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カフカース問題
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投稿者 スットン教 日時 2009 年 1 月 02 日 20:36:14: CmuKS.2SNuq/E
 

GoogleMap(グルジア最北部Sukhumiスフミがアブハジアの首都)

2003年にグルジアでネオコン主導のバラ革命が起きるまでは、親ロシアであるシュワルナゼ政権が欧米を味方につけたアブハジア分離独立派を抑え込もうとしていました。バラ革命によってグルジアが親米ファッショに染まると、今度はロシアがアブハジアを助ける役割になってしまったわけです。バラ革命で西側にとっても厄介者になったチェチェン分離独立派のバサエフは安心したロシア軍に2006年に始末されてしまいました。国際社会って汚らしいですね。



アブハジア紛争 - Wikipedia
アブハジア紛争は、アブハジアがグルジアから独立を求めた武力闘争。
経過
1989年、独立グルジアへのアブハジアの統合が、グルジアの民族主義者たちによって声高に主張されていた。多くのアブハズ人たちは、新たな「グルジア化」につながるとの考えからこれに反対し、その代わりに、独立の共和国としてのアブハジアの建設を考え始めた。7月16日、大学の学生の受け入れをめぐって、スフミで暴動が起こった。このとき、16人が死亡し、137人が負傷したと言われている。暴動は数日間続いた後、ソビエト軍によって鎮圧された。

1991年4月9日、グルジアが独立を宣言。1992年2月21日、グルジアの軍事評議会は、ソビエト連邦期の憲法を廃止し、1921年に制定されたグルジア民主主義共和国の憲法を復活させることを宣言。これを、アブハズ人たちは、自治権の廃止ととらえた。

1992年7月23日、アブハジア自治政府が独立を宣言したが、国際的な承認は得られなかったため、グルジア政府は3000人の部隊をアブハジアに送り、スフミにおいて、アブハジアの分離主義武装グループとのあいだで激しい戦闘が起こった。1週間の戦闘で双方に多くの犠牲者が出て、グルジア政府はアブハジア自治政府を廃した。アブハジア側の敗北の後、北コーカサスの諸共和国からの義勇軍がアブハジアの分離主義グループに合流し、再びグルジア政府軍との交戦が始まった。

1992年9月、反乱軍の攻勢によって、グルジア軍は劣勢に立った。シェワルナゼ政権は、アブハジアの分離主義者に対して密かに軍事的な支援を行っているとしてロシアを非難した。1992年末、反乱軍がスフミ以西のアブハジアの大部分を掌握した。「民族浄化」(ethnic cleansing)が双方に起こり、この段階で約3000人が殺されたとされる。

1993年7月、アブハジア軍は、スフミを管理していたグルジア軍に対する攻撃に出た。町は包囲され、シェワルナゼも町中に幽閉される事態となった。9月27日、スフミはアブハジア軍の手に落ちた。新たに大統領に指名されて間もないシェワルナゼはこのとき、何事が起ころうともスフミに留まると宣言していたが、滞在していたホテルが狙撃手によって攻撃され、ロシア海軍に助けられてスフミから脱出した。

1993年10月、国連安保理はアブハジアの軍事行動、民族浄化を非難。

1994年5月15日、停戦合意が成立し、国際連合の平和維持軍が停戦の監視に当たっている。以後、戦闘は起こっていないが、その代わり、繰り返し行われている交渉による事態の大きな進展もない。グルジアの難民問題は深刻である。

1994年11月4日、アブハジア政府は新しい憲法を採択し、主権を宣言した。1996年11月23日、選挙が行われたが、グルジア政府や国際社会からは承認されていない。

2004年10月、再び大統領選挙が行われた。


エドゥアルド・シェワルナゼ - Wikipedia

グルジア大統領に
ソ連崩壊後、グルジアのズヴィアド・ガムサフルディア大統領は民族主義と強権政治を強め、これにより民族紛争と大量難民を生み出した。1992年1月の反ガムサフルディア派によるクーデターでガムサフルディアはロシアのチェチェン共和国へ亡命した。混乱を極めるグルジアの国内情勢を立て直すために、かつてソ連外相としてペレストロイカを推進し、国際的に抜群の知名度を誇るシェワルナゼが擁立された。

1992年3月、シェワルナゼは、グルジア国家評議会議長に就任し、グルジアの最高指導者となる。1992年10月には、最高会議議長に当選。1995年8月新憲法が採択され、11月大統領に選出された。1999年、グルジア大統領の立場で来日。2000年4月には大統領に再選された。シェワルナゼ政権によって、グルジアの経済及び社会情勢は安定を見せ、市場経済への転換も軌道に乗ったが、アブハジア紛争に伴う難民問題やロシアとの関係など難問を抱え、さらに1998年にシェワルナゼ暗殺未遂事件が数度発生したことを契機に、市場経済へのプロセスが停滞し始め、それに伴い汚職の蔓延や電力やガスなどの供給不安、失業などが拡大していった。

大統領辞任

2003年11月の議会選挙の不正を野党側が糾弾し、議会占拠の混乱に至ったため、2003年11月23日に大統領辞任を余儀なくされた。シェワルナゼは、外相を辞任するまでゴルバチョフを支持していたことにあらわれていたように漸進主義的な政治手法を取ったために、この事が政権内に事なかれ主義をもたらし、次第にグルジアの民意と乖離していったことが、失権の原因とされる。

ドイツの人々は彼がソ連外相としてドイツ統一に尽力した事を高く評価しており、「祖国統一の恩人」としてドイツへの亡命の申し出があった。しかしシェワルナゼは、この申し出に感謝しつつも、家族とともに祖国に留まる決意を下した。
 

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