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身体的自立
http://www.asyura2.com/08/idletalk30/msg/105.html
投稿者 kanon 日時 2008 年 2 月 09 日 13:50:23: FUgy0.1v81/ao
 

Kanonです。

下記の投稿からの自己レスです。

自立と依存
http://www.asyura2.com/08/idletalk29/msg/322.html
投稿者 kanon 日時 2008 年 1 月 22 日 14:04:51: FUgy0.1v81/ao

自立の意味を考えるに辺り、1.経済的自立、2.身体的自立、3.精神的自立に分類して、それぞれの側面から捉えることで見えてくるものを探ってきたわけですが、前回までの話をまとめますと、1の経済的自立とは、近代以前においては、社会からの依存状態として自明であった人間の生の営みが、資本主義の発展によってモノの交換が貨幣を介して行われることで賃労働が可視的になり、労働で賃金を得ることが経済的自立に繋がる視点を見出していくことになりました。1でいわれているところの自立とは、何者にも縛られることがないメタの位置に立った者だけが享受できるものと考えられましょう。

3の精神的自立を考える前に、2の身体的自立について述べておきますと、これは周知のように身の回りのことが自分で行える能力に関わってくるものだといえるでしょう。今日では、福祉や介護、医療関係で、ADL(日常生活動作)という概念で日頃から良く言い表されており、ADLに誰かの援助が必要でないならば、それは身体的に自立している状態として考えられています。また、この時期にはADL以外にもQOL(生活の質)やIADL(調理や洗濯が自分でできるなどの手段的日常生活動作)の向上を考慮するようになった経緯があることも指摘しておきます。次に身体的自立の考え方を基点にして、研究を深化させる試みとして、脳神経の回路と身体の結びつきを重視したリハビリテーション的な取り組み(哲学的には現象学的還元と呼ばれる)があります。他には、ICFの概念を使用することで、医療・保健・福祉などの各関係者が体系的に健康の諸側面を理解するために共通認識を得ることができるような概念の構築の組み直しがあり、それは、これまでの身体レベル(機能障害、能力低下、社会的不利)だけの一面的な人間の捉え方への反省から、新たに環境因子を加えることで、全人格的な側面で人間を捉えなおそうとするものへの再編成に至っています。これには、さらに日常生活の場面において、できなくて困っているマイナス面の側面に焦点を当てるのではなく、当事者のニーズ優先という観点からプラスレベルでの意欲の引き出しに焦点を切り替えたことも取り組みの新しい視点のひとつに位置づけられた要因だと思います。

最後に、2の身体的自立を考えるに当って、どうしても外すことの出来ないキー概念と思われる「ケア」の概念について、以前、書いたものから手直しして引用しておきます。

昨今、テレビや新聞、マスコミ等の影響もあり、日常的に「ケア」という言葉を耳にする機会が増えています。「アフターケア」「スキンケア」などのキャッチコピーから「ターミナルケア」「在宅ケア」などの医療・介護関係者が使う専門用語まで、各方面でもケアを使った言葉が巷に溢れているところです。ここから、「ケア」という言葉の意味やその内容については、日本語には翻訳されずに「ケア」のまま、統一した意味内容に集約されずに、抽象的に曖昧なままに使われ続け、感覚的に場当たり的に用いられる傾向が読み取れます。
「ケア」が各方面のジャンルで頻繁に使用される以前の1982年にキャロル・ギリガンが『もうひとつの声』を発表しました。これは、ケアの倫理と呼ばれ、医療・看護の場において「ケアリング」の方法論として、ケアのパースペクティブについて論じられました。この2年後の1984年にはネル・ノルディングスが『ケアリング』を著し、ケアの倫理学を論理的に体系化していきました。(この時期の「ケア」の捉え方の特徴としては、与え手重視の考え方でした。)
ところで、日本語でケアという用語が最初に使われはじめたのは、九〇年代以降に高齢者介護の方面からです。その当時、日本は新自由主義の手法を取りいれることで市場での競争と民間活力を助長する政策が取られるとともに、福祉の分野においても、社会福祉基礎構造改革が提唱され、福祉が行政の措置から個人の契約に移行する時期でした。そこから、従来の福祉観とは違った本人の自己決定の名の下に自己責任が唱えられ個人の選択でサービスを利用するような制度へと変化していきました。高齢者介護の文脈でとらえると、この時期は、社会保険制度としての介護保険制度が制定した時期に当たります。したがって、高齢者介護が公的(ナショナルミニマム)な援助から私的な援助に変更されるのにしたがって、介護や介助の意味が見立ての良い「ケア」という言葉に当てはめられていくようになったと思うのです。どういうことかといいますと、新自由主義的な「自立」概念、つまり、強者(理性)による身体の所有が同一性の他者(奴)を共通圏に取り込むことで偽りの方程式が成立し、「寝たきり=悪」「自立=善」の公式を絶対性の根拠に据え、それ以外は、切捨てられるべきストレンジとしての機能を果たし、二者選択性しか与えられていない枠組みの中での自己決定と見るべき思考です。私がここで試みることは、既成の取り決めにおいてなされた言説から離れた位置取りをなし、穿たれたスポットからですが、ケアの概念を編みなおす作業が必要かと思っています。
それで、ケアの概念ですが、ケアが受け手と与え手双方の関係性からの相互作用であると仮定したとすれば、それは社会的な文脈に依存しなければならず、社会活動や実践と通じて意味の解釈が行われることになりましょう。

以下の定義では、ケアをケアの与え手の行為とすることで、その帰属先をケアする者に限定してしまうことになり、その結果、ケアを受け手側からの視点が消え去っています。

メイヤロフ:1人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することである。1971年
(両親による子どもへのケア、教師が学生や生徒に与えるケア等)


上野千鶴子はケアの定義づけを『ケアをケアする者とケアされる者との相互行為とみなす定義の強みは、ケアをそのいずれかに帰属されることなく、社会的「関係」とみなすことにある。ケアの概念は文脈依存的であるがゆえに、ケアがいつ愛情になり、どこから労働になるかもまた文脈依存的であるから決定できない』と語りました。

ここで、上野が何を言っているのかといえば、ケアは時空間的に変化するものであり、かつ双方の関係性を重視したものでなければならないということです。

ここで問題なのが、何もケアだけが資本の賃労働に組み替えられる経過を辿るわけではなく、資本のグローバル化によってあらゆるものが貨幣との関係性に絡め取られますので、そこにはケアの賃労働化のみが特化しているとはいえないでしょう。しかし、そうだとしても、ケアが賃労働に置き換わるのは、もちろん資本の論理が賃労働としてケアワークを取り込んでいるからに他なりませんが。

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