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漢字廃止論と制限論 ー日本語の国際化は可能かー
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/356.html
投稿者 暴論有理 日時 2010 年 5 月 07 日 02:06:10: Lhw6YrhSkkinE
 

戦前、漢字制限論者と漢字廃止論者を含む「かなのくわい(会)」というのがあって、言海で有名な国語学者の大槻文彦を中心にかなりの勢力を得たが、現代では漢字廃止を主張する団体は日本語の学会と業界では、かなり異端児あつかいされたマイナーな存在だ。

しかし、漢字制限論は日本語関係者にとって無視はされ得ないもので、常用漢字表はそれに基づくものだ。現在、旧字ブームを反映してか常用漢字は漢字数拡大の方向で改定に向かっており、新聞で使う漢字数も徐々に増加しているが、澤と齋など、外国人が簡単に覚えられるものではない。使用者は相手が理解しての文字だという点を十分認識しているかわからないが、外人さんが読むなど想定外なんだろう。

日本語は文法的にはやさしく、仕事で使う会話も外国人にとって、たいしたハードルじゃない。しかし、表記となったら、大抵の日本語が達者な外国人も自信を失う。漢字が日本人並みの欧米人は、ほとんどが研究者か漢字オタクに限定されてしまう。もちろん、その表記の問題とは、現在日本人が使用している漢字かな混じり文の漢字の表記とその読みの複雑さのことだ。

日本語学者でも漢字は日本語だというものが多いが、中国人に聞かせたらみな大笑いする。当然だ。しかし、その中国人にしても日本の漢字の読みの複雑さは日本語習得の最大のネックなのだ。外国人の日本語習得が初級以上に進まない最大の原因はやはり漢字なのだ。

小生はまず、日本語使用者全員に単一の表記法を押し付けるという前提自体に反対したい。その前提が無いとして、まず、海外で発行する雑誌等の国際発信のメディア等を中心にして、漢字を使用しない「かな分かち書き」(英語のように単語間にスペースを空ける)を使用すべきだと思う。

もちろん、論文等厳格な言葉の定義が必要だと思うものは従来通り、漢字を使えばいいし、中国人など漢字圏の者達には、従来どおりの漢字かな混じり文を使用するのもかまわないと思う。

かな表記のみでは、同音異語の判別が難しくなることを理由にかな分かち書きに反対する人も多い。しかし、同音異語が大量に生まれたのも明治初期の外国語の和訳において漢字を濫用したためだ。また、英語でも日本語の和語でもPlane(飛行機/かんな)のように複数の意味がある単語は多い。同音異語でも同様に聞く者はそれを前提に文脈から判断し、「交代」と「後退」のように判別している。

会話で混乱を伴う同音異語を作り出した明治の造語家たちも、主に書き言葉としての使用を念頭においていたのだろうが、かな表記のみにした場合、混乱を伴う同音異語は「後退」から「バック」のように漢字熟語と同じ外来語であるカタカナ語に置き換えられていくことが増えるだろう。

以上、漢字制限論と廃止論について述べたが、漢字無しのかな表記を日本語もどきとみなす者も、いずれ否応無く表記法の改良か多様化による日本語の国際化か、従来の日本語表記法を墨守して国際語としての可能性を失うかの選択を迫られることになるだろう。
 

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コメント
 
01. 2010年5月07日 16:02:25: RycBzCkf0s
常用漢字や当用漢字、教育漢字といったものは旧文部省で色んなしがらみが有ってできたのでおかしくなったのだと思う。
旧通産省のJISの方が実態に即している。JIS第一水準の2800字+αが日本人が覚えるべき漢字だと思う。
第二水準の漢字を眺めると見慣れない字が多い。しがらみ無く作られたからだと思う。文部省のXX漢字は廃止したらよいと思う。
JISは必要に応じて第4水準まで有るようである。
また、読み方などは日本古来の大和言葉が表現できないといけない。

02. 2010年5月11日 20:45:27: 7MYtH07DVM
漢字のテストや書くのを強制されるのは嫌ですが、読むほうは別に苦になりません。
読んでいて苦痛なのは、本来漢字だけで書かれていたものが、そう難しい字でもないのに一部ひらがなにされてしまったもの。気持ち悪いです。

03. 2010年6月03日 19:48:42: 1ou87DgXIk
02さん。それも慣れですよ。

04. 2012年1月14日 18:44:22 : dBQ4ctfotQ
漢字を廃止しよう

日朝語の漢字と中国の漢字 (1)

「日韓語の漢字」は中国の漢字とは相当に変化している。漢字の発祥地は中国でありながらも朝鮮の漢字音と意味は変化し、飛鳥〜奈良時代、朝鮮からの渡来人(知識層)がそれらの漢字を日本へもち込んだ。日本の漢字は中国の漢字と同じであると思い、殊に、音読みすれば中国語の漢字音に近いだろうと、中国の人名・地名・・などを音読みにするのは変な話である。かっては、朝鮮半島の地名・人名(漢字)も音読みしていたが、韓国政府の要請により韓国の漢字音に改めている。

漢字文化に慣れ親しんできた日本人は「漢字を礼賛する傾向」があるので、漢字廃止論などを表にだすと猛烈な反対論に出くわす。しかし、「漢字はいかなる文字であるか」を色々な角度から分析していくと、漢字ぐらい「原始的な文字」はない(特殊社会では別)。西洋言語学では「文字は話し言葉の影であり記号である」とされている。漢字は「世界唯一の古代文字」で「文字の化石」とも言われている。ブリタニカの百科事典には「古い言葉、未分化のものほど非体系的・非統合的である。部分的・直感的でシスマティックでないのは、幼児・下等動物が統合性にかけた行動をするのに類似する」と書かれている。例えば、未開社会の人々が、「犬」と「魚」の数を表す「三」を異なって言うのに類似する現象だという。

日韓語の漢字と中国の漢字 (2)

 漢字がいかに非合理的な文字であるかは、現在の中国における漢字の使い方を見ればわかる。中国は、終戦前後ごろ文盲が多く、女性の約40%が文盲であったという恐るべき話もある。現在の中国では漢字が簡略化され、「豊」は「丰」、「業」は「业」、「為」は「为」、「個」は「个」などとなっている。これらの簡略文字を日本人は奇異に感じ、簡略しすぎていると言う。しかし、中国の外来語表記を見れば、漢字の進むべき宿命を示唆しているような気がする。中国は、洪水のごとく流入する外来語(人名・地名・スポツ・医学・科学・・)の対応に混乱している。例えば、「熱狗 ホットドッグ」「一対男女 アベック」「空中小姐 スチュワデス」「投手土台 マウンド」「西紅柿 トマト」などと表記されている。このグローバル時代の言葉に歩調を合わせることが困難になった中国では、現在、ピンイン文字の教育に力を入れ、五十年後には漢字を廃止すると言われている。「黄鼠狼 イタチ」「蜂斗叶 フキ」など、星の数ほどある動植物名の漢字語は戦慄をおぼえさせる。
朝鮮では、「漢字は民衆の知識習得の妨げになる」ということで、王の指示によって文字の大衆化がはかられハングルが発明された。「覚えやすい文字は上流層の地位をおびやかす」ということで、両班を中心にした大きな抵抗があり、ハングル化への道は平坦でなかった。しかし、音標文字であるハングルは、母語の表記に便利であったため、皮肉にも両班の女子に好まれ、また、民話などの表記に陰のように使われていた。戦後、ハングルが表舞台で目立ちはじめたが、殊に、李承晩大統領がハングル化に拍車をかけてから、書籍をはじめ街頭の看板でさえハングル一色の傾向を見せ始めた。中学校で週1〜2時間の漢字教育が行われているが、旧漢字のままということもあって、自分の名前さえ書けない人が増えている。駅、空港などの漢字は案内表示のためのものである。

漢字の固辞派も時代の潮流にはさからえず、漢字は消滅化への道をたどりつつある。最近、韓国では、漢字教育を見なおそうとしているという話を耳にするが、韓国は旧漢字を使用しているので多難の道ではなかろうかと思われる。同音意義語の問題もあるが、ハングルのやさしさから比べれば、その効率・便利・学習時間の減少・・などの有利な条件を軽視して、ハングルを漢字化することは不可能であろうと思われる。漢字国中国が五十年後には、ピンイン文字化すると言われている今日、韓国がハングルを止めることは時代の逆行ではないだろうか。

 日韓語の漢字と中国の漢字 (3)

日本にはカタカナがあるため外来語の表記に中国のような苦労はない。このことはハングルの場合も同じで、ハングルの方が日本語より正確に外来語を表記できる。しかし、カタカナがあると言えども、漢字を多用する日本は、不思議な文字使用が続けられている。

世界に、フリガナをつける国はなく、国家主席「胡錦涛(フチンタオ)」を「コキントウ」と言っている。日本の地図帳では、中国の地名は現地音(カタカナかフリガナ付)になっているのに、新聞(朝日新聞は別)・雑誌・テレビでは日本式の音読みが採用されている。「広州(コワンチョウ)」を「コウシュウ」と言っている。優勝選手の名前が電光掲示板・テレビ画面にローマ字で表記されているのに、アナウンサーは日本式の音読みで叫ぶ。国際会議などで、知名度の高い中国人の名前を、日本式の音読みで言えば出席者は唖然とするだろう。

日本語を学習する外国人は、音の重さを軽視して文字が自在におどっている漢字に辟易している。日本人は「蝉時雨」「氷雨」「的外れ」「鎧」「兜」のような文字を「万華鏡」のように楽しみ、その不思議な文字は世界遺産となるほどの史跡性を内包させているだろう。

日韓語の漢字と中国の漢字 (4)

日朝語の漢字は親である中国語に似ていると思いがちだが、中国語の漢字は相当にかけはなれている。日朝語の漢字の音とコンテンツは実によく対応している。同じ漢字語を中国語と比較するとき、中国語は別の漢字で表現する場合が多い。例えば、「愛着→留恋」「哀調→悲調」「愛嬌→可愛之処」などとなる。また、日朝語と中国語の漢字音を比較すると、「選挙=선거=選挙」「閣僚=각료=閣僚」「歌手=가수=歌手」などとなり、日朝語の漢字音はそっくりであることがわかる。

 日本と朝鮮について「近くて遠い国」という話をよく耳にする。その理由として、類似した基礎単語が2百語あまりしかないからとよく言われる。しかし、一方で、「欧米の言語学のように類似した単語の数ばかりに頼らないで、多面的な観点から比較する必要がある」という説がある。例えば、漢字の視点から比較してみる。日本の漢字文化は朝鮮からの渡来人によって形成され、代表的な文献『記紀』『万葉』は渡来人によって書かれいる。日本語の漢字の音は朝鮮の漢字音に類似し、異なるように思える漢字音も規則的な音転訛によって変化している。「日中辞典(小学館)」と「朝鮮語辞典(小学館)」によって音と意味が対応する熟語をピックアップすると、中国語と異なる日韓語の対応語(熟語)は5000種を超える。

日韓語の漢字と中国の漢字 (5)

中国語と同音の漢字でも、漢字の意味が中国語とはかなり異なっている。朝鮮での漢字使用は紀元前後から盛んになったようであるが、7〜8世紀ごろ集中的に渡来した朝鮮王朝のエリートにより日本での漢字使用が盛んになるまで約800年ぐらいある。その間に、朝鮮での漢字文化は中国語を離れて独特なものに変化し日本語の漢字になっている。

例えば、「타류 他流」が中国語では「別流」になる。「단주 断酒」が「忌酒」、「구분 区分」が「分割」になる。また、音の比較をすると、「무욕 無欲」が「無欲」、「목조 木彫」が「木彫」、「야간 夜間」が「夜間」と発音される。

 朝鮮語の漢字は旧漢字であるため、ハングル化と重なってますます漢字を好まない人が増えている。現在、日本語の漢字に「覺」「團」「爇」「寫」「變」・・のような漢字が多ければ、漢字を覚えることに膨大な時間を費やしている学童をさらに悩ますことになる。中国語ほど略字化しなくても、「褒」「淵」「躙」「瞰」「齢」「膚」「賓」「朧」「纏」「癲」・・などの漢字の画数を減らせないものだろうか。十五世紀、世宗大王は「だれもが読めて書ける文字」としてハングルの創造という偉業をなしとげた。ベトナムは漢字の弊害を解消するためにローマ字化し、中国も五十年後にはピンイン文字化すると言われている。
 
日本も、世界の学童と同じ時間で学習効果を高めようと思うなら、生活の根幹である文字の歴史を見なおす必要があるだろう。最高学府の教育を受け、20
〜30年も語学にかかわっていながら、「書けない文字」について慨嘆するのは漢字圏の人だけではないだろうか。五十年もすれば、世界で漢字を使っている国は日本と台湾だけになっているかもしれない。


05. 暴論有理 2012年1月18日 06:01:21 : Lhw6YrhSkkinE : MRCvTrECYc
漢字の文字としての価値はおいておいて、仮名という長年、漢字の下位文字扱いされてきた文字をもっと高く評価すべきだろう。

現在、世界中で多くの言語が死滅しつつあるが、その中でも文字を持つ言語は極めて少ない。そして、アルファベットは大きな支配力を持つ覇権文字だ。

その他はインド語のデバナガリやアラビア文字、そして漢字であと残るはそれらから派生した文字がほとんどだ。

そして仮名も漢字から派生したといえ、デバナガリの50音図を基にするなど、ハングル並みの科学性を持っている。

音素は少なくとも、英語のスペルよりカタカナの方がはるかに法則性が高い。たとえば、Knifeとナイフ(Naifu)ではどちらが規則性が高いだろうか。

英語が結構達者な非ネイティブがIslandをイズランドと発音していたが、カタカナが読めれば間違ってもそんな発音はしない。

これは漢字の膨大な読みの数に対しても同様である。いわば振り仮名は中国語のピンインの先駆けともいえる。

ただし、仮名にも欠点は多く存在する。まずは子音を表記できないこと。実は日本語の中にも子音のみの発音はたくさんある。たとえば関東人は「です」「ます」の「す」はsという子音のみのほうが自然に感じるのだ。

また、福沢諭吉が発明したとされる「ヴ」や「ファ」など欧米語の子音の取り入れが文部省の仮名統制でストップしたため、「ラ行」がR音とL音をともに受け持っていることや、æ等の母音が表記できないことなどが上げられる。

それは副次的に日本人の外国語習得上の耳の悪さ、発音の悪さの原因になっている。しかし、これもかつて山ほどあった使われなくなったヱ等の仮名をあてることや、てんてんや丸やウムラウトのような補助記号で簡単に対応できる。

また、知能の高い方にはわからないだろうが、日本人にとっても漢字の多すぎる文は極めて疲れる読みにくいものなのだ。ためしに大正時代の新聞を読まれると良いだろう。おそらく明治の新聞にいたってはほとんど意味が明確にわからないはずだ。

ただし、漢字が日本語と不可分であることは事実であり、これを権力で排除するのも仮名文を排除するのと同様の差別だ。

必要なのは社会的要請に応じた言語表記の変化を認めることとそれが統一されたものではなく、多様な表記法があってしかるべきという認識だ。

よって、旧字体文もあっていいし、仮名のみの文が大手を振ってもいいはずだ。また日本語はモンカ省役人が統制強化するのと反して多くの表記法を包含する融通性のある言語であろう。

でなければ世界のどこに、ひらがな、カタカナ、漢字、漢字の旧字体、ローマ字という多くの文字を同時に使う言語があるだろうか。


06. 2012年7月09日 00:25:35 : P9NbmXN2p6
日本の国際競争に勝てない理由として日本語のむずかしさがあるのではないか漢字はいしは難しいかもしれないが少なくとも固有名詞などは漢字を使わない方向にすべきだと思う。特に固有名詞は読めないことが多い。

07. 2015年5月21日 11:27:35 : O8NDiyjfWw
ネットでは、韓国を俎上に載せて知的荒廃と騒いでる人が多いけど、韓国のほうがOECD生徒の学習到達度調査(PISA)の点数が高いのをどう説明するのでしょう?
韓国人に言わせると、漢字廃止後に逆に読解力は向上したそうです。
どっちに肩入れするというのでは無いが、証拠に基づいた議論が必要ですね。

8. 中川隆[-13363] koaQ7Jey 2018年11月02日 06:37:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19759] 報告
外国語学習について - 内田樹の研究室 2018-10-31

2018年6月12日に「文系教科研究会」というところで、私立の中学高校の英語の先生たちをお相手に英語教育についてお話した。その一部をここに掲載する。

ここで論じたのは英語だけれど、言語教育一般について適用できる議論だと思う。
ここ数日、「論理国語」と「文学国語」というカテゴライズをするという話がTLを飛び交っているけれど、それがほんとうだとしたら、それはたぶん言語というものについて一度も真剣に思量したことのない人間の脳裏に去来したアイディアだろうと思う。それはまさに「植民地における現地人への宗主国言語教育」とまったく同型的なものだからだ。

国語教育においても「植民地現地人」に求められる言語能力は同じである。

それは宗主国アメリカに仕え、アメリカに朝貢することで「代官」「買弁」としての地位を保全している日本の支配層たちが、同国人の知性の発達を阻害し、日本人を愚民化することで、属国日本をアメリカが支配しやすいようにするために作り出した仕掛けである。

以下がそのときの講演。途中からなので、話が見えにくいのはご容赦。


外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。

「目標言語」というのは、今の場合なら、例えば英語です。なぜ英語を学ぶのか。それは「目標文化」にアクセスするためです。英語の場合であれば、ふつうは英語圏の文化が「目標文化」と呼ばれます。

僕らの世代において英語の目標文化ははっきりしていました。それは端的にアメリカ文化でした。アメリカ文化にアクセスすること、それが英語学習の最も強い動機でした。僕たちの世代は、子どものときからアメリカ文化の洪水の中で育っているわけですから、当然です。FENでロックンロールを聴き、ハリウッド映画を観て、アメリカのテレビドラマを観て育ったわけですから、僕らの世代においては「英語を学ぶ」というのは端的にアメリカのことをもっと知りたいということに尽くされました。

僕も中学や高校で「英語好き」の人にたくさん会いましたけれど、多くはロックの歌詞や映画の台詞を聴き取りたい、アメリカの小説を原語で読みたい、そういう動機で英語を勉強していました。

僕もそうでした。英語の成績は中学生からずっとよかったのですが、僕の場合、一番役に立ったのはビートルズの歌詞の暗記でした。ビートルズのヒット曲の歌詞に含まれる単語とイディオムを片っ端から覚えたのですから、英語の点はいいはずです。

つまり、英語そのものというよりも、「英語の向こう側」にあるもの、英米の文化に対する素朴な憧れがあって、それに触れるために英語を勉強した。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路として英語という「目標言語」を学んだわけです。

その後、1960年代から僕はフランス語の勉強を始めるわけですけれども、この時もフランス語そのものに興味があったわけではありません。フランス語でコミュニケーションしたいフランス人が身近にいたわけではないし、フランス語ができると就職に有利というようなこともなかった。そういう功利的な動機がないところで学び始めたのです。フランス文化にアクセスしたかったから。

僕が高校生から大学生の頃は、人文科学・社会科学分野での新しい学術的知見はほとんどすべてがフランスから発信された時代でした。40年代、50年代のサルトル、カミュ、メルロー=ポンティから始まって、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、アルチュセール、ラカン、デリダ、レヴィナス・・・と文系の新しい学術的知見はほとんどフランス語で発信されたのです。

フランス語ができないとこの知的領域にアクセスできない。当時の日本でも、『パイデイア』とか『現代思想』とか『エピステーメー』とかいう雑誌が毎月のようにフランスの最新学術についての特集を組むのですけれど、「すごいものが出て来た」と言うだけで、そこで言及されている思想家や学者たちの肝心の主著がまだ翻訳されていない。フランス語ができる学者たちだけがそれにアクセスできて、その新しい知についての「概説書」や「入門書」や「論文」を独占的に書いている。とにかくフランスではすごいことになっていて、それにキャッチアップできないともう知の世界標準に追いついてゆけないという話になっていた。でも、その「すごいこと」の中身がさっぱりわからない。フランス語が読めないと話にならない。ですから、60年代―70年代の「ウッドビー・インテリゲンチャ」の少年たちは雪崩打つようにフランス語を学んだわけです。それが目標文化だったのです。 

のちに大学の教師になってから、フランス語の語学研修の付き添いで夏休みにフランスに行くことになった時、ある年、僕も学生にまじって、研修に参加したことがありました。振り分け試験で上級クラスに入れられたのですけれど、そのクラスで、ある日テレビの「お笑い番組」のビデオを見せて、これを聴き取れという課題が出ました。僕はその課題を拒否しました。悪いけど、僕はそういうことには全然興味がない。僕は学術的なものを読むためにフランス語を勉強してきたのであって、テレビのお笑い番組の早口のギャグを聴き取るために労力を使う気はないと申し上げた。その時の先生は真っ赤になって怒って、「庶民の使う言葉を理解する気がないというのなら、あなたは永遠にフランス語ができるようにならないだろう」という呪いのような言葉を投げかけたのでした。結局、その呪いの通りになってしまったのですけれど、僕にとっての「目標文化」は1940年から80年代にかけてのフランスの知的黄金時代のゴージャスな饗宴の末席に連なることであって、現代のフランスのテレビ・カルチャーになんか、何の興味もなかった。ただ、フランス語がぺらぺら話せるようになりたかったのなら、それも必要でしょうけれど、僕はフランスの哲学者の本を読みたくてフランス語を勉強し始めたわけですから、その目標を変えるわけにゆかない。フランス語という「目標言語」は同じでも、それを習得することを通じてどのような「目標文化」にたどりつこうとしているのかは人によって違う。そのことをその時に思い知りました。

ロシア語もそうです。今、大学でロシア語を第二外国語で履修する学生はほとんどいません。でも、若い方はもうご存じないと思いますけれど、1970年に僕が大学入学したとき、理系の学生の第二外国語で一番履修者が多かったのはロシア語だったのです。

「スプートニク・ショック」として知られるように、60年代まではソ連が科学技術のいくつかの分野でアメリカより先を進んでいたからです。科学の最先端の情報にアクセスするためには英語よりもロシア語が必要だった。でも、ソ連が没落して、科学技術におけるアドバンテージが失われると、ロシア語を履修する理系の学生はぱたりといなくなりました。もちろんドストエフスキーを読みたい、チェーホフを読みたいというような動機でロシア語を履修する学生の数はいつの時代もいます。目標文化が「ロシア文学」である履修者の数はいつの時代もそれほど変化しない。けれども、目標文化が「ソ連の科学の先進性」である履修者は、その目標文化が求心力を失うと、たちまち潮が引くようにいなくなる。

僕の学生時代はフランス語履修者がたくさんおりました。でも、その後、フランス語履修者は急減しました。ある時点で中国語に抜かれて、今はもう見る影もありません。

理由の一つは、日本のフランス語教員たちが学生たちの知的好奇心を掻き立てることができなかったせいなのですけれど、それ以上に本国のフランスの文化的な発信力が低下したことがあります。フランス文化そのものに日本の若者たちを「目標」として惹きつける魅力がなくなってしまった。

フランス語やロシア語の例から知れる通り、われわれが外国語を学ぶのは目標文化に近づくためなのです。目標文化にアクセスするための手段として目標言語を学ぶ。

しかし、まことに不思議なことに、今の英語教育には目標文化が存在しません。英語という目標言語だけはあるけれども、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか。向かう先はアメリカでもイギリスでもない。カナダでもオーストラリアでもない。どこでもないのです。

何年か前に、推薦入試の入試本部で学長と並んで出願書類をチェックしていたことがありました。学長は英文科の方だったのですけれど、出願書類の束を読み終えた後に嘆息をついて、「内田さん、今日の受験者150人の中に『英文科志望理由』に『英米文学を学びたいから』と書いた人が何人いると思う?」と訊いてきました。「何人でした?」と僕が問い返すと「2人だけ」というお答えでした「後は、『英語を生かした職業に就きたいから』」だそうでした。

僕の知る限りでも、英語を学んで、カタールの航空会社に入った、香港のスーパーマーケットに就職した、シンガポールの銀行に入ったという話はよく聞きます。別にカタール文化や香港文化やシンガポール文化をぜひ知りたい、その本質に触れたいと思ってそういう仕事を選んだわけではないでしょう。彼らにとって、英語はたしかに目標言語なのですけれど、めざす目標文化はどこかの特定の文化圏のものではなく、グローバルな「社会的な格付け」なのです。高い年収と地位が得られるなら、どの外国でも暮らすし、どの外国でも働く、だから英語を勉強するという人の場合、これまでの外国語教育における目標文化に当たるものが存在しない。
これについては平田オリザさんが辛辣なことを言っています。彼に言わせると、日本の今の英語教育の目標は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」はもちろん有用な仕事であり、しかるべき能力を要するし、それにふさわしい待遇を要求できるポストですけれど、それは一人いれば足りる。何百万単位で「シンガポール支店長」を「人形焼き」を叩き出すように作り出す必要はない。でも、現在の日本の英語教育がめざしているのはそういう定型です。

僕は大学の現場を離れて7年になりますので、今の大学生の学力を知るには情報が足りないのですけれども、それでも、文科省が「英語ができる日本人」ということを言い出してから、大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきたことは知っています。それも当然だと思います。英語を勉強することの目標が、同学齢集団内部での格付けのためなんですから。低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティヴにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。そんなことが成功するはずがない。恐怖や不安を動機にして、知性が活性化するなんてことはありえないからです。

僕は中学校に入って初めて英語に触れました。それまではまったく英語を習ったことがなかった。1960年頃の小学生だと、学習塾に通っているのがクラスに二三人、あとは算盤塾くらいで、小学生から英語の勉強している子どもなんか全然いません。ですから、FENでロックンロールは聴いていましたけれど、DJのしゃべりも、曲の歌詞も、ぜんぶ「サウンド」に過ぎず、意味としては分節されていなかった。それが中学生になるといよいよ分かるようになる。入学式の前に教科書が配られます。英語の教科書を手にした時は、これからいよいよ英語を習うのだと思って本当にわくわくしました。これまで自分にとってまったく理解不能だった言語がこれから理解可能になってゆくんですから。自分が生まれてから一度も発したことのない音韻を発声し、日本語に存在しない単語を学んで、それが使えるようになる。その期待に胸が膨らんだ。

今はどうでしょう。中学校一年生が四月に、最初の英語の授業を受ける時に、胸がわくわくどきどきして、期待で胸をはじけそうになる・・・というようなことはまずないんじゃないでしょうか。ほかの教科とも同じでしょうけれど、英語を通じて獲得するものが「文化」ではないことは中学生にもわかるからです。

わかっているのは、英語の出来不出来で、自分たちは格付けされて、英語ができないと受験にも、就職にも不利である、就職しても出世できないということだけです。そういう世俗的で功利的な理由で英語学習を動機づけようとしている。でも、そんなもので子どもたちの学習意欲が高まるはずがない。

格付けを上げるために英語を勉強しろというのは、たしかにリアルではあります。リアルだけれども、全然わくわくしない。外国語の習得というのは、本来はおのれの母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものを習得ゆくプロセスのはずです。だからこそ、知性の高いパフォーマンスを要求する。自分の知的な枠組みを超え出てゆくわけですから、本当なら「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が要る。そのためには、外国語を学ぶことへ期待とか向上心とか、明るくて、風通しのよい、胸がわくわくするような感じが絶対に必要なんですよ。恐怖や不安で、人間はおのれの知的な限界を超えて踏み出すことなんかできません。
でも、文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』にはこう書いてある。

「今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を超えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。」

冒頭がこれです。まず「経済」の話から始まる。「経済競争」「メガコンペティション」というラットレース的な状況が設定されて、そこでの「果敢な挑戦」が求められている。英語教育についての基本政策が「金の話」と「競争の話」から始まる。始まるどころか全篇それしか書かれていない。

「このような状況の中、英語は、母語の異なる人々をつなぐ国際的共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です」という書いた後にこう続きます。

「現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も起きています。」
「金」と「競争」の話の次は「格付け」の話です。ここには異文化に対する好奇心も、自分たちの価値観とは異なる価値観を具えた文化に対する敬意も、何もありません。人間たちは金を求めて競争しており、その競争では英語ができることが死活的に重要で、英語学力が不足していると「制限を受けたり」「適切な評価が得られない」という脅しがなされているだけです。そんなのは日本人なら誰でもすでに知っていることです。でも、「英語ができる日本人」に求められているのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」なのです。

外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。

でも、この文科省の作文には、外国語を学ぶのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」の檻から逃れ出るためだという発想がみじんもない。自分たちの狭隘な、ローカルな価値観の「外側」について学ぶことは「国際的な相互依存関係」のうちで適切なふるまいをするために必須であるという見識さえ見られない。僕は外国語学習の動機づけとして、かつてこれほど貧しく、知性を欠いた文章を読んだことがありません。

たしかに、子どもたちを追い込んで、不安にさせて、処罰への恐怖を動機にして何か子どもたちが「やりたくないこと」を無理強いすることは可能でしょう。軍隊における新兵の訓練というのはそういうものでしたから。処罰されることへの恐怖をばねにすれば、自分の心身の限界を超えて、爆発的な力を発動させることは可能です。スパルタ的な部活の指導者は今でもそういうやり方を好んでいます。でも、それは「やりたくないこと」を無理強いさせるために開発された政治技術です。
ということは、この文科省の作文は子どもたちは英語を学習したがっていないという前提を採用しているということです。その上で、「いやなこと」を強制するために、「経済競争」だの「メガコンペティション」だの「適切な評価」だのという言葉で脅しをかけている。

ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちがもっている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと「ひどい目に遭うぞ」というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。

この文章を読んでわかるのは、今の日本の英語教育において、目標言語は英語だけれど、目標文化は日本だということです。今よりもっと日本的になり、日本的価値観にがんじがらめになるために英語を勉強しなさい、と。ここにはそう書いてある。目標文化が日本文化であるような学習を「外国語学習」と呼ぶことに僕は同意するわけにはゆきません。

僕自身はこれまでさまざまな外国語を学んできました。最初に漢文と英語を学び、それからフランス語、ヘブライ語、韓国語といろいろな外国語に手を出しました。新しい外国語を学ぶ前の高揚感が好きだからです。日本語にはない音韻を発音すること、日本語にはない単語を知ること、日本語とは違う統辞法や論理があることを知ること、それが外国語を学ぶ「甲斐」だと僕は思っています。習った外国語を使って、「メガコンペティションに果敢に挑戦」する気なんか、さらさらありません。

外国語を学ぶ目的は、われわれとは違うしかたで世界を分節し、われわれとは違う景色を見ている人たちに想像的に共感することです。われわれとはコスモロジーが違う、価値観、美意識が違う、死生観が違う、何もかも違うような人たちがいて、その人たちから見た世界の風景がそこにある。外国語を学ぶというのは、その世界に接近してゆくことです。 

フランス語でしか表現できない哲学的概念とか、ヘブライ語でしか表現できない宗教的概念とか、英語でしか表現できない感情とか、そういうものがあるんです。それを学ぶことを通じて、それと日本語との隔絶やずれをどうやって調整しようか努力することを通じて、人間は「母語の檻」から抜け出すことができる。

外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的分節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです。

でも、今の日本の英語教育は「母語の檻」からの離脱など眼中にない。それが「目標言語は英語だが、目標文化は日本だ」ということの意味です。外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ、と。言っている本人はそれなりにリアリズムを語っているつもりでいるんでしょう。でも、現実にその結果として、日本の子どもたちの英語力は劇的に低下してきている。そりゃそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」が「上がり」であるような英語教育を受けていたら、そもそもそんな仕事に何の興味もない子どもたちは英語をやる理由がない。

(中略)

今は英語教育にとりわけ中等教育では教育資源が偏ってきています。他の教科はいいから、とにかく英語をやれという圧力が強まっています。別にそれは英語の教員たちが望んだことではないのだけれど、教育資源が英語に偏っている。特に、オーラル・コミュニケーション能力の開発に偏っている。何でこんなに急激にオーラルに偏ってきたかというと、やはりこれは日本がアメリカの属国だということを抜きには説明がつかない。

「グローバル・コミュニケーション」と言っても、オーラルだけが重視されて、読む力、特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です。

植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。読み書きはいい。文法も要らない。古典を読む必要もない。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。それ以上の言語運用能力は不要である。理由は簡単です。オーラル・コミュニケーションの場においては、ネイティヴ・スピーカーがつねに圧倒的なアドバンテージを有するからです。100%ネイティヴが勝つ。「勝つ」というのは変な言い方ですけれども、オーラル・コミュニケーションの場では、ネイティヴにはノン・ネイティヴの話を遮断し、その発言をリジェクトする権利が与えられています。ノン・ネイティヴがどれほど真剣に、情理を尽くして話していても、ネイティヴはその話の腰を折って「その単語はそんなふうには発音しない」「われわれはそういう言い方をしない」と言って、話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる。

逆に、植民地的言語教育では、原住民の子どもたちにはテクストを読む力はできるだけ付けさせないようにする。うっかり読む力が身に着くと、植民地の賢い子どもたちは、宗主国の植民地官僚が読まないような古典を読み、彼らが理解できないような知識や教養を身に付ける「リスク」があるからです。植民地の子どもが無教養な宗主国の大人に向かってすらすらとシェークスピアを引用したりして、宗主国民の知的優越性を脅かすということは何があっても避けなければならない。だから、読む力はつねに話す力よりも劣位に置かれる。「難しい英語の本なんか読めても仕方がない。それより日常会話だ」というようなことを平然と言い放つ人がいますけれど、これは骨の髄まで「植民地人根性」がしみこんだ人間の言い草です。

「本を読む」というのはその国の文化的な本質を理解する上では最も効率的で確実な方法です。でも、植民地支配者たちは自分たちの文化的な本質を植民地原住民に理解されたくなんかない。だから、原住民には、法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない。

今の日本の英語教育がオーラルに偏って、英語の古典、哲学や文学や歴史の書物を読む力を全く求めなくなった理由の一つは「アメリカという宗主国」の知的アドバンテージを恒久化するためです。だから、アメリカ人は日本人が英語がぺらぺら話せるようになることは強く求めていますけれど、日本の子どもたちがアメリカの歴史を学んだり、アメリカの政治構造を理解したり、アメリカの文学に精通したりすること、それによってアメリカ人が何を考えているのか、何を欲望し、何を恐れているのかを知ることはまったく望んでいません。

(以下略)

「原住民には法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない」ということを英語教育について書いたら、国語教育でも同じことをしようとしているということを知らされた。

まことに情けない国に成り下がったものである。
http://blog.tatsuru.com/2018/10/31_1510.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

9. 2019年3月26日 11:19:37 : HzRWGAz0M6 : ODBzU3Y1Q0dzakE=[1] 報告
かんじをにほんごからとりはらってしまうと、にほんごのせいかくじょう、
ひじょうによみづらくなってしまいます。
そのうえ、どうおんいぎごがくべつしづらくなることで、
ただでさえあいまいなにほんごがさらにあいまいになり、
ほうりつやろんぶんなどのげんみつせいのひつようなぶんしょうが、
ひじょうにわかりづらくなってしまいます。
がいらいごにおきかえるといっても、にほんごてきなかんせいのめんで、
それにもげんどがあるようにおもえます。
そもそも、こくさいせいゆたかなもじとはなんなのか。
ひらがなはにほんげんていだから、えいごのあるふぁべっとですかね。
げんごごとにきょうつうめんはあれど、
ちがうもじをさいようしていますから、
もじにこくさいせいをもとめることじたいがまちがいです。
それにこくさいごとしてのかのうせいをうしなうとありますが、
そもそもげんごはいっていのしゅうだんのなかでつうじればいいのであって、
わざわざこくさいごにするひつうようせいもありません。
そもそも、にほんごがかんじをはぶいてもぶんぽうがむずかしいので、
こくさいごになることは、ほぼないといっていいでしょう。
それに、よくこくさいかっていうことばがつかわれるけど、
ほんとうのこくさいかってぶんかのたようせいをおたがいにみとめあうこと、
なのではないでしょうか。
とするならば、にほんはにほんでどくじのぶんかをだいじにまもりつつ、
あいてとのそうごりかいをはかることこそじゅうようなのではないかとおもいます。
はいしするのはかんたんですが、それをまちがえたとふっかつさせるのは、
ひじょうにおおきなろうりょくがかかり、ほぼふかのうです。
かんこくも、「みんぞくのぶんかをだいじにしよう」ということで、
かんじをつかわず、はんぐるをもっぱらつかうようになったのですが
やっぱりふべんだから、ということで、かんじをふっかつさせようという
うごきもあるみたいです。でも、やっぱりなかなかすすんでないみたいですね。
そんなわけで、わたしはかんじはいしろんにはんたいです。

非常に読みづらいでしょう。
自分で読み返すのも面倒です。
簡単なものでさえ、これなのですから
新聞や雑誌が全部かなになったら、と考えると
やはり漢字は廃止するものではないと思います。
漢字は覚えてしまえばそれまでですが、
全てかなにしてしまうと、文章を読むたびに推定しなければなりません。
長い目で見ると、漢字はそのままにしておいたほうが、効率的です。


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