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新左翼内ゲバ事件
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/186.html
投稿者 地には平和を 日時 2010 年 3 月 14 日 15:11:52: inzCOfyMQ6IpM
 

(回答先: 内ゲバをどう乗り越えていくのかの議論をしませんか? 投稿者 地には平和を 日時 2010 年 3 月 13 日 16:00:35)

新左翼内ゲバ事件

http://yabusaka.moo.jp/tyu-maru.htm


【事件概要】

 1970年8月、ある学生が激しいリンチに遭い死亡した。学生は革マル派の活動家で、これ以後革マル派と中核派の間で抗争が繰り広げられた。近年では革労協の内部抗争が熾烈であり、新左翼の内ゲバ事件の死者は100名以上とされている。


革命的共産主義者同盟全国委員会
日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派


【中核派と革マル派 二派分裂の歴史】

 1956年2月、ソ連共産党第20回大会で、フルシチョフ第一書記がスターリン批判を行い、米ソ共存路線を打ち出した。このことからポーランド暴動やハンガリー暴動が発生した。
 フルシチョフの批判によって脚光を浴びたのが、スターリンに暗殺されたレオン・トロツキーの理論(トロツキズム)だった。それまでは「小ブル」「反共」と称されがちだったトロツキズム、世界同時革命論が見直されたかたちとなった。

※それ以前の「トロツキスト」という言葉は、「裏切り者」「プチブル」「分裂主義者」といった批判的な意味がこめられた罵倒用語であり、スターリンを信奉した共産党員などが口にした。

 1956年3月、トロツキーを指導者としてパリで結成された第四インターナショナル国際書記局から、国内のトロツキストに「第四インター日本支部を確立するように」という書簡が届いた。これを受けて、元日共党員・栗原登一は、日共党員の大屋史郎や内田英世らに働きかけ、トロツキズムの実践を目指す組織の結集を図る。57年1月、「第四インターナショナル日本支部」結成の会合が行なわれ、黒田寛一、太田竜らが集まった。

※内田英世・・・・反戦思想の持ち主で終戦まで獄中にいた。群馬県の労働者。52年頃からトロツキーの文献を読み始める。56年頃から「反逆者」というトロツキズム機関紙を出す。機関紙を読んだ太田竜と親しくなった。

※黒田寛一・・・・1927年生まれ。実家は府中市の病院である。旧制東京高校(後の東大教養学部)を病気のため中退。その頃すでに何冊か著書があり、それを読んだ学生らが彼の元に集まり始める。その組織は「弁証法研究会・労働者大学」と名乗った。「探求」という雑誌も創刊した。54年頃には結核菌により失明、本も読めなくなったが、秘書に読ませて勉強を続けた。58年12月革共同結成、議長に就任。60年安保時代は黒メガネに登山帽という格好で講演し、「黒田節」と呼ばれるその語りに学生らの人気があり、「クロカン」とも呼ばれた。62年、参院選に出馬するが2万票しか集められず落選。全国委員会は後の中核派指導者・本多延嘉と作った。63年、革共同全国委員会から分裂、革マル派を結成、議長に。中核派との抗争が激しくなると、実家の離れに住み、マルクス主義の研究に明け暮れた。一部の幹部とだけ接するだけで、公に姿を現さず、演説などもテープレコーダーを使って行なった。96年10月、議長を辞任。事実上の引退であるが、影響力を持ち続けた。06年6月下旬、埼玉県内の病院で肝不全のため死去。享年78。

※太田竜・・・・1930年樺太生まれ。46年、16歳で共産党に入党。東京理科大学に入学するが中退している。革共同分裂の後、「関東トロツキスト連盟」(後の日本トロツキスト同志会」、「第四インターナショナル日本委員会」)を組織。アイヌ解放運動に力を入れ、連続企業爆破の「東アジア反日武装戦線」などにも影響を与えた。74年にはアイヌの英雄・シャクシャイン像の台座を傷つけたという容疑で、指名手配され、自ら警察に出頭して逮捕された。この指名手配は、東アジア〜の黒幕とされたからだった。だが直接の関係は立証されず、早々とシロとわかった。83年、エコロジー運動から発展した「日本みどりの党」結成に参加、参院選に立候補した。近年は「太田龍」と名乗り、ユダヤ人に関する陰謀論などの著作がある。


 1957年1月27日、東京で「日本トロツキスト連盟」が結成された。
 日本トロツキスト連盟では、結成からまもなく、内田英世と栗原登一(太田竜)が対立。内田は脱退し、また「弁証法研究会」を組織していた黒田寛一らのグループが加入した。日本トロツキスト連盟は57年12月に学生、労働者へのアピールを狙って「日本革命的共産主義者同盟」(革共同)と名称を変更した。主な指導者に黒田、太田、西京司がいた。後の中核派書記長で、内ゲバ事件で殺害されることになる本多延嘉も革共同全国委を黒田とともに作り上げた一人だった。

※西京司・・・・第四インターナショナルへの参加を反対した黒田と対立。革共同二次分裂の際、西についていったのは共産党京都府委員を努めている間の人脈。その後、太田と再び合流して「第四インターナショナル日本支部」を組織した

※本多延嘉・・・・1934年生まれ。川越高校在学中に日本共産党入党。早稲田大学入学。57年、黒田寛一の弁証法研究会に参加し、革共同全国委を結成。彼の右腕となり、書記長に。63年2月、黒田派(革マル派)と分裂して中核派結成。69年4月、破防法適用により逮捕。74年1月に一度襲撃を受けたが、たいした傷は負わなかった。75年3月14日、革マル派の襲撃を受け死亡。享年41。


<1次分裂>

 革共同もまた第四インターの基本路線をとろうとする栗原派と、独自の革命路線確立を強調する黒田派が対立、すぐに分裂を始めた。まず栗原派が脱退、58年8月に「日本トロツキスト同志会」を結成した。そして革共同の大部分が共産同に移った。

※日本トロツキスト同志会・・・・59年に「国際主義共産党」、同年7月に「第四インター日本委員会」、60年11月に「第四インター日本支部」に改称。65年3月に第四インター国際書記局から日本支部として正式に承認される。70年闘争では街頭闘争を敢行したが、後に不祥事や指導部の分裂などが続き、91年に第四インターナショナルから除名された。除名を機に「日本革命的共産主義者同盟(JRCL)と改称した。


<2次分裂>

 そしてさらに分裂があり、西派は「革共同関西派」、黒田派は59年8月に「革共同全国委員会」を発足させた。全国委の方ははっきりとトロツキズムとは訣別し、「反帝・反スタ」をスローガンにした。
 革共同全国委は当初学生組織はほとんどなく、国鉄関係の組織しかなかったが、安保闘争の最中、60年4月にブントの社学同に対抗する形で「マルクス主義学生同盟(マル学同)」を結成。ブントが解体に向かう一方で、組織を広げていった。

 全学連はトロツキーへの傾注や、「六全協」による日共の路線変更に不満を持つ学生が増え始め、58年3月の全学連第11回大会では全学連主流派と党中央派が互いに紛叫、対立が決定的となった。これにより日共は主流派の多くを除名。12月、除名や離党の活動家により「共産主義者同盟」(共産同)が結成された。
 共産同は60年9月〜10月にかけて、機関紙の名をとって「プロレタリア通信派」(全学連書記局を中心としたグループ。ブントの正当性を主張)、「革命の通達派」(東大細胞と早大細胞の最過激派)、「戦旗派」(労対グループ、地方大学、私学。下獄の唐牛健太郎をいち早く引き入れる)に分裂。共産同は結成からわずか2年で崩壊した。この三派の他にも、京都・大阪は「関西ブント」、中央大、明治大もそれぞれ独自に動いた。

 1960年7月の「全学連16回大会」の代議員数は次のような勢力。
・ブント系     258人
・共産党系    171人
・革共同全国委 24人
・革共同関西派 20人
・その他      10人


<3次分裂>

 革共同全国委員会も63年2月に「革命的共産主義者同盟全国委員会」(中核派)、「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」(革マル派)に分裂した。
 これは黒田と本多の対立によるもので、黒田派が革マル、残った本多派は同盟の全国委員会の組織を抑えており中核派と称した。前者は他派との積極的な共闘を主張し、革マル派の方は党建設を重視し、理論学習と組織拡大に重点を置いた。旧ブントから革共同に流入した面々の大半は中核派に残ったと言われる。
 
 この分派によって、横浜市立大生で中核派メンバー・奥浩平(21歳)が、革マル派活動家である早大生の恋人と組織の対立から引き裂かれることになり、65年3月に自殺したという悲劇もあった。死後刊行された奥の遺稿集「青春の墓標」はロングセラーとなり、2人の関係は「学生運動のロミオとジュリエット」と呼ばれた。
 また家族を引き裂いた例もある。革マル派の活動家・鈴木啓一は、弟で中核派の陶山健一と争うこととなったのである。97年に陶山が病死すると、葬儀には中核派関係者が多数参列したが、鈴木は姿を現さなかったという。

※陶山健一・・・・父親は名古屋商工会議所会頭を長年務めた。小学校の時、母方の実家に養子縁組された。左翼運動に走ったのは東大農学部入学後。卒業後は農林水産省に入ったが、懲戒免職処分となった。「岸本健一」の名で論文を機関紙に発表。また海老原事件の後、革マル派との調停に動いたとされている。97年1月14日、京都市内の病院で死去。


 マル学同は一時的に全国の学生組織を握ったが、勢いを完全に失い始めた。全学連を継承した革マル派も凋落に歯止めをかけられず、他党派からは「ワセダ全学連」と笑われていた。(これは「全学連といっても、拠点校の早稲田大だけでやっている」という皮肉)反代々木系最大セクトとして出発した革マル派は、その動員力などにおいて、他党派に追い抜かれることになった。
 その一方で躍進を続けたのが中核派だった。三派系全学連の主導権を握り、「佐藤訪ベトナム阻止第一次羽田闘争(67・10)」「第二次羽田闘争(67・11)」「三里塚新空港粉砕闘争(67・11〜)」「佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争(68・1〜)」「王子野戦病院設置阻止闘争(68・2〜)の”激動の7か月”と呼ばれる4つの闘争を闘っていく。この頃にヘルメットにゲバ棒のスタイルが定着するようになったのだが、こうして果敢に闘う姿に人気が集まった。組織の拡大は69年まで続き、反代々木系のなかでは最大派閥。それでありながら連合赤軍のような非合法組織をのぞいては、最も過激な活動をしていた。

※両組織は学生組織「マル学同」の他に学生大衆団体として「全学連」を持つ。労働者組織はともに「マルクス主義青年労働同盟」。ともに「反帝・反スタ(反帝国主義、反スターリン主義)」がスローガン。元々は同じ組織から生まれただけに、共通項は多い。


 ターニングポイントのひとつに東大安田講堂での革マル派の敵前逃亡問題(69年)がある。当時、革マルは法文二号館に立てこもっていたが、組織建設を第一とする彼らにとっては、大量逮捕が避けられない機動隊との衝突は意味のないものと映った。この事件によって、他のセクトは革マル派を「裏切り者」「日和見主義」と非難。各地の学園闘争や三里塚闘争では彼らが排除され、中核派などは革マル派を「武装反革命集団」「第二民青(日共系)」と規定、革マル派と他党派の対立が明確となった。


【内ゲバの系譜】

 内ゲバは「内部ゲバルト(暴力)」の略称である。
 その起源は1961年、全学連第17回大会で角材が使用されたのを始まりとする。60年代前半は「マル学同VS反マル学同」「革マル派系VS中核派系」の内ゲバの構図があった。1963年9月には全学連を独占しようとする革マル派約150人と、それを阻止しようとする連合四派(中核・社学同、社学同解放派、構改派)の約250人が角材で乱闘するという清水谷乱闘事件が起こっている。

 1969年、東大の”安田城”は陥落した。学生運動全体が停滞に向かう中で、内ゲバはさらに激化した。これは先に述べた東大闘争での敵前逃亡問題によるもので、発生件数が増えただけでなく、暴力がより陰惨なものになったということもある。
(朝日新聞社会部記者だった高木正幸氏は「全共闘と全学連」のなかで、「運動の厳しさの反映であるとともに、明確に展望を見出せぬことからの、歪曲したエネルギーの噴出ということができよう」と書いている)

 革マル派は「第二民青」と中核派から規定されたが、民青・日本共産党もまた新左翼各党派との対立・内ゲバを繰り広げることになった。

 同年7月、中央大学の社学同内部の分裂抗争による内ゲバで、同志社大学の望月上史が死亡した。

 同じ月には明治大学のブント中央委員会を赤軍派の約150名が襲撃し、ブント議長が重傷を負った。

 9月には芝浦工大大宮校舎で、中核派の埼玉大生が2階から突き落とされて死亡した。これは中核派と、ここを脱退した反中核派の争いだったとされている。

 そして1970年。
 ある革マル派の学生が無惨に殺害されたことにより、血で血を洗う抗争が始まることになる・・・・。


◆年度別内ゲバ事件の死亡者数(社会批評社 「検証 内ゲバ」より) 1969  2人 1983  0人
1970  1人 1984  0人
1971  8人 1985  0人
1972 14人 1986  2人
1973  2人 1987  0人
1974 11人 1988  1人
1975 21人 1989  3人
1976  3人 1990  0人
1977 10人 1991  0人
1978  7人 1992  1人
1979  8人 1993  1人
1980  8人 1994〜1998  0人
1981  2人 1999〜2001  7人
1982  1人 ――― ――


◆党派別内ゲバ死亡者
襲撃側 被害側 人数
中核派 革マル派  48人
解放派 革マル派  23人
民青 革マル派  1人
革マル派 中核派・解放派  15人
中核派 元中核派  1人
マル青同  1人
解放派 内々ゲバ  9人
京浜安保共闘 内々ゲバ  2人
連合赤軍 内々ゲバ 12人
ブント 内々ゲバ  1人


※「検証 内ゲバ」によると、「内ゲバによる正確な死者数は発表されていない」ということで、資料やインターネットの情報によってまとめられたのが上のデータということ。それには死者計113人、負傷者約4600人、発生件数1960件以上とある。

※京浜安保共闘、連合赤軍に関しては「連合赤軍リンチ事件」


【海老原事件】

◆1970年8月4日早朝、新宿の厚生年金病院の玄関前で、全身をメッタ打ちにされた若い男の死体が放置されているのが発見された。男は東京教育大学3年の革マル派活動家・海老原俊夫(21歳)とわかった。

 海老原は前日の午後3時ごろ、池袋駅東口で中核派の数十人に取り囲まれて暴行を受けた後、タオルで覆面をさせられ、飯田橋にある法政大まででものようにしながら拉致された。法政大学六角校舎地下室で、「自己批判」を要求され集団リンチにあっていた。

 内ゲバの2日前には新宿の歩行者天国で両派が衝突。3日にも渋谷で約100人が乱闘する事件が起こっていた。7月9日には東京教育大構内で機関紙を売っていた中核派学生が、革マル学生十数人に襲われ、機関紙を奪われるという事件が起こっていたが、革マル学生の中に海老原がいた。海老原はたまたま訪れた池袋で、カンパをしていた中核派の東京教育大生に見つかり、西武デパートのショーウィンドウの前に押しつけられ、集団で殴られたうえ、中核派のヘルメットをかぶせられて連れ去られた。

 8月6日、革マル派は「国際反戦中央委員会」を「海老原君追悼集会」に切り替え、「この集会を機に中核派せん滅の戦いに入る」と宣言した。
 中核派はこの事件について沈黙した(破防法適用で本多書記長が獄中にいたからとされる)。この海老原事件では中核派の全学連委員長ら21人が逮捕された。

 いずれにせよ、両派の対立が激化するのは海老原事件後からだった。
 当初、中核派は街頭闘争などでの逮捕者続出などにより、本格的な内ゲバに乗り出すことができず、革マル優勢の状態が続いた。


◆8月14日、中核派に変装した革マル派約30人が法政大学に入り、中核派の学生十数人を襲撃、リンチを行う。

◆1971年6月、沖縄で民青の革マル派の内ゲバが発生し、革マル側の琉球大生・町田宗秀が死亡。

◆同年10月、革マル派活動家の美術学院生・水山敏美が、横浜国大内で中核派に殺害される。革マル派は「中核派絶滅」宣言を行い、中核派もこれを受けて「無条件かつ全面的な宣戦布告、カクマルに対する全面的せん滅戦争」と宣言した。

◆同年12月3日、革マル派関西共闘会議は、大阪経済大学学生会館において、大学の授業料値上げ問題をめぐる闘争の戦術会議を開催し、「関西大学でステッカーとビラ貼りをする。中核派の攻撃に備えて突撃隊を編成する」と決定した。
 翌4日未明、革マル派30人は会館を出発し、電車で関西大学に向かった。途中大学裏の児童公園で自動車に積んできた武器を受け取り、一部のものが大学構内でステッカー貼りを開始した。
 法文学舎を占拠していた中核派は、午前6時頃にこれを発見。正田三郎(同志社大生、23歳)、辻敏明(京大生、22歳)ら15人が革マル派を襲撃したが、待ち構えていた革マル派の突撃隊が鉄パイプで反撃し、中核派側が逃走。逃げ遅れた正田と辻が捕まり、滅多打ちにされて殺害された。


【川口事件】

◆1972年11月9日早朝、東大構内付属病院にパジャマ姿の若い男が放置されているのが見つかる。全身アザだらけで、骨折した腕からは骨がが見えているというひどい状態だった。まもなく死亡した男は早大文学部2年・川口大三郎(20歳)と判明する。

 川口は静岡県出身で、部落差別問題への関心から中核派の集会などにたまに参加していた。早大構内で革マル学生と口論になり、拉致されたものと見られた。

 革マル派が中核派シンパと見なして集団でリンチし殺害したもので、同派は「党派闘争の原則から実質的にはみ出す行為に走ったといわざるを得ない。・・・・一部の未熟な部分によって起こった事態」と自己批判を表明した。


【1973年の内ゲバ】

◆1973年9月14日未明、反帝学評約50人が「九・一五ミッドウェー母港化反対闘争」に向けて拠点校の神奈川大学に泊まり込んでいたところ、翌15日午前1時45分ごろ、覆面姿の革マル派約150人が鉄パイプで襲撃し、相互に多数の負傷者が出た。この間、反帝学評約20人がレンタカーで動向視察していた革マル派2人(東大生、元キリスト教大生)を捕まえ、鉄パイプで滅多打ちにして殺害し、現場から5km離れた浄水場裏に遺棄した。これ以後、反帝学評(社青同解放派)も革マル派との抗争を開始した。

◆10月8日、革マル派、「前進」を印刷中の毎夕新聞社を襲撃。

◆10月20日、革マル派約170人が、東京・横浜・大阪・京都の中核派拠点12ヶ所を一斉襲撃。


【1974年の内ゲバ】

 1974年、革マル派は「党派闘争勝利宣言」を出し、それ以後の中核派などの内ゲバについて、「権力の謀略」という説を打ち出した。なおこの頃から、押されぎみであった中核派が攻勢に乗り出す。

◆1974年1月24日、世田谷区で革マル派の友人の引越しを手伝っていた東大生2人(ともに21歳)が中核派の約10人に襲われ鉄パイプで頭を殴られ死亡。また同日には横浜国立大経済学部校舎付近で神奈川大生(24歳)が6、7人のグループに襲われ死亡した。

◆2月8日、中核派、琉球大自治会長安室を襲撃。応戦した琉球大生が死亡。

◆4月6日、日比谷公園での全共闘1500人の集会に500人の革マル派が乱入。竹竿や投石による乱闘となり、両派30人が負傷。

◆5月7日、革マル派の拠点・早大第一学生会館を、社青同解放派が襲撃。

◆5月13日白昼、法大裏で内ゲバ。中核派の墨田区職員である革共同東京東武地区委員長(38歳)が死亡。(中核派、5人目の死者)他に25人が重傷。

◆6月7日、大阪産業大学軍事責任者・小野武司がアパートで中核派の襲撃を受けて死亡。

◆6月26日、法大構内でヘルメット姿の両派約100人が鉄パイプ、旗竿で乱闘。機動隊が導入され、97人が逮捕された。負傷者は機動隊に保護された。

◆9月10日、「中央武装勢力」隊員が、6日後に死亡。

◆9月24日、守口市で「関西上京団」の3人を襲撃。1人は2週間後死亡。
 中核派は、同派の労働者を襲撃した革マル派に対し、「無差別報復テロ」を実行すると記者会見で宣言した。

◆10月3日、品川区の路上で、全逓在原幹部が襲撃され死亡。

◆10月15日、革マル派、集会帰りの中核派を襲撃。労働者1人が死亡。

◆12月1日、中核派、革マル派の関西秘密最高指令本部など3ヶ所を同時襲撃。幹部12人が襲われ、1人死亡、4人重体。

◆12月16日未明、中核派は都内3ヶ所のマンションで革マル派を襲撃。
 この年、内ゲバで6人死亡、297人重軽傷を負う。


【中核派書記長内ゲバ殺人事件 1975年】

◆1975年3月6日、機関紙「解放」の発行責任者”難波力”こと堀内利昭が、日通航空新宿支店で襲撃される。


◆3月14日午前6時過ぎ、埼玉県川口市にあるアパート住人から、「2階の部屋でいざこざがあったようで、ガラス戸が割られ、部屋の中で男の人が死んでいる」という110番通報があった。
 警察が駆けつけたところ、中核派書記長・本多延嘉(41歳)が死んでいた。ここは彼のアジトだった。午前3時ごろ、パンストで覆面をした十数人の革マル派に襲撃され、斧、ハンマー、鉄パイプなどで全身をメッタ打ちにされ殺害されたらしい。傷のほとんどは手斧によるもので即死状態だった。

 3日後、最高指導者を失った中核派は、革マル派に対する無差別報復を宣言。一方の革マル派は、「解放」(3月24日付)で次のように宣言、犯行を認めた。
「わが全学連の革命戦士は、反革命スパイ集団・ブクロ=中核派の頭目、書記長本多延嘉を、川口市内の隠れ家において捕捉し、これにプロレタリアートの怒りをこめた階級的鉄槌を振り下ろした」


 警視庁は19日に専従員配置を決定したが、報復は続いた。中核派はこの年だけで15人の革マル活動家を殺害した。75年は内ゲバ死亡事件のピークの年だった。

◆3月20日、中核派、荒川区の全逓東部アジトを襲撃。2人が死亡。

◆3月27日、川崎市職員・西田はるみが職場近くで襲撃を受け死亡。初めての女性犠牲者。(革マル派、13人目の死者)川崎市役所では約40人の反戦系労働者がおり、内訳として半分が中核派、6人が革マル派、残りが他セクトだったという。

 革マル派は「一方的テロ停止宣言」。しかし内ゲバを完全にやめたわけではなく、また中核派側の攻撃はおさまらず、死者は増えていくばかりとなる。

◆4月1日、東京・墨田区の喫茶店で、千葉県委員長・船崎新が襲撃を受け死亡。(革マル派、14人目の死者)

◆4月26日、東京・新宿区西新宿の喫茶店で、内ゲバ殺人。

◆5月7日、鹿児島県内の革マル派アジトが襲撃を受け、1人死亡。

◆6月4日、大阪市立大教養学部前で革マル派35人が集会中、鉄パイプを持った学生10数名が乱入。2人が死亡、4人重傷。。

◆6月19日、東京・品川区の路上で全逓蒲田藤盛が襲撃を受け死亡。

◆6月24日、静岡県伊東市内にある歌手・加藤登紀子の別荘で内ゲバ。泊まって武闘訓練をしていたとみられる反帝学評の元九大生(26人)が死亡、9人重軽傷。加藤夫妻は「無関係」と記者会見を開いた。

◆7月1日午前10時20分ごろ、東京・北区の東京外国語大学の1号館1階廊下で、革マル派の学生が、女性1人を含む数人の学生に囲まれ、鉄パイプで殴られ、全治1か月の怪我を負った。襲撃した男女は生協門から逃走した。

◆7月3日午後0時45分ごろ、港区芝公園の区営グラウンドで野球をしていた都営地下鉄車掌(当時28歳)が、突然4人組の男に鉄パイプでメッタ打ちにされ重傷を負う。この車掌は革マル派のシンパで、現場に残された鉄パイプは中核派のものだった。

◆7月5日午後0時半ごろ、千代田区神田駿河台の中央大学二号館前中庭で、学生2人がビラを配っていたところ、鉄パイプを持った8人に殴られた。この乱闘で、ビラ配付の1人が頭を殴られ重態。襲ったグループは全員スーツ姿だった。

◆7月9日午後1時15分ごろ、千代田区紀尾井町の上智大学構内で、革マル派系の学生約30人が、機関紙を配ったり演説をしていたところ、約15人が鉄パイプで殴りかかった。この乱闘で3人が重軽傷を負った。

◆7月11日午後0時10分ごろ、新宿区西早稲田の早稲田大学の13号館(生協)と14号館(社会科学部)の通路付近で、学生と見られる3人が負傷して倒れているのが発見され病院に運ばれた。1人が意識不明の重態。目撃者の話によると、鉄パイプを持ったグループがあらわれ、乱闘をおこない逃走したという。さらにこの直後、10号館付近でも学生同士の乱闘事件が発生している。警視庁公安部と戸塚署は革マル派による中核派襲撃と断定した。

◆7月15日午前8時20分ごろ、東京・小金井市本町の小金井公会堂2階ドア付近に、茶色の紙に包まれた不審物があるのを用務員の女性が見つけ、出勤してきた責任者に知らせた。通報を受けた小金井署員が駆けつけ、不審物を公会堂南側の空地に移し、警視庁爆弾処理班に出動を要請、様子を見ていたところ、9時23分に爆発した。付近には鉄クギなどが飛んだが、怪我人は出なかった。公会堂では、この日の朝に革マル派全学連の第38回全国大会が開かれることになっており、爆弾の時限装置はこの時間にセットされていたらしい。内ゲバに爆発物が使われたのは初めてだった。

◆7月17日、皇太子ご夫妻の沖縄訪問に反対して国電蒲田駅周辺で集会・デモを行なっていた革マル派、中核派の約200人が、新橋駅山手線内回りホームで衝突。投石などを行い、同駅を通る京浜東北線など各線がストップした。この衝突で1人が死亡、多数の怪我人が出た。怪我人の中には付近にいた一般人もおり、無差別攻撃が行なわれていた。136人が暴力行為の現行犯で逮捕されている。

◆7月22日午前8時45分ごろ、静岡県下田市の路上を歩いていた東京・昭島市の小学校職員の男性(当時34歳)が、3人組に鉄パイプで襲われ、重傷を負った。この男性は研修旅行中で、以前にも内ゲバ事件で襲われたことがあった。


◆1975年7月17日、新橋駅ホームで中核派と革マル派が衝突。1人死亡、44人が重軽傷。321人が逮捕される。


【革マル派の革労協最高幹部殺害事件】

◆1976年2月28日未明、仙台市の郵政アパートの革マル派の郵便局員方に、覆面スタイルの中核派数人が、あらかじめフキンの電話線を切断し、折りたたみ式ハシゴでベランダから侵入、寝室で寝ていた郵便局員、妻、長男(当時2歳)を鉄パイプで殴り、重軽傷を負わせた。

◆1977年2月11日、革労協(解放派)書記局長で解放派筆頭総務委員の「中原一」こと笠原正義が、茨城県取手駅付近で車に乗っていたところを、乗用車に挟み撃ちにされ、降りてきた革マル派の6人に鉄パイプで頭などをメッタ打ちにされて死亡した。

※革労協・・・・革命的労働者協会。「三池・安保の申し子」と言われた日本社会主義青年同盟(社青同)は60年に社会党の指導によって結成されたが、この中に潜伏していた元共産同系のトロツキストグループは機関誌を発行し、徐々に勢力を伸ばした。やがてこのグループは「社青同解放派」として独立。社青同内の左派・協会派などと主導権争いを始めたが、次第に排除され、69年10月に「革労協」を結成。学生組織には「反帝学評」がある。

この内ゲバに対する革マル派のコメント
「革労協の最高責任者である中原一に対して、革命的鉄ついを下した。これはあくまでも、われわれ労働者、学生への彼らの反階級的な襲撃を未然に防ぐための防衛的闘いである」

 この最高幹部殺害の後、革労協は中核派に代わって「対革マル」の前線に立つ。


◆同年4月15日、埼玉県戸田市の機関紙印刷所を出発した革マル派のワゴン車が浦和市内の新興住宅街で襲撃され、中に閉じ込められたままガソリンで放火され、政治局員・藤原隆義(34歳)ら4人が焼死した。
 革マル派のワゴン車は鉄板や金網が張られた装甲車のようなものだったが、走行中に前方の空き地に停まっていた大型トラックが進路をふさぐように飛び出してきて、さらに後方から追尾していた幌付トラックが追突し、2台に挟まれるように停車した。車から飛び出してきたヘルメットに覆面姿の約10人は、鉄パイプやツルハシでワゴン車を乱打し、ドアを変形させて中から開けられないようにしてから放火した。車が炎上するのを確認した犯人は、幌付トラックの後方にあった車で逃走した。犯人の作業衣や凶器などは翌日に市内の荒川土手で、逃走に使った車は朝霞市内の路上で17日夜に発見された。

 17日、革労協活動家が犯行声明を出す。
「革マル政治局員藤原隆義ら4人を打倒!2.11中原同志暗殺に対する怒りの革命的テロル炸裂!更に、すさまじい革命的テロルの猛攻を黒田ら反革命頭目の頭上に」


◆7198年、解放派は「二・一一 反革命一周年決戦へ全党全軍総決起」を掲げ、1月27日に勝田市、水戸市など茨城県下で革マル派3人を殺害し、3人に重傷を負わせた。


◆1979年11月16日午後7時10分頃、新宿区愛住町の外苑東通り路上で、若い男2人が10数人のグループに取り囲まれ、大型ハンマーや鉄パイプで全身メッタ打ちにされ、1人が死亡、もう1人も翌日病院で亡くなった。襲ったグループはトラックで逃走、トラックは2km離れた新宿6丁目に乗り捨てられていた。これは10月に横浜市内で盗まれた車両だった。
 死亡したのは横浜国大教育学部S(26歳)、北大生K(26歳)。所持品などから革マル派の活動家とわかった。

◆11月21日、革マル派による3件の内ゲバ事件があった。
 午前4時40分頃、藤沢市大鋸のアパートで、学生2人が黒ヘルをかぶった11人の男に襲われ大怪我。寝こみを襲われたもので、逃げようとして下着姿のまま階段や庭先に倒れていた。
 また同じ時刻、平塚市南原で、8人の男がはしごをかけてビルに侵入し、中にいた人をメッタ打ちにした。
 そして午前7時過ぎ、八王子市椚田町でも2人が重傷を負う事件があった。
 この一連の事件で、革マル派は「革労協の軍事アジトを摘発した」という声明を出した。


【大田区南千束路上内ゲバ事件】

◆1980年1月7日、駒場の東大教養学部、北寮の一室で、寮生10人が懲罰委員会を開いていたが、反帝学評と見られる12、3人の学生が室内とと廊下にいた計100人に殴りかかり、11人が負傷した。襲った学生は逃げたが、うち3人は逮捕された。
 大学の拠点化をめぐり、対立セクトの革マル派とにらみ合う反帝学評は、前年末、他大学の学生を呼ぶなどして、東大の一部を占拠し立てこもった。このことで、寮生から「不法占拠だ」との批判を浴び、反帝学評を懲罰にかけることとなった。

◆同年2月5日、文京区向ヶ丘のアパートで、この部屋の東大文学部4年の男性(当時24歳)が寝ていたところ、ヘルメットをかぶった4人組の男が窓ガラスを割って押し入ってきた。男性は鉄パイプで全身を殴られ重傷、一緒にいた女友達(当時21歳)も頭に大怪我を負った。男性は革マル派の集会に出たことがあった。


◆同年5月5日、千葉県安房の旅館「権兵衛」で、西洋史研究会の合宿中、「トミオカはいるか」と入ってきた6人の男におそわれ、助教授が死亡、学生2人が重傷、1人が軽傷。
 メンバーの17人に「トミオカ」という名字の人はおらず、また死亡した助教授も東大在学中に学生運動をしていたことはあったが、近頃はどのセクトにも繋がりを持っていなかった。革労協は「革マルの秘密メンバーを殲滅」という声明。


◆7月20日夜、練馬区高野台の路上で、豊島郵便局に勤める男性F(37歳)が、覆面の7、8人の男に鉄パイプで殴られ、28日に病院で死亡した。中核派の「革マルの活動家を殲滅した」という声明があった。


◆同年10月30日午前10時45分、大田区南千束の区立洗足池図書館前の路上で、10数人が乱闘しているのを通行人が見かけ、近くの派出所に届けた。警官が駆けつけると、路上には5人の男性が滅多打ちにされて倒れており、全員すでに死亡していた。5人とも頭を狙われ頭蓋骨骨折の即死状態で、辺りには鉄パイプなどが散乱していた。
 襲ったのは7、8人のグループ。白ヘルに黒マスクで、作業着やジーンズなどを身に着けていた。彼らは警官が来る前に二台のトラック(盗難車)に分乗して逃走したという。

 事件直前には図書館裏の保育園駐車場に若い男4人が外をうかがうように隠れており、園長が「どうしたのですか?」と尋ねると、「車をぶつけられてね」と答えていた。
 犯人は現場に通じる交差点で、現場方向に向かう車両や通行人を迂回させたり、あらかじめ付近の電話線を切断するなどしていた。

 亡くなったのは元千葉大生A(28歳)、元明大生B(30歳)、元東工大生C(29歳)、元明大生D(29歳)、東工大生E(24歳)の5人。所持品などから革マル派とわかり、Eを除いて凶器準備集合罪などで逮捕歴があった。
 亡くなった5人は69年から続く内ゲバ事件で80人目の被害者。1度の内ゲバで5人が死亡というのは最多である。

 この事件について、中核派は「我が革命軍は…カクマルジャックの集団を捕捉し…壊滅的打撃を与えた」「5人は3・14本多書記長殺害の下手人である。反革命革マル派に対しては、さらに第二、第三の”10・30”を慣行する」などと犯行を自認。翌年に中核派活動家が指名手配されたが、時効が成立した。

 この後、指名手配された男とその母親が、「えん罪だったのに潜伏生活を強いられた」と都に損害賠償を求める訴訟を起こした。04年3月に東京地裁で300万円を支払いを命じる判決が下されたが、05年10月の二審では一審を破棄、請求を棄却している。


 革労協では77年に書記長を殺害されてから「徹底報復を主張する軍事路線の狭間嘉明らの学生活動家出身グループ「狭間派」と、大衆闘争・労働運動を重視する佐々木慶明率いる労働者グループ「反狭間派」が対立していたが、81年6月に分裂した。

 1984年に入ると、中核派による第四インターへの内ゲバ事件が全国的に起こる。これは成田空港反対同盟の分裂に関係するもので、中核派は反対同盟北原派ではなく熱田派を支援する第四インターを「脱落派」と決めつけて攻撃したものである。

◆1985年2月5日、和光大学構内で内ゲバ。中核派8人、革マル派1人が負傷した。


【中核派の国労幹部襲撃事件】

◆1986年1月20日白昼、京都大学教養部構内でオルグ中だった中核派の全学連副委員長代行・福島慎一郎(25歳)が、待ち伏せしていた集団に鉄パイプで頭部を殴られ、脳挫傷等により死亡した。革マル派は「中核派『軍団』の敵対を完全に粉砕した」などと犯行を自認。

◆同年9月1日未明、大阪、兵庫、埼玉の6ヶ所で、国鉄労組幹部宅が、鉄パイプを持った集団の襲撃を受けた。この同時多発襲撃事件で、真国労大阪地本書記長・前田正明(37歳)が頭を殴られ死亡、他8人の組合幹部とその家族が重軽傷を負った。
 当時、国鉄では、「分割・民営化」を支持する真国労・勤労・鉄労・全施労と、これに反対する中核派の対立が続いていた。中核派は5月に襲撃を予告していた。
 2日、警察は中核派の関西拠点を殺人未遂容疑で家宅捜索し、犯行を認めるビラや鉄パイプを押収した。

◆1987年2月23日午前7時頃、茨城県茎崎町の路上で、出勤途中の動労中央本部副委員長が、待ち伏せしていた白、青色ヘルメットの6人くらいの男に襲われ、鉄パイプ、バールなどで滅多打ちにされ両手両足骨折の重傷。中核派が犯行を自認。

◆5月18日午前7時20分ごろ、東京・武蔵野市内の駐車場で、動労拝島運転区渋い院長がJR武蔵境駅まで歩いて出勤中、ヘルメット姿の5、6人の男にハンマー、鉄パイプなどでおそわれ、両手両足骨折の重傷。
 翌日、中核派は「動労=カクマルへの正義の赤色テロである」と記載したビラを都内数カ所に巻き、犯行を自認。

◆8月29日午前7時半頃、千葉県船橋市の路上で、東日本鉄道労連、・千葉支部副委員長が自転車で出勤途中、ヘルメット姿の数人の男で鉄パイプで襲われ、両手、両足、顎骨折の重傷。中核派が犯行を自認。

◆10月30日朝、ラッシュ時の赤羽駅構内で、出勤途中のJR東日本の職員が、鉄パイプやハンマーで襲われ、両足と頭蓋骨骨折などの重傷を負った。革労協狭間派は「反革命革マル…を徹底せん滅し、再起不可能状態を強制した…」などと犯行を自認。


◆88年3月3日、群馬県渋川市で東日本旅客鉄道労組高崎地本委員長が自宅で就寝中、中核派の7、8人に襲われて死亡。


【革労協の内部抗争】
 
◆1988年7月1日、京大教養学部構内で内ゲバ。中核派8人が負傷した。
 
この頃から中核派と革マル派に関する内ゲバ事件自体は急速に減少する。それにかわって深刻になったのが革労協の内部抗争で、これは現在まで続き、10名以上の死亡者を出している。


◆1989年6月25日午前3時頃、埼玉県川口市のアパート、永井啓之(43歳)方にバールやハンマーを持ったヘルメットの男7、8人が押し入り、白色のルートバンで永井を連れ去った。
 午前10時10分頃、自宅から約40km離れた茨城県牛久市の市道トンネルで、寝袋に入れられた永井の遺体が見つかった。殴られた跡があり、顔は判別できないほど膨れあがり、肋骨15本などが骨折する無惨な状態だった。
 襲撃した犯人はあらかじめ付近の電話線3本を切っておき、永井方のベランダに梯子を架け、侵入したと見られる。

 永井は元革労協(狭間派)の最高幹部であり、実質ナンバー2だった。
 「反狭間派」と別れた同派は狭間・永井を中心に活動していたが、強硬な軍事路線をとる狭間と、大衆闘争で組織を拡大していこうとする永井との間で新たな対立が生まれ、永井は除名処分を受けていた。このことから当初から内ゲバによる殺人事件と見られた。

 6月28日、革労協(狭間派)は都内で記者会見。内部抗争であることを認めた。
「わが党、同盟によって昨年除名、その後敵前逃亡し、加重処分の対象となっていた永井が、永井をめぐる組織防衛上の課程で肉体的に変調をきたし、放したが、その後、マスコミ報道によると死亡した」

 この事件は時効が成立している。


【革労協狭間派の内部抗争】

◆1996年5月14日、横浜市青葉区で革労協(挟間派)の十数人が、革マル派の国学院大生ら数人を鉄パイプで殴り、1人を殺害、6人に重傷を負わせた。

◆1999年6月4日午後5時20分頃、東京・北区豊島の日本キリスト教団「王子北教会」礼拝堂に4、5人の男が乱入し、牧師と談話中の革労協(挟間派)・学生グループ最高幹部・山田茂樹を鉄パイプのようなもので襲撃。山田は、右腕と両足を骨折、全身打撲という大けがを負った。
 さらに同日午後6時45分ごろ、現場から3.5km離れた足立区西新井の駐車場内で、逃走に使われた車両内に時限式発火装置がしかけられ炎上した。車両は5月に埼玉県日高市内で盗難されたものだった。

「6.4反革命に直接手を染めた実行部隊の一人一人にハザマ私兵集団の末路を思い知らせてやる。そして、とりわけ、直接の手引き者たる茶坊主・八十島と組織攪乱スパイ分子・森川は絶対許しはしない」

 挟間派は1989年6月25日の元革労協(挟間派)最高幹部内ゲバ殺人事件以降も、神奈川グループや関西グループの脱退などで分裂を繰り返していた。また最高幹部・挟間嘉明の健康悪化による指導力低下で、山田を中心とする学生グループと古参幹部を中心とする労働者グループで主導権争いが起こった。それは5月7日の東京地裁において双方が怒鳴りあうなど表面化していた。内ゲバ事件は3年ぶりの発生だった。
 
 
 以後、主流派を「現代社派」、反主流派を「赤砦社派」と表記。

◆同年7月2日、出勤途中だった現代社派の明大生協理事が、赤砦社派にハンマーで撲殺される。

◆同年7月21日、現代社派が赤砦派生協職員を殺害。


◆2000年2月8日、現代社派が福岡市博多区大博町の駐車場でを襲撃し、九州大生の活動家を殺害。

◆2月9日、JR真鶴駅の上りホームで、現代社派襲撃部隊のキャップ(48歳男)とサブの女が3人組の男に襲われ、停車していた伊東発東京行きの1普通電車に逃げ込む。2人は小田原駅で降ろされ病院に運ばれたが、男が右胸を刺され死亡、女の方も背中や腹を刺されて重傷を負った。5.60歳代と見られる逃げた3人組は真鶴駅の改札口を抜け、海の方向へ逃げて行った。3人とも大きなマスクをしていた。
 
◆同年8月30日午前8時20分頃、JR鶯谷駅で女が覆面をした3、4人に取り囲まれ刃物でメッタ刺しにされる。死亡したのは明治大学生協職員で革労協反主流派の女(48歳)。襲撃したメンバーはワゴン車で逃走した。ラッシュ最中の犯行。

◆同年12月10日、東京・清瀬市の路上で、現代社派の革労協総務委員であるタクシー運転手が殺害される。


◆2001年5月16日朝、千葉県八街市の飲食店駐車場で、現代派社の幹部Y(49歳)が襲撃され死亡する。4人の男が乗用車内にいたYを引きずり出し、ハンマーで頭などを殴った。


◆2004年6月2日、東京・台東区三ノ輪の路上で、男性3人が黒い目出し帽にヘルメットをかぶった集団に襲撃され、2人が死亡、1人も頭部に軽傷を負った。現場前のマンションは、赤砦社派の活動拠点で、死亡した1人は同派系全学連委員長・五十嵐章浩(31歳)だった。革労協の内内ゲバでは、すでに10人が死亡している。

◆2006年3月28日、赤砦社内で大物・岸本修が死亡。赤砦社は死因を心臓麻痺としたが、全身にアザがあった。翌日、傷害致死の容疑で社内に家宅捜索が入る。


【トピックス 内ゲバ事件と公安警察】

 内ゲバでなぜ鉄パイプを使用するのか。
 それは殺意の否定、革マル派によるとあくまで「教育的措置」とする。また鉄パイプを使う場合、集団であたらないといけないので、複数での犯行は1人1人の罪が軽くなるという狙いがあり、突発的であれ、計画的であれ、匿名性の高い暴力となる。さらに大抵の内ゲバは組織的な犯行で、盗難車を使い、別のメンバーが退路の確保をしたりする。覆面姿で襲撃を行うことが多いため、誰が襲撃に関与したのか特定しにくい。このことから、白昼に行われた内ゲバ殺人事件や、機関紙で犯行を自認したような事件でも時効となったものは少なくない。

 中核派と革マル派は、ともに「相手側は権力(警察)と一緒になって我が方を襲撃している」と思いこんでいる。
 とりわけ革マル派の方は、かなり早い段階で権力の謀略説を唱えていた。それは70年4月の「六月行動委員会」の集会に、革マル派がかなり強引に押しかけたが、他のセクトから入場を阻止されるという出来事があった。あわや内ゲバという騒ぎで、警察が介入して話し合いをもたれ、革マル派は集合場所の明治公園外で解散した。革マル派は、この警察の介入を「中核派と全国反戦などが、革マル派を参加させないために権力に泣きついた」とした。

 革マル派は「権力の謀略」を主張する根拠として、次のような点を挙げた。
(1)前川全学連委員長が東京・芝のマンションで中核派に襲撃されるという事件が起こった。前川は頭部をマサカリで殴られ瀕死の状態であったが、意識がないなか「オオトモにやられた」とうわごとを言った。

(2)1975年4月、広島の喫茶店「田園」で、革マル派が襲撃された事件で、その場に居合わせた中国新聞のカメラマンがこの襲撃を撮影した。襲撃グループはスーツ姿の4人組で、がっちりした体型に角刈りであった。この男は左翼っぽく見えない。

(3)1976年、革マル派のアパートが襲撃されるという事件があった。この時、襲撃したメンバーの覆面タオルがずれ落ち顔が見えた。事件後、現場検証が行なわれたが、その指揮官が襲撃メンバーの顔とうりふたつだったというのである。

(4)1977年の水本事件。これは革マル派の活動家・水本潔が「自殺」したという事件で、革マル派は「水本君は謀殺され死体はすりかえされた」と断じた。その根拠は、彼の母親の「下着まで息子のものなのに死体は別人だ」という証言である。

 こうした権力謀略論も、「荒唐無稽だ」と批判する人は多い。


リンク

中核派
http://www.zenshin.org/

革マル派
http://www.jrcl.org/

警察庁 「過激派集団革マル派 〜見えてきた その正体〜」
http://www.npa.go.jp/keibi3/it0.htm


≪参考文献≫

警察文化協会 「戦後事件史 警察時事年間特集号」
講談社 「昭和 二万日の全記録 第15巻 石油危機を超えて」
講談社 「日本の公安警察」 青木理
講談社 「蜂起には至らず 新左翼死人列伝」 小嵐九八郎 
講談社 「全学連と全共闘 戦後学生運動の軌跡」 高木正幸
講談社 「中核VS革マル 上」 立花隆 
講談社 「中核VS革マル 下」 立花隆
三一書房 「内ゲバ 公安記者メモから」 滝川洋 磯村淳夫
三一書房 「過激派壊滅作戦 公安記者日記」 滝川洋
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
社会批評社 「検証内ゲバ 日本社会運動史の負の教訓」 いいだもも他 
社会批評社 「新左翼運動 その再生への道」 小西誠
神泉社 「爆弾事件の系譜 加波山事件から80年代まで」 荻原晋太郎
神泉社 「新左翼二十年史 叛乱の軌跡」 高沢皓司 高木正幸 蔵田計成
宝島社 「別冊宝島 日本『黒幕』列伝2 ”怪人”たちの正体」
宝島社 「別冊宝島 日本の右翼と左翼」
立花書房 「別冊治安フォーラム あばかれる過激派の実態」
立花書房 「別冊治安フォーラム 過激派事件簿40年史」 
立花書房 「極左暴力団・右翼101問」 警備研究会
筑摩書房 「公安警察の手口」 鈴木邦男
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
土曜美術社 「新左翼三十年史」 高木正幸
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 1968年 グラフィティ バリケードの中の青春」
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 連合赤軍”狼”たちの時代 1969−1975 なごり雪の季節」
毎日新聞社 「スチューデントパワー 世界の全学連――その底流」 毎日新聞社編
ミリオン出版  「消えた殺人者たち あの“未解決事件”の真犯人はここにいる」 実話ナックルズ編集部


 

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