★阿修羅♪ > 戦争a2 > 107.html
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ご提示の資料は手記であり、“陣中日記”そのものではありませんよ。
http://www.asyura2.com/08/wara2/msg/107.html
投稿者 彼岸楼 日時 2008 年 4 月 09 日 06:36:07: njbqC.Mf1PyZ2
 

(回答先: 両角業作 手記 もろずみぎょうさく=歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐22期(反乱を起こしたから処罰でしょう) 投稿者 忍 日時 2008 年 4 月 09 日 03:28:53)


 忍さん、こんにちは。
 横レスにて失礼します。


 >[コメント]
 >上を見れば、反乱を起こしたから捕虜処罰でしょう。当時、便宜兵(ゲリラ兵)を暴れているから、そうしないと自衛の為に行なったでしょう。再度言うけれど、戦争を仕掛け、更に通州事件を引き起こしたのは中国兵だと言うことを忘れないでね。

 ご提示の資料に関しては、『〔注〕この記録は、第13師団歩兵第65連隊長両角業作大佐が、終戦後しばらくしてまとめたものである。昭和37年1月中旬、求めに応じ阿部輝朗に貸し与えられたものを筆写し、保存しておいた。原文はノートに書かれ、当時の日記をもとに書いたという。』とありますように、手記の基になった“陣中日記”の所在が不明なるが故に却って証拠としての信憑性を毀損する結果になっているのではないでしょうか。
 寧ろ、視聴したテレビのドキュメンタリーの内容と照合した限りでは、下記に掲げる全く利害関係とは無縁の三兵士の“陣中日記”の方が事実を忠実に描写・記録していると思量します。

 Auf Wiedersehen.


 山田支隊・歩兵第65連隊本隊
 http://members.at.infoseek.co.jp/nankingmassacre/butaibetu/yamada/66i.html 
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 斎藤次郎 陣中日記
 歩兵第65連隊本部通信班小行李・編成 輜重特務兵(1938年1月1等兵に進級)


 十二月十三日 晴
 (略)
 夜七時頃大行李二大隊の熊田君外一名が敗残兵一名を捕虜にして来る、捕虜にする際少し負傷し居つた、一将校が軍刀で日本刀の切味を試さんとしたら少しのすきをみて逃げ出したのを自分と××君と二人で追い四、五十間逃げる敵兵を田圃中を追ふ、若松で刃をたてた銃剣を引抜いて満月に近い月光をあびて追跡する様は内地でみる活動写 真の映画其のものの感がする、××君より早く追つき銃剣を以て肩先を力にまかせて一剣をあびせかける、手ごたえあり其の場に昏倒してしまふ、ようやく追いついた友軍の人達が集まり先の将校が脳天を真二つに割る、昏倒して居るのを切ったのでくびをはねる積だったのだろうが手元が少し違ったのだろう・・・・自分も戦地に来て始めて人に刃を向けてみる、敵兵も年齢廿六才か、これも妻子を残してやはり我等と同じく生命を賭して国難にあたって居るかと思えば敵兵をたおした痛快なる反面 、一種の悲哀の情が湧いて、めい福せよと頭を下げる・・・・
 (略)

 十二月十四日 晴
 (略)
 第一大隊の捕虜にした残敵を見る、其数五六百名はある、前進するに従ひ我が部隊に白旗をかかげて降伏するもの数知れず、午後五時頃まで集結を命ぜられたもの数千名の多数にのぼり大分広い場所を黒山の様に化す、若い者は十二才位 より長年者は五十の坂を越したものもあり、服装も種々雑多で此れが兵士かと思はれる、山田旅団内だけの捕虜を合して算すれば一万四千余名が我が軍に降った、機銃、小銃、拳銃、弾薬も沢山捕獲した、入城以来本日の様に痛快な感じがした事はない、此辺一帯は幕府山要塞地帯で鉄条網を張り塹壕を掘り南京附近の最後の抵抗線だったらしい、
 (略)
 [欄外記事]一万四千七百七十七名捕虜とす(十四日)旅団本部調査

 十二月十五日 晴
午前七時起床、朝の礼拝をして武運長久を祈願をする、今日は滞在なのでゆっくり起きる、今日は歩兵は残敵掃討するのに朝九時頃出発して要塞地帯一帯に行く、自分と×××、×××君等三名で馬糧を徴発してくる午后から馬の治療があるので愛馬泰容の鞍傷を治療する、終ってから青田獣医殿の厚意で砂糖小豆を御馳走になる、今日も残敵五、六百名を捕慮(虜)にしたとか、今夜は早く就寝して疲れを医やす。

 十二月十八日 曇、寒
 午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ 敵兵の中を行く、吹いて来る一順の風もなまぐさく何んとなく殺気だって居る、揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する、昨日まで月光コウコウとして居ったのが今夜は曇り、薄明い位 、霧の様な雨がチラチラ降って来た、寒い北風が耳を切る様だ、捕虜銃殺に行った十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通 され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞え悲哀の情がみなぎる、午前三時帰営、就寝、朝はゆっくり起床、朝の礼拝をして朝食用意をして××、岡本、××の三君等と南京見学に行く、都市を囲んで居る城壁の構造の広大なるのに一驚する、城壁の高さ約三丈乃至四丈幅約十四、五間南京市内も焼け又は破壊され見るかげもない惨憺たる有様だ、敵の死体やら武装解除された品々が路傍に沢山ある、帰途は夕刻近く九時就寝する。

 [欄外記事]銃殺捕虜の死体処理(十八日0時)
 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』P36〜39

 堀越文男 陣中日記
 歩兵第65連隊本部通信班(有線分隊長)・編成 伍長


 十二月十四日
 未明油座君支那の工兵大尉を一人とらへ来る。
 午後一時四十分敗残兵一人を銃殺。年、二十五才なりと、R本部は五時出発、吾は第五有線班の撤収をまちて八時半出発。
 敵の銃をひろひて撃てるものなり。
 第一大隊は一万四千余人の捕虜を道上にカンシしあり(午前)。天気よし、彼の工兵大尉に車をひかせて南京へ向かふ、鹵獲銃は道路に打ちくだく。
 一丘をこえて南京の城壁目(間)近に見ゆ。
 城壁一千米手前にて彼の工兵大尉を切る、沈着従容たり、時午後四時也。
 午後五時半、R本部に至るも、本部未着六時四十分頃着す。

 十二月十五日
 午前九時朝食、十時頃より×××伍長と二人して徴撥(発)に出かける、何もなし、唐詩三百首、一冊を得てかへる、すでに五時なり。
 揚子江岸に捕虜の銃殺を見る、三四十名づつ一度に行ふものなり。

 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』P78〜79

 菅野嘉雄 陣中メモ
 歩兵第65連隊連隊砲中隊・編成 一等兵


 〔十二、〕十四
 午後五時出発夜頃より敵丘(兵)続々と捕虜トス、幕府山要塞を占領し午後二時戦斗を中止す、廠舎に捕虜を収容し其の前に宿営警戒す、捕虜数約一万五千。

 〔十二、〕十五
 今日も引続き捕虜あり、総計約弐万となる。

 〔十二、〕十六
 飛行便の書葉(葉書)到着す、谷地より正午頃兵舎に火災あり、約半数焼失す、夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。

 〔十二、〕十七
 未曾有の盛儀南京入場式に参加、一時半式開始。
 朝香宮殿下、松井軍司令官閣下の閲兵あり、捕虜残部一万数千を銃殺に附す。

 〔十二、〕十八
 朝より小雪が降った、銃殺敵兵の片付に行く、臭気甚し。

 〔十二、〕十九
 本日も敵兵の片付に行く、自分は行かなかった。

 『南京大虐殺を記録した皇軍たち』P309

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 以上です。

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