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『私の来歴を誰も知らない』 〜モルモン教の履歴書
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投稿者 スットン教 日時 2010 年 8 月 22 日 19:26:42: CmuKS.2SNuq/E
 




エドマンド・ウィルスン『死海文書 〜発見と論争 1947-1969〜』より抜粋

 それにしても、人間がこれまでいかに無造作に「神がかり的な」指導者を受け入れてきたか、その実態を認識してみれば、ある程度の軽蔑感を感じないではおられない。十八世紀の末にニューヨーク州北部に入植者が定住したとき、その大半はニューイングランド地方からきた人たちであった。そしてかれらはこの広大な田舎地帯に移住すると、父祖たちの厳格なカルヴィニズム神学の拘束をかなぐり捨ててしまった。それでもやはりかれらは宗教を必要としたので、まもなく自分たちの宗派を創り出した。そのなかには、キリストの再臨がすでに起こっていると信じたジョン・ハンフリー・ノイズ(アメリカの社会改良家。 1811-86)の建設になるオナイダ共同体の完全主義があり、これまたみずからをキリストの再来とし、不死なる者と公言したジェミマ・ウィルキンソン (アメリカの狂信的宗教家。1752-1819)の信者たちがいた。しかしそうした宗派のなかで、最も強力で持続力があったのは、ニューヨーク州フィンガー湖群のすぐ北にあるパルミラの町に起こったジョーゼフ・スミスのモルモン教であった。フォーン・M・ブローディ夫人(アメリカの伝記作者、歴史家。 1915-)が書いた『私の来歴を誰も知らない』という標題のジョーゼフ・スミスの伝記がある。この種のものでは唯一の書物に違いない。この本で、この新興宗教の起源に関する誠実で実証的な記録を読んでみると奇妙な感じにうたれる。著者のブローディ夫人は、預言者スミスに起こった不思議な出来事やその聖職に関する伝説を聞かされながらモルモン教の村に育った人だが、彼女は後年そのいっさいの不合理や醜聞を含めて、ことの真相を解明する仕事を自らに課した。この書物には、私たちのいわば目と鼻の先で、私たちが慣れ親しんできたアメリカの西部で、しかもついこの前の正規に進展した一つの事実が語られている。それは、一人のペテン師、山師であり、節操もなく、飽くことをしらぬ好色家であった男への崇拝、またその崇拝にもとづき、強固な基盤と体面を保つ教会の設立のことだ。現在この教会は、一つは大会堂(ターバナクル)、一つは神殿(テンプル)とよばれる巨大で醜悪な聖堂を維持して繁栄し、愚にもつかぬいかさまな経典と殉教者ジョーゼフ・スミスの伝説、またスミスの後継者ブリガム・ヤングの貢献になる有能な経営と教義説教にもとづく特異な教化組織、そして国際的な伝道活動とを持っている。

 ジョーゼフ・スミスは1805年に生まれ、十歳のときヴァーモント州からニューヨーク州北部に連れていかれた。ブローディ夫人が引用する、モルモン教と無関係な文書によると、彼は近所の人びとの間では、いかさま魔術や宝堀りに熱中し、嘘つきで人に迷惑ばかりかけている子供として通っていた。二十一歳のとき、彼は「治安を乱す詐欺師」として法廷に引き出された。だが反面、彼は人好きのする、たいへん想像力豊かな男でもあった。モルモン教の活字を組む仕事を手伝った同じ町民の一人は、彼について次のように言っている。「ジョーほど無知で、それであれほど想像力の豊かな男には出会ったことがない。彼は日常ありふれた出来事でも自分の想像力で潤色してからでないとけっして人に話さなかった。それでもいつか、リード牧師に、嘘ばかりついていると地獄落ちだぞと言われ、悲しんでいたのを覚えている」と。若い頃のジョーゼフ・スミスはインディアンの墓塚に興味をいだき、それがただの墓所であることを知らず、かつてここで大戦争があって多くの死者が出たのだと思ったりした。およそ二十二歳のころ彼は、「えもいわれぬ白さの薄衣」をまとい、モロニと名のる天使が神につかわされてあらわれ、黄金の板に書かれた聖なる啓示の書を自分に示したと偽りの主張をした。スミスはこの黄金の板はひとふりの剣と胸当てと共に石の箱に収めてあったとも主張し、その胸当てにはノアの方舟に積み込まれていた謎のウリムとトンミムがくくりつけえあったと言った。はじめのうち彼は誰にもその黄金板を見せず、それを見れば即座に死ぬと言った。そしてこの記録はインディアンの起源の問題を解決すると言明した。元来アメリカには二つの民族が住んでいたが、たがいに千年間戦いあい、これらの塚はその戦いを記念するものだと彼は言った。彼は黄金板の包みをほどきもしないで、その内容はすでに口述筆記させてあると偽った。後には、自分と筆記者との間に衝立を立て、天使モロニから授かった眼鏡をかければ、黄金板に書かれてある彼のいう「改良エジプト語」なるものが翻訳できるのだと説明した(当時古代エジプト文字はまだ解読されていなかった)。スミスは自分の話に確証を与えようと、事実彼のいう聖なる黄金板を制作した。だが、そこに書かれていた言葉は、コロンビア大学のさる古典文学の教授が言明するところによれば、意味をなさぬ言葉の寄せ集めにすぎず、「ギリシャ文字、ヘブル文字、逆さまか横むきのローマ文字、十文字、飾り文字などが垂直な欄に配列されており、その全体は粗末な円形の図で終わる。その円はまたさまざまの奇妙な符号で飾った小区画に分割される。明らかにこれはフンボルト(ドイツの自然科学者。1769-1859)の伝えるメキシコの暦を模写したもので、ただのわたごとの寄せ集めで、それもわざわざ典拠のわからぬように模写してある」という。スミスのいう「翻訳」なるものは、ただのたわごとの寄せ集めで、そのうちなにほどかでも品格を備えているものは欽定訳聖書から借用した部分だけだ。それも念入りに修正して原典とは別のもののように見せかけてある (以前『ニューヨーカー』誌に載せた私の記事のなかで、ジョーゼフ・スミスがモルモン教書を「口述した」と述べたところ、これを検閲したモルモン教の事務局が、ここを「翻訳した」と改めるべきだと主張しようとしたことがある)。モルモン教書によると、預言者リーハイは、当時北アメリカ大陸で見られたはずの全動物の標本を屋形船に乗せて、エルサレムからアメリカに渡ったことになっている。これには、馬、豚、羊のような、実際はヨーロッパ人が移入した動物も数種含まれている。私はパルミラにあるジョーゼフ・スミス記念館の案内所で、スミスの黄金板は現在どこに保存されているかたずねたことがある。答えは天国へ持ち替えられたということであった。

 マーティン・ハリスという金持ちの農場主で、すでにいくつかの宗派に首をつっこんだ経験のある男が熱狂的なモルモン信者になった。その男はこう証言している。ブローディ夫人を引用すると、「ハリスは鹿の姿をしたイエスに会い、人と人とが親しく話をするように、主と語りながら二、三マイルいっしょに歩いたことがあった。彼が言うには、悪魔ははつかねずみのように、短くなめらかな頭髪をし、雄ロバに似た姿をしていた。彼はパルミラの町は1836年までに壊滅するが、1838年までにジョーゼフの教会はアメリカ合衆国の大統領が無用になるほど大きなものになると預言した」という。ニューヨーク州では、その他にも不思議な出来事が目撃された。夜中に三人の見知らぬ人がやってきて畑を耕し、他の畑には肥料をまいていったというもの、乳しぼりをしていた農場の主婦の前に白いひげの老人があらわれて、あなたは疲れはてている。私はあなたの信仰を強くするためにつかわされたと言ったというもの、などである。

 ジョーゼフ・スミス自身についても、彼がある男から悪魔を追い出してやったという話があるが、この男は若いころから今でいう神経衰弱にかかり、当時よくあったように、自分が地獄に落ちることを病的に恐れていた男だった。スミスは1830年に六名の会員で教会を創立し、それは一ヶ月で四十人に増えた。しかし彼は改宗しなかった人たちの間では悪評を受けつづけた。群衆に襲われ、二度逮捕され、二度とも無罪放免になった。彼はみずからをキリスト教の殉教者と同一視し、死海文書のある筆記者たちのように、新しいエルサレム建設を口にするようになった。彼はオハイオ州のある福音伝道者のところへ数人の宣教師を送り込んだ。この伝道師はクリーブランドからほど遠くないカートランドに小さな共産村を建てていたが、ほとんど即座にモルモン教書の福音に賛同した。そこでスミスはみずからカートランドに移住し、彼に従った六十人の信徒に、ここが約束の地の東の辺境であると語った。さらに多くの改宗者が彼のもとに集まった。そしてモルモン教は・・・元来はユダヤ教の預言の遺産だが・・・当時流行していた千年王国思想によって活気づけられた。この思想は十九世紀前半にアメリカの他の多くの宗派にも推進力を与えたものである。スミスは自派にも大祭司を任命し十二弟子を選んだ。奇跡を行う自負も持ったが、これに対して人びとの信頼はやや薄かった。ある腕のなえた婦人について、その治癒に成功したという話もあるが、他の場合この種の試みは失敗に終わっている。あるキャンベル派の牧師にその手並みを求められたときは、この不信心者め、腕を一本なえさせてもらいたいか、聾唖者にしてもらいたいかと言って逃げを打ったという。スミスはオハイオの土地は聖化されていないから奇跡を行うにはむかぬと釈明したが、この州でさんざリンチを受けたあげく、当時の新興都市、ミズーリ州インディペンデンスへ移動し、ここに神殿の礎石を据えて聖都を設立した。多くの改宗者を説得し、彼の運動に寄付をつのり、財産を彼の教会に喜捨させた。

 モルモン教徒はいたるところで迫害された。かれらはカートランドに幽霊銀行を作っていた。その銀行は神に後援されているということになっており、スミスはこの銀行の信用を抵当にあつかましく借金をした。この銀行の金庫に一千ドルのラベルをはった箱がたくさん入れてあったが、実のところこれは表層にだけ本物の五十セント銀貨を敷きつめ、その下には石や砂や古鉄の屑しか入っていなかった。債権者の取り立てがきびしくなると、この銀行は新しい紙幣を製造し、ときにはそれを本物の通貨と交換した。しかしやがて銀行の不正が紛れもなく明白なものになってくると、かれらは続く訴訟に打撃を受け、スミスには逮捕状が下りた。モルモン教徒はたえず西へ移動を続けなければならなかった。そしてスミスは、1844年、三十九歳のとき、イリノイ州の獄中で射殺された。当時彼はモルモン教に敵対的な新聞社を焼いたかどで投獄されていた。もちろんこういう不幸な事件は、すべて言い伝えによって殉教的な行為に祭り上げられた。ジョーゼフ・スミスにはどこか人を引きつけて催眠状態に誘う、なにか超自然的なものを思わせる力があったことは明らかで、他の点でいっさいを容赦しない彼の伝記作者も、この点については、あながちそれが感じられぬでもないと言っている。とくに女性には説得力を持っており、ブローディ夫人によれば、一夫多妻制を思いついたのも、彼がたまたま魅力を感じた女性は、同僚の妻君もふくめて誰とでも床入りしたいという彼の願望のせいであるという。この制度はモルモン教の不評に大いに貢献したが、彼は公には常にこの制度を否定していた。ジョーゼフ・スミスその生涯の大半を誇大妄想的な空想の中に生きた男にちがいない。しかし一面での彼は、自分の弟子たちを「まぬけなカモ」と呼んだことがあるほど醒めた男で、たじろぐことを知らぬペテン師であった。彼がイリノイ州で殺害されたあと、弟子たちはブリガム・ヤングに導かれ、当時「デズレット」(モルモン教徒が西部の約束の地として名づけた造語。ユタ州を意味する)と呼ばれた無人の荒野ユタ州に入った。ここで、師以上に抜け目なく実務にたけたスミスの腹心ブリガム・ヤングは、安定した自足の共同体として、末日聖徒イエス・キリスト教会を設立した。


エドマンド・ウィルスンの『死海文書 〜発見と論争 1947-1969〜』は、死海文書を理解する上で非常に勉強になる本ですが、その末尾にあった文章で、これも実に面白い(ウィルソンの政治的、或いは思想的スタンスの問題については、差し当たり切り離して置きます)。

昔、自分のホームページにあったものですが、参考になるかと思われるので転載して置きます。

 

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