★阿修羅♪ > 歴史01 > 391.html
 ★阿修羅♪
米内光政は親米ではなく親ソ派だったから日独伊三国同盟に反対したのであり、日本海軍はスターリンの意のままに南進策をとった
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/391.html
投稿者 TORA 日時 2008 年 12 月 06 日 17:26:46: GZSz.C7aK2zXo
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu181.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
--------------------------------------------------------------------------------
米内光政は親米ではなく親ソ派だったから日独伊三国同盟に反対し
たのであり、日本海軍はスターリンの意のままに南進策をとったのだ。

2008年12月6日 土曜日

◆連合艦隊司令長官 山本五十六の大罪 中川八洋:著
https://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4896678036_1.html

◆真像の米内光政

米内光政については、戦後、糾弾する声が皆無ではないが、ほとんどない。一般には、ポツダム宣言を受諾せよとの、昭和天皇の"ご聖断"を支持して、本土決戦を阻み、国土のさらなる疲弊と国民のさらなる大量死者を未然に防止したとの、良いイメージが米内評の骨子となっている。阿川弘之らの嘘宣伝的な美化小説の影響も大きく、「米内光政は〃良心的な海軍軍人。であった」が、定着した。米国が、米内光政を大東亜戦争の推進者とせず、東京国際軍事法廷に「A級戦犯」として訴追しなかったことも、米内像を良いものにした。

本章は、このような米内光政像にかかわる一般通念を、いったん白紙にすべきではないかとの視点から、米内にかかわる新しい仮説を提唱するものである。なぜなら、米内光政とは、北支(黄河域)に限定していた日中戦争(日支戦争)を、揚子江域の中支に、さらには海南島の南支まで、次々に拡大していった張本人である。これは、確定済みの歴史事実である。米内光政がトラウトマン和平調停を(近衛文麿とともに)断固として拒否したのも明白な歴史事実である。「日中戦争の拡大屋」こそ、米内光政の客観的な実像だろう。

阿川弘之は、狡滑な小説家で、その『米内光政』では、海軍大臣として、この日支戦争にかかわった部分をすべて削除して一字も書いていない(注1)。日支事変時の米内海軍大臣の大臣秘書官であった実松譲も、阿川と同様、ほぼばっさりと削っている。ついでに実松は、日支戦争の開始の全責任を陸軍に転嫁する巨大な嘘にまとめている(注1)。悪質な作為である。

戦後の米内光政像は、人為的に創られた虚像である。裏で何かが大きく動いて創られた虚像である。歴史事実の冷静な分析に先入観は排除すべきだし、史実は丹念に収集され事実に従って冷静に言及されるべきである。米内像は、今からでも遅くはない、ゼロから再構築すべきである。

◆第一節「スターリンの工作員」張治中と米内光政は、本当に無関係か

八月十五日の、米内光政の対支宣戦布告.盧溝橋事件から一ヶ月の一九三七年八月、陸軍は、参謀本部次長の多田駿く中将)や同作戦部長の石原莞爾(少将)ら、不拡大派がまだ主流であった。このため、日支戦争は北支に隈定されていた。そこでスターリンとしては、支那の国民党政府と日本とを全面戦争に導くため、罠を仕掛けた。それが第二次上海事件である。

具体的にはスターリンは、国民党軍に潜入させていたコミュニストで毛沢東軍に本籍をおく張治中(京渥警備司令官)に命じ、上海に駐留していた日本の海軍陸戦隊の大山勇夫・中尉とその運転手(一等水兵、斉藤興蔵)の二名を射殺させた。八月九日であった。続いて八月十四日、日本の第三艦隊の旗艦「出雲」ぱかりか、海軍陸戦隊本部や日本人小学校を爆撃させた(注2)。

スターリン/毛沢東の仕組んだこの謀略の軍事攻撃に対し、海軍大臣の米内光政の行動は、常軌を逸していた。通常であれば、蒋介石の意図を確認・確定する情報作業を、外務大臣に要請するとともに、海軍独自でも行うはずである。しかし、外務省や海軍がそのような作業を万が一にもできないよう、米内は独断専行して、間髪をいれず、軍事的反撃の即時実行に全力をあげた(注3)。

まず、翌八月十日の閣議で、米内大臣は、上海への陸軍出兵を強引に要請した。しかし、たった二人の死亡でかくも迅速に全面戦争に訴えるのは、常識ではありえず、米内の行動は実に奇怪であった。現実に、杉山・陸軍大臣は、この要請に消極的な反応しか示さなかった。

しかし米内は、八月十二日、近衛の支援を受けて、近衛私邸での四相会議(首相、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣)で、陸軍出兵を再び強く要請し、ここに二ヶ師団出兵が定まった。

[備考]近衛文麿は、重要国策の決定を、官邸でなく、私邸でするなど、公私の峻別をしないことを日常とした。この性向は、近衛が国家を私物視していた証左である。

八月十五日、米内大臣は、長谷川清(第三艦隊司令長官)に、長崎県大村と台湾から、海軍機(九六式陸上攻撃機、中攻)などの渡洋爆撃を命じた。台北からの「中攻」十四機は、南昌の飛行場を空爆した。大村からの「中攻」二〇機は、南京の敵飛行場を爆撃し、四機が撃墜され、六機が要修理機となった(注4)。「中攻」に関しては、渡洋爆撃の実験を兼ねていた。この爆撃は、スペインのゲルニカに対するヒットラーの無差別爆撃(四月二十六日)の直後であったため、国際的には"負のイメージ"「日本はヒツトラーのドイツと同じ」を決定的にした。

八月十四日の閣議で、米内大臣は「南京占領」を口にした。これが閣僚で最初の「南京占領」発言である。このとき、外務大臣も陸軍大臣も、これに反対した。

このように南京占領にいたる上海戦を推進した筆頭が米内光政であった。しかも米内は、渡洋爆撃に興奮したのか、総理でもないのに八月十五日午後七時半、「頑迷不戻な支那軍を鷹懲する」と、支那への宣戦布告と見做しうるラジオ演説までした(注5)。

上記の米内の行動は、張治中と打ち合わせをしながらやっているのでないかと錯覚されるほど、八月九日から十五日に至る一週間、張と米内は呼吸が一つになっていた。両名に対しソ連(スターリン)が背後で命令しないで、これほどの一体化は偶然だけで可能だろうか。

さて話を戻して、上記のAによって、上海戦が、この一九三七年八月から開始されたが、壮絶・熾烈な上海戦に関して、現代史家の研究の言及がきわめて少ないのはどうしたわけだろう。まず、@日本軍の損耗は絶大なものとなった。たった三ヶ月で、戦死傷者は(死者九千人以上を含む)四万人を超えた(注6)。

それ以上に、蒋介石の国民党軍も支那での情勢が一変し、毛沢東の人民解放軍と国共合作せざるをえない情況に追い込まれた。まず、共産主義者三百余名(陳独秀ほか)が釈放された。次に、毛沢東の人民解放軍は、形式的には、国民党軍の一部となり、「八路軍」と称し、正規軍となった。かくして、毛沢東の共産軍は好き放題にその勢力を支那全土に伸長していった(注7)。

近衛文麿と米内光政の、一九三七年七月から一九三八年一月にかけての対支軍事・外交政策のすぺては、スターリンの意に沿う形で、毛沢東の"赤い支那づくり〃に決定的に貢献した。しかも、両名か、「毛沢東のために」を秘かに意識していたのは間違いなかろう。

近衛と米内のこの異様な行動が、もし「偶然の歴史的経過に過ぎない」と主張したいなら・是非.ともその根拠を提示して欲しい。大戦争を開戦するに、「偶然」などめったに起こらない。

D米内の「罪」は、何といっても、日支戦争の無期限泥沼化にあろう。南京陥落直後の一九三八年一月、蒋介石が出してきた対日講和の提案を、近衛文麿と共謀して蹴ったのは米内・海軍大臣であった。"日本史上、例のない悪の巨魁"近衛文麿が考案した「蒋介石を相手とせず」の発表(一九三八年一月十六日)を断固阻止しようとして食い下がる陸軍参謀本部の参謀次長・多田駿を「内閣総辞職になるぞ!」と個喝して黙らせたのは、米内光政であった(注8)。

◆サンクトペテルブルグの米内光政とハニー・トラップ

ところで、米内に関して、多くの著作が言及しない重大な履歴がある。米内は、サンクトペテルブルグ(帝政ロシアの首都)に駐在武官補佐官として二年間勤務して。(一九一五年二月〜一七年四月)、ロシア語が堪能であるだけでなく、大変なロシア贔屓であった。一九一七年十一月、革命によってロシアはソ連となったが、米内光政は「親露」から、そのまま「親ソ」になった。

帝国海軍の歴史研究で、「親英米」とか「親独」とかは議論になるのに、なぜか「親ソ」については語られない。だが、「日本の親ソ提督」といえば、第一が加藤寛治(海軍大将)、第二が米内光政(海軍大臣二回、総理大臣一回、海軍大将)。この事実は、海軍研究で決して無視できない重大問題である。敗戦間際になると、開戦時と同様、「親ソ」でコミュニストでもあった高木惣吉(少将)が暗躍し大きな影響力をもってくる。前田稔(終戦時、海軍中将)も「親ソ」でコミュニストであろうが、海軍内で暗躍したさほどの形跡はない。

話を戻して、米内光政のソ連駐在は、さらに続く。日本のシベリア出兵に伴ない、ウラジオストックに一年間勤務した(一九一八年八月〜一九一九年九月)。ソ連共産革命の情勢を調査分析すべく、ワルシャワやベルリンに二年半も駐在した(一九二〇年六月〜一九二二年十二月)。これら計五年半のロシア・ソ連にかかわる海外駐在の期問に、ロシア・ソ連の仕掛けた(複数の)ハニー.トラップに、異常な女好きの米内がひっかからなかったと考えるのは、かなり無理である。米内の女遊びは尋常でなく、一九三六年の二・二六事件が起きた日も、新橋の芸者の部屋から出勤している。

米内の駐露(ソ)時代について、その後の海軍が厳格な絨口令を敷いたのは、ロシア女との間にできた、米内の子女がサンクトペテルブルグにいたからではないのか。ベルリン等での、二年半に及ぶソ連革命調査の米内の特命活動について、戦後の米内論がまったく言及ぜず口を閉ざすのば、子供をつくった問題のほか、もっととんでもないことを米内がしでかしたからではないのか。

特に、ペルリンやワルシャワでの「米内光政事務所」は、外務省の領事館や大使館に間借りしたのか。それとも海軍独自に事務所を開設したのか。これすら、誰も語らない。武官でもない、武官補佐官でもない、半端な身分で、どうしていたのか、はっきりしない。仮に、海軍独自の事務所が開設されたとして、そこで雇用したロシア語資料の収集・翻訳者は亡命ロシア人だったのか、ロシア語に堪能なドイツ人だったのか、それとも米内は、翻訳すべてを自分でしていたのか。雇用したロシア人/ドイツ人は、ソ連のスパイでなかったといい切れるのか。

掃除と洗濯で米内光政の身の回りの世話をした女中も、ソ連のスパイではなかったといい切れるのか。この五年半の米内の行動と行状について、戦後、旧海軍関係者が共謀して沈黙することにしたのだから、上記の憶測はかなり的を射ているだろう。封印された、米内の「ロシア等駐在五年半史」は、海軍として知られてはまずいことぱかりしていたようだ。

日本の国益においてまったく必要がなかった、一九二五年の日ソ基本条約があれほど早く締結されたのは、ソ連に完全に抱き込まれた後藤新平と、この後藤とつるんだ海軍が、ニコライエフスク港日本人大量虐殺(一九二〇年三月)に関する賠償請求の放棄や、保障占領中の北樺太からの撤兵など、ソ連の言いなり(マウスピース)になって、陸軍の足を引っ張ったことも原因として大きい。

ソ連は早々と一九二一〜二年頃には、日本人を「工作員」に一本釣りし始めたが、いとも容易に次々に成功していた。一九二〇年代前半の海軍の異様な親ソ行動を、単に北樺太の石油欲しさで説明するのが定説だが、真の背景は、このような海軍首脳の親ソ一辺倒とソ連利権であった。後者の例をあげれば、北樺太石油利権を管理する「北樺太石油株式会杜」の杜長は、中里重次や左近司政三など、海軍OBのポストだった(注9)。

ちょうどこの頃、〃海軍きっての親ソ屋。加藤寛治は、「反米」の激情あらわにワシントン海軍条約(一九二二年)を罵倒し反対していた。もう一人の〃親ソ屋"米内も、ワルシャワ/ベルリンにいて、ソ連の革命情況につき海軍首脳に、「ソ連は理想のすばらしき国に創られています」、などと報告していたのかも知れない。だが、日本の海軍史の研究は、海軍の北樺太撤兵論と海軍内ワシントン条約反対論と米内のソ連革命情勢報告書の三つの問題が同時であったこと、およびこれらがどう関連していたかについて、六十年以上も、なぜか沈黙している。

不思議なのは、米内光政のソ連情勢報告書はすべて焼却されたようだが、誰がいつなぜそうしたのかについて、なぜ旧海軍関係者は完全に闇にしたかである。報告書の実物がなくとも、それを読んだ誰かが、戦後「これこれの内容であった」と回想してもよさそうだが、それもまったくない。米内の報告書は、海軍の部外に知られると随分とまずい内容のようである。これ故に、かなり早い時期に絨口令を敷いたのだろう。

米内に関する、"歴史の空白"づくりは、"艦隊派の巨頭。加藤寛治(一九二七年に海軍大将、一九二九年一月〜一九三〇年六月に軍令部長)が、実は「ソ連の工作員」かも知れない問題について、少なくとも加藤寛治の強度の反英米のイデオロギーが過激な〃親ソ主義"の裏返しであったことについて、戦後の外交史・軍事史学界が意図的に無視したことに通じている。むろん今ここで、米内光政が「ソ連の工作員」だったか否かを、結論づけたいわけではない。ただ米内は生涯、ソ連に通謀し続けていたのでないか、という仮説は検証する価値はあるだろう。なお、加藤寛治や米内光政は、瀬島龍三や高木惣吉とは異なって、コミュニストではない。


◆『日本は勝てる戦争になぜ負けたのか』 新野哲也(著)真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があった? 2007年8月13日 株式日記
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/38e0cbfb6224a8c9c77880eff395a08d

◆三村文男(著)『米内光政と山本五十六は愚将だった』近衛、広田、杉山は死刑で、米内が無罪はおかしい。 2005年4月29日 株式日記
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu93.htm

◆岡崎久彦氏は米内、山本、井上の媚米派海軍トリオの後継者 日本は未だに歴史観に対する干渉が米国や中国から受けている 2006年8月26日 株式日記
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/70f5b0f9c749256627a8d7040a9c7d77

(私のコメント)
12月8日は真珠湾攻撃の日になりますが、なぜ山本五十六元帥はアメリカの望むような開戦に踏み切ったのかという謎は解明されていない。その解明のカギを握る人物が米内光政海軍大臣であり、事実上の日中戦争に踏み切った一番の責任者だ。当時の陸軍は不拡大方針であり、盧溝橋事件は中国共産党が仕掛けたものだ。

詳しい事は2005年4月29日の株式日記にも書かれているように、蒋介石との講和をぶち壊したのは近衛首相と米内海軍大臣だ。しかし東京裁判においても米内光政は戦犯となる事もなく起訴もされなかった。日中戦争を拡大させた他の3人は自殺したり処刑されたのに米内光政だけは起訴もされないというのは明らかにおかしい。

この事は中川八洋氏の「山本五十六の大罪」でも指摘している。そして米内海軍大臣は親ソ派のスパイではなかったのかという疑問を提示している。確かに米内大臣は5年半にわたるロシア・ソ連の海外駐在を経験している。ロシア語にも堪能であり、恐らくハニートラップにかかってソ連のスパイになった可能性は大きい。しかしその頃の報告文書などはことごとく燃やされてしまった。

当時の陸海軍部内にはソ連共産党のスパイがいたことは間違いないだろう。ゾルゲだけではなく尾崎秀実や近衛文麿など隠れた共産主義者がいっぱいいた。米内光政は共産主義者ではなくともソと内通したスパイであった可能性が高い。当時の北進策から南進策に変わって行ったのはスターリンの画策によるものであり、米内が日中戦争を拡大すれば、ソ連の対日脅威はそれだけ減る。

日中戦争が拡大すれば米英の利権とも衝突して日米関係も険悪化していった。スターリンはそこまで読んでいたのだろう。ルーズベルト政権にもソ連のスパイがおり日米戦争はソ連がナチスドイツと日本との挟撃を避けるための戦略だったのだ。日本陸軍はもっぱらソ連との戦争を想定していたから中国やアメリカとの戦争を望んでいないのは明らかだ。

田母神論文でもコミンテルンの陰謀説について書いていますが、ソ連や中国共産党の工作ばかりでなく日本国内にいたスパイの存在が不可欠だ。もしそのスパイが米内光政であるとすれば日中戦争の拡大や日米開戦の謎の多くが解明されることになる。

大東亜戦争については株式日記でも多く書いてきましたが、日本が負けた一番大きな原因が日本海軍の裏切りだ。その中心人物が米内光政であり、米内、山本、井上の海軍トリオが日独伊三国同盟に反対したのも親米派というよりも、米内が親ソ派であったためだろう。日本が北進策から南進策になった中心人物が米内と近衛にある。

日独伊三国同盟は防共協定でありソ連封じ込め戦略に基づくものですが、独ソ戦が開始されたという事は日本の対ソ連開戦も時間の問題だった。しかし1940年には米内内閣が出来たり、1941年には日ソ中立条約などが出来ていますが、スターリンは日ソ開戦を一番恐れていた。松岡外相は日独伊ソの四国同盟で対米交渉をしたかったのでしょうが、独ソ開戦で日本の構想はご破算になってしまった。

このような状況が流動化している時に日中戦争を拡大させるのは国益ではないのですが、米内海軍大臣は上海へ陸軍の増援を要請して拡大させている。陸軍が反対すると総辞職までちらつかせて日中戦争になってしまった。まさに米内光政は万死に値するのですが、戦後に出された米内光政の伝記小説などではばっさりと削られている。

昭和史研究家なども何故か三国同盟に反対した反戦派として評価しているが、米内光政がソ連と関係が深い経歴など知らないのだろうか。山本や井上は単なる部下でありどの程度関与したのかは分かりませんが、米内と井上は戦後も存命だったのだから真相は究明されるべきだった。

米内光政は、アメリカからは日本海軍のキーパースンとして海軍大臣や首相になったときなどアメリカの雑誌の表紙を飾るなど異例なほど注目されてきた。特に優秀な成績でもなく海軍大将にまで出世したのは異例中の異例であり、何らかの政治的な背景があったからだろう。その意味でもコミンテルンのスパイであったという仮説を立てれば十分に納得が出来る。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      HOME > 歴史01掲示板

フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)|(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(なしでも可能。あったほうが良い)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
最新投稿・コメント全文リスト  コメント投稿はメルマガで即時配信  スレ建て依頼スレ
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。