令状)は、郵送でなく、役場から各家庭に届けられて、手渡しされたといわれています。またはがき代が一銭五厘だったのは1937年3月以前で、戦時中は2銭でした。この俳句の選者も戦後生まれなのか、間違った選評を書いていますが、それが「兵士の命は軽視されていた」という趣旨にとくに関連するものではないので、あえて注釈を付け加えませんでした。 ただ当時の軍隊では、兵士は「一銭五厘の消耗品」といわれていたのは間違いないと思います。徴兵制度の下では、はがき1枚で簡単に兵士が集められるということを比喩的に、あるいは自嘲的にいったもので、おそらく1937年以前からいわれていたものでしょう。例えば次の HP をご覧ください。

命の値段

 私は兵役の経験がありませんので、伝聞によるお答えしかできません。実際に兵役に服された方から、修正や補足をお願できれば幸いです。N
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8050 一銭五厘の旗
 “一銭五厘”について、今度はひとつの詩をご紹介しましょう。雑誌「暮らしの手帖」の編集者だった花森安治が敗戦後間もなく書いた「見よぼくら一銭五厘の旗」の一部です。N

軍隊というところは ものごとを おそろしく はっきりさせるところだ
星一つの二等兵のころ 教育掛りの軍曹が 突如として どなった
貴様らの代りは 一銭五厘で来る 軍馬は そうはいかんぞ
聞いたとたん あっ気にとられた しばらくして むらむらと腹が立った
そのころ 葉書は一銭五厘だった
兵隊は 一銭五厘の葉書で いくらでも召集できる という意味だった
(じっさいには一銭五厘もかからなかったが……)
しかし いくら腹が立っても どうすることもできなかった
そうか ぼくらは一銭五厘かそうだったのか
〈草莽(そうもう)の臣〉〈陛下の赤子(せきし)〉〈醜(しこ)の御楯(みたて)〉

つまりは〈一銭五厘〉ということだったのか
そういえば どなっている軍曹も 一銭五厘なのだ
一銭五厘が 一銭五厘をどなったり なぐったりしている
もちろん この一銭五厘は この軍曹の発明ではない
軍隊というところは 北海道の部隊も鹿児島の部隊も

おなじ冗談を おなじアクセントで 言い合っているところだ
星二つの一等兵になって前線へ送りだされたら
着いたその日に 聞かされたのが きさまら一銭五厘 だった
陸軍病院へ入ったら こんどは各国おくになまりの一銭五厘を聞かされた
考えてみれば すこしまえまで貴様ら虫けらめ だった

寄らしむべし知らしむべからず だった
しぼれば しぼるほど出る だった
明治ご一新になって それがそう簡単に変わるわけはなかった
大正になったからといって それがそう簡単に変わるわけはなかった
富山の一銭五厘の女房どもが むしろ旗を立てて 米騒動に火をつけ

神戸の川崎造船所の一銭五厘が同盟罷業をやって
馬に乗った一銭五厘のサーベルに蹴散らされた
昭和になった だからといって それがそう簡単に変わるわけはないだろう
満洲事変 支那事変 大東亜戦争 貴様らの代りは 一銭五厘で来るぞ と
どなられながら 一銭五厘は戦場をくたくたになって歩いた

へとへとになって眠った 一銭五厘は 死んだ
一銭五厘はけがをした 片わになった 一銭五厘をべつの名で言ってみようか
<庶民> ぼくらだ 君らだ

全文は:見よぼくら一銭五厘の旗

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8051 赤紙
 1銭5厘で召集はしなかった。幾ら軍国主義の日本でも天皇の赤子と謂われる国民を葉書一枚で召集する程落ちてはいなかった。役場を通じて本籍地の本人か家人に召集令状を届けて、受領印までとっていた。令状を届けるのは役場吏員か或いは定められている人だった。嫌な役目ですね。これより辛かったのは戦死公報を通知する役目の人でした。
 また、誰が召集令状を発行するかが問題です。村役場に勤めていた老兵事係に尋ねたところ、口を濁しながらも役場から提出した資料によって各地方にある連隊区司令部で指名し、警察を通じて村役場に通知されたと話しました。
 この辺の経緯は「赤紙、男たちはこうして戦場へおくられた」と言う本に詳しく書いてあります。著者:小沢真人 NHK取材班 創元社発行
また赤紙の見本は私のHP「軍隊まんだら」にあります。http://www2.ocn.ne.jp/~sukagawsa(Not Found)

 兵事係がまた作られてからでは遅いのです、年寄りもさることながら、若い人達に不再戦の決意をしつかりと持って貰いたいものです。余生老人


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8052 Re 一銭五厘の旗
 手元にある「日本陸海軍事典」から転載します。
「一銭五厘」
 動員召集は役場の兵事係員が、被召集の本人や家族に充員召集令状(赤紙)を手渡し受領印をもらうことで行われた。本人が不在の場合、令状を受け取った家族が転居先の本人にハガキ連絡をすることもあり、当時のハガキの値段が一銭五厘であったため召集令状の代名詞ともなった。徴兵制で兵隊が容易に動員できたことから「お前らは一銭五厘で簡単に集められるが、軍馬や軍用犬は、そうはいかない」など自嘲的に使われることもあった。ハガキは一九三七年(昭和一二)に二銭に値上がりしたので、それ以前に作られた話であろう。(寺田 近雄)JH

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8054 Re 赤紙
 早速に召集令状の実態をご説明いただき、ありがとうございました。いくらプライバシーを軽視した時代でも、召集令状をはがきで寄越すなどということは考えられませんね。

また、誰が召集令状を発行するかが問題です。村役場に勤めていた老兵事係に尋ねたところ、口を濁しながらも役場から提出した資料によって各地方にある連隊区司令部で指名し、警察を通じて村役場に通知されたと話しました。

 「歌集八月十五日」に次のような歌がありました。
「父を殺しに来た男」
 月青き阿弥陀山越え来たるらし幼きわれもよく知れる人
 庭に立ち造林鎌を光らせて父を殺すと音声(おんじょう)はいう
 戦場に息子送れる仇としてわが父を今夜殺さんという
 兵事課に勤めたる父終戦の間もなく他人に恨まるるなり
                        下南 拓夫
兵事係がまた作られてからでは遅いのです、年寄りもさることながら、若い人達に不再戦の決意をしつかりと持って貰いたいものです。

 同感です。孫や曾孫のために、「貴様らの代りは50円で来る」などという時代は来て欲しくないものですね。N
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13046 兵士の自殺 N
 前にもご紹介しました、海軍兵学校出身の牧師・宗像基さんが、機関紙「バベル」の最新号で、イラク帰りの自衛隊員の自殺に関連し、兵士の自殺について書いておられます。
わたしの時代、旧海軍兵学校でも、軍艦でも私的制裁はひどかった。「上官の命令は朕の命令」という絶対服従の掟があったし、私的制裁も教育の手段として認められていたから、兵学校では私も散々にやられ、またやってきたことを告白する。軽巡洋艦木曽に乗ってからは、将校として直接手を下すことはなかったが、下士官のひどい水兵いじめを黙認していた。映画「男たちの大和」にもその一場面があり、たまりかねて抵抗する場面も出てくるが、もうすぐ全艦沈没というパニック状況の中ではあったかもしれないが、およそ下級兵からの抵抗などは考えられなかったのだ。あの恐ろしい天皇制の呪縛が全軍を支配していたのだ。
それでも我慢のできない水兵が艦を道連れに自殺をするということもあったらしい。わたしが兵学校に在学中に瀬戸内海の柱島で戦艦陸奥が自沈をしたが、我々の間ではひそかにある水兵の道連れ自爆らしいとささやかれていたものだ。  自殺

戦艦陸奥の自沈は水兵が犯人らしいというのは、戦後になって聞きましたが、すでに海軍部内ではささやかれていたのですね。1,121名もの将兵がが犠牲になった戦艦陸奥の自沈については、下記サイトをご覧ください。
「陸奥記念館 戦艦『陸奥』 東和町」

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コメント
1. 2020年1月26日 20:38:07 : iVr50UMOVg : bWs2eHp1WHNieXc=[1] 報告
軍隊こそ日本人の本質がわかるものはない。
日本人は自分より立場の弱いもの、殺しても復讐されない弱者とにかく自分より弱いと思ったら、残酷にいじめる
しかも執拗にいびるのである

こんな日本人が団結して、デモをして、悪政を打ち倒すことなど夢のまた夢だろう

日本人はバラバラな民族で、身勝手。
奴隷民族そのものなのである

2. 2020年1月31日 06:06:28 : PkylWmq2gR : bEEwNGxpdDhtVHM=[2] 報告
戦後、その行為は極悪非道だった。ということばかりが伝えられる日本の帝国陸軍・海軍ですが、戦後、長らく封印され続けていた真実が、元海上自衛隊士官を務めた惠先生の取材によって浮かび上がりました。

1942年、インドネシアのスラバヤ沖… 日本軍の攻撃により、イギリスの駆逐艦:「エンカウンター」が撃沈。422名のイギリス兵が絶望の中漂っていたところ、偶然通りかかったのが、日本軍の「雷」だった。敵兵を見つけた艦長・工藤が下した決断は異例の「全員救助」。 死の淵から生還したあるイギリス人兵士は、「あの日以来、1日としてあなたのことを忘れた日はない…」そう言って、工藤との思い出を語り始めた…

世界の海軍の中でも歴史に残る偉業を、ほとんどの日本人は知らない一方、、イギリス・アメリカでは軍人の間で語り継がれる伝説となっています… そんな、世界で賞賛され、崇められている日本の”武士道精神”の美しさを知ることで、きっとあなたの中にも流れている、強き日本人の血が目覚めることでしょう。

3. 2020年1月31日 06:30:46 : PkylWmq2gR : bEEwNGxpdDhtVHM=[3] 報告
この話は事実。。。

スラバヤ沖海戦での敵兵救助作業
http://www.naniwa-navy.com/senki-surabayaoki-kudou.html

「いかづち「雷」 (吹雪型駆逐艦)」は第六駆逐隊に属し、日米開戦時には香港の海上封鎖任務に就いていた。その後、南方の諸作戦に参加した。1942年、スラバヤ沖海戦の掃討戦において撃沈された英海軍重巡「エクセター」の乗組員376名を3月1日に僚艦いなづま「電」が救助した。「雷」は翌3月2日、英駆逐艦「エンカウンター」等の乗組員422名を救助し、翌日、パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に捕虜を引き渡した。その後、「雷」はフィリピン部隊に編入され、さらに第一艦隊に編入し内地帰還を命ぜられた。5月には第五艦隊の指揮下に入り、アッツ・キスカ攻略作戦に参加した。

工藤は1942年8月に駆逐艦「響」艦長に就任、11月に海軍中佐に進級した。「響」は改装空母「大鷹」を護衛し、横須賀とトラック島間を三往復し、12月に工藤は海軍施設本部部員、横須賀鎮守府総務部第一課勤務、翌年には海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられた。1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となった。

戦後、工藤は故郷で過ごしていたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移った。1979年に胃癌のため死去。生前は上記の 事実は家族にも話さなかった。これは雷がその後戦没しており多くの乗組員が犠牲になっており自戒の念から家族にも話さなかった。遺族がこの話を聞いたのは助けられた元イギリス海軍士官からである。

臨終前にクラスの大井篤が駆けつけたが、大井に「貴様はよろしくやっているみたいだな。俺は独活の大木だったよ」と答え、その後息を引き取ったという。

4. 2020年1月31日 06:50:12 : PkylWmq2gR : bEEwNGxpdDhtVHM=[4] 報告

【 朝日新聞が戦前から戦争をするように日本国民を煽っていた事を知らないの!? 】

スラバヤ沖海戦での敵兵救助作業
http://www.naniwa-navy.com/senki-surabayaoki-kudou.html

戦時中に、こんな事ができる国は日本以外には無い。
軍隊こそ日本人の本質がわかるものはない。。。とは本当だ。
この話は特亜3国人がやるような捏造話ではなく、事実なのだ。
しかも、【 雷 】の艦長・工藤氏は公言もせずに亡くなった。

工藤氏の遺族が【 スラバヤ沖海戦での敵兵救助作業 】を聞いたのは、
なんと…!助けられた元イギリス海軍士官からであった。
たとえ特亜3国人が、逆立ちをしても真似出来ないような救出劇。
これのすべての源は何か? それは武士道からだったのだ。

特亜3国人は死んでも理解できない、日本古来の【 武士道 】。
昔の日本人には、素晴らしい人が沢山いた。
今の日本人には、変なのが大勢紛れ込んで、もうわけがわからない。
実に、嘆かわしい事だ…。

日本人以外は、特に特亜3国人は、自分より立場の弱いもの、
殺しても復讐されない弱者とにかく自分より弱いと思ったら、
残酷にいじめる。しかも執拗にいびるのである。
こんな特亜3国人が団結して、デモをして、
悪政を打ち倒すことなど夢のまた夢だろう。

特亜3国人はバラバラな民族で、身勝手。
奴隷民族そのものなのである。。。

5. 2020年1月31日 06:58:25 : PkylWmq2gR : bEEwNGxpdDhtVHM=[5] 報告

出典 http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/05/12/20060512000006.html

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 韓国空軍の常軌逸した虐待・拷問例---(朝鮮日報)

 目の周りに軟膏を塗る、戦闘服の上からホッチキスで太ももを刺す、椅子に座らせ箒の柄を太ももの間に挟んでねじる、鼻の下に鼻水のように歯磨き粉を塗る…

 先月、後輩兵士に対する「電気拷問」などで拘束された空軍防空砲隊所属のキム某兵長ら2人に対する軍当局の調査の結果、追加で明らかになった拷問・虐待の数々だ。

 空軍本部検察部によると、加害兵士らは2月20日から4月12日まで被害者のユ某一等兵にギャグ日誌を作成するよう強制し、これを面白く再現できなかったとして220ボルトの電流が流れる電線を7回に渡り手の甲などに接触させたほか、1.5リットルのペットボトルに入った水を無理やり飲ませるなどの行為をした。

 また、鉄の定規で太ももを殴ったほか、両手を縛った状態でキャスター付の椅子に座らせ、後ろから押したり、テコンドーの真似をしながら、頭、尻、腕、足などを殴るなどの行為もしていたことが分かった。

 空軍の関係者は「テレビのコメディー番組やCMの真似をしながら後輩兵士たちをいじめていたようだ」と話した。

朝鮮日報

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[私の意見]
 このような話、年配の方々にはどこかで見聞きした記憶があると思いますが、最近の若い「ミリタリーゲームマニア」の方々と「ゲオ・ポリティクス」偏愛ファンの皆様にプレゼントいたします。
 太平洋戦争中の日本軍内部での「虐待」の話は昔は知らない人などいない事実だったのに今のネット○○の方々は戦争映画の米軍のように相思相愛の人間関係で結ばれたカッコイイドラマのように考えていらっしゃるのでは・・・・

 しかし、朝鮮日報のこれが「常軌逸した虐待・拷問」とする朝鮮日報の報道ぶり見ると常軌を脱しない虐待や拷問があると言う事になりますね・・・・
 徴兵制が長期に渡って続き、実際に戦争が起きれば「死」に直面する実感のある、彼の国とニポンでは軍隊や戦争に対する「感覚」は全く違っていると思いますが、ある程度軍隊はそう言うところがあると言うことなんでしちょうね・・・きっと

 これは驚くべきことと思いますが、そこら辺のところ分かっとるんかな・・・

 まあ、自分は大丈夫、ニポンには徴兵制なんかないとタカをくくってるとは思いたくないですけどね。

 戦争賛美的な強行な議論、おおいに結構だけど、テレビドラマや書籍しか知らないオタク扱いされないようお祈り申し上げます。

 余談ですが、そこらへんの威勢のいい○○のお兄様方に申し添えますが、徴兵制の彼の国の方々と間違ってもストリートでカッコウつけて喧嘩などしないこと。
 本気で怒らした間違いなく殺されますよ。だって軍隊で人殺しのための訓練を受けてるんですから・・・・・・
 

6. 2020年1月31日 07:13:13 : PkylWmq2gR : bEEwNGxpdDhtVHM=[6] 報告
日本軍に入った朝鮮半島人が、日本軍の軍服を着て、日本人のフリをして、
各地で強姦・強盗をするので、日本軍にとっては本当に頭痛の種だった。

今現在でも、韓国の芸能人が、韓国のテレビで、堂々と言っているの知ってる?
「悪い事をする時は日本人のフリをする。」
「悪い事をしたら、“すみません” と日本語であやまる。」
すると、会場にいた韓国人の観客は大歓声で大喜び!
コレは、かなり有名なYouTube動画だと思うんだけど、知らないのかね?

辛ナントカって言う女も、本に書いてたな。
辛ナントカが子供の頃、悪い事をする時は日本人のフリをするって。

朝鮮半島人と言うか、特亜3国人は、みんなこんなのが多いんだよ。
日本人にはとても真似できないけどね。

特亜3国人は、特亜3国人がやった残虐な事を、日本人がやったと
デマカセを言って、日本人に罪をなすりつけて逃げている。
コレ、今となっては、もう常識中の常識なんだけど、脆弱なお花畑の
日本人が騙されちゃって、洗脳されちゃって、もうどうにもならない。


7. しんのすけ99[3] grWC8YLMgreCr4JYglg 2020年2月11日 18:30:10 : A4AvZivHZs : WU95VlVYQVVmdmM=[893] 報告
辺見じゅん 男たちの大和 によると、戦艦大和内での上官による兵士たちへの虐めは それはもう酷かった
毎晩のように 「甲板整列」 と称して、海軍精神注入棒とやらでの制裁が日常化しちたそうな

特にこの本の中で語られている人物の中で、両足切断と言う重傷を負ってなお生き延びた 表千之助という
水兵の述懐にあるのは、両足を切断した直後の心境はなんと 「ああこれでもう兵隊にならなくて済む」
と、安堵したというのだそうだ 戦後は義足をつけて小学校教員となって務めたという人物だそうだ

この人物のみならず、一般兵士だった人たちの述懐に 必ず登場するのは 海軍で常態化していた虐め
鉄拳制裁から海軍精神注入棒による尻叩き 酷い時には金属棒つかったそうである

◆ お前らなんぞ、一銭五厘でいくらでも召集できるんだからな これが陸軍海軍共通の虐めのセリフの
 定番だったそうだ(一銭五厘とは 赤紙の当時の切手代だ) ◆

ちなみにこの 「男たちの大和」 は、百人以上の生き残り乗組員と 戦死者の遺族家族および遺族会と
日本全国の戦艦大和会の監修指導を受けて書かれた著作物であるから 嘘など絶対に書けないのである
おかしなこと書いたら即座に指摘を受ける そんな状況で書かれたものなのである。

8. しんのすけ99[4] grWC8YLMgreCr4JYglg 2020年2月15日 13:08:26 : A4AvZivHZs : WU95VlVYQVVmdmM=[894] 報告
そして ネトウヨ連中は必至で喧伝するが、あの軍国体制の中にだって清廉で称えられた人物は確かにいたが
(※>>2>>4で 懸命に称えている工藤艦長もその一人で、立派な人物であったことは否定しないが)
それはあくまでも【個人的なもの】でしかなく、あの国家体制全体が立派だと称えられるわけではない
むしろ碁に例えれば、 周りが黒ばっかりだからこそ ほんの僅かな白い石は光り輝くとも言える訳で
あの軍国体制下では酷い人間が多かったからこそ、立派な人間は一層際立って称賛されるという皮肉さです

◆ 例えるならば、旧陸軍で最高の名将と称えられる 今村均 陸軍大将がその代表的

日米開戦時の指揮官で 唯一 連合国が極刑に出来なかった人物 旧日本軍にしては珍しく民主的で
稀にみるほどの善政を敷き 戦後 ジャワ島の現地住民や米兵捕虜から
感謝と称賛を浴び 戦後の軍事裁判において擁護弁護する声が 余りにも多くて、ほとんど微罪になるも
自分から進んで収容所に舞い戻り 部下たちと一緒に収監される道を選ぶという人物だったそうな

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%91%E5%9D%87

だがしかし 陸軍中央は この今村将軍の善政を 完全に否定している、今村将軍をラバウルに転出させ
今村がジャワ島を去った後は、陸軍お得意の圧政を復活させているのだ 

↓↓↓

しかし政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり、1942年(昭和17年)3月には今村とは親しい仲である参謀総長・杉山元が直々にバタビアに出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足しており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判がとにかく多いから注意したまえ」と軽く叱責している[7]。また、陸軍省軍務局長の武藤章、人事局長の富永恭次も今村に対し、ジャワ島でもシンガポール同様に強圧的な政策に転換するよう求めたが、今村は陸軍が布告した『占領地統治要綱』から「公正な威徳で民衆を悦服させ」という一節をひいて、要綱を改正する前に自分を免職するよう求め、軍政の方針を変えることに抵抗した。

↑↑↑

要するに 今村均陸軍大将の敷いた 稀に見る善政はあくまでも 【今村の個人的な功績】でしかない事
国家としての功績では 絶対にないという事 個人的には称賛される行動をとっても、それは中央に
逆らっての行動であるから 個人的な功績にしかならない事 これは 安倍総理も必死で喧伝した
日本のシンドラーとも称される 杉原千畝についても まったく同じ構図が成り立つのである

↓↓↓

のちのインタビューで、バルハフティクはこう語っている[163]。

実際には、日本政府の許可なしであったことを私たちが知ったのは、1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である。杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている。杉原氏の免官は疑問である。日本政府がすばらしい方に対して何もしていないことに疑問を感じる。賞を出していないのはおかしい。表彰していないのは残念である。杉原氏を支持している方は多くいるが、私は20年前から、日本政府は正式な形で杉原氏の名誉を回復すべきだといっている。しかし日本政府は何もしていない。大変残念なことである。
— 1998年5月25日のエルサレム郊外でのインタビュー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D


結局 今村均も 杉原千畝も 国家中枢の方針に逆らっての行動であるから、称賛されても個人の功績で
国家としての功績には 全くならない訳である むしろ 今村も杉原も あの時代にしては珍しく民主的で
人権人命を尊重する人物だったから称えられるわけで、現代の日本だったら何も珍しくはないのである。


逆に言うなら それほど 昔の軍国日本が酷かったという証しに他ならない。

9. しんのすけ99[10] grWC8YLMgreCr4JYglg 2020年2月17日 13:21:31 : A4AvZivHZs : WU95VlVYQVVmdmM=[900] 報告
更に あの軍国日本がいかに酷かったかの実例は 美談として称えられる話は ほんの数える程度だが
虐殺や非人道的行為を伝える話は、それこそ有象無象に 掃いて捨てるほど存在するのである
その中でも 私が聞いた話で もっとも酷い、吐き気をもよおすと言っても過言のない話は 沖縄久米島の
日本軍による住民虐殺事件だろう

久米島守備隊住民虐殺事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E5%B3%B6%E5%AE%88%E5%82%99%E9%9A%8A%E4%BD%8F%E6%B0%91%E8%99%90%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

↑ この話は 戦後、張本人とされる鹿山正が 自ら虐殺を認めているのだから 議論の余地すらない

↓ さらに、ネトウヨの巣窟とされる5ちゃん(旧2ちゃん)ですらこの非難轟轟の有り体である

【悲報】日本軍人「沖縄人を殺して何が悪い?良心の呵責もない。ワシは日本軍人として誇りを持ってる」
https://fox.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1431373714/

褒め称えられる話が、今村均や杉原千畝 工藤艦長など ホントに片手で数える程度しか存在しないのに
酷い話だったら無数にあるので もう洪水のように溢れており、それこそ挙げればきりがない

なので、代表的なリンクを貼っておきます このサイトなら確かなソースを示して軍国日本の悪行を
大部分 網羅しておりますから(すべて読むには一週間ほど掛るでしょうが^^;)
↓↓↓

真実を知りたい-NO2
https://blog.goo.ne.jp/yshide2004

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