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アウシュヴィッツの歩き方(重要なお知らせ)   これから現地に行く皆さんへ
http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/183.html
投稿者 西岡昌紀 日時 2009 年 2 月 19 日 19:49:14: of0poCGGoydL.
 

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 これからアウシュヴィッツを訪れようとする皆さん、行く前に、以下の文章を必ずお読み下さい!

 驚かないで下さい。私は、今日、アウシュヴィッツ=ビルケナウで公開されて居る「処刑用ガス室」は、第二次大戦後、ポーランドを支配したソ連またはそれに追随したポーランドの共産主義政権が捏造した物であり、第二次大戦中、アウシュヴィッツ=ビルケナウに処刑用ガス室は存在しなかったと確信します。その理由は、以下の様な物です。これからアウシュヴィッツを訪れる方には、以下の問題点を知った上で、アウシュヴィッツを見学される事をお勧めします。特に、ビルケナウ(第二アウシュヴィッツ)を訪れる際には、以下の文章の中で言及されて居る、「4つ有る筈の穴が一つしか無い」と言ふ指摘を肝に銘じて、そこで公開されて居る「地下式のガス室」を見て下さい。

 皆さんは、これでも、アウシュヴィッツに処刑用ガス室が在ったとお考えに成るでしょうか?

                                                  西岡昌紀(内科医)

      

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 アウシュヴィッツは二つの収容所から成るわけですが、先に作られた第一アウシュヴィッツにも後から作られた第二アウシュヴィッツ(別名ビルケナウ)にも、それぞれ「ガス室」があったと説明されています。より多くの人間が殺されたのは、後者(第二アウシュヴィッツ)の複数の「ガス室」においてだったと説明されていますが、先に作られた第一アウシュヴィッツ収容所にも一つ「ガス室」があったとされています。
 その「ガス室」の実物とされる建物が第一アウシュヴィッツで公開されていますが、これは、火葬場と一緒に一つの建物の中にあるので、「第一死体焼却棟(Krematoruim 1)」と呼ばれるのが普通です。これは、アウシュヴィッツで最初に作られた「ガス室」ということになるわけですが、この建物は、マスコミなどで非常に頻回に紹介されてきたものです。つまり、二つあるアウシュヴィッツ収容所に点在する複数の「ガス室」またはその残骸の内、一番有名なものと言えるのですが、ここを管理するポーランド当局、即ちアウシュヴィッツ博物館は、この「ガス室」は初期に使われたもので、そこでは、前述のように、青酸ガスが使われた、と説明しています。というより、隣接する第二アウシュヴィッツを含めて、アウシュヴィッツ全体に複数の「ガス室」が存在し、それらの「ガス室」全てで青酸ガスが使われた、と説明されているのです。

 青酸ガス(HCN)は確かに猛毒ですから、そのこと自体は不合理ではありません。しかしながら、問題は、その発生方法です。前述のように、ポーランド当局及び「定説」側論者たちは、チクロンB(英語でサイクロンB)という製剤を使って青酸ガスを発生させたと主張しています。このチクロンBというのは、猛毒の青酸ガスをパルプのかけらなどに吸収または吸着させたもので、当時のドイツでは、倉庫や船の害虫駆除にこれが使われていました(後述)。そうした青酸ガスを含んだパルプ片などが缶に入っていて、缶を開けると、そのパルプ片が徐々に遊離するというのが、この薬剤(殺虫剤)の仕組です。チクロンBからの青酸ガス遊離は加熱によって早まりますが、こうした問題については後ほどお話しましょう。とにかく、それを使ったというのです。
 話を、第一アウシュヴィッツの「ガス室」に戻すと、この「ガス室」では、天井に開いた幾つかの「投入孔」から、そのチクロンBが投げ込まれたということになっています。つまり、天井(屋根)の小穴から投入され、「ガス室」の床に落ちたチクロンBが青酸ガスを発生することで、「処刑」が行われた、とアウシュヴィッツ博物館などは説明しているのです。しかし、そのようなことはこの建物の一室で行われたと信じるには、あまりにおかしなことが幾つもあるのです。

 先ず、この建物(「第一死体焼却棟」)は、ドイツ人用の病院の真ん前にあります(前頁参照)。距離は、大体20メートルくらいです。こんな場所に「ガス室」を作ったのでは、「ガス室」での処刑後、内部を換気するために「ガス室」内部の青酸ガスを排気した時、一体どんなことが起こるか想像して頂きたいと思います。そうです。真向かいの病院にいるドイツ人たちが、生命の危機にさらされてしまうはずなのです。この建物が処刑用ガス室の建物だったとしたら、その位置はこんなにも馬鹿げたものなのですが、それにも拘らず、ポーランド当局は戦後ずっと、この建造物を「ガス室」と言い続けてきたのです。

 また、先ほどの話に関係しますが、この建物の「ガス室」とされる部分の天井には、「投入孔」があります。つまり、ここから問題のチクロンBが投げ込まれた、というわけです。しかし、この「投入孔」を見ると、奇妙なことに気が付きます。この建物の屋根天井の内、これらの「投入孔」の周りだけが、コンクリートの質が違うのです(次頁参照)。つまり、これは、これらの穴が後から開けられたことを意味すると思うのですが、一体なぜ、後からこの穴が開けられたのでしょうか?その上、この「投入孔」は非常に粗雑なくり抜き方で開けられていることにも注目しなければなりません。これが何を意味するかと言うと、この穴には気密性がないということです。ところが、これは、処刑用ガス室の構造としては、決定的におかしいことなのです。即ち、青酸ガスによって処刑を行なうなら、その「ガス室」には極めて高度な気密性が要求されるはずですが、この「投入孔」を見れば、この「ガス室」(?)にそんな気密性がないことはあまりにも明らかです。
 後で述べますが、アメリカには、「ガス室」が現実に死刑の一手段として使われてきた歴史があります。また、そおで使用されるガスも青酸ガスですが、こうした処刑用ガス室には高い気密性求められることが、例えば、『処刑の科学』(バート・ロンメル著/遠藤比鶴訳、第三書館)という本などに述べられています。それは当然でしょう。ガス室で処刑が行われる際には、ガス室周囲に処刑を行なう人員がいるのですから。彼らの生命が危険にさらされないためには、ガス室に高度の気密性が備えられていなければなりません。また、アメリカのガス室では、処刑後のガス室の換気も、周囲に危険を及ぼさないように、特殊な方法が採用されています(後述)。とにかく、このように気密性のない建物を処刑用ガス室として使用したら、処刑中に青酸ガスが外部に広がり、処刑に従事する作業員たちの生命が脅かされたことは明白です。一体これが、本当に、処刑用ガス室だったのでしょうか。

 また、この第一死体焼却棟(「クレマ1」)の「ガス室」には換気装置の痕跡が見られません。そもそも、この「ガス室」はドイツ人用の病院の真ん前にあり、これでは、「ガス室」を換気する際、ドイツ人たちの生命に重大な危機を生じてしまうことは既に述べました。しかし、その点に目を瞑ったとしても、仮にこの建物のこの部屋が「ガス室」だったとしたら、処刑後、この「ガス室」をどう換気したのか、という問題は、全く未解決のままなのです。
 ここで参考にしたいのは、アメリカの処刑用ガス室における換気の方法です。アメリカには、先ほども少し触れましたが、1924年以来、現実にガス室による処刑が死刑の一手段として行われてきた歴史があります(前出『処刑の科学』)。そして、そこで使われているガスは、アウシュヴィッツで使われたとされているのと同じ青酸ガスなのです。
 死刑の話など気分の良いものではありませんが、これについては日本語でも前出の本のほか本が出されており、その技術的側面が記述されています(同書)。今お話ししている換気の問題について言うと、アメリカの処刑用ガス室では、処刑後、その青酸ガスを長い煙突(stack)を通して徐々に排気するという方法が取られているのですが、これは、青酸ガスが空気より軽いことに関係がある方法だと思われます。
 即ち、青酸ガスは猛毒ですけれども、空気より軽いので、背の高い煙突を通して徐々に排気すれば、何とか周囲に危険を及ぼさずに、処刑後、ガス室の換気を完了できるということなのだと思われます。(余談かも知れませんが、青酸ガスは空気より軽いため散逸してしまいやすく、化学兵器として使われ難い、という意味の記述が、「定説」側の権威ある本に書かれてあります。ですから、青酸ガスが空気より軽いことが、アメリカの処刑用ガス室におけるこうした換気性と関係があることは確かと言っていいと思います)
 ところが、このような背の高い煙突を含めて、「ガス室」を換気するための装置が、この自称「ガス室」にはないのです。「ガス室」出入り口の扉を開けて自然通風で換気するとか、天井の「投入孔」から排気するという方法はありますが、これにはこれで大問題があることは、後でお話しします。他にも、この建物には色々な不合理が指摘されていますが、例えば、この煙突はどうでしょうか。「ガス室」の隣の死体焼却室の煙突とされているものですが、この通り、建物とつながってすらいないのです(前頁写真=西岡撮影)

 このように、その位置といい、気密性が欠けていることといい、換気装置の痕跡がないことといい、この「ガス室」はおかしなことだらけなのです。しかし、もっと決定的なことをいいましょう。最近、この「ガス室」が偽物だということを、何と「定説」側論者が言い出したのです。それは、エリック・コナン (Eric Conan)という、「定説」側の論者ですが、彼は、もちろん第二アウシュヴィッツ(ビルケナウ)にある「ガス室」については何ら疑問を投じてはいません。しかし、ことこの第一アウシュヴィッツの「ガス室」に限っては、「そこにある全ては偽物である(Tout y est faux)」と、アウシュヴィッツ解放50周年を特集した、フランスの週刊誌レクスプレス(l'Express)誌上の記事で、ついに認めているのです。
 この驚くべき記事が出た背景には、アウシュヴィッツを巡るユダヤ人とポーランド人の間の対立があります。即ち、二つあるアウシュヴィッツ収容所の内、この第一死体焼却棟がある第一アウシュヴィッツは、「ポーランド人受難の地」として語られる傾向が強まりつつあるため、コナンを含めたユダヤ人にとっては意味が薄れつつある、という背景です。しかし、これはややこしい話なので、後述することとして、ここでは、その「定説」側論者コナンがそれを認めざるを得なくなったもう一つの背景と思われる問題についてお話ししたいと思います。それは、この「ガス室」に関するアウシュヴィッツ博物館の説明に一貫性がないということなのです。
 何度か触れている通り、今日アウシュヴィッツを管理しているのは、ポーランド政府の意向を反映した、アウシュヴィッツ博物館という組織です。この組織は、二つのアウシュヴィッツ収容所を共に管理していますが、博物館それ自体は第一アウシュヴィッツにあり、その収容所の建物の中で、色々な物品を展示したり、アウシュヴィッツに関する資料を管理したりしています。その第一アウシュヴィッツに今お話ししている「第一死体焼却棟」があるわけですが、二つのアウシュヴィッツ収容所に「現存」する複数の「ガス室」(またはその残骸)の内、最も良く建物の形態が「保たれている」のは、この第一死体焼却棟の「ガス室」なのです。
 ところが、この第一死体焼却棟に関するアウシュヴィッツ博物館の説明には、根本的な問題があるのです。それは、この建物が当時そのままのものなのかという点について、博物館側が矛盾する説明をしてきたという事実なのです。つまり、先に挙げた様々な不合理全てに目をつぶったとしても、この建物が当時そのままの状態になければ、この建物に「物証」としての価値などありません。当然、と言うべきでしょう。アウシュヴィッツ博物館は永年、この第一死体焼却棟はドイツ人がアウシュヴィッツにいた頃のままの状態にある、と説明し続けてきました。
 ところが、そのアウシュヴィッツ博物館は、この建物が持つ様々な不合理について追及されると、「この建物(第一死体焼却棟)は復元されたものです」等と言って弁明することを繰り返してきたのです。一体、この「ガス室」は当時そのままのものなのか、それとも後から「復元」されたものなのか。この根本的な問いに対するポーランド当局自身の答えが、こんなものなのです。

 そして、1990年代には、博物館側の責任者がはっきりと、この「ガス室」は「再建されたもの」だと言い、戦争中そのままのものではないことをはっきり認めるようになっています。しかし、かつては、「当時のままの状態にある」と言っていたのですから、これは、話が変わったとしか言いようのない変化です。譬えて言えば、再建された金閣寺を京都市が「当時のままの建物」と説明していたようなものです。そして、それを観光客に問いつめられて、「実は再建したものです」と認めたようなものですが、こんな「説明」をしたら、誰であれ、信用されなくなることは、当然です。その上、この建物の場合は、その「再建」が信用できるという保証は何もないのです。それどころか、戦争直後の写真を見ると、明らかに現状と違うことが分かるのです。例えば、前頁の写真をご覧下さい。これは、「定説」側のプレサックという論者の本に載っている、1945年のこの建物の写真(上)ですが、私が94年に撮った写真(下)と比較して下さい。あの煙突は、戦争直後には立っていなかったではありませんか。

 次に、この第一アウシュヴィッツから2キロほど離れた第二アウシュヴィッツ(ビルケナウ)収容所の「ガス室」について考えてみます。前述のように、この収容所は後から建設されたものですが、その面積は第一アウシュヴィッツよりはるかに広大なものです。そして、その広大な収容所敷地内及び周辺に複数の「ガス室」は存在したと、「定説」側は主張します。そうした「定説」の主張を要約すると、ビルケナウ収容所の敷地内には、「ガス室」を備えた建物が合わせて四つ、加えて、収容所外部にも、ガス室を備えた家が二つ、或る時期、収容所に隣接して存在していたというのです。

 ここでまず、重要なことを言います。ビルケナウには、このように、複数の「ガス室」が存在し、稼働していたというのですが、それら「ガス室」の「実物」は、それぞれ程度は違いますが、皆、破壊された状態にあり、「そのままの状態」で存在しているものは一つもないのです。「ドイツが破壊したからだ」と説明されていますが、これらの建造物を破壊したのがドイツだという証拠は何もありません。「ヒムラーが隠滅を命じた」という意味のことを書いている本もありますが、これはただ、戦後そういう「証言」があるというだけのことで、そんな命令文書が残っているわけではないのです。

 そこで、それらの「破壊されたガス室」について考えてみます。先ず、今日、ビルケナウ収容所の敷地内には、前述のように、処刑用ガス室を内部に持っていたとされる建物の残骸が全部で四つ存在するわけですが、これらは、建てられた順に、「第二死体焼却棟」「第三死体焼却棟」「第四死体焼却棟」「第五死体焼却棟」と呼ばれています。(「第一死体焼却棟」は、第一アウシュヴィッツにある)
 これらの建物については順にお話ししますが、ここで一つ重要なことを指摘しておきます。それは、その内部に「ガス室」があったかどうかは別として、これらの建物は当時明らかに存在していたということです。ですから、これらの死体焼却棟を見た人々は、当時たくさんいたのです。ですから、仮に「私はガス室を見ました」という元被収容者がいたとしても、その証言の意味は、これらの建物を外から見たという意味かも知れないのです。
 ビルケナウには、第一アウシュヴィッツよりも多くの人々がいたこともあり、戦争中そこにいた人々の証言はマスメディアなどに非常にしばしば登場します。しかし、後で述べますが、そうした証言の主たちは本当は何を見たのか、きちんと検証されているとは到底言えないのが、「アウシュヴィッツ」を語ってきた戦後のマスメディアの現実です。こうした「証言」の問題については、後述したいと思います。

 では、そうしたビルケナウの死体焼却棟を検証してみましょう。ビルケナウの死体焼却棟は建設された順に番号が書いてあるので(116ページ参照)、その順に検討を加えてみたいと思います。
 先ずは、第二死体焼却棟(Krematorium 2)です。ドイツ人たちが、第一アウシュヴィッツに第一死体焼却棟を作った後、隣のビルケナウに最初に作った火葬場が、この第二死体焼却棟です。重要なことは、この建物には地下室があったことですが、そのことは、現場からも当時の図面からも明白です。
 この建物の地下部分は全体でL字形をしていて、そのLの字が、火葬場の地下から東西と南北に伸びて走っているわけですが、問題は、「定説」側が、これらの地下室の一つが処刑用ガス室として使用されていたと主張していることです。その真偽についてはこれから論じるとして、先ずは、「定説」側が、この建物についてどのような説明をしているかから、お話ししたいと思います。そこで、118ページをご覧下さい。これは、ポーランドのアウシュヴィッツ博物館が、この建物がどのように使われていたかを「説明」するために描いたイラストです。
 ご覧のように、彼らは、この建物の地下室の一つが「ガス室」だったと主張し、そこで青酸ガスによる処刑が行なわれたと主張します。そして、処刑された死体は、隣接する部屋からエレベータで地下の火葬場に運ばれ、焼却された、と「説明」するのです。これは、アウシュヴィッツ博物館のみならず、この「ガス室」に関する「定説」側の一致した「説明」と言えます。
 この説明の信義についてはこの後で論じますが、その前に重要なことを言っておきたいと思います。それは、この「ガス室」は、或る意味で、「定説」の命運を決定するほどに重要な「ガス室」だということです。何故なら、「定説」の言うところによれば、ビルケナウ収容所は、第一アウシュヴィッツと違い、作られた当時から「ユダヤ人絶滅」を目的に建設された収容所だったとされ、かつ、そのビルケナウに最初に作られた「ガス室」が、この第二死体焼却棟の「ガス室」だったとされているからです。つまり、この「ガス室」は、初めから「ユダヤ人絶滅」のために作られた収容所の最初の「ガス室」だったとされているのです。ですから、この地下室は最初から「ガス室」として設計されていなければおかしいのであり、もし、そうでなければ、ビルケナウ収容所の建設目的それ自体が、「定説」の説明とは違うものだったということにもなりかねません。この点については後でお話ししますが、重要な点なので、もう少し説明しておきます。

 「定説」側の説明によれば、第一アウシュヴィッツの方は、最初は普通の強制収容所だったものが、途中から「絶滅収容所」に切り替えられた収容所だった、とされています。しかし、この第二アウシュヴィッツの方は、その第一アウシュヴィッツが「ユダヤ人絶滅」を遂行するには手狭なので、増設された収容所だとされているのです。ですから、それは、第一アウシュヴィッツとは違い、初めから「ユダヤ人絶滅」を目的に建設されたはずなのです。ところが、仮にこの主張が本当だと仮定すると、既に第一アウシュヴィッツで「ガス室」という処刑法が採用されていたのですから、新しく作られたビルケナウ収容所には、建設当初から「ガス室」を作ることが計画されていたと考えるのが妥当なはずです。ところが、そのビルケナウに作られた最初の処刑用ガス室がこの第二死体焼却棟の地下室だったというのですから、この建物の地下室は、初めから処刑用ガス室として設計されていなければおかしいのです。この点にご注目下さい。この点について、「定説」側論者の一人が、重大なことを述べているのです(後述)。

 そのことについては後でお話しするとして、この建物の地下室が「ガス室」だったという説明の不合理を指摘したいと思います。先ず、地下の「ガス室」を処刑後どうやって換気したのか、という問題があります。地下室ですから、気密性を確保するには良いかも知れませんが、人間が一杯に押し込められたその地下室を換気し、死体を搬出するには、大変な時間が必要とされたのではないか、という問題があるのです。青酸ガスは猛毒ですが、猛毒であるからこそ、処刑後、作業員が「ガス室」内部に入って死体の搬出作業をするためには、徹底的な換気が行われなければなりません。しかし、問題の地下室は、隣室との間に出入り口が一つあるだけなので、三方は地中に囲まれている細長い地下室なのです。
 換気扇を使おうと使うまいと、猛毒の青酸ガスを隣室に排気したら、今度はその隣室の徹底的な換気が必要になります。しかし、これは、あまりに非効率かつ不合理なことです。では、地上に排気したというのでしょうか?しかし、そのような装置が存在していた痕跡はなく、戦争中の写真からも、そんなものはなかったらしことが窺えるのです。

 もう一つの疑問は、処刑後、どうやって死体を搬出したのか、という問題です。今述べたように、この地下室には出入り口は一つしかありません。ところが、そんな地下室の中に、人間を多い時は3000人も(!)入れて処刑したと、「定説」側は主張しています。そんな多数の人間をこの地下室に押し込め、処刑し、そして、死体で満杯の地下室を換気したという話自体が驚異です。しかし、さらにその後、そうした多数の死体をたった一つしかない狭い出入り口から搬出して、隣接するエレベータで地上の火葬場に運んだ、というのです。こんな作業がどれほどの人手と時間を要するか、想像して頂きたいと思います。特に、この地下室に出入り口が一つしかないということは、この作業にとって、非常に大きな障害になったに違いありません。医療関係者の方なら、人間の体を運ぶことの大変さを良くご存知と思いますが、こんな話をお信じになれるでしょうか?そもそも、この「ガス室」とされる地下室の面積は210平方メートルなのです。その中に、3000人もの人間が入ったという話自体を、皆さんはお信じになれるでしょうか?

 こうした不合理が、第二死体焼却棟の地下室(の一つ)が「ガス室」だったという説明には、つきまとっています。そして、この建物のすぐ隣にあった第三死体焼却棟は、この第二死体焼却棟と同じ構造の建物ですから、これと同じ不合理をかかえているわけです。
 それなのに、「定説」は、この二つの建物の「ガス室」で最も多くの人々が殺された、という説明をしています。つまり、「定説」にとって、この二つの建物の意味はそうした機能の面においても、非常に大きなものなのです。その上、先ほど述べたように、この第二、第三死体焼却棟は、ビルケナウ収容所で最初に作られた火葬場ですから、はじめからその地下に「ガス室」を作ることが計画されていなかったなら、そもそもこの収容所は何のために作られたのか、という問題が生じるという意味でも、この二つの建物は重要な意味を持っているわけです。ところが、そこに次のような問題が存在するのです。

 前にも触れましたが、このアウシュヴィッツ=ビルケナウに関しては、ドイツ人が作成した書類や図面が多数残され、ポーランドやロシアに保存されています。それらの中には、例えば、この第二、第三死体焼却棟の設計図もあれば、建設業者との間でやり取りされた手紙なども多数残されているのですが、それらのアウシュヴィッツ関連文書や図面をロシアとポーランドで収集し、自分の解釈とともに出版した「定説」側論者に、プレサック(Pressac)というフランスの研究者がいます。
 このプレサックは、1989年と93年に、それらの文書や図面を収録した著作を発表していますが、特に、その89年の著作()は、この第二、第三死体焼却棟の図面を含めて、そうした図面や書類が多数掲載されたぶ厚い研究書です。ところが、この二冊の研究書を発表した「定説」側論者プレサックが、この第二、第三死体焼却棟についてどんな結論を述べているかというと、何と、これら二つの建物は、当初は単なる衛生施設として設計された、と結論付けているのです。即ち、これらの建物は、設計段階では、その地下室を処刑用ガス室として利用する計画などはなかった、それを途中から処刑用ガス室に転用したのだ、というのが、彼がたどり着いた結論だったのです。最終的にこの第二、第三死体焼却棟の地下室が処刑用ガス室として使われた、ということはもちろん譲らないわけですが、少なくとも設計当初にはそこをガス室として使用する意図はなかった、ということを「定説」側論者が認めたことの意味は重大です。しかも、それは、ロシアやポーランドにある膨大な図面を、彼が「定説」側論者の目で検証した結果なのです。

 これが何を意味するかというと、先ず、ビルケナウ収容所が建設された当初、この収容所に処刑用ガス室を作る計画はなかったということです。仮に、彼が主張するように後からこれらの地下室が「ガス室」に転用されたとしても、収容所の建設当初には処刑用ガス室を作る計画がなかったということなのです。ですから、これは、ビルケナウ収容所が「ユダヤ人絶滅」の目的で作られたという命題そのものに疑問を投げかける結論を意味するのです。
 実際、プレサックが自著に掲載しているこの第二、第三死体焼却棟の多数の図面を見ると、問題の地下室には、Leichenkeller(死体安置室)という書き込み以外の名前は与えられていません。つまり、これらの地下室は、火葬に先立って病死者などの死体が安置された、霊安室のようなものだったということです。当時のアウシュヴィッツ=ビルケナウでは、チフスなどによって連日多くの人々が生命を落としてしまいましたが、そのチフスの拡大を予防する目的で、これらの地下室と火葬場は作られ、使用されていたということなのではないでしょうか。それが「ガス室」に転用されたというなら、その証拠を示すべきですが、結論から言うと、プレサックはそのような証拠を提示していないのです。

 こうした様々な不合理に加えて、もう一つ、「決定的」とも言える問題が指摘されています。言われている「定説」側の説明によれば、「ガス室」だったとされる第二死体焼却棟の地下室の天井に小穴が四つあり、その小穴から例のチクロンBが投入されたという話になっています。ところが、この点について、見直し論者の一人であるフランスのフォーリソン(Faurisson)教授は、驚くべきことを指摘しているのです。それは、現在ビルケナウ収容所に現存する第二死体焼却棟に足を運んでその実物を見ると、「ガス室」だったはずの地下室の天井、即ちその地上部分に、肝心の小穴が一つしかない(!)ということなのです。しかも、その一つしかない小穴も、フォーリソン教授によれば、非常に新しいもので、戦後開けられたものだとしか考えられない、というのです。穴がなければ、チクロンBを投げ込めないではありませんか!(私もここに足を運んでいますが、その時は、不覚にも、このことには気付きませんでした。これは、フォーリソン教授に電話で指摘されたことです)そして、フォーリソン教授によると、ビルケナウを管理するアウシュヴィッツ博物館はこのことについて何も説明をしていないということですが、これは、説明できないからなのではないでしょうか?

 次は、同じくビルケナウの第四、第五死体焼却棟についてです。この二つの建物は、ビルケナウ収容所で第二、第三死体焼却棟よりも後に建てられたもので、こられについても当時の図面や写真は残されています。それらによると、この二つの建物は構造が同じで、地下室はありませんでした。第二、第三死体焼却棟と同様、第四、第五死体焼却棟も煉瓦作りで、内部に火葬場があったことは間違いありません。問題は、ここでも、「定説」が、これらの建物の中に、火葬場のみならず、処刑用ガス室があったという主張をしていることです。
 しかし、先ず、この二つの建物は破壊がひどく、煉瓦の礎石が残されているに過ぎません。ですから、第一アウシュヴィッツの第一死体焼却棟は言うに及ばず、同じビルケナウの第二、第三死体焼却棟ほどにも建物の形態は保たれていないわけで、その意味では、そもそも物証としての価値は初めからないと言わざるを得ません。
 それでは、当時の図面はどうかと言うと、やはり、これらの建物の内部に処刑用ガス室が存在したことを示す記載はないのです。ただ一つ、図面ではありませんが、建物が作られていた当時の建設日誌の中に、Gaskammer(ガス室)という単語の出て来るものがあります。これは、「定説」側論者であるプレサックが、1989年の自著の中で、他の複数の文書(後述)とともに提示しているものですが、この日誌に出てくるGaskammerというドイツ語は、確かに処刑用ガス室も意味し得ますが、衣服などを燻蒸、駆虫するための殺虫用ガス室をも意味する単語なのです。(日本語で「ガス」と言ったら、毒ガスとは限らないのと同じです)むしろ、それが普通の使われ方なのですから、それが処刑用ガス室だったというのなら、そういう側の人々は証拠を提示するべきです。現に、ビルケナウには殺虫用のガス室が存在し、被収容者の衣服をシラミ退治の目的で消毒するために使われていました。そのことを考えると、これなども、そうした設備を示す言葉と解釈する方が全く自然だと思うのですが、いかがでしょうか。

 アウシュヴィッツ=ビルケナウの死体焼却棟については、このプレサックが、先の自著の中で、その他にもGasの付く単語(Gaspuefer、Gastuerなど)が出て来る当時の文書を複数、提示しています。しかし、結論だけ言うと、「ガス」という単語が「毒ガス」を意味するとは限らず、単に「気体」を意味することもあれば、他の気体を意味するがあることから理解できるように、それらの単語が、処刑用ガス室に関係していたという証拠はありません。例えば、プレサックは、Gaspruefer(ガス探知器)という単語の出てくる業者宛ての手紙がアウシュヴィッツに残されていることを挙げ、それをアウシュヴィッツ=ビルケナウに処刑用「ガス室」があった証拠でもあるかのように引用しています。しかし、当時、販売されていた青酸ガス探知用のキットには別のドイツ語の単語が使われていたことが、見直し論者であるマットーニョによって指摘されています。それどころか、このGasprueferという単語は、燃焼工学の分野で、焼却炉の排気ガスに関して使われていた技術用語であったことまで指摘されています。つまり、このGasprueferという単語が出て来る業者宛ての手紙は、「毒ガス」の探知に使われたものではなく、焼却炉で使われた器具のことらしいということです。このように、ただ「ガス」の付く単語が出てくる領収書や手紙を集めて提示しても、それらの単語が「毒ガス」や処刑用ガス室に関連したものだという証明がなければ、ガス漏れ警報器の領収書があるからその家にはガス室があると言わんばかりの話にもなりかねません。
 プレサックが提示したこれらの文書の問題については、見直し論者の側から複数の反論が出されているので御参照頂きたいと思います。なお、このプレサックが発表した二冊の研究書は、現在絶版になっています。そのため、私も入手に苦労しましたが、プレサックのその二冊の本は、見直し論者に対する反論として、鳴り物入りで発表されたものだったのです。それなのに、これら二冊の本を、彼(プレサック)の出版社は何故、絶版にしてしまったのでしょうか?

 それから、ビルケナウ収容所を西に出た野原に、「ブンカー」と呼ばれる、「農家を改造したガス室」があったと、「定説」側は主張しています。しかし、これらの「ガス室」は、戦後の「証言」で語られただけのもので、これまでお話しした五つの死体焼却棟(Krematorium)と違って、建物の実物もなければ、図面すら残っていないのです。他の死体焼却棟については多数、図面や書類が残っているのに、この二つの建物(「ブンカー」)については何も残っていないということになりますが、これはおかしくないでしょうか。そして、肝心の建物がないのですから、まるで雲をつかむような話です。
 二つあったとされる「ブンカー」の内、その一つについては、家の礎石のようなものが野原の中にありますが、それがただの農家などの礎石ではなく、「ガス室」を備えた建物だったという証拠は皆無です。そして、もう一つの「ブンカー」は、礎石すらなく、ただ「あった」という戦後の証言があるだけなのですが、一体、その存在はどうやって証明されるというのでしょうか?
 そもそも、農家を「ガス室」に改造した、という話自体がおかしいのです。「ガス室」というものは高い気密性を備えたハイテクなのであって、当時のポーランドの農家を改造してそんな目的に転用できたという話自体、到底信じがたいものです。そんなことが本当に行われたのでしょうか?

 こうした多くの問題も勿論、重要ですが、実は、もっと決定的な科学的事実があるのです。それは、アウシュヴィッツ(ビルケナウを含む)に現存するこれら五つの「ガス室」付きだったとされる死体焼却棟の破片を化学分析したところ、予想されるような多量のシアン化合物がまるで検出されなかったという、重大な化学的事実です。
 即ち、アウシュヴィッツ=ビルケナウには、お話ししたような処刑用ガス室が幾つかあり、そこで、青酸ガス(シアン化水素)を使った処刑が頻回に行われたという話になっています。ところが、その「ガス室」があったとされるこれらの建物(死体焼却棟)からその破片である煉瓦やモルタルを採取し、化学分析した結果、予想されるような多量の青酸化合物(シアン化合物)は検出されなかったのです。これでも、そこに処刑用のガス室が存在した、というのでしょうか?

 このことを報告したのは、ウィリアム・ロス(William Roth)博士という、アメリカの化学者です。博士によるこの化学分析の結果は、フレッド・リューシュター(Fred Leuchter)氏という、アメリカで処刑用ガス室に関する仕事をしてきた人物による調査報告書(通称「ロイヒター・レポート」)に収められています。
 これは、リューシュター氏(日本では、ドイツ語式に「ロイヒター」と発音することが多い)が、アウシュヴィッツ=ビルケナウから持ち帰ったサンプルについて行なった分析で、対照(コントロール)として、戦争中チクロンBによる衣服などの青酸燻蒸が行われていたビルケナウの殺虫用ガス室(delousing chamber)の破片が採られています。この殺虫用ガス室については既に少し触れていますが、皆さんは、そんなものには全くなじみがないに違いありません。これは、当時ドイツや東欧で、チフスなどを予防する目的で汚れた衣服を消毒する際に広く用いられていたもので、当時DDTを持たなかったドイツが、チフスを媒介するシラミを駆除する目的で、広く使っていた設備だったのです。その殺虫用ガス室がビルケナウに残っているので、その断片を対照にしたわけですが、その殺虫用ガス室の断片からは、戦後43年を経ていたこ報告の時点にも、高濃度のシアン化合物が検出されたのです。ここに示すのはこの測定のグラフですが、右端の殺虫用ガス室の断片からはこのように高濃度のシアン化合物が検出されています。ところが、その左に並ぶグラフをご覧下さい。Kremaというのは「死体焼却棟(Krematorium)」の略ですが、第一、第二、第三、第四、第五死体焼却棟(Krema T、U、V、W、X)のグラフはどうでしょうか。殆どゼロなのです(ごくわずか検出されるシアン化合物は、当時行われた青酸燻蒸の名残りだと考えられます)。これは一体、どういうことなのでしょうか?
 この報告をまとめたリューシュター氏は、アメリカのマサチューセッツ州で、処刑用ガス室に関連したコンサルタントを営んできた人物です。氏は、1988年に、カナダで見直し論の出版物配布を巡って起きた裁判に弁護側の依頼を受けてポーランドを訪れ、アウシュヴィッツ=ビルケナウ、及びマイダネックの「ガス室」をガス室専門家の目で現地調査した人物ですが、その現地調査の際、これら「ガス室」があったとされる建物の断片をポーランドからアメリカに持ち帰り、前述のロス博士に分析を委託しました。(この裁判はツンデル裁判と呼ばれ、「ガス室」論争に大きな影響を残しています。この裁判については、「注46」をお読み下さい)。
 その結果がこれなのですが、頻回に使われたはずの「ガス室」跡からはシアン化合物が殆ど全く検出されず、対照として採取した殺虫用ガス室の断片からはこのように高濃度のシアン化合物が検出されるのです。これは一体、何故なのでしょうか?そこに「ガス室」などなかったからなのではないでしょうか?

 この報告書(「リューシュター・レポート」)が書かれた経緯については、「注46」で別にお話ししますが、この報告書が88年に発表されると、当然と言うべきか、「ガス室」の存在を主張する側から、強い反発が生まれました。そうした「反発」には、感情的なものや政治的なものが圧倒的に多かったのですが、解釈は別として、この「リューシュター・レポート」の分析値自体が正しいことは、皮肉にも、この報告書を批判したポーランド・クラクフの法医学研究所の論文によって裏付けられています。即ち、この報告に反論しようとしたポーランドの法医学者たちが、同じようにアウシュヴィッツ=ビルケナウの色々な場所からサンプルを採って化学分析をしたのですが、彼らの報告は、データの解釈において「リューシュター・レポート」に反駁してはいるものの、ロス博士が報告した「リューシュター・レポート」の分析値自体は、結局、肯定する内容になっているのです。
 死体安置室から極く微量のシアン化合物が検出されるのは、前述のように、当時、チフス予防の目的で行なわれたシラミ駆除のための青酸燻蒸の痕跡と考えられますが、これは、対照に比較して、余りにも微量な数値です。この分析値については、解釈のレベルでの反論として、永い時間が経っているから青酸化合物が検出されないのだ、というものが予想されますが、それでは、対照とした殺虫用ガス室から高値のシアン化合物が検出された理由が説明できません。
 それから、「ガス室」の方は雨にさらされて水で流されたので微量の青酸化合物しか検出されないのだ、という反論がありますが、分析の対象となった五つの建造物(第一アウシュヴィッツの第一死体焼却棟、第二アウシュヴィッツの第二、第三、第四、第五死体焼却棟の断片)の内、第一死体焼却棟は、その構造からして、雨にさらされるわけがないのです。ところが、その第一死体焼却棟からも、予想されるような多量の青酸化合物は全くもって検出されていないのです。 また、青酸化合物が、煉瓦などの鉄と結合して、シアン化合物を形成した場合、その化合物が雨水で容易に流されることはないという反論を、この分析をしたロス博士は述べています。そして、同じ指摘がロス博士以外の専門家からも為されていることをつけ加えておきます。一体、こうした結果と論争の経緯をどう考えればいいのでしょうか。
 このように、アウシュヴィッツ=ビルケナウの「ガス室」については、多くの不合理と証拠の欠如に加えて、化学的痕跡が認められない、という問題が指摘されているのです。これが、アウシュヴィッツ=ビルケナウに、ポーランド当局が、「ガス室」という触れ込みで公開している建物もしくはその残骸の実態なのです。−−

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)100〜135ページより)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

(参考サイト(木村愛二著『アウシュヴィッツの争点』より))
     ↓
http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-54.html

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コメント
1. 中川隆[-10667] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:24:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1375] 報告

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

2. 中川隆[-10698] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:59:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1344] 報告

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

3. 中川隆[-10746] koaQ7Jey 2019年4月13日 08:19:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1296] 報告
【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】 2017/5/11
http://3rdkz.net/?p=250


ナチスドイツの非人道的な人体実験の数々をわかる限りまとめました。

なるべく信頼できそうな資料だけを使用し、誇張することがないよう心がけました。

非常に残酷で吐き気を催す事実が記載されているため、観賞要注意とします。

目次
実験T 低圧・低温実験
実験U 海水を飲料にする実験
実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究
実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験
実験X 毒物接種実験
実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集
実験Z マラリア実験
実験[ 双子実験
実験\ 強制不妊化実験
実験] 飢餓実験


なぜこんなことが起こったか

実験T 低圧・低温実験

低圧・酸欠下での救出実験

hypothermiaドイツ空軍が高度12000メートルに達するジェット機を開発したまでは良かったが、人体がそのような超高度環境にどのような反応を見せるのか、ということに関して信頼できるデータはまだなかった。そこで、ドイツ空軍軍医大尉であり、親衛隊将校でもあったジクムント・ラッシャー博士は、《ライヒスフューラー(親衛隊全国指導者=ヒムラー)》へ手紙を書き、ダッハウ収容所の死刑囚を用いた人体実験の許可を求めた。

1942年3月、ヒムラーは実験を許可し、ラッシャー大尉の責任において、超高度における人体の反応の観察や、パラシュートや特殊機材を用いた救出を実用化するための危険な人体実験が行われた。超高度の低圧環境下で被験者を酸欠の状態に留め置き、どれぐらいの時間をかけて被験者が死亡するのか、またどのようなタイミングでしかるべき処置を行えば彼を救出できるのか、ありとあらゆる場面を想定して実験が行われた。当然のごとく実験は死者が続出したが、ラッシャーは死にゆく被験者の行動を観察し、心電図を記録した。そして、屍を解剖し、肺や心臓、脳の血管の空気塞栓の状況などを記録。逐一ライヒスフューラーへ報告していた。

実験に駆り出された200人の囚人のうち、実に80名の被験者が死亡した。

低体温・冷却からの蘇生実験

freeze
冷却実験の様子

ラッシャーとその協力者たちは、ダッハウにて更に人体実験を行うことにした。今度は海難事故などにより寒冷下に晒された人体を、いかに蘇生・回復できるか、といった実験である。やはりパイロットを救出することを前提とした実験であったが、実際にはダッハウの囚人300名を4〜12℃に冷却した水の中につけ、体を極限まで冷やしたのち、いかにすれば効率よく回復できるかを試すもので、この実験で90名が死亡。今日においてもこの実験結果が国際的専門誌に引用されているという。

この実験は当初よりライヒスフューラーの関心を買った。ヒムラーは冷え切った肉体を温めるためには、同じ人間の皮膚の接触。つまり、裸の女性による抱擁が効果があるのではないか、と考えた(ヒムラーはしばしばこのようなロマンチズムに基づく推測を実践させた)。ラッシャーはヒムラーの意向に沿ってダッハウ収容所より若い女性4名を召喚。そのうちの一人があまりにも見事なアーリア人種の肉体的特徴を備えていたため、ラッシャーは彼女を実験に使用することを拒否したという。つまり、被験者は下等人種とみなされたスラブ人やソ連兵捕虜であり、これを裸で温める乙女がアーリア系であってはならないというのである。この逸話からもわかる通り、人体実験は激しい人種差別の賜物であった。ちなみに女性の体で温める方法は非効率で到底実用に耐えないものであったという。

この実験は、場所を変えてアウシュビッツ収容所でも行われた。アウシュビッツのほうがより寒く、広大で実験が目立たなかったからだという。つまり、被験者は多くの場合、「苦しみにより悲鳴をあげた」からである。ラッシャーは被験者に麻酔をかけることを禁止し、なんら苦しみを緩和するための努力をしなかった。

ある実験では、ソ連軍将校2名がアウシュビッツで、水桶の中に裸で入らされた。通常なら60分程度で意識を失い、死亡するのだが、このソ連将校2名は3時間経過した頃に「同志…銃殺してくれないか」と頼んだという。その後、二人は握手を交わし、「さよなら、同志よ」と言った。ポーランド人の助手が見兼ねてクロロフォルムで二人に麻酔をかけようとしたが、ラッシャーはピストルを突きつけ、これを制止した。二人は5時間後にようやく死亡し、死体は解剖するためミュンヘンに送られた。

ラッシャー夫妻は子供に恵まれず、子供を誘拐、金銭で買い取って自らの子であるとして育てていた。これが明るみに出るとライヒスフューラーは激怒。ラッシャーは多くの囚人を殺害したダッハウにおいて、自らも処刑された。戦争が終わる直前だった。よって戦後もラッシャーは裁きにはかけられず、協力者たちは全ての責任を、同じく死亡したヒムラーとラッシャーにかぶせることに成功。この非道な人体実験で裁かれた者は結局誰一人としていない。

実験U 海水を飲料にする実験

この実験は、やはり海難事故に遭遇し、海の上を漂流することになったパイロットを救うために企画された。

二人の科学者が海水を飲料にするための試みを始めた。シェーファー教授が海水から塩分を分離するための設備を開発しようとして成功したが、これには多額の費用が掛かるため実用性なしと判断された。一方空軍技師ベルカが開発した「ベルカティカ」という薬品は海水の味を飲める程度に変えてしまうもので、この薬品はコストパフォーマンスにも優れ、大量に生産された。

しかし、すぐにこのベルカ方式の海水を飲むと、「より渇きがひどくなる」という声が上がり始めた。味を調整しただけで海水は依然として多量の塩分を含んでいたし、飲みすぎることで渇きが悪化し、下痢すら引き起こすことが分かった。

どちらの方法で渇きを解決するのか、ダッハウ収容所内で再度人体実験が行われた。被験者はいくつかのグループに分けられた。数日間にわたって海水を飲むもの、ベルカ方式の海水を1日500cc飲むもの、1000cc飲むもの、シェーファー方式で精製された水を飲むもの、などである。

被験者はブーヘンヴァルト収容所から連れてこられたジプシーたち40名であった。彼らは表向きは志願であった。実験の詳細についてきちんと説明を受けた上、実験前10日間は完璧な航空兵糧食3000キロカロリーを摂取し、健康管理を入念に行ったうえでの実験であり、死亡した者、後遺症が出た者はいないとされている。しかし、実験は著しく苦しく不快なものとなり、被験者の中には清掃班のバケツの中の汚水を飲んだり、モップから垂れたしずくを舐めた者がいたという。このような実験が本当にすべて志願だったと言えるだろうか?ましてや被験者のほとんどは賤民と見なされていたジプシーである。これは戦後の裁判で検察の激しい疑惑をかい、追及を受け、実験を主導した者たちは禁固15年〜終身刑を受けた。

ただし、実験で重篤な障害を受けた者、死亡した者がいなかったのは確かなようである。フランス人の医療助手や被験者のジプシーのうち数名が、宣誓供述書を提出し、実験を主導した科学者たちの恩赦請求を行っている。

実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究

発疹チフスのワクチン接種実験

東部戦線や各収容所で猛威を振るった発疹チフスから、前線兵士を救うための人体実験がブーヘンヴァルトとナッツヴァイラー各収容所にて行われた。

実験は1942年の春ごろから1944年の末まで続けられた。

それまで存在していた発疹チフスのワクチンは、病気の症状を軽減させることはできても、本来の目標たる免疫力の獲得、つまり病気に罹らずに済む、というものではなかった。これを深刻にとらえたSS上層部の医師団や衛生担当者たちは、人体実験の施行を強く主張。ブーヘンヴァルト内にウィルス研究部が設立され、SS軍医や権威ある熱帯医学者などが参加した。

実験は数十種類にも及ぶ各種ワクチンを接種した上で、数週間の間隔を置いたのち、人為的に発疹チフスに感染させるというものだった。対照群として設置された群は、ワクチン接種群と比較するために、単にチフスに感染させられた。

ワクチンを接種した者たちも、多くの場合、高熱や頭痛など、「発疹チフスの症状」に悩まされた。

被験者に選ばれた者たちは、ドイツ人の刑事犯、ポーランド人、ソ連兵捕虜、ジプシーなどである。健康状態が優良なものたちが数百人選び出され、少なくとも150名以上が死亡した。ブーヘンヴァルトの医師、シューラーSS大尉は終戦間近で自殺したが、彼の業務日誌が囚人によって廃棄を免れた。その中には、他にも黄熱病、チフス、コレラ、ジフテリアに対するワクチンや薬物の効果で800人の被験者が人体実験にかけられたことが示唆されている。

伝染性肝炎ウィルスの研究のための人体実験

独ソ戦が始まると、黄疸症状に悩まされる兵士が非常に増えた。致死的な病ではなかったが、発病者が多く、軍の作戦能力を衰えさせるものとして研究が開始された。肝炎はそれまでバクテリアによる感染と考えられていたが、細菌学者のドーメン軍医大尉がウィルスを発見し、培養するためSSがウィルス株の管理権を要求したがドーメンは拒否して独りで研究を続けていた。

各所からの圧力に耐えかねたドーメンは、ついにザクセンハウゼン収容所内で、囚人に対して人為的に肝炎ウィルスを感染させる人体実験を行った。これは《帝国医師総監(=エルンスト・グラヴィッツ)》の強い要請だった。ドーメンは良心の呵責に苦しめられ、実験が開始されたのは1944年も9月になる頃だった。
http://3rdkz.net/?p=250


アウシュビッツから、子供や青年からなる11人の囚人がザクセンハウゼンにやってきてドーメンに委ねられた。ザクセンハウゼンの第二病棟において彼らの世話をしていた古参囚人ブルーノ・マイヤーは、実験の内容について記録を残している。以下に引用する。


ドーメン博士は医療器具カバンから一本の斜めに歯のついたゾンデを取り出してサウル・ホルンフェルトの背後へ近づき、指で彼の背中を探りました。そしてゾンデを当て、子供の背中の筋肉を通して深く体の中まで突き刺しました。サウル・ホルンフェルトは痛みのあまり、自分の小さな拳を噛みました。急いで私は彼の前へ歩み寄り、声を押し殺して、しっかりしろと言いました。涙で見えない目で彼は私を見ました。そして、医者が再びゾンデを突き刺しました。(中略)その後、私は、ドーメン博士がゾンデから長い針を抜き、ゾンデの開口部に急いで試験管をあてがうのを見ました。黒っぽい血が試験管の中へ滴り落ちました。小さな組織も、―—多分肝臓の一部だったでしょう——少しその中に混じっていました。



結局、肝炎ウィルスを人為的に感染させる実験は成功しなかった。ドーメン博士や囚人たちがその後どうなったかは明らかではないが、博士は戦後実験結果を発表している。

医療用ゾンデ
医療用ゾンデ


第V収容所 1 share 1 user
【人類の負の遺産】アウシュビッツ絶滅収容所の解説と観光案内


少し前に、独りでドイツとポーランドを旅行しました。その際にアウシュビッツ絶滅収容所跡地を訪れました。想像よりも遥かに広大な施設で、展示を全部観ることは不可能でした。そこで得た知見や体験をまとめたいと思います。アウシュビッツ絶滅収容所とはなんなのか...


実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験

人為的にガス壊疽を作り出す実験

1942年5月、《国家保安本部(RSHA)》長官及び、ボヘミア・モラヴィア保護領副総督ラインハルト・ハイドリヒがイギリス諜報部の襲撃を受けて重傷を負った。治療の責任者は武装SSの顧問外科医カール・ゲプハルトであったが、ゲプハルトの飛行機は延着したので直接手術に携わったのはプラハの医師二名である。ゲプハルトは《総統》とヒムラーの個人的な電話を何度も受けた。ヒトラーは自分の主治医であるモレル博士を派遣するとまで言った。

しかしハイドリヒは処置の甲斐なく6月2日に死亡。ゲプハルトはその後ヒムラーと謁見し、「ハイドリヒの死はドイツがこれまで経験したことのない巨大な敗北であった」と《総統》が考えていることを知らされた。ゲプハルトには汚名返上の機会が与えられた。ハイドリヒ長官が負傷による敗血症によって死亡したことを受け、至急、スルフォンアミドの効果を調べる人体実験の実行が決まった。

実験の舞台に選ばれたのは女性専用の強制収容所ラーフェンスブリュックであった。実験の目的は、当時未解明な部分が多かったガス壊疽という症状を分析し、有効な治療方法を見つけ出すことであった。そして、同時に戦場で多く見られる通常の傷口を調べ、有効な治療法を探す目的もあった。

被験者はザクセンハウゼン強制収容所から連れてこられた男性囚人や、ポーランドの抵抗運動に携わった女性囚人たちである。彼らはわざとけがを負わされ、木片やガラス片を傷口に練りこまれた。

《帝国医師総監》グラヴィッツは、実験場を視察し、被験者に死者が出ていないことに対して実験が手ぬるいと感じ、本物の銃創を彼女たちに負わせるように、と命令した。ゲプハルトはこの命令を拒否したが、より傷口の状態を悪化させることに努力したことに変わりはなかった。彼女たちは下腿の血管を結紮され、壊疽性の腐敗病原体を接種させられたりした。そのうえで彼女たちは処置も受けられず何日も放置され、本物のガス壊疽の症状により3名が死亡した。

人為的にひどい敗血症に陥らせた上でスルフォンアミドの効力を実験したが、傷を負わされただけで何の処置も受けられない囚人もいた。実験内容は1943年の5月にベルリンの軍医大学校で発表されたが、出席者の中で被験者の人権について申し述べた者は一人もいなかった。

他人の骨を移植して治療効果を見る実験

ラーフェンスブリュック強制収容所内で、女性を使って行われた他の実験群は骨の再生と骨の移植の実験である。

肩胛骨を他方から他方へ移す実験が行われた。肩胛骨を除去されたのは、ラーフェンスブリュックの精神病患者の女性であった。この女性は肩胛骨を抜き取られた後速やかに薬殺された。肩胛骨を移されたのは、ホーエンリーヘンの血管の癌により肩胛骨を失った若者で、彼は癌を再発することなく生きながらえたという。

この実験のほかにラーフェンスブリュック収容所内で、神経再生、筋肉再生の各実験、切断やその他の実験が行われたといわれるが、その規模や詳細は不明である。収容所医師の一人、ローゼンタール博士は、負傷に苦しみ、助かる見込みのない重症の囚人を20〜30人、楽に死なせるためにモルヒネを過剰投与したと断言している。

実験X 毒物接種実験

イペリッドガス

大戦期間中、ザクセンハウゼン、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフの各強制収容所内でびらん性(皮膚をただれさせる作用)のイペリッドガス(=マスタードガス)の人体実験が行われた。これは例によってヒムラーの命令だった。

イペリッドガスによる負傷の度合いと、効果的な治療法を見つけることがその目的である。この実験はストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士などが主にかかわった。

この毒ガス実験については、ナッツヴァイラーのカポ(囚人頭)であったフェルディナント・ホルの生々しい証言が残っている。


囚人たちは真っ裸にされ、次から次へと実験室の中に入ってきました。彼らは前膊から10センチほどの箇所にその液体を塗られましたが、その時私が彼らの腕を抑えていなければなりませんでした。その後、処置を施された被験者たちは隣の部屋へ行き、そこで腕を広げたまま約1時間立っていなければなりませんでした。約10時間もすると、あるいはもっと長かったかもしれません、火傷が、それも全身に出てくるのです。盲目になった人々もいました。ひどい苦しみで、被験者たちのそばにはとてもいられないほどでした。その後、被験者たちは毎日写真を撮られました。しかもすべての傷の箇所を、つまり全ての火傷の箇所を写真に撮られました。だいたい5日か6日後に最初の死者が出ました。(中略)内臓、肺などは全て完全に腐食していました。その後の数日間に、この実験でさらに7名が死にました。実験は約2か月続けられました。



実験は何度も行われ、平均して毎回7~8名の死者が出た。生き残った者たちも後遺症の残った体でアウシュビッツやベルゲンベルゼンに送られた。

硝酸アコニチン弾丸の創痍研究


極秘事項

帝国医師ー親衛隊警察、主席衛生官

日誌番号 秘364/44 ムルゴウスキー

1944.9.12

硝酸アコニチン弾丸について

SS少佐ディング博士、ウィマン博士、および筆者立ち合いで1944年9月11日、5人の死刑囚に、毒物である硝酸アコニチン結晶入りの弾丸(直径7.65o)を用いて実験を行った。被験者を寝かせ、左大腿に1発撃ちこんだが、2人では弾丸は貫通、後になっても毒作用は出なかったので、実験から除いた。(中略)

3人の症状は驚くほど一致していた。最初は異常がなかったが、20分から25分後に動きが不穏となり、遅れて、よだれが少し出始めた。しきりに飲み込もうとしたが、量が増えて飲み込めないほどになり、ついには、泡を含んだよだれが口から漏れてきた。それから、吐き気、嘔吐が始まった…。

約90分後、1人の呼吸が深くなり、同時に運動不穏も増強した。呼吸は浅く速くなった。同時に強い吐き気が現れたが、吐こうとしても何も出なかった。指を4本付け根まで口に深く入れて吐こうとしたが吐けず、顔は真っ赤になるだけだった。

他の2人の顔は早い時期から蒼白になっていた。他の症状は同じだった。運動不穏の出現は遅れたが、極めて強くなり、棒立ちになったかと思うと、また、床に身を投げ出した。白目をむき、手や腕は意味のない動きをした。最後に、不穏の程度は弱くなり、瞳孔は極度に散大、被験者は静かに横たわるだけだった。1人には咬筋の痙攣が現れ、尿失禁が認められた。3人の死亡は、受傷後それぞれ、121,123、および129分であった。
http://3rdkz.net/?p=250&page=2

総括 およそ38mgの硝酸アコニチンを詰めた弾丸による創自体はひどいものではなかったが、2時間後に致死的な中毒が現れた。中毒症状の出現は、受傷後20分から25分で、主要症状は、流涎、瞳孔径の変化、腱反射消失、運動不穏、強い吐き気であった。

講師医学博士ムルゴウスキー、SS上級大佐、主席衛生官


上の手記と一致するかは不明だが、ザクセンハウゼン収容所で死刑囚を用いた毒の弾丸の実験が行われた、との展示がある。その射撃手はムッソリーニ救出の特殊部隊を率いた、オットー・スコルツェニーSS中佐である。

実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集

hiltストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士は、1942年の2月にヒムラーにあてて手紙を書き、ユダヤ人、共産党員、赤軍政治将校の頭蓋骨収集の許可を求めた。ヒムラーはおおいに関心を持ち、ヒルトに自分の政治的権力の全てを委ねてこれを支援した。

当時、ナチスドイツはありとあらゆる人種の頭蓋骨を収集して、その形態を測定したり、歪んだ人種優生学に基づく様々な研究を行っていた。しかし、ユダヤ人に関しては当時サンプルを獲得する術があまりなかったらしい。独ソの開戦はその状況を打開する最良の機会となった。既にホロコーストは開始され、ユダヤ人と共産党や政治将校は同一視されていた。彼らの頭蓋骨を一定量獲得し、データを取得することで、占領地において効率よくユダヤ人や政治将校と、その他の民族の鑑別を容易にし、効率的に撃滅できる、というのが彼らのデタラメな論理であった。

ヒルトとその協力者たちが、いかにしてそれらのサンプルを選定したかは定かでない。既に収容所にいたユダヤ人なのか、占領地から生きたまま拉致してきた政治将校や捕虜たちだったのか、とにかく、彼らがアドルフ・アイヒマンを通してアウシュビッツの囚人約120名を、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフ各収容所の実験施設へ送ったのは確かである。

それら120名の囚人は「首から上を傷つけぬように」ガスによって殺害され、合成アルコール入りの水槽の中で保存された。ヒルト博士はそれらの死体を細かく解剖。


ヒルトは戦後逃亡先で自殺した。

実験Z マラリア実験

ベルリンのロバート・コッホ研究所所長で、熱帯医学部門長であったクラウス・シリング博士は、1936年の現役引退後も、イタリアでマラリアのワクチンの開発研究を続けていた。1941年末、内務省保健衛生事業担当官のレオナルド・コンティ博士によってダッハウ強制収容所で研究ができることを勧められ、翌2月のはじめから実験を開始。1945年の3月半ばに74歳のシリングが手術を受けるためにミュンヘンにでかけたあと、ヒムラーが実験中止を命令した。(敗戦が近かったからであろうか?)

シリングの3年にわたる実験でおよそ1000人がマラリアに感染させられ、330人が死亡した。

実験[ 双子実験

ベルリン、ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優生学研究所所長のオトマール・フォン・フェアシュアーは、双子に関する研究を手広く行っていたが、戦争が始まると弟子のSS大尉、ヨーゼフ・メンゲレ博士をアウシュビッツに送り込んだ。彼はアウシュビッツの降車上に自ら赴いて、何千もの双子を集めてコレクションし、過酷な人体実験を行った。

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ヨーゼフ・メンゲレ

メンゲレは、静脈をつなぎ合わせてシャム双生児を人工的に作ろうとしたり、眼球に薬品を注射して瞳の色を変えようとした。また、チフス菌を注射して病気の経過を血清学的に記録した。また頭蓋骨の収集もぬかりなく行われ、それらの実験報告を師のフェシュアーに送っていた。メンゲレは3000対の双子を人体実験にかけ生き残ったのは100名だけだった。


ある生存者の報告

ある日、私の双子の兄のチビが特別実験のために連れていかれた。メンゲレは、最初から、チビに非常に興味を持っていた。なぜか知らないが、比較的歳のいった双生児であったからかもしれない。

メンゲレはチビを何回となく手術した。脊椎手術で麻痺となり、走れなくなった。

性器も除去してしまった。4回名の手術後、チビには2度と会えなかった。

私の気持ちがどんなだったか、あなたに言えないし、言葉にも表せない。

私は父、母、兄2人を失っていたのに、また双子の兄もなくしてしまった。


メンゲレは1979年に逃亡先のブラジルで海水浴中に死亡した。

実験\ 強制不妊化実験

ナチの歪んだ人種思想は戦争前から活発ではあったが、独ソ戦の開始と共に東方民族絶滅の意志はますます固くなるばかりだった。その手段としてずっと論議されてきたのが、断種措置による強制的な不妊化処置の遂行であった。

ナチの断種の施策は大きく分けると3つの経過をたどった。

薬品による断種

カラジューム・セグイヌム(サトイモ科の観葉植物の一種)を接種することによって、特に男性は生殖不能となるとされ、この植物を大量に栽培しようとするのだがコスト面で実用に耐えないことが分かった。ヒムラーは農業に大変関心が高い男であったため、カラジューム・セグイヌムの構成要素の分析を進め、人体実験を行うべし、との命令を発した。

しかし、これを命じられたコッホ博士はありきたりな動物実験を行うのみにとどめ、命令を事実上サボタージュした。それはあまりに実用性がなく、他の方法がどんどん進んでいたからであった。

放射線による断種

帝国公衆衛生局に所属し、障碍者の断種・殺害計画に関与したヴィクトル・ブラック博士は、放射線による断種の研究と人体実験の許可をヒムラーに求めた。それまで行われていた外科手術に頼る方法では、あまりに労力とコスト面で現実味がなかったからである。

これをヒムラーは許可し、第Uアウシュビッツ(=ビルケナウ)や女性収容所のラーフェンスブリュックで、それぞれ放射線による断種の試みが行われた。若い適齢期の男女は、何の説明もないままに不意に呼び出され、性器や子宮、睾丸付近にレントゲンを照射された。

彼らの多くは火傷を負い、傷口は膿み、そのような体で重労働につかされた。歩けなくなったものは銃殺・ガス殺された。

レントゲン照射後数週間してから、男性囚人は外科的に睾丸を摘出された。レントゲンの効果がどの程度であったかを検証するためであったとされる。しかし、レントゲン照射を受けた囚人たちは局部に重傷を負い、結局は絶滅収容所の中で死んでいった。

ブラック博士は、この不妊化処置を「殺すよりはマイルドな方法」と認識していたらしく、裁判で「絶滅政策を緩和するためにあえて提案した方法だった」と証言した。法廷はこの詭弁を却下し、ブラックを死刑に処した。

子宮内の刺激作用による断種

drclaubergこの方法は、ケーニッヒスヒュッテの医学博士クラウベルク教授によって開発された。教授はもともと卵管閉鎖による不妊を治療する方法を開発して有名になった人物だった。

1933年にナチ党に入党し、その医学の知識を、今度は「下等人種」の断種のために傾けようとしていた。
http://3rdkz.net/?p=250&page=3


クラウベルクはヒムラーと協議し、外科手術を用いることなく不妊化させる方法を話し合った。教授が考えていたのは卵管にホルマリン溶液を注入するという方法だった。ヒムラーはアウシュビッツにクラウベルクの実験施設を作るよう、部下のルドルフ・ヘースに命令した。

約500人の女性がクラウベルクの前に引き出され、狂気の実験の犠牲となった。収容所に響き渡る女性の悲鳴の原因は何のか、あの医師は囚人にいったい何をしているのか調べようと、女性看守が飛んできたこともあったほどであった。

実験により少なくとも7人の女性が死亡。残った囚人のうち、何人がガス室に送られたかは不明である。

教授は1945年にはラーフェンスブリュック収容所へ移り、35人の女性に人体実験を行った。戦後は赤軍に捕まり25年の判決を受けるがのちに恩赦。ドイツに戻るとドイツ当局に再逮捕され、57年、拘留中に死亡した。

実験] 飢餓実験

ナチスドイツのユダヤ人絶滅政策は、経済学と一体不可分であった。一体どれほどのユダヤ人を労働力として活用し、1日に与える食事量はどの程度で、平均してどのぐらいの期間働かせたのち餓死させ、最終的にいついつまでに何人殺すのか……

このような狂気の経済学を日夜考え、そろばんをはじき、実践するために各省庁に協力を仰ぎ……ドイツ人の官僚的気質がこれ以上上等に発揮された機会はなかった。

飢餓実験はいわば、このようないわば「虐殺の経済学」とも呼べるものの産物だった。

慢性的な食糧不良に苦しむドイツで、何百万、ともすれば一千万以上にも及んだソビエト兵捕虜やユダヤ人、障害者、ジプシー、同性愛者に与える食糧はなかった。与えるとしたら、元を取るために働かせるためだった。

ナチ親衛隊上層部とドイツ医師会は結託し、下等人種や民族の宿敵たちを、無駄なく効率よく餓死させる方法を考えあい、実験を繰り返した。

いかにすれば、働かせながら餓死させることができるだろうか。どのくらいのカロリーを与えれば良いのだろう。どのような食事のメニューにすれば良いのだろう。どのような栄養素を継続的に断ち、代わりに何を摂取させれば良いのだろうか。

ナチの飢餓実験が、実を結んだ結論は、囚人に決してタンパク質を与えないことだった。代わりにジャガイモやパンなど、少量の炭水化物を摂取させる。このようにしてゆっくりと確実に餓死させることができるのだ。これは一見食糧を与えているようにも見えるため、諸外国からの批判を交わすためにも有効な方法だった。

知的障害者に対する飢餓実験

ミュンヘン、ハール州立精神病院内のエグルフイング施設にかつて「T4作戦」の実行地があった。「T4作戦」はナチの歪んだ優生学に基づく、身体障害者・精神障害者・発達障害児童の抹殺作戦である。これは39年のポーランド侵攻以前からドイツ国内で水面下で実行されていた。エグルフイングの施設長、ヘルマン・プファンミュラー博士は、ナチ・イデオロギーが掲げる「価値のない命」の概念を強く信じており、T4作戦にも当初から参加していた。

彼は「無駄飯ぐらい」(特に小児)を殺す方法として特殊な飢餓セラピーとでもいうような方法を研究していた。

1939年に心理学の学生がエグルフイングの施設内に見学実習に来た。プファンミューラーはその際学生を小児病棟へ案内した。その時に学生が目にしたものとは・・


15〜25人の1歳〜5歳までの子供が寝かされていた。プファンミューラーはこの病棟で特に詳しく自分の考えを明らかにした。次のように要約される彼の説明は驚くほど率直でかなり強く記憶に残っている。彼曰く、『こいつら(子供たち)はナチ党員の私にとって民族のお荷物だ。殺す(殺るという言い方もした)にしても毒や注射は使わない。外国の新聞や赤十字のお偉方にまた非難されるだけだ。方法は皆さんがわかるようにはるかに簡単で自然なのだ』こう言いながら彼は施設の常勤と思われる看護婦に一人の子供をベッドから引き出させ、死んだウサギでも見せるように皆に見せて、専門家ぶった冷笑を浮かべながら『これはあと2、3日はもつだろう』というようなことを言った。太ったニヤニヤ顔、肉付きのよい手に捕まえられてひいひい泣く骨と皮の子供、周りにうじゃうじゃいる飢えた子どもたち、その光景は目に焼きついている。プファンミュラーは食物の供給を急に止めるのではなく、徐々に減らすと説明していた。



エグルフイングにはいわゆる「飢餓病棟」が2つあった。1943年1月から終戦までの約2年3ヶ月の間、患者に肉や脂肪を与えることは禁止された。

被収容者は野菜、ジャガイモ、1日辺り一切れのパンしか与えられなかった。これはプファンミュラーがかつて在職していたカウフボイレン施設で’効き目’が確認された食べ物で、胃を満たすが、次第次第に目的に導く。脂肪分を与えないと彼らはほっておいても死亡する。これはプファンミュラーによる工夫で、多くの施設で効果が証明されているとされている。

彼の飢餓病棟では子供、大人約444人が飢餓に追い込まれ、餓死させられた。戦後、米軍に逮捕された後、裁判で彼は「安楽死作戦は合法だった。昔からあった考え方(障害者を殺すこと)だった」というようなことを述べたという。彼は6年間収監されたがその後はなんなく出所し、75歳まで生きた。

ソビエト兵捕虜に対する飢餓実験

1941年の秋、ハンブルク大学の講師ハインリヒ・ベルニング博士は、軍衛生局総監督部より「水腫病の医学研究」を委託された。実験の材料に使われるのはソ連兵捕虜で、そのための専門施設がハンブルク=ヴァンツベックに設置された。

ベルニングによれば、飢餓水腫が発生するためには、かなり長期にわたって1日のたんぱく質摂取量が、30gを下回るようにせねばならない、とされた。ベルニングは本物の飢餓水腫を実験によって作り出し、それを観察し、飢えた人間が長い段階を経て体重が減少して行き、すぐに疲れやすくなり、性欲がなくなり、頭痛を覚え、めまいがするようになるさまを記録していた。

また、彼は捕虜の下腹部が膨張する様子を観察している。寒さや労働が水腫を強めた。

ベルニングは餓死した捕虜の胃や腸の形態変化を観察して記録。彼は戦後も偉大な博士として活躍、ナチ時代の実験を裁かれることはなかった。

なぜこんなことが起こったか

ナチ占領地が拡大すると同時に、彼らは大量の劣等人種を獲得した。未曽有の総力戦により、ドイツ人は兵士も銃後も含めて、皆命がけの戦争を戦い、窮乏を耐え忍んでいた。占領地ではお互いの全存在を抹消し尽すほどの殺戮と憎悪の応酬が続いていた。

そんな時世の中、「民族の宿敵」や「足手まとい」が、安全圏で食糧を与えられ、何もせずに安穏と暮らす、なんことを決して許さない人々がいた。それがナチの医学界や、上層部、とりわけハインリヒ・ヒムラーであった。

大量の実験サンプルが入手でき、彼らを一箇所にまとめて閉じ込めることができる今、戦争の勝利のために人体実験を行うのは、ナチ上層部にとっては「当然のこと」であった。

そして、人体実験は激しい人種偏見の賜物であった。ユダヤ人やスラブ人、ジプシーは人間とはみなされなかった。ジプシーを実験材料にすることを拒否する科学者はいたが、それは「人間」と比較することが難しい、という理由だった。

曖昧な人種理論の証拠探しという側面もあった。人種が優れている、劣っているなどというのは、今日においては疑似科学であることは誰も疑わない。何をもって「優れて」おり、何をもって「劣って」いるのかなど、そんな定義が歴史上存在したことは一度としてない。

にもかかわらず、ナチはアーリア人が優秀で、ユダヤ人が劣等だと決めつけた。それは政治が勝手に言い始めたことで、これを裏付けるために科学が総動員された。ナチの医学者たちは血眼になってアーリア人が優秀で、それ以外がそれよりも劣るという「証拠」を見つけようとした。それは髪や瞳の色であったり、顎の形であったり、背の高さであったりした。
http://3rdkz.net/?p=250&page=4

ヒトラーやヒムラーは、理想的な北欧人種とは程遠い外見である。ゲッベルスは足が不自由で身体障碍者である。にもかかわらず、ドイツ国民は「ハーメルンの笛吹き男」が奏でるメロディに踊らされるがままに、ヨーロッパ全土を破壊し、滅亡に追い込んだ。この歴史の奇妙を解明することは、今後においても決してできないに違いない。我々にできることは茫然と立ちすくみ、とりあえず人種差別に反対することだけであろう。
http://3rdkz.net/?p=250&page=5


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4. 中川隆[-10329] koaQ7Jey 2019年5月04日 06:22:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1761] 報告

ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。

ブラッドランド : ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 – 2015/10/15
ティモシー スナイダー (著), Timothy Snyder (原著), & 1 その他
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8A-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861297
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8B-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861300/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3+%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F&qid=1555198794&s=books&sr=1-1-fkmrnull


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【犠牲者1400万!】スターリンとヒトラーの「ブラッドランド」1933〜1945
http://3rdkz.net/?p=405


筑摩書房の「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」(ティモシー・スナイダー著)によれば、ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。この数字は戦争で死亡した戦死者は一人も含まれていない。戦闘による犠牲者ではなく、両政権の殺戮政策によって死亡した人々だ。犠牲者の大半はこの地域に古くから住まう罪もない人々で、一人も武器を持っておらず、ほとんどの人々は財産や衣服を没収されたうえで殺害された。

「ブラッドランド」には、ルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ナチ西部占領地域は含まれていない。ルーマニアではファシスト政権の反ユダヤ政策により、強制収容所や移送中の列車の中で30万人が死亡したが、これはナチやソ連政府とは無関係な殺害政策である。ハンガリーでは戦争末期に40万人のユダヤ人がアウシュビッツに送られて死亡したが、ソ連は関与していない。ユーゴではナチ傀儡「クロアチア独立国」により数十万人のユダヤ人やセルビア人が殺害されたが、ユーゴがソ連に支配されたことはない。フランスでも反ユダヤ政策によりユダヤ人が絶滅収容所に送られたが、「ブラッドランド」からは外れる、とのこと。

その理由は、あくまで上記のようにポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域のみに的を絞っているからだ。これらは戦前にはソ連に、戦間期にはナチスの大量殺人政策に痛めつけられた地域である。双方の無慈悲なテロに晒され夥しい数の人が死んだ”流血地帯”である。

筑摩書房「ブラッドランド」を読み解きながら、この地域で一体何が起こったのかまとめたい。

ブラッドランド=”流血地帯”はどういう意味を持つか

ブラッドランドは…

・ヨーロッパユダヤ人の大半が住んでいた

・ヒトラーとスターリンが覇権をかけて争った

・ドイツ国防軍とソ連赤軍が死闘を繰り広げた

・ソ連秘密警察NKVD(内務人民委員部)とSS(ナチス親衛隊)が集中的に活動した

…地域である。

ブラッドランドにおける主な殺害方法

1400万人殺したといっても、高度なテクノロジーは一切使われておらず、野蛮な方法であった。

ほとんどは人為的な飢餓による餓死である。

その次に多いのは銃殺である。

その次に多いのはガス殺である。

ガスも高度なテクノロジーとは無縁であった。ガス室で使用されたガスは、18世紀に開発されたシアン化合物や、紀元前のギリシャ人でさえ有毒だと知っていた一酸化炭素ガスである。


ポーランド分割ー犠牲者20万人以上

Soviet_and_German_Troops

1939年ブレスト=リトフスク(当時はポーランド領)で邂逅する独ソの将兵。両軍の合同パレードが開催された。

1939年9月中旬、ドイツ国防軍によってポーランド軍は完全に破壊され、戦力を喪失していた。極東においてはノモンハンにおいてソ連軍が日本軍を叩き潰した。その一か月前にはドイツとソ連が不可侵条約を結んでいた。世界の情勢はスターリンが望むままに姿を変えていた。

ヒトラーはポーランド西部を手に入れて、初めての民族テロに乗り出した。

スターリンはポーランド東部を手に入れて、大粛清の延長でポーランド人の大量銃殺と強制移送を再開した。

ドイツ国防軍の末端兵士に至るまで、ポーランド人は支配民族(=ドイツ人)に尽くすための奴隷民族であると教えられた。ドイツ将兵はポーランド人を気まぐれに虐待し、ドイツ兵一人が傷つけば身近なポーランド人を報復として数百人規模で銃殺した。また、ドイツ兵は平然とポーランド女性やユダヤ人女性を強姦した。銃声が聞こえれば付近の村人をフェンスの前に並ばせて皆殺しにした。またポーランド軍捕虜から軍服を奪い去り、ゲリラと決めつけて問答無用に銃殺にした。ポーランドにはユダヤ人が数多くいたが、ドイツ兵は彼らも気まぐれに虐待を加え、婦女子を強姦し、村人を銃殺し村を焼き払った。また、ドイツ空軍は開戦以来都市に無差別の爆撃を加え続け、戦闘の混乱により東に逃げる人々の列に機銃掃射を加えて楽しんだ。

1939年末までにドイツ兵に殺されたポーランド民間人は45000人に上った。
http://3rdkz.net/?p=405&page=2


戦後はドイツ軍政と、諜報機関のトップであるラインハルト・ハイドリヒによって編成されたナチス親衛隊の移動抹殺部隊により、ポーランドのエリート階層は根絶やしにされ、銃やガスや人為的飢餓でのきなみ絶滅の憂き目にあった。これは「AB行動」と呼ばれる。

ヒトラーの目的はポーランドをドイツの人種差別主義者の理想通りの世界とすること、社会からドイツの支配に抵抗する力を奪うことだった。とはいえ、当時のドイツの殺戮班はこの手のテロにまだ不慣れで、NKVDほど効率的に敵を排除することができず、総督府領内で徐々にレジスタンス活動が活発化して行く。


独ソ双方から過酷なテロを受けたポーランドでは、20万人が銃殺され、100万人以上が祖国を追放された。追放された者のうち、何名が死亡したかはいまだ未解明である。


独ソ開戦ー犠牲者?

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ドイツは第一次大戦で英軍の海上封鎖により76万人が餓死した苦い記憶を持つ。その歴史を熟知していたヒトラーは、食糧不安を解消するためになんとしてもウクライナが欲しかった。ウクライナはソ連の穀物生産の90%をしめるヨーロッパ有数のカロリー源であった。ヒトラーは東方総合計画を策定した。これは端的にいえばウクライナを占領し、農民を全て餓死させ、空白になった土地にドイツ人を入植させる。こういうものだった。

ドイツの計画立案者たちは、33年のウクライナ大飢饉に倣い、集団農場を使って農民を餓死させる計画を立てた。また、戦争によって拡大した領土に住まうドイツ人や前線に送るドイツ兵に食糧を効率的に供給するために、スラブ人やユダヤ人から食べ物を取り上げ、餓死させる計画を立てた。これはつまり、ソ連地域の大都市を破壊し、森に帰すことで冬の寒さに晒し、1942年の春までに3000万人を餓死させるというものだった。


しかし、戦況が思ったよりも長引き、ドイツ国防軍は苦戦し、進軍が遅れたために計画通りにはいかなかった。都市や集団農場の住民を殺して食糧源がなくなれば戦況は壊滅的に悪化するだろう。このような事情に加え、ナチス親衛隊やドイツ国防軍にソ連NKVDほどの実力はなかった。実際には飢餓計画は実行不可能だったのである。しかし、ドイツ国防軍に捕らえられた300万のソビエト兵捕虜は、冬の荒野に鉄条網を張り巡らせただけの収容所ともいえぬような場所に拘禁され、食べ物を与えられずほとんど全員が餓死した。またドイツ国防軍やナチス親衛隊は、50万人の捕虜を銃殺し、260万人の捕虜を餓死させるか、移送中に死に至らしめた。初めから殺すつもりだったのだ。犠牲者は310万人ともいわれる。

また、ドイツ兵はポーランド人よりもさらに劣等な人種としてロシア人を見ていた。ドイツ兵は彼らをためらうことなく銃殺したが、このような民間人に対する犯罪行為は、バルバロッサ命令という形で合法とされた。

また、コミッサール命令という政治将校、共産党員、赤軍将兵、または市民のふりをしたゲリラは問答無用に処刑して良いことになっていた。この定義にユダヤ人が含まれるようになると殺戮は拡大した。犠牲者はあまりにも膨大で、はっきりとした数字は未解明である。

1941年の9月までにドイツ軍が包囲した、ソビエト北の要衝レニングラードでは本格的な兵糧攻めが行われた。900日間にわたる包囲戦により、100万人の市民が餓死した。ヒトラーは東方総合計画により、レニングラードを完全に破壊して更地にしたうえでフィンランドに引き渡すつもりだった。はじめから住民を全て殺すつもりだったのである。包囲下のレニングラードでもNKVDは微塵も揺らぐことなく健在で、裏切り者を探し回っては銃殺していた。レニングラード市民は独ソ双方から過酷なテロを受けたのである。

また、1944年のワルシャワ蜂起では、20万人の市民が戦闘の巻き添えになって死亡し、70万人の市民が市内から追放された。

ホロコーストー犠牲者540万人

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ホロコーストはバルト諸国のリトアニアから開始された。ナチス親衛隊はリトアニアやラトヴィアで現地民を扇動してポグロムを引き起こし、ユダヤ人やNKVD、共産党員を殺害。ドイツ軍や警察はユダヤ人の成人男性をスパイやゲリラと見なして銃殺した。

1941年の8月ごろになると、ヒトラーは既にソ連への奇襲作戦が失敗し、戦争終了を予定していた9月中旬までにモスクワを占領することは不可能そうであると悟った。総統はせめてユダヤ人を皆殺しにすることを考えた。こうしてユダヤ人の女性や子供・老人がゲリラの定義の中に含まれた。

ポーランドの時と同じように、ソ連の指導者たちを排除するため、保安諜報部(SD)と警察の特殊部隊が編成されていたが、彼らの任務はいつしかユダヤ人を全て殺すことへと変化して行った。SDと警察の移動抹殺作戦により、リトアニアのユダヤ人20万人のうち19万5千人が銃殺された。その他の地域でも気の狂ったような大量銃殺が繰り広げられ、その凶行をとめることができる者はいなかった。全ては総統命令として正当化されたのである。

ウクライナ、ベラルーシ、西部ソ連地区でも状況は似たようなものだった。ドイツ軍が版図を広げるたびに移動抹殺隊が影のように現れ、現地徴集兵を雇ってユダヤ人や共産党員、精神障害者や同性愛者を手当たり次第に銃殺した。ウクライナのキエフではたった2日で3万人以上のユダヤ人婦女子が銃殺され、ベラルーシでは過酷なパルチザン戦が繰り広げられ、国民の4分の1が巻き添えになって殺された。移動抹殺作戦の犠牲者は100万人以上と推計される。
http://3rdkz.net/?p=405&page=3


ポーランドには6つの絶滅収容所が設置され、ヨーロッパ各地からユダヤ人や政治犯、思想犯、同性愛者や障害者がかき集められて、飢餓や強制労働や銃やガスによって命を絶たれた。犠牲者は250万人を超える。

ホロコーストの結果、ヨーロッパの全ユダヤ人のうち3分の2が殺害され、なかでもポーランドの被害が最も深刻で、90%以上、300万人のユダヤ人が絶滅された。


抵抗の果てに

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戦争後期、ソ連軍はドイツ軍を打ち破って東プロイセンへ侵入した。そして彼らは目に付く全ての女性を強姦しようとした。その時点でドイツ成人男性の戦死者数は500万人にのぼっていた。残った男性はほとんど高齢者や子供で、彼らの多くは障害を持っていた。女性たちを守る男はいなかった。強姦被害にあった女性の実数は定かではないが数百万人に及ぶと推定され、自殺する女性も多かった。

それとは別に52万のドイツ男性が捕えられて強制労働につかされ、東欧の国々から30万人近い人々が連行された。終戦時までに捕虜になり、労役の果てに死亡したドイツ人男性は60万人に上った。ヒトラーは民間人を救済するために必要な措置を一切講じなかった。彼は弱者は滅亡するべきだと思っていた。それはドイツ民族であろうと同じだった。そして彼自身も自殺を選んだ。

ヒトラーの罪を一身に背負わされたのが戦後のドイツ人であった。新生ポーランドではドイツ人が報復や迫害を受け、次々と住処を追われた。ポーランドの強制収容所で死亡したドイツ人は3万人と推計される。1947年の終わりまでに760万人のドイツ人がポーランドから追放され、新生ポーランドに編入された土地を故郷とするドイツ人40万人が移送の過程で死亡した。

戦間期のスターリンの民族浄化

独ソ戦の戦間期には、対独協力の恐れがあるとみなされた少数民族の全てが迫害を受けた。

1941年〜42人にかけて90万人のドイツ系民族と、9万人のフィンランド人が強制移住させられた。


おわりに

長年、ドイツとロシアにはさまれた国々の悲惨な歴史に圧倒されていた。これ以上恐ろしい地政学的制約はないだろう。ドイツとソ連の殺害政策によって命を失った人々は、誰一人武器を持たない無抵抗の民間人は、それだけで1400万人に及ぶ。もちろんこれは戦闘による軍人・軍属の戦死者は含まれていない。またルーマニアやクロアチアやフランスの極右政権によって虐殺されたユダヤ人やセルビア人は数に含まれていない。

ドイツとソ連の殺害政策は、偶発的に起こったのではなく、意図的に明確な殺意を持って引き起こされた。その執行機関はNKVDであり、赤軍であり、ドイツ国防軍であり、ドイツ警察であり、ナチス親衛隊だった。その殺し方は飢餓が圧倒的に多く、その次に多かったのが銃で、その次がガスである。

アウシュビッツはホロコーストの象徴だが、アウシュビッツで死亡したユダヤ人は死亡したユダヤ人の6分の1に過ぎない。アウシュビッツが本格的に稼働するころには、既にユダヤ人の多くは命を落としていた。

ベルゲン・ベルゼンやダッハウ解放後の悲惨な写真は人々の記憶に刻みつけられたが、それらはどちらも絶滅収容所ではなく、西側の連合軍が解放した絶滅収容所は一つもなく、カティンの森もバビ・ヤールも、西側の目に触れたことは一度もない。

ナチス崩壊後も、スターリンの赤い帝国が厳重に引いた鉄のカーテンによって、ロシアばかりでなく、ドイツの犯罪行為も闇に葬られてしまった。ナチスドイツの東部捕虜収容所は、絶滅収容所以上の絶滅施設であった。そこでは310万人が飢餓や銃によって殺害され、ソ連兵捕虜の死亡率は60%近くに上った。ヒトラーの東方総合計画の検証もほとんど進まなかった。”ブラッドランド”は、全て戦後スターリンの帝国に覆い隠されてしまったからである。

激しい人種差別と階級的憎悪、独裁者の偏執的かつ無慈悲な実行力が両国に共通に存在していた。

海に囲まれた我が国には、人種差別がどれほどの暴力を是認するものなのか、階級憎悪がどれほどの悲劇を生んできたのか、ピンとこない。

知ってどうなるものでもないが、この恐ろしい歴史を興味を持ったすべての人に知ってもらいたい。
http://3rdkz.net/?p=405&page=4




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