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大室寅之祐 明治天皇の誕生 (2)  投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日
http://www.asyura2.com/0601/revival1/msg/206.html
投稿者 愚民党 日時 2006 年 9 月 16 日 08:12:08: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 大室寅之祐 明治天皇の誕生 (1)  投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日 投稿者 愚民党 日時 2006 年 9 月 16 日 08:08:17)

http://www.asyura2.com/2002/dispute4/msg/103.html


Re: 日本人はなぜ駄目か 投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日 01:26:38:

(回答先: 日本人はなぜ駄目か 投稿者 デスラー総統 日時 2002 年 11 月 07 日 23:07:30)


昨日みなさんに読んでもらおうと天皇関係の資料を3つほど投稿しましたが、消えてしまったようなので再投稿します。


京都明治天皇(朝日新聞に掲載)
http://www.geocities.com/meiji0066/
(025.jpgwをクイック)


東京明治天皇(大室寅之祐)
http://photobank.mainichi.co.jp/Thumbnails//r!s-z-/r!lk-/biby-//m.jpg


世に「孝明天皇暗殺」と呼ばれる「疑惑」が語られてきました。幕末の激動の中、倒幕・佐幕両派の抗争の中で、岩倉具視と長州志士等によって、刺殺されたとも毒殺されたとも言われています。殺害方法がいずれの方法だったとしても、孝明天皇が暗殺された事は、紛れもない「事実」と考えていいのではないでしょうか? その根拠として、


1.孝明天皇は、徳川14代将軍・家茂(いえもち)を信任していた。つまり孝明天皇は、徳川将軍家との協調を本位に考える「公武合体・佐幕派」であった。
2.孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・松平容保(かたもり)が当たった。そして、この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、維新後、「逆賊」とされてしまった徳川将軍家も会津松平家も、孝明天皇にとっては「忠臣」であった。
3.薩長土肥の志士達が、時代の流れに合わせて「開国維新」を目指したのに対し、孝明天皇は時代の流れをつかめず、相変わらず、「鎖国攘夷」に固執した。

岩倉具視や薩長土肥の開国・倒幕派にとって、孝明天皇は彼らの目標実現を阻む「敵」として映ったのではないでしょうか? だからこそ、孝明天皇は「暗殺」され、倒幕派により「幼君」(睦仁親王)が擁立されたのではないでしょうか? ちなみに、余談になりますが、孝明天皇の信任厚かった将軍・家茂も急死しました。この「家茂急死」も「暗殺」だったと言われています。そして、孝明天皇と将軍家茂とは皇女和宮を通して、「義兄弟」だったのです。


(120)仁孝天皇┬(121)孝明天皇─────(122)明治天皇(睦仁親王)
       └── 親子内親王(和宮)
            ┃
        (T14)徳川家茂━━━━━(T15)徳川慶喜

さて、本題に映ります。ずばり言いましょう。なんと、明治天皇も「暗殺」されていたと。では、なぜ、そう言えるのか? まずは、下の表を通して、「即位前」と「即位後」の「明治天皇」(正確には睦仁親王と言うべきですが・・・)を眺めてみて下さい。

即位前(睦仁親王時代)
1.睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。
2.元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。
3.睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。
4.睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、政務にも無関心であった。
5.即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。
6.睦仁親王(京都明治天皇)は、右利きだった。
御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され帝王学を学んでいた訳であり、当然躾(しつけ)も厳しかった。故に、左利きになる訳が無く、ひ弱で喩(たと)えは悪いが女癖も悪くは無く(育ちが良かったので)、右利きであった。
7.基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。
この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。(英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、開国倒幕派(薩長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。

即位後(明治天皇時代)
1.明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。
2.明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。
3.体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。
4.明治天皇は、書が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった。
5.明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。
6.明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。
左利きになったのは、寅之祐が4歳の時、母親が離婚した為で(『大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について』を参照の事)、母親が息子寅之祐にかまってあげられる余裕が無かった結果として、左利きとなった。又、維新後の天皇は良い言葉で言えば艶福家であった。
7.基本は「倒幕開国」(薩長派=目的実現の為には、「天皇暗殺」をも厭(いと)わない自称「勤皇派」) 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。
この場合、天皇=現人神の「御聖断」(攘夷放棄と開国承諾)により、日本の開国・近代化が実現。国策としての殖産興業・富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地位を獲得。


以上、即位前と即位後の明治天皇(睦仁親王)を比較してみましたが、誰が見ても、同一人物とは思えません。即位前、虚弱体質で臆病で字が下手で女官と遊んでいた「睦仁親王」と、即位後、相撲で相手を投げ飛ばす程の巨漢で字が上手く乗馬もこなした「明治天皇」。これらの事実から、「睦仁親王」と「明治天皇」が「別人」であったと考える方が、むしろ自然では無いでしょうか? これは一体どう言う事なのでしょうか? 考えられる事はただ一つ。つまり、睦仁親王とすり替わった「何者」かが、「明治天皇」として即位したと。そして、睦仁親王は父・孝明天皇同様、岩倉具視一派によって暗殺されたのだと。

では「明治天皇」として即位したのは、一体「何者」だったのでしょうか? その名前もちゃんと分かっているのです。彼の名は「大室寅之祐」(おおむろとらのすけ)。そして、その出自はと言うと、先祖は南朝初代の後醍醐天皇!! つまり、彼は「熊沢天皇」同様、南朝の末裔だっのです。


「三浦皇統家」記録明記の南朝系図

       ┌義良親王(後村上天皇)・・・・・・・・・・熊沢天皇
(96)後醍醐天皇┼尊良親王─(97)興国天皇─小室門院
       │              ┠──(99)松良天皇┬(100)大宝天皇
       └(98)宗良親王─興国天皇(小松天皇)      └光良親王・・・(173)大室寅之祐


つまり倒幕派は、頑迷で退廃的で「佐幕派」であった孝明天皇と、その皇子で虚弱体質で利用価値のない睦仁親王を暗殺し、長州に住んでいた南朝の末裔を擁立した訳です。これはある意味で、倒幕以上の意義を持ちます。つまり、「北朝」系の孝明天皇・睦仁親王に代わって、「南朝」系の明治天皇(大室寅之祐)が即位する。明治維新とは、実は「王朝交替」だった訳です。だからこそ、孝明天皇(北朝)の「忠臣」だった徳川将軍家や会津松平家が、明治天皇(南朝)にとっては「逆賊」となってしまったのです。


これを裏付ける「証拠」が「皇統譜」(皇室系図)に載っています。


     昭憲皇太后
       ┃
孝明天皇─明治天皇
       ┠──大正天皇
     柳原愛子

上の系図を見ての通り、明治天皇の正妻は「昭憲皇太后」です。この名前にキーワードが隠されているのです。天皇の后妃ならば、本来、「皇后」と付けるべきです。つまり、この場合、「昭憲皇后」と言う訳です。しかし、実際には「天皇の母」や「先帝の后妃」に付けられる「皇太后」の尊称が付けられています。更に、明治天皇の子・大正天皇の生母は典侍だった柳原愛子(なるこ)です。なぜ、明治天皇と昭憲皇太后の間に子供が出来なかったのでしょうか? 昭憲皇太后が子供を産めない体だったのでしょうか? 私は決してそうではなかったと思います。


孝明天皇─睦仁親王(本来の明治天皇)
       ┃
     昭憲皇太后

     明治天皇(大室寅之祐)
       ┠────────大正天皇
     柳原愛子


もし、上記の様に、昭憲皇太后が睦仁親王の正妻だったとしたらどうでしょう? 明治天皇(大室寅之祐)と昭憲皇太后との間に「関係」がなかったとしても、別段、不思議ではありません。むしろ、その方が自然ではないでしょうか? 自分の夫を暗殺され、更に夫の名前を語って即位した者に、体を預けるでしょうか? 現在よりも「女の操(みさお)」を大切にしていた時代の事、尚更です。昭憲皇太后は終生、御所内に「幽閉」されたも同然であったのではないでしょうか? 又、こう考える事で、初めて「皇太后」尊称の意味が通るのです。「明治天皇」にとって、短命だったとは言え、「睦仁親王」は孝明天皇より皇位を継承した「先帝」です。その先帝の妻だったからこそ、「皇太后」なのです。そして、柳原愛子こそが、明治天皇にとっての本来の「皇后」だった訳です。


しかし、明治新政府が「王朝交替」を秘匿した事、その王朝交替が、孝明天皇・睦仁親王父子「暗殺」と、明治天皇「すり替え」と言う姑息な手段によって実現した結果、日本最大の動乱−戊辰戦争を引き起こしてしまったのです。そして、戊辰戦争自体も「南北朝争乱」の一つの産物だったのです。


参考文献
裏切られた三人の天皇 明治維新の謎 (鹿島 f 新國民社)

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明治天皇の「皇后」(配偶者)であった一条美子(はるこ)皇后が何故、「昭憲皇后」では無く、本来「天皇の母」(又は先帝の皇后)を意味する「皇太后」 ── 「昭憲皇太后」の追号を贈られたのか? この辺りの事情について、明治神宮公式サイト内の『なぜ昭憲皇后ではなく、昭憲皇太后なのですか?』(URL:http://www.meijijingu.or.jp/intro/qa/31.htm)を以下に転載引用させて頂きます。

明治天皇さまのお后(きさき)さまなら「皇太后」でなく「皇后」とお呼びするのが正しいのではないかという考え方もございますが、実はこのいきさつについてはたいへん難しい問題があります。


昭憲さまは嘉永(かえい)3年(1850)4月17日(新暦5月28日)一条忠香(ただか)の三女として御誕生あそばされました。はじめ勝子(まさこ)、富貴君(ふきぎみ)、寿栄君(すえぎみ)などと呼ばれ、入内(じゅだい)※1後、美子(はるこ)と称されました。明治元年12月28日御入内まもなく皇后の宣下(せんげ)※2があり明治天皇さまのお后となられました。大正3年4月11日に崩御※3されています。同年5月9日に宮内省告示第九号により「昭憲皇太后」のご追号が仰せ出されたのでした。そして大正4年5月1日には明治神宮の御祭神として内務省告示第三十号により祭神「明治天皇・昭憲皇太后」の祭神名が発表されたのです。

ところがこの御祭神名について有識者の中から疑問の声が出てきたのです。

理由は

両陛下を相並んでお呼びする場合、「天皇皇后両陛下」と称するのであって「天皇皇太后両陛下」とは称さないこと。
「皇太后」は天皇の母親の意味であること。
よって明治神宮の御祭神は御夫婦であられるから「明治天皇・昭憲皇后」が正しい。

亡くなった方にはご生前の時の最高の位でお呼びすることが常例。「皇太后」の称号は「皇后」より下の位になる。だから昭憲さまは生前「皇后」でしたので、「昭憲皇后」と称するのが正しいことになる。
では、なぜこのような称号をつけてしまったのでしょうか。昭憲さまが崩御されたのは大正3年です。すでに明治天皇は崩御され(明治45年7月30日)、大正天皇が践祚(せんそ)※4されたので皇太后となられたのでした。崩御された時はすでに皇太后であらせらたのですが、当時の宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、「昭憲皇太后」としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可※5下となったのです。はじめにこの上奏の時点で間違いが生じました。そしてそのまま御祭神名も「昭憲皇太后」としてしまったのです。


このような経緯から明治神宮の御祭神名としてそぐわぬことから「昭憲皇太后」を「昭憲皇后」と改めるよう、御鎮座寸前の大正9年8月9日(明治神宮の御鎮座は大正9年11月1日)明治神宮奉賛会会長徳川家達(いえさと)より宮内大臣宛へ建議が出されました。

しかし諸事の理由から御祭神名を改めることは出来ませんでした。その理由として
1.天皇より御裁可されたものはたとえ間違っていても変えられない。
2.すでに御神体に御祭神名がしるされていて、御鎮座の日までに新しく造り直すことが無理。
の二点があげられています。

時代が下って昭和38年12月10日、明年(昭和39年)の昭憲皇太后50年祭にあたり宮内庁へ「昭憲皇太后御追号御改定に関する懇願」が神宮より、また崇敬会会長高橋龍太郎より「昭憲皇太后御追号御改定につき御願」が提出され、続いて昭和42年12月26日に明年(昭和43年)明治維新百年にあたり再度「御祭神の御称号訂正につき懇願」、崇敬会会長足立正より「御祭神の御称号訂正につき再度の御願」が提出されました。しかし宮内庁の回答は改めないとのご返事だったそうです。

御鎮座当時首相であった原敬は「他日、何かの機会及び形式において昭憲皇太后を神功皇后※6檀林皇后※7などの前例によって、一般には昭憲皇后と称し奉りても違法ではないことの趣旨を明らかにしておくことが必要であろう。」と言っています。(『原敬日記』大正9年10月13日)

※1 入内(じゅだい) 中宮・皇后・女後などが正式に内裏に参入すること。
※2 宣下(せんげ) 天皇の命を伝える公文書を下すこと。
※3 崩御(ほうぎょ) 天皇・太皇太后・皇太后・皇后の死去をいう語。
※4 践祚(せんそ) 皇嗣が天皇の位を受け継ぐこと。
※5 裁可(さいか) 君主が臣下に奏する案文を親裁許可すること。 明治憲法下で、天皇が議会の協賛した法律案及び予算案を親しく裁量して、確定の力を付与した意思表示。その形式として御名を署し、御璽を押印した。勅裁。
※6 神功皇后 仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后。新羅(しらぎ)を征して凱旋し、応神天皇を筑紫で出産した。
※7 檀林皇后 嵯峨天皇の皇后。


http://www.asyura2.com/2002/dispute4/msg/103.html

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