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谷戸基岩 クラシック音楽の問題点
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投稿者 提供人D 日時 2013 年 1 月 29 日 23:10:35: zjIwxfdYJcbls
 

私がレコード会社に勤めていた1990年代の初め頃から、すでに「クラシック音楽の危機」ということが叫ばれていた。その後もこの世界では折に触れ、コアを成すファン層の高齢化・減少が問題にされて来た。何となく 「たしかにそうだ!」 とは思いつつも、同時に 「少なくとも自分にとってこんなにも面白いものがなぜ他の人にとって魅力的ではないのか?」 という疑問を私は抱き続けてきた。
レコード会社のクラシック部門担当者として18年間半、音楽評論家として約14年間クラシック音楽の世界に関わり合いになって来たが、つい最近になるまでその疑問に対する答えが見つからなかった。しかし尚美学園大学で「クラシック音楽特論」という授業を通して、学生たちに「クラシック音楽とは何か?」という問題を提起し、ディスカションするうちに自分の考えも整理され、ようやく何が問題なのかが判ってきたような気がする。そんな中から思いつくまま、何回かに分けて記してみたい。

●クラシック音楽の聴衆とその嗜好
私が思うに、クラシック音楽の世界には恐らく二つのタイプの聴衆がいるのではないだろうか。すなわち
@ クラシック音楽をひとつの情操教育に良い「教養」としてとらえ、「クラシック音楽業界の価値観」を自分はいかに良く理解しているかを競い合うゲームをしている人々(ちなみにここでいう 「クラシック音楽業界」 はレコード、放送、楽譜出版、楽器製造などの産業界のみならず、作曲家、演奏家に加え、音楽ジャーナリスト、音楽評論家、音楽教師、音楽学者なども含めて現在のクラシック音楽界全般を指す)
A ポピュラー音楽や歌謡曲などと同じようにただ自分が好きだから、そして好奇心の赴くままにクラシック音楽を聴く人々。
勿論、単純にタイプ@のみ、タイプAのみという人ばかりではないだろう。しかし、この人はタイプ@ではないか、と思うような人が意外とこの世界には多い。私は15歳くらいから約40年間クラシック音楽を聴いてきたけれども、聴衆としての基本的なスタンスは最近ではもっぱらタイプAである。「世間で話題になっているから」 とか、「大々的に宣伝されているから」という売り文句にも、「有名名曲だから」 という評価にもほとんど興味がない。
「そもそも100人の人間がいたら100の嗜好があり、それゆえ価値観の合意などは取れるはずがない」というのが私の基本的な考え方で、余程好みの傾向が似たクラシック音楽ファンと話していても、何が好きか嫌いかという点で合意が取れるのは3割がいいところである。よく知り合いの演奏家にも「9割の人から何となく良いと思われるような演奏家になろうとせず、まず1割の人に熱狂的に支持されるようになりなさい。その後それを2割、3割と高めるように努力したらどうですか」と話している。
考えてみれば、誰もが同じ音楽家を好きにならなくてはいけない、同じ作品を「名曲」と思わなくてはいけないという思想はとても怖いし、危険で、受け入れ難い。

*全てを把握することの難しさ、それを探求する面白さ
そもそもクラシック音楽の歴史を辿って行くなら各1回ずつしか聴かないとしても、一生の間に聴き切れないほど膨大な量の作品がある。
例えば18世紀後半から19世紀初頭にかけての時代だけで1万曲を超える交響曲が存在しているという。しかし、そのうちで一般に知られているものはといえばハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンくらいで、やや詳しい人でもサンマルティーニ、バッハの息子たち、ボッケリーニ、シュターミッツ、ディッタースドルフ、クラウス…といった作曲家の作品を挙げる程度ではないか。この時代の交響曲を500曲も知っていたらかなりの通である。
そんな中で一般的に知られている上記3人の作曲家たちの作品だけでこの時代を代表させて良いものなのかどうか? ひょっとするともっと違った価値観を提示して楽しませてくれる曲があるのではないか…そんな疑問が頭をもたげてくる。
実のところ18世紀以降の作品についてクラシック音楽の世界で一般的な話題になるものは、現存する中のほんの氷山の一角に過ぎないのだ。海外ではマイナーレーベルを中心にこれまで埋もれていて一般に知られていなかった作品の楽譜を出版し、CD録音する動きが盛んになっている。例えばナクソス・レーベルの「18世紀の交響曲」シリーズでは 「オヴィディウスの転身物語に基づくシンフォニア集」をはじめ、ディッタースドルフの標題を伴った珍しい交響曲が発売されているのだ。
その一方で有名名曲なら何百・何千という録音がその曲について存在する。その中である曲に関してあなたが最も好きな演奏に出逢える可能性はどうであろうか? 演奏が自分の好みであるか否かは、その曲が好きになれるかなれないかの大きな分かれ目になるだけにこれは重要なポイントだ。コンクールというものが支配的になってきた今日では、演奏家のスタイルは優勝・入賞するための様式に画一化されつつあるので差異の幅は大きくないが、戦前やモノラル期の録音を耳にすると一人ひとりの個性がかなり異なっていて驚かされる。
やはり、ある作品の姿をしっかり把握しようと思うなら古今東西の代表的な録音を丹念に追っていくしかない。これも大変な作業だが、幸いなことに海外のCDに目を向けるとこうした過去の録音、とりわけ戦前の録音を復刻する運動はLP時代とは較べものにならないほど盛んになっている。私たちは今日ではサン=サーンス、ドビュッシー、スクリャービンらの自作自演すらも容易に手にすることができるようになった。
このような海外の動向を追いかけ、自分の嗜好に忠実に、勝手気ままに作品・演奏を探求して行くのはとても面白いし、いくら続けても飽きない。けれどもとにかくお金と手間暇がかかる。さらに残念なことに、こうした業界の一押しでないような、マイナー視されているものを探求しその良さを紹介したとしても、なかなかそれが広がって行かないのが我が国の現状なのである。

●果たしてクラシック音楽に本物の「原典」は存在するのか?
クラシック音楽の世界にいるとひとつのお題目のように「作曲家の意図に忠実に」という言葉を耳にする。作曲家がかつて頭に描き、実演した音楽をそのままに再現することを目指した「原典主義」という言葉、あるいはそのために作り出された「原典版」楽譜も同様である。
しかし、果たしてクラシック音楽に本当の意味での「原典」など存在するのだろうか? こうした言葉に接するたびに私はそのことに疑問を感じていた。ポピュラー音楽の世界には多くの場合に本当の意味での「原典」が存在する。例えばビートルズの大ヒット曲 「シー・ラヴズ・ユー」 の 「原典」 は何かといえば、当時ヒット・チャートにランク・インしていたシングル盤の音源である。人々はその音源によってその作品の魅力に接し、この曲は世に広まったのだ。
例えば、あなたが「ビートルズの《シー・ラヴズ・ユー》を演奏していただけませんか?」と頼まれたとして、もしこの曲を知らなかったらどういう行動をとるだろうか? 恐らくほとんどの人は楽譜を買うよりも前にまず彼らの録音音源を買うなりして聴くのではないだろうか? そうすることで音楽家は世間の人々が「原典」としてこの曲に対して持っている「在り方」を実際の音として知ることが出来るのだ。仮に楽譜は無くともまずは繰り返し聴いてそれを寸分違わずコピーし、そこから演奏者独自の味付けを考える。
それに対してクラシック音楽の場合はどうか? ほとんどのクラシックの演奏家はまず楽譜を購入する。しかし音源を耳にすることにあまり積極的ではない。それは多くの場合に録音されたものを「原典」と認めていないからだ。その最も大きな理由は作曲家が自分の作品を演奏した音源、あるいは、作曲者の意思を忠実に伝えたと考えられる演奏家による音源を我々が耳にすることが出来るのは大体ブラームス (1833−1897)、サン=サーンス (1835−1921)あたりから後の世代でしかないからだ。
しかもこの時代の作曲家たちの場合ピアノ曲、室内楽、歌曲などにジャンルが限定される。当時の技術では録音が困難だったオーケストラ作品のような大規模なものはさらに数が少ない。それ以前の作曲家、例えばショパンのように録音機器が一般化する半世紀以上も前に亡くなっているケースでは、直弟子による録音すらも残っていない。それよりさらに昔の作曲家たち、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトに関して録音としての「原典」は望むべくもない。
では20世紀前半には活躍したラフマニノフ、ラヴェル、R.シュトラウス、ガーシュウィン、ストラヴィンスキー、ハチャトゥリヤンらのように自作自演の音源がかなり残っている作曲家たちの場合はどうだろうか? 意外なことに現代ではこうした音源よりも今日の演奏家たちによる演奏を好んで聴いている人が少なくない。ある音楽大学のピアノ科教授が 「だってラフマニノフってピアノが下手だったんでしょう?」 と、この作曲家の自作自演を聴かない理由を説明したという話を知り合いから聞いて、その厚顔無恥に仰天した。
ここまで酷くはないにしても、「録音が古くて聴きづらい」、「演奏スタイルが古過ぎて参考にならない」、「過去と現代では録音という行為の意味づけが違う」といった風に難癖をつけてこうしたものを否定したがる傾向がある。これらは紛れもない「原典」たりうるものであるにもかかわらず……それとともに作品によっては自作自演でないとその本来の良さが伝わってこないケースも少なくない。特にロマン派〜近代のピアノのための性格的小品などでは、作曲者の意図するところが楽譜からは十全に読み取れないこともある。シリル・スコットの 「蓮の国」、セシル・シャミナードの「ピエレット」などのピアノ曲はそうしたものの典型といえるだろう。
考えてみると演奏レパートリーに関して、クラシック音楽界では多くの場合そのアーティスト独自の作品というのは無く、既存の楽曲を演奏することを基本としている。従ってこの業界は「ある既存の楽曲を、新たな演奏によって再現し続ける」ことによって成立している。そうした目的のための楽譜があり、出版産業がある。演奏家がいて、演奏家を育成する教育産業がある。コンサートがあり、そのマネージメント会社が存在する……もしクラシック音楽の世界にポピュラー音楽のような「音としての原典」が存在してしまったら…バッハ、ベートーヴェンやショパンの自作自演などがあったら、恐らくクラシック音楽界は産業として成立しなくなるだろう。なぜなら聴衆はその作品の本来あるべき姿を知ろうと思えばそれらを聴きさえすばいいのだから……「音としての原典」が存在しないこと、あるいは仮に存在してもそれを認めないことによって、クラシック音楽業界が存続しているとさえ言えるのではないだろうか?
別な見方をするならクラシック音楽は、「録音」が存在しなかった時代の「音楽ビジネスの在り方」を今日に引き継いでしまっている音楽ジャンルの典型と見ることもできよう。そこでは常に新しい音楽学習者、楽譜購入者、演奏家が既存のレパートリーを再現するために必要とされる。そして、新しく提示される演奏に何らかの価値を見出さないと業界が存続して行かなくなる。それゆえに新たに登場する録音に対してひとつの価値観として「作曲者の意図に忠実である」という演奏の正統性がしばしば主張される。その一方で、過去の音楽性豊かな優れた録音が業界全体としては不当に過小評価され、終いには廃盤となり、CDカタログから消され、忘れられてしまうのだ。
例えば80年前の世界を考えてみよう。それはラジオ放送や電気録音のレコードがようやく世に出てきた時代。ショパン・コンクールも、パソコンも、ゼロックス・コピーも、テレビも、当然のことながらコンビニエンス・ストアも無かった時代だ。しかし、生活環境としては私たちの時代よりはバッハ、モーツァルト、ショパンの時代に近かったはずだ。そして、恐らく音楽の持つ意味も現代よりはこうした作曲家たちの時代に近かったのではないか。そのことは措くとしても、次のことは認めざるを得ないだろう。
その80年前すなわち1920年代後半はフランスならフォーレ、ドビュッシー、サン=サーンス、サティらが亡くなって間もない頃、さらにはラヴェル、プーランク、ミヨーらが実際に活動していた時代でもある。少なくともこれらの作曲家たちのことは、我々よりこの時代の音楽家たちの方がよく理解していたと考えるのが自然ではあるまいか? 同時代者として時に作品に対して否定的であったとしても、彼らは「1920年代後半」という枠組みの中でそれらに接することが出来た人々なのだ。後追いでそれらを体験する私たちには理解できないような当時の暗黙のルール、常識、価値観などをこれら作曲家たちと共有することが彼らにはごく自然に出来たのだ。たとえこうした時代の演奏家たちによって録音されたものが、今日の常識、価値観や趣味と違ったとしても、それは即座に否定するのではなく、もっと尊重されるべきではないか。それゆえに私たちはそうした時代の、さらにはもっと古い時代の録音のことを積極的に知ろうとする必要がある。
先に述べたようにクラシック音楽は同じ作品に対して多様な解釈が存在しうることによって産業として存続している。そうした「在り方」の中で、「現役演奏家のもの」、「新しいもの」の中から今日的な価値を見出し、「作曲者の意図に忠実」という幻想を更新し続けるだけでは、クラシック音楽業界は早晩立ち行かなくなるのを私たちは十分に理解すべきだ。それを防ぐには古今東西のあらゆる表現の可能性が研究・探求されるべきだろう。そうした研究の重要な柱として、私たちは過去の録音を蔑ろにするのではなく、それぞれの作品について19世紀末から今日に至る録音史、演奏史をしっかりと把握する努力をすることが何よりも必要ではないか? その上で個人個人が――聴衆であれ演奏家であれ、膨大な種類の演奏の中から自分の好みのスタイルのものにアクセスして行けばいい。それを実行に移すのには大変な手間と労力を要するだろう。金銭的な負担も馬鹿にならない。けれどもそんな大変な苦労を課せられることの方がまだ遥かに幸福な状況なはずだ。クラシック音楽業界の画一的な価値観を押し付けられる現状よりは……
CDの時代になって、19世紀末からSP時代末期の1950年頃までの録音が世界的に大変な勢いで復刻されている。こうした動きを単なる好事家のマニアックな趣味の表れととらえるべきではない。それは紛れもなく時代の要請なのだから。

●20世紀のクラシック音楽とは
クラシック音楽の20世紀をどのように考えるのか? これも私がずっと不思議に思っている問題点だ。コンサートで演奏される1920年代以降のレパートリーには二つのタイプがある。ひとつは「前衛」を標榜するような作曲家たちの作品、もうひとつは「前衛」には特にこだわらず既存のあらゆる語法を駆使して自由に創作された作品。前者は「現代音楽」という範疇でクラシック音楽の世界では語られる。これに対して後者はその前衛性の欠落によってまともに評価の対象ともなっていないように思われる。
私が個人的に好きな20世紀の作曲家たち、アレクサンデル・タンスマン、マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ、マヌエル・ポンセといったほぼあらゆるジャンルにわたって作品を遺しているものの今日ではそのギター作品によって有名な人々、あるいは管楽器奏者にとって看過できない存在であるジャン・フランセ、ウジェーヌ・ボザ、ジャン=ミシェル・ダマーズといった人々が20世紀のクラシック音楽の歴史を語る上で積極的に話題にされることはない。それは彼らが前衛的な作品は多少あったにしても、聴衆を意識した判り易い作品を数多く書いており、それらが演奏会で活発に取り上げられているためではないかと考えられる。つまり演奏の現場で人気を博すことと、「現代音楽業界」で評価されることとは全く乖離してしまっているのだ。
本当にこれでいいのだろうか? 私は全体史としてのクラシック音楽は1920年代で終わったと考えることにしている。すなわちSP盤の電気録音が登場しラジオ放送が開始されたこの時代が、 19世紀から続いていた「楽譜依存型19世紀音楽」であるクラシック音楽の全体史の終焉だったのではないかと思うのだ。1920年代以降のクラシック音楽は作曲家個人々々の歴史の中で語られるべき筋合いのものではないか。長らく19世紀以降のクラシック音楽と1960年代ロックの歴史を見較べて来て、私は両者に共通する歴史的展開があるのではないかと考えている。それについて今回は記してみたい。

●「音楽産業力学」 もしくは 「ロマン派的展開」
それ以前の時代はともかく、19世紀以降のクラシック音楽は不特定多数に楽譜というソフトを販売することによって音楽を提供するシステムになった=産業化したという点に注目すべきだろう。そして、その歴史はあるジャンルの音楽産業の発展の法則(言うなれば 「音楽産業力学」)に従っていると考えるのが合理的ではないかと思っている。
不特定多数の人々にソフト(楽譜、SPレコード、LPレコード、CD、DVDなど)を売ることによって収入を得る、あるいは作品の著作権により収入を得る。これは主に19世紀以降のあらゆる音楽ジャンルにおいて作曲家たち・音楽家たちの収入源として重要なものとなった。そして、ある音楽ジャンルが発展して行く過程において、ひとつの経済的な力学が働いていくと考えることが出来る。その様相は大雑把に5つの時代に分けて考えることができる。
 (1) 確立期:音楽ジャンルとしての市場性が確立する
 (2) 爆発期:何人かの成功者が現れ、才能ある者が大挙してそのジャンルに参入する
 (3) 膨張期:過当競争が激しくなり、次第に他者との差異を強調する傾向が顕著になる
 (4) 飽和期:様々な実験的な試みの中で新奇なアイディアが次第に枯渇し行き詰まり、その音楽ジャンルの根底にある規定が破壊される
 (5) 発散期:全体としての発展は困難となり、それぞれの傾向の音楽に全体が分化される。そして作曲家・音楽家個人の音楽的な歴史の中で、既存の語法を消化していく時代となる。ただしクラシック音楽の世界においてこの時代は一般的に「前衛の幻想の時代」としてのみ認識され語られている。
仮に(2)−(4)を「ロマン派的展開」 と呼ぶことにすると、クラシック音楽においては19世紀前半から1920年頃まで、ロックでは1960年代がこれに相当するのではないかと思う。全体としてみた場合、社会に影響を与えるような音楽ジャンルはこのような「ロマン派的展開」をして行く。
では(2)−(5)のそれぞれの時代についてもう少し詳しく説明してみよう。
(2)爆発期はクラシック音楽においてはショパンやリスト、あるいはパガニーニの登場、ロックにおいてはビートルズの登場が当てはまる。彼らに憧れ自分もそのようになりたい、彼らのような成功を収めたい、人気者になりたいと思い若者たちを中心に人々が大挙して参入してくる。情報伝達が遅かった分だけ、クラシック音楽の方がヒットのサイクルが長いことは頭に入れておく必要があるだろう。クラシックでは1世紀かけて(2)−(5)のプロセスを完成させるが、ロックの場合にはマスメディアの発達のおかげで10年ほどのうちにこれが成し遂げられた。
(3)膨張期は恐らく最も重要な時期だ。その中で他者との差別化を図るために作曲家たち・音楽家たちは個性的であろう、人よりも先んじた傾向を示そうと競うようになる。ロックの世界でもギタリストの超絶技巧を誇示したり、他のグループが使わない楽器を使ってみたり(シタール、チェンバロなど)、長大な曲を作ってみたり、挙句の果ては雑誌やテレビを意識してコスチュームに凝ってみたり(エジプト人の衣装に身を包んだサム・ザ・シャムとファラオズ、アメリカ独立戦争当時の衣装で演奏するポール・リヴィアーとレイダースなど)、グループ名に凝る(ラヴィン・スプーンフル、ストロベリー・アラーム・クロックなど)ような人々も現れて来た。クラシック音楽の世界でも作品規模(演奏時間あるいは編成)の拡大、ヴィルトゥオジティの先鋭化、他分野(文学、美術など)との連携、民俗的な要素を取り入れた異国趣味、パロディや体制批判など…作曲家たちが様々な新奇な試みによって他者との違いを積極的に主張する最もロマン派的な時代である。
しかし忘れてはいけない。こうした時代の音楽の歴史というのは聴衆の嗜好の多様性に敏感に反応し、同時期に様々なタイプの作品が併存しているのだ。時代を遥かに先駆けているもの、時代の流行に対して無関心なもの、非常に保守的な傾向のもの…そして、こうした多様性こそがこの時代の音楽を非常に魅力的なものにしているのである。因みに60年代のロックにおいてシングル盤中心からアルバムとしてのコンセプトを持ったLP盤へと徐々に表現の規模が拡大して行ったことは、クラシック音楽の世界での作品規模の拡大傾向とも合致する。
業界が形成されることによってそれに関係したマスコミが発達するのもこの時代。やがてマスコミは価値判断にも重要な役割を果たすようになり、歴史観を提唱するようになる。そして進歩的なもの、実験的なものを擁護する傾向が次第に強くなる。
(4)飽和期は音楽家がそのジャンルにおける表現の限界を模索し始める。そこでは日常的なものからの離脱、超人間的なものへの憧れ、耳に必ずしも心地よくないものの濫用…といった傾向が現れる。場合によっては薬物などによって引き起こされる「超越した状態」を音楽によって表現する者も現れる。このようにしてどちらかというと自己表現のために聴衆に迎合しない傾向が顕著になり、そうしたものを前衛の旗振りをするマスメディアが擁護するという図式で時代が進んで行く。ちょうどクラシック音楽ではワグネリズム、フランキストの音楽、いわゆる印象主義など、ロックにおけるサイケデリスムがこの時期の時代様式と考えることができる。
かくして「ロマン派的展開」が終わり、(5)発散期において聴衆の大多数がもはやそれ以上の「前衛」を望まない事態に陥ると、作曲家個人々々の歴史にスポットライトが当たるようになり、全体としてのその音楽ジャンルの歴史はもはや語られなくなる。既存のあらゆる語法を使ってどのように個々の音楽家が創作していくかが問われる時代が到来する。あるいはひとつの傾向に特化した音楽の歴史がそれぞれに新しいジャンルとして語られるようになって行く。ロックでは1960年代末から1970年代初頭において、プログレッシヴ・ロックへとさらに「実験性」を高めたグループもあったものの、サイケデリスムに傾倒した多くのグループがそこからフォーク、ブルース、カントリー&ウエスタンの影響下に、さらにはプリミティヴなロックンロールに回帰して行ったことにも現れている。やがてロックの歴史はプログレッシヴィ、ハード・ロック、ヘヴィー・メタル、パンクのような新しいジャンル毎に、あるいはアーティスト単位で語られて行くようになる。
一方クラシック音楽の世界でも1920年代以降にも「前衛的な創作」を続けて行った人々がいる。しかしながら多くの作曲家たちはこうしたものも書く一方で(現実には前衛的なものは一切書かない人もいるが…)映画音楽、子供のためのピアノ曲、合唱曲、吹奏楽のための作品、実用音楽などにも手を染めているのが現状なのだ。ひとつの理由として現代音楽業界向けの「前衛音楽」は一般受けするようなものではなく、基本的な生活収入を得るのに適さない現実がある。私にはクラシック音楽業界は前衛に志向した創作だけを「現代音楽」として喧伝することによって、その全体史が未だ続いているかのように偽装しているのではないかという気がしてならない。
このように20世紀のクラシック音楽史は表面上「前衛の継続」を装いつつも、実質的には「発散期」、「個人史の時代」に突入していると考えるのが自然、と私は考える。またそう考えた方がクラシック音楽の現在はより多様で、親しみ易く、楽しいものになるのは言うまでもない。子供たちが愛奏する湯山昭の「お菓子の世界」が、20世紀の日本が産んだピアノ曲の最高傑作として語られるような…そんな聴衆の本音で音楽が仕分けられる時代が早く来て欲しいものだ。

●音楽評論はどうあるべきか
今回は私のクラシック音楽ソフトの蒐集家、音楽評論家としての活動から、クラシック音楽界の問題点について書いてみたい。
考えてみれば私は小学生の頃からロックのレコードの蒐集を始め、ローリング・ストーンズ、キンクス、ヤードバーズ、フー、ピンク・フロイド、ドアーズ、アイアン・バタフライなどの音楽に親しんでいた。けれどもサイケデリック・ミュージックのムーヴメントが下火になった1969年頃にロックを聴くのを辞め、どういう訳かクラシック音楽を聴くようになった。それ以来、かれこれ40年以上もクラシック音楽ソフトの蒐集家である。趣味が嵩じて1976年から18年半の間レコード会社で海外盤ソフトに基いた国内仕様LP・CDの制作・宣伝・編集作業に取り組んだ。そして1994年にレコード会社を辞めてから16年間、当初は「レコード評論家」、現在は 「音楽評論家」 という肩書きで執筆活動をしている。
なぜ最初に「レコード評論家」という肩書きにしたかといえば、当時の私はレコード収集家、レコード会社の編成・編集・宣伝業務担当としての経験は十分にあって、レコードの良し悪しについてはそれを自分なりに判断するだけのノウハウを持っていたからだ。これに対してコンサートの現場についての知識には欠けているので、最低でも 1,000以上のコンサートに通うまで「レコード評論家」のままでいようと心に決めていた。コンサート通いは年間 250回以上のペースで続け、もうすぐ 4,000の大台に乗る。また、自分でもいくつものコンサートを主催するなどして、こちらの業界の仕組みに関してもある程度のことが自分なりに理解できた。それゆえ最近では「音楽評論家」を自称するのに違和感を覚えなくなって来ている。
けれどもこの「音楽評論家」という職業に対するファンの方々の、特にコンサート会場でしばしば顔を合わせるようなヘヴィー・コンサート・ゴーアーの方々の目は厳しい。それは何故なのだろうか? 簡単に言うならばそれは音楽に対する愛情の温度差が原因ではないか。一般教養のビジネスとしての音楽評論家の在り方と、個人の趣味としてのファンの在り方の違いがそうした温度差を引き起こすのだ。そして、クラシック音楽業界の価値観が多様化しない原因のひとつは「音楽評論家」が「個人の趣味」ではなく、「一般教養のビジネス」に基いて為されるようになってしまったことに起因するのではないか。それと同時に、業界全体に見られる編集業務の劣化もこうした傾向を助長している要因だろう。では音楽評論家には一体何が必要なのか? 今回はそうした問題点を自分の経験を踏まえて記してみたい。
(1)自分の書いたものに責任を持つ
音楽評論家に限らないが、音楽ライターであれ、ジャーナリストであれ、チラシやプログラムなどに推薦文を書いたような人物がそのコンサートに来ていないというケースにしばしば遭遇する。私は基本的にこうしたことだけは無いようにしている。日程的に自分で行けないようなコンサートを他人に薦めることはしないし、推薦文は引き受けない。数箇所で開催の場合には首都圏で聴けなくても日程を調整し必ず他のどこかで聴くようにしている。「己の欲せざるもの他人に施すなかれ」、これはあらゆる音楽評論家の基本ポリシーであって欲しいと私は願っている。また、それをしっかり守っているような評論家、ジャーナリストの書くことは信用するようにしている。他人に薦めたコンサートに自ら出かけることによってその責任を果たす。別にコンサートが酷かった場合に聴衆に対して土下座しろというのではない。酷かった場合には反省を、良かった場合には自分の活動に自信を持って帰ればいいのだ。こうした確認作業の積み重ねが聴衆の信頼を得るための唯一無二の方法なのではないだろうか?
そこまで他人に押し付けようとは思わないが、個人的には曲目解説だけを書いたものであってもそのコンサートには行くようにしている。それは自分が原稿を書いた時に頭に描いたものと、実際にコンサート会場で響いた音楽にはちゃんと整合性があったかを確認するためだ。それと私は自分が本当に好きでもないような曲目の解説は書かないことにしているので、結果として曲目に関しても自分にとって「買い」のコンサートになるからだ。
いずれにせよ読者に対する最低限の責任として推薦文を書いたようなコンサートには必ず出かけて、聴衆として一緒に時間を過ごすというルールは守りたいものだ。
(2)消費者・聴衆として、自分の好奇心・欲求に忠実に行動する
音楽愛好家・消費者としての自分に立ち返る時、自分がとても好きなアーティストや作品についてそれに相応しい愛情を感じられない文章に接することほど腹立たしいことはない。演奏会評でも、CDの紹介文・批評でもそうだ。いつも思うのだが自分にとって興味の無いアーティスト、興味の湧かない作品について書くとそのような結果になることが多い。そして自分の18年半のレコード会社における編集者としての経験から言えば、こうしたケースの責任の半分は執筆者、半分は編集者にある。
私は基本的に自分が良いと思ったコンサートやCDに関してしか原稿を書かないように心がけている。行ってつまらなかったコンサート、聴いて面白くなかったCDについて書いてもそれは紙面の無駄のように思えてならないからだ。それにこの連載の中でもすでに記したが人間の嗜好は十人十色。自分はそうでなくてもそのアーティストや曲目について好きな人は必ずいるはずで、そうした人が書けばいいのだ。私は原稿を依頼された時に、かつて編集者の端くれであった自分の良心として「むしろこのアーティスト、曲目なら○○さんの方が私よりも良い原稿が書けるのではないですか?」と答えてしまうことが多い。そうした対応を「傲慢だ」、「生意気だ」などと編集者の方々から批判されることがあるのには驚いてしまう。しかし、まずはそのコンサートやCDに関する原稿に接する読者のことを第一に考えるのが筋ではないだろうか?
怖ろしいのは、自分が価値を認めたものについてしか書かないという態度で音楽評論活動を行っていくと、一般的な読者は「あの人は何でもほめる人だ」という風に誤解してしまうことだ。裏返せば、それくらいコンサートやCDについて醒めた気持ちで書いている原稿、愛情に欠けた文章が溢れているということなのだろう。
(3)業界の広告塔である前に「ユーザーとして音楽評論家」であること
これはクラシック音楽だけに限った話ではないかもしれないが…大きな宣伝予算が付くようなアーティストやプロジェクトに関心を持ったり、関わり合いになった方がより多くの収入につながるし、露出の大きなメディアに登場するので音楽評論家としてステータスが上がる。そのため音楽評論家は自分の本来の趣味・嗜好は措いて、どうしてもマスコミで現に話題になっているような演奏家、作曲家、作品を中心に聴いたり調べたりするという傾向が強くなる。業界に関連したメディアからも、どんな問いかけをしてもそれなりに無難な答えが返ってくるような万能評論家が望まれているようだ。何よりも編集する側からするとこうした人の方が使い勝手が良いに決まっている。
先日、突然、ある媒体の方から「今年のサイトウ・キネン・フェスティバルで、小澤征爾の代役で《サロメ》を指揮したヴェルバーについてどう思われますか?」という趣旨の質問の電話がかかってきた。私は「申し訳ございませんが私はサイトウ・キネン・オーケストラには興味がありません」と答えた。そもそもどうして私にこんな電話が架かってくるのか? 私の日頃の言動(例えば 「コンサートなび」に毎月連載している「このコンサートが買いだ!」)を少しでも知っているなら、私が器楽・室内楽を中心に聴き、オーケストラはもっぱら協奏曲を聴くために行くような人間であることが容易に判りそうなものだが… 自分が関心の無いことに時間を費やしている暇は私にはない。なぜなら私が自分のクラシック音楽における趣味を探求するために一生は余りにも短く、聴かねばならないコンサートやソフトは余りにも多すぎると思っているからだ。それに私は一般教養としてのクラシック音楽業界の常識や価値観を究めたいとは全く思っていない。
様々な評論家によって多様な見解・趣味が示され、そうした中からコンセンサスが形成されていく必要がある。10人が10人業界(音楽学者の業界も含め)の価値観を代弁して発言するのであれば評論家は誰がやっても同じことになるし、聴衆の多様な価値観にクラシック音楽業界として柔軟に対応できなくなる。業界の価値観を代弁するのではなく、常に独立した個人の価値観・美意識を持って音楽を語ることが必要なのだ。
(4)常にコストの意識を持つ
世間常識として、ものの値段というのはそのコンサートあるいはCDの価値とリンクしているべきではないか? 6万円のチケットを買ったコンサートの感動は、5千円のコンサートの感動よりも遥かに大きなものでなければ辻褄が合わないと考えるのが自然だ。けれどもこのように価格という問題を話題にするのは品のないこと、あたかもクラシック音楽の価値を冒涜する行為であるかのように言う業界人が少なくない。また音楽評論家が招待でばかりコンサートに行っていると、チケットの額面価格がいくらであるかを忘れてしまい、大甘な批評をしてしまうことがしばしばある。招待者はタダで貰えるプログラムも聴衆はお金を払って買っていることを認識して読むべきだろう。消費者であること、ファンの立場に立って価値評価する気持ちは一生忘れたくないものだ。幸か不幸か私の場合には行きたいコンサートでも招待が来るのは3割程度なので、消費者としての自分を忘れることが出来ない状態にある。
その一方で、入場料が安いことによって発生する様々な問題点についても、こうした廉価なコンサートに出かけ考えてみるべきだろう。廉価なコンサートでは、安いという理由だけで別段興味も無いのに来た聴衆が盛んに不必要な物音を立てるトラブルが少なくない。またプログラムがあまりにお粗末であったり、本来あるべき珍しい曲目に関する解説などのインフォメーションが無かったりする。一方、CDが超廉価になった場合には編集業務が杜撰だったりすることが多々ある。こうした事実を踏まえて、安いことは良いことだと単純に考えるのではなく、それが本来コストをかけて整備されている場合に較べて劣る点がないかを考察する必要がある。
(5)日本のクラシック音楽界の現状について認識を深め、分析する
外来の音楽家、とりわけ額面価格の高いオペラやオーケストラのコンサートに通うことが一種のステータスだ、と考えているクラシック音楽ファンが少なくない。そして業界関係者や音楽評論家の中にもそうしたものに数多く顔を出すことが、自分のステータスと勘違いしているような人をしばしば見かける。私は思う、日本のクラシック音楽業界関係者、音楽評論家はもっともっと日本人のアーティストにこだわって聴く必要性があるのではないかと。私は特に思想的に右翼ではない。むしろ経済的な観点からそれを考えている。すなわち同じクオリティの音楽家であれば日本に在住している者の方が私たちに優れた音楽を廉価で提供してくれる可能性が高いからだ。言うなれば音楽における「地産地消」の考え方である。それに外国のアーティストたちに関してはそれぞれの国の音楽評論家が責任を持って評価すればいい。我々日本人はまず日本人の演奏家に注目すべきではないか? 「地球規模で考え、地域的に行動する」というエコロジーのスローガンは音楽評論活動に関しても至言である。
間違いなく言えることは少なくともメカニックの部分に関して日本人アーティストは20年前とは比較にならないほどに高くなって来ている。海外の人々に伍してやっていけるだけの実力は持っている音楽家が少なくない。そうした現状であるにもかかわらず海外に較べて日本のアーティストが劣るというのであれば、それは音楽家個々の問題というよりも我が国のクラシック音楽業界のシステム、あるいは音楽教育の在り方などに問題があると考えるべきだろう。
(6)自分が薦めたアーティストを聴き続ける
自分の書いたことに責任を持つのは当然だが、現在活躍中のアーティスト・団体などについて記したものに関しては原稿の賞味期限があるということも忘れてはいけない。音楽評論家は同じアーティストを聴き続けることによってその現状を把握して行くのだが、半年、1年ならまだしも、2年、3年と時が経つとそのアーティストの演奏が大きく変化することもあり得る。良い方向に変化してくれるのは歓迎だが、自分がかつて魅力を感じていた要素が全く失われてしまうということもある。あるいはかつてその団体の主催コンサートは素晴らしかったが、最近ではすっかりコンサート内容や編集業務の質が落ち、しばしばトラブルも発生しているというようなケースもある。したがって様々なアーティストや団体の活動は継続的に聴き確認する必要がある。また読者はアーティストの宣伝文に批評が引用されている場合にはそれがいつの時点で書かれたものなのか、注意深くチェックする必要がある。と同時に、音楽評論家の音楽に対する姿勢も2年も経てば変わってくることもあるので、自分が信頼する人物の書いていることを信頼するに足るかどうか折に触れチェックすべきだろう。
音楽評論家が自分の好きなアーティストにこだわって聴くことの必然性、それは現代のような「新人アーティストの使い捨ての時代」においてますます重要ではないかと私は考える。とかく日本ではコンクール入賞歴や話題性が重要視され、20代前後の演奏家がやたらともてはやされ騒がれる。しかしながら4、5年も経つとその後に登場する新たな人々の陰に追いやられ、そのアーティストについての言及が急速に減っていく。音楽評論家はそうした業界の趨勢とは関係無しに、自分が良いと思ったアーティストを継続的に注目し続けることが重要ではないかと私は考える。新人たち全員を把握するのは不可能だが、それぞれの評論家がその演奏に自分なりの愛着を持てるような音楽家を選択して追って行くようにすれば、かなりの人はそれで救われるはずだ。言うなれば演奏家の仕分け作業である。
(7)そのコンサートやソフトがクラシック音楽の演奏史の中でどのような意味を持つのかを折に触れて考察する
コンサートもCDもアーティストや曲目と聴衆との出会いの場である。音楽評論家はある作品の受容の歴史に関心を持ち、その中で当該のコンサートやCDにおける演奏がどのような位置付けを持っているのかを考える必要がある。そのためにはある作品が受容され録音されて来た歴史を折にふれ研究しなくてはいけない。幸いなことに海外では20世紀末から、19世紀末に録音機器が誕生して以降の貴重な録音の復刻が目覚しい勢いで進んでいる。とにかく自分が関心のある作品・ジャンルについては最も古い音源からこうした復刻盤を徹底的にリサーチしておくことが大切だ。ひとつ気をつけたいのは、人から聞いたり、本を読んだりして得た知識は音楽評論家にとっては単なる伝聞に過ぎず、実際に演奏や音源を聴いて得た知識が本当の知識なのである。こんなことは当たり前すぎて書く必要もないことなのだが、敢えて書かねばならない現実があるのだ。
こうして評論家に本来必要と思われる用件を並べて行くと、いくら時間があっても足りない仕事だということが容易に理解されるだろう。これは何か別に専業の仕事を持ってその片手間にできるような仕事ではない。けれども専業で音楽評論家という仕事に携わった場合でも、それに見合うだけの収入が得られる可能性はきわめて低い。「あなたはそんなことを偉そうに書きますが、誰がそれをやるのですか?」 そう言って私を叱責する音楽評論家もいるかもしれない。けれども私は敢えて答えたい。今それをすることの出来る人がまずそれをしなさい、と。
私個人の経験から言えば、音楽を聴くに当たって最も難しいことは「先入観を排して、虚心に聴く」ということ。次に難しいのは「自分の感想を正直に言う」こと。3番目に難しいのは「消費者として自分の心に正直にコンサートやCDを選択する」ということではないか。当然のことながら評論家の仕事は何に対しても安易にコメントしどんなことでも引き受けることではない。場合によっては「興味が無い」、「判らない」、「知らない」とハッキリ表明することも必要なのである。

●録音の存在〜クラシック音楽が根源的に抱える矛盾
この連載の第4回目を書き終えてからコンサートに通っているうちに、ふと3年ほど前に頻繁に耳にしたひとつの言葉が折に触れ頭に浮かんで来るようになった。それはアメリカの金融機関に関して発せられた「大きすぎて破綻させられない」という言葉。ひょっとしてクラシック音楽業界も「破綻したら大変だ」という防衛本能が業界全体として常に働くように出来ているのではないか、という疑問が頭をもたげて来たのだ。
そもそもクラシック音楽というものは、以前にも記したように19世紀ドイツ語圏を中心に、楽譜を販売し、演奏者を教育し、コンサートを興行するという3本柱で成長した産業であった。それは19世紀の間に順調に成長を続けて行った。そして普仏戦争でプロイセンにフランスが負けると、クラシック音楽の振興に敗戦の憂き目を味わったフランスをはじめ、それぞれの国の富裕層、貴族、王、政府などが積極的に関与するようになり成長に拍車がかかった。
しかしほどなく大きな問題が起こった。19世紀末にレコード(録音)が出現し、20世紀初頭にはピアノ・ロールのような自動演奏楽器までも登場したことである。上述の通り、クラシック音楽の前提である音楽を再現するための3点セット――楽譜販売、演奏教育、コンサートを省略して、音楽を家に居ながらにして楽しむことの出来るシステムがここに確立してしまったのだ。
ただ当時の蝋管録音やアコースティック録音のSP盤は音が貧弱だったために大きな脅威とはなり得なかったかもしれないが・・・しかし電気録音のSP盤、モノラルLP、ステレオLP、デジタル録音LP、そしてCDというレコード発達の流れの中で、脅威は知らず知らずのうちに大きくなってしまったのだ。
全ての人にとってそうではないだろうが、少なくとも私のように自分で楽器を演奏したり歌ったりしない人間にとっては、このレコードの登場によって音楽を楽しむ自由が驚異的に広がったことの意味は大きい。
かくしてレコードの登場はクラシック音楽の産業としての「在り方」に矛盾を生じさせたのだ。怖ろしいと思うのは多くのクラシック音楽関係者がこのレコードの存在に何の矛盾も感じていない点。自分のレコードを制作するに当たってそれは自分のコンサート活動のためのプロモーション・ツールとして考えている人も少なくない。
「いやあ、そうは言ってもコンサートでの実演とLPやCDでの鑑賞とでは音のリアルさが全く違いますよ・・・」、という風に言いたがるクラシック音楽業界関係者は多い。しかしながら私はこの見解には異論がある。
あらゆる音楽において聴き手に快感をもたらすのは基本的にはその音のリアルさである。ましてやクラシック音楽のように書法の緻密さが取柄の音楽では、細部が明瞭に聴き取れることが作品および演奏を理解する上での重要なポイントである。それゆえピアノ独奏や歌曲、小規模な室内楽といった小さな編成のものは小さな会場において間近で聴くのが最も心地よい。
こうしたものを「(クラシック)音楽専用ホール」と呼ばれる残響過多のコンサート会場の舞台から遠い席で聴くくらいなら、家でCDを聴いたりDVDを見る方がよほどリアルに音楽を鑑賞できるのだ。こうした会場では舞台からの実音は客席に伝わる間に、乱反射した残響が加わりもやもやした音像になってしまう。ちょうど衣の厚い天麩羅を想像すれば良いだろう。
こうした「音楽専用ホール」で聴くなら、舞台との距離が近い最前列とその近辺かバルコニーの舞台に近い席がベストだと私は考えている。実際にヘヴィー・コンサート・ゴーアーの方ほど最前列にこだわってチケットをお買いになっている傾向が強いのは当然だし、私もそういう基本方針でチケットを購入している。
たしかにオーケストラの場合には残響の多い「音楽専用ホール」は必要かもしれない。オーケストラをひとつの楽器に見立てれば、その音が互いに融合するための残響は必要であり、ホールがその役割を果たす。ホール自体が楽器の一部になるのだ。これはオルガンの場合も同様だ。と同時にオーケストラとは電気増幅という技術が無かった時代に、大きな会場で多くの聴衆に効率よく音楽を提供するシステムとして発展したとも考えられる。そのために「残響」という電気に依らない音の増幅にこだわったという見方も出来るだろう。
最近思うのだがクラシック音楽業界の人々およびファンがことさらオーケストラにこだわる理由は、音楽専用ホールにおいて実演で聴くことのメリットが最もあるのはオーケストラであるからではないか? そのこと自体は全く構わないのだが、その副産物として 「残響信仰」 がクラシック音楽業界に根強くあるのは問題ではないだろうか? 
つまりホールの用途、大きさに関係なく残響の多い会場が良いコンサートホールだという信仰である。それぞれの音楽ジャンルにはそれぞれに適した残響があるのだ、という当たり前のことを無視して、残響が多い会場でなければクラシック音楽はいけないという盲目的な信仰だ。
もうひとつ多くの人々が理解できていないのはいわゆる「音楽専用ホール」においては、舞台上での音の聴こえ方は客席でのものとは大きく異なるということ。例えばピアノの場合など効果てきめんだが、こうしたホールでは音源から遠くなればなるほど残響の衣が分厚くなり、音のリアルさが失われて行く。それゆえ一流のピアニストたちはこうした舞台と客席との音の違いを十分に計算してホール残響に合わせた演奏をするし、そのことを苦にしない。けれどもそれが出来ない人たちもいる。ピアノという楽器の性能を存分に発揮できる環境としては、過剰な残響によって演奏を制限されないコンサートホールが望ましいのではないか? 個人的には首都圏の中規模ホールでは東京文化会館小ホール、あるいは津田ホールがピアノ・リサイタルにはベストと思っている。
そうした現状から私はクラシック音楽業界に顕著な「生音信仰」、マイクロフォン(電気増幅というプロセス)を通すと音楽の微妙な味が損なわれるという主張にはいささか無理があるのではないか、と考える。その想いは頻繁にコンサート通いをするようになってから一層強くなった。大きな集団の音を規模の大きな音楽専用ホールで聴くオーケストラを別とすれば、生音を最良の条件で聴くことの出来る環境を実現することは今日では困難になりつつある。一流の演奏家の実演を間近で聴くことこそが一番の贅沢なのだが、それを実現するために小さなホールを使うにはアーティストのギャラが高騰し過ぎている。残響が多くてもやもやな音しか聴こえない席で聴くくらいなら家でCDを聴いた方が余程ましなのだ。
聴くことの出来るレパートリーの豊富さ、アクセス可能な演奏の膨大さという点でもレコードは遥かに実演よりも優位に立っている。何しろコンサートのように同じ時間・場所に聴衆を集める必要が無い。たしかにその分、販売するソフトをどこかに在庫しなくてはいけないという問題も生じる。しかしそれもネット販売の強化、さらにはダウンロート・サービスの質的向上で早晩解決するのではないか。こうした問題がクリアーされれば一般的ではない曲に関心を持つ聴衆を世界中から集めて2,000枚売る事が可能だ。それを生のコンサートで同じ時間・会場に2,000人集めて聴かせることを考えると、それがどんなに大変なことなのかは容易に想像がつくだろう。また音楽ソフトは19世紀末から今日に至るまで間断なくどんどん蓄積されて来ており、これからもそれが延々と続いて行く。
勿論、レコードにも欠点はある。録音音源の編集作業が可能なことだ。それは一般にはテープ録音以降の録音の長所と考えられている。しかしながらそれは諸刃の剣だ。たしかにひとつの演奏をより完璧なものとして仕上げることを可能にする一方で、音楽家のありのままの姿を伝える機能がそのために阻害されてしまうこともあるからだ。
以前レコード会社に勤めていた頃こんなことがあった。ある熱演タイプの音楽家に関し海外の制作担当者と話していて 「どうしてライヴ録音にして彼の演奏の白熱を伝えないのか」 と訊ねたところ、「それは一度聴くにはいいが、繰り返し聴くと飽きてくる」 との答えだった。しかし、一度聴いてインパクトの無いものを果たして消費者は買うだろうか? そして繰り返し聴くだろうか? 実演の白熱が伝わらないもどかしさ、テンションの低さ、それらは何度も何度も編集されたつぎはぎだらけのものを聴かされることに大きな原因があるのではないか。私はそんな疑問を持ち続けている。勿論これはプロデュースする側のポリシーの違いもあり一概には言えないだろう。編集を極力少なくして音楽の自然な流れを大切にしようという制作者もいるだろうし、録音に際して編集により実演では不可能なことを実現するという明確な目的意識が存在する場合さえもあるだろう。
いずれにせよ今日では経済効率が余りにも優先され過ぎていて、以前のように時間をかけてじっくりと録音して手間暇かけて良いものを作ろうという意識が希薄である場合が少なくないように私には思われてならない。何よりも手間暇かけるための経費を負担するにはレコード(CD)はその価格が他の物価の上昇に取り残され安くなり過ぎてしまったのではないか。そうした事情も背景にあってか(これは私の勝手な思い込みなのかもしれないが・・・)、最近では特にオーケストラの録音においてライヴ収録によりCDが制作されることが多くなっている(その場合でもゲネプロ、場合によってはリハーサルも録音していて編集作業はあるのだろうが・・・)。あらゆるジャンルにおいてこうした傾向がより一層進み、これまでに数多くの録音が遺されているような有名名曲の市販用CDの録音では、トラブルがあっても構わないからライヴの一発録りに近いものをという方向性が基本になればいいのだが・・・と私は心密かに願っている。

●掛替えのない録音遺産の保存の必要性
私が第5回の原稿を書き終わってから40日ほどして東日本大震災が発生した。その時、私は杉並区の自宅に居た。遅い昼食を近くの飲食店で済ませて家に帰り、DVDを観ようとディスクを入れた瞬間に揺れを感じ始めた。最初のうち、弱い横揺れを感じたので 「これは遠い地震だから大丈夫、10秒もすれば収まる」 と漠然と思っていた。しかしどんどん揺れが大きくなる。しかも収まる気配が無い。心配になって仕事部屋に行くと、本棚の上にブックエンドで支え並べてあったLPが次々と落ち始めていた。隣の部屋ではスライド式本棚の上にポリプロビレン製のキャリーボックスに入れて保存していたコンサート・プログラムが箱ごと落下、大破していて足の踏み場も無い状態。怖くなって居間に戻り、揺れが収まった時点でテレビをNHKニュースに切り替えた。
それから後は東京で、自宅にいて東日本大震災を体験された多くの方々と同様に余震に怯えながら、津波の猛威を伝える驚愕すべき映像をただただ呆然と見つめていた。こんなことが本当に起こってしまうとは…改めて東日本大震災で犠牲になった方々のご冥福をお祈りするとともに、半年以上経っても遅々として進まない復興が被災者の方々の意見を十分に取り入れる形でスピードアップして行くことを祈らずにはいられない。
大震災のその日のうちに私はキャリーボックスを買い直して、ほとんど整理もせずにプログラム類を収納し、ブックエンドで止めていただけのLPレコードを、今度は簡単には動かないようにするため箱に詰めて自重を重くして元の位置に戻した。早目に手を打たないと余震でどうかなるのでは…そんなことを考えて行動したのだった。それにしても震度6を超えるような地震が来たら私の家に保管しているかなりの量の音楽関係のソフトや楽譜、書籍などはどうなってしまうのだろうか? 今でも不安で仕方ない。我が家では本来なら寝室になっているはずの二部屋が完璧に書庫と化している。スライド式本棚に本とCDがびっしりと詰まり壁の全てを占領。それだけでは足りずに部屋の中央にも高い本棚が立っている。居間にも、クローゼットの中にも楽譜、音源や映像のソフト、音楽関係の書籍が入っている有様だ。十分な震災対策を講じるには余りにも保有している資料類が多すぎるのだ。
そんなに多くのもの持っていて一体どうするのですか、必要なものは様々な図書館などで当たればいいのではないですか? と疑問に思う人もいるかもしれない。しかしこれらの多くは自分にとって掛替えのない資料なのだ。たしかに音楽大学などの図書館をはじめ様々な施設に音楽関係の図書やソフトが数多く所蔵されている。けれどもそうしたものは不特定多数の人々にとって重要と施設側で判断するベーシックなもの、今日的な評価が確定しているような作曲家、作品、演奏家に関するものが大半である。だから私は楽譜や書籍に関しては自分が特に強い関心を持っている鍵盤音楽・室内楽を中心に、一般には知られていない作品を中心に蒐集している。私はどこの図書館にでもありそうな有名な曲に関しては仕事で必要な最小限にし、省スペースにこれ努めている。とにかく一般に知られざるもの、関心の低いものについては個人的に蒐集するしか手軽にアクセスする有効な方法が無いのが現実だ。
私のコレクションで自分が重要と考えているもののひとつはやはり一般的に知られていない作曲家・作品の楽譜とそれらに関連した書籍。例えば私はスペイン関係の楽譜や書籍をサラゴサ(スペイン)の書店から買っているが、そうしたものがどれ位、我が国には輸入され図書館などに所蔵されているのか見当がつかない。恐らくほとんど無視されているのではないだろうか?
たしかに最近では著作権切れの楽譜を電子化し、自由にダウンロードできるようになっているホームページもある。私は最近その存在に気付いたのだがこれはとても便利だ。一般の人が古い楽譜を自炊(PDF化)して投稿しているケースが多いのだが、ヨーロッパの図書館自体が古い蔵書を電子化して公開しているものさえある。つまり現地に行かなくても自宅に居ながらにして初期の手稿譜などを見ることができるのだ。私が特にこだわりを持っている18世紀の作曲家ではドイツの作曲家クリストフ・グラウプナーや、ポルトガルの作曲家カルロス・セイシャスの手稿譜などを直接見ることが出来て大変重宝している。けれども世界各地のあらゆる図書館がこうした作業を積極的に進めているわけではない。またそれはあくまでも著作権切れの楽譜に関してのみである。なおかつ作品としての著作権は切れていても新たに校訂された版で出版されているものを、こうした無料サイトを通じてダウンロードは当然のことながら出来ない。有料のサービスまで活用したとしてもインターネットからのダウンロードでは入手できないものは多い。デンマークのダン・フォグという中古楽譜店から年に数回送られてくる中古楽譜のリストを見ると 「え、こんなものがあったのか!」 という作品が載っていて、自らが楽譜を蒐集する必然性を改めて実感してしまう。まだまだ電子化された楽譜は十分とはいえないのだ。
こうした一般的ではない作品の音源(CD、LP、DVD)に関してはどうか? 例えばCDによってポーランドの音楽の歴史について知ろうと思ったらアクト・プレアラブルやDUX、スペインの音楽の歴史について知識を深めようとするならスペイン音楽学会、ラ・マ・デ・ギドをはじめとするマイナー・レーベルの音源を蒐集して行かないと十分なものが揃えられない。そこには世界で唯一録音されている楽曲なども少なくないからだ。そうしたものは輸入業者を通じて国内市場に流通はするだろうけれども、それらが公共の図書館に継続的に買い入れられている可能性はほとんど無いだろう。ただこうした比較的最近に出版されたものに関しては、ある程度の時間がかかったとしても発売元の会社にアクセスすれば何らかの方法で入手することは可能かもしれない。ただし、それもそのレコード会社が存在していればの話である。
実は私が自分のコレクションで最も大切と考えているのは、今日あまり顧みられない過去の様々な演奏家たちの録音の数々、特に古いLPレコードだ。そうしたものの中には一度失ってしまったらもう二度と入手できない可能性があるもの、できるとしても膨大な手間隙がかかってしまうであろうものが少なからずある。今日的な評価は低いかもしれないが演奏史の流れを追っていく上では欠かせない音源というものがとても多い。
例えば1970年代から80年代にかけてポルトガルの A VOZ DO DONO(HMV) レーベルから発売されていた “LVSITANA MVSICA” というシリーズの10枚のLPはルネサンス〜バロック期のポルトガル音楽復興の先駆けとなった大変重要なシリーズであり、名演奏が揃っていたのだが残念ながらCD復刻されていない。こうしたものは恐らくポルトガル国内の図書館などには所蔵されているのではないかと思われるが、果たして日本国内ではどうだろうか?
こうしたレア・アイテムでなくとも音楽大学の図書館などでもLPレコードの保存には困っているところが少なくないようだ。CDに較べて活用される頻度が少ないこともこうした資料の置かれた状況を悪くしている。図書館から遠く離れた倉庫に別途保存されたり、場合によっては売却されてしまうことさえあるようだ。そうするとやはり万が一の場合には発売元のレコード会社が最後の頼みの綱ということになる。
けれどももしそのレコード会社が無くなってしまったら、あるいはどこかの会社に吸収合併されてしまったらどうなるのか? 多くの場合そうした音源は資産として売却されたり、別のレコード会社のカタログに加えられたりする。けれども実際の制作者ではない他人の手にその発売権が移行した音源というのは一部の売れ筋のものを別とすれば、大きな関心を持たれず、冷淡な扱いを受ける可能性が高い。また新しい録音を行っているような会社では新発売の商品に力を入れて宣伝するし、たまにカタログを集中的に再発売するような企画があっても、それは過去の売り上げ実績から評価の確定しているものに偏してしまうことが多い。その結果、クラシック音楽の世界では膨大なカタログがあるにもかかわらずそれらのほとんどが眠ってしまう結果になっている。
その中にはどうでもいいようなものも少なからずあることだろう。けれども同時に、一般には知られていないけれども掛替えのない名盤が埋もれていることが多々あるのだ。メジャー・レーベルではこうしたカタログの一部を別な復刻専門の会社に権利を貸与して再発売させ、印税収入を得るという方策を講じているケースが多い。しかし、そうしたものを加えても我々が容易にアクセスできるのは過去に録音された膨大なカタログ全体のほんの氷山の一角に過ぎないのだ。
多くの場合、古い余り一般的ではない音源というのは、その眠りを覚ますような旺盛な探究心を持った企画者に出会わないと埋もれてしまうケースが圧倒的だ。私は18年半にわたりレコード会社で海外のレコード会社から発売されているLPやCDを国内盤化する作業に携わって来た。そんな中でとりわけこうした埋もれてしまっている音源の眠りを覚ますような作業に熱心に取り組んできたと自負している。音楽評論家になってからも過去の忘れられてしまい復刻されていない優れた音源について積極的に記すようにしている。また優れた復刻盤に関しても可能な限り取り上げるようにしている。
それにしてもディスクユニオンなどの中古レコード店に行くと、未だにその存在すらも知らなかったLPレコードに遭遇することが少なくない。先日もフランスの名指揮者アンゲルブレシュトが振ったグリーグ 「ペール・ギュント組曲」 (抜粋)の25cm盤を発見し、慌てて買い求めた。その時点ではこれがどんな演奏なのかは聴いたことがないので判らなかった。けれどもアンゲルブレシュトは1880年生まれであり、ドビュッシーと親交がありこの作曲家を得意としていた指揮者だ。しかも近年欧米ではグリーグがドビュッシーに与えた影響に関して研究が進められている。またアンゲルブレシュトはドレーフュス事件に際してグリーグがドレーフュス派であることを表明し、激しいバッシングを受けたことも同時代者として知っていたはずだ。そうした状況からなおさらのことこのLPには興味がある。いずれにせよ自分の好きな曲に関し、過去にどんなアーティストによるどんな演奏があったのかを知る努力をすることは、その音楽を語る上で常に重要なことではないだろうか?
クラシック音楽は常に過去を参照しながら、その歴史を辿りつつ新しいものを創造して行くものだという風に私は認識している。けれどもクラシック音楽業界の産業の一部門としてレコード会社のクラシック部門が位置づけられている現状では、どうしても現役のアーティスト、新しい録音を宣伝することにクラシック音楽担当者の目が行きがちだ。それゆえになおさらのこと音楽評論家こそは優れた過去の録音遺産を常に研究し、継続的にクラシック音楽ファンに対して啓蒙していくことが大切だと私は考える。たとえそれが身銭を切ってなおかつ手間暇がかかる割に報われないことであったとしても…

●何故、私は「知られざる作品を広める会」を主催するのか
高校生の頃、私が自ら進んでクラシック音楽の世界に首を突っ込んだ時から今日に至るまで約45年が経った。その間に自分にとって「え、これが本当に名曲なの?」と思ってしまうようなこの業界のスタンダード名曲に私は数多く遭遇した。確かに見事に構成されている作品なのだろうが旋律的な魅力に乏しかったり、曲が長過ぎて訳が判らなかったりして閉口することが少なくない。研究の対象として分析するのには面白いのかもしれないし、アーティスト・サイドは完璧に演奏すれば達成感が得られるのだろう。また聴き手の立場からすれば「難しい名曲が理解出来た」という満足感に浸れるかもしれない。しかし私がこうした作品を能動的に聴きたいかといえば全く食指が動かない。恐らく余程の才能を持った演奏者に恵まれなければ、私にとって心ときめくような楽曲にはならないのではないかと思ってしまうのだ。
その一方でクラシック音楽ファンと話していても相手の知らないような作品が私にとって最愛のものであることが少なくない。ポーランド共和国の初代大統領にもなったピアニスト・作曲家イグナツ・ヤン・パデレフスキ(1860−1941)の「ピアノ協奏曲イ短調op.17」はグリーグ、サン=サーンスの第2、5番とともに私にとって最愛のピアノ協奏曲のひとつ。ポーランドのアーティストによるものを中心に録音も決して少なくなく私は音源も10種類近く持っている。けれども実際のコンサートで聴いたことは一度も無い。またほとんどのクラシック音楽ファンはこの曲を聴いたことが無いようだ。また私が社会人になりたてだった1970年代後半にはロシアの作曲家アントン・アレンスキー(1861−1906)の「ピアノ三重奏曲第1番ニ短調op.32」は全くといっていいほど知られていない作品だった。 1980年代末のCDブームでヨーロッパの様々なマイナーレーベルがこの曲を録音するようになって徐々に有名な作品になって来たが… それでも私のように古今東西のピアノ三重奏曲の中の最高傑作に挙げる人はまずいないのではないか? わずか19歳で夭逝したスペインの作曲家フアン・クリソストモ・アリアーガ(1806−26)の「弦楽四重奏曲第1番ニ短調」もまたしかり。聴かれさえすればかなりの人がCDを買ってみようと思う作品であるにも関わらず聴衆がアクセス出来る機会がとても少ないのだ。私はこれまで実演では2度しか聴いたことがない。
自分が好きな作曲家・作品で一般的に知られていない作品の魅力を世に知らしめること、それはレコード会社での18年半、そして音楽評論家になってからの18年間で私が終始一貫取り組んできたテーマである。万人が必ずや自分の気に入るものにアクセス出来るように業界の価値観の多様化を促進することこそが、クラシック音楽を本来の魅力的なものにすることにもつながるのだという信念からそうしている。「同じものを誰もが良いと思わなくてはいけない」という価値観の画一化や押し付けはクラシック音楽を衰退させる原因に他ならない、ということを私は自分自身の経験から良く知っている。けれども私のような考え方はこの世界では少数派だ。ひとつの大きな原因として業界の多くの人が「これは一般的ではない作曲家・作品なのでコンサートで取り上げても集客に繋がらず、チケットが売れない」という風に判断しがちな傾向がある。さらに困ったことに音楽評論家はこうした作品について言及しても原稿料のネタになることが少ないから、日常的にこうした知られざる作品に対して積極的にアクセスしようとしなくなる。そんなことをするくらいならむしろ頻繁に取り上げられる作品に関して多面的に知識を深めておいた方がお金になる、と考えたくなるのだ。それに有名な作品については国内外の文献資料・楽譜・音源もアクセスが容易だが、知られざる作品に関してはかなりの困難が伴う。だから手間暇もお金もかかる有名でない作曲家・作品に関わるのは損ということになる。ある意味で「マニアック」という言葉で一般的でないものを否定することはクラシック音楽の「高い趣味性の否定」、「多様性の否定」に繋がっているのだ。
私の「クラシック音楽の世界で作品に対する価値観の多様性を実現する」という信念を実現するべく、「知られざる作品を広める会」を立ち上げたのが2002年のこと。これまで7つのコンサート・シリーズを組み、21のコンサートを実現させた。この会の目的は「有名・無名を問わず、優れた演奏家の方々にご協力いただき、知られざる作曲家たちの忘れられてしまった作品の価値をもう一度、実際の演奏を通して判断していただこう」というもの。例えば先述のアレンスキーは2006年に没後100年の記念年だったのだが、その命日に当たる2月25日には彼の作品ばかりをたっぷり4時間かけて特集したコンサートをトッパンホールで催した。
実は3月24日午後3時から津田ホールでコンサートを行う。私がこの連載の軒下を借りている小林緑さんの企画、そして「知られざる作品を広める会」(とはいえ実質上は私)が主催する形での開催。ショパン、リスト、グノー、ベルリオーズ、サン=サーンス、フォーレといった同時代の作曲家たちに多大な影響を与えたフランスの女性歌手・作曲家、ポリーヌ・ヴィアルド(1821−1910)の作品を中心としたコンサートだ。近年、世界的なメゾソプラノ、チェチリア・バルトーリをはじめとしてヴィアルドの歌曲を取り上げる人も出てきている。しかしまだまだ耳にする機会は少ないし、未だに聴いたことのない曲の方が圧倒的に多い。今回取り上げる彼女のピアノ曲、連弾曲などはほとんど小林さんが昨年末にパリまで出かけて楽譜を入手して来たもので、CDでも聴くことの出来ない作品ばかり。そしてここ数年、事あるごとに知り合いの音楽家たちに演奏を奨めているヴァイオリンとピアノのための 「6つの小品」も取り上げる。とにかく彼女の歌心とコンサートの現場感覚に溢れた楽しい作品を大いに楽しみたい。
会のもうひとつの目標は主催コンサートで取り上げる作曲家および作品の宣伝を行うということ。そのためにA3二つ折りの作曲家の略年譜などが載った詳細なチラシを作成し、様々なコンサートの会場などで約2万4千枚配布している。またこのチラシには参考文献、主要ディスコグラフィといった基本データも載せて興味を持った人がさらに知識を深めるのを手助けするようにしている。(ご参考までに本稿の最後にチラシの4ページを掲載させていただいた)
それと同時に私は常々コンサートを企画する人間は、自分が演奏を依頼するアーティストに関してその起用する理由を説明できなくてはいけないと考えている。従ってコンサートのチラシにはアーティストの側から提供されるプロフィールをそのまま載せて済ませるのではなく、必ずその演奏家のセールスポイントが何なのか、あるいは何故この人を選んだのか理由を自分なりの言葉で記すようにしている。チラシを読まれる方々への説明責任とでも言おうか…
私はこれまでずっとポピュラー音楽と同じように「ひとつの趣味として」クラシック音楽を聴いて来た。「一般教養」、「上流階級の文化」、「高尚な芸術」として聴こうと思ったことはほとんど無い。ひたすら自分の気に入るものを幅広く、深く探求し続けてきた。だから夢中になって聴いて来られたし、飽きることも無かった。自分が本当に好きなものや興味のあるものを見聞し、その結果として気に入ったものを探求し続け、それを他人に薦めるべく筆を執って来た。昨年は東日本大震災の影響はあったもののトータルで272のコンサートに通った。
そういえば「2011コンサート・ベストテン」という記事をある雑誌用に書いたのだが編集部の都合でボツにされてしまった。その記事はベストテンを選び第1位に選んだコンサートについてのコメントを書くというもの。例年なら「まあ仕方ない」と諦めたのかもしれないが、2011年は東日本大震災と福島第一原発事故もあり特別な年だ。そして音楽評論家としての社会的責任という点に鑑みて第1位に選んだコンサートに関してはどうしても自分の意見を表明したかった。それゆえにボツにした雑誌編集部には原稿料の支払いを拒否し、ボツにされた原稿を自由に使わせてもらうことにした。そして第1位のコメントは一部手を加えた上で、東京新聞1月7日朝刊の「発言」欄に投稿し採用された。私の個人的な趣味の表明として残りの9つも含め、ベストテンに選んだコンサートを改めてここにご紹介させていただく。

〔第1位〕
◎戦没作曲家・尾崎宗吉を聴く/モルゴーア・クァルテット、山田武彦(ピアノ)、ほか [11月12日/戦没画学生慰霊美術館 「無言館」(上田市)]
以下、開催日順
●河村尚子(ピアノ)の室内楽/佐藤俊介(ヴァイオリン)、鈴木康浩(ヴィオラ)、ほか [1月13日/JTホール]
●竹澤恭子ヴァイオリンリサイタル/江口玲(ピアノ) [2月14日/町田市民ホール]
●華麗なる饗宴/南紫音(ヴァイオリン)、菊池洋子(ピアノ) [3月13日/アートスペース・オー(町田)]
●日本モーツァルト協会第527回例会/前田拓郎(ピアノ) [3月16日/東京文化会館小ホール]
●東日本大震災被災者救援募金のためのマラソン・コンサート [4月9日/ウィング上大岡2階ガーデン・コート(横浜市)]
●矢代秋雄の足跡/上森祥平(チェロ)、野田清隆(ピアノ)、下野竜也指揮大阪交響楽団 [6月24日/ザ・シンフォニーホール(大阪)]
●小山実稚恵、山下一史指揮仙台フィル〔ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番〕 [10月2日/仙台市青年文化センター]
●井上二葉ピアノ独奏会 [10月6日/浜離宮朝日ホール]
●〈レクイエムの集い〉2011/ハインリッヒ・シュッツ合唱団・東京 [11月18日/東京カテドラル聖マリア大聖堂]

 今回のトラブルを経験してつくづく思った。音楽評論家は自分自身の価値観を正直に表明してこそ音楽評論家たりうるのではないか、と。そうでないとしたら原子力村の中で業界の都合のいいように説明を付けることが仕事であるかのような、原子力安全保安院や原子力安全委員会と大差ないのではないか? お墨付きを与えることの責任、それはクラシック音楽業界においてきっちりと果たされているのであろうか? そのことはコンサートゴーアーの方々、CDの消費者の方々が一番良くご存知ではないかと思う。酷いコンサート、つまらぬCDを薦められたことへの恨みは自分自身がお金を費やしてみないと判らないのだ。幸か不幸か音楽への好奇心の旺盛な私は未だに重篤な消費者であり続けている。
東日本大震災以降、日本は地震活動が活発な時代に入った。そして福島第一原発事故による放射能汚染の実態は今後徐々に明らかになってくるのであろう。そんな中で、残り少ないかもしれない人生の中で自分が心底愛せる、そして興味の持てる音楽・演奏を心して聴いて行こうと思いを新たにする私である。

●本当にお客様は神様か?
このところ日隅一雄著『マスコミはなぜ「マスゴミ」と呼ばれるのか?』 をはじめとして、政治マスコミの今日における在り方をテーマにした本を何冊か読んでいる。ニューヨーク・タイムズの東京支局長マーティン・ファクラー著『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』、堤未果著『政府は必ず嘘をつく』などなど…。多くの視聴者・読者は消費税の増税、オスプレイの配備、原発の再稼動および新設など、望んでいないのにそうした動きを擁護するようなマスコミ報道がなされる。積極的に擁護しないとしても、「世の中はこうなっているのだから諦めなさい」と言わんばかりの無責任さで客観報道が続く。その決定の背景にある裏事情を説明することによって自分たちはキチンと取材し、マスコミとしての職務を全うしていると思い込んでいる。
とにかく「経済」、「日米同盟」という言葉を出せば、どんな理不尽な政府決定であっても正当化し支援するかのような姿勢が、最近のマスコミの政治報道からは強く感じられる。福島および沖縄の人々がいま何を望み、何を考えているのかは熱心に報道されず、アメリカ、官僚、大企業の既得権益を擁護するための政府、官僚、財界人、御用有識者・学者などの発言が最も重要で正しいかのように伝えられている。「社会の木鐸」などという機能はとうの昔に多くのマスメディアからは無くなっているのだろう。好むと好まざるとにかかわらず、ネットの情報に頼らなくては望むような言論、正確な情報は得られない時代になってしまっているのかもしれない。けれどもここにもまた「規制」がかけられようとしているというのだから本当に怖ろしい世の中になったものだ。
先述の日隅さんの本を読んでいてもうひとつ強く思ったのは、マスコミ業界にとって読者・視聴者への責任感がどんどん薄れていること。あるマスコミ媒体にとって情報提供源、広告出稿主などの意に沿うことが、購読料や受信料を払う読者、視聴者よりも重要と考えられているのかもしれない。それなら多くのマスコミが競い合うように「経済」や「日米同盟」を声高に叫ぶ姿勢にも合点が行く。たしかに最近の政治報道などを見ていて問題に思うのは、読者、視聴者の利益のための報道や主張がマスコミ媒体によって余りにもなおざりにされている点だ。ジャーナリズムに関わる人間が入手した情報を、消費者(つまり読者、視聴者)として個人的に咀嚼し納得してから報道することが必要なのではないか?
振り返ってクラシック音楽業界を考えてみても消費者主権、「お客様は神様」という考え方はかなり希薄のように感じられる。よくクラシック音楽界の評論家、ジャーナリスト、学者などの中には「音楽評論とは純粋に音楽それ自体と演奏について語るべきもの」という風に捉える向きも少なくない。しかしコンサートの場合には@その取り仕切り、Aプログラム解説の質、B聴衆の質、C会場の特性、D入場料金の設定と販売方法など、音楽ソフトの場合なら@その価格設定、Aライナーノートおよび編集業務の質、B全体のアートワーク、C入手の難易度なども全てが批評の対象となる。なぜならばそうした諸々の要素もコンサートや音楽ソフトの一部だからだ。今回はコンサートに付随する問題点のうちのいくつかに触れてみたい。
まずは聴衆の問題。このところクラシックのコンサートに行って不快な気分になることが少なくない。すなわち、「本当にこの人たちは聴きたくて来ているのだろうか?」 と疑問に思ってしまうようなお客さんが、コンサートの鑑賞を妨害するような事態が起こるのだ。演奏中に、携帯電話のスイッチを切り忘れて鳴り出したり、喉がいがらっぽくなったので飴を舐めようとなかなか開かない袋から取り出そうとして音を立てたり、近くの知り合いとお喋りを始めたり、つまらなくなって入場時に配布されたチラシの束を大きな音を立てながら見始めたり、買って来たものの入ったレジ袋をごそごそ探って音を立てたり、子供が退屈して物音を立てたり親に話しかけたり…
特に怖ろしいのはトラブル源が出演者の家族、親類縁者、友人、親の会社の社員であったりするケース。新人演奏会や若手のソロ・リサイタルなどでしばしば目にする光景だ。娘や息子の晴れ舞台を見せたいとか、客席が寂しいから何とか埋めなくてはとか、そういった純粋にコンサートを楽しみたいのではなく、動員をかけられた人々が来るような時はトラブルが起こりやすい。またマスメディアの様々な読者サービスなどによる「無料招待」というのも要注意だ。タダだし、暇だから教養を深めるために行ってみようかということなのだろう。けれどもこれは別な意味で「タダほど怖いものはない」なのである。
こうした聴衆のトラブルは、クラシック音楽が一般教養として考えられていることに起因するケースが多いように思える。すなわち、「教養を深めるためにクラシック音楽でも聴いておくか」とか 「子供の情操教育にクラシック音楽が良いそうなので、聴かせなくてはと…」といった安易な発想で、特に聴きたくもないのに来てしまうのではないか。私もそうなのだが、自分にとって興味や関心の無いものを聴くのは多くの場合において退屈で忍耐力を必要とする。それは当然のことながら苦痛だ。ただクラシック・コンサートに通い慣れているので、たとえ聴きながら曲目や演奏者が期待はずれだったりして退屈していても、他の聴衆に配慮して可能な限り物音を立てないように努力している。けれどもそんなことを、ほとんどクラシックのコンサートに来たことのない人や、しつけもしっかり出来ていない子供に強要するのはどう考えても無理がある。そうした人々はコンサートを選んで行くべきだ。
例えば、先日行った「0歳からのコンサート」では聴衆の大半が幼児とその母親という状況で、のべつまくなしに子供は泣き、お喋りし、歩き回りという状況でガサガサしていた。しかしこれは元よりそうした環境を前提としているコンサートであり、演奏者も聴衆も納得ずくのことなので特に問題は無い。これは極端な例かもしれない。しかし私はマナーをある程度厳格に守ることが必要な一方で、こういう静かでない客席が前提のコンサートももっとあるべきではないかと考えるものだ。ただしこのようなコンサートに関しては演奏環境の特殊性はチラシなどにハッキリと記されるべきだろう。
よく演奏者に対して失礼ということで「居眠り」を問題にする人もいるが、私は特に問題にはしない。それは止むを得ないことだからだ。それに鼾をかいたりする場合には近くの人が軽く肩を叩くなりして起こしてあげれば良いだけのこと。起きていて変に物音を立てるくらいならまだ寝ているほうがましなのだ。私にも何度となく経験があるが、時としてコンサート中に酷い睡魔に襲われることがある。よく「酷い演奏なので眠くなるのだ」という風に説明したがる人たちいるが、少なくとも私にとっては違う。最も眠くなるのは、世間的な価値観から言えば立派なのだけれども、自分の趣味には合致しない演奏の場合だ。メカニックが明らかに不十分だったりするいわゆる「下手な演奏」は聴いていて心地良くないから却って眠れないものである。
最近のコンサートで特に腹が立つのは「ブラヴォー屋さん」。曲が終わると間髪入れずに「ブラヴォー」を叫ぶ。十分に余韻を楽しみたい静かに終わる曲でも、そんなに傑出した演奏でなくても、お構いなしに演奏者が最後の音を奏し終えた瞬間に叫ぶ。オペラならいざしらずオーケストラの演奏会、室内楽や器楽のリサイタルでこれをされると本当に興醒めだ。基本的に「ブラヴォー」は万雷の拍手を突き破って叫ぶからカッコいいし、さまになるのである。もう少し「サクラ」のことなど歴史的な背景を勉強してから「ブラヴォー」は叫びなさいと言いたくなる。一度主催側の担当者に文句を言ったら、「アーティストの中にはこうしたブラヴォーを好む方もいらっしゃいますから…」と答えられ唖然としたことがあった。ひょっとしてあれは主催者が雇ったサクラだったのか? ならもっと質の良いサクラを選んで欲しいものだ。いっそのこと業界主催でブラヴォー屋さんの品評会という企画はいかがだろうか?
こうした聴衆側のトラブル、主催者側としては「お金を払って入場したお客さんだから多少のことは大目に見て…」「ただでさえクラシック音楽業界は集客に苦労しているのだから来て下さるだけでありがたい」という意識があるのかもしれない。しかしながら迷惑を受ける側のお客さんもお金を払い来場しているのだ。こうしたトラブルに目をつぶることは、コアなクラシック音楽ファン層が持つコンサートに行きたいという意欲を削ぐ結果になってしまわないだろうか? 私は音楽評論家なので、こうしたトラブルも含めてコンサートを論ずる立場にある、と考えている。
本当ならば、こうしたトラブルについてはコンサート・ゴーアー向けの雑誌などでもっと積極的に問題が語られ、注意が喚起されてしかるべきものではないか? しかしこうしたメディアにとって何よりも大切な「集客」に悪影響が出ることを恐れてか、あるいは主催者側の管理責任の負担増や客同士のトラブルに配慮してか、特集を組んで熱心に取り扱われてはいないように私には思える。たしかに「お客様に出来るだけ多く集まって欲しい」という発想は当然のこと。しかし集めたお客さんをしっかり管理することもまたお客さんのためではないのか? 先日、東京シティ・フィルのコンサートに行ったらプログラムに挟まれた紙に拍手のタイミングについての注意書きがあった。また別のオーケストラでは「拍手などは指揮者が指揮棒を下ろしてからお願いします」というアナウンスがあった。さらに子供もしくは初心者を想定した、コンサートでのマナーについて注意を喚起する解説の紙がプログラムに挟まれているケースも最近いくつかあった。こうした努力も勿論大切だが、業界としての抜本的な対策が望まれる。
次にホール自体の問題をいくつか。まず背もたれの傾きが大きい座席の問題。これは座り心地が良いので、良さそうに思える。ところが椅子の背が大きく傾いていると足を自然に前に伸ばさざるをえなくなる。そのため座席の背の傾斜と伸びた足の複合効果で、前後の客席間の幅がとても狭くなってしまう。人が座っている状態でその前を通って列の内側の席に入ろうとすると大変な苦労をすることになる。だからこうした座席の場合には前後の列の間隔を十分に広く取らなくてはいけないのだけれども、そうすると客席数が減ってしまうので十分に広くないことが多い。
時々疑問に思うのは、ホールを設計する人はコンサートに遅れて来て、列の内側の座席に座る人が必ずいるのだということを理解しているのかどうかということ。こういう議論をすると業界関係者の中には「海外の由緒あるホールにはもっと客席の前後の幅が狭い会場もあります」といった精神論で反論して来る人もいるだろう。けれども自分がお客さんの立場になってみれば、席へのアクセスが容易で、なおかつゆったりと座れるに越したことはないのはすぐに判りそうなものだが… こうした理由からホールで中央付近の座席のチケットを買うなら最前列を選択するのがいい。そこなら一部の例外を除きこうした入退場の煩わしさとは無縁だからだ。
ビルの高い階にありエレベーターでしか行けないホールというのも問題が多い。一時に聴衆がエレベーターホールに殺到する終演後の混雑が問題になる。後に用事が控えている場合など階段で降りてでも急いで地上に降りたいのだが、階段は使用禁止という場合が少なくない。日常使用していない非常階段しかなかったり、ビルの中に他の会社が入っていて防犯上の理由から使えなかったり、階段にアクセスする途中に楽屋があったり…何らかの理由で使えないのだ。時間的にゆとりが無い場合、こういうホールではアンコールの拍手もそこそこに退散するのがベスト。そして一目散にエレベーターホールへと向かうのだ。このようなホールは地震や火災の場合に果たして大丈夫なのかしらと心配になる。
ホールの「喫茶コーナー」の問題にも注目してほしい。私などはコンサートをハシゴすることもしょっちゅうなので、ホールの喫茶コーナーで軽食や喫茶することが少なくない。ところがそれを当てにして行くと営業していないことがしばしばある。特に郊外の公共ホールでこうした喫茶コーナーが営業していたりいなかったりということが多い。こうしたホールではホール主催公演と貸し館としての公演とで差別化しているのだろう。すなわち主催公演ではお客さんの便宜を考えて喫茶コーナーを開くが、貸し館の場合にはそのサービスは受けられないのだ。けれども考えてみればお客さんにとってはその公演がホールの主催であるかどうかということは関係ないこと。少なくともお客さんにそうした方針を明確に示すためにも、「ホール主催公演以外では閉鎖」 と喫茶コーナーには常に掲示しておくべきではないか。
何日も連続する「音楽祭」のように、コンサート間にどうやって時間を潰すかをしばしば悩むような催し物では、お客さん向けのホール周辺の食べ物屋さんガイドは必須だ。私も2007年8月に杉並公会堂の小ホールとグランドサロンを使い、5日間にわたって昼夜12公演から成る「女性作曲家音楽祭2007」を行った時に、食べ物屋さんガイドを作った。それを作るためにホール近くの飲食店に足繁く通い、定休日、営業時間、禁煙席の有無、店のBGMは何かなどを調べた上でガイドに記したものだった。こうした努力も自分ならこうしたものがあると便利だろうというコンサート・ゴーアーとしての経験則に基いてのことだ。
そうそうこの「女性作曲家音楽祭2007」の時には、杉並公会堂小ホールの座席がやや硬いので、京都の田中屋(現在は水口弥)から予備の分も含めて小座布団を240個取り寄せて194の座席の上に並べたものだった。ホール側に「終わったら寄贈します」と提案したのだが拒否されたので、最後のコンサートに来られたお客さんにお持ち帰りいただくことにした。最初はお客さんが持ち帰らなかったらどうしようかと考え、知り合いのデイケア・センターに残った分を全て引き取って貰うように話をつけておいた。幸いなことに小座布団は大変好評で、人によってはそれを尻に敷くのではなく腰や背に当てて使う人もいた。そして私の心配は杞憂に終わった。最後のコンサートが終わった時に全ての座席の小座布団がきれいに無くなっていた。人によっては3つ4つ持てるだけかかえて帰った人もいた。今でも時々コンサートでその時のお客さんから「あの小座布団を未だに愛用しています」と声をかけられる。硬い椅子で長時間座っているのはしんどい、という過去の経験をもとにそれらを準備して本当に良かったと思っている。
つくづく思う。「己の欲せざること他人に施すなかれ」。消費者の心を理解するには自らが消費者としての行動を重ね、どうしたらもっと心地良いかを考察すればいいだけのことなのである。勿論、コンサートでよく顔を合わせ信頼できる人と同じコンサート・ゴーアーとして本音の部分で話せるなら、自分が見落としている問題点にも気付くのでもっと良いのだが…続きはまた次回。

●続・本当にお客様は神様か?
前回はコンサートに関係した問題点のうち聴衆、ホール自体について記した。今回は主催者側のトラブルについて記してみよう。
私が経験したトラブルで最近増えているのがコンサート本番中の写真撮影。信じられないことだが、主催者がホール内で写真撮影を行ないその音がうるさいのだ。撮影用の部屋があってそこからするというのではなく客席の通路から撮る! 当然のことながらシャッター音がカシャカシャして煩い。どうしてこんなにも無神経になれるのだろうか?
色々な情報を総合すると、最近ではホールの宣伝用冊子やホームページなどに臨場感に溢れた写真を載せようとしてこうした蛮行をする輩が増えているようだ。しかし考えてみればこれは変な話だ。聴衆に音に対するマナーの遵守を求めている主催者が自らそのルールを破っているのだから…。
ある知人のカメラマンに「シャッター音を消して撮影できるカメラは無いのですか」と訊ねたが、そんなものは無いとの答えだった。遮音するためにカメラを何かでグルグル巻きにして撮影する人もいるが余り効果的ではないようだ。まともな主催者の感覚では演奏風景の撮影はリハーサル時にするものだ。めんどうだけれども演奏者にステージ衣装を着てもらって撮る。臨場感のあるスナップ写真よりも聴衆により快適な音空間を提供することの方が主催者として当然の義務ではないだろうか?
ちなみに私が遭遇したこうしたケースは全くのど素人が主催しているものではなくホール主催のものであったり、あるいは音楽家本人が主催しての公演だったりするから驚いてしまう。
もし読者がこうしたトラブルに遭遇したら遠慮なく主催者にクレームをつけていただきたい。コンサートは写真を撮影する場ではなく音楽を鑑賞するための場なのだから…。
次にサイン会での主催者の対応について。コンサートが終わってCD、本、関連グッズなどを買ってサインを求める聴衆が長蛇の列を作っている。それにもかかわらずアーティストがなかなかホワイエに特設されたサイン会場に現れない、というトラブルにしばしば遭遇する。
色々なケースが考えられるが、楽屋に業界関係者が押しかけて長話をしてしまいファンを待たせているというパターンが少なくない。
主催者の対応で不満に思うのは業界関係者(レコード会社の担当者、音楽評論家、コンサート企画者、家族、友人、弟子などなど)の面会は後回しにさせて、コンサートが終わったら真っ先にサイン会場にアーティストを向かわせるべきだという原則がしばしば守られていないこと。これは列を作って待っているファンに対してとても失礼だと思うのだが…同時に業界関係者はとにかくアーティスト本人のためにも、まずはお客さんへのサインを優先させてあげようという配慮をするのが本当の愛情ではないかと私は思うのだ。
私は音楽評論家になってから業界関係者の終演後の仕事は「待つこと」ではないかと思っている。サイン会が終わるまで私はその様子が見える場所で待っていることが多い。そのアーティストがサインをしながら列を成すファンの方々をどのように捌いて行くのか、どんなやりとりをするのかを観察するのだ。そうすることで彼・彼女がどんなアーティストなのかが見えてくることが少なくない。その人柄であったり、ユーモアのセンスであったり、時には怒りのツボであったり…
しばしば有名な先生が長蛇の列を成すファンの人たちを押しのけてアーティストと面会するというケースにも遭遇するが、見ていて決して気持ちいいものではない。「ああこの人はやはりこのレベルの人間なのか!」と元々尊敬の念など持っていなくても改めて納得してしまう。私は基本的に主催者から勧められても応じず最後まで待つようにしている。どうしても挨拶しなくてはいけなくてなおかつ後がつかえているような場合には、CDを家から持って行ってサイン会の列に並ぶようにしている。自分たちはクラシック音楽業界人であり、一般のファンよりはアーティストにとって重要な存在なのだ、といった思い上がりほど見苦しいものはない。消費者あってのクラシック音楽業界なのだということだけは忘れたくないものだ。
それにこうした関係者は多くの場合、そのアーティストに対して何らかの連絡方法を持っているのだから、それらを使って後ほどコミュニケートすればいいのだ。あるいは遠くから手を振って目礼するくらいにして帰ればいいのである。終演後ちゃんとご挨拶しなかったことは電話なりメールなりで、もっと丁寧になら手紙でお詫びすればいい。
それから郊外や地方のホールで多いのが演奏者に対するトークの強要の問題。この業界にいると「クラシック音楽の敷居を低くする」というお題目をさんざん聞かされる。つまり「クラシック音楽は一般には解りづらいものだから、何らかの方法で親しみ易い環境を作る工夫をしよう」ということらしい。そのためにコンサートにおいて演奏者に曲の合間にトークすることが求められたりする。お喋りが売り物の、あるいは少なくとも得意な演奏家ならいいが、そうではないアーティストも少なからずいる。
酷い場合には当日になって急に出演者が曲目解説を含めたトークをするように依頼されることすらあるのだ。個人的な話題を話すくらいならまだいいが、事前に十分な下調べもしないで作品についての話を急にするのはどう考えても無理がある。それには注意した方がいい。客席にはある作曲家・作品に関してマニアックに詳しい聴衆もいることが少なくないのだ。
かつて我が国のバロック音楽の最高権威だった服部幸三先生は、あるレコード店で催された古楽系新レーベルの説明会の折に、当時まだ駆け出しのレコード会社の編集者だった私に箴言されたものだった。「決してファンの皆さんを侮ってはいけませんよ。好きで集まってきた方々の中には本当に詳しい方が沢山いらっしゃいますから」。長年尊敬して来た先生の謙虚な姿勢には感銘を受けたが、その言葉は今のクラシック音楽業界ではますます重みを増しているように思えてならない。
それに出演者によるトークは一見良いファン・サービスのように思えるが、そこには主催者の全く別な意図がある場合が少なくない。すなわち面倒な編集業務の放棄である。トークが要求されるコンサートではプログラムに曲目の解説が載っていないことが多い。演奏者が曲目も解説してくれることを織り込んでいるからだろう。そうした理由からトークに固執する主催者は良く考えるべきだろう。
本当にお客さんにクラシック音楽の知識をしっかり自分のものとさせ、コンサートのリピーターにすることを目指すなら、その場で終わってしまうトークをするよりも、プログラムに文字として作品情報を載せた方がはるかに親切だということを。プログラムに曲目解説もしっかり載せた上で演奏者にコメントを求めるのが本当のファン・サービスというものだろう。トークは一時のもの、曲目解説は少なくともプログラムを保存していればいつでも繰り返し読むことが出来るのだ。それがどの程度のものかはさておくとしても…。
それにしてもこのところ編集業務の衰退がクラシック音楽業界全体で進んでいるように思えてならない。CDブックレット、コンサート・プログラムの曲目一覧やライナーノートに誤りがあったりする。また読んでもそのアーティストや作曲家・作品に対する書き手の愛情が伝わって来ない「単に曲目解説のスペースを埋めました」というような原稿が少なくない。
実際のところある程度その質にこだわると編集業務はとても面倒だ。まず執筆を依頼する相手を決めるのが大変だ。どんな筆者がいて、その人はどういう音楽的な趣味を持っていて、原稿料の相場はいくらか、執筆のスピードはどうなのか、依頼するとどんなメリット・デメリットがあるのか…そんなことが把握できていないと執筆依頼出来ない。また原稿を予定通りに受け取るのも大変だ。期限を守る筆者ならいいが、なかなか執筆者が原稿を書かない場合には厄介だ。最近は根性の無い人もいて原稿が入稿できず編集作業を途中で放棄してしまう担当者さえもいるという。編集者も執筆者も同じ人間であり、業界を共有し利害も交錯している。時には恫喝し、時にはなだめすかし…原稿の取立てで知恵を絞るのも大切な業務のひとつだ。
場合によっては編集者自身が下書きの原稿を作り、それに赤入れをしてもらい原稿を仕上げることもある。その位のことが出来ないと編集者は務まらない。そうした編集作業の面白さがどうして判らないのかと私などは思ってしまうが…良い原稿というのは読み手が作曲家・作品・演奏家、あるいは楽器に対して抱く愛情を更に増幅してくれる。とりわけ内容的に正確で、新しい知識・視点を読者に与えてくれるなら申し分ない。それゆえに編集者は作曲家、ジャンル、演奏家といったテーマ毎に、日頃から関心を寄せているような筆者を常にチェックしている必要がある。そんな中で、私がレコード会社で編集業務を担当していた頃はパソコンなど普及していなかったこともあり、様々な執筆者の方々と実際に会ってお話しする機会を持てたのは自分の財産だと思っている。
しかし特に編集業務にこだわりがなければ、そんな努力をするよりも仲の良い、気心の知れた、使い勝手の良い筆者に任せた方がたしかに気は楽だ。「業界の価値観を共有し、差し障りのない原稿を埋めてさえくれればそれでいい」とだけ考えるなら編集業務は意外と簡単かもしれない。こうした状況を背景に解説原稿はその内容云々はさておき一部の筆者の既得権と化するケースさえもあるようだ。
とはいえ私もレコード会社に勤めていた時代からすでに海外のレーベルの重役や宣伝担当者から「日本語版解説の編集業務を熱心にする暇があったら一枚でも多くCDを売るためのプロモーションにもっと精を出せ」と、きつく文句を言われたことが何度もあった。消費者が買ってみなければその良し悪しが判らないCDブックレットや、コンサートに行かなければ入手できないプログラムのための編集作業は、その価値がセールスに直結せず評価されづらいのかもしれない。しかし海外のマイナーレーベルには編集作業で今でも健闘している会社が少なくない。とりわけ一般的ではないレパートリーやアーティストに関して、ブックレットを読んでいると通常の音楽史書や事典等では決して載っていないような貴重な情報が得られることが多いのだ。
もちろん、日本のクラシック音楽業界のほとんどがそうだと言うつもりは毛頭ないが、編集業務の衰退は明らかに進んでいるように思えてならない。それだけに最近ではコンサートのプログラムや国内盤CDのブックレットで筆者の力の入った原稿や、丁寧な「編集作業」に出遭うとまるで宝物でも発見したように嬉しくなってしまう。

──────────
http://www.news-pj.net/npj/kobayashi-midori/index.html
 

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