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『陣頭にたおれたる小林の屍骸を受取る』  江口渙 
http://www.asyura2.com/0601/senkyo21/msg/401.html
投稿者 愚民党 日時 2006 年 4 月 29 日 00:27:54: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 治安維持法と小林多喜二虐殺  (小林の)死体をみた瞬間この恨みは一生涯忘れられぬ 江口渙 【たむ・たむ】 投稿者 愚民党 日時 2006 年 4 月 29 日 00:14:22)

 どうしても間に合わないため、これを載せておきます。多喜二は権力によってこんな風に殺されてゆきました。丁度66年前のことです。
 なお、かなり読みにくい為、段落ごとに改行を追加しました。

http://www.suiyokai.org/probun/takiji/death.shtml


 岩郷義雄の回想より(彼は三船の手引きで同じときに逮捕され、築地署にいた):

 真冬の冷たい檻房に暮色がようやく迫ろうとし、五つの房にすしづめとなった留置人たちは、空腹と無聊と憂鬱とでひっそり静まり、ただ夕食の時刻が来るのを心待ちにしていていた。

 突然、私の坐っている檻房の真正面にあたる留置場の出入口が異様なものものしさでひらかれた。そして特高――紳士気取りの主任の水谷、ゴリラのような芦田、それに小沢やその他――が二人の同志を運びこんできた。

 真先に背広服の同志がうめきながら一人の特高に背負われて、一番奥の第一房に運ばれた。

 つぎの同志は、二三人の特高に手どり足どり担がれて、私のいる第三房へまるでたたきつけるようにして投げこまれた。一坪半ばかりの檻房は十二、三の同房者で満員だった。その真中にたたきこまれて倒れたまま、はげしい息づかいと呻きで身もだえするこの同志は、もはや起きあがることすらできなかった。

 「ひどいヤキだ……」同房人たちは驚いた。

 私は彼の頭を膝に乗せた。青白いやせた顔、その顔は苦痛にゆがみ、髪のやわらかい頭はしばしば私の膝からすべり落ちた。「苦しい、ああ苦しい……息ができない……」彼は呻きながら、身もだえするのであった。「しっかりせい、がんばれ」と、はげますと、「うん……うん……」とうなずく。その同志は紺がすりの着物に羽織という服装であった。顔や手の白さが対照的にとくに印象ふかい。整った容貌は高い知性をあらわし、秀でた鼻の穴に真紅な血が固っていた。手指は細くしなやかで、指のペンダコは文章の人であることを物語った。同房人たちも胸をひろげてやったり、手を握ったり、どうにかしてこの苦痛を和らげねばならないと骨折った。

 一体、この同志は何の組織に属する何という人だろう、私は知りたく思った。「あなたの名前は?」と、私は尋ねたが、それには答えず、間欠的に襲いかかってくる身体の底からの苦痛にたえかねて、「ああ、苦しい」と、もだえるのであった。

 たった今まで、この署の二階の特高室の隣りの拷問部屋で、どんなに残虐な暴行が行われたか、そして、二人の同志がいかに立派にたえてきたかを、この同志の苦しみが証明した。

 やがて、「便所に行きたい」というので、同房人が二人がかりでそっと背負って行った。便所へついたと思う間もなく、腹からしぼり出すような叫び声が起こった。やがて連れ戻ってくると、「とても、しゃがまれません。駄目です」と、同房人が言った。

 私は先ほどから、そわそわして様子を見ている看守に言った。「駄目だ、こんな所では、保護室へ移さなければ」私たちの房の反対側に保護室があった。そこは広く、畳が強いてあり、普通、女だけを入れたが、大ていあいていた。看守はうなずいて、私たちは同志を移転させ、毛布を敷き、枕をあてがった。そして、彼の着物をまくって見た。「あっ」と私は叫んだ。のぞきこんだ看守も「おう……」と、呻いた。

 私たちが見たものは「人の身体」ではなかった。膝頭から上は、内股といわず太腿と言わず、一分のすき間もなく一面に青黒く塗りつぶしたように変色しているではないか。どういうわけか、寒い時であるのに股引も猿又もはいていない。さらに調べると、尻から下腹にかけてこの陰惨な青黒色におおわれているではないか。

 「冷やしたらよいかもしれぬ」と、私は看守に言った。雑役がバケツとタオルを運んだ。私たちはぬれたタオルでこの「青黒い場所」を冷やしはじめた。やがて、疲れはてたのか、少しは楽になったのか、呻きも苦痛の訴えもなくなった。同志は眼を閉じて眠る様子であった。留置場に燈がついて、夕食が運ばれた。私はひとりで彼の枕辺に坐って弁当を食い終った。そして、ふたたび彼の顔をのぞいたとき、容態は急変していた。半眼をひらいた眼はうわずって、そして、シャックリが……。私は大声でどなった。看守はあわてて飛び出して行った。

 やがて、特高の連中がどやどやとやってきた。私は元の房へつれもどされた。保護室の前へ衝立が立てられた。まもなく医者と看護婦がきた。注射をしたらしかった。まもなく、担架が運びこまれた。

 同志をのせた担架がまさに留置場を出ようとするときであった。奥の第一房から悲痛な、引きさくような涙まじりの声が叫んだ。

 「コーバーヤーシー……」

 そして、はげしいすすり泣きがおこった。

 午後七時頃であった。

      ――手塚英孝『小林多喜二』より、回想部分孫引き

  『陣頭にたおれたる小林の屍骸を受取る』

江口渙

 二月二十一日の夕方だった。

 「小林多喜二氏。築地署で急死す」という二号二段ぬきの標題をふと夕刊で見た瞬間「あっ、小林がやられた」と思わず口の中で叫ぶとそのままふかく呼吸をのんだ。

 逮捕――急死――急死――急死。それが何を意味するかは、もはや聞かなくとも明かだった、私はもうじっとしてはいられなかった。とにかく飯を食って身支度をして出懸けようと思っていると大宅壮一からの電話で使が来た、阿佐ヶ谷へ廻って小林のお母さんを伴れて直ぐ築地署へ来いというのだ。

 私は直ぐ様走るように家を出た。だが、どうしたのか阿佐ヶ谷の家は真暗で誰もいない、唯、門の前に親戚らしい老人が一人うろうろしているだけだ、前の家で聞くとお母さんは何時出懸けたか知らないというのだ、弟の三吾もいない。困ってしばらく立っていると小林の小学校以来の友人だという野口君という人がかけて来た。そこで二人は阿佐ヶ谷駅へとってかえして築地へ向った。

 私達は夕刊の間違いで築地病院へ飛び込んだために築地署へついたのは八時すぎだった。受付に名刺を出していると大宅壮一君が二階からアタフタと降りて来た。

 「お母さんがもう来ているよ。親戚の人も、その外大勢二階にいる」
 「そうか。もう来ているか」

 恨みふかき……築地署にて

 私は二階へかけ上った。高等室の前の廊下は新聞記者と写真班とで一杯だった。佐々木孝丸がいる。安田徳太郎博士がいる。青柳、三浦の両弁護士がいる。だが、みんなが何度名刺を出しても高等室の扉は固く閉されて、どうしてもお母さんに会わさない。

 九時になった。お母さんが親戚の小林市司氏を先に立て刑事に囲まれて出て来た。小柄ではあるが肩つきのがっちりした六十余歳のお母さんは、ネンネコで背中へ孫をおびって田舎者らしい素朴な顔を心配そうに俯向けながら、黙々と足を運ぶ。みんなその後へぞろぞろついて階段を降り、裏門から往来へ出た。そして屍骸の置いてある前田医院へと向った。

「道が大分悪いようですからどうぞお年よりはお気をつけ下さい」

 小林を逮捕し糾問した責任者水谷主任の声が、不自然きわまるものやさしさで闇の中にひびく。だがお母さんは一語も答えない。

 やがて前田医院へつくと、ここでも我々はお母さん達から切りはなされ、往来へ閉め出されてしまった。

 夕刊を見て真先きにこの病院へ飛び込んだのは左翼劇場の原泉子だった。だが、彼女は張り込んでいたスパイに忽ち腕をねじ上げられまさに検束されようとした。そこへ新聞社からの電話で変事を知った大宅壮一と貴司山治とがかけつけて来た。そして危く彼女を救い出して築地小劇場へ引き揚げると、更めて死体引取りの対策を立てた。お母さん、弟、医師、弁護士立会いの上で引き取ろうということになって弁護士団と、安田博士と、私へと電話をかけた。その上、もしお母さんが一人先へ来たら往来でつかまえようということになって、署の周囲へピケを立てた。

 お母さんが孫を負って

 だが、お母さんが思いもよらない孫(小林の姉さんの子)を負って来たことと、ピケが顔を知らなかったこととで、この計画は不成功に終った、そして同志達とお母さんとは四時間以上も空しく切りはなされてしまったのだ。

 九時四十分。ついに寝台自動車が来た。そして一面に白布で包まれた小林の遺骸が、病院から担架で運び出されると、そのまま寝台車へ移された。お母さんと親戚の人とが側へ乗った。

「悪くするとあの人達は警察側にまるめられて小林を我々から切りはなすために自宅へは帰らないで何処か知らない家へ持って行くかもしれない、後をつけろ」

 藤川美代子、安田博士、染谷の五人がとび乗った。

 大型の寝台自動車は大東京の二月の夜の光と闇とを突き破って西へ西へと走る。我々は書き止めておいた自動車番号を見つめながら呼吸づまるような緊張のうちに後を追う、二台の自動車は離れてはつき、ついては離れて銀座―日比谷―半蔵門―四谷見附―新宿。それから更に青梅街道を西武電車の線路に沿って城西へ飛んだ、がやがて阿佐ヶ谷駅の近処で途を間違えてぐるぐる廻った揚句、見覚えのある小林の家の露地の前で停った時には始めてほっと安心した。

 家には既に小林市司氏の奥さんや近親や友人達が待ち受けていた。そして担ぎ込まれた遺骸をみんなで六畳の座敷へ運んで、取り敢ず蒲団をしいて臥かせた。

 「心臓マヒで死ぬものか」

 それまで涙一滴こぼさず、殆ど物もいわなかったお母さんは、家へ帰った安心から、遺骸の枕元へ座るとそのまま、声を立てて泣き崩れた。やがて再び体を起すとしばらくの間、愛児の無残に変り果てた顔をなつかしそうに覗き込み、乱れた髪を撫でてやったり、やつれた頬をさすっていた。が、又々こみ上げて来る悲しみに耐えられなくなったためか、再び体をかがめると、こんどは冷くなった小林の首を両手で抱えて、静かに、だが、如何にもいたいたしく揺すり始めた。その様子は恰も小林がまだほんの子供であった時、この子供思いのお母さんが小林をこうして愛撫したであろうことを思わせるに十分な、とてもものやさしいものだった。

「ああ。いたましい。ああ。いたましい。いたましい。いたましい。心臓まひで死んだなんて嘘ばかりいって。あんなに泳ぎが上手だったのに。心臓の悪い者に、なんで泳ぎが上手にできるもんか。嘘だ。嘘だ。絞め殺したんだ。呼吸のできないようにして殺されたんだ。呼吸がつまって死んでゆくのがどんなに苦しかったろう。呼吸のつまるのが。……つまるのが……ああ。いたましい。いたましい。いたましい」

 お母さんは尚も小林の首を抱えては揺すり、揺すっては抱えて、後から後からと湧き溢れる涙に咽喉を詰らせながら、生きている子供にものをいうように、遺骸に向って話しつづけた。

 私は人間がこんなにも烈しい悲嘆と絶望とに打たれて苦悩するのを、生まれてかつて見たことがなかった。そしてそのあまりにもいたいたしい姿を、もはや一秒間も見ているにしのびなかった。

 死体の検査が始まった

「お母さんをそっちの部屋へつれて行って下さい。これじゃ如何にも体にさわるから」

 私はついにこういった。親戚の人も早速つれて行こうとした。だがお母さんは聞き入れない。矢張、枕元に座ったまま泣きつづけた。

 安田博士の指揮の下に、死体の検査が始った。

 驚くばかり青ざめた顔は、烈しい苦痛の痕を残して、筋肉の凹凸がけわしいために、到底平生の小林ではない。ことに頬がげっそりとこけて、ひどく眼がくぼんでいる。そして左のコメカミには、一銭銅貨大の打撲傷を中心に、五つ六つの傷痕がある。それがみんな皮下出血を赤黒くにじませている。「こいつを一つやられただけだって気絶するよ」と、その時誰かが叫んだ。

 首には、ぐるりと一とまき、ふかく細引の跡が食い込んでいる。余程の力で絞めたらしくくっきりと細い溝が出来ている。そして溝になったところだけは青ざめた首の皮膚とはまるで違って矢張、皮下出血が赤黒い無惨な線を引いている。左右の手首にも、首と同様円く縄の痕が食い込んで血が生々しくにじんでいた。

 だが、その場合、それ位のことは他の傷に較べると、謂わば大したものではなかった。更に帯をとき、着物をひろげて、ズボン下をぬがせた時、初めて小林の最大最悪の死因を発見した。我々は思わず「わッ」と声を放つと、そのまま一せいに顔をそむけた。

「これです、これです、矢張り岩田義道君と同じだ」

 安田博士の声が沈痛に響いた。我々の眼が再び鋭く死体にそそがれた。

 凄惨全身を被う赤黒い皮下出血だ!

 何というむごたらしい有様であろう、毛糸の腹巻きに半ば覆われた下腹部から、左右の膝頭へかけて下腹といわずももといわず、尻といわず肌といわず、前も後も外も中も、まるで墨とべにがらとを一しょにまぜて塗り潰したような、何とも彼ともいえないほどの陰惨限りなき色で一面に覆われている。その上、余程多量の内出血があると見えて、ももの皮膚がぱっちりとヘチわれそうにふくらんでいる。そして赤黒い皮下出血は陰茎から睾丸にまでも及んでいる。

 好く見ると赤黒く張り切った膝の上には、釘か錐を打込んだらしい穴の跡が、左右とも十五六ヶ所も残っている、そこだけは皮膚が釘の頭ぐらいの丸さだけ破れて、肉が下からジカに顔を見せている、それが丁度アテナ・インキそのままの青黒さだ。

「こうまでやられたんじゃ生命が奪われるのは当り前だ」
「だが、流石に小林だなあ、こんなにされるまで好くもガン張り通したねえ」

 誰かがふかい溜息とともにいった。その時小林市司氏が始めて警察側の説明をつたえた。

「警察側のいうところでは、逮捕される時逃げようとしてひどく格闘しているうちに道路へ倒れた為めに、顔に少し傷が出来たのと、検束する時、縄をかけたので首と両手に少し傷があるし、体にいくらか死斑も出たようですが、これは心臓麻痺とは別に関係のないものですから御心配ないようにといってましたので私もうっかり向うのいうことを信じて、ろくろく体を調べもしないで受取ってきましたが、まさか、まさか、まさか、こんなにひどくなっているとは思いませんでした。こんなことだと知ったら如何に何でもそんまま受取って来なかったんです。実に残念で、残念で……でもどうしてこうまでひどくなったんでしょう」

「四時間もぶっつづけに拷問されれば、誰だってこうなりますよ」誰かが又復鋭く叫んだ。

 想像される悶死の現場

「でも、着物はどうもなってませんが」
「無論、証拠を残さないために着物を脱がして、シャツとズボン下一つにしておいて、椅子にくくりつけたり、天井から細引で釣して腰から下を目当に、竹刀でなぐりつけたのです。おまけに首まで絞めつけた。その証拠に猿股がなくなっているし、ズボン下の寸法がとても短いじゃないですか。もとの奴は血だらけになったので、何処かへ捨てて代りを無理にはかせたんです」
「成程。そうですな。今まで私は拷問というようなことは、みな左翼の宣伝だとばかり思ってましたが、こうして現実にぶつかってみると、始めてほんとうのことが解りました。実に怖しいことをするもんですな」

 市司氏の眼から涙がはらはらとこぼれた。そのうちに玄関の襖を開けて、若い女性が三人、いかにも悲しそうな様子をして入って来た。そして遺骸の横にずらりと座るが早いか、三人とも声といっしょに袂を顔にあてて泣き崩れた。

 十二時近くになって作家同盟の同志を始めプロット、ヤップ、弁護士団、サークル員などが後から後からと駈けつけて来た。立野信之、本庄陸男、山田清三郎、川口浩、上野壮夫、淀野隆三、鹿治亘、千田是也、木村好子、後藤いく子、原泉子その他三十人ばかりが六畳にぎっしりつまった。一時近くなってヤップの国木田がデス・マスクをとった。それがすむと岡本唐貴が油絵で死顔を写し取った。三四人の一が入れ代り立ち代り写真を撮った。変わり果てた死顔の写真や、惨憺たる傷痕の写真やお通夜の写真が何枚もとられた。

 やがてみんな協議した結果、告別式は二十三日午後一時から三時までとすること、別に日を更めて大衆的な葬儀を行うことと、告別式までの全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸ということにきまって、動員グループを組織し、それぞれ部署についた頃には、慌しい通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた。

 集る諸同志 かざる花束

 朝になって徳永直、窪川いね子が来る。村山籌子、関鑑子、細田民樹などが真紅な花束を持って来る。殺風景な前夜にくらべて、幾分、葬儀らしい色彩が出て来た。

 屍体の解剖が前夜から問題になっていた。お母さん、弟の三吾、小林市司氏の三人とも是非やってもらいたいというのでそれについての各大学への交渉は、佐々木孝丸が一さいを受持つことになった。

 佐々木孝丸がかえって来たのは正午すぎだった。玄関で靴を脱いでいる佐々木に私はすぐ訊ねた。

「どうだった」
「うむ。安田さんとおれと二人で電話で猛烈に交渉したんだが帝大も慶応もモウ向う側の手が廻っていて駄目さ。きれいに拒られちゃった。ただ、慈恵大学だけが案外手易く引受けてくれたから、これから直ぐ持って行った方が好い。自動車をもう頼んで来たよ」
「そうか。じゃ。すぐ行こう」

 厳正なる科学の前には、何物をもあざむきごまかすことは出来ない。解剖さえ出来れば小林の死は一つ残らず白日の下にさらけ出されるのだ。そしてそのことがこんどの問題を解決する最も重要な基礎にもなる。

 こうなっては北海道から姉さん夫婦の上京するのを待ってはいられなかった。第一、屍骸が臭くなったし、解剖には時間の約束がある。よろこび勇んだ我々は自動車が来るや否や、かけ込むように飛びのって家を出た。

 死体には私、市司氏、三吾、田辺耕一郎、細野孝二郎の五人と、途中で待ち合せている青柳弁護士とがつき添って行った。

 真相の暴露を恐れ各大学解剖を拒絶

 芝の慈恵大学へつくと安田博士が既に待っていた。市司氏と青柳弁護士とが愛宕署へ届出でに行ってる間に、残った者が屍体を担架で解剖室に運び込んだ。だが解剖に対する我々のあれほど大きかった期待とよろこびとは間もなく無残に踏みにじられた。この大学の病理学教室の実質上の責任者大場勝利助教授が今朝の電話の返事とは打って変って、まるで掌を返えすように解剖の約束を苦もなく取り消してしまったからだ。

 いやに白いポチャポチャとした顔と意外に短い脚とを持っているこの助教授は、うす気味悪いぐらい糞ていねいな言葉を使って、その奇怪きわまる違約に対し、くりかえしくりかえし、全く意味をなさない弁解を試みた。

「第一、お電話では肺炎だというお話しでございましたが、唯今お伺いいたしますと死因が大分違いますので」
「肺炎だなんていいませんよ。死亡診断書にある通りに心臓麻痺といいましたよ」

 むっとした安田博士は可なり語気を強めていった。

「でも、お電話をお受けいたしました助手がそう私につたえましたので……」
「そりゃ、其方の間違いですよ」
「でも、そう報告された私は肺炎だと信じて在りましたものですから」
「じゃ、肺炎なら解剖するが心臓麻痺ではやれないという何か特別な理由があるのですか」

 安田博士が鋭く突込む。

「そういう理由でもございませんがそれにお電話でお名前をおっしゃらなかったのでまさか小林さんの御霊体とは存じませんでしたものですから、ついああいう御返事を申上げましたのですが」
「小林君の屍体だと何故いかんのです」

 安田博士の声はますます鋭い。

「いやそのどうも。実は平生から警察関係のは一さいいたさないことになっておりますので」
「じゃ、上は警視総監から下は巡査小使に到るまで警察関係のはやらないとおっしゃるんですか」

 私が横から口を入れたら、助教授はとてもいやな顔をした。が、間もなくもとのインギンな態度に返って、又弁解をつづけた。

「そういう意味ではございませんので、例えば小林さんの御霊体のような場合をいうのでございますが」
「じゃ警察関係の屍体は何故いけないんです」
「それは一つに本教室の歴史的な伝統といたしましてどんな場合でもみんなおことわりいたしますことになって居ります」
「そんな間違った伝統は本日限り叩き破ったら好いじゃないですか」
「そうはいきませんです。代々の責任者が永年の間堅く守ってきましたものを、私一個の所存ではどうすることも出来ないんでございます。ですから先刻小林さんの御霊体だということが分っておりますれば、あの時お電話で直ちにおことわりいたしたのでございますが」

 ブル医学の正体を見よ

「しかし、名前も聞かずに引き受けて置いて、屍体を持ち込んで来てからことわるなんて、実に無責任極まるはなしじゃないですか」

 安田博士が私に代ってこういうと、助教授は又復インギンに頭を下げた。

「その点は一つにこちらの手落でございまして、ただ、誠心誠意おわびいたすより外に仕方がないのでございますが」
「しかし、とにかく法医学的な解剖じゃなし、単に病理学的解剖で死後の内臓の変化を見ていただきすれば好いんですから、簡単じゃないですか、どうか今日だけ是非一つやって下さい」
「いや。それがどうも長年の伝統でございますから、今日だけというわけにはまいりませんので」
「でも、やって下さるとの御返事だったから金のない連中が莫大な自動車賃を払って持って来たんですから」
「どうもそうおっしゃられると何とも申しようがございませんが、助手が言語道断な手落をしましたのも一つに私の身の不徳のいたすところでございまして……」

 私達は二時から五時まで前後三時間、入り交り立ち交り交渉した。だが、始めからお仕舞まで万事がこの調子だった。「歴史的伝統」と「手落ち」と「身の不徳」と「御霊体」とが糞ていねいな言葉遣いにあやつられながらただ、徒らにくりかえされるだけだった。

 解剖によって事実が残らず曝露されるのを怖れた警察側は慈恵大学へも又干渉の手をのばしたのだ。大場助教授とのこのような全く意味をなさない問答の中にも、我々は今日の大学資本主義、病院資本主義と警察との関係をはっきり見ることが出来た。そして一般に超階級的なものだと信じられている科学者さえもが、今日ではもはや完全に支配階級の走狗でしかないことをはっきり知った。

 告別式にも狂暴な弾圧

 我々は失望と憤慨と不愉快さとの入り混じった暗澹たる気持に包まれながら空しく屍体を守って阿佐ヶ谷へ引き揚げた。帰って見ると家の周囲には早くも告別式に対する弾圧の嵐が吹きまくっていた。屍体の留守を守っていた文化団体の人々は無論のこと、知己友人から単なる愛読者までが、追っ払われたり、検束されたりした。そして明日の告別式には親類の者以外には、ただ江口渙、佐々木孝丸の二名しか参列を許さない。

 というところまで追込められてしまっていた。そして近寄るものを片っ端から検束する為めに露地の出口の筋向うにある空家をわざわざ警戒本部にあてて四五十人の正服私服を動員さえした。

 夜になって城北消費組合。城西消費組合。城北労働者クラブ。プロBC。作家同盟から花籠や花束が来た。そして、遠くの親戚知人から、又全国の同志から悲憤に燃え立つ弔電が絶えず後から後からと届いた。

「こんな姿にして返した上にお葬式までさせないなんて、ほんとうに血も涙もない奴だ」限りない悲嘆と怒りと憎しみとで疲れきっているお母さんは尚も幾度か斯う言っては口惜し泣きに泣いた。そして十一時近くなって、ようやく茶の間の片隅で不安に満ちた眠りをとった。

 憶い出深き小林の一生

 私は一人で座敷にすわっていた。赤布に包まれた棺と、同志や知人から贈られた花籠や花束を眺めていると、小林と作家同盟と私との間をいろいろに結んでいる過去四年間の出来事が、又、新しいなつかしさをもって、追憶の扉の中から甦って来る。

 一九三〇年四月十二日に本郷仏教会館で持たれた同盟第二回の大会に、始めて北海道から出て来て、同志の前で親しみ深い挨拶をした時の小林。同じ年の五月に同盟の関西巡廻講演会に組織されて、中野、大宅、片岡、貴司、江口が、京都・大阪・神戸と約十日間を一しょに旅行した時の小林。更に同盟第三回大会からの一カ年を、私は中央委員長として、小林は初期として共に同盟の仕事に没頭したために一倍親しさをました小林。その優れた作家的才能の故に、真剣な真正直な生活態度の故にその上、同志として実にあたたかい心の持主であったが故に、誰からも尊敬され信頼され、愛された小林、私の最も好き友だった小林。その同志小林多喜二は不運にもついに敵階級の捕虜となってこんな無残極まる姿になって帰えって来たのかと思うともう私は耐らなかった。

 全国の同志からの弔電はみな、「同志小林の死に復讐を誓う」という意味をもって貫かれている。同じ言葉を私も又、何度も何度も力強く心の中でくりかえした。限りなく惜まれる貴い犠牲、稀に見る優れた闘士、小林多喜二の最後のお通夜は、ただ、時々ひびく警戒の巡査のサーベルの音以外、何一つ聞えて来ない場末町のさびしさの中に、無限の怒りをふくみながら、しんしんと更けて行った。

 ――新日本出版社 日本プロレタリア文学集34
『ルポルタージュ集2』より

  当局の妨害を怒る小林の母
         ――待たるる労農大衆葬――

佐々木孝丸

 遺骸を骨にする日、二月二十三日の告別式にはお母さんのせきさん、弟の三吾君、本家の市司さん、小樽から駈けつけた姉さん夫婦、それに、小樽以来親戚附合いをしているという近しい同郷の人々数人、そしてその外には、江口君と僕とたった二人!

 『文芸家協会』から届けられた花輪までが送り返され、プル新聞の記者達も露次の入口の空家を占領しているパイの溜りへ連行され、念入りな身体検査をされて、片っ端から追い返されるという気狂い沙汰だ。

「ほんに、みなさんから、せめてお花一本ずつなとあげてお貰しよう思うとりましたのに……」

 お母さんが沁々という。そして真紅の布で覆うた柩の上の、息子の死顔をじっと見詰める。死体を引き取って来た通夜の晩にヤップの岡本唐貴君が、心をこめて描きあげた油絵だ。お母さんは、泣いて泣いて泣きぬいて、もう涙も出ないらしい。しかし、気は非常にしっかりしている。最初の晩からみれば、ずっと落着いて、少しも取り乱したところがない。その、悲しみと、憤りをじっとこらえている姿が、かえって、僕達にたまらない思いをさせるのだ。

 午後二時、お母さんを中心に、十四五人の少数者で、告別式を初める。

 江口君が、親類の人達の同意を得て司会者としての挨拶をのべる。同志小林が、小説「一九二八年三月十五日」を提げて、我々の陣営へ現れて以来、最後の日まで、いかに、階級的忠誠を守り抜いて来たか、作家として組織者として、プロレタリア文化運動のために、いかに大きな貢献をして来たか、ということを、実例を挙げて熱心に話をした、そして、この思いがけない諦めきれない小林君の死が、しかしながら、作家同盟ひいては、日本の文化運動全体を、さらに強くひきしめ、かつ同志達の決意を新たにさせることによって、小林君の遺した事業を更に発展させるであろうし、そうすることのみが故人に対する唯一の慰めであり、且我々は必ずそうすることを遺族の皆さんの前に誓うものだといった。

 話しているうちに、人々の間から、すすり泣きの声が起った。ことに小樽の姉さんは声を挙げて泣いた。江口君の言葉が終ってから僕もプロットを代表して、短い挨拶を述べた。本家の小林市司氏が親族を代表して、作家同盟その他の同志達に対する鄭重な謝辞を述べられた。

 それから、それまでに届いている弔電を江口君が読み上げた。

 弔電の朗読が終った時分、葬儀屋が、柩車の来たことを知らせて来た。

 一時から三時まで告別式をやるということに発表して置いたので、参列者が続々と詰めかけている筈なのだが、何しろ、小林君の家が袋露次の一番奥だもんだから、一体誰々が来て、どれぐらい追い返えされ、どれぐらい検挙されているのだか、さっぱり様子が分らない。が垣根の外をウロウロするスパイの動きや、弔電をもって来る電報配達人までが、ひどく昂奮している様子から推して露次の外の法外な嵐れ模様は大体想像がつく。

 駄目とは知りながら、もしか警戒線を突破して、或いはうまくごまかして遺骸に別れを告げに来る同志が、たとえ一人でも二人でもありはしまいかと、それを心頼みに、江口君も僕も、暗黙のうちに、出来るだけ出棺を延ばそうとしていたのだが、「せめて花一本でも……」というお母さんの切ない願いも、今はもう、どうすることも出来ない。順次、焼香して、最後の別れをすることになった。

 黙々として焼香し終ったお母さんに次いで、小樽の姉さんが、遺骸の枕許に進んだ。そして、全く文字通り生きてる者にあうような調子でいうのであった。

「多喜ちゃん……多喜ちゃん……後のことはちっとも心配しずに……心配しずに……」

 それから一しきり泣き沈んで、さらに、はっきり次のように云われた。

「皆さんに……お仲間の方達にこんなにまでして頂いて……あんたは仕合せですよ、ほんとに……仕合せですよ……」

 姉さんの次に弟の三吾君。

 それが済むと、本家の市司氏は僕達二人に焼香して呉れといわれた。愈々柩車に移す時間が来た。棺を壇上から下ろし、最後に、も一度蓋をとってみなの手で、遺骸を花で埋めたその時、それまで、我慢に、我慢をしていたらしいお母さんの慟哭が聞えた。

「どんなに、どんなに水が飲みたかったやら……誰も水も飲ませてやらずに!……ああいたわしい! いたわしい!……何の罪とがないものを! 敵かたきの中で! 敵かたきの中で!……運転手でも殺したのならどうされてもええが何の罪があって、何の罪があって!……鬼! 畜生!」

 それは全く、無数の敵に対する老母の力一杯の、あらん限りの叫喚であった。僕は、この時のお母さんの言葉を、一字一句、はっきり覚えている。それは此処へ書いた通りだ。そしてこの言葉は、永久に僕の記憶から去らないだろう。それ程強く、熱く、この言葉は僕の胸に灼きつけられたのだ。小樽の姉さんも一度、

「後のことは心配しずに、ゆっくり眠って行きや……」と死骸に云って聞かせた。

 僕達は、棺の中へ入れるものをお母さんに相談した。故人の最後の作品(と思われるもの)の載っている「改造」、同志達からの弔電、それらを共に棺に入れようと思った。するとお母さんは、それ等は、骨と一緒に、小林家の墓の下へ入れて置きたい、そうすれば何百年でも残る、そして、「この子が一生懸命になっていたような世の中が来れば、も一度それを出して見られるから」
 というのであった。

 葬儀屋が再び棺に蓋をして釘を打った。一切の悲嘆にも拘らずひどく事務的なものであった。が、それは、何とも致し方のないことだ。

 火葬場まで行く者は、お母さん初め、江口君と僕を入れて全部で十二名。それが、自動車二台に分乗して、柩車の後に従った。

 ここでも亦、僕は「もしや」という一縷の望みにかられて、沿道の両側へ、熱心な注意の眼を向けた。誰か、同盟員の、同志の姿を見出そうとして……。が、奴等の警戒は、余りにも「行き届き」過ぎていた。

 しかし、見よ、両側の普通の人家、町家の人々が、皆、家の前に出て、赤布に覆われた柩に向い、粛然として頭を垂れているではないか!

「まあ、知らない人までが、ああしてお辞儀をしてくれるのに!」

 お母さんの声である。

 僕は、この時、初めて泣いた。それまで「自分が泣いてはどうすることも出来ない」と思ったので、どんなに胸がしめつけられても、無理に歯を喰いしばって我慢に我慢して来たのだが、この時ばかりは遂に我慢することが出来なかった。

 僅か十二名の者によって淋しく送られる葬儀!……だが、町筋の、普通の小市民達までが、この理不尽な、残忍極まる白テロに対して、暗黙のうちに憤怒と同情を表明しているではないか、警官と私服の垣根の背後に、今はじっと隠忍している大衆の憤りを、その巨きな力を、誰が感ぜずにいられようぞ!

 二月二十日のあと

佐多稲子

 裁判所の暗い冷々とした廊下で、結果報告をする佐々木の声が、劇場員らしくゆったりと響いていた。廊下に据えた小さな机のそばで、二、三人の廷丁たちが鉄の小火鉢を中にして妙に居心地悪そうに反っぽを向いている。ときどきこちらのものと顔が合うと、殊更らにおもしろくない顔でつうとそらす。

 犠牲者家族を交ぜて四、五十人の抗議隊が、代表の佐々木と、家族代表の壺井と法服をきた二人の若い弁護士をとりまいて廊下を一杯にふさいでいた。その中をときどき用のある裁判所の書記たちが身体を斜めに下を向いて行き来した。

 一九三三年二月二十一日、その日は昨年三月末の弾圧に検挙されたコップの犠牲者たちの予審促進、統一審理要求、それに最近殊に馬鹿げてひどくなった通信の制限に対する抗議などに、小石ほどのまげをのっけたおっ母さんたちや、赤い洋服をきた小野宮吉の女の児も交じえ、コップ同盟の各団体員が東京地方裁判所へ押しかけていたのである。

「度々係りの判事を変えるのは何故かという、こちらの質問に対して、いや、あれは、実は被告の数が非常に増えるので……」

 プロレタリア演技者佐々木は、判事の言葉をそう真似ながら、その言葉の内容をも階級的に解剖してふうししていた。

「被告の数が非常に増えている。しかし、いま衆議院でこのことに関する予算の増額が可決されんとしている……」

 そう言って私や原泉子たちその他のものへ目を移してゆき苦笑いした。

「予算が増額されれば、この方の判事を五人許り増やすことが出来るから早く運ぶようになるだろうというのであります」

 揶揄的な佐々木の言葉でみんなもチェッとか、フンとかいって苦笑いした。

 私はここへくる途中見て来た貴族院、衆議院の、それを中心に張られた厳重な警戒と、議員の門内にずらりと並んでいた光った自動車を思い出した。同志の取り調べに関するこの次席判事の言葉によって、ずらりと並んでいた自動車の白い光り、それを護衛していた剣と銃、それらをも一度はっきりと直接的に対立した感情で思い出すのであった。あの中で、ブルジョア新聞でさえ書き立てたほどのぼう大な軍事予算が可決され、労働者農民圧迫の諸議題が立憲制の仮面を被せてはこび出される。

 この日の抗議は「威厳」ある裁判所のお役所主義を盾にした細かいことにまで対立して、老人たちをも闘いの感情に揺すぶらせた。朝九時から午後三時まで、冷めたい石の廊下の上で身体をこわばらせながら。

「いつも元気だな、あの連中と来たら」

 解散して別れてゆく弁護士の声が、ピタピタという草履の音にまじってラ線形の会談に響く。

 帰途一緒になった壺井と私は、裁判所でしんまで冷え込んだ身体を慄わせてにぶい陽向をむさぼるようにえらんで歩いた。

 作家同盟の詩人である朝鮮の同志金龍済の面接許可願をやっと今日とることに出来た壺井は今日の直接的な効果は先ずこれだといってくり返した。同志金龍済は、日本在住の家族が無いため、刑務所にいるのに面会に行く者が無かったのだ。今後は壺井が家族代りになるのである。

「次席判事が自身で、はっきりとそう言ったわ。大勢で押しかけてこられるのがいちばんこわいって、はっきりそう言ったわ」

 たびたびゆかねばならぬ、と二人は言って笑った。

 その夕方、私は中條の家にいた。昨夜、仕事をしようとして起きていながら赤ん坊に夜中ぐずられて、結局無駄に徹夜をしてしまいそれだけ今日の疲労が癪にさわる話などすると中條が、よしそれでは晩御飯におごって肉を焼いて喰わそうと言って、自分一人台所へ降りて行った。

 私は二階で、今朝から読み始めている小林の「地区の人々」の頁を開けた。プロレタリア文学の党派性のために、身を以て実践しつつある小林のその作品は、彼が真実のプロレタリア作家として成長しつつあることを示している作品であり、従ってまた、この先きにも大きな発展を約束している作品であった。一昨年六月以降にも行われた文化運動の方向転換によって、私がこれまでもっていた、プロレタリア作家としての任務に対する不満足と、焦慮は解決されていた。私は安心して文化運動の大きな発展の中に身を飛び込ませていた。その時、同志小林の作品はいろいろな意味で私を元気づけた。私は小林に一度逢ってこの思いを伝えたい衝動にかられた。この思いを「地区の人々」を読み始めた今朝から私は持ち続けていたのであった。相変らずあの愉快な高い笑い声を上げていることであろう。そう思い、微笑ましくなるのであった。

 階下で肉を焼くシューンという高い音と、あぶらのにおいの中から中條が降りて来い、と呼んだ。

 中條の弟さん夫妻と一緒にいつになく寛いで食事をした。そのあとで中條が夕刊を取り上げたのである。傍から覗いた私の目が下段の小さな写真にふっと引かれた。

「あらッ」

 うん? と言ってすぐその方を見た中條がまた「あらッ」と叫んだ。私がまた殆ど同時に声を発した。二人の顔がさっと白くなった。二人はとっさに片手を握り合せていた。

 小林多喜二氏、築地署で急逝という新聞の活字が何か遠い信ずべからざるものを報じているように思えた。どうぞ嘘であればいい、瞬間身がねじられるようにそう思った。

 顔を上げ私を見て中條が、

「また、殺しやがった」

 その言葉で、二人は堪え兼ねるように、クックッと声をほとばしらせて泣いた。ああ、それは信ずべからざるものを報じていた。たった今迄も、小林は我々の感情の中に、身近かに元気でいる筈であった。何処かの街を、相変らずあの肩をそびやかして足早やに歩いているであろうという、彼に対するわれわれの愉快な想像をこの一片の新聞記事はみじんに叩きわろうというのか。

「とにかく、どっかへ行きましょう」

 二人は膳から立って二階へ行った。

 あああ、嘘であれ、またしても胸をしぼるようにそう思った。そのあとどうにも出来ない悲しみが、それをもたらしたものに対する怒りとごっちゃになっておそった。

 二人はそこに立ったまま又泣いた。

 立って泣きながら、どう動くか相談した。とにかく屍体の傍へ行きたい。小林の屍を我々大勢の手に握りたいという感情が強く二人を囚えた。

 途中一人をさそって、小林の阿佐ヶ谷の家近い、一人の同盟員の家に急いだ。みんな外のことは何も考えず只早く小林の屍を我々の手に握りたいということと、これに対する敵階級への闘争のことだけを考えた。まったく、途中の街のことなど何一つ気づかず走っていた。

 車を降りて、凍った暗い小路へ入ってゆく三人の足音は小きざみに高く響いた。

 そこではすでに十人近く集まっていた。みんな顔を合せても、小林の死そのものについては言うべき言葉を知らず黙っていた。みんなは声を低くし、緊張して応急の対策について語った。同盟員全体が大きな衝撃を受けて、家を出、寄り合っているであろうことが想像できた。

「このことを、同盟の一部の右翼化を立て直す大きなけい機にしなければいけないと思う」
「全く、そうだ」

 みんな一様に、機関誌「プロレタリア文学」に発表された堀英之助の論文を思い出していた。日和見主義に対する闘争のために書かれていたその論文は、小林らしいという噂さが高かったのである。

「これはコップ葬になるだろうな」
「勿論コップ葬だね」

 常任の話をわきに聞いて私はおもった。

「コップ葬だろうか?」

 私は昨年十二月四日本所公会堂で行われた岩田義道の労農葬を思い出していた。同志小林は、勿論文化戦線の最初の犠牲者ではある。しかしその彼の功績は、彼が文化活動を正しくプロレタリア戦線の中に、政治の優位性に統一させたところにある。そう思い、私は彼の葬儀を闘うのに、文化主義になりたくないと思った。なってはならぬというよりも、なりたくないと感情的に思った。

 一応新聞に発表された築地病院へ電話をかけて見ることになり、私が出掛けた。ピポウ、と西武電車が淋しく走っている道に、自動電話を探した。最初、弁護士の家へ電話をかけ、「あなたのおしゃることはちっとも分かりませんよ。あんまり早くて……」

 そう言われ、初めて自分の興奮していることに気づくのであった。人どおりの少くなっている通りに、さぞかしカン高く響いたことであろうと苦笑した。

 もう少し先きに、みんな自宅へ帰ったと答える病院の看護婦の横に、警察の影を強く意識しながら、屍体も一緒であろうかと聞くと、そうだという。

 一度まごつきながらも、屍体という言葉を自分で言った。その言葉でなければもう通じなくなっている!

 すぐみんな一緒に馬橋の小林の旧宅へ向った。通りの商店ももう戸をおろしている。みんなものを言うと慄える気持ちで、えり巻きにあごを埋めて歩いた。私は、我々のこの思いを明日すぐ刑務所の同志に知らせなければならぬと思う。この重大なことについて刑務所にいる人々は知らぬのだ。と思うと、隔離されている感じが生々と深く胸をえぐった。その人々にとってもまた、小林はもっとも信頼の念を通わせている一人であろうのに。自分たちの囚われたあとに、自分たちの口惜しさをもこめて、あとの闘争に一層の彼の活動を思うことは、囚われた同志たちの一つの希望であったのに違いない。

 暗い生垣の間の道を脱けて出る。ああ、この通り、まだみんな外にいた昨年三月以前に小林を尋ねて来たこの道、小林がいなくなってから一度も来なかっただけに、想い出が私の眼を打った。小林の家近くなると、私は思わず駆け出した。

 江口渙が唐紙を開けてうなずいた。玄関を上って左手の、小林のもとの部屋だ。黙って入り、黙ってその屍体のそばへ寄った。泣きながら、おっ母さんが、安田博士と一緒に小林の着物を脱がせている。中條と私がすぐそれを手伝い始めた。

 なんということだろう。こんなになって!

 腕を袖から脱ぎつつ、おえつが私の唇を慄わせた。

 中條が、

「おっ母さん、気を丈夫に持っていらっしゃいね。多喜二さんは立派に死んだのだから」
「ええ、わかってます」

 はあアと息をして、息子のこわばった腕に片手をおいて涙を拭いた。

 蒼ざめ、冷めたくこわばったこの顔、ああやっぱり小林多喜二であった。普断着て活動していたのであろう。この銘仙絣の着物をまといながら、十一カ月ぶりに自分の部屋に帰って来ていて、彼はもうそれを知らない。ああ、着物だけが生きている。

 さきに着いていた男たちも傍へ寄って、屍体を見た。ズボン下が取りのぞかれてゆき無残に皮下出血をした大腿部がみんなの目を射た。一斉に、ああ! と声を上げた。白くかたくなった両脚の膝から太股へかけ、べったりと暗紫色に変じている。最近にこれと同じ死に方をした岩田義道をすぐ思い出させた。思い出しながら、足の先きの方へ押しやられたズボン下に、警察の憎むべき跡始末の手を見た。

 安田博士の説明のそばで、おっ母さんは屍体の襟もとをかき合せてやりながら、劇しく怒るように言い続けた。

「心臓が悪いって、どこ心臓が悪い。うちの兄ちゃはどこうも心臓悪くねえです。心臓がわるければ、泳げねえでしょう。うちの兄ちゃは子供の時からよう泳いでいたのです」

「そうよ、そうよ、心臓なんかじゃないわ。みんながよく知ってるから、ね、おっ母さん、あんまり心配しない方がいい」

 中條に手をかけられて、おっ母さんは、息が苦しいように胸を波うたせて、はあア、おおッと声を上げながら頷いた。膝を崩しているよそ行きの着物が、病院へとんで行った有様を思わせ、みんなの胸をしめつけた。流れる涙を腹立たしそうに丸めて握り込んでいるハンカチでこするように横に拭いて、

「何も殺さないでもええことです。ねえ、あなた」

 また、急にあきらめ切れぬように、ハンカチを離すと、今合せてやった多喜二の襟もとをかき開け冷めたくなった平な胸を狂おしく撫でて見廻した。

「あああ、どこら息つまった。何も殺さないでもええことハア、いたわしい。なんていうことをしたか。どこら息つまった」

 はあッ、おおッと、うなるように泣いた。

「それ、もいちど立たぬか。みんなの前でもいちど立たぬか」

 息子の顔を抱え、自分の頬を押しつけてこすった。みんなが、永いこと見なかった小林の、生きている時の面影を見ようとするその顔は厚ぼったく瞼が閉じられ血が引いてしまっている。おっ母さんはその顔に血を通わそうとするように力を入れて自分の頬をこすり合せている。私は四歳になる自分の男の子を思い出すのであった。

 部屋の中は次第に人が集まってきていた。久しぶりに顔を合すものたちも黙って目を見合すだけである。その中でおっ母さんの吐息とも泣き声ともつかぬ胸をついて出るうめき声だけが続いた。誰かが見兼ねて次の部屋へやすませるように言う。弟の三吾さんが静かに手を引いて連れ出そうとするとそれを振り払って、

「大丈夫だてば、どうもない。大丈夫だてば」

 茶碗の水も飲もうとせず、小林の身体を守るように絶えず布団をかけたり髪を撫で上げたりした。そして、胸を張って苦しそうにはアッ、おおッと息をはき、また思い出して小林の上にかぶさるようにかがんで、こめかみや首の傷をこすってはあッと深く泣いた。

「ここを打つということがあるか。ここは命どころだに。ここを打てば誰でも死にますよ」

 小林の死の苦しみの跡を追いその苦しみを自分の身に感じとってこめかみの両頬のあごの下の傷あとを撫でる母親に、また敵の兇暴な手段が直かに感じられた。親せきの婦人が三人転がるように走り込んできて小林のそばに泣き伏した時、おっ母さんは顔を上げ小林の屍の上に目を落してはっきりと言った。

「殺されたのですよ。多喜二は」

 その言葉で、三人の婦人が一層声高く泣いた。

 みんなそれを囲み、唇を強つく合せてまっすぐに坐っていた。日本のプロレタリアートにとって一つの誇りであった世界的プロレタリア作家小林多喜二は、遂に、野ばんな封建的な日本の白テロによって虐殺された。みんな、自分の生きている現在に対して今一度がく然と思いを新たにした。

 「一九二八年三月十五日」の作品において日本ブルジョア地主の拷問の事実を暴露した小林は、自身その手にたおれた。それは勿論偶然ではない。と同時に、敵は自分の階級の戦争を成功的に遂行するために、プロレタリアートに対する拷問の手を遂に虐殺にまで公然となしつつある。我々は重大な時期に生きている!

 東京の城西阿佐ヶ谷の一隅で、世界的共産主義作家小林多喜二の通夜が、かくして三、四十人の同志の悲憤と逆襲の決意の下に更けていった。

 翌二十二日午前二時朝早く用のある壺井や、乳のみ児をおいてきた私や中條などが安田博士と一緒に外へ出た。みんなまた明日も一度小林を見るつもりでいた。外はまばらに星の見える暗夜であった。露路を出たところに外套のかくしに両手を突っ込んだ巡査が後向きに立っていて四人の足跡を聞くと二、三歩前へ歩きだした。四人はその姿にも劇しい憎悪を抱きつつ、傍を通り抜けた。踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った。

 ああ、とみんな両方で立ち止まった。その低い叫びの中で小林の死に対するお互いの気持ちを分け合った。

「お互いに、しっかりしていましょうね」

 原泉子がそう言って私の手をしっかり握った。

 朝刑務所の窪川に面会に行った私は面会窓の狭い入口でいきなり口を塞がれた手をはねのけるように看守と争っていた。

「そんな、そんな、とても親しい友達だったのに、その友達が死んだことを言っちゃいけないなんて、冗談じゃない」

 そんなら面会させることは出来ない、という。

 むっつりとして入ってゆくと、木綿のドテラをごわごわと着ぶくれている窪川がこちらを見て、どうしたのか、と聞く。

「うん」

 私はそう一時言葉をつめ、

「昨晩お通夜をしてね、そのことで話しに来たんだけど、言っちゃいけないって言うもんだから」
「ああ、そうか」

 何か探るように表情を変えて私を見た。看守は筆記の手を止めてじっと私たちを見ている。

 われわれはトンチンカンな十五分を終えた。

 敵はわれわれを復讐の決意に立たしめることを防ぐつもりで、ここでもわれわれの口を塞いだ。われわれの決意が、単に口を塞いだだけで燃え立たぬと思っているのか。

 ここで一緒になった壺井と帰りながら、二人とも感情の半分を刑務所に取り残して来たように充分息がつけぬようなうっ積した気持ちで、声高くそのことを話して歩いた。

 夜八時すぎて小林の家へ急ぐ。広くなった東中野の駅前の通りに商店の明るい電燈が空虚に光り、道はしんかんとしていた。その中でひとりラジオが、ガアガアと軍歌をまきちらしていた。

「この頃ったら、ラジオはまったく軍歌ばかりよ」

 壺井が腹立たしそうに言う。

「だから小林は殺されたんだわ」

 ラジオの軍歌だけが示威的に走っている。広いガランとした淋しい商店街の空気にそのまま今日の日本の情勢が反映されているように感じられ、その中をわれら二人、虐殺された小林多喜二の家に急いでいることが、非常に歴史的に感じられた。

 われわれはラジオの軍歌の蔭に、じかに日本ブルジョア地主の手を感じた。小林の死を思い、も早そこでは悲しみ脱けた階級的憎悪がひしひしと二人の歩む足音をかたくした。

 われわれの憎悪は個人に対して向けらるべきではなく、階級全体に向けられねばならぬというようなことは、全くそれだけでは公式的で実際にその憎悪感が中身をもって感じられる時、ちゃんと統一されているというようなことを二人は話して歩いた。

 阿佐ヶ谷へ降りた私たちは小林の家に警察の手を幾分予想しつつ急いだ。しかしまだ私は大勢の同志に守られた小林の屍を思っていた。道は、小林の家近くなっても、まるで何事もないかのようにしんかんとして、人通りも無く暗い。

 小林の家の戸を開けると、下駄が二、三足しかない、と、弟の三吾さんが急いで出て来た。

「みんな検束られたんですよ。早く気をつけて帰って下さい」

 三吾さんの肩の蔭から誰もいない座敷に花のある祭壇をチラッと見た。

 家を出ると、もう露路に二人の男が入って来ていて、私たちの両側に立ちはだかった。

 露路の入口の空家に、七、八人の私服がたむろしていて連れてゆかれたわれわれを見た。

 留置場の廊下で先きに入っていた一人の同盟員から小林の解剖がどこでも断られたということを聞いた。

「じゃ、解剖出来ないの」

 私はせき込むように言った。それから黙って目をギラギラさせるような思いで、ジッと対手を見て唇を噛んだ。あの無残な小林の屍体が、方々持ち廻られたことを思い涙がにじんで来た。涙をにじませながら、目を見張り、唇を噛んだ。

 小林の屍の前から引かれて来た男たちも、大勢監房の中にいる。

 付記 同志小林多喜二の葬儀は、日本プロレタリアートの血の恨みの日、三月十五日に、労農葬として全国的に闘われることに決定された。

 尚、文化運動の最初の犠牲者としての小林多喜二を永く記念するために二月二十日を文化デーとしてプロレタリアートの闘争日に加えることになった。

―― 一九二三・三・一三 ――

http://www.suiyokai.org/probun/takiji/death.shtml

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