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明治維新を定義し直した「脱亜入欧論」 ーそれは「攘夷論」と「開国論」を「文明論」として揚棄aufhebenしたもの
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/260.html
投稿者 影の闇 日時 2010 年 6 月 29 日 19:18:06: HiXvZf/FmwPNU
 

その主導者福沢諭吉が文明論や西洋事情を論じてる処から分かる通り、それは、これまでの中国を中心とする文明秩序から脱し、新たに西欧を中心とする文明秩序に入って行くー従って、明治維新の本当の意味(意義)は文明(史)的な転換ー言うならば文明の天動説から地動説への転回ー文明のコペルニクス的転回!ーに在ったということー即ち明治維新を改めて定義してみせたのが「脱亜入欧論」と言えるのではないか? 更にこの観点からすると、「脱亜入欧論」は、幕末の「攘夷論」と「開国論」の対立を「文明論」として揚棄aufhebenしたものだった、ということになります。

そして、これまでの中国を中心とする視点を革め、西欧を中心とする目に転じた時、「攘夷」の意味が180度異なって来るー攘夷(野蛮人を撃ち払う)という時のこの<野蛮人>が西欧人から周辺の中国・朝鮮人へと変わって来るーのです。
ーとすると、西郷と大久保との対立は、単なる外交方針の違いではなく、日本がどちらに属するか?を巡っての「文明論的対立」であったと言って良いのかも知れません。

そうして、大久保の勝利はその後の日本を決定付けるものであり、周辺の中国・朝鮮人を夷蛮視するこの<眼差し>こそが西欧列強を模倣する「帝国主義」を強力に推し進めさせ、根拠無き差別や偏見を生んで行ったのです。 

他方、敗北した西郷の路線は、その後在野にて、「大東合邦論」(樽井藤吉)や玄洋社( 頭山満)の活動等、アジア主義として転生し、国民国家の形成に伴い、恰も<文明>に対しての<文化>の如く、民族主義の基盤と成って行きました。
その理由はお分かりでしょう。 丁度田舎の仕来りや慣習に馴染んだ者が都会のルールやマナーを直ぐに(自然に)身に付けることが出来ないように、我々は西欧文明を選択したとしても、明日から、直ちにその一員になれるわけではないからです。
とはいえ、近代化とは、<文明>に対する<文化>、<都市>に対する<農村>として、前者が後者を次第に圧倒して行く過程でもあったわけで、この両者のバランスの臨界点に達した時に起きたのが先の戦争であり、その意味を25年後に確認したのが三島事件だったとすれば、その6年後の「限りなく透明に近いブルー」は、その意味で、それまで抑圧されて来た(文化と見做されなかった)サブカルチャーの勝利を告知したものでもあったということが出来る。 こうして、80年前後から現在まで、サブカル全盛の時代が続いてるわけですが、それが(メインの)<文化>の空洞化や形骸化、乃至は「エスニック」化であることー丁度、アメリカにおけるインディアン文化を観るような目線で自らの文化を見ることーをも又意味してるとするなら、それは<アメリカニズム>の浸透をも意味し、上記の如く、福沢が示した<選択>の勝利でもある事を意味します。


こうして、西南戦争以来の<選択>が今尚我々を根本の処で規定しているー明治の「入欧」が昭和の「入米」になるーというわけです。 これを<権力>とか<支配>といった視点から観れば、<戦後の権力>は<明治の権力>をリストラ<再建>したものであることが言える。 前者の「米軍の暴力」後者の「薩長の暴力」を隠蔽する装置が天皇であり、其処において明治以来の<支配>がひと繋がりのものとなるからですー米国の軍事占領=支配という現実ー無論、それはこの<現実>の大半を沖縄に押し付けて仕舞うことーに目を瞑るならね。 

その上、<明治の権力>が当時の覇権国家英国の圧力の下での西郷(亜細亜)派粛清・排除で確立したとするなら、<戦後の権力>は米国による直接の東条等(鬼畜米英派)の粛清・追放で<再建>されたことになる。
しかも、「倒幕」自体が、南北戦争で減退した米国に替わって英仏が割り込み、幕府側に付いたフランスに対抗して、薩長側に英国が付いたことで可能となったのだから(A・サトウは倒幕の真のリーダーを自負していた)。

とすると、近代の日本を<権力>から見たら、<成立>も<再建>も、英米の直接間接の影響力の行使の下に行われたことになります。 そうして、日本にとって不都合なこの<真実>を覆い隠したのが「文明論」だった、ということになる。

その意味で、明治の福沢諭吉に対応しているのが、昭和の丸山真男でしょう。 丸山の著作に、戦時日本を病理と切って捨てた「超国家主義の心理と論理」と共に、「『文明論之概略』を読む」があるのは偶然ではないのです。 
この書物が80年代半ば、ポスト・モダンの言説が流行ってた頃に書かれ、言うならば再帰的近代論、近代化論を近代化するものとして、この100年をひと繋がりのものとして踏み固める立場から書かれた物であること、その意味で司馬遼太郎の小説と同じ意味を持っていることは明らかです。 私などはここに、戦後日本の不能性というか、その窮まりを見るものです。
 

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