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「景教」の世界的権威,佐伯好郎博士が最晩年に述べていたこと -
http://www.asyura2.com/08/senkyo54/msg/154.html
投稿者 新世紀人 日時 2008 年 9 月 27 日 10:47:57: uj2zhYZWUUp16
 

(回答先: ベンジャミン・フルフォード  「小泉引退」の意味 他。 投稿者 新世紀人 日時 2008 年 9 月 27 日 03:46:33)

http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/zatsugaku/firstchristian.html

「景教」の世界的権威,
佐伯好郎博士が最晩年に述べていたこと -


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キリスト教が日本に最初に伝わったのは,
「1549年にフランシスコ・ザビエルが・・・」という常識?

「西暦一世紀における東洋への伝道」という記事では,初期クリスチャンたちについて詳しく研究した学者たちによれば,


中国には,西暦61年頃
日本には,西暦198年か199年
に,キリスト教の宣教師が存在したという「証拠」がある,ということに言及した。

しかし,この「日本の歴史」(日本史)において,西暦198年か199年(西暦二世紀)といういう非常に早い段階で,もうすでに,キリスト教が伝わっていたなんて,「とても信じられない」と思われることだろう。
私たちは,学校では,そんなことは教わらなかったからである。(学校で教えてくれるのは,「いごよく(1549年-)」である。)

では,それについて詳しく研究した学者たちは,いったいどんな「証拠」に基づいて,そんなトンデモ ないことを言うのだろうか。

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「景教」の世界的権威
早稲田大学名誉博士 佐伯好郎

日本に最初にキリスト教が伝わったのは,西暦二世紀(199年)のことである。

そんな,「日本史」の常識を根底から覆すような,すごいことを述べていたのは,早稲田大学名誉博士の

佐伯 好郎 博士
(Yoshiro Saeki。さえき よしろう。1871年(明治4年)8月1日,広島県廿日市(はつかいち)に,父友七,母トヨの長男として誕生。東洋宗教史学者。歴史学者。言語学者。昭和16年(1941年)1月24日,博士が70歳の時,東京帝国大学(現・東大)より「文学博士号」の学位を授与される。昭和22年(1947年)1月20日(76歳)から昭和31年9月29日(85歳)までの9年間は,廿日市の町長も務める。昭和37年(1962年)10月20日,博士が91歳の時には,日本人としては3人目の「早稲田大学名誉博士」(Doctor of Lows)となる。1965年(昭和40年)6月26日午前0時20分,老衰の上に肺炎を併発し,廿日市町の生家で逝去。享年94歳。
「中国新聞」昭和40年6月27日付の記事によれば,「廿日市の町長時代に暴力団のような者がおどしに来ると「ケンカなら外でやろう」と天神山の石段下まで出かけ,若い者をヘキエキさせるという気骨の持ち主でもあった」と伝えている。)
である。

博士は,「景教(けいきょう)」(ネストリウス派キリスト教)の研究では“世界的な権威”であり,それゆえ,人は彼のことを

「景教博士」
と呼んでいる。

(けいきょう)【景教】とは,
「(「景」は光り輝く意) 唐代,中国に伝わったネストリウス派のキリスト教。王室の保護で盛んになったが,唐末にはほとんど滅亡。のち,蒙古民族の興隆とともに再び起こったが,元の滅亡とともに衰滅。太秦教とも。」
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) © Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)©小学館 1988)

(注:
佐伯好郎博士(景教博士)の主な著作には,

「The Nestorian Monument in China」S.P.C.K,1916年。ロンドン。英文。
「景教の研究」東方文化学院東京研究所,1935年(昭和10年)。

「支那基督教の研究」(本来は,全五巻)
(第1巻「支那基督教の研究〈1〉唐宋時代の支那基督教 (1979年)」春秋社松柏館,昭和18年(1943年)。
 第2巻「支那基督教の研究〈2〉元時代の支那基督教 (1979年)」春秋社松柏館,昭和18年(1943年)。
 第3巻「支那基督教の研究〈3〉明時代の支那基督教 (1979年)」春秋社松柏館,昭和19年(1944年)。
 第4巻「支那基督教の研究〈4〉清時代の支那基督教 (1979年)」春秋社,昭和24年(1949年)。
 第5巻「支那基督教の研究〈5〉元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌 (1979年)」バッヂ著,佐伯好郎訳,待漏書院,昭和7年(1932年)。
上記の「支那基督教の研究」は,1979年(昭和54年)には,名著普及会より全5巻「復刊」されたようだが,現在,入手困難。)

「景教碑文研究」待漏書院,明治44年(1911年)。1996年,大空社より復刊。
「中国における景教衰亡の歴史・キリスト教の成立に及ぼしたるローマ法学思想の影響」ハーバード・燕京・同志社東方文化講座委員会,1955年(昭和30年)。
「ローマ帝国キリスト教保護規定の研究―ローマ法とキリスト教」春秋社,1957年(昭和32年)。
などがある。
他にも,佐伯博士は,その生涯の中で,英文も含め,55冊もの本を出版したと言われる。

佐伯好郎(さえき よしろう)博士の他に,「古代の日本にクリスチャンがやって来た」と述べている人たちの中には,東ケ崎 潔(とうがさき きよし)氏(ジャパン・タイムズのオーナー),江上波夫(えがみ なみお)博士(東大名誉教授),鯛 茂(たい しげる)氏,賀川豊彦(かがわ とよひこ)氏(伝道者,社会運動家),池田 栄(いけだ さかえ)博士(元京都大学教授)などがいる。)

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佐伯好郎博士が注目した
「新撰姓氏録」の記録

日本人としては三人目の早稲田大学名誉博士である佐伯好郎博士は,その晩年(88歳の時)に,日本に初めてキリスト教が伝わったのは、日本の「史書(ししょ)」(歴史を叙述した書物)から知れる限りでは,

「西紀一九九年」(西暦199年)
であることを指摘した。
(「佐伯好郎遺稿並伝〈下〉伝記・佐伯好郎」大空社,1996年。1705-1723ページ。原著は,佐伯好郎伝記刊行会,昭和45年。 ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店,2000年。57ページ。)

その,日本の「史書(ししょ)」とは,

『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(九世紀)
のことである。

(しんせんしょうじろく【新撰姓氏録】とは,
「古代氏族の系譜集成。京・畿内に本籍を持つ1182氏をその出自や家系によって神別・皇別・諸蕃に分類。嵯峨天皇の勅を奉じて万多親王らが編し,815年(弘仁6)奏進。30巻・目録1巻。現存のものは抄本。新撰姓氏録抄。姓氏 録。」
「広辞苑」第五版。岩波書店,1998年。)


『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の,740番目に挙げられている氏族名「太秦公宿祢(うずまさのきみのすくね)」の記事を見ると,こう書かれている。(以下,原文)

「男功満王。帯仲彦天皇[謚仲哀。]八年来朝。男融通王[一云弓月王。]誉田天皇[謚応神。]十四年。来率廿七県百姓帰化。献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇[謚仁徳。]御世。以百廿七県秦氏。分置諸郡。即使養蚕織絹貢之。天皇詔曰。秦王所献糸綿絹帛。朕服用柔軟。温煖如肌膚。仍賜姓波多。次登呂志公。秦公酒。大泊瀬幼武天皇[謚雄略。]御世。糸綿絹帛委積如岳。天皇嘉之。賜号曰禹都万佐(うづまさ)」

(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』 吉川弘文館,昭和37年。「氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)」より。)
http://kitagawa.la.coocan.jp/data/shoji03.html
http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/data/shoji03.html


このように,その記録には,

第14代「仲哀(ちゅうあい)天皇」の第8年に,弓月(ゆづき)国の巧満(こうまん)王が,日本の朝廷を公式訪問した
ということが記されている。
(「佐伯好郎遺稿並伝〈下〉伝記・佐伯好郎」大空社,1996年。1709ページ。原著は,佐伯好郎伝記刊行会,昭和45年。)


さて,この記録から,どうして,日本に初めてキリスト教が伝わったのは,「西紀一九九年」(西暦199年)と結論できるのだろうか。

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極東における最初のキリスト教王国「弓月」
the First Christian Kingdom of Kung-Yueh in the Far East

この,

「弓月(ゆづき)」(Kung-Yueh「クンユエ」)
という国は,十一世紀の中国の史書(ししょ)(歴史を叙述した書物)「資治通鑑(しじつがん)」(「弓月」の名は,その651年の記述に初めて出てくる。部族としての「弓月部」は,唐紀十七。高宋竜朔二年(662年)12月に初出)にも記されていて,

「中央アジア」
にあった。

(注:
ラビ・M・トケイヤー氏によれば,その位置は,「現在のアラル海とアフガニスタンの間」と言う。
別の人によれば,「現在の中国西端の外側,バルハシ湖の南,イリ川付近」。現在の「カザフスタン国内」とも言われる。
しかし,正確には,現在の中国とカザフスタンの国境付近で,都自体は,現在の「中国」(中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区)北西部の伊寧(いねい)にあったと思われる。

ラビ・M・トケイヤー著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史―失われた10部族の謎」徳間書店,1999年。260ページ。 久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店,2000年。47,126-128ページ。ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店,2000年。40,41ページ。 久保有政著「日本の中のユダヤ文化―聖書に隠された神道のルーツと極東イスラエルの真相」学習研究社,2003年。26,112ページ。)


その「弓月王国」の正確な位置に関して,佐伯好郎博士は,こう述べている。

「弓月王国の場所について正確に語り得るものは全くない。ただ,その位置が,イシュク・クール,即ち,納林からほど遠からぬバルハシ湖附近であったことだけは言えると思う。
いわゆる弓月王国は,一世紀末ないし二世紀の初頭において,伊麗(イリ)河に沿った地点に在ったことは断言できると思う。言うまでもなく,問題のこの地域は,バルハシ湖に注ぐ有名な伊麗(イリ)河の谷にある。この地は,クルジア Kuldja (固爾札)とも呼ばれていた。弓月の都の位置は,緯度43度46分,経度80度10分である。・・・
さて,私が古代の弓月王国の跡であると推定した重要な地点は伊麗(イリ)河の北方の支流,即ち,その北岸に臨むものと思われる。中央アジアの一民族,鳥孫(うそん)は,二世紀末ごろ天山の北方に住んでいた。」

(「佐伯好郎遺稿並伝〈下〉伝記・佐伯好郎」大空社,1996年。1715ページ。原著は,佐伯好郎伝記刊行会,昭和45年。)


(注:
「クルジア」(クルジャ)とは,

「クルジャ 固爾札 Kuldja
中国,新疆(しんきょう)ウイグル自治区北東部,イリ・カザフ自治州の南西部の市。伊寧(いねい)ともいう。同州の直轄行政単位で,政府所在地でもある。市区人口54万6000(1981)。イリ川上・中流部河谷にある。・・・(中略)
また東西交渉路の幹線上に位置していたので,古来多くの遊牧勢力の重要な根拠地であり,国際的な交易のセンターでもあった。唐代の弓月(きゅうげつ)城やチャガタイ・ハン国期のアルマリクは,クルジャの前身とみてよい。」
「日本大百科全書」 (C)小学館,1998年。)

興味深いのは,佐伯好郎博士の研究によれば,この弓月王国は,「小国」とはいえ,

「キリスト教王国」
だったのである。
(「佐伯好郎遺稿並伝〈下〉伝記・佐伯好郎」大空社,1996年。1708ページ。原著は,佐伯好郎伝記刊行会,昭和45年。)

(注:
先の,「西暦一世紀における東洋への伝道」という記事でも示したように,西暦一世紀のキリストの弟子たちは,西洋だけでなく,「東洋」にもキリスト教を伝えていった。たとえば,
「バール・ダイサン Bar Daisan (西紀一五四-二二二年)によれば,トルコ人とタタール人は,早くも西紀一二九 - 一四〇年において,既にキリスト教徒となっていた」
と,佐伯好郎博士は述べている。
(「佐伯好郎遺稿並伝〈下〉伝記・佐伯好郎」大空社,1996年。1714ページ。原著は,佐伯好郎伝記刊行会,昭和45年。 佐伯好郎著「景教の研究」東方文化学院東京研究所,1935年(昭和10年)。402,403,406ページ参照。)

「中央アジア」に住む人たちには,非常に早い段階で(西暦二世紀には確実に)キリスト教は伝わっており,その多くが「キリスト教徒となっていた」のである。

佐伯好郎博士は,64歳の時,『景教の研究』という本を著し,その中でも,数々の証拠に基づいて,次のように確言している。
「何人(なんびと)も基督教の種が第二世紀末には大月氏(だいげっし)の領内に伝播せられて居たことを否認することは出来ないと思ふ。」
(佐伯好郎著「景教の研究」東方文化学院東京研究所,1935年(昭和10年)。403ページ。))

佐伯好郎博士は,その晩年において(88歳の時),

『極東における最初のキリスト教王国弓月,及び,その民族に関する諸問題』
というタイトルの論文(英文)の中で,次のように述べている。


「私見によれば,弓月の民は,使徒時代以後のキリスト教徒であったに相違ないし,
又,大多数がユダヤ人改宗者であった原始教会のキリスト教徒であったかもしれない。」

(「佐伯好郎遺稿並伝〈下〉伝記・佐伯好郎」大空社,1996年。1714ページ。原著は,佐伯好郎伝記刊行会,昭和45年。
佐伯好郎博士が,昭和35年(1960年),88歳の時に,「国際イラン芸術考古学協会第四回大会」に寄稿した
“Various Problems concerning the First Christian Kingdom of Kung-Yueh(弓月) in the Far East and the People thereof.”
という題の英文の遺稿(景教の権威,佐伯博士の最後の学術論文)を,井手勝美氏が翻訳したものより抜粋。)

興味深くないだろうか。
その中央アジアの「弓月(ゆづき)」の民が日本にやって来たのである!

「キリスト教徒」が,しかも,佐伯好郎博士の言葉を借りれば,

ユダヤ人の「原始教会のキリスト教徒」
が,日本にやって来たかもしれないのだ。

(「いごよく(1549)広まるキリスト教」と教えられてきた,私たち日本人の既成概念を根底から覆すような,この言葉の重みを感じていただきたいと思う。
これは,「景教の世・界・的・権・威」であり,日本人としては三人目の「早稲田大学名誉博士」でもある方が,その晩年(88歳の時)に,それまでの何十年にもわたる研究の結果,結論として述べている言葉なのである。)

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第14代「仲哀天皇」(在位192-200年)の第8年

この,

「仲哀(ちゅうあい)天皇(在位192-200年)の第8年」
は、伝統的な理解では,西暦198年,または,199年にあたる。

それで,佐伯好郎博士は,日本に初めてキリスト教が伝わったのは,

「西紀一九九年」(西暦199年)

(「佐伯好郎遺稿並伝〈下〉伝記・佐伯好郎」大空社,1996年。1707,1709,1713,1714ページ。原著は,佐伯好郎伝記刊行会,昭和45年発行。)
であると考えた。
(そのように述べたのは,1960年,佐伯好郎博士が88歳の時である。)

しかし,今日の歴史学者の多くはこれを一般に,

四世紀後半頃
と見ているようである。
(久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店,2000年。126ページ。ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店,2000年。57ページ。久保有政著「日本の中のユダヤ文化―聖書に隠された神道のルーツと極東イスラエルの真相」学習研究社,2003年。170ページ。)

(一説には,356年だとも言われている。
ラビ・M・トケイヤー著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史―失われた10部族の謎」徳間書店,1999年。263ページ。)


この記録により,「正式な記録」の上では、遅くとも,四世紀までにキリスト教は日本に入っていたことになる。

(注:
佐伯好郎博士は,明治41年(1908年),37歳の時に,『歴史地理』という学会誌の第100号に,『太秦(禹豆麻佐)を論ず』という小論文を発表した。その中で博士は,
「而して応神天皇誕生の年を以て西暦三百四十六年とすれば,応神天皇の十六年は西暦三百六十二年となるべき也」
と述べている。
この説明は,歴史学者の久米邦武博士の見解をそのまま取り入れたようである。
ということは,昭和35年(1960年),佐伯好郎博士が88歳の時に述べた事柄は,博士が若かった頃(明治時代)は受け入れていた一般の歴史家が示すこれらの年代を,晩年(88歳の時)には“破棄”していたことを示しているように思われる。)


しかし,先に「西暦一世紀における東洋への伝道」という記事でも述べたとおり,一世紀のキリストの弟子たちは,

インドには,西暦52年
中国には,西暦61年頃
には入っていたと考えられるから,仮に日本に,一世紀中にキリスト教が伝わっていたとしても、別に何の不思議もない。

それに,古文書の「記録には残されていないもの」も考慮に入れれば,その記録よりも「もっと早く」に,キリスト教が日本に入っていた可能性も考えられる。


いずれにしても,重要なのは,私たちの住むこの日本という国には,「仏教」だけでなく,「キリスト教」と呼ばれる宗教も,しかも,非常に早い年代(西暦二世紀〜四世紀の間)に,もうすでに伝わっていたということである。

これは,百済(くだら)の第26代の王,聖明王(せいめいおう)(在位523-554年)が日本に初めて「仏教」を伝えたと言われる時(西暦六世紀)よりも,はるか以前の話なのである。

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第15代「応神天皇」(在位270-310年)の第14年,
2万人以上の「弓月」の民が,さらにやって来た

さて,「弓月(ゆづき)国」でも戦争が始まり,「仲哀(ちゅうあい)天皇」の時代に日本の朝廷を公式訪問した功満(こうまん)王の子,「融通(ゆうずう)王」(「弓月の君」)は,民を率いて国を脱出した。
彼らは,戦火を逃れて中国方面へと向かい,朝鮮半島に亡命した。

(注:
この点に関しては,「万里の長城」建設の苦役に耐えかねた,という説明もなされている。 好太王の碑文(五世紀)や,『後漢書』の「東夷伝」(五世紀)の記録。)


彼らは,しばらくそこに留まった後,巧満(こうまん)王の来日からおよそ84年後,

第15代「応神(おうじん)天皇」(在位270-310年)の第14年(283年)
(最近の歴史学者の意見によれば、四世紀後半,または,五世紀前半。一説には,西暦372年。佐伯好郎博士が88歳の時に述べた言葉によれば,「283年」。)
に,日本に渡来している。

(「佐伯好郎遺稿並伝〈下〉伝記・佐伯好郎」大空社,1996年。1709,1714ページ。原著は,佐伯好郎伝記刊行会,昭和45年発行。 ラビ・M・トケイヤー著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史―失われた10部族の謎」徳間書店,1999年。263ページ。 久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店,2000年。127ページ。 ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店,2000年。58ページ。 久保有政著「古代日本にイスラエル人がやって来た」レムナント出版,1995年。57ページ。)


『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(九世紀)の,914番目に挙げられている氏族名「秦忌寸(はたのいみきの)」の記事には,そのことが,こう記されている。(以下,原文)

「功智王。弓月王。誉田天皇[謚応神。]十四年来朝。上表更帰国。率百廿七県伯姓帰化。并献金銀玉帛種々宝物等。天皇嘉之。賜大和朝津間腋上地居之焉。男真徳王。次普洞王。[古記云。浦東君。]大鷦鷯天皇[謚仁徳。]御世。賜姓曰波陀。今秦字之訓也。次雲師王。次武良王。普洞王男秦公酒。大泊瀬稚武天皇[謚雄略。]御世。奏X。普洞王時。秦民惣被劫略。今見在者。十不存一。請遣勅使ッ括招集。天皇遣使小子部雷。率大隅阿多隼人等。捜括鳩集。得秦民九十二部一万八千六百七十人。遂賜於酒。爰率秦民。養蚕織絹。盛搆w闕貢進。如岳如山。積蓄朝庭。天皇嘉之。特降籠命。賜号曰禹都万佐(うづまさ)。是盈積有利益之義。役諸秦氏搆八丈大蔵於宮側。納其貢物。故名其地曰長谷朝倉宮。是時始置大蔵官員。以酒為長官。秦氏等一祖子孫。或就居住。或依行事。別為数腹。天平廿年在京畿者。咸改賜伊美吉姓也」

(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』 吉川弘文館,昭和37年。「氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)」より。)
http://kitagawa.la.coocan.jp/data/shoji03.html
http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/data/shoji03.html

このように,「弓月王」が,応神(おうじん)天皇(在位270-310年)の第14年(西暦283年)に「来朝」し,さらに,「百廿七県(あがた)」(127あがた)の民を率いて「帰化」したとある。

(注:
「日本書紀」巻第10「応神紀」の記述によれば,その数は「百二十県(あがた)」とあり,「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」の記録と少し異なっている。こう書かれている。

「十四年春二月,百済王(くだらおう)が縫衣工女(きぬぬいおみな)を奉(まつ)った。真毛津(まけつ)という。これがいまの来目衣縫(くめのきぬぬい)の先祖である。この年,弓月君が百済からやってきた。奏上(そうじょう)して,「私は私の国の,百二十県(あがた)の人民を率いてやってきました。しかし,新羅人(しらぎじん)が邪魔をしているので,みな加羅国(からこく)に留っています」といった。そこで葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を遣わして,弓月の民を加羅国(からこく)によばれた。しかし三年たっても襲津彦(そつひこ)は帰ってこなかった。」

(宇治谷 孟「日本書紀〈上〉 全現代語訳」講談社,1988年。217ページ。)

この「百二十七県(あがた)」(百二十七部(べ))が示唆する人数に関して,佐伯好郎博士は,37歳の時に書いた『太秦(うずまさ)(禹豆麻佐)を論ず』という小論文の中で,こう述べている。

「姓氏録(しょうじろく)に依れば,雄略(ゆうりゃく)天皇の時,秦酒公が山城葛野に聚集せし秦氏は一万八千六百七十二人,九十二部にして,其後欽明天皇の朝に於て調査せられたる時に於ても七千有余戸の人口ありしといへば,応神天皇の十六年に於ける百二十七県,即ち,百二十七部の人夫は総数に於て二万五千人以上なりしや明なり。」

(『歴史地理』という学会誌(喜田貞吉博士主宰)の第100号(第11巻第1号。明治41年(1908年)1月号)の中の,佐伯好郎著『太秦(禹豆麻佐)を論ず』という小論文より抜粋。これは,佐伯博士が,37歳の時に書いたものである。
「佐伯好郎遺稿並伝〈上〉伝記・佐伯好郎」大空社,1996年。316ページ。原著は,佐伯好郎伝記刊行会,昭和45年。)

そんなにも多くの民(2万5千人以上)を率いて日本に渡来した,と記録にはあるのである。

(注:
歴史人口学の研究者,鬼頭宏氏によれば,日本の人口は,弥生時代には約60万人,奈良時代(710-784年)には,約450万人であったと推定されている。(「人口から見る日本の歴史」講談社,2000年。)
http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2004/html-h/html/g1110030.html


そして,彼らは日本に「帰化」し,日本人となった。

彼らがいわゆる

「秦氏(はたし)」
と呼ばれる一族である。

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ユダヤ人の言語学者ヨセフ・アイデルバーグの説明する
「ヤマト」の意味と,中央アジアの「ヤマトゥ」の民

興味深い点であるが,ユダヤ人の言語学者,

ヨセフ・アイデルバーグ
(Joseph Eidelberg。イスラエル国防軍陸軍少佐。1972年(昭和47年)には,京都・護王神社の出仕として日本に滞在。ヘブライ語,英語,ロシア語,フランス語,ドイツ語,ペルシャ語,イェデイッシュ語,アラビア語,日本語の,少なくとも9カ国語を話した。1916年(大正5年)〜1985年(昭和60年)没。2005年には,彼の書いた「日本書紀と日本語のユダヤ起源」という新しい本が徳間書店から出ている。)
によれば,この秦一族がもともと住んでいた(と思われる)「弓月国」のあった場所(「中央アジア」の天山山脈(てんざんさんみゃく)の麓)の付近は,昔は“別の名”でも呼ばれていたそうである。

その名も,

ヤマトゥ


である。
(ヨセフ・アイデルバーグ著「大和民族はユダヤ人だった―出エジプトから日本への道」たま出版,1984年。202,203ページ。久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店,2000年。128ページ。久保有政著「日本の中のユダヤ文化―聖書に隠された神道のルーツと極東イスラエルの真相」学習研究社,2003年。112,113ページ。)


この言葉,なんか,どこかで聞いたことないだろうか?

そう。これは,日本語の

「大和」(ヤマト)   
という言葉とそっくりである。


(「宇宙戦艦ヤマト」のGIFアニメは, 「HP・メール素材 カツのGIFアニメ」というサイトからいただいてきたものである。
管理人の「カツ」さんに感謝。(゜゜)(。 。 )ペコッ
なお,カツさんちのサイトとは,「相互リンク」してます。おすすめ。)


(注:
この「大和」という字に関しては,『漢字源』(学習研究社,1993年)では,
「古くは,中国では,日本のことを「倭(せの低い人の意)」と書いたが,日本では「倭」と通ずる「和」の字を当て,それに「大」の字をつけて「大和」とした」
と述べているが,「和(わ)」の字に「大」の字を付けただけなのだとしたら,なぜ,「だいわ」ではなく,「ヤマト」と読ませるのだろうか。
つまり,この「大和」という漢字は,“当て字”なのだ。

「広辞苑」第五版(岩波書店,1998年)は,「「山処」の意か」と述べている。
W・G・アストンは,彼の日本書紀の翻訳の中で,「ヤマト」を「山の門」と訳している。
また,ある学者たちは,ヤマトの名は「ヤマ・アト」(山の跡)から来ていると主張している。
また,蝦夷語(アイヌ語)の「ヤムトエ」(「ヤム」は栗,「トエ」は多く有る,の意)から来たものだと言う人もいる。
しかし,そのいずれの説明も,いまひとつである。)


ヨセフ・アイデルバーグ氏は,その著書の中で,日本の「ヤマト(大和)」と,その地名「ヤマトゥ」とを結びつけ,こう述べている。

「ヤマトの民が天山山脈地方にいたかも知れない証拠は,新彊(シンチャン)北西部にあるイリ川上流に「ヤマトゥ」という小さな場所があることで,おそらく証明されるであろう。
イリ川のヤマトゥから日本のヤマトに通じる道は,天山山脈を通り,タクラマカン砂漠の北辺にある有名な古代シルクロードに沿って,東支那から朝鮮に到る道である。」

(ヨセフ・アイデルバーグ著「大和民族はユダヤ人だった―出エジプトから日本への道」たま出版,1984年。202,203ページ。)


ヨセフ・アイデルバーグ氏は,この「ヤマトゥ」とは,アラム語(または,ヘブライ語。共に,右から左に読む)で,

“UMATO”「ウマト」

これは,アラム語での発音。ヘブライ語では「ウモト」。
このヘブライ語名詞には,
「民」「民族」「部族」「氏族」「国」などの意味がある。
ストロングナンバーは「00523」。「ウモト」はその複数形。
民数記25:15の,特に,そのヘブライ語本文を参照。


“YA”「ヤ」

ヘブライ語で,聖書の神の御名
「ヤハウェ」(エホバ)の短縮形。
「ヤハ」(ヤー)のストロングナンバーは,「03050」。

すなわち,

「ヤハウェの民」
という意味だと述べている。
(ヨセフ・アイデルバーグ著「大和民族はユダヤ人だった―出エジプトから日本への道」たま出版,1984年。104,105,207,212ページ。 久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店,2000年。129ページ。 久保有政著「日本の中のユダヤ文化―聖書に隠された神道のルーツと極東イスラエルの真相」学習研究社,2003年。113,114ページ。)


(注:
興味深い点として,中近東あたりにずっと長い間住み続けてきたイスラエル人は,

「ヤマトウ人」
と呼ばれているとのことである。
(ヴァンミーター・美子著「幻の橋―日本人の心の故郷への帰路」レムナント出版。第五章「日本と大和」)

また,現在でも,パレスチナ地方に住むユダヤ人は,自分たちのことを,「ヤマトゥ」と呼ぶそうである。

ちなみに,沖縄の人も,「本土」のことを「ヤマトゥ」(“jamatu”)と呼ぶそうである。
以下のサイトで,実際に,その発音を“聴いて”みていただきたい。↓
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51787

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ヘブライ語学者 川守田英二博士
が説明する「ヤマト」の意味

さらに,「ヤマト(大和)」の意味をヘブライ語から解明してる人を紹介したい。

神学博士で,ヘブライ語学者でもある

川守田英二 博士
(かわもりた えいじ。神学博士。ヘブライ語学者。サンフランシスコ長老派教会牧師。1891年(明治24年)〜1961年(昭和36年)没。博士の書いたもので,最近出版されて比較的手に入れやすいものとしては,「日本の中のユダヤ―イスラエル南朝二族の日本移住」(たま出版,1990年)がある。)
である。

川守田英二(かわもりた えいじ)博士は,昭和31年(1956年)に,その著「日本ヘブル詩歌の研究」の中で,「ヤマト(大和)」とはヘブライ語(右から左に読む)で,

“‛AMADH”「アマド」

このヘブライ語動詞(または,分詞)には,
「立っている」「耐える」といった意味がある。
ストロングナンバーは,「05975」。


“YAH”「ヤー」

ヘブライ語で,聖書の神の御名
「ヤハウェ」(エホバ)の短縮形。
「ヤハ」(ヤー)のストロングナンバーは,「03050」。

つまり,

「エホバ樹立し給えり」
(“The Lord settled or established”)

という意味ではないか,と述べている。
(川守田英二著「日本ヘブル詩歌の研究(下巻)」八幡書店,昭和62年(1987年)。408ページ。原著は,昭和31年(1956年)12月発行。)


川守田英二(かわもりた えいじ)博士は,この「ヤマト(大和)」に関して,さらに,こう述べている。

「序でながら,日本国名「ヤマト」も「ヤシマ」も( , )“the Lord set up”「エホバ樹て給えり」の義で,共にエホバの聖名を負わされている。」

「「大和」の枕詞としての「シキシマ」は,むしろ昔の天孫民族の間には,「シキンシモ」(SKN SMW)「彼(エホバ)の名を置きし所の」という熟語にひびく。こうなると,「ヤマト」の名称の中にエホバの名が置かれてある訳だから,「ヤマト」の「ヤ」はエホバの御神名の「ヤ」が,少なくともそれを代表する三人称単数男性の接頭のヤになる。従ってヤマトは「ヤー・アマド」()(エホバ樹てたまえり) または「ヤ・アマド」()(彼樹立し給えり)でなければならぬ理由を生じて来る。」

(川守田英二著「日本ヘブル詩歌の研究(下巻)」八幡書店,昭和62年。158,229ページ。原著は,昭和31年12月発行。)

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Possibleによる全くオリジナルの,
ヘブライ語からの「ヤマト」の解説

なお,今,私possibleの,他にはどこにも書いてない「まったくオリジナルの」解説もしてみたい。


警告!

この副見出しの部分のヘブライ語からの説明は,わ・た・し・possibleの・オリジナルのアイデアである。

まったくのオリジナルのため,ここに最初にアップした日付を記しておく。2007年9月27日。
勝手に私のアイデアを「盗み」,本などに書いて「利益」(お金)を得てはならない。
その場合,「著作権侵害」にあたると判断させていただく。
ただし,著作権法で求められている「出所明示義務」を果たしているものは全て除く。


これは,「ヘブライ語辞典」を自分で調べてみて思ったことなのだが,「ヤマト」(大和)の“マト”という部分の意味としては,個人的には,「ウモト」(ヨセフ・アイデルバーグ説)や,「アマド」(川守田英二説)といった言葉よりも,もっと「音」的に,ふさわしい言葉があるように思える。

たとえば,ヘブライ語には,

“MATTEH”「マッテ(ー)」

このヘブライ語名詞には,
「氏族」「部族」「枝」「杖」「棒」「矢」「旗(ハタ)ざお」,
現代ヘブライ語では「幹部」「司令部」,
軍事用語で「参謀部」「幕僚」
といった意味がある。
ストロングナンバーは,「04294」。
「参照資料付き新世界訳聖書」のヨシュア13:29脚注参照。

“MATTOHTH”「マットート」

このヘブライ語名詞は,
左の「マッテ(ー)」の複数形。
ストロングナンバーは,「04294」。

いのちのことば社の『新聖書辞典』は,
このヘブライ語について,次のように説明している。

「部族.〈ヘ〉マッテ.
この語は出31:2,6およびヨシ7:1,18などに用いられており,
最も一般的な意味で「部族」と訳されるのに適した語である.
旧約聖書中では178回も用いられている.
英訳ではtribeとも訳される.」


“MATH”「マト」

このヘブライ語名詞には,
「(成人の)男」「人」「人々」
などの意味がある。
ストロングナンバーは,「04962」。


といった言葉が他にあるのである。

ヘブライ語の「マト」などは,「音」的には「そのまま」(転訛なし)ではないかと個人的には思う。


仮に,


 「ヤー・マト」
とするなら,「 の人々」という意味になるし,


 「ヤー・マットート」
とするなら,「 の部族」という意味になる。

これは,「音」的にも「意味」的にも,ふさわしいと感じる。

それに,「マト」には「男」という意味もあるし,「マットート」には「幕僚」などの意味もあって,この場合,“強さ”や“勇猛”“果敢”といった特質も同時に感じる。
これは,「大和魂」という,私たち日本民族が固有に持つ精神を思い起こさせるのではないだろうか。

(ちなみに,日本語には,「大和撫子(やまとなでしこ)」という言葉もある。これは,日本女性の清楚な美しさを表現した言葉である。)


さらに,興味深いのは,「マッテ(ー)」(その複数形は「マットート」)という言葉に,「旗ざお」という意味が含まれることである。これは,「音」的に「ハタざお」と聞こえる。つまり,「ハタ氏(秦氏)のさお(旗)」という意味に響く。

つまり,秦氏には,「部族の旗」(もしかしたら,イスラエルの「十二部族」の中のどれか)があったのではないのだろうか。


ヨセフ・アイデルバーグ氏は,こう述べている。

「古代ヘブライ人は追放という憂き目にあったため中央アジアにやって来たのです。」

「歴史的な文献を参照すれば古代ヘブライ人がサマリアの地から追放されて,中央アジアに至ったということに疑いをさし挟む余地は全くないことがわかります。」

(『撤底検証 大和民族ユダヤ人説の謎を追う!』 たま出版,平成4年。54ページ。)
ここでヨセフ・アイデルバーグ氏が述べてる「古代ヘブライ人」とは,いわゆるイスラエルの「失われた十部族」のことを指している。

その人たちは「中央アジア」に逃れたのである。そして,その地は「ヤマトゥ」と呼ばれていた。
また,そこ(中央アジア)は,日本にやって来た「弓月」(Kung-Yueh「クンユエ」)の民,「秦氏」の故郷である。

そして,そこから,人々が,この日本にやって来た!

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ギリシャ文学の翻訳家 木村鷹太郎
が説明する「ヤマト」の意味

また,「ギリシャ語」から,「ヤマト(大和)」の意味を解明している人もいるので,ここに紹介する。

それは,「新史学」という奇抜な学説を唱え,1910年(明治43年)3月の読売新聞紙上で,「日本語は希臘(ギリシャ)羅典(ラテン)系なり」と述べた,

木村 鷹太郎
(きむら たかたろう。1895年(明治28年),東京帝国大学(現・東大)哲学選科卒の学者。哲学者。歴史学者。日本で初めて「プラトン全集」を完訳発表した,明治時代ギリシャ文学の翻訳の第一人者。1870年(明治3年)9月16日〜1931年(昭和6年)7月18日没。
彼の残した「名言」に,こんな言葉があります。
「所詮『低能学者』等愧死して可なり。俗語「愧(はぢ)を「赤愧」と謂ふ,赤愧の敗北紀念門は「赤門」最も之に適す。」)
である。

木村鷹太郎氏は,明治44年(1911年)に,その著「世界的研究に基づける日本太古史」の中で,日本語の「ヤマト(大和)」とは,ギリシャ語の

“IAMATOS”「ヤマトス」

このギリシャ語名詞には,「いやし」という意味がある。
古典ギリシャ語では,「医薬」の意。
木村鷹太郎氏によれば,「治療」「救済」「和睦」「慰和」などの意味がある。

新約聖書の中では,このギリシャ語は,3回
(コリント第一12:9,28,30で)用いられている。
ストロングナンバーは,「2386」。


が語源である可能性を指摘した。

そして,そのように考えられる理由(根拠)を,「ヤマト」(日本語)と「ヤマトス」(ギリシャ語)という単語が,単にお互いにその「発音」が似ているというだけでなく,その言葉が持つ「意義(内容,概念)」(日本国が持つ“主義”,“理想”,“抱負”)からも解説し,こう述べている。

「夫(そ)れ然(しか)り日本建国の主義は平和にあり,人類の救済にあり。・・・(中略)
希臘語(ギリシャ語)にιασω(ヤソ)或(あるい)はιασουσ(ヤソウス)等の語あり,ιαομαι(ヤヲマイ)を以(も)つて語根と為(な)す。これ日本文字の『八十(やそ)』或(あるい)は『八十氏(やそうじ)』は『病ひを直す』を意味せる語にして,余(よ)が『八十』の文字を以(も)つて表はせる所の日本語は,治療 救済 を意味せりと解する所以(ゆえん)なり。是(こ)れ実に日本国の理想上重要なる語にして,日本を称して大倭国(おおやまとのくに)と謂(い)い,又(ま)た大八島(おおやしま)国と謂(い)ふの意義は吾人(ごじん)之(これ)を前述希臘語(ギリシャ語)に其(その)説明を求むべきなり。
古来『倭(やまと)』或(あるい)は『大和』の意義を解して山の門なり,山跡なり,山の戸なり,蜻蛉所(やむまと)なり,家場所(やばと)なりと謂(い)ひ,又(ま)た聊(いささ)か外国的語源に溯(さかのぼ)らんとせしものは Hamat(ハマット)(シリヤの)なりと言ひ,チェンバレーン一流のアイヌ学者等は栗の樹(き)を意味せるアイヌ語 yamuto(ヤムト)なりと為(な)す等其(そ)の他無数の牽強付会(けんきょうふかい)説ありと雖(いえど)も,要するに皆(みな)無意味無見識の説明にして何等(なんら)大倭(おおやまと)的抱負を顕明(けんめい)せざるなり。
余(よ)は謂(い)ふ−『大和』とは希臘語(ギリシャ語)(ヤマトス)−治療 救済 和睦 を意味し,大和国とは,救世国を意味せりと。」

(木村鷹太郎著「世界的研究に基づける日本太古史(上巻)」八幡書店,昭和58年(1983年)。345,346,546ページ。原著は,博文館,明治44年(1911年)発行。)


(注:
ここに引用した木村氏の文章は,明治時代の「文語」でたいへん読みにくく,原著に付されているものの他に,possibleが漢字に「ふりがな」を付けさせていただいた。なお,ギリシャ語の「発音」の仕方は,原著者である木村鷹太郎氏によるものである。)

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彼らは,なぜ「秦」氏と呼ばれているのか?

さて,前述の『新撰姓氏録』の記録(914番目に挙げられている氏族名「秦忌寸(はたのいみきの)」の部分)には,「金銀玉帛(ぎょくはく),種々の宝物を献ず。天皇これを嘉し」とあり,「弓月国」から来た人たちは,金銀玉錦等を第15代「応神天皇」(在位270-310年)に献じたが,他にも,彼らはみな,

養蚕(ようさん)と絹織物業
にたずさわる人々だったので,「養蚕」や「絹を織る」ことを日本人に教えた。


『新撰姓氏録』(740番目に挙げられている氏族名「太秦公宿祢」の部分)には,秦氏(はたし)の「姓の由来」(なぜ彼らが「ハタ」と呼ばれるようになったのか,そのわけ)が載っている。

それによると,第16代「仁徳天皇」(在位313-399年)の時代のことについて,

「秦王所献糸綿絹帛。朕服用柔軟。温煖如肌膚。仍賜姓波多。」

(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』 吉川弘文館,昭和37年。「氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)」より。)
http://kitagawa.la.coocan.jp/data/shoji03.html
http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/data/shoji03.html
「秦王(しんおう)の献(たてまつ)れる糸,綿,絹帛(きぬ)は,朕(あれ)服用いるに,柔軟(やはらか)にして,温煖(あたたか)きこと肌膚(はだ)のごとしとのたまふ。よりて姓(うぢ)を波多(はた)と賜ひき」と書かれている。
つまり,仁徳天皇に秦氏が,絹や綿を献上したところ,それが「肌(はだ)」のように柔らかいので,「秦」と書いて「ハタ(または,「ハダ」)」(「波多」。『古語拾遺』の記述では,「波陀」)と読む姓を与えられたと述べているわけである。


また,秦氏のハタは,「機織(はたお)り」にちなむ,という説もある。

あるいは,「ハタ」氏が始めたから,「ハタ織り」と言うようになったのかもしれない。
(久保有政著「日本の中のユダヤ文化―聖書に隠された神道のルーツと極東イスラエルの真相」学習研究社,2003年。22ページ。)

彼らは,「養蚕と絹織物業」にたずさわる人たちだったわけだが,当時の「シルクロード」(“Silk Road”「絹の道」の意)においては,「絹」の交易は,ユダヤ人かキリスト教徒がほぼ独占していたものということが分かっており,それゆえ,彼らは

「ユダヤ人」
ではなかったか,とも言われている。
(ラビ・M・トケイヤー著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史―失われた10部族の謎」徳間書店,1999年。259ページ。久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店,2000年。130ページ。ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店,2000年。58ページ。)

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八幡(ヤハタ)神社で祀られている神は,
秦氏の神(ヤハ)なのか?

上記のことと関連して,佐伯好郎博士は,前述の『極東における最初のキリスト教王国弓月,及び,その民族に関する諸問題』という論文の中で,さらに次のように述べている

「弓月から来た移民は,もともと“ヤーフダ”あるいは“ヤーハダ”と呼ばれたのであろう。しかし最初の音節“ヤー”が脱落して“フダ”あるいは“ハタ”となり,それが転訛して“ハダ”となってしまったのである。最初は“ヤーフダ”又は“ヤーハダ”であったのである。
が,幸なことに,もとの音が「八幡」という形で今尚残っている。この“ヤハタ”という語は,同時に発音すると,音便で「ヤワタ」となる。しかし,別々に発音すれば,当然,“ヤー”と“ハタ”である。」

(「佐伯好郎遺稿並伝〈下〉伝記・佐伯好郎」大空社,1996年。1712ページ。原著は,佐伯好郎伝記刊行会,昭和45年。『極東における最初のキリスト教王国弓月,及び,その民族に関する諸問題』と題する,昭和35年(1960年)の論文より抜粋。)
佐伯好郎博士は,このように述べたあと,全国にある「八幡神社」の存在と,その入口にある「一対の石像の獅子」について言及し,その「獅子」とは,秦氏によって伝えられた「ペルシャ語」であるとも述べている。


佐伯好郎博士が,その「論文」の中ではっきり説明してくれてないので,よく分からないが,ここで言う「ヤーフダ」とは,ヘブライ語(アラム語)の


 「イェフーダー」(「ヤェフダー」)
つまり,「ユダヤ」を意味する言葉(の転訛)を示唆しているのかもしれない。
すると,「秦」氏(もともとの言い方は,「ヤーフダ」氏,「ヤーハダ」氏)とは,「ユダヤ」氏という意味になる。

(佐伯好郎博士が昭和18年(1943年),72歳の時に書いた「支那基督教の研究」の第一巻には,
「近代の猶太(Yudaioi Ιουδαιοι)と云う言葉は元来は「イヤーフダ」又は「イヤーハダ」で「ユーフダ」はその訛語であるが・・・云々」
という記述が見られる。
(佐伯好郎著「支那基督教の研究〈1〉唐宋時代の支那基督教 (1979年)」春秋社松柏館,昭和18年(1943年)。297ページ。))

実際,昭和38年(1963年),佐伯好郎博士が,92歳の時に書いたものには,

「この秦民族は Ya-ha-ta と云ふのである。猶太(ユダヤ)民族の一番立派のものである。」

(「佐伯好郎遺稿並伝〈下〉伝記・佐伯好郎」大空社,1996年。1739ページ。原著は,佐伯好郎伝記刊行会,昭和45年。 「政治・経済セミナー」第85号,昭和38年(1963年)8月1日発行。「人種問題よもやまばなし(2)」という,当時,92歳になっていた佐伯好郎博士が書いた記事より抜粋。)
と,はっきり述べられている。


前述の「論文」の中で,博士はまた,八幡神社の「八幡」(「ヤハタ」と発音。現在では,「はちまん」と発音することが多い)についても言及しているが,その言葉が,佐伯博士の言うとおり,“ヤー”と“ハタ”に分けて発音できるのなら,「八幡」とは,単に「ユダヤ」という意味ではなく,その最初の“ヤー”(漢字の「八」)とは, (Yah)のことではないのか。

とすれば,全国の「八幡神社」で祀られている神(八幡神(はちまんしん),ヤハタの神)は,もともとは,


 「ヤー・イェフーダー」
つまり,「ユダヤの神 」(「秦氏の神」)だったのではないかと想像できる。

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秦氏は,ユダヤ人クリスチャン
(一種の「メシアニック・ジュー」)だったのか?

さて,佐伯好郎博士は,第16代「仁徳天皇」(在位313-399年)の時代のことについて,『極東における最初のキリスト教王国弓月,及び,その民族に関する諸問題』という論文の中で,さらに次のように述べている。

「彼らは殖産の民であった。彼らは養蚕と絹織にたずさわったが,この時から,“ハタ”と「織機」(即ち日本語の“ハタ”)が同義語となるに至った。仁徳天皇はこの“織物”の民が絹織業に貢献したので,いたく彼らを嘉した,終に,いたく満悦した天皇は,名を「大酒」と称する秦公を謁見した。(日本語の読み方ではオオサケが“大なる幸”を意味するが,漢字ではオオサケの語は常に「大辟」「大避」「大闢」即ち“ダヴィデ”David の音をなす)」

(「佐伯好郎遺稿並伝〈下〉伝記・佐伯好郎」大空社,1996年。1709ページ。原著は,佐伯好郎伝記刊行会,昭和45年。『極東における最初のキリスト教王国弓月,及び,その民族に関する諸問題』と題する,昭和35年(1960年)の論文より抜粋。)

ここで博士の言う「ダヴィデ」(ダビデ)とは,もちろん,「旧約聖書」に出てくる古代イスラエルの偉大な王の名前である。

秦氏の子孫の中に,どうして,「ダビデ」(「大闢」。中国読みで「ダヴィ」)という意味の名前の人がいるのだろうか。
それは,彼らが「ユダヤ人」または,「クリスチャン」だったからではないだろうか。

(注:
さらに,興味深い事実として,日本語には,「機物」(はたもの)という言葉が平安時代からあるようである。
「広辞苑」第五版によれば,その三つ目の意味として,「磔(はりつけ)用の材」と書かれている。その意味は,キリスト教の創始者であるイエス・キリストが「はりつけ」にされたことや,その「杭」(ギリシャ語「スタウロス」)のことを思い起こさせる。「十字架」とも言われているが,なぜ,その種の,「はりつけ用の材」なる物を「ハタ物」(「秦氏の物」とも解釈できる)と言うようになったのか,興味深いところである。)


また,「弓月(ゆづき)」(または,「融通(ゆうずう)」)という名前は“当て字”で,もともとは「ユーズー」と発音したようである。
ロシア人は,今日もユダヤ人のことを「ユーズ」(ユード)と呼んでいるそうなので,ここからも,彼らが「ユダヤ人」であった可能性も考えられる。
(中田重治著「聖書より見たる日本」ホーリネス教会出版部,昭和8年。45ページ。久保有政著「古代日本にイスラエル人がやって来た」レムナント出版,1995年。9,57ページ。)

(注:
前述の『新撰姓氏録』の「始祖」という部分を見ていただければ,例えば,太秦公宿祢に関しては「出自秦始皇帝三世孫孝武王也」とあるし,秦忌寸に関しては「秦始皇帝之後也」と書かれている。つまり,秦氏は,「秦の始皇帝の子孫」であると考えられていたことが分かる。その「秦」という漢字が,それを物語っているようにも思える。
この「秦の始皇帝」については,父親がユダヤ人であった可能性が指摘されていることは,「漢字になった聖書物語」という記事で言及している。)


さらに,アラム語では,イエス・キリストを「イシュ・メシャ」と言うそうであるが,その「イシュ」(インド北部では,「ユズ」と発音)と,この「融通(ゆうずう)」の発音が似ているとも指摘されている。
(シリア語でも,イエスは“Ishu”「イシュ」と発音される。ヘブライ語では,イエス(または,ヨシュア)は,“Yeshua”「イェーシューア」。ギリシャ語では「イエースース」。ラテン語では「イエズス」で,これらの発音も,「融通(ユーズー)」と似てなくもない。)


また,前述の『新撰姓氏録』の第21代「雄略天皇」(在位456-479年)の時代の記述を見ても分かるとおり,当時の秦氏の首長(族長)は,天皇から「禹都万佐(うずまさ)」という称号を与えられている。
これは,「太秦(うずまさ)」と書いても「うずまさ」と読ませる。

太秦(うずまさ)と言えば,京都にある「東映太秦(うずまさ)映画村」(京都府京都市右京区太秦(うずまさ)東蜂ヶ丘町)が,あまりにも有名である。
あの「水戸黄門(みと こうもん)」「遠山(とおやま)の金(きん)さん」「大岡越前(おおおか えちぜん)」「暴れん坊将軍」などの,私たちがよく知っている時代劇は皆,この場所(太秦(うずまさ))を抜きにしては語れないのである。

(注: (−)マイナスの部分をクリックすると,
より「広範囲」を表示できる。
また,地図上で,マウスを左クリックしたまま移動すれば,
「別の場所」も表示できる。)


興味深いことに,この「禹都万佐(うずまさ)」(太秦)という言葉に関して,佐伯好郎博士は,『極東における最初のキリスト教王国弓月,及び,その民族に関する諸問題』という論文の中で,こう述べている。


「私見に由れば,「うづ」は“Ishu”即ち“Jesus”又,「まさ」は“Messiah”の転訛語に外ならぬものである。それは,アラマイク語及びセミチック語の“イエス・メシア”Jesus the messiah の転訛語に外ならぬ。」

「前述の如く「禹都万佐(うずまさ)」とは“イエス・メシア”即ち,セミチック語,又はヘライブ語(possible注: 「ヘブライ語」の間違いか?)“Ishu-Meschiha”の転訛語である。・・・(略)
この移民が「禹都万佐(うずまさ)」の語に“イエス・メシア”という信仰箇条を公言する以上,彼らがキリスト教徒であったことは,今や疑問の余地のない所である。」

(「佐伯好郎遺稿並伝〈下〉伝記・佐伯好郎」大空社,1996年。1712,1713ページ。原著は,佐伯好郎伝記刊行会,昭和45年。『極東における最初のキリスト教王国弓月,及び,その民族に関する諸問題』と題する,昭和35年(1960年)の論文より抜粋。)

佐伯好郎博士は,上記のように述べたあと,彼らは時代的に「景教徒 Nestorian ではあり得なかった」こと,
ゆえに,


「私見によれば,弓月の民は,使徒時代以後のキリスト教徒であったに相違ないし,
又,大多数がユダヤ人改宗者であった原始教会のキリスト教徒であったかもしれない。」

(「佐伯好郎遺稿並伝〈下〉伝記・佐伯好郎」大空社,1996年。1714ページ。原著は,佐伯好郎伝記刊行会,昭和45年。
佐伯好郎博士が,昭和35年(1960年),88歳の時に,「国際イラン芸術考古学協会第四回大会」に寄稿した
“Various Problems concerning the First Christian Kingdom of Kung-Yueh(弓月) in the Far East and the People thereof.”
という題の英文の遺稿(景教の権威,佐伯博士の最後の学術論文)を,井手勝美氏が翻訳したものより抜粋。)


という,前述の言葉を述べるに至るのである。

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日本のキリスト教の歴史は,1800年

他にも,秦氏が持ってきた胡王面,大酒神社,「いさら井」という井戸,広隆寺(別名「太秦寺」),および,その中にある弥勒菩薩像,平安京,祇園祭り,八坂神社,稲荷神社,厩戸皇子(聖徳太子)等々,秦氏に関係する「証拠」をあげれば,きりがないくらいである。
しかし,残念ながら,この記事では,考慮できない。

さて,これらの情報をすべて「総合」すると,次の驚くべき結論に達する。

それは,ザビエルよりもさらに遡ること,およそ1000年以上も前の

西暦二世紀から四世紀
の間には,もうすでに,この日本には「クリスチャン」がやって来ていたこと。

そして,そのキリスト教徒とは,

を崇拝する「原始」キリスト教
で,しかも,

ユダヤ人
であった可能性が高い,ということである。


今日,日本は「仏教国」であるとか,あるいは「無宗教」的な国であるなどと言われているが,日本における「キリスト教の歴史」は,これら日本に来て帰化したキリスト教徒たちの存在によって,およそ

1800年
もの長さに引き伸ばされたのである。

そして,このキリスト教(聖書)の教えは,多くの日本人は気づいていないかもしれないが,日本の文化や習慣に多大な「影響」を及ぼしてきたのである。

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[新世紀人コメント]
ここでは知識・材料としては興味深いことが書かれていますが、私の転記では原文に記載されているイラストやヘブライ文字について技術的な未熟さから載せられないので、出来れば原文に当ってください。
ただ、これ等の知識も信仰やイデオロギーの解釈が入っている事に読者は注意しながら扱ってください。
様々な情報から推測すると日本人が単一民族ではないことは確かなようです。
日本人が純血種であるとか、または、多民族がルーツであってルーツに従うべき支族であるとかいった考え方は共に極端で危険なものとして我々は受け止めるべきものと私は考えています。

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