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日本以外の国では、英語ができなければよい教科書が読めないし、医者にも看護師にも臨床検査技師にもなれない
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/471.html
投稿者 TORA 日時 2011 年 1 月 25 日 14:30:35: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu232.html
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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日本以外の国では、英語(最低、ヨーロッパ系言語)ができなければよい
教科書が読めないし、医者にも看護師にも臨床検査技師にもなれない。

2011年1月25日

◆医学用語の解剖学 堤 ェ
http://pathy.fujita-hu.ac.jp/~kimigaai/for_student/medical-terminology.html

病理診断報告書は日本語で書くべきか?

 筆者は習慣的にすべての病理報告書を英語で記述している。理由はつぎの通りだ。
@毎日のように同じような言い回しを使うので、英語に対する違和感がない。
A日本語は漢字変換が必須であり、とくに医学用語の変換には専用辞書が必要となるが、英語ならその手間はいらない。大量の報告書を手書きすることは望ましくないし、読みとれない字が多くなるのはカルテの場合と同じである。
B病院のコンピュータシステムに医学用語に関する日本語辞書機能がついていないことが多い。

以前、患者さんへのがんの告知が例外的だったころは、最終診断たる病理診断は患者さんになるべく"わかりにくい"形で書くことが求められていた。そのため、臨床医が記載する臨床診断の項目には略号が多かった。MKは胃がん、LKは肺がん、CKは大腸がん、PKKは膵頭部がん、MMKは乳がんといったぐあいだ(いずれもドイツ語の頭文字)。そう、最近ドイツ語ははやらない。医学部でドイツ語を習わなくてもよくなって久しい。病棟に生き残るドイツ語はとても断片的だ。"ステる"とはドイツ語のシュテルベンの略で、「死ぬ」の業界用語で、「捨てる」ではない。

 病理診断報告書の添付ががん保険の支払いに必要になり、がんの告知が普及してきた現在では、患者さんになるべく"わかりやすい"ことばで報告書を記述することが求められている(この意味でも、ドイツ語の衰退に拍車がかけられている)。その証拠に、多くの病院で、病理報告書の所見欄が日本語で記載されるようになりつつある(ただし、診断病名のみは英語で記述されることが多い)。

 ところで、医療情報の国際化は否応なしにどんどん進んでいる。わが国における英語の公用語化や医師の国際免許が取り沙汰される昨今、英語を捨てて日本語に回帰するドメスティックな方向性は、少なくとも医学教育の立場からは望ましくない。筆者はこれでも、医学教育にはだれより熱心なつもりだ。

 ヨーロッパ連合(EU)では、医師免許をはじめとする諸種の国家資格が共有化されようとしている。そこでは英語が共通言語だ。この国家の壁を乗り越えたヨーロッパの歴史的で壮大な試みを無視してよかろうはずがない。医学生に限らず、わが国の大学生は皆、日本語の教科書だけで学問ができる。その例外性に多くの人は気づいていない。

日本以外の国では、英語(最低、ヨーロッパ系言語)ができなければよい教科書が読めないし、医者にも看護師にも臨床検査技師にもなれない。日本語は漢字のおかげで、外来語を簡単に母国語化するすばらしい能力を有していることを再確認したい。タイ語やスワヒリ語では医学用語の大部分が表現できない。韓国でも、医学生は英語でばかり勉強して、ちっともハングルで勉強してくれないと多くの教員が嘆いている。

 さて、目の前の患者さんのために日本語をとるか、将来の日本の社会ために英語をとるか。どちらも大切なのだが、さて、読者の皆さんの判断やいかに。


◆韓国経済、ハングルに変えた医学用語を漢字に戻す 4年で再見直 1月19日 ジンボルト
http://ameblo.jp/dol-souraku/entry-10773078485.html

ハングルに変えた医学用語、漢字が復活 | Chosun Online | 朝鮮日報

4年前に漢字語ではなく韓国語の固有語中心に見直された医学用語が再び漢字語に戻された。固有語に変更された「ヌンアル」「チラ」「コルムチプ」がそれぞれ「眼球」「脾臓(ひぞう)」「膿瘍(のうよう)」に戻されるといった具合だ。

今年1月1日に施行された韓国標準疾病死因分析(KCD)の第6次改定案では、2007年の第5次改定で固有語の名称に変更された医学用語の相当数が再び漢字語へと戻された。

特に臓器名称は大部分が漢字語に戻され、第5次改定で固有語表記となった「コンパッ」は「腎臓」、「ノプチョクタリピョ」は「大腿骨」、「ムルプ(ひざ)」は「膝」、「タンダンイプチョンジャン(硬い口の天井)は「硬口蓋」に統一された。

また、子どもがよくかかる「手足口病」も、固有語の名称を組み合わせた「ソンイプパルピョン」ではなく、漢字音の「スジョククビョン」が公式名称となった。

担当官庁である統計庁のソン・グムヨン統計基準課長は、「第5次改定で無理に固有語の単語に変えたことで、聞き慣れない単語が公式名称になるなど不都合だとの指摘があった」と背景を説明した。

第6次改定の責任者を務めたソウル医大の池堤根(チ・ジェグン)名誉教授は「大韓医師協会の医学用語集を最も重要な参考資料として、医療界で支配的に使われる名称を基準にした」と語った。

一方、医療界にある程度浸透していることが明らかなケースに関しては、漢字語が固有語に変更されたケースも多い。今回の改定では「手指」「口腔」「円孔」などが固有語に変更された。


(私のコメント)


1月7日の株式日記では、IT業界のおける専門用語の問題を書きましたが、医学業界でも事情は同じであり、EUでは医師免許をはじめとして、いろいろな国家資格が英語で統一されようとしている。最近になってフランス文化やドイツ文化の最先端科学部門における劣勢がはっきりしてきて、ドイツ人もフランス人もその他のヨーロッパ人は最先端科学部門は英語が出来ないと母国語では無理らしい。

同じアルファベットを使い、ラテン語からの派生語や、大きな影響を受けた同じ文化圏の言葉だから、専門用語はいちいち翻訳するよりも英語をそのまま使ったほうが手っ取り早いのでしょう。もはやフランス語やドイツ語はローカル言語であり、英語でないと最先端科学分野の学問は出来なくなっている。だからドイツ人やフランス人のお医者さんは英語が堪能なのは国家資格が英語で行われるからだろう。

アジア、アフリカ、中南米諸国の医学生は英語ができなくては最先端医療が学ぶことが出来ないし、多くの留学生を欧米に送り込んで学ばせている。タイ語やスワヒリ語では専門用語が翻訳できないからだ。2010年9月7日の株式日記ではスウェーデンの化学や文化の事を書きましたが、スウェーデン語と英語の二重言語生活を強いられる結果をもたらしている。他のヨーロッパ諸国も大なり小なり同じだろう。英語を学ばなければ最先端科学について行けない。

中国や韓国が大量の留学生をアメリカに送り込んでいるのも同じ理由によるものだろう。まさに英語帝国主義の大勝利であり、英語がグローバルスタンダード言語となり、非英語国では二重言語生活を余儀なくされている。その反面では英米人は外国語を学ぶ必要が無く、その時間を科学分野の研究に割り当てることが出来る。英語で国家試験が行われるようになると言うことは、それだけ非英語国民は負担を強いられることになる。

スウェーデンにおいても、スウェーデン語で書かれた文章と、英語で書かれた文章を読ませて、理解力を比べてみたら25%も英語で読んだグループは劣っていた。つまり国際競争力においてもアメリカイギリスといった英語を母国語とする国民が圧倒的に有利になり、スウェーデンなどのヨーロッパの小国は言葉も文化もやがては失われていくのだろう。アイルランドもかつてはアイルランド語を話していましたが、今では英語が国語となりアイルランド語は文化財として残っている程度だ。

IT用語や金融用語や医学用語などは英語が共通語となり、日本も例外ではない。医学論文なども英語で書かれる様になり、カルテもかつてはドイツ語で書かれていたが、今は使われなくなり病名などのその名残が残る程度になっている。かつては武力が帝国の力の象徴になっていましたが、現代では言語が帝国の象徴となり、非英語国では二重言語生活を余儀なくされて、25%ものハンデを背負っているようなものだ。

日本でも学校教育において英語教育に非常に多くの時間が費やされるようになりましたが、まったくその成果は上がっていない。その理由は英語を学んでも使う機会が国内にいる限りは無く、大学教育も医学や金融やIT分野でも教育は日本語で行われている。かえってハリウッド映画なども日本語吹き替えが多くなり、それだけ英語理解力が落ちてきている。

最近ではアメリカへの留学生も減ってしまって、ハーバードへは数人しか留学生はいなくなりました。もし本当に英語を学ばなければ最高レベルの学問が身につかないのであれば、吉田松陰などのように密航してでも海外留学する人がいるはずだ。それだけ留学意欲が低下したのか、それともアメリカに留学してもメリットがなくなったかのどちらかだろう。

韓国では医学用語のハングル化が進んでいましたが、漢字語に戻されるというニュースがありましたが、専門用語をハングルに翻訳すると意味を理解しにくくなるらしい。無理やりハングルに翻訳すると意味が不明解になってしまう。ハングルのみならず多くの非英語国はこのような問題を抱えてしまうから、英語で大学の授業が行われるようになる。ところが日本人はそれを自覚できない。多くの専門書も翻訳されて大型書店に行っても洋書コーナーは年々小さくなっている。

中国や韓国では、欧米の洋書が日本語に翻訳されたものが中国語や韓国語に翻訳されているものが多いらしい。たとえば中国語では時制ひとつとっても欧米言語を中国語に翻訳する時に困難を伴う。また韓国語にしても受身の表現はほとんど使わないらしい。これでは欧米の文化を翻訳するには困難を伴う。


◆中国語翻訳者のつぶやき 2009年12月10日 
http://zhongwenfanyi.blog69.fc2.com/blog-entry-21.html

中国語翻訳における一番の壁は、語句でも構文でもなく、「時制」だとわたしは思っています。

皆さんもご存知とは思いますが、英語やそのほかの欧米の言語は、「is、was、have been、will be」といった過去形、現在形、未来形、はたまた現在完了形、現在進行形などの時制が細かく分かれており、書面で見ればいつ発生したことなのかが一目でわかるようになっています。

しかし、中国語には「了、過、将」などの時制を示す字句が用意されているものの、欧米言語のように「これらを必ず使用しなければならない」というものではなく、しばしば時制を示す字句が書かれていないものがあったりするのです。加えて、「了」だけで過去形、現在完了形、過去完了形などを網羅しており、どれなのかは翻訳者の判断に任せられることになります。(中略)

「行った」のか、「行う」のか。この文だけではわかりません。しかし読み進めていくと、「欧州委員会はEU理事会に中国製の革靴に反ダンピング措置を延長するよう提案することにしている」という言葉があり、まだ提案していないことがわかります。このため上記の一文は1が正しいことがわかります。

これだけではなく他にも中国語翻訳には時制に迷う場面が日常茶飯事で出てきます。その場合冷静に前後を読み直し、一人よがりに判断するのではなく、客観的に判断するように習慣付けるようにしましょう。時制に関する間違いやすい事例はこれからも何回か紹介していきたいと思っています。

◆受身表現の無い韓国語 2008年9月17日 きらくや社長の月並みな生活
http://blog.kirakuya.jp/?eid=35709

新樹会東北セミナー(主宰渡邉五郎三郎)で拓殖大学教授呉善花先生の話を聞いた。
基本的に韓国語と日本語は言葉の順序が同じなので言葉として日本語は習得しやすいのだそうだ。

しかし、日本に永く生活すると韓国語には受身表現が無い事を知ると愕然とするとの事。

判りやすい例として『女房が逃げた』の受身表現は『私は女房に逃げられた』であるが、韓国には後者の表現が無いとの事。しかし、『女房が逃げた』と言う言い回しに対し『私は女房に逃げられた』の表現には「私が悪かったから」と言う反省のニュアンスが含まれている。
反省の国民日本人の殺人発生率は10万人あたり0.89人。韓国人の殺人発生率は10万人あたり9.45人である。 (1999年の資料)

(私のコメント)
このように語句や構文だけではなく、言語そのものに概念が無い事については翻訳の仕様が無い。あるいは文化的にかけ離れているために理解できない事や、宗教的に受け入れられないことなど翻訳の仕様が無い。日本文化には宗教的なタブーや文化的な制約が少ないから翻訳に対する制約も少ない。

英語というのは基本的に人に命令する言葉であり、ハリウッド映画などを見ても人の顔面に拳銃を突きつけて命令する場面が多い。つまり論争するときなどは都合がいいが、英語を話すと戦闘的になりすぎて、アングロサクソンのように戦争大好きな国民性になりやすい。


 

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コメント
 
01. 2011年1月26日 02:48:11: Fsz3AOg6Vo
アメリカの大学院入学はGREという共通一時みたいなのが、ほとんどの大学入学基準として使われてるが、英語と数学と英作文からなる。

で、アジア人は数学で満点近くを皆とるが、英語試験が恐ろしく難解なボキャブラリーの現地人しかできないしろもので、落ちる外国人が多い。

もし、数学だけだったら、アイビーリーグや名門はほとんどアジア人留学生だけになってしまうだろうね。

で、英語帝国の興隆とともに、経済学はもとより科学の発展も止まってしまったんじゃないか?だいたい発明のような直感は自国語でしか出てこないだろ?

アメリカの戦後の発明なんて何がある?ロケットなんてv2そのものだし、ジェット機もコンピューターもヨーロッパ人が発明した。もう、0にちかい。

ようするにアメリカは英語を武器に戦後の科学覇権(社会科学の含む)を維持してきたんだ。

まあ、本当の天才を育てたいんだったら、英語を勉強させたとしても教育は自国語ですべきだ。


02. 2011年2月15日 15:15:33: Z3io1SRMac
今の時代、医者、歯医者はいざとなれば英語を話しますよ。
普段読んでいる専門書はほとんど英語です。会話をしていないだけです。
歯医者ですら、今は外国人の講演会を聞きに行って英語で質問していますよ。
要らぬ心配は無用です。

3. 2017年4月15日 14:13:53 : DYywPXCwtM : eiD7B@qxs7k[2]
英語習得が必須な人は参考にしてください。


毎日留学ナビ

教師が教えない日本人の英語上達のポイント!

第四回:日本人がよく間違う英語表現
http://ryugaku.myedu.jp/edit/gls/gls4.html抜粋

(略)

今回は日本人が間違って使いがちな英語表現を5つ紹介します。皆さんも意外に知らずに使っていた英語表現があるかも知れませんので参考にして下さい。

●「趣味」にあたる英語は?

(例) あなたの趣味は何ですか。

 × What is your hobby?

 ○ What do you enjoy in your spare time?

 ○ How do you spend your spare time?

  (略)

●「ネイティブ」とは誰のことなのか。

(例) アメリカ人のネイティブと英語を話す機会がありますか。

 × Do you have a chance to speak English with a native American?

 ○ Do you have a chance to speak English with a native speaker of English from
the United States?

  (略)

●「サービス」=「ただ」を英語で言うと?

(例) デザートは店のサービスです。

 × The dessert is service of the restaurant.

 ○ The dessert is on the house.

  (略)

●横浜市は英語でYokohama Cityと言うのか。

(例) 私は横浜から来ました。

 × I’m from Yokohama City.

 ○ I’m from the city of Yokohama.

  (略)

●「ナイーブ」の本当の意味は?

(例) 彼女は神経質です。

 ×  She’s naive.

  ○  She’s very sensitive.

  (略)

次回は日本人が頻繁に使っている英語表現でありながら、ネイティブスピーカーはほとんど使わない言い方をいくつか紹介します。それではまた。

▼バックナンバーを読む(上記4を除く)

1.ネイティブスピーカーのメンタリティがわかれば英語はもっと上達する。
http://ryugaku.myedu.jp/edit/gls/
2.英語がうまくなる性格とは
http://ryugaku.myedu.jp/edit/gls/gls2.html
3.ネイティブスピーカーの思考方法を学ぶ
http://ryugaku.myedu.jp/edit/gls/gls3.html
5.日本人の英語
http://ryugaku.myedu.jp/edit/gls/gls5.html
6.日常会話の中の生きた英語表現
http://ryugaku.myedu.jp/edit/gls/gls6.html


ーーーーー


コラム

コラム2 間違いだらけの英語教育!
http://www.pan-nations.co.jp/column_002_001.html(目次全文)

間違いだらけのビジネス英語教育!やりなおし英語なら、無理なく短期間にマスターできる。

目次

間違いだらけのビジネス英語教育
 
 →英語をものにできる人は2%以下
 →実は商社マンの英語はヘタクソ
 →現場の英語を知らないと会社は損
 →丸暗記法は至難の技
 →TOEIC650点でも話せない不思議
 →英会話スクールに1年通っても話せない
 →英会話スクールの落とし穴
 →外国人教師に習ってもダメ!
 →海外留学しても話せない

英語上達のポイント

 →英会話は単語力ではない
 →英語学習の3つのポイント
 →英語のマスターには時間がかからない
 →インド人の英語をめざせ
 →盛田式英語と大前式英語

パンネーションズ・メソッドとは
 
 →青木プロになる必要はない
 →やり直し英語に必要な発想とは
 →平明でしかも論理的な英語
 →中学レベルの英語だが言葉の使い方が重要
 →文型こそがやり直し英語のポイント

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(上記の目次から一つ抜粋)

外国人教師に習ってもダメ!
http://www.pan-nations.co.jp/column_002_009.html(一部引用)

 (略)

●外国人教師ができるのはアウトプットだけ

 もうひとつ注意しておかなければならないのは、英会話スクールにいる外国人教師のレベルだ。彼らの中には英語さえ話せれば日本で生活できると聞き及んでやってきて、アルバイト気分で働いているものも少なくない。

本来は言葉を教えるという行為は、それなりの高等教育を受けた人間が、文章や文法の理論も修めた上でその立場に立つのが当然だ。ところが、日本の街の英会話学校の現状は、何ともお寒い限りだ。第一、あれだけの数の学校に、きちんとした教授法の教育を受けた外国人を供給できるなどということは、誰が考えても不可能である。まさに、外国人教師なら誰でもいいとする風潮が蔓延しているのである。

さらに一言付け加えておくと、英会話学習というものは、覚えること(インプット)と、使うこと(アウトプット)によって成り立っている。外国人教師ができるのはアウトプットの方である。

インプットの教育に関しては、外国人よりも、むしろ日本語と英語の違いをわきまえた日本人教師の方が優れているという事実は、あまり理解されていないようだ。英会話の学習において、何が一番問題なのかを知っているのは、日本人教師なのである。


4. 中川隆[-13364] koaQ7Jey 2018年11月02日 06:36:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19759] 報告
外国語学習について - 内田樹の研究室 2018-10-31

2018年6月12日に「文系教科研究会」というところで、私立の中学高校の英語の先生たちをお相手に英語教育についてお話した。その一部をここに掲載する。

ここで論じたのは英語だけれど、言語教育一般について適用できる議論だと思う。
ここ数日、「論理国語」と「文学国語」というカテゴライズをするという話がTLを飛び交っているけれど、それがほんとうだとしたら、それはたぶん言語というものについて一度も真剣に思量したことのない人間の脳裏に去来したアイディアだろうと思う。それはまさに「植民地における現地人への宗主国言語教育」とまったく同型的なものだからだ。

国語教育においても「植民地現地人」に求められる言語能力は同じである。

それは宗主国アメリカに仕え、アメリカに朝貢することで「代官」「買弁」としての地位を保全している日本の支配層たちが、同国人の知性の発達を阻害し、日本人を愚民化することで、属国日本をアメリカが支配しやすいようにするために作り出した仕掛けである。

以下がそのときの講演。途中からなので、話が見えにくいのはご容赦。


外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。

「目標言語」というのは、今の場合なら、例えば英語です。なぜ英語を学ぶのか。それは「目標文化」にアクセスするためです。英語の場合であれば、ふつうは英語圏の文化が「目標文化」と呼ばれます。

僕らの世代において英語の目標文化ははっきりしていました。それは端的にアメリカ文化でした。アメリカ文化にアクセスすること、それが英語学習の最も強い動機でした。僕たちの世代は、子どものときからアメリカ文化の洪水の中で育っているわけですから、当然です。FENでロックンロールを聴き、ハリウッド映画を観て、アメリカのテレビドラマを観て育ったわけですから、僕らの世代においては「英語を学ぶ」というのは端的にアメリカのことをもっと知りたいということに尽くされました。

僕も中学や高校で「英語好き」の人にたくさん会いましたけれど、多くはロックの歌詞や映画の台詞を聴き取りたい、アメリカの小説を原語で読みたい、そういう動機で英語を勉強していました。

僕もそうでした。英語の成績は中学生からずっとよかったのですが、僕の場合、一番役に立ったのはビートルズの歌詞の暗記でした。ビートルズのヒット曲の歌詞に含まれる単語とイディオムを片っ端から覚えたのですから、英語の点はいいはずです。

つまり、英語そのものというよりも、「英語の向こう側」にあるもの、英米の文化に対する素朴な憧れがあって、それに触れるために英語を勉強した。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路として英語という「目標言語」を学んだわけです。

その後、1960年代から僕はフランス語の勉強を始めるわけですけれども、この時もフランス語そのものに興味があったわけではありません。フランス語でコミュニケーションしたいフランス人が身近にいたわけではないし、フランス語ができると就職に有利というようなこともなかった。そういう功利的な動機がないところで学び始めたのです。フランス文化にアクセスしたかったから。

僕が高校生から大学生の頃は、人文科学・社会科学分野での新しい学術的知見はほとんどすべてがフランスから発信された時代でした。40年代、50年代のサルトル、カミュ、メルロー=ポンティから始まって、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、アルチュセール、ラカン、デリダ、レヴィナス・・・と文系の新しい学術的知見はほとんどフランス語で発信されたのです。

フランス語ができないとこの知的領域にアクセスできない。当時の日本でも、『パイデイア』とか『現代思想』とか『エピステーメー』とかいう雑誌が毎月のようにフランスの最新学術についての特集を組むのですけれど、「すごいものが出て来た」と言うだけで、そこで言及されている思想家や学者たちの肝心の主著がまだ翻訳されていない。フランス語ができる学者たちだけがそれにアクセスできて、その新しい知についての「概説書」や「入門書」や「論文」を独占的に書いている。とにかくフランスではすごいことになっていて、それにキャッチアップできないともう知の世界標準に追いついてゆけないという話になっていた。でも、その「すごいこと」の中身がさっぱりわからない。フランス語が読めないと話にならない。ですから、60年代―70年代の「ウッドビー・インテリゲンチャ」の少年たちは雪崩打つようにフランス語を学んだわけです。それが目標文化だったのです。 

のちに大学の教師になってから、フランス語の語学研修の付き添いで夏休みにフランスに行くことになった時、ある年、僕も学生にまじって、研修に参加したことがありました。振り分け試験で上級クラスに入れられたのですけれど、そのクラスで、ある日テレビの「お笑い番組」のビデオを見せて、これを聴き取れという課題が出ました。僕はその課題を拒否しました。悪いけど、僕はそういうことには全然興味がない。僕は学術的なものを読むためにフランス語を勉強してきたのであって、テレビのお笑い番組の早口のギャグを聴き取るために労力を使う気はないと申し上げた。その時の先生は真っ赤になって怒って、「庶民の使う言葉を理解する気がないというのなら、あなたは永遠にフランス語ができるようにならないだろう」という呪いのような言葉を投げかけたのでした。結局、その呪いの通りになってしまったのですけれど、僕にとっての「目標文化」は1940年から80年代にかけてのフランスの知的黄金時代のゴージャスな饗宴の末席に連なることであって、現代のフランスのテレビ・カルチャーになんか、何の興味もなかった。ただ、フランス語がぺらぺら話せるようになりたかったのなら、それも必要でしょうけれど、僕はフランスの哲学者の本を読みたくてフランス語を勉強し始めたわけですから、その目標を変えるわけにゆかない。フランス語という「目標言語」は同じでも、それを習得することを通じてどのような「目標文化」にたどりつこうとしているのかは人によって違う。そのことをその時に思い知りました。

ロシア語もそうです。今、大学でロシア語を第二外国語で履修する学生はほとんどいません。でも、若い方はもうご存じないと思いますけれど、1970年に僕が大学入学したとき、理系の学生の第二外国語で一番履修者が多かったのはロシア語だったのです。

「スプートニク・ショック」として知られるように、60年代まではソ連が科学技術のいくつかの分野でアメリカより先を進んでいたからです。科学の最先端の情報にアクセスするためには英語よりもロシア語が必要だった。でも、ソ連が没落して、科学技術におけるアドバンテージが失われると、ロシア語を履修する理系の学生はぱたりといなくなりました。もちろんドストエフスキーを読みたい、チェーホフを読みたいというような動機でロシア語を履修する学生の数はいつの時代もいます。目標文化が「ロシア文学」である履修者の数はいつの時代もそれほど変化しない。けれども、目標文化が「ソ連の科学の先進性」である履修者は、その目標文化が求心力を失うと、たちまち潮が引くようにいなくなる。

僕の学生時代はフランス語履修者がたくさんおりました。でも、その後、フランス語履修者は急減しました。ある時点で中国語に抜かれて、今はもう見る影もありません。

理由の一つは、日本のフランス語教員たちが学生たちの知的好奇心を掻き立てることができなかったせいなのですけれど、それ以上に本国のフランスの文化的な発信力が低下したことがあります。フランス文化そのものに日本の若者たちを「目標」として惹きつける魅力がなくなってしまった。

フランス語やロシア語の例から知れる通り、われわれが外国語を学ぶのは目標文化に近づくためなのです。目標文化にアクセスするための手段として目標言語を学ぶ。

しかし、まことに不思議なことに、今の英語教育には目標文化が存在しません。英語という目標言語だけはあるけれども、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか。向かう先はアメリカでもイギリスでもない。カナダでもオーストラリアでもない。どこでもないのです。

何年か前に、推薦入試の入試本部で学長と並んで出願書類をチェックしていたことがありました。学長は英文科の方だったのですけれど、出願書類の束を読み終えた後に嘆息をついて、「内田さん、今日の受験者150人の中に『英文科志望理由』に『英米文学を学びたいから』と書いた人が何人いると思う?」と訊いてきました。「何人でした?」と僕が問い返すと「2人だけ」というお答えでした「後は、『英語を生かした職業に就きたいから』」だそうでした。

僕の知る限りでも、英語を学んで、カタールの航空会社に入った、香港のスーパーマーケットに就職した、シンガポールの銀行に入ったという話はよく聞きます。別にカタール文化や香港文化やシンガポール文化をぜひ知りたい、その本質に触れたいと思ってそういう仕事を選んだわけではないでしょう。彼らにとって、英語はたしかに目標言語なのですけれど、めざす目標文化はどこかの特定の文化圏のものではなく、グローバルな「社会的な格付け」なのです。高い年収と地位が得られるなら、どの外国でも暮らすし、どの外国でも働く、だから英語を勉強するという人の場合、これまでの外国語教育における目標文化に当たるものが存在しない。
これについては平田オリザさんが辛辣なことを言っています。彼に言わせると、日本の今の英語教育の目標は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」はもちろん有用な仕事であり、しかるべき能力を要するし、それにふさわしい待遇を要求できるポストですけれど、それは一人いれば足りる。何百万単位で「シンガポール支店長」を「人形焼き」を叩き出すように作り出す必要はない。でも、現在の日本の英語教育がめざしているのはそういう定型です。

僕は大学の現場を離れて7年になりますので、今の大学生の学力を知るには情報が足りないのですけれども、それでも、文科省が「英語ができる日本人」ということを言い出してから、大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきたことは知っています。それも当然だと思います。英語を勉強することの目標が、同学齢集団内部での格付けのためなんですから。低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティヴにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。そんなことが成功するはずがない。恐怖や不安を動機にして、知性が活性化するなんてことはありえないからです。

僕は中学校に入って初めて英語に触れました。それまではまったく英語を習ったことがなかった。1960年頃の小学生だと、学習塾に通っているのがクラスに二三人、あとは算盤塾くらいで、小学生から英語の勉強している子どもなんか全然いません。ですから、FENでロックンロールは聴いていましたけれど、DJのしゃべりも、曲の歌詞も、ぜんぶ「サウンド」に過ぎず、意味としては分節されていなかった。それが中学生になるといよいよ分かるようになる。入学式の前に教科書が配られます。英語の教科書を手にした時は、これからいよいよ英語を習うのだと思って本当にわくわくしました。これまで自分にとってまったく理解不能だった言語がこれから理解可能になってゆくんですから。自分が生まれてから一度も発したことのない音韻を発声し、日本語に存在しない単語を学んで、それが使えるようになる。その期待に胸が膨らんだ。

今はどうでしょう。中学校一年生が四月に、最初の英語の授業を受ける時に、胸がわくわくどきどきして、期待で胸をはじけそうになる・・・というようなことはまずないんじゃないでしょうか。ほかの教科とも同じでしょうけれど、英語を通じて獲得するものが「文化」ではないことは中学生にもわかるからです。

わかっているのは、英語の出来不出来で、自分たちは格付けされて、英語ができないと受験にも、就職にも不利である、就職しても出世できないということだけです。そういう世俗的で功利的な理由で英語学習を動機づけようとしている。でも、そんなもので子どもたちの学習意欲が高まるはずがない。

格付けを上げるために英語を勉強しろというのは、たしかにリアルではあります。リアルだけれども、全然わくわくしない。外国語の習得というのは、本来はおのれの母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものを習得ゆくプロセスのはずです。だからこそ、知性の高いパフォーマンスを要求する。自分の知的な枠組みを超え出てゆくわけですから、本当なら「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が要る。そのためには、外国語を学ぶことへ期待とか向上心とか、明るくて、風通しのよい、胸がわくわくするような感じが絶対に必要なんですよ。恐怖や不安で、人間はおのれの知的な限界を超えて踏み出すことなんかできません。
でも、文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』にはこう書いてある。

「今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を超えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。」

冒頭がこれです。まず「経済」の話から始まる。「経済競争」「メガコンペティション」というラットレース的な状況が設定されて、そこでの「果敢な挑戦」が求められている。英語教育についての基本政策が「金の話」と「競争の話」から始まる。始まるどころか全篇それしか書かれていない。

「このような状況の中、英語は、母語の異なる人々をつなぐ国際的共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です」という書いた後にこう続きます。

「現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も起きています。」
「金」と「競争」の話の次は「格付け」の話です。ここには異文化に対する好奇心も、自分たちの価値観とは異なる価値観を具えた文化に対する敬意も、何もありません。人間たちは金を求めて競争しており、その競争では英語ができることが死活的に重要で、英語学力が不足していると「制限を受けたり」「適切な評価が得られない」という脅しがなされているだけです。そんなのは日本人なら誰でもすでに知っていることです。でも、「英語ができる日本人」に求められているのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」なのです。

外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。

でも、この文科省の作文には、外国語を学ぶのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」の檻から逃れ出るためだという発想がみじんもない。自分たちの狭隘な、ローカルな価値観の「外側」について学ぶことは「国際的な相互依存関係」のうちで適切なふるまいをするために必須であるという見識さえ見られない。僕は外国語学習の動機づけとして、かつてこれほど貧しく、知性を欠いた文章を読んだことがありません。

たしかに、子どもたちを追い込んで、不安にさせて、処罰への恐怖を動機にして何か子どもたちが「やりたくないこと」を無理強いすることは可能でしょう。軍隊における新兵の訓練というのはそういうものでしたから。処罰されることへの恐怖をばねにすれば、自分の心身の限界を超えて、爆発的な力を発動させることは可能です。スパルタ的な部活の指導者は今でもそういうやり方を好んでいます。でも、それは「やりたくないこと」を無理強いさせるために開発された政治技術です。
ということは、この文科省の作文は子どもたちは英語を学習したがっていないという前提を採用しているということです。その上で、「いやなこと」を強制するために、「経済競争」だの「メガコンペティション」だの「適切な評価」だのという言葉で脅しをかけている。

ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちがもっている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと「ひどい目に遭うぞ」というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。

この文章を読んでわかるのは、今の日本の英語教育において、目標言語は英語だけれど、目標文化は日本だということです。今よりもっと日本的になり、日本的価値観にがんじがらめになるために英語を勉強しなさい、と。ここにはそう書いてある。目標文化が日本文化であるような学習を「外国語学習」と呼ぶことに僕は同意するわけにはゆきません。

僕自身はこれまでさまざまな外国語を学んできました。最初に漢文と英語を学び、それからフランス語、ヘブライ語、韓国語といろいろな外国語に手を出しました。新しい外国語を学ぶ前の高揚感が好きだからです。日本語にはない音韻を発音すること、日本語にはない単語を知ること、日本語とは違う統辞法や論理があることを知ること、それが外国語を学ぶ「甲斐」だと僕は思っています。習った外国語を使って、「メガコンペティションに果敢に挑戦」する気なんか、さらさらありません。

外国語を学ぶ目的は、われわれとは違うしかたで世界を分節し、われわれとは違う景色を見ている人たちに想像的に共感することです。われわれとはコスモロジーが違う、価値観、美意識が違う、死生観が違う、何もかも違うような人たちがいて、その人たちから見た世界の風景がそこにある。外国語を学ぶというのは、その世界に接近してゆくことです。 

フランス語でしか表現できない哲学的概念とか、ヘブライ語でしか表現できない宗教的概念とか、英語でしか表現できない感情とか、そういうものがあるんです。それを学ぶことを通じて、それと日本語との隔絶やずれをどうやって調整しようか努力することを通じて、人間は「母語の檻」から抜け出すことができる。

外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的分節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです。

でも、今の日本の英語教育は「母語の檻」からの離脱など眼中にない。それが「目標言語は英語だが、目標文化は日本だ」ということの意味です。外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ、と。言っている本人はそれなりにリアリズムを語っているつもりでいるんでしょう。でも、現実にその結果として、日本の子どもたちの英語力は劇的に低下してきている。そりゃそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」が「上がり」であるような英語教育を受けていたら、そもそもそんな仕事に何の興味もない子どもたちは英語をやる理由がない。

(中略)

今は英語教育にとりわけ中等教育では教育資源が偏ってきています。他の教科はいいから、とにかく英語をやれという圧力が強まっています。別にそれは英語の教員たちが望んだことではないのだけれど、教育資源が英語に偏っている。特に、オーラル・コミュニケーション能力の開発に偏っている。何でこんなに急激にオーラルに偏ってきたかというと、やはりこれは日本がアメリカの属国だということを抜きには説明がつかない。

「グローバル・コミュニケーション」と言っても、オーラルだけが重視されて、読む力、特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です。

植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。読み書きはいい。文法も要らない。古典を読む必要もない。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。それ以上の言語運用能力は不要である。理由は簡単です。オーラル・コミュニケーションの場においては、ネイティヴ・スピーカーがつねに圧倒的なアドバンテージを有するからです。100%ネイティヴが勝つ。「勝つ」というのは変な言い方ですけれども、オーラル・コミュニケーションの場では、ネイティヴにはノン・ネイティヴの話を遮断し、その発言をリジェクトする権利が与えられています。ノン・ネイティヴがどれほど真剣に、情理を尽くして話していても、ネイティヴはその話の腰を折って「その単語はそんなふうには発音しない」「われわれはそういう言い方をしない」と言って、話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる。

逆に、植民地的言語教育では、原住民の子どもたちにはテクストを読む力はできるだけ付けさせないようにする。うっかり読む力が身に着くと、植民地の賢い子どもたちは、宗主国の植民地官僚が読まないような古典を読み、彼らが理解できないような知識や教養を身に付ける「リスク」があるからです。植民地の子どもが無教養な宗主国の大人に向かってすらすらとシェークスピアを引用したりして、宗主国民の知的優越性を脅かすということは何があっても避けなければならない。だから、読む力はつねに話す力よりも劣位に置かれる。「難しい英語の本なんか読めても仕方がない。それより日常会話だ」というようなことを平然と言い放つ人がいますけれど、これは骨の髄まで「植民地人根性」がしみこんだ人間の言い草です。

「本を読む」というのはその国の文化的な本質を理解する上では最も効率的で確実な方法です。でも、植民地支配者たちは自分たちの文化的な本質を植民地原住民に理解されたくなんかない。だから、原住民には、法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない。

今の日本の英語教育がオーラルに偏って、英語の古典、哲学や文学や歴史の書物を読む力を全く求めなくなった理由の一つは「アメリカという宗主国」の知的アドバンテージを恒久化するためです。だから、アメリカ人は日本人が英語がぺらぺら話せるようになることは強く求めていますけれど、日本の子どもたちがアメリカの歴史を学んだり、アメリカの政治構造を理解したり、アメリカの文学に精通したりすること、それによってアメリカ人が何を考えているのか、何を欲望し、何を恐れているのかを知ることはまったく望んでいません。

(以下略)

「原住民には法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない」ということを英語教育について書いたら、国語教育でも同じことをしようとしているということを知らされた。

まことに情けない国に成り下がったものである。
http://blog.tatsuru.com/2018/10/31_1510.html


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