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沖縄戦【ウィキペディア】
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投稿者 ワヤクチャ 日時 2007 年 12 月 27 日 21:56:48: YdRawkln5F9XQ
 

(回答先: 【政治板リンク】日本軍「強制」、復活せず=沖縄戦集団自決で教科書6社の訂正申請承認−文科省(12月26日 時事通信) 投稿者 まさちゃん 日時 2007 年 12 月 26 日 16:42:01)

沖縄戦【ウィキペディア】
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沖縄戦
戦争:第二次世界大戦(太平洋戦争)
年月日:1945年3月26日-6月23日
場所:沖縄本島
結果:アメリカの勝利
交戦勢力
大日本帝国(沖縄守備軍) アメリカ合衆国(第10軍)
指揮官
牛島満陸軍中将 サイモン・B・バックナー中将
戦力
兵員 116,400人 兵員 548,000人
損害
死者・行方不明者 188,136人 死者・行方不明者 12,520人
沖縄戦(おきなわせん)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄に上陸した米軍と日本軍との間で行われた地上戦。これは民間人を巻き込んだ日本国内での最大規模の地上戦であり、また日米最後の組織的戦闘となった。沖縄戦は1945年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終了した。その特徴の一つには日本側に軍人をしのぐ多数の住民の被害(住民虐殺、「集団自決」、壕追い出しなどにやり必死の状況に追い込んだこと)が出たことがある。これらの犠牲者の数はいまだ正確な数は不明であり、数千人とも言われている。

アメリカ軍の作戦名はアイスバーグ作戦(英:Operation Iceberg、氷山作戦)。大規模な戦闘は沖縄島で行われた。米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、日本軍のそれは当時想定されていた本土決戦[1]への流れの中に位置づけられる。[2]

目次 [非表示]
1 概要
2 沖縄戦の背景
2.1 日本陸・海軍守備部隊指揮官、参謀一覧
3 戦闘推移
3.1 米軍の上陸
3.2 海軍部隊と陸軍守備隊の壊滅
4 住民犠牲について
4.1 沖縄戦初期の住民避難
4.2 住民虐殺と集団自決
4.2.1 日本軍による殺害の証言 
4.2.2 「集団自決」を軍の強制とする意見 
4.2.3 「集団自決」を軍の強制としない意見
4.2.4 戦陣訓教育について
4.3 捕虜の扱い 
5 沖縄戦におけるアメリカ軍の評価の一端
6 史跡
7 注釈
8 沖縄戦全体を描いた映画作品
9 関連項目
10 関連文献
11 外部リンク


概要

アメリカ軍の沖縄上陸作戦計画図沖縄戦は第二次世界大戦における、日本国内(マリアナ諸島および占領地域を除く)での最大の地上戦である。民間人が多く参加、ないし巻き込まれたのもこの戦闘の特徴である。主戦場は沖縄本島およびその周辺の県南部の島々である。

沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者が12万2228人、そのうち9万4000人が民間人である[3]。負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者7万2千。ただし、日本側の死者数は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により全面的な調査は行われていないため、実数はこれを大きく上回るという指摘がある。それによれば死者は20万人を超え、未だに数多くの遺骨が見つかっていない。

当時の沖縄県の人口は約45万人と推計されており[4]、少なくとも県民の約4人に1人が死亡したことになる。また、激戦地となった南部地域の村には、いくつもの集落で住民が全滅、またはそれに近い人口の激減のため、合併を余儀なくされた所がある。

使用された銃弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾6万18発と手榴弾392,304発、ロケット砲弾20,359発、機関銃弾約3,000万発弱が発射された[5]。また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄では鉄の雨や鉄の暴風(英:Rain and a storm of the iron)などと呼ぶ。[6]


沖縄戦の背景
太平洋戦争で日本の劣勢が明確になると、アメリカ軍の日本本土への侵攻が予想された。その際、アメリカはまず沖縄を占領し、ここを前線基地とすることが考えられたため、日本はそれに対抗すべく1944年(昭和19)2月、沖縄守備軍(第32軍)を編成、司令官には渡辺正夫中将が任命された。島全体を航空基地として沖縄からの航空機によって抗戦する予定で、当初の主な任務は飛行場建設であり、警備程度の兵力であった。

1944年7月のサイパン島玉砕という事態に大本営は司令部人事を一新し、新司令官に牛島満中将を任命した。ようやく沖縄の兵力増強に努め、第9師団、第24師団、第62師団と増強し、第32軍直轄に大砲400門以上を擁する和田孝助中将の第五砲兵司令部を置いた。和田孝助中将は砲兵術の権威と知られ、敵上陸に際して砲兵部隊に援護された精鋭3個師団が水際から米軍を追い落とせると自信を深めた。その他、独立混成第44旅団も派遣されたが、旅団主力を運んでいた輸送船富山丸がアメリカ軍潜水艦に撃沈されるなど、先行きを不安視する部分もあった。

しかし、レイテ決戦のために台湾駐留部隊が動員され、沖縄から一個師団を台湾へ転用するとの方針が大本営で決定され、やむなく第32軍は第9師団の転出を決めた。これで沖縄の兵力の三分の一近くを失い、積極作戦から持久作戦への転換を余儀なくされる。更に補充兵力として第84師団の増援が通知されたが、その直後に中止されるという事態がおこり、第32軍と大本営の間で不信感と作戦・用兵思想に溝が生じ、その後の作戦に支障をきたす事となった。当時の米軍の侵攻具合によれば支那戦線の保持、しいては南方との唯一の補給線(実際そうであったかは別問題だが)にも影響するため台湾の防衛も重要だった。戦争末期において米軍の侵攻を防ぐには戦力差が歴然で、台湾・沖縄両方に守備隊を増援する余力もなく、海上輸送しようにも満足な護衛船もないのでリスクが高かった。

陸軍の沖縄守備軍の数は86,400人で、このほかに海軍陸戦隊が約10,000人弱、学徒隊などが20,000人で、総計116,400人がいた。なお、戦闘員も兵力不足から現地で急ぎ調達された予備役などが多く含まれ、全戦闘員中約2万人は現地で召集された17歳から45歳までの者であった。


日本陸・海軍守備部隊指揮官、参謀一覧

沖縄の日本陸・海軍守備部隊指揮官と参謀の合影(1945年2月初)。(1)大田実海軍少将、(2)牛島満陸軍中将、(3)長勇陸軍中将、(4)金山均陸軍大佐、(5)北郷格郎陸軍大佐、(6)八原博通陸軍大佐陸軍
第32軍 司令官 牛島満中将(戦死後、大将に進級)
同 参謀長 長勇中将
同 高級参謀 八原博通大佐
同 参謀(後方担当)木村正治中佐
同 参謀(航空担当)神直道少佐
同 参謀(情報担当)薬丸兼致少佐
同 参謀(通信担当)三宅忠雄少佐
同 参謀(作戦担当)長野英夫少佐
第24師団長 雨宮巽中将
第62師団長 藤岡武雄中将
賀谷支隊長 賀谷與吉中佐
独立混成第44旅団長 鈴木繁二少将
第5砲兵司令官 和田孝助中将
第28師団長 納見敏郎中将(宮古島駐屯)
海軍
沖縄方面根拠地隊 司令官 大田実少将
先任参謀 前川親一郎大佐
南西諸島航空隊司令 棚町整大佐
第951航空隊派遣隊司令 羽田次郎大佐

戦闘推移

上陸中の米軍 (4/13)
シュガーローフ・ヒル(安里52高地)
米軍の上陸
アメリカ軍は艦艇数1500、兵員54万8000人(うち上陸部隊18万人)の沖縄攻略部隊を組織し沖縄に向かった。3月26日、慶良間諸島の座間味島など数島に上陸。4月1日には守備陣の薄い本島中西部で、飛行場のある読谷村と嘉手納町を狙って上陸し、日本軍が水際作戦を放棄したため、米軍はその日のうちに北・中飛行場を確保した。4月5日までには中部(現うるま市石川周辺)の東海岸までを占領した。

このため、第32軍は沖縄本島南北に分断された。戦力で劣る日本軍は、これに先立ち島内の戦力を宜野湾以南に結集し、ひきつけて迎撃し流血を強いる持久作戦をとった。しかし、早期の飛行場の喪失は大本営や海軍中央から消極的かつ航空作戦軽視と批判の的にされ、度重なる大本営や海軍の飛行場再確保の要請は守備軍司令部内部を混乱させた。米軍の沖縄上陸前からの守備軍と大本営の対立が戦いの最中に露見する結果となる。また海軍との連携も不十分であった。

この後日本軍は賀屋支隊を主体として、島袋方面から嘉数陣地へ遅滞行動をとりつつアメリカ軍を誘導した(嘉数の戦い)。アメリカ軍は首里の司令部を目指して南進するが、途中の宜野湾市付近には守備軍が丘陵地形と地下壕を利用した陣地で構え、進軍してくるアメリカ軍を何度も撃退した。ここでは多くの将兵が奮戦し、賀屋支隊をはじめ、歩兵第22連隊、独立臼砲連隊などが伝説的な活躍を見せている。戦闘は約50日間続き、この遅滞作戦は一定の成功を収めたが、日本軍が反転攻勢に転じたのは5月4〜5日である。が、守備軍の総反撃は大打撃を受けて失敗し、継戦能力を一気に喪失した。5月12日〜18日にかけては、北部戦線より新たに投入されたアメリカ軍の第6海兵師団が、安謝川を渡り、首里西方の安里付近の高地で日本軍の独立混成第44旅団配下の部隊と激しい攻防戦を繰り広げた(シュガーローフの戦い)。アメリカ軍は著しい損害を受けるも一帯を制圧し、日本側は首里一帯の守備も困難な状態となった。5月31日までにアメリカ軍は首里市(現那覇市の一部)を占領したが、これに先立つ5月24日、沖縄守備軍司令部は南部島尻地区への撤退を決定。5月27日に津嘉山、30日にはさらに本島南端の摩文仁(まぶに)に撤退して新たな防御陣をたてた。この時点で日本軍は全軍の80パーセントを消耗していた。


海軍部隊と陸軍守備隊の壊滅

サイモン・B・バックナー中将
牛島満中将海軍部隊は主に飛行場設営隊などから構成されており、戦闘部隊は少なく装備は極めて劣悪であった。陸軍守備隊と別行動をとり、武器不足から航空機用機銃を改造するなどして抗戦したが6月中旬に壊滅。海軍部隊司令官の大田実少将は6月6日に海軍次官宛に有名な『…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』という訣別電報を打った後、豊見城の海軍司令部壕内で6月13日頃に自決した。

6月18日、アメリカ軍司令官バックナー(Simon Bolivar Buckner, Jr.)中将は、最前線視察中に砲撃され死亡したが[7]、アメリカ軍有利の状況には変化がなかった。むしろ、この後数日はバックナー司令官が殺害された地域を中心にアメリカ軍が徹底的な掃討作戦を行い、日本軍の被害は一気に増大した。

6月22日に沖縄守備軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が摩文仁司令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅し、6月25日には大本営が沖縄における組織的な戦闘の終了を発表した。しかし、この後も残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。

この戦闘継続の原因は、牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないもの(『…爾後各部隊は各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ』)であったことや、指揮系統の崩壊により司令官自決の事実や大本営発表が明確に伝わらなかった為とされる。しかし、摩文仁の司令部ですら混乱状態であり、劣悪な通信状況を考えれば牛島中将の命令が沖縄全体に伝わったとは考えにくく、戦闘継続は牛島中将の命令ではなく、個々の判断で行われたのだとする意見もある。いずれにせよ、この指揮系統無き戦闘継続は、民間人を含め死者数を増やすこととなった。

なお、摩文仁司令部崩壊後、第24師団配下の歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)、並びに同連隊指揮下の2個大隊などが降伏まで徹底抗戦している。(北郷大佐をはじめとするこれらの部隊の生き残りの将兵たちが米軍に投降したのは、日本政府が8月15日に国民へ停戦を発表してから2週間後の8月29日のことである)。最終的な沖縄守備軍の降伏調印は9月7日に嘉手納で行われた。沖縄守備軍司令部の中では、高級参謀の八原博通大佐が捕虜になり、また航空参謀の神直道少佐(後に中佐)が大本営報告の命令で本土に脱出して生き残っている。[8]

アメリカ軍は、上陸地点付近で上陸部隊のあとにやってきた工兵隊などによって、来たるべき日本本土攻撃に備えた基地整備を進めていった[9]。戦後、沖縄はアメリカ軍の支配下に入り、日本に返還されるのは1972年5月15日のことであった。それに先立つ1965年4月9日に琉球立法院は6月23日を「慰霊の日」と定め(返還後の1974年10月には県議会で制定)、現在は毎年その日に摩文仁の平和祈念公園において追悼式典が行われる。


住民犠牲について

米軍に捕縛された民間人
沖縄戦初期の住民避難
1944年7月7日にサイパン島が陥落すると東条英機内閣は緊急閣議を開き「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断、沖縄本島・宮古・石垣・奄美・徳之島の五島から60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童を本土及び台湾へ疎開させることを決定、沖縄県に通達し、それまで戦争を身近に感じていなかった沖縄県民に大きな衝撃を与えた。 また軍は「県民が軍の懐に入り込むことにより軍の活動を妨害することになる」との作戦上の考えから県民の疎開を希望し、また沖縄では消費米の2/3を県外からの移入に頼っているという事情もあった。

その後の通達で疎開目標は「本土へ8万、台湾へ2万の計10万」と決定されたが、県民が疎開に応じるか不安視した県は国の至上命令を県下の隅々にまで徹底し、短期間で遂行するにはある種の威令や組織力・機動力が必要と考え、一般疎開を本来の社事兵事を司る内政部ではなく警察部に担当させることに決定した。一方、学校との連絡が欠かせない学童疎開のみは内政部教学課の担当として、その指揮下に各国民学校長が推進することとした。

しかし、県民の疎開機運は一向に盛り上がらなかった。理由としては、一家の大黒柱を欠いた状態で身寄りのない本土や台湾に疎開するという不安や、船舶に頼らざるを得ない県外疎開そのものへの不安があったとされる。1944年6月29日には沖縄への増援部隊である独立混成第四十四旅団の主力を乗せた輸送船「富士丸」が潜水艦による魚雷攻撃によって鹿児島県徳之島の亀徳沖約4キロで沈没、将兵4,600人中約3,700人が犠牲になり、軍はこの事を「軍極秘」として箝口令を敷いたが県民の間に口伝で広く伝り、一層県民の疎開に対する不安を煽る結果となった。さらには、在沖第三十二軍司令部の方針が末端部隊まで徹底しなかったことによる末端将兵の放言により、県民は日本軍が勝つという希望的観測にすがる結果となり、疎開申し込み者は本土出身者が大半だった。

荒井退造警察部長を始めとする県の必死の努力により、疎開第一船である「天草丸」は7月21日に警察官、県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出港。7月末の疎開第2船は220人、8月初めの第3船では1566人が疎開したがほとんどが本土に縁故のある人々であった。しかし、その後も続けられた県の努力により8月10日に出航した第4次の約9000人は縁故のない県民が中心で、ようやく県の努力が実りつつあった。


十・十空襲に遭う那覇市街県民は日本軍の勝利を信じており、「友軍」と呼ぶなど親近感を持っていたこともあって、軍部の要請に対しても人員物資などあらゆる面で積極的に協力したが、皮肉なことに県民の疎開をより促進させたのは米軍による1944年10月10日の5次に渡る大空襲(十・十空襲)であった。

その後の沖縄県の調べでは、県外疎開は1944年7月から米軍により交通が途絶する翌年3月まで延べ187隻の疎開船により学童疎開5586人を含む6万2千人[10]、これに合わせて沖縄本島北部への県内疎開は約15万人と推定されている。県内疎開の正確な犠牲者は不明だが、県外疎開の疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは対馬丸一隻のみであるとされている。また、先島諸島への集団疎開も実施されたが、食料・衛生器材の不足で多くの病死者をだしている。[11]


住民虐殺と集団自決
集団自決の詳細については集団自決の記事を参照

沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明だが、1950年の沖縄県援護課が出した沖縄戦での犠牲者の数は、1950年の沖縄県援護課の発表では以下である。

沖縄戦の戦没者総数 20万656人
日本側死亡者 18万8136人 その内訳は、::A:県外出身日本兵戦死者 6万5908人
B:沖縄県出身軍人・軍属(日本兵、防衛隊、鉄血勤王隊など) 2万8228人
C:戦闘参加者(援護法で日本軍に協力して死んだと認定された人数) 5万5246人
D:一般住民(推定)3万8754人
アメリカ軍戦死者 1万2520人
ここで、沖縄住民の犠牲者数とされるのはC+D、9万4000人である。Dが推定となっているのは援護課が一般住民の犠牲者を調査せず、昭和20年と昭和21年の沖縄県住民の減少数からC+D、9万4000人をまず算出し、援護課で戦闘参加者として認定した数Cを差し引いた数をDとした為である。実際には戦争直後の人口統計には誤差が大きかったと思われる。また、昭和21年の人口には、沖縄戦の後で生まれた子どもや、戦時中は不在だった本土への疎開者、海外からの引き揚げ者・復員兵が多数含まれるため、計算上の人口減少より戦没者数の方が大きいと推定される。またこの発表での戦闘参加者とは住民であって砲弾運びなどで死んだ者や「集団自決」で死んだ者を意味しており、14才以下の年少者も含まれている。石原昌家(沖縄国際大)は家永教科書裁判意見書にて15万人と推定している(この数字は研究者による見解として産経新聞、NHKなどのメディアで引用されている[要出典] 。)。

このようにアメリカ軍の攻撃以外に、日本軍による殺害や集団自決によって多くの住民が死亡したと言われている[12]これら戦後早期から、日本軍による住民虐殺、集団自決の強制が証言され、また大田昌秀などの研究者のまとめでもそう見られている(集団自決の強制については疑問視する著書や否定する証言も出ている)。石原昌家は沖縄戦における住民の犠牲をその有り様で30以上に細かく分類し、これが

A:米英軍による砲爆死
B:日本軍に殺された人
C:戦争に起因する犠牲
に大分類した場合、住民虐殺と「集団自決」がともに日本軍に殺された人に入ることを説明している[13]。このようにこれら住民虐殺と集団自決はともに日本軍による住民の殺害・死の強制であり、それらがおきた原因・おきている現象は同じものだと主張する研究者もいる。また犠牲者の数も住民虐殺が約1000人、「集団自決」が約800人とする研究者もおり、同じように住民に多大な犠牲を強いた日本軍の残酷な行為としている[14]。

沖縄戦でおきた主な住民虐殺は、久米島、座間味島、渡嘉敷島、玉城村アブチラガマ、名護市照屋忠英校長殺害などがある。 沖縄戦でおきた主な「集団自決」は、伊江村のアハシャガマなど約100人、恩納村11人、読谷村のチビチリガマなど121人以上、沖縄市美里33人、うるま市具志川14人、八重瀬町玉城7人、糸満市、カミントウ壕など80人、座間味島234人、慶留間島53人、渡嘉敷島329人(琉球新報2007年6月22日)などである。 上記以外の沖縄戦でおきた日本軍による主な住民被害には、波照間島の住民マラリア死(戦争マラリア)などがある。

沖縄戦での主な住民虐殺の一覧を以下に示す。

久米島=久米島守備隊住民虐殺事件参照
郵便配達員を射殺、1人、降伏勧告状を持ってきたから
北原区民殺害、9人、米軍から解放された事を通報しなかったから[1]
仲村渠一家殺害、3人、住民に投稿投降を呼びかけスパイとして[2]
朝鮮人一家殺害、7人、理由不明
座間味島、阿佐集落住民、1人、投降勧告状を持ってきたから
阿嘉島、住民2人、朝鮮人軍夫12人、スパイ容疑&軍律違反で、『沖縄県史10巻』に証言
渡嘉敷島
伊江村住民殺害、6人、投降勧告文をもった男女を殺害、『沖縄県史10巻』に証言
住民殺害、5人、スパイ容疑、『沖縄県史10巻』に証言
伊是名島、住民殺害、4人、スパイ容疑、#伊江島
住民殺害、5人、スパイ容疑、#:住民殺害、2人、行動不審との容疑、#国頭村伊地
伊地、収容所から解放された宜名真住民をスパイ容疑で、4人、村と戦争
与那、避難民、5人、ぶっそうげの花ゆれて
大宜味村
喜如嘉、警官殺害、2人、村と戦争
大保、避難民殺害、3人、スパイ容疑で
渡野喜屋、避難民集団を集め手榴弾で殺害、30人、『沖縄県史10巻』に証言
名護市
伊豆味、照屋忠英校長をスパイ容疑で、1人、秘録・沖縄戦
久志収容所、米軍洗濯作業の女性に手榴弾を投げる、5人、証言記録・沖縄住民虐殺
伊豆味、陣地壕出入りの行商人(太田守徳)をスパイ容疑で、1人、秘録・沖縄戦
源河原、収容所から出た避難民を殺害、8人、#:許田、ハワイ帰りの兄弟をスパイ容疑で殺害(英語ができる)、2人、#:為又、投降を呼びかけた避難民を、1人、#今帰仁村渡嘉仁、兵事主任(謝花)らをスパイ容疑で、5人、証言記録・沖縄住民虐殺
恩納村、恩納岳避難民殺害、1人、住民殺害、2人、#金武町
屋嘉、住民の老人を海軍士官がみせしめに殺害、1人、#:金武、那覇の避難民を日本兵が家族の前で殺害、1人、#浦添市、城間、軍民雑居壕で泣く子どもを日本兵が絞殺、1人、#那覇市
首里軍司令部壕、南方引き揚げ者が日本の敗戦を語りみせしめに刺殺、1人、証言記録
浮浪者斬殺、精神異常者を斬殺、1人、証言記録
天久、住民殺害、1人、#知念村
村収入役を食料を強奪しにきた日本兵が銃殺、1人、#:役場吏員銃殺、薪徴発しに来た日本部隊に銃殺、1人、#:養蚕技手斬殺、英語使用でスパイ容疑で、1人、#:道案内人斬殺、義勇隊の道案内をしたが間違ったのを疑い、1人、#玉城村
糸数壕(アブチラガマ)、住民4人を殺害、虐殺の島
百名海岸、豪邸強を拒否した避難民を殺害、1人、証言記録
南風原町
宮城、壕追い出しに抵抗した新垣弓太郎の妻を斬殺、証言記録
野戦病院壕、防衛隊員を上官が斬殺、2人、ぶっそうげの花ゆれて
具志頭村、ガラビ壕(ヌヌマチガマ)、避難民をスパイ容疑で斬殺、1人、戦禍を掘る
糸満市
真栄平、3家族7人を斬殺、『沖縄県史9巻』に証言
山城壕、泣き声をやめろと3才未満幼児を殺害、『沖縄県史9巻』に証言
渡嘉敷島の赤松隊の朝鮮人軍夫は住民から食料を強奪していたといわれる。獣肉については、赤松の部下らは、比較的捕獲の容易な鳥、豚などは村民に残し、既に放し飼いとなっており捕獲の難しかった牛のみを赤松隊が徴発するという協定を結んだとしているが、当時、渡嘉敷村長だった古波蔵惟好の手記には

「赤松は村民へ家畜の捕獲禁止を命じて、軍夫を駆使して牛や山羊を徴発していた。(中略)蛆のわいた山羊の頭部のみを村民に食料として後日渡された」

といった記述がある(いずれも前述の『ある神話の背景』より)。渡嘉敷島の隊長赤松大尉は8月末に降伏して捕虜となったが、アメリカ軍の取り調べに対し「(食糧は)あと10年は保てた」と豪語していたという[15]。

元ひめゆり学徒隊の証言の中には『「まだ若いのだから無駄死にすることはない」と逃がしてくれた』『豪の中で、もうみんなで自害しようと女学生の1人が手榴弾を手にしたら、今まで仲良かった兵隊さんが、刀を片手にすごい勢いで怒鳴った。「お前ら、今すぐここから出て行け!さっさとしないと叩っ切るぞ!!」女学生達は泣く泣くアメリカ兵の待つ、豪の外へ出る。豪から少し離れた時に、豪の中なら爆音が・・。兵隊さん達は女学生達を死なせまいとして、あんなヒドイことを言ったんだ・・豪の中から黒い煙がいっぱい出てくる。』というものもある(『ひめゆり記念館ガイドブック』)。


日本軍による殺害の証言 
石原昌家によると沖縄戦で日本軍は住民を守るという考え方はなかった、戦闘開始以前から「軍官民共生共死の一体化」が指揮官から唱えられ、日本軍の劣勢が明確になった時点でも住民も共に死ぬまで最後まで抵抗するという方針が与えられたとする(1945年3月日本軍資料「秘密戦に関する書類」および5月5日の牛島司令官の命令、石原昌家の記述による)(例えば証言[3])。加えて住民が米軍に投降するのはスパイ行為だとして、投降者、投降を進める者、なんらかの形で接触した者を殺害することがあった。また壕追い出しや食料を奪うこと、悪性マラリア地帯に強制疎開させることで死に追いやる多くの例がある。それぞれの被害者数は住民が死亡しているためあくまで推定だが、大田昌秀は多くの証言を調べ、壕追い出しで100人以上、食料強奪で60人以上、住民虐殺が290人という数字をだしている(総史・沖縄戦および家永教科書裁判での証言)。

日本兵自身が安全な壕内に避難するため、「我々はお国のために闘っているのだ」という口実によって先に避難していた住民を追い出す例が多くある(ひめゆりの塔で知られる陸軍病院伊原第三外科壕や他の第一・第二外科壕、本部壕なども「追い出し壕」とされている)。ガマの中で泣き止まない赤ん坊を黙らせるために殺害した事例も報告されている。また、民間人に対するアメリカ軍の人道的扱いを期待した日本兵が、意図的に民間人の避難先に潜り込んでゲリラ活動を展開したという話も残っており、それが米軍を「馬乗り攻撃」に踏みきらせたとも言われている。その一方で、日本軍は沖縄住民のスパイ活動を警戒して方言の使用禁止を命じ、方言を使った住民をスパイ容疑で処刑したこともあったという。また米軍から住民に配給された食糧を狙って飢えた敗残兵が襲撃を行うなど、軍民の信頼関係は著しく損なわれたとする説もある(総史・沖縄戦)。

生存者の中には「日本兵のほうがアメリカ兵より怖かった」「捕まったら強姦されるか殺されると聞いていたのに優しくしてもらえて驚いた」などと証言する者が多くいる(例えば証言[4]また「総史・沖縄戦」など)。南部に現存する轟の壕では、「泣き声で敵に発見される」という理由で壕内で幼児を虐殺するなどをしたうえ、投降を警戒した兵士が住民を奥に追いやって監視をしたため大量の餓死者が発生し、また危険が迫ると逆に住民を入口付近において盾にした挙げ句馬乗り攻撃で多数の犠牲が出た。そのため、投降した住民がアメリカ軍に「日本の兵隊を生かしますか?」と問われて「殺せ!」と答えたという[16]。大宜味村渡野喜屋(現・同村白浜)では、山中に潜んでいた日本兵がアメリカ軍保護下の住民をスパイと見なし、食糧を奪って海辺に連れ出し35人を虐殺するという事件があった[17]。

また、久米島では米軍の大兵力による上陸こそ無かったものの、日本軍軍属の鹿山正久米島守備隊長(兵曹長)の疑心暗鬼によって、郵便局員とその家族など20名の住民がスパイ容疑等で虐殺される事件(久米島守備隊住民虐殺事件)がおこっている。この時の経緯は本人が1972年にサンデー毎日の紙面で事実であると認めたが、本人は「誇り高き大日本帝国軍人として正しい事をしたから良心の呵責はない」との主旨を主張した。

糸満市真栄平での住民虐殺の証言:女性当時20才。「私たち一家は日本軍に何度も壕を追い出され、ついに自分たちの屋敷の下に穴をほって避難していました。5月下旬のある夜、日本刀を持った日本兵がやってきて「出ろ!お前達はすぐに出て行け」と怒鳴った。母はよく聞き取れなかったらしく「なんでしょうか…」と身を乗り出したら、いきなり首をはねられてしまった。首は穴の奥に寝ていた金城さんの胸に落ちてきたそうです。  私はちょうど水くみに出かけていた、帰ると穴の近くに眼を光らせた日本兵が一杯いた。「ヒッー」と声にならない声が聞こえ、見ると妹と弟2人がいた、3人とも血まみれで下の弟は腸が見えていてこと切れていた。まだ息のある弟と妹を抱え隣の兵隊のいない壕へ逃げたが、3時間後には息を引き取った。苦悶の中で2人が話してくれたのは、母が首をはねられてから妹達はすぐに逃げた、でも刀を振りかざした3人の兵隊が追ってきて何回もついてこじり上げて、背負われていた弟は腹をえぐられたんです。」(総史・沖縄戦)

壕内で子どもを薬殺:仲間忠一(当時31才) 私たち40〜50人は阿檀林の中の石の下に隠れていました。2キロも離れた上里の井戸から命がけで水をくんでいましたが、兵隊たちは「水を渡さなければ殺すぞ!」と何度も水を奪いました。ある時米軍がマイクでこの山をガソリンで焼くと言ったので、私は1人で壕を捜しに出かけました。そうすると日本兵が「お前はスパイだ」と言って1人は手榴弾で1人は小銃で殺そうとするです。その壕にいた親戚や部落の人がかばってくれたのやっと助かりました。その晩子どもが泣くと今度は「子どもを泣かせると殺すぞ」と脅しました、そして注射器を持った兵隊が「こどもを静かに眠らせてあげるから」と言って、無理矢理注射をしたのです。4人の子どもは苦しみながら間もなく死にました。(総史・沖縄戦、p207)

天久台高射砲陣地でのスパイ視での処刑:1945年4月28日、大城政英 大城さんは宮城護衛の近衛兵だったが1944年に満期除隊していた、しかし沖縄防衛のため自ら沖縄に行き故郷の小湾(旧浦添村)の現地軍の下で陣地作りなどをしていた。4月28日小湾に危険が迫ったので天久台の親戚のいる壕に移動しようと壕に入った。すると兵隊が突然「誰だ」と呼び止めすぐに「お前はスパイだ」として刀を抜き殺そうとした。大城さんは軍隊手帳を出し、小湾の部隊に電話して聞いてくれといい、出てきた叔母が自分の甥だと言っても、また天久の区長が言っても兵隊は聞かない。最後に叔母が天久台高射砲陣地の面識のある兵長を連れてきてその兵長が「この人なら私が保証する」と言ってくれてそれでやっと助かった。私が「なぜ沖縄人をスパイだと言って殺すのか」と言うと兵隊は「沖縄人はみんなスパイだから殺せという命令が上から出ているんだ」と言った。しかし、ちょうどその時大城さんと同年輩の男性が、同じようにスパイと言われていて、日本兵はその人を壕の外に連れて行き拳銃で撃ち殺しました。(石原昌家意見書、p45)

慶良間諸島での軍命の証言:慶良間諸島の場合は直接的に「集団自決」の命令が日本軍からきたという事が、軍からの命令を受ける立場であった兵事主任の言った内容として残されている。渡嘉敷島では兵事主任富山真順(戦後死去)が、戦後「軍から命令された」と証言しているし、金城重明が兵事主任からその話を聞いたことを現在も証言している[5]。また慶良間島では、兵事主任宮里盛秀(玉砕)の父親(宮里盛永)および妹(宮平春子、宮村トキ)が、その晩彼が「軍から命令が出ている」と喋ったことを手記に書いたり、証言(沖縄タイムズ、2007年7月6日、[6]および「集団自決」訴訟の陳述書)したりしている。


「集団自決」を軍の強制とする意見 
沖縄戦において日本軍による住民殺害の例があり、「集団自決」がいくつもあったこと及びそれが日本軍に強いられたものであった事は、戦後早期の「鉄の暴風」「沖縄県史」などの証言で知られているが、現在では研究者はこれら「集団自決」(集団死)の多くは日本軍による命令・強制であったと考えている(例えば「沖縄戦と民衆」、林博史、2001年)。またこれを反映し1982年以降高校教科書では「日本軍にしいられた・追い込まれた」という表現がとられている。(また集団自決はその実態が文字のままではないため、集団死、「集団自決」などの言葉や表現がとられるようになってきている)

研究者は、根こそぎ動員により住民全てを日本軍が支配し、特に諸島部では国のために死ぬのは尊いという思想、捕まれば女は陵辱された上で男女とも酷く殺されるとの教え込み、その上で米軍上陸時には自決せよと、あらかじめ訓示・命令をしている事を重視している。このため住民は、米軍上陸時には自動的に自決をすべきと感じ、そこに日本軍から手榴弾を配布された事などをきっかけに「集団自決」がおきたと考えている。ここで日本軍指揮官から直接住民に命令があったかは重要ではなく、兵事主任という町の役人が、役人と同時に軍から住民への様々な命令(作業動員など)を伝達しており、渡嘉敷島などではこの兵事主任から自決の連絡があった事が実際上の命令であったと考えている。

背景には、捕虜になるより死を推奨する戦陣訓の考え方が兵士だけでなく住民に広がったため、という見方がある一方、日本軍が根こそぎ動員で住民全てを軍の作業につかせ、兵士の数、配置、武器の状況、壕の状況など日本軍の状態が住民に知られ、住民が米軍に捕縛された時にこうした軍事情報が漏れることを恐れたためとする意見もある。

実際の自殺方法は手榴弾により集団で自殺したり、家族同士がカマや棒で殺しあったりする異様な悲劇であり、こうした肉親を殺した経験が生き残った者が進んで証言しにくい原因となっている(チビチリガマでの惨劇がよく知られている)。軍の行為やそれまでの教育が間接的な原因となっていたとの指摘もある。[18][19]

2006年10月3日に日本兵が住民に対する集団自決を命令した事を示す発生直後の住民証言を記録した1945年4月3日付の「慶良間列島作戦報告」がアメリカで見つかったと沖縄タイムスで報じられた。 さらに、軍命であったという証言が援護法の適用のためではないかという疑問に関しては、2007年1月15日の沖縄タイムスに『「集団自決」早期認定/国、当初から実態把握 座間味村資料で判明/「捏造説」根拠覆す』との記事が掲載された。座間味村役所の「戦闘協力該当予定者名簿」および「戦協該当者名簿」と厚生省から返還された県の記録を照合したものによれば、座間味村の認定は最短3週間、平均3ヶ月で認定されており、琉球政府援護課の元職員は「本島に先駆け、慶良間諸島の被害調査を実施した。厚生省(当時)も人々を救おうとの熱意を感じた」との証言も合わせて掲載し、『一部マスコミなどによる、補償申請が認定されにくいため「『軍命』が捏造された」という主張の根拠がない』と報じた。

「集団自決」を軍の強制としない意見
曽野綾子は、大江健三郎の『沖縄ノート』の「巨きな罪の巨塊」とのいう記述を読んで、「罪の巨塊」とはどんな人物なのだろうとの興味から、1971年に、自費で、座間味、渡嘉敷両島を取材し、『鉄の暴風』等で書かれた軍命令を聞いた人間に会うことは無かったとのレポートを『諸君!』に連載した。後に連載をまとめ『ある神話の背景』として1973年に出版され同書において援護法適用のために多くの虚偽証言が生まれたことを示した。曽野綾子は、家永教科書裁判での証言中で自著の内容が軍の命令などを明確には、否定するものではないと述べた。

この著書について仲程昌徳琉球大学法文学部教授や沖縄史料編集所の専門員である嶋津与志(大城将保)は命令説は崩壊し、すくなくともかなり誇大化されていることを示したと評した(『沖縄の戦記』仲程昌徳 / 『戦争への反省』太田良博/『沖縄戦を考える』嶋津与志)。

座間味島で軍命令を出したとされる梅澤裕少佐は「戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用の為、島の長老達から偽証するよう頼まれ、従った」と証言している。座間味島の宮城初枝(当時青年団長、集団自決で生き残った)は「1945年3月25日に村の有力者5人と隊長にあった際に、隊長は『自決命令』を発していない」との手記を遺しており娘の宮城晴美が2000年に『母の遺したもの』としてその手記を出版した。それによると「厚生省の職員が年金受給者を調査するのため座間味島を訪れたときに、生き証人である母(宮城初枝)は島の長老に呼び出されて命令があったと言って欲しいと頼まれ、(本当は命令はなかったが)命令があったと証言した」と告白した。宮城初枝はこのあと、「国の補償金がとまったら、弁償しろ」などの非難を浴びたが、彼女が再び発言を変えることはなかった。幾人かの住民も真実を語り始め、自決命令は宮里盛秀助役が下したと判明したと桜井よしこは、週刊新潮連載コラム「日本ルネッサンス」に書いた(『週刊新潮』2007年1月4日・11日号)。

座間味島の宮村幸延は、兄宮里盛秀(当時の助役・兵事係)は軍から自決命令を受けていない、隊長命令説は援護法の適用を受けるためにやむを得ずつくり出されたものであった、という証文を梅澤裕に与えたと神戸新聞の取材に答えている(神戸新聞、1987年4月18日)。

渡嘉敷島について照屋昇雄(琉球政府の軍人・軍属や遺族の援護業務担当)は遺族年金を受給するために赤松大尉が自決を命令したことにして公式書類等を作成したと認めた(産経新聞 2006年8月27日付)。その後、2005年に梅澤裕と赤松大尉の遺族が大江健三郎と岩波書店相手におこした名誉毀損での裁判では、この書類は2007年現在発見できないことを確認され、照屋昇雄自身が援護業務についていた否か自体が争点となっている。(「集団自決」訴訟)

梅澤は、2007年11月8日の大阪地裁での尋問で、村助役らが「老人、婦女子ら足手まといになるものは死んでくれと言われている」と話したと証言し、「だれから言われていたのか」との質問に「行政の上司、那覇あたりからの」と証言した。さらに閉廷後の記者会見では「集団自決を指示したのは、軍でなく県だ」と述べた(2007年11月9日沖縄タイムス)。

秦郁彦は、日本軍の手榴弾が自決用に使われた事を指して「軍の関与があった」としている人間がいるが、兵器不足であり、兵士に竹槍まで持たせていた日本軍にとって、手榴弾は貴重な武器だった。それを現地召集の防衛隊員に持たせていたものが、家族の自決に流用されただけなのに「手榴弾は自決命令を現実化したものだ」と語るのはいかがなものかと2007年7月6日の産経新聞朝刊正論欄に書いた。また「関与」というあいまいな言葉にすり替えて軍の強制性を語る人間が増えており、これは慰安婦問題と同じことが繰り返されていると問題視しているとも2007年10月3日産経新聞朝刊正論欄に書いた。

中村粲は、現地の守備隊員など関係者から聞き取り調査をしたが、軍命令はなく、年金支給のために軍命令を捏造したという証言があったとの調査結果を発表した(2007年10月3日産経新聞朝刊)。


戦陣訓教育について
戦陣訓や「鬼畜米英」などの教育は集団自決に限らず別の悲劇も生み出している。多くの軍人・学徒・民間人らが追い詰められた本島南端の荒崎海岸では、ひめゆり学徒2名が現われたアメリカ兵に「我々は皇国女性だ!殺せ!」と詰め寄り、撃とうとしないアメリカ兵にさらに「なぜ殺さないのか!」などと言い募ったため、ついに射殺されたという証言が残っている。前述の慶良間では、死屍累々たる状況から保護された住民にアメリカ兵が治療を行なったり食糧を与えると、「アメリカ兵に辱しめを受けるくらいなら」と自分の娘を殺したという老父が自責の念にかられて泣き伏してしまった、という証言もある。また、学徒の一人が「早まってはいけない」と言ったところ、ほかの同級生が「今までの教育を忘れたのか」「生き恥をさらすつもりか」などと責め立て、逆に近くにいた下士官兵に「君たちが死んだらこれからの沖縄はどうなるのだ」ととりなされて投降した、という証言もある。

捕虜の扱い 

沖縄における収容所アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。

沖縄戦におけるアメリカ軍の評価の一端
圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、洞窟陣地を利用した粘り強い防御戦闘と反斜面陣地などの巧みな陣地形成で苦戦を強いられたアメリカ軍は、この日本軍の防御戦闘を「歩兵戦闘の極み」と評した。これについて八原参謀の作戦計画は、反対斜面陣地戦法と野戦重砲兵の長距離援護砲撃を前提としており『寝技戦法』とも呼ばれた。これは、長身のボクサーを柔道家が寝技に持ち込み、相手のパンチをよく防いで超接近戦に持ち込んで相手の戦意を挫こうとするものであった。それには、まずアメリカ軍部隊を大部隊の展開が困難で地形が複雑な日本軍陣地前方に誘導する。そして小銃、軽機関銃で掃射して戦車部隊と歩兵部隊を分離させる。戦車部隊は速射砲、地雷または破甲爆雷によって破壊、そして重砲兵の支援砲撃により駆けつけてきた敵の応援部隊を叩くことが基本戦術であった。唯一の有効兵器は満州から転出してきた重砲兵という状況において、八原の戦術的判断は的を射ている。

侵攻してくる米軍に対して日本軍が善戦した例として、ペリリューの戦い、硫黄島の戦いも有名であり、沖縄戦での日本軍は戦訓の研究成果をもって戦いに臨んだ。これらの戦いは情報参謀堀栄三中佐などの『敵軍戦法早わかり』をもとにして、現場指揮官が独自の防御方策をもって臨んだ防衛戦であった。


史跡
特に戦闘が激しかった本島南部は「沖縄戦跡国定公園」に指定されている。日本国内の国立公園や国定公園の中で戦跡であることを理由に指定されているのは現地だけである。なお、海軍部隊大田司令官が自決した海軍司令部壕跡は現在「海軍壕公園」として整備されており、壕内の一部が見学できる他、資料館が併設されている。一方、沖縄守備軍牛島司令官と長参謀長が自決した壕は現在平和祈念公園となっている区域の中にあり、壕の近くには「黎明の塔」が建てられている(塔の手前の展望台の下に壕があり、入口までは階段で降りることができる。内部は立入禁止)。平和祈念公園内には県立平和祈念資料館や平和の礎(へいわのいしじ)がある。

ひめゆりの塔の敷地内にはひめゆり平和祈念資料館がある。また、南風原町の陸軍病院壕一帯は黄金森(こがね もり、方言名「クガニ ムイ」)公園となっており、近くにある南風原文化センターには資料室が設置されている他、近い将来一部の壕内の見学も可能になる予定である。

読谷村と北谷町には「米軍上陸の地」碑がある。また、最初の激戦地となった嘉数高地は嘉数高台公園となっており、複数の慰霊塔がある他、トーチカの跡が残っている。

米軍司令官が戦死した真栄里の高台には「サイモン・ボリヴァー・バックナー・ジュニア中将戦死の碑」が建てられている。周辺はその後アメリカ軍による報復戦が行なわれたのに加え、追い詰められた日本軍が最後の戦闘を繰り広げたため、それに巻き込まれた住民の一家全滅が極めて多い地域である。また、戦死者も多いことから「白梅の塔」など多くの慰霊塔が建てられている。

これら以外にも、戦時中に避難先に使用されたガマの一部が見学可能となっている他、平和祈念公園や米須霊域の一帯、糸満市内を中心として慰霊塔や慰霊碑が島内全域に無数に存在している。

嘉手納基地内には、旧日本軍の滑走路の近く、昭和20年9月7日の沖縄戦の降伏文書調印式が行われた場所に平和公園 peace parkが作られた。屋外であるが、約1メートルの碑に各種の文書がみられる。米軍と日本人の共同で作ったとある。


注釈
^ 本土決戦は1945年1月の『帝国陸海軍作戦計画大綱』、『決戦非常措置要綱』等を元に1945年後半を想定して決戦準備がなされていた
'^ 沖縄戦は本土決戦への時間稼ぎ、いわゆる「捨石作戦」(出血持久作戦)であったといわれる。捨石作戦であったとの意見については遺族に配慮した慎重な発言が必要との意見もあるが、作戦を軍事的政策的歴史的観点からなす客観的な評価と、戦死者の追悼を混同したものである。そもそも遺族への配慮というが、遺族の考え方も多種多様であり、一律に「配慮」することが本当に「配慮」足りえているのか疑問である。
^ この人数は、民間人の犠牲者を9万4千人と推計し、これに軍人・軍属の犠牲者28,228人を加えたものである。なお、民間人の犠牲者には戦闘に協力した民間人5万7044人を含む。
^ 沖縄タイムスによる
^ 数値は、ジョージ・ファイファー『天王山』による
^ 日本語の呼称鉄の暴風は、太田良博・牧港篤三の共著『鉄の暴風』に、英語での呼称the Typhoon of Steel(鉄の台風の意味)はベローテ兄弟の同名の著書にちなむ。
^ 米軍資料による。日本側の証言では狙撃との説もあり
^ 八原博通は、のちに司令部内部の出来事の貴重な証言をしているが、自ら立案した作戦が多数の住民の死を招いたことから自責の念に駆られ、知人の招きでも沖縄の地を再び踏む事はしなかった。
^ このときの基地が、現在の沖縄駐留米軍基地の元になっている(米軍基地が上陸地点に程近い読谷村から南側の平地に集中しているのは、このため)。
^ 疎開者数を8万とする史料もある
^ 以上、この章の主な出典は田村洋三『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』
^ 例えば1950年の「鉄の暴風」、1982年の大田昌秀「総史沖縄戦」など。
^ 争点沖縄戦の記憶、石原昌家他、2002年
^ 安仁屋政昭「裁かれた沖縄戦」1989年
^ 『日米最後の戦闘』米軍陸軍省編・外間正四郎訳
^ 石原昌家「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕」集英社新書
^ NHKスペシャル「沖縄 よみがえる戦場」(2005年6月18日放送)
^ 真実のわい曲許せず 600人死亡の惨劇消えぬ沖縄タイムス
^ 「あれは軍命だった」 座間味・戦争体験者ら怒り沖縄タイムス

沖縄戦全体を描いた映画作品
『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年東宝。岡本喜八監督作品)

関連項目
沖縄の歴史
沖縄の鉄道
沖縄戦跡国定公園
嘉数の戦い
シュガーローフの戦い
菊水作戦
鉄血勤皇隊
十・十空襲
集団自決
さとうきび畑
ひめゆりの塔
島田叡
泉守紀
琉球列島米国民政府
琉球政府
琉球民族
アメリカ合衆国による沖縄統治
福岡沖縄県事務所


関連文献
安里要江、大城将保(共著)『沖縄戦ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった…』高文研、1995年2月、ISBN 4874981550
安仁屋政昭『沖縄戦学習のために』平和文化、1997年8月、ISBN 4938585723
安仁屋政昭、徳武敏夫(共著)『沖縄戦と教科書』草の根出版会、2000年8月、ISBN 4876481539
石原昌家ほか『争点・沖縄戦の記憶』社会評論社、2002年3月、ISBN 4784514201
上原正稔『沖縄戦トップシークレット』沖縄タイムス社、1995年3月
大城将保『沖縄戦 民衆の眼でとらえる〈戦争〉』(改訂版)、高文研、1988年10月、ISBN 487498097X
大江健三郎『沖縄ノート』岩波書店〈岩波新書 青版 762〉、1970年9月、ISBN 4004150280 [7]
大田昌秀『これが沖縄戦だ 写真記録』琉球新報社、1979年/改訂版: 1985年/改訂版: 那覇出版社、2002年1月、ISBN 4930706009
大田昌秀編著『総史沖縄戦 写真記録』岩波書店、1982年8月 [8]/増刷版: 1994年3月、ISBN 4000012223
大田昌秀監修『沖縄戦 写真集』那覇出版社、1990年3月 [9]
大田昌秀『血であがなったもの 鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦』那覇出版社、2000年7月、ISBN 4890951296
大田昌秀『有事法制は、怖い 沖縄戦が語るその実態』琉球新報社、2002年12月、ISBN 4897420482
大田昌秀『沖縄戦下の米日心理作戦』岩波書店、2004年12月、ISBN 400022381X
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小橋川千鶴子『黒砂糖のかけら チーコの沖縄戦日記』耕文社、2002年2月、ISBN 4906456286
神直道『沖縄かくて潰滅す』原書房、1967年
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富村順一『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』柘植書房、1995年1月、ISBN 4806803588
仲田精昌『島の風景 少年の心に記録されたもうひとつの〈沖縄戦〉』晩声社、1999年9月、ISBN 4891882891
野村正起『船工26の沖縄戦』亜細亜書房、1998年6月、ISBN 4947727098
野村正起『沖縄戦遺族の声』叢文社、2002年8月、ISBN 4794704151
林博史『沖縄戦と民衆』大月書店、2001年12月、ISBN 4272520679
ひめゆり平和祈念資料館『ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック』(新版)、2004年8月
藤原彰編著『沖縄戦 国土が戦場になったとき』青木書店、2001年10月、ISBN 4250201392
船越義彰『狂った季節 戦場彷徨、そして――。』ニライ社、1998年6月、ISBN 4931314287
防衛研究所戦史室『戦史叢書(11) 沖縄方面陸軍作戦』朝雲新聞社、1968年
防衛研究所戦史室『戦史叢書(17) 沖縄方面海軍作戦』朝雲新聞社、1968年
真鍋和子『いのちの重さ伝えたい 沖縄戦1フィート運動と中村文子のあゆみ』講談社、2004年5月、ISBN 4062123584
宮城晴美『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』高文研、2000年12月、ISBN 4874982492
宮城巳知子『ずいせん学徒の沖縄戦 最前線へ送られた女学生の手記』ニライ社、2002年6月、ISBN 4931314538
宮良作『日本軍と戦争マラリア 沖縄戦の記録』新日本出版社、2004年2月、ISBN 4406030417
八原博通『沖縄決戦?高級参謀の手記』読売新聞社、1972年
山城高常『戦場のトンボ 少年がみた沖縄戦』ニライ社、1995年6月、ISBN 4931314163
吉田健正『沖縄戦米兵は何を見たか 50年後の証言』彩流社、1996年8月、ISBN 4882024071
吉田久一『八重山戦日記』ニライ社、1999年3月、ISBN 4931314325
歴史を拓く女の会編『オキナワいくさ世のうないたち いたみの共有』ドメス出版、2004年11月、ISBN 4810706273
ジェームス・H・ハラス(著)猿渡青児(訳)『沖縄シュガーローフの戦い 米海兵隊地獄の7日間』光人社、2007年4月、ISBN 4769813457
田村洋三『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』 中央公論新社、2003年、ISBN 4120033902/中公文庫、2006年、ISBN 4122047145

外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、沖縄戦に関連するマルチメディアがあります。沖縄戦史
沖縄戦関係資料閲覧室
沖縄情報センター:沖縄戦
沖縄県平和祈念資料館:沖縄戦について
沖縄戦の記憶・本館、沖縄戦の記憶・分館
読谷村史 第五巻資料編4『戦時記録』
松山大学法学部教授・田村譲のホームページ:沖縄戦
子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会(通称「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」、代表:福地曠昭)
沖縄戦と住民:軍政(14万人の日本人捕虜)
沖縄戦での住民集団死・集団自決と捕虜処刑(渡嘉敷島・チリチリガマ)
沖縄戦の経過について:アメリカの『GlobalSecurity.org』というサイトの中にある沖縄戦についての記述である『Battle of Okinawa』を日本語に訳したもの

太平洋戦争 1945年
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太平洋戦争
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最終更新 2007年12月17日 (月) 04:22。 All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License. (詳細は 著作権 を参照)
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