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日本のインテリジェンス「秘録:陸軍中野学校」 畠山清行 著 保阪正康 編 (新潮文庫)を読む-1
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投稿者 Ddog 日時 2008 年 11 月 03 日 00:45:15: ZR5JcjFY1l.PQ
 

少年忍者「サスケ」オープニングの有名なナレーションを覚えているだろうか?
「光あるところに影がある まこと栄光の影に数知れぬ忍者の姿があった 命をかけて歴史をつくった影の男たち だが人よ 名を問うなかれ 闇にうまれ 闇に消える それが忍者のさだめなのだ サスケ お前を斬る!」

陸軍中野学校の歴史を知ると、まさにこの「サスケ」のオープニングナレーションそのものではないか。むしろ、このオープニングこそは中野学校関係者が密かに仕掛けた「黙して語らず」とも後世中野学校の偉業を伝える為の仕掛けであったかもしれない。

陸軍中野学校や日本のインテリジェンスにご興味がある方にとっては「秘録:陸軍中野学校」は入手困難な校史:「陸軍中野学校」は別として必読の一冊だと思います。この本の価値は戦後20年の昭和40年夏から41年春にかけて週間「サンケイ」に連載された「秘密戦士:陸軍中野学校」が原型である。当時は中野学校の出身者が40〜50代で関係者も数多く健在で、貴重な証言が記録されています。

ルバング島から昭和49年帰還した遊撃指揮・残置謀者小野田寛郎 陸軍少尉は陸軍中野学校二俣分校(第一期)出身者であった、「自衛隊調査学校」は中野学校出身者によって設立され、中野出身者の教官山本舜勝は、三島由紀夫の「楯の会」を指導し“戦術の師”と尊敬され、決起事件で話題となったことがあった。戦後の下山事件は、CIAとGHQキャノン機関の主導権争いと、中野関係者との接点など興味が尽きることがない。この本を読むとインテリジェンスの世界の奥深さには恐れ入る。

あわせて、「諜報員達の戦後」斉藤充功 著 角川書店と読んだが、「黙して語らず」の中野学校の真実が、歴史に埋もれることなく残ったことを今日の日本の財産とすべきではないのだろうかと思うのであります。この2冊を読んだ感想は、日本は諜報戦において、けして日本は無能であったのではなく、むしろ甲賀流忍術も教育されるなど大変優れていたものであった。

中野卒業生は人知れず数々の輝かしい実績が残されている。軍人らしからぬ自由闊達な精神教育、中野学校の精神「謀略は誠なり」は、小野田寛郎氏の生き方言動を見ればお分かりになるかもしれませんが、武士道的理想と、忍者の源流である無縁・公界の民が持つ自由主義に通じる精神を併せ持つ孤高の人間像を育て上げたのだと思う。今日の日本人に欠けている多くの美徳は、今日我々は学ぶ必要があるだろう。

中野学校とも関係するがの陸軍の極秘防諜機関、通称「ヤマ機関」のについても触れている、南方謀略の淡路町事務所:藤原大尉のF機関、大本営直属「南機関」マレーの虎の「ハリマオ」(谷豊氏)、サイゴンに作った対ジャワ侵攻用の偽放送局、真珠湾に置いた碧眼のスパイ、有名な甘粕機関以外にも、日本は海外において様々なインテリジェンスを行っている。驚くことに、戦中の吉田茂に対する監視行為の実態のこの本で詳細に知ることができる。

第二次世界大戦の敗因の一つとされる情報戦能力は日本はけして劣っていたのではないと私は結論づけるのであります。問題であったのは武士道精神の名残りで、その情報を使いこなすべき、政治家や昭和の参謀本部に、間諜や謀略を軽蔑する精神教育がなされていたことに起因する悲劇であったと思う。そもそも、武士道精神とは、伊賀忍者を使いこなした徳川家康が幕府安泰の為仕掛けた、諜報活動を封じ賤しめる呪でもあった。忍者をすべて「お庭番」として召抱え、御用学者に「欠点や弱点を調べるのは武士にあるまじき卑怯な行為である」と武士道を盛んにさせた。その呪は、三百数十年後の当時のエリート達にも影響を及ぼした結果の日本の悲劇であったろう。

直近では、参謀本部のエリートからシベリア抑留、伊藤忠会長、行革推進本部と文字通り転進していった。「転進」瀬島龍三の「遺言」新井喜美夫 著、「逆説の昭和史」井上寿一著も読んだが、日本が戦争へ転げ落ちていく過程を観察すると、中野学校の創設者の一人秋草少将が「あと10年早く中野学校ができていれば戦争は起きなかったろう」と語ったことが理解できる。

国家戦略を持ち、陸海軍の調整(瀬島らは苦心していたらしい)陸軍の統制派と皇道派、海軍の艦隊派と条約派の内部抗争も調整をつけたかもしれない。情報分析、諜報活動はもとより、中国内戦に引きずり込まれずに済んだかもしれない。また、国内の情報分析治安活動等、戦争突入を回避したかった天皇、政府軍首脳部と連携し、決起に逸る若手将校や国内世論を抑える事も可能であったかもしれない。日本は第二次世界大戦に突入せずに済んだのではないかと思えるのであります。

毎度長い前置きとなりましたが「秘録:陸軍中野学校」は非常に内容が濃く、ブログで紹介するのはとても困難な内容ですが、興味を持ったことを幾つか簡単に紹介します。

日本は武士道の精神ではないが、インテリジェンスを軽視する傾向があり、その輝かしい功績は広く紹介されることが稀であった。日露戦争の明石大佐の功績は戦後司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」で紹介されるまで、世に広くしれわたらなかったろう。そもそも明石元二郎少佐(後に大将)の功績が最初に発掘されたのは、陸軍の中野学校が創設するときに福本教官たち陸軍資料庫で参考資料を探す過程で「革命のしをり」を発掘しなければ、語り継がれることすらなかったかもしれない、事実に驚いた。P146

P37〜38
日本ではスパイといえば暗い影がある人物と卑怯と考えるが、イギリスでは、「諜報活動こそ男子一生を捧げるにたる痛快なスポーツである」との名誉なことである認識である。なるほど、騎士道と武士道の差異を発見したようである。

ちなみに、P215英国では「スパイこそ最高の愛国者で知識、紳士でなければならない」という鉄則がある。

P59〜72
日本軍が米軍に暗号は解読することが不可能であると信じて止まなかったことが、第二次世界大戦の敗因の一つとされ、私は日本の防諜・諜報活動のレベルが低かった、単なる軍人の慢心にその原因を求めていたが、事実は違っていた。「紫暗号」パープルは、確かに解読されていたが、当時これが解読される危険性はありえないと思ってしまう非常に優れた暗号機械九七式欧文印字機1〜3型の存在があった。「その模造は絶対不可能」と思い込んだ「世界的発明」であったのは納得できる構造だったが、やはり暗号の世界は奥が深い。

Wikiにことの顛末が載っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E6%9A%97%E5%8F%B7#.E8.A7.A3.E8.AA.AD.E3.81.95.E3.82.8C.E3.81.9F.E5.8E.9F.E5.9B.A0

P80昭和12年、海外大使館からの情報を唯一の情報としていたものを分析していた参謀本部第二部第四班を第8課に格上げして、国際情勢の判断、宣伝、謀略を扱う部門としたのが外諜防衛の第一歩であった。
蒋介石政権No2「汪精衛」を引き抜く「汪精衛工作」をはじめ「呉佩孚工作」「李宗仁工作」など謀略行為を手がけて行った。

昭和11年8月に「後方勤務要員養成所」(後の中野学校)が設立された。

P110〜115
電波の逆探知器による捜査摘発は、英米よりも早く、昭和14年天津にて北支科学無線捜査班により成功している。

「後方勤務要員養成所」の源流は日清戦争前の荒尾精による「日清貿易研究所」、(1890年に中国貿易実務者を養成するため設立)のにその源流がある。昭和初年頃ハルピン特務機関員養成所も設立されてはいた。

中野学校の成功はその第一期生の訓育の成功といわれている。P138〜139教育は軍人が「天皇」の名を聞いた途端直立不動の姿勢をとる軍人の条件反射を取り除くことから行われた。
「天皇」の名が出て直立不動をすると教官の秋草中佐が「バカ者ッ」とどなりつけ、「軍人とばれるではないか、第一に天皇とて我々と同じ人間だ」と戦前最も自由主義的な教育が行われていたことは注目に値する。

【陸軍中野学校:教育】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%AD%A6%E6%A0%A1

「謀略は誠なり」徹底的な自由教育を行い各自の自覚を促しやる気を起こさせたことにもよる。先にも紹介したが、明石大佐の功績が大きかった。P171「中野学校の目的は単なるスパイ養成ではなく、神の意思にもとづいて、世界人類の平和を確立する秘密戦士を養成するものである。そしてその模範は明石大佐である」「明石大佐の意思を継げ」「謀略は誠なり」が教育方針であった。実にすばらしい。

そのほかに楠正成から真田幸村、日露戦争に馬賊を率いた花大人(ファンダーレン)こと花田中佐、シベリア単騎横断の福島中佐、若き日の田中義一少佐(後の首相)がノブスキーと名乗りの対露諜報戦をした記録、なども参考としていたとのことだが、甲賀流忍術代十四世藤田西湖の指導も興味深いエピソードだ。p177

武士の死は立派な行為だが、忍者の道では死は卑怯な行為とされた、「死」は苦痛からの逃避でしかない。舌を抜かれ目を抉られても生きて生きて生き抜いて情報を報告し任務を果たす。それが忍者の道だと教えた。

P184〜185 全国の秀才を集め、かつ、豪傑型の人物の育成を力を注ぎ、毎夜天皇制の批判をするなど闊達な議論まで繰り返された。→結果元首としての天皇の尊厳が理論としても裏付けられた。
P227〜229
正式な校歌が秘密学校にはあるわけが無いが、学生自ら作り密かに歌い継がれた歌が残されている。中野学校がいかなる性格の学校であったか、「中野学校の歌」「三三壮途(わかれ)の歌」の歌詞を読めば中野学校の精神がいかに崇高であるか、国士達の気概が読み取れるだろう。

 【中野学校の歌】

一、赤魔の守りなにものぞ
  われに無敵の皇師(ぐん)ありて
  ウラルの峯に駒(こま)をたて
  ボルガ河畔に水飼わん
  北進健児の意気高し

二、中華と誇る隣邦が
  治乱興亡五千年
  四億の民が塗炭の苦
  今聖戦に救わまし
  われらが腕(かいな)力あり

三、南海月澄み風薫る
  南十字(さざんくろす)の星の下(もと)
  知らずや君よ白人の
  鉄鎖にうめく民ありて
  東の光求むるを

四、西に南にまた北に
  行方さだめぬ同志らが
  炎と燃えて胸に抱く
  八紘一宇の大理想
  掲げて共にいざ征かん

【三三壮途(わかれ)の歌】

一、赤き心で断じて為(な)せば
  骨も砕けよ肉また散れよ
  君に捧げて微笑む丈夫(だんじ)

二、いらぬは手柄浮雲の如き
  意気に感ぜし人生こそは
  神よ与えよ万難われに

三、大義を求めて感激の日々
  仁をもとめてああ仁得たり
  アジアの求むはこの俺たちよ

四、丈(たけ)なす墓も小鳥のすみか
  砕けし骨をモンスーンにのせて
  散るや世界のすべてが墓だ

五、丈夫生くるに念忠ありて
  闇を照らす巨燈(おおび)を得れば
  更に要せじ他念のあるを

六、南船北馬今我はゆく
  母と別れて海越えてゆく
  同志(とも)よ、兄らといつ又会わん

嗚呼なんと、すばらしい。自分の人生は彼らとくらべれば、いかにちっぽけなものか。 こういった精神と能力を持った中野学校に選ばれし方々こそ、国士であった。羨ましく、尊敬できる人物であろう。また、我々は戦後日本を影日向に支えていたこと知っておくべきであろう。

2へ続く予定?

【Ddogのプログレッシブな日々】
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/19230662.html
 

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