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日本の大学だと、7万人くらい教授はいるけどノーベル賞取った人はひとりもいない。日本の大学教授は「3日やったら辞められない
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/425.html
投稿者 TORA 日時 2010 年 9 月 12 日 08:42:24: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu223.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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日本の大学だと、7万人くらい教授はいるけど、ノーベル賞取った
人はひとりもいない。日本の大学教授は「3日やったら辞められない」

2010年9月11日 土曜日

日本の大学教授は研究論文よりコネでなる


◆大学に行くなら本気で勉強を。川成 洋 さん(法政大学教授) MAMMO.TV
http://www.mammo.tv/interview/archives/no023.html

ーー大学の現状を赤裸々に述べた『大学崩壊!』は10万部売れました。反響はどうですか。

周囲の反応?「おもしろかったよ」とみんな言うね。あの本を内部告発だと思っている人もいるけど、本当のことを言っただけ。「大学教授にはバカが多すぎる」とね。当たり前のことを書いただけだから、それに思い当たる後ろ暗い連中は正面切って何も言わない。

あの本の最後の頁に僕は自分の120冊あまりの著作リストを載せているんだが、あれは「文句があるんならこれくらい仕事してから言いなさいよ」という意味だ。大学教授は仕事してはじめて教授と言えるものですよ。

ーー仕事をせずに教授になれる仕組みとは驚きました。

原因は徒弟制だね。例えば、新しく教員を採用するのに採用試験はしないんだね。一般の民間企業のような採用試験がまったくない。あるポストが空いたときに、知り合いで埋めてしまう。当然、採用した人間と採用された人間の子弟関係が、もっと言えば正確には親分子分の関係、いやヤクザのような関係が生まれる。そういうドロドロした人間関係があるんだ。

ーーそうした採用をチェックする機関がないのですか。

まったくないね。大学の教員採用制度がそういうふうになっているのも多少は仕方ないところもある。もし、あなたが物理学の教員だとして、物理学研究室に採用されたとする。そこがいやになったからといって「明日から英語の研究室に行きたい」と言うわけにはいかない。制度に流動性がないから、いまの大学教員は淀むしかない状態になっている。
国立大学につとめている人はいやがっているが、国立大学が独立行政法人化(注1)されれば、競争原理が働くようになる。大学間の競争だけでなく、大学内の教官同士も競争することになってくるから、流動性も少しは高まってくるだろう。

ーーそうしたことは日本の大学に特殊な現象ですか。

僕はケンブリッジ大学に客員研修員として留学したことが2回あって、その経験からいうと、ある教授ポストが空いたら、他の大学からそのポストを狙って何人か立候補する。そこで論文の数や中身の審査が行われる。

ケンブリッジだと1校で、49人ほどのノーベル賞受賞者が教授として在籍している。日本の大学だと全国に600校あって、7万人くらい教授はいるけど、ノーベル賞取った人はひとりもいない。これが競争社会にいる教授とそうでない生ぬるい環境との違い。日本の大学教授は「3日やったら辞められない」と言われている。

ーー大学生の学力低下が指摘されていますが、そうしたことを実感されていますか。

勉強をするしないよりも、勉強ができないんだ!いま早稲田大学も慶應大学も5割近くは無試験で学生を入れている。文部省は推薦枠は3割だと言っているが、実際は5割はいるね。

あなたね、英語の辞典ひかせたらひけないんですよ。アルファベットの順番がわからないんだもの。全員ではないけど、そういう人も確実にいる。ここ(法政大学)は世間的には東京六大学のひとつとして名は通っているけど、その程度なんです。

分数の計算ができない東大、京大の文学部1年生。少数の計算ができない慶應、早稲田大学の経済学部1年生の例が報告されたことがあるけど、日本を代表する大学がそうしたありさまですよ。

大学の講義で必要な知識が何もないのだから講義が成立しない。だから高等学校の先生に来てもらって補習授業をする大学まである。国立大学の6割が補習授業の必要があると言われている。大学教授も学生も、どちらも崩壊している。

◆日本の学生の就職「超」氷河期は永久に続く - 藤沢数希 9月9日 金融日記
http://news.livedoor.com/article/detail/4997809/

一昔前は一流大学に入学しさえすればそれなりの企業に就職できたし、大学での勉強はあまり重要ではなかった。しかしここ数年の間に出口の部分が大きく変わった。知的能力に乏しい日本の学生に、日本の企業は突然のようにノーを突きつけるようになったのだ。この傾向は今後も変わらないだろうし、アジアの学生との競争はますますはげしくなっていくだろう。また日本の大企業は海外採用を増やし、外国人を上手く組織に組み込むノウハウを蓄積していくだろう。要するに、日本の学生の就職氷河期というのは景気の悪化による一時的なものではなく、今後も恒常的に続いていくものなのだ。日本の学生の就職「超」氷河期は終わらないのだ。

しかし長い目で見れば、日本の学生が就職できないというのは日本にとっていいことかもしれない。大学教育の出口の部分が変わったことによって、大学生が知的訓練を積むことにより真剣になるし、大学側もよりよい教育機会を提供するという競争にさらされるからだ。そういう意味で今の大学教育は今後の大きな変化の前の過渡期なのかもしれない。筆者は日本の大学教育がよい方向に変わっていくことを切に願っている。


(私のコメント)
マスコミ報道では大学生で就職できない人が2割もいると言う事ですが、以前の株式日記でも書いたように、就職できないのは確かに大学は卒業はしても大学生としての能力が備わっていないからだろう。今の企業は即戦力を求めているから、新卒で採用して社内で教育しなおすゆとりがなくなって来ている。

企業側も韓国や中国企業の追い上げを受けているから、本当に能力がある大学生なら引っ張りだこのはずだ。しかし大学三年になると就職活動に追われて勉強もそぞろと言うのでは大学に入った意味がない。私が大学にいた頃も大学はレジャーランド化して、アルバイトする学生と遊んでいる学生ばかりで教室はいつもガラガラだった。

それでも試験時期になると友達からノートを借りてヤマを教えてもらえれば楽に合格点が取れた。大学教授の講義も退屈そのもので、教室がガラガラになるのも無理は無く、大学は学問の墓場になってしまっている。大学は勉強したい人が行くべき所であり、学歴をつけて会社に就職するための就職施設ではない。

今年は大卒でも二割の人が就職できなかったそうですが、これは会社が採用を絞っていると言うよりも年々大卒者が増え続けているからだろう。2010年には大卒者は33万人なりましたが60年代は10万人だった。少子化で子供の数が減っているのに大学生は三倍にも増えている。

最近では大学が増えすぎて学生を集めるのに苦労している大学が多くなり、早稲田や慶応といった名門大学でも学生を確保する為に5割近くが無試験で入学している。これでは日本の大学生のレベルも落ちる訳ですが、アルファベットの順番も分からない分数計算も出来ない大学生では企業も採用しないのはあたりまえだ。

本来なら中卒や高卒で就職していた学生が大学に無試験で入ってくる。これでは大学レベルの講義も成り立たないのは想像ができますが、さらにゆとり教育の弊害が今になって大学生の就職にも影響しているのだろう。法政大学の川成教授が書いているように日本の大学は既に崩壊している。

大学自身のレベルも、大学教授がコネと人脈でなれるのだから大学教授のレベルも知れたものだ。日本には7万人も大学教授がいるのにノーベル賞学者は一人もいない。20年間一つも研究論文を書かない大学教授もいるくらいで、大学教授を三日やったら辞められないだろう。そんな大学に入っても時間の無駄であり学費の無駄だ。

少子化なのに大学が増えたのは文部省官僚の天下り先でもあり、エリート官僚の天下り先として大学教授はおいしいイスだ。研究論文も書いていないのに官僚が大学教授になれるのはコネがあればなれるからだ。こんな大学教授に高い授業料を払って学ぶ学生も気の毒ですが、これでは日本の企業も大学生を見限るのも当たり前だろう。

私自身は大学は古典を学ぶ為に行くところだと考えています。社会人になると古典を学ぶ事は時間的に環境的に難しい。しかし高校生には古典は難しすぎる。大学生はどれだけ古典から学んだかが真価を問われるのですが、現代の大学生は本すら満足に読まない。私自身は法学部の学生でしたが、西洋の古典ではマキャベリの「君主論」「政略論」や中国古典の「老子」「荘子」や日本の古典では「徒然草」「葉隠」などを読みふけった。だから株式日記のバックボーンにはこれらの古典が思想の柱になっている。

他にも古典は読んだのですが、社会人になって読んでおいて良かったと思えるのはこれらであったと言う事です。グローバル時代に入って海外のエリートとも話し合う機会も増えると思うのですが、会話の中に古典の文章を挟み込むことで知的レベルが計られる。コロンビア大学では二年生の教養課程で次のような必須科目が組まれています。


◆[紐育滞在記]コロンビア大学のコア・カリキュラム 2010年2月5日 Family Affair
http://d.hatena.ne.jp/adawho/20100205/p1

ざっと見ただけでもプラトン『国家』、アリストテレス『ニコマコス倫理学』、『政治学』、聖書(旧約、新約)、アウグスティヌス『神の国』、コーラン、マキャヴェリ『君主論』、『政略論』、デカルト『省察』、ホッブス『リヴァイアサン』、ロック『統治二論』。これが前期の課題図書。

ちなみに後期の課題図書は以下の通り。ルソー『社会契約論』、『人間不平等起原論』、スミス『国富論』、ヒューム『道徳原理研究』、カント『道徳形而上学原論』、アメリカ独立革命関連文書、フランス革命関連文書、バーク『フランス革命の省察』、ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』、トクヴィル『アメリカの民主主義』、ヘーゲル『歴史哲学講義』、ミル『自由論』、マルクス、ダーウィン『種の起原』、ニーチェ『道徳の系譜』、デュボイス『黒人のたましい』、フロイト『精神分析入門』、ウルフ『三ギニー』。

これが二年生の必修科目だ。しかも本当に驚くのは、この科目は学部、専攻を問わず全員が履修することになっている。もう一度繰り返すぞ。これ、文系理系を問わず学部の二年生全員が同じシラバスに沿って履修する科目である。

いろんな意味ですごくないか。日本の大学に務める身として、これは心の底から驚いた。もちろん、とくに人文学を専門とする立場からすれば、こんな時代錯誤にみえるカリキュラムが21世紀にも入って残っていることに単純に驚くし、もっといえば素直にうらやましいとも思う。


(私のコメント)
日本の政治家やビジネスエリートたちが、欧米のエリートの前で会話が出来なくなってしまうのは、英語がどうこうと言うよりも共通の知識とも言うべき古典の知識がないからだろう。もちろん古典は本を一度読んでレポートを書いたぐらいでは身に付かないのであり、社会人になって思い悩みながら古典を読み直すことに意味がある。

 

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