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もっと日本人の文化について
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投稿者 C.V 日時 2012 年 12 月 15 日 18:41:50: qRlwswdkiMXDA
 

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My Visit to the Grand Shrines of Ise
もっと日本人の文化について:
伊勢神宮への私の訪問

by Eustace Mullins
ユ―スタス・マリンズ小論
http://www.eustacemullins.us/wp-content/works/Articles/Eustace%20Mullins%20-%20Exposes%20and%20Legal%20Actions%20%281991-97%29.pdf

1996年の2月の間の私の日本での旅の間、何日もの忙しい日々と様々な経験を通して、私に明らかになったのは、伊勢神宮を訪問した私の旅が最も忘れられないと云う事です。私の(旅の)主催者は、伊勢は日本人にとって大切な神社であり、事実、最も大切な神社だと説明してくれました。しかし、この事前の情報でさえ私が伊勢で出会った圧倒的な存在感への私の(心の)準備を完全にはさせませんでした。伊勢神宮で、私は偉大な国家の力、そしてその力が何処からくるのかの啓示に圧倒されました。

西洋の世界は力は機械(システム)からくるという神話に誘惑されてしまいました。歴史の哲学、弁証法的な物質主義、または共産主義は私達に、機械が、国家の力が全ての力の源として崇拝する様に説得するために開発されました。弁証法的な物質主義で問題なのは、機械はそれ自身を作り出す事が出来ない事で、それは必ず人々によって建てられなければならないのです。ですから、機械そのものではなく、機械をもたらした力を崇拝する方がより論理的です。共産主義者達は決してこのジレンマを決して解くことが出来ず、世界的勢力としての共産主義の力の減少を説明してくれています。

共産主義が弱まってきている間、日本の人々は増え、そして繁栄し続けました。彼等の秘密は何であろう?伊勢神宮を訪ねた後、私は信じるようになりました、これが彼等の秘密だろうとーー伊勢神宮に象徴されるように、彼等は彼等自身と彼等を支える精神的力を信じているのだと。

西洋の世界では、私達は全てにおいて個人を強調し、そして個人が何でも達成出来ると強調します。しかし、実際は一人の人はただの一人ですから事実、個人の力には限りがあります。重要な事を達成しようとするなら、人は他の個人達と力を合わせなければいけません。私達はコーポレーションとして力を合わせ、人力と資本を集める事が出来、その影響力を世界中に広げる事を学びました。確かにこれらの業績は強い印象を与えますが、此処で再び私達は問わなければいけません。これを可能にするもう一つの力があるだろうか?この問いの答えは国家の神殿の中に見つける事が出来るのです。

西洋では、私達は12世紀にヨーロッパ中に素晴らしいゴシック建築の大聖堂を建てました。それらの大聖堂が建てられた後も西洋は繁栄しましたが、大聖堂は建てられなくなりました。西洋が繁栄したなら、もっと数多くのさらに壮大な大聖堂が建てられると予想する方が理論的ではないでしょうか?しかしそれらが建てられる事はありませんでした。これには説明があります。西洋は、大聖堂が建てられた後、その忠誠を変えたのです。大いなる大聖堂の建設を鼓舞した精神的力を見捨て、西洋は新たな信仰の対象へとその深い尊敬を移したのです。資本の信仰、お金の力へとです。人々は、資本が現在最も世界で強力な勢力であると云う前提を受け入れたのです。しかしながら、資本はもうそれ以上、大いなる大聖堂を建てませんでした。その代りに、資本主義者達は、彼等の銀行やオフィスの建物を小さな大聖堂の様にデザインしました。大聖堂の時代は終わりました。

伊勢神宮で、私は、壮大な大聖堂が精神的力の究極の現れではない事に気づきました。此処で、私は神社と自然の完全な調和を見つけ、その効果が正にその神社の目的であると見つけました。私は、神社、または寺院には建物自体より遥かに重要な目的があると理解し始めました。それは偉大な国家を導く力が、虫眼鏡が太陽の光を集中させ、更なる大きな炎の力に変わる如く、集中される場であると。

西洋の経済学者達は「日本のミラクル」を単に生産力という経済的力で説明します。伊勢神宮で、この力の背後には、更により偉大な力が、スピリット(魂・心・聖霊)の力があるのだと、私は学びました。これが日本の力なのです。けれども、多くの外人は神社を訪れず、それ故に彼等はこの国を動かす力について無知のままなのです。

伊勢の地の上を私が歩いた瞬間、私はこの力に気づき始めました。それはとても力強い経験でした。何故なら、それは何故、私は日本に招かれたのか、私が其処に居る本当の理由を私に明かしたからです。多くの人々が私を日本へ招くために力を合わせ、そして彼等の努力に私はとても感謝の気持ちで一杯であり、これはとても価値のある経験に繋がりました。伊勢神宮に来るまで、私は私をやむを得ず此処へもたらそうとした力を理解していませんでした。今後、私の使命は、日本の人々と合衆国に人々の間の理解のレベルを向上させる事でしょう。この使命について、他の西洋人達が私の先を行きました。最も注目に値するのは、私がこの旅で記念碑を訪ねる事が出来たアーネスト・フェノロサ(Ernest Fenollosa)と私の先生であり導きであり、西洋世界においての日本芸術の理解の開拓者であった詩人エズラ・パウンド(Ezra Pound)です。

その様な日米間の理解の向上は、どちらかだけが利する様にデザインされた仕事ではなく、両者に利益があるものとなるでしょう。しかしながら、もし、日本の存在が、伊勢神宮に象徴される様に、アメリカの人々に彼等は道から逸れていると、彼等はまやかしの神々に引きよせられていると、そして伊勢神宮が正に有無を言わさず私達に思い出させる様に、最終分析においてーー最終ラインとも言いましょうかーー精神的力の方がお金の力や機械の力より遥かに強力な力であると気付かせる助けになるなら、合衆国がより恩恵を受ける側なのかも知れません。

神殿内での儀式のサービスは、私は実にとても強力な力の中に居ると云う私の当初の印象を確認させました。長年、私は日本の宮廷音楽を聴いてきて、そして今、光栄にもセレモニーの音楽を聴く事が出来ました。これは単なる太古の文化のセレモニーではなく、現代世界の圧力にも関わらず、純粋かつ活き生きと保たれる文化なのです。西洋では、弁証法的な物質主義に宗教はコウベを垂れ、そしてそのメッセージは社会的、社会主義的目標を抱く事に変えられてしまいました。その結果として、人々は精神的に元気づけられる事を受けられず、そして精神的エネルギーと信念なしで世界の問題に向き合わなければならないのです。

伊勢神宮での数時間から得たものとしては、これは大した大袈裟な経験に見えるやも知れません、しかし、私は単に私がそこで見つけた精神的存在へのリアクションを述べただけなのです。啓示はたった数秒間である事も出来るし、またそれはずっと後に平穏の中で思い出す事の出来る経験なのです。私が神社にいた間の全てのそれらの感情を私は蓄えたけれど、私がそれらを整理してこの訪問の大切さに気づいたのはずっと後でした。今日、このような啓示を受ける事の出来る人は数少ないのです。何故なら、私達は楽しく夢中にさせられる事を目的としているからです。私達は愉快で楽しく嬉しくないなら、経験するのが好きではありません。けれど、快楽は短い間のもので、そしてもし人が楽しみ続けたいのなら、その感覚は無限に繰り返されなければなりません。これは啓示には当てはまりません。それは一生残る事が出来るのです。人生を変えるだけでなく、一生涯保たれた啓示を受けた人達の記録は数々残されているのです。

私達が、一時的なだけでなく、大切さのない、続けざまのとても多くの経験を浴びせられるのは、現代生活の不幸な一面であります。もっと大切な経験を受ける事を私達に可能にし、大切な経験のために私達を準備させるのが精神的生活の力なのです。神社は、私達が力の源で再生される事を許すという大いなる目的に仕えます。歴史を通して、文明は、その神社が腐敗し、もうそれ以上、力と信仰の源になれなくなるとボロボロに崩れました。これが起こるのは大抵、人々が彼等の神社に相応しくなくなるか、神社自体が腐敗するからです。これを最も得出して表しているのが、キリスト教以前の太古の世界のバアル信仰です。バアル崇拝者達は、彼等の神殿を日常的に小さな子供が「幸運」のために生贄に捧げられる、売春行為の館に変貌させたのです。バアル教団は歴史から消えましたけれど、彼等のカルトのなごりが今でも世界中で内密に行動し、バアルの例に続き破壊を広げているのです。

人は聞くかもしれません、どうして日本人ではない私が、伊勢神宮を訪問出来、そんなに多くを経験したのか?と。私はそれらの力を経験出来る、何故なら私は私自身の正体の自覚があるからです、というのが答えです。古代のギリシャ人が言ったように、人間的でないものは、私には性に合わないのです。私は理解を増やすために地球の上を歩きます、何故なら私は私自身の問題に気を取られなくて良いからです。西洋では多くの人が自分の「正体」を「発見」する必要性、「自分自身を見つける」必要性に魅惑されています。けれども、ひとの正体は秘密ではなく、私達が一生をかけて探さなければならない隠された金脈でもないのです。人々は自分の正体を受け入れるのを拒みます。何故なら、受け入れるという事に伴う責任と向き合おうと願わないからです。一度私達が誰であるかを知れば、私達はこれ以上私達の人生の勤めから、「私は何かをしたい、でも私はまだ準備が出来ていない、何故なら、私は最初に私が本当に誰であるかを見つけなければならない。」と云って逃れる事は出来ないのです。これが未熟者、永遠の生徒の、こう説明する者、「私はまだ人生の義務を引き受ける事が出来ていない、何故なら私は用意が出来ていない。」の口実です。事実、地球上の全員に目的と義務があり、自分の正体の継続的拒否だけがそれらを延期出来るのです。自分の正体を「見つけ」たり「発達」させたり出来る者などいないのです、何故なら人はそれと共に生まれるからです。自らの正体を拒否する者達を介在するために多くの職業が育ちましたーーサイコセラピーの職は正体の拒否に松葉づえを提供します。

これらは伊勢神宮で私に来た啓示の幾つかです。神々でさえ、時折、休息のために止まらなければならず、そして私達が神社を建てる事が出来るのはこれらの場所です。私がその地を歩いた時、私は、日本の人々は彼等の正体を持っていると理解しました。精神的力の強さとは、それが貴方に貴方の正体を受け入れることを許可させ、そしてそれによって、社会の機能する一員となるのです。私は、私がアメリカのどんな宗教的な建物でも、このような結論に辿りつけたとは信じません、何故なら、それらの建物は自然を含まないからです。伊勢神宮で、この神社は地球の人間と、太陽の女神の存在とのパートナーシップの調和を祝う場であると私は確信しました。私もまた強烈な内なる平穏を楽しむ事が出来ました、その場にいた他の人達の顔に見られたように、そしてそれは、私が他の二か所だけでしか見つけられなかった。コロラドの神々の庭園、そして火山地帯のイエローストーン国立公園です。日本で、伊勢神宮で、私は人生の壮大さを、自然の雄大さを、未来への希望を経験しました。

(おしまい)

2012−337より:
http://www.blurty.com/users/chilledvodka
 

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