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聖徳太子廟の謎:当初は三骨一廟ではなかった!
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投稿者 忍 日時 2010 年 12 月 22 日 17:26:29: wSkXaMWcMRZGI
 

聖徳太子廟の謎:当初は三骨一廟ではなかった!

叡福寺境内にある聖徳太子廟

大阪市立美術館で開催中の特別展「聖徳太子 ゆかりの名宝」

特別展のチラシ
■ 現在、大阪市の天王寺公園内にある大阪市立美術館では、6月8日までの会期で「聖徳太子 ゆかりの名宝」と題する特別展が開催されている。叡福寺(えいふくじ)の聖徳太子絵伝の修復が完成したことを記念して、河内三太子(叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺)が所蔵する聖徳太子ゆかりの名宝を特別展示している。

■ 展示の中心は修復が終わった叡福寺の聖徳太子絵伝である。この絵伝は、江戸時代に追加された第八幅を除く残り七幅が、南北朝〜室町時代に制作された大掛け軸だ。本年この太子絵伝の本格的な修復が完成し、当時の鮮明な色彩が約500年ぶりに蘇った。特別展では、叡福寺以外の斑鳩寺、法隆寺、四天王寺、大聖勝軍寺、談山神社などが所蔵する太子絵伝も、一堂に集めて展示されており圧巻だ。

■ 太子絵伝とは、聖徳太子の生い立ちを説話化し、絵画の形式で表現したもので、古くは奈良時代に四天王寺の絵堂の壁などに描かれていた。現存するものでは、法隆寺の絵殿に所蔵されていた障子絵がもっとも古く、平安時代の延久元年(1069)に摂津国の絵師秦致貞(はたのちてい)が58場面を描いたものとされている(後に屏風形式に改装され、現在は東京国立博物館に所蔵されている)。それ以降、太子絵伝は中世、近世を通して連綿として描かれ続けてきた。

■ 現存するほとんどの太子絵伝は、太子に関する説話、奇瑞の話、神仙譚などを集大成して太子伝の決定版ともいうべき『聖徳太子伝暦』(10世紀前半成立、作者不詳)に基づいて、太子の伝記を描いている。しかも、信者が理解しやすいように、絵解きの形で描き、掛け軸の形を取っている。伝記の絵解きであるからには、太子の事績を年代順に描けばよいものを、なぜかそうはなっていない。年代とは無関係に出来事の四季によって描き分けている。そのため掛け軸の数は四幅のものが多い。叡福寺所蔵の太子絵伝は八幅で構成されている。


叡福寺所蔵聖徳太子絵伝第1幅
■ 巨大な掛け軸の前に立つと、日本人が聖徳太子に対して抱き続けた畏敬の念の強さや深さがヒシヒシと感じられる。聖徳太子は決して宗教家ではなかった。だが、平安仏教を開いた最澄や空海も、あるいは鎌倉仏教の親鸞をはじめとする各宗派の創始者たちも、太子を日本仏教の祖として仰いだ。いわんや一般の国民をや、である。

■ 『聖徳太子伝暦』は聖徳太子49年の生涯を歴史的事実で綴ったものではない。その大部分は奈良時代から平安時代にかけて、太子信仰の高まりとともに付加された事績である。そのため、歴史的存在としての聖徳太子と宗教的存在の聖徳太子との乖離は大きい。だが、信仰の世界では、そのような乖離はどうでもよいことなのだろう。太子は日本仏教の偉大な先駆者であり、誰にでも慕われ続ける聖人でなければならないのだ。

■ この特別展では太子絵伝だけでなく、聖徳太子御廟と叡福寺の歴史を物語る品々や、河内三太子と太子信仰の遺宝や名宝も展示されている。河内三太子とは、上に示した太子ゆかりの名刹で、太子町にある叡福寺、羽曳野市にある野中寺(やちゅうじ)、八尾市にある大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)を指す。聖徳太子創建の四天王寺を振出しに太子信仰で太子寺巡礼が盛んになると、これらの寺は親しみを込めてそれぞれ「上の太子」、「中の太子」、「下の太子」と呼ばれるようになった。

■ 河内三太子の宝物の中では、叡福寺所蔵の木造・南無仏太子像(鎌倉時代)、野中寺の丙寅年(666年)の銘がある野中寺所蔵の金銅製弥勒菩薩半跏像、それに大聖勝軍寺所蔵の平安後期から鎌倉時代に作られたと推定されている木造の四天王立像が、特に人目を引いた。

太子信仰の高まりが生んだ河内三太子巡礼

河内三太子の所在地
■ 浄土真宗の開祖・親鸞が聖徳太子に傾倒していたことはよく知られている。太子を「和国の教主」と称し、夢殿の本尊救世観音の示現とみるなど、太子に対する思いは人並みではなかった。親鸞は、釈迦入滅後1500年で末法に入るとする立場をとり、1521年後に生まれた聖徳太子を末法の世の教主と想定していたためだという。

■ 聖徳太子を日本仏教の祖と仰ぐ傾向は、我が国の仏教の諸宗派に共通して見られる。平安時代に天台宗を開いた最澄は、四天王寺にあった太子廟で記した詞序で、聖徳太子は中国の南岳慧思大師の後身であると述べ、己自身を聖徳太子の玄孫と名乗っている。最澄とともに入唐し、真言宗を開いた空海も、四天王寺に参詣しており、聖徳太子=慧思大師後身説をとっていた。

■ こうした太子信仰は、片岡飢人伝説や高句麗僧・慧慈(えじ)の死など720年に編纂された『日本書紀』の中でもすでに見られる。奈良時代中期の天平年間には太子信仰が高まりを見せ、平安時代になると、さまざまな太子関係の伝記が執筆されて太子の人格が脚色されていった。

■ そうした太子信仰の具体的な姿を、「河内三太子」巡礼に見ることができる。河内三太子とは、聖徳太子ゆかりの名刹である叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺に対する俗称である。叡福寺の「上の太子」、野中寺を「中の太子」、大聖勝軍寺の「下の太子」と呼び、四天王寺を振り出しに下・中・上の太子寺に参る巡礼が近世になって盛んに行われた。その巡礼の対象とされた太子ゆかりの寺の概要を以下に整理しておく。


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 聖徳太子の命日に舞楽大法要が奉納される四天王寺

西門からみた四天王寺中心伽藍
■ JR・地下鉄天王寺駅や近鉄あべの橋駅から谷町筋沿いに北に向かって徒歩約15分で、「四天王寺前」交差点にでる。交差点を直角に右折すれば、石の鳥居があり、その先に四天王寺の西大門がある(所在:大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18)。

■ 『日本書紀』によれば、 西暦587年に勃発した「丁未(ていび)の変」で、蘇我側の皇族として参戦した聖徳太子が四天王に戦勝を誓願し、その結果、蘇我軍が戦いに勝利したので、四天王の加護に感謝してこの寺を建立したという。『日本書紀』は、物部守屋との戦いから5年後の推古元年(593)に、”この年、始めて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造る”と伝えている。四天王寺は、中門・五重塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ四天王寺様式の代表的な寺院だった。


石舞台で披露される聖霊会の舞楽
■ 『日本書紀』は、四天王寺の開祖とされる聖徳太子が、推古天皇29年(622)春2月5日に亡くなった、と記す。だが、天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)や法隆寺金堂の釈迦像、法起寺塔婆露盤などに刻まれた銘は、いずれも太子の薨日を翌年の2月22日と伝えている。 そこで、四天王寺は新暦の4月22日を太子の命日とさだめ、聖霊会(しょうりょうえ)と呼ばれる舞楽大法要を毎年開催している。

■ 聖霊会は、太子の霊を慰めるために、日本三舞台の一つとされる石舞台で披露される法要と舞楽が一体となった舞楽法要である。この舞楽法要は、平安時代以降、宮廷(京都)、南都(奈良)と同じく四天王寺の雅楽の伝承を受け継ぎ守ってきた「天王寺楽所雅亮会(がりょうかい)」の協力によって行われている。


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 「下の太子」:神妙椋樹山大聖勝軍寺

大聖勝軍寺の正面
■ 「下の太子」と呼ばれる椋樹山大聖勝軍寺は、JR関西線の八尾駅から南西へ徒歩で約6分のところにある(所在:大阪府八尾市太子堂3-3-16)。この付近はかって渋川の阿刀と呼ばれ、我が国の仏教創生期に、仏教の導入に反対したと伝えられる物部守屋の別宅があったところとされている。

■ 西暦587年、この地で「丁未(ていび)の変」と呼ばれる蘇我・物部戦争が起こり、古代の有族だった物部本宗家が滅亡に追いやられた。当時数え年で14歳だった聖徳太子は、蘇我軍に加わってこの戦いに参戦していたという。

■ 味方が苦戦しているのを見て、太子は白膠木(ぬりで)で四天王の像を作り、頂髪に安置して戦勝を誓願した。四天王は仏法を帰依する人々を守護する護法神である。太子の誓願が効いたのか蘇我軍が勝利することができた。


木造・聖徳太子孝養立像
■ そこで、太子は四天王の加護に感謝して、上記のように難波の高台に日本仏教最初の四天王寺を建立した。さらに、この渋川に勝軍寺を創建して、自身十六歳の植髪(うえがみ)の太子像と四天王像を安置したという。

■ 本堂の太子殿には、太子植髪像を安置し、その脇に弓矢を持つ四天王像を祀っている。これは4人の関係者をおのおの四天王になぞらえたもので、右から持国天(蘇我馬子、そがのうまこ)、多聞天(秦河勝、はたのかわかつ)、広目天(迹見赤檮、とみのいちい)、増長天(小野妹子、おののいもこ)の四体となっている。

■ 今回の展覧会では、大聖勝軍寺の宝物として、聖徳太子絵伝の他に、木造の聖徳太子孝養立像と二皇子立像、四天王立像などが出展されていた。


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 「中の太子」:青龍山野中寺

野中寺の山門
■ 「中の太子」の名で親しまれている青龍山野中寺は、近鉄南大阪線の「藤井寺」駅の南およそ1.5キロのところにあり、その山門は府道31号線(堺・羽曳野線)の「野中寺」交差点の脇に建っている(所在:大阪府羽曳野市野々上5-9-24)。古代の官道であった丹比道(たじひみち、後の竹内街道)はこの寺の北辺を通っていた。

■ 寺伝は、聖徳太子の命により蘇我馬子がこの寺を造営したと伝えている。だが、考古学的知見では、境内出土の瓦から創建は7世紀後半とされている。 この付近は渡来氏族の船氏の本拠地であり、野中寺は船氏の氏寺であった可能性が高い。


金銅弥勒菩薩半跏思惟像
■ 野中寺は何度も火災にあっている。寺域には創建時の伽藍跡の土壇や礎石の列が残っていて、創建野中寺は東に金堂、西に塔を配置する法隆寺式の伽藍配置だったことが判明している。金堂跡や塔跡の他にも、中門跡・講堂跡・回廊跡にも多くの礎石が現在も存留しており、現在は国の史跡指定を受けて保存されている。

■ 古代史フアンの間で野中寺の名前を有名にしているのは、白鳳期の金銅弥勒菩薩半跏思惟像が安置されているためであろう。この菩薩像の台座丸框(まるかまち)には61文字の造像銘が刻まれていて、その中に制作年を「丙寅(ひのえとら)」と明記してある。美術史家は、仏像の様式から丙寅は天智天皇5年(666)であるとし、この仏像を白鳳美術の基準作品としてきた。国の重要文化財にも指定されている。 今回の特別展でも、この像が出展されていた。

■ ところが、この像の制作年代に関する衝撃的な論文が、奈良大学の東野治之氏によって2000年に発表された。氏によれば、この半跏思惟像は後世の贋作であり、しかも制作されたのは1918年(大正7)であるという。まさに青天の霹靂にも似た説であるが、制作年が余りに突飛なせいか、東野説に対する賛成論も反対論も余り話題にならない。


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 「上の太子」:叡福寺
■ 「上の太子」磯長山聖霊院叡福寺は、大阪府南河内郡太子町太子2146に所在する。この地には、古代における最も重要な官道の1つだった竹内街道が通っている。叡福寺は飛鳥と難波を東西に結ぶこの竹内街道沿いに建ち、太子ゆかりの四天王寺と法隆寺の中間に位置する。


叡福寺

聖徳太子廟
■ 叡福寺の境内北側には、磯長山の丘陵を利用した円墳がある。墳丘の高さは7.2m、直径は54.3m、内部は横穴式石室を持つ古墳で、考古学では「叡福寺北古墳」と呼んでいる聖徳太子廟である。 寺伝では、聖徳太子は生前にこの地に廟を造ることに決め、推古28年(620)に墓所を造営したとされる。

■ この御廟は、「三骨一廟」と呼ばれてきた。三人の棺がこの御廟に納められているためである。墓所が完成した翌年の推古29年(621)、聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女が逝去されたのでこの墓に埋葬した。更に推古30年(622)2月21日、妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)が亡くなり、翌日には、太子も薨去されたので、大后の眠る廟に二人を合葬したとされている。

■ 寺伝によれば、聖徳太子と妃の膳部大郎女、母の穴穂部間人皇女の三人をこの廟に合葬したとき、推古天皇より方六町の地を賜り、御廟守護のために僧坊十姻(墓守の家10軒)を建てたのが、寺の始まりであるという。そして、聖徳太子の追福のために聖武天皇の勅願によって、724年(神亀元)に伽藍が創建されたと伝える。

■ だが、聖武天皇が創立に関与したという記録は正史にはない。考古学的にも、境内でこれまで採集されている瓦から判断して、実際の創建は平安後期を遡らないと考えられている。

■ 日本の古代史に偉大な足跡を残した聖徳太子に対する信仰は、すでに奈良時代から認められる。鎌倉時代にも親鸞、叡尊、日蓮、一遍といった高僧が叡福寺に参詣し、以後叡福寺は四天王寺とともに、大阪における太子信仰の拠点寺院として繁栄してきた。

■ そのため、叡福寺は貴重な宝物も多数所蔵している。「聖徳太子絵伝」もその一つで、今回の展覧会は太子絵伝の修復の完成を記念して、河内三太子に伝わった宝物約120点を一堂に展観し、地元河内に花開いた太子信仰の精華を紹介している。


当初は”三骨一廟”ではなかった太子廟
■ 上に述べたように、叡福寺の北側に聖徳太子御廟があり、その石室には、太子の母の穴穂部間人(あなほべはしひと)皇女の石棺が奥にあり、手前に太子と妃の膳郎女(かしわでのいらつめ)を夾紵棺(きょうちょかん)が置かれている。そのため、聖徳太子廟はこれら三人を合葬した三骨一廟であると言われてきた。


法隆寺が「太子の日」に御廟前で行わう太子奉賛の儀式
■ 大阪府南河内郡河南町にある大阪府立「近つ飛鳥博物館」には、この三骨一廟の内部を再現した模型が、常設館を入ったところに置かれている。黒く塗られた二つの大きな夾紵棺(きょうちょかん)は、来訪者の目を引いている。

■ 寺伝によれば、聖徳太子がこの地に廟を造ることに決め、推古28年(620)に墓所を造営したといわれている。翌年、太子の生母の穴穂部間人皇后が死去したのでこの墓に葬り、更に推古30年(622年)には太子と妃の膳郎女(かしわでのいらつめ)とが同時期に亡くなり、この同じ墓に葬られたとされている。結果、廟は三骨一廟の陵墓になった。

■ 『日本書紀』は聖徳太子の薨去を次のように記している。「推古29年(621)春2月5日、夜半、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で薨去された。(中略)この月、太子を磯長(しなが)陵に葬った」。 しかし、『日本書紀』には生母の穴穂部間人皇后の死去に関する記述はない。

■ 一方、法隆寺に伝わる伝承は異なる。法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背には、次のような意味の銘文が刻まれている。「推古29年(621)12月に、穴穂部間人王后が崩じ、明年(推古30年、622)正月22日上宮法皇と膳部大郎女が病気となった。そこで、王后・王子と諸臣らが病気回復を祈って釈像尺寸王身を発願したが、2月21日に膳部大郎女が亡くなり、翌日(2月22日)法皇もなくなった。云々」


特別展図録の表紙
■ そこで、現在では『日本書紀』の記述を捨てて、法隆寺に伝わる伝承に基づいて、推古30年(622)2月22日を聖徳太子の薨日としている。わずか二ヶ月の間に生母や妃、太子がほぼ時を同じくして亡くなっていることに、伝染病死亡説、毒殺説など後世さまざまな憶説が流布している。

■ それはともかく、今まで聖徳太子御廟はてっきり三骨一廟だと思いこんでいたのに、「聖徳太子 ゆかりの名宝」を見終わって、帰りがけに購入したこの特別展の出品図録を開いて驚いた。図録の巻頭に、太子町立竹内街道歴史資料館の前館長だった上野勝巳氏の「聖徳太子廟と叡福寺の歴史」と題する論文が掲載されていて、太子廟の”三骨一廟”の実体が解明されている。上野の考察によると、古資料に記された被葬者記録を精査すると、どうも当初は聖徳太子だけが被葬者だったようだ。つまり"三骨一廟"ではなかった。

■ 上野氏によれば、古記録に記された被葬者の数には次に示すように奇妙な差異がある。
(1)10世紀前半までに作られた『日本書紀』、『上宮聖徳法王帝説』および『延喜式』では、被葬者は太子一人としている。
(2)10世紀前半に作成された太子伝の決定版『聖徳太子伝暦』(延喜17年(917)藤原兼輔が著したとする説あり)では被葬者は太子と妃の二人としている。
(3)13世紀の嘉禎4年(1238)に法隆寺の僧・顕真が著した『聖徳太子伝私記』では、被葬者は太子、妃、母の三人となっている。


宝暦5年(1755)に書写された聖徳太子廟内古図
■ すなわち、時代が下がるに従って、被葬者が次々に追加されてきているのである。しかし、聖徳太子薨去後『延喜式』まで300年の間は、太子廟は一貫して太子一人を埋葬した墓であるとされてきた。しかも、『延喜式』には母の穴穂部間人皇后の墓は「大和国平群郡にあり」と明記されているにもかかわらず、薨去後600年を経た鎌倉時代には、三人合葬が定説となっている。

■ 太子廟の被葬者が三人ならば、今まで天皇陵治定の根拠とされてきた『日本書紀』や『延喜式』の陵墓記が、『聖徳太子伝私記』にも劣る信憑性が乏しいものとなる。こうした点に疑問を抱かれた上野氏は古記録を丹念に調べられた。

■ その結果、平安時代から鎌倉時代にかけて太子信仰が隆盛する中で、御廟周辺で各種太子伝によって廟前寺院の建立、参詣者獲得、太子の権威付けなど、廟と寺の発展を意図した操作が次々と行われていたことが分かった。こうした操作は廟内にも及んでいたようだ。

■ 『聖徳太子伝私記』によれば、正暦5年(994)に忠禅という者が廟内に入って「不可思議な作法」を行ったという。不可思議な作法とは何を指すのか不明だが、その検分に入った法隆寺の僧・康仁は2つの棺があったのを見たという。それまで太子廟の被葬者が太子一人とされていた中で、『伝暦』は太子と妃の二人としている。正暦5年は『聖徳太子伝暦』成立の直後であることを勘案すれば、このころに棺が一つ追加された可能性がある。

■ さらに、『聖徳太子伝私記』は元久年中(1204 - 06)にも廟前寺院住僧が廟内に侵入したことを記録していて、この頃にも3棺化の操作が行われたことを伺わせている。こうした記録から、遅くとも平安中期以降の太子廟は単なる陵墓ではなく、太子信仰が隆盛する時流の中で”聖地霊場”とされて高僧などが参籠したり寺僧が入廟していた様子を伺うことができる。

■ 聖徳太子建立と伝えられる寺院の数は、8世紀の『上宮聖徳法王帝説』で7寺、10世紀の『聖徳太子伝暦』で11寺、13世紀の『聖徳太子伝私記』で46寺と激増している。つまり、聖徳太子の神格化は奈良時代から平安時代にかけて加速され、鎌倉時代にその頂点に達している。その太子信仰が隆盛する時流の中で、聖地霊場と化した太子廟でも二棺化、三棺化操作の「不可思議な作法」が行われたようだ。

■ このことは、聖徳太子薨去から300年間『日本書紀』は『延喜式』などが一貫して示す通り、太子一人を葬る単葬墓だったことを逆に証明している、と上野氏は結論づけておられる。

聖徳太子廟の謎:当初は三骨一廟ではなかった!
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_06_05.htm

「コメント」:なぜ、これを書いたかというと、今度の新書である中丸薫氏の本に、聖徳太子の死亡に関し、更に蘇我入鹿が、山背大兄皇子暗殺同時に斑鳩の宮を焼いた内容を如何にも馬子が行った内容のように印象を与え、蝦夷が、この息子が犯した犯罪に一番嘆いたのである。自分の一族が滅びると。嘘を説かないように。馬子は、自分のお墓に、聖徳太子は、自分よりも偉いと子孫に遺言を残している。前にも言ったが聖徳太子は、この悲劇を予言したのである。なぜならば、蝦夷の妻に、中臣鎌足の娘がいた。そして、それが仏教を入れた時に、蘇我氏に対して反乱を犯した人である(中臣家と後もう一つの家)と
。そして蘇我一族が、武内家の子孫であり、武内文書を残した一族である。熱烈な天皇家中心の家であるが。
 どうも、毒殺説も受け入れているから、どうもダビデ側に魂を売った元東京の集いの主宰に洗脳されているみたい。彼はユダヤ教を称えているが、真の教えは見えない。
 千乃正法の歴史は明らかに言っているが、ゼウス・アポロの教えを受け継いでいる人達であり、更にゾロアスタ・仏教を受け入れている人達の集まりである。
 エルランティ様は、ユダヤ教を関与したのは、ダビデがダビデ王でやった内容を正しい方向に導こうとソロモン王に関与した時だけであるが。しかし、ユダヤ人は、ソロモン王については余り評価していない。基本的にはギリシャ、ペルシャ、日本等ムー王国関係が強い所に関与していて、ユダヤ一族は余り関与していない。
 これも前に書いたが、オシリスを暗殺した弟のセトの子孫で、基本的に余り評価しない一族でしょう。ダビデが一番関与し、そして、エジプトを乱した。ダビデの予言の通りにエジプト王を唆して奴隷したのである。何度もいうが神は予言を起こして悪の方向に導き、そして正義の人が現れる自作自演の内容を行うわけはない。それよりもアブラハムの子孫の悪については何も述べない所に問題がある。聖書でもう一度、「エジプト王家の10戒」(モーセの10戒)に照らして読み直したら、その悪が目に付くでしょう。そういう批判は、日本は仏教と等が中心に教えている。
 何故に、仏典である「聖徳太子伝暦」の一生の歴史を無視するだろうか。そして、今、百済ゆかり王宮寺も発掘されている。この系列は、正しい法灯の系列である。
 そこには、毒殺ではなく、神の召還による死を描かれているだけの話である。
 つまり、千乃先生と同じ方向で動いただけである。「千乃先生の死が毒殺」と
言っているようなものである。鞍馬天狗やエルランティ様に守護されている中丸馨氏
道を誤ると、死を招くよ。  

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