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『秘史発掘「日中戦争はドイツが仕組んだ」副題:上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ 阿羅健一 著 小学館』を読む【訂正版】
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/453.html
投稿者 Ddog 日時 2009 年 2 月 20 日 21:03:58: ZR5JcjFY1l.PQ
 

(回答先: ドイツ軍事顧問団関係史 投稿者 Ddog 日時 2009 年 2 月 20 日 02:16:47)

上海戦の激闘で亡くなった実在の兵士を模った石仏。愛知県知多半島の仲之院「軍人群像」
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毎度で申し訳ございません。日本語が変だったので推敲しましたので、転載等される場合はことらでお願いします。ブログは訂正済み。ブログはまた訂正するかもしれませんので、できればブログで読んで下さい。
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久々に目から鱗の本でした、理路整然とした歴史的経緯説明は実にすばらしい!戦前のドイツが、日独防共協定や、日独伊三国同盟の影で、信義に劣る卑劣な外交行為を行っていた。日中戦争は実は日独戦争に等しかった。これを人間に置き換えたのならば、人間不信に陥ってもおかしくない行為であった。

昭和12年に設立された陸軍中野学校がもう3.4年前に設立され、インテリジェンス機能が働いていれば、日独伊三国同盟の締結はなく、太平洋戦争へ突入することもなかったであろう。歴史へのifは禁物だが、ナチス独逸の背信行為を軽く考えていた陸軍首脳部、特に当初ナチスに懐疑的であったにもかかわらず、ナチスと結んでしまった大島武官、安易に日独の接近を許してしまった山下奉文らの責任は重い。

本書は主に独逸軍事顧問団の中国との接近から、第二次上海事変における皇軍と国民党軍の死闘の様子、国民党軍の壊走と、顧問団の引き上げの経緯が克明に著されています。

私は大きな思い違いをしていたのだ、ナチス独逸は友好国ではなかったのだ!日独防共協定(S11/11/25)成立後の盧溝橋事件(S12/7/7)、第二次上海事変(S12/8/13〜11/30)においてドイツ軍事顧問団は、単なる軍事顧問ではなく、兵器の供給、作戦の立案から訓練、防御陣地の構築まで国民党軍を指導し、戦闘を指導し続けた。更に日本軍との戦闘に参加、戦死者までだしている。

独逸軍事顧問団の指導により構築された上海郊外の堅固な陣地は、トーチカとクリークに守られた民家を要塞化した防御陣地を敷き、ドイツ製の最新兵器で武装した国民党軍精鋭部隊は手ごわく、第二次上海事変では日本軍は旅順攻略に匹敵する戦死傷者41,924名(旅順攻略戦59,408名)を出したのである。

記事は実際に掲載されなかったが、同盟通信の松本重治上海支社長(「日米同盟静かなる危機」に続きまた登場)が月刊誌「改造」に「上海の戦いは日独戦争である」と書いていた。

上海戦終結後も止まることの無いナチス独逸の二股外交、中国支援は続き、昭和12年11月6日、日独伊三国同盟締結は、なんと上海戦の最中であった!日独伊三国同盟軍事にもかかわらず、驚く事に日本軍の南京入城時(S12/12/13)国民党軍を指導していたのはドイツ軍事顧問団だったのである。独逸軍事顧問団は日独伊三国同盟を推進したリッペンドロップが外相に就任し、昭和13年7月5日副総裁へスの再三の命令で漸く顧問団29名が引き上げる最後の日まで、戦争を指導し続けたのであった。それでも元ナチ突撃隊員シュテネン大尉など残った者までいた。

本書では、意図的に皇軍の南京入城についての記述はさけているが、南京大虐殺のと呼ばれるプロパガンダ事件において、日本軍が残虐行為を行ったと証言するジョン・ラーベ(John H. D. Rabe, )は、日本の同盟国としての独逸の実業家として、日本軍の虐殺行為の中立的証言者であるかのような、虐殺肯定派は重宝がっているのだが。ドイツは同盟国でも、中立国でもなく、日本と実質的に戦闘を行った中国軍の独逸軍事顧問団側の証言である。しかも、中国国民党軍を代得意客とする武器商人としてシーメンス社の社員であり、南京ではナチス党員であることを公言していたことを考慮すると、ラーべの証言は客観性にかける偽証である可能性が高い。

私もなぜ、同盟国ドイツの民間人が同盟国である日本を貶める偽証をしたのか永年疑問であった。信長を除いて伝統的に虐殺を行わなかった日本の軍隊、当時の皇軍の規律を考えれば、虐殺は考えにくかったのだが、同盟国ドイツ人の証言には本当に虐殺は便衣隊に限らず中国側のプロパガンダほどではないにしても、虐殺が行われたのではないかという疑問を持っていた。しかし、本書を読むことで漸く納得でき、永年の痞(つかえ)えが取れたのである。

なお、本書で南京入城について記述が少ないかというと、著者、阿羅健一氏は、南京虐殺否定派の論客で、おそらく南京虐殺は史実として取り上げる必要もないと考えているのだろう。実に筋が通っている。

上海戦の国民党軍85万人のうち皇軍に旅順以来の多大な犠牲が出てはいたが、国民党軍85万人のうち戦死傷者333,500名と、精鋭部隊を致命的壊滅状態にまで追い込んだ日本軍の強さは異常であり、鉄壁の防御陣地を構築し、軍事訓練を重ねた独逸軍事顧問団ファルケンファウゼン将軍のプライドは踏みにじられた。彼らが執拗に同盟国の日本軍攻撃にこだわったのか、単なる経済的理由だけではなかったことが、容易に想像つく。

第一次世界大戦は日英同盟であった為、日本は独逸に宣戦し植民地としていた青島を攻めた。ベルサイユ条約でドイツの持っていた権益である南洋諸島、チンタオ山東省を日本が奪取した。独逸にとってアジア=中国であり、日本=敵対国家であり続けたのである。

ソ連の重化学を独逸が指導する代わりに独逸に航空機と戦車の訓練場を提供するラパロ秘密協定を結んだり、民間航空会社ルフトハンザを設立しパイロットを養成したり、あの手この手で連合国の目を欺いてベルサイユ条約以降独逸軍を再建したのはハンス・フォン・ゼークト将軍であった。

ライバル、ヒンデンブルグが大統領となると、ゼークト将軍は辞任を迫られ中国国民党の軍事顧問団となったのである。
P39
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日本を引き込み、長期戦に持ち込む
ドイツ顧問団は日本軍との戦いも指導することになる。
昭和七(1932)年1月、第一次上海事変が勃発した。戦いの後半、中国軍はヴェッツェル中将ら軍事顧問団が訓練していた第87師と第88師を投入してきた。直接ではないけれど、これが日本軍との戦いにドイツ顧問団がかかわった初めである。
昭和八年三月、日本の熱河作戦は万里の長城を挟んだ戦いとなった。このときヴェッツェル中将は中国軍の指揮を執った。
ヴェッツェル中将がかかわったのは戦術だけであったが、続くゼークト大将とファルケンハウゼン中将は戦争指導にまでかかわるようになっていた。しかも、対日敵視政策、対日強硬策を自ら進言しだしたのだ。

「日本に対して中国が強くなるためには武器も必要であろうし、飛行機も必要であろう。けれども自分がドイツにおける国防軍を編制し、国防軍を動かした経験からするならば、今最も中国がやらねばならぬことは、中国の軍隊に対して日本に対する敵愾心を養うことだ」中国軍の強化策を蒋介石から問われたゼークトはこのように答えた。
この考えは、蒋介石だけでなく中国の軍人の思想を貫き、それが核となり、やがて中国人全体の反日感情となっていった。秘密警察組織である藍衣社が特別な力を持つようになったのも、ゼークトの献言による日本敵視政策を取り入れるようになってからである。

地網を構築する、といった具体的準備も献策した。
このころファルケンハウゼンは、北支での戦いを主な対日戦と考えており、中国軍が近代戦に適応できないことを認めると共に、長期戦に持ちこむためには中国政府の抗日姿勢が大切だ、と説いている。
1935年10月1日には、漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲して主導権を握るように進
言していた。漢口と上海の租界では日本の海軍特別陸戦隊が邦人の保護のため駐屯しており、この日本軍を奇襲しようというのである。日独防共協定締結の約一年前にドイツ人が中国にこの様に献策していたのだ。

ファルケンハウゼンは中国の敵を、日本が第一、共産党を第二と考え、日本軍を叩く過程において中国軍が勝利を収めていけば共産党を消滅させえると予測していた。しかし蒋介石は安内攘外であり、主要な敵は誰であるかという基本が違っていた。ファルケンハウゼンの進言を受けて蒋介石は何応欽軍政部長と相談するが、何応欽も、直ちに日本と戦うというファルケンハウゼンの考えに反対だった。
「ファルケンハウゼン中将の熱心さはわかるが、外人顧問は外人顧問であり、無責任な存在にとどまる。国運をゆだねるべき相手ではない」何応欽はこう指摘した。

しかし、ファルケンハウゼンの対日戦の進言は執鋤に続けられた。昭和11年(1936)4月1日になると、今こそ対日戦に踏み切るべきだ、と蒋介石に進言する。
「ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手が上がって英米の手がふさがらないうちに、対日戦争に踏み切るべきだ」
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独逸軍事顧問団は反日世論も操作し、日中戦争を煽ったとりもした。

兵器とタングステン等の資源のバーター取引による、中独貿易は飛躍的に伸びた。

ナチス独逸は二股外交を行い、結果的には日本との同盟を行い、第二次世界大戦へと進んでいったのである。また、当時日独両国民の国民感情もとてもお互いにとても有効的雰囲気ではなかった話など、興味が引かれる内容が満載でした。

第二次世界大戦は起きたのか、大恐慌から第二次世界大戦に至る歴史的経緯を確認する作業は、2009年の我々にとってけして単なる歴史の研究ではない。その研究作業は近未来の予測にも通じるものがあるのではないかとも思います。皆様、このブログで済ますのではなく。ぜひ本書を一読していただくことをお勧めいたします。
 

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