★阿修羅♪ > 国家破産63 > 412.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
『「ヒトラーの経済政策」副題:世界恐慌からの奇跡的な復興 武田知弘 著(祥伝社)』を読む。
http://www.asyura2.com/09/hasan63/msg/412.html
投稿者 Ddog 日時 2009 年 7 月 04 日 15:37:53: gb2b4T9TetGkU
 

@『「ヒトラーの経済政策」副題:世界恐慌からの奇跡的な復興 武田知弘 著(祥伝社)』を読む。その1 2009/6/28(日) 午後 10:36 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/28276079.html

ハイルヒットラー!戦前ドイツの人々は何故あれほどまでにヒットラーに熱狂したのか?戦後教育を受けた私にとって記録映画で、ヒットラーに熱狂する市民の姿は謎であり、ドイツ国民は騙されていたのか?

私は本書を読み、また一つ目から鱗が落ちました。熱狂する市民の姿は強制されたり騙されたりしてヒットラーに熱狂していたのではなく、また、憎きユダヤ人を人種差別することに陶酔しれているだけではなく、純粋に荒廃した祖国ドイツ経済を立て直し、民政に尽力した偉大な政治家として、心からヒットラーを賛美していたものでした。

アドルフ・ヒットラーといえば、第二次世界大戦を引き起こした張本人であり、20世紀最大の犯罪者、スターリン、毛沢東、とともに悪の代名詞の筆頭である。(これに原爆投下のGoサインを出したトルーマンを加えたい。)

武田氏も私(Ddog)も、ナチスによる残虐行為やユダヤ人虐殺を擁護するつもりはないが、後世全否定されたヒットラーは、何故ドイツ国民を熱狂させ、圧倒的な支持を受けたか、冷静に見つめてみたいと思います。ナチスドイツが疲弊しきった経済を奇跡的に復興させたこの事実は、今日の金融危機を今後どうすべきかのヒント処方箋が数多く見つけることができます。本書は、戦前のドイツ経済の復興を成し遂げたヒットラーと天才シャハトの功績を本当によく纏めた本だと思います。是非是非読んでください。

序章:ケインズも絶賛したヒットラーの経済政策とは
よく、「ナチスがケインズ理論を実践していた」と言われるが、私も誤解していたが、この表現は正しくはない。「ケインズもナチス・ドイツが行っていた経済手法と同じ考えを持っていた」が正解に近い。もしかしたら、「ケインズがナチスの経済政策からインスピレーションを貰った」とした方が正しいのかもしれません。
ケインズの理論を世に広めた「雇用利子及び貨幣の一般理論」は1935年に発表されたが、ナチスは政権が発足した1933年にアウトバーンなどの公共事業を積極的に展開し失業者を激減させている。

第二次世界大戦緒戦で欧州をほぼ席捲したナチスドイツフンク経済相は、1940年7月25日「欧州新経済秩序」を発表、ヨーロッパ共通通貨をマルクとして、通貨圏内は人や物資本や労働も自由に動き間割れる計画を発表した。
これは今日のユーロ通貨とほぼ同じである。
この計画を聞いたイギリス政府は当代随一の経済学者ケインズに非難論文を発表してくれと頼んだところ、思惑とは違い逆にケインズはこの計画を賞賛した。

{{{:++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「第一次世界大戦後、為替面における自由放任主義は混乱を招いた。関税はここから逃れる手段とはならなかった。しかしドイツでは、シャハトとフンクが必要に迫られて、より優れたものを作り出した。彼らは近隣諸国の犠牲の上にこの新しい制度を利用した。しかし、その基礎になっている考え方は、実際のところは健全かつ有用である」byケインズ
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}
第一次世界大戦後歴史的なハイパーインフレに襲われ、経済が立ち直りかけたところで世界恐慌に襲われたドイツは、金本位制の欠陥を早くから見抜き、金本位制に代わるシステムを模索していた。
P18〜19
{{{++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
これまでナチスは、当時の常識では考えられないような経済政策をいくつも打ち出してきた。
金の保有量がほとんどないのに、大量の公債を発行してアウトバーンのような大事業を行なったり、外貨を用いずに物々交換で貿易をしたり、労働組合をすべて解散させ、労使を合体させた一元的な組織を作ったり、等々である。

これを見て、諸外国の学者やマスコミはこぞって「ナチス・ドイツはすぐにダメになる」と論じてきた。親独的だった日本でさえ、ナチスの前半期は「ドイツの飢餓輸出」1934年4月11日時事新報)、「ドイツ独裁政策は完全に行き詰った」(1936年2月17日大阪毎日新聞)というように批判的なことばかりいっていた。

しかしそれに反して、ナチスはダメになるどころか見る間に景気が回復し、失業者を事実上ゼロにし、史上最大のオリンピックを行なうなど、先進諸国の中でもっとも活力のある国になっていった。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}

第1章600万人の失業問題を解消

アドルフヒットラーが政権の座に就いたのは1933年1月。その前年1932年国内第二位の銀行ダートナー銀行が破綻し、国民総生産は35%減少し、失業者は560万人(失業率30%)であった。3年後ドイツは失業者を160万人にまで減らし国民総生産は大恐慌前の1928年を15%も上回る急回復をした。
世界恐慌でダメージを受けた国では最も早く回復をした。
ヒトラーは、別に難しい経済理論を知っていたわけではない。「社会を安定させ、活気づかせるためにはどうしたらいいか」ということを、自分の経験と知識から導き出したのである。ヒットラーはこう国民に呼びかけた、「今から4年まって欲しい、4年で失業問題を解決し、ドイツ経済を立て直す」
ナチス結党以来「底辺の人の生活を安定させる」のが結党以来の一貫したテーマであった。
P27
{{{++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
ドイツを蘇らせた「第一次4ヵ年計画」
ヒトラーは政権を取った2日後の1933年2月-日、新しい経済計画(第一次4ヵ年計画)を発表する。
連立政権でまだ政権基盤も安定していなかったが、とにかくこれから「ドイツは変わる」
という印象を国民に与えたかったのだろう。大急ぎで計両が策定され、発表されたのだ。
つまりヒトラー政権にとって、最大の懸案事項は経済政策だったのである。
この「第一次4力年計画」は、
・公共事業によって失業問題を解消
・価格統制をしてインフレを抑制
・疲弊した農民、中小の手工業者を救済
・ユダヤ人や戦争利得者の利益を国民に分配
・ドイツの経済界を再編成
というのが主な内容だった。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}
ヒットラーが政権を奪取してすぐ莫大な予算をかけ再軍備に狂奔したというのは戦後作られた作為的イメージである。実際は1942年まではイギリスよりも軍事費の国民総生産における比率はイギリスを下回っていた。
ヒットラーはアウトバーンの公共事業や国民の福祉増進に予算を割き、一心不乱に失業対策を行った。その結果合法的に権威を獲得したものだった。

アウトバーン建設を開始したのは1932年ブリュニンク内閣であるが、微々たる予算ですべての公共事業が3億2000マルクだったのに対し、ヒットラーは初年度20億マルクの思い切った予算を計上した。
アウトバーン、都市再開発、再軍備で、失業率は一気に低下した。

ヒットラーは資金捻出の為既に世界的有名なシャハト博士をドイツ帝国銀行総裁、経済大臣の要職に就かせた。

シャハト博士は第一次世界大戦後のハイパーインフレを収束させた既に伝説になった当代一流の専門家である。

シャハト博士はドイツ帝国銀行総裁に任命されると、ドイツ経済を検証し、どの程度なら国債を発行してもインフレが起きないか計算し、16億マルクと計算し、公共事業費未消化分6億マルクとあわせ、22億マルクを作り、結果このお金がドイツ経済を救ったことになった。

公共事業を行って景気を刺激することは、バブル崩壊後の日本やニューディール政策で行われたが、ナチスが行った公共事業ほど目覚しい効果が上がらなかった。

ナチスの公共事業が大成功したポイント3点

'''1)支出の多くが労働者賃金に振り向けられた。'''

アウトバーン建設費のうち46%が労働者賃金に充てられ失業対策として無駄は無かった。
経済学でいう
「[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%97%E6%95%B0%E5%8A%B9%E6%9E%9C/ 乗数効果 ]」が最大限得られた。
公共事業で買収する土地はその計画が決定した時の値段を基準にされ、日本のように不動産業者一儲けさせるような事はさせなかった。ナチスが作った労働戦線という組合が企業を監視し、賃金のピンはねを許さなかった。
日本での高速道路の資金はゼネコンや地元企業、地主に払われ労働者に払われる賃金は微々たるものです。日本の場合投資した資金は地主やゼネコンに蓄積されやすく、乗数効果を得にくい。

'''2)適切な事業内容を選んで公共事業を行った'''

普及しだした自動車産業を発展させるのに適した公共投資であった。必要なものを必要な時に作った。
日本の場合、同じ道路でも既に交通網は整備されことさら必要ではない道路の建設が多い。

'''3)一定の時期に集中的に行われた'''

1933年に莫大な予算を集中して投資した。その結果ドイツ経済自体の潜在能力を素早く引き出すことに成功した。公共投資を始めて2.3年後建設業以外の産業が活気づいた。
日本の場合は、500兆円もの大金を10年間に渡り分散投資したため建設業界が公共投資頼りの体質となってしまい、他の産業が活気付かなかった。

ナチス・ドイツの経済政策には感心させられる。

'''国民に暗示をかけて不況脱出'''
かのゲッペルスを宣伝大臣に据え宣伝省を作った。
「国民を洗脳支配した」と批判の対象となったのだが、ナチスは自分達がやろうとしていることを国民に理解してもらう為、そして景気は人々の心理で決まる側面を持つことを理解していた。
P45
{{{+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
ナチスは、新しい主要な法律などを作ったときには、すぐにその夜ラジオでヒトラーやナチスの首脳が、その法律の趣旨などの説明をする。また街中のいたるところにポスターがあり、政策に関するメッセージを発している。その情報を受けて、国民は納得したのだ。ただやみくもに統制ばかりをされれば反発も起きるが、その理由をきちんと説明されているので、反発は起きにくかったのだろう。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}
'''中高年を優先的に雇用する'''p45
{{{
ナチスの雇用政策で興味深いのは、妻や子供がいる中高年の雇用を優先していることである。
一家の大黒柱を雇用すれば、取りあえずその一家は飢えずにすむ。それは社会心理の上でも安定につながる。
しかし雇用を市場に任せていれば、中高年の雇用はあまり守られない。同じ能力ならば、企業は若い人を雇いたがるからだ。
なので、ナチスは、その部分にテコ入れをしたわけである。
工場で欠員が出た場合は、中高年労働者を優先的に採用するように決められた。これは道徳的順守義務となっていたが、もし雇い主がそれを守らない場合は、国家による強制もあった。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}

'''ナチス式大規模店舗法'''p47

ナチスは中小企業や小規模農家を救うのもテーマの一つであった。

大規模商業施設が出来はじめのころで、ナチスは中小小売店を救うべく、新たに小売店を開く時は許可制として、地域の店舗数人口を考慮し許可の発行不発行を行い統制した。

***************************************************************************************************************

A『「ヒトラーの経済政策」副題:世界恐慌からの奇跡的な復興 武田知弘 著(祥伝社)』を読む。その2 2009/6/30(火) 午前 1:03 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/28310398.html

引き続き、ヒトラーがいかなる経済政策をおこなったか本書より引用していきます。
政権を奪取したナチスおよびヒトラーは実に巧みな経済政策を行った。善政と言って過言ではない、「痒い所に手が届く」とはヒトラーの経済政策のことをいうのかもしれません。

 私(Ddog)は基本的に小さな政府で市場原理に任せるべきであるという反ケインジアン派である。その信念の基となっているのが、「政府は政策を常に誤る」「官僚は責任を負わない」「一人の優秀な官僚の頭脳より、多数の平凡な経済人の頭脳が出した答えの平均の方が正しい」というのがその反ケインジアンを標榜する私の基本的な考え方であるが、ナチスの行った経済政策はその信念が揺るがされてしまう。

'''中小企業貸し渋り対策'''p49

1934年信用保証制度の設置 3月ベルリン保証協会設立。
協会が保証人となって中小企業へ資金融資し易くした。融資額1口5000マルク利子5.5%1事業者2口まで。資金用とは運転資金に限定、固定資産購入借金返済には使えない。最長2年であった。つなぎ融資さえ安定すれば金融不安の解消に効果覿面であった。ベルリン保証協会の他に合わせて4協会設立された。

'''価格統制'''p52

一見ナチス政権の負の面のようなイメージがするが、第一次世界大戦後、極端なインフレとデフレを繰り返したドイツ経済を安定させるには有効な対策であった。
P52
{{{++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
ヒトラーは政権を取るとすぐに穀物価格安定法という法律を作って、穀物の価格を固定した。これは農産物の暴落を防ぐための処置である。
もちろん、まったく固定してしまうと、農家の向上意欲も損なうし、消費者側からの反発もあるので、市民の所得レベルを見ながら目取低価格を設定するという方法が採られた。その価格以上であれば、売買していいという設定である。
また1934年秋には価格管理官という官僚が作られ(以前にもあったものを復活させた)、原料や重要食料品の術格を統制した。
1935年4月には、食料品などに関する不正な値上げを防止する法律が施行されている。
これは肉や穀類の販売値段は、仲買人の手数料から小売商人の利益にいたるまで、法律によって決められるというものである。
もし法定価格以上の値段で販売していた場合、当該官庁にその旨を届け出ると、販売したほうはすぐに営業停止を命じられ、超過した金額は払い戻されることになっていた。
ナチスの物価統制は迅速だった。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}

'''農家の借金を凍結する。'''p53

{{{+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
当然、ナチスは農家に手厚い保護をした。
(略)
そのためナチスは、世襲農場法という法律を作った。
世襲農場法は、一定の条件を満たす農家は、農地を借金のカタに取られないようになり、大きな借金を背負っている場合は、返済できる金額まで引き下げられるという法律だった。
一定の条件というのは、
.7.5ヘクタール以上125ヘクタール以内の農地を経営していること
・正統なドイツ人であること
・男子-人に農場を継がせること
などである。
125ヘクタール以内という条件は、ちょっと不思議に思われるかもしれない。ユンカーと呼ばれる貴族的な農場主に対しては、この法律の恩恵を受けさせないようにしたのだ。ナチスは、弱小農民の味方というわけである。

これらの条件を満たせば、ドイツの正統な「農民」と認められ、惜金があったとしても、農地や農機具を取られることはない。

債務を抱えている農家は、新しく作られた「債務償却銀行」に、毎年支払い可能な額を払い込めば、これまでの惜金はそれですべてOKということになった。債務は、「債務償却銀行」が立て替え払いしてくれるというわけだ。

この法律の適用を受けた農民は、その引き換えとして、今後土地の売買はできなくなるし、ドイツの名誉ある農民として、農作物の調整などに進んで協力しなければならなかった。1938年の時点で、この法律の適用を受けた「世襲農場主」の農地は、ドイツの全農地の38%に及んだ。

また、ナチスは半年間・都会の青年有志を農業支援に赴かせた。最近、日本でも都会人がボランティァを兼ねた農業体験をする「援農」がときどき行なわれているが、それを大がかりにしたものだといえる。
1933年から1935年の2年間で、平均10万人の青年が農村に行っている。農家は、宿泊場所と食事だけを提供し、青年たちには職業紹介失業保険局から若干の給料が支払われる。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}
中高年を優先に雇った為青少年の失業対策兼非行防止策である。
日本の農業政策、中小企業対策もナチスを見習うべきである。


'''オリンピックをビックビジネスに変える。'''p56

{{{++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
オリンピツクというと、現在ではすっかりビツグビジネスになっている世界中の国々が目の色を変えて誘致合戦を繰り広げている。
しかし、このオリンピツク、以前は単なるスポーツ大会に過ぎなかった。
オリンピツクをビジネスチヤンスに換え、巨大なイベントにしようとした最初の国がナチス・ドイツだといえる。
ナチスは、オリンピツクに様・な新趣向を持ち込み、世界的な大イベントに変貌させた。
そして「ドイツの復興」と「ナチスの威信」を世界中に向けて発信し・各国の投資家たちの投資意欲をかき立たせたのだ。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}
聖火リレーも記録映画、近代オリンピックはベルリンからと始まると考えてもいいだろう。

9月に2016年のオリンピックの開催地が決まるが、はたして東京はえらばれるだろうか?

'''少子化対策とニート対策'''p62

{{{++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
当時は560万人もの失業者がおり、若くても職に就けないものも多かった。結婚したくてもできない若者も多数おり、それが出生率を下げる要因のひとつになっていたのだ。
この問題を解消するためー933年、ナチスは政権を取るとすぐに、結婚資金貸付法という法律を施行した。
これはお金のない人が結婚するときに資金を貸し付ける制度で、1千マルクを無利子で惜りられた。
当時の1千マルクは労働者の半年分以上の賃金だった。今の日本に置き換えるなら、百数十万円から200万円程度というところだろう。
またこの貸付金は、子供を1人産むごとに返済金の4分の1が免除され、4人産んだ夫婦は全額返済免除となった。

その結果、1932年には51万件だった結婚数が、1933年には63万件、1934年には73万件に増加し、出生数は20%も上がった。

この結婚貸付金の制度は、当初は失業対策でもあった。
当時のドイツには、若い失業者が溢れていた。彼らは何をするわけでもなく、いわば二−トの状態であった。
(略)
そこで若い彼らを結婚させ、落ち着かせようとしたわけである。
そしてこの制度を受けるためには、女性は仕事を辞めなければならなかった。つまり女性に結婚退職させ、男の失業を減らそうとしたのだ。
前述したようにナチス政権は、発足当初女性は家庭に帰そうという政策を採った。この結婚貸付制度もその一環であり、女性の職を男性に置きか差ることで、社会不安をなくそうとしたのだ。女性は失業しても社会に与える不安は少ないが、男性が失業すると、大きな社会不安になったからだ.しかし経済復興とともに人手不足となり女性退職の条件は外された。

また結婚貸付金は景気対策でもあった。
結婚貸付金は、現金ではなく「需要喚起券」という証券で支払われた。この需要喚起券は一特定の商店での買い物に使える商品券のようなものだった。
つまりこの制度によって、若い夫婦は補助金を使って家財道具などを買う]それで産業の活性化につながるというのである。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}

少子化が進み、人口が減少しだしているのに、今日の若者は結婚をしない。しないのではなく出来ない常態でいる。仕事やお金がないために、結婚ができない、結婚どころではないという若者は、日本で確実に増えているのだから。

今日の日本と当時のナチス・ドイツと似たような問題を抱えているわけだが、ナチスの行った政策は、かなり参考にはなるのではないだろうか?

*******************************************************************************************************
B『「ヒトラーの経済政策」副題:世界恐慌からの奇跡的な復興 武田知弘 著(祥伝社)』を読む。その3 2009/7/1(水) 午前 1:35 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/28340057.html

ハイルヒットラー!
思わず叫んでしまいそうな気分になってきました。なぜ、日独伊三国同盟に突っ走り日本を第二次世界大戦へ引きずり込んだ駐独大使大島浩(駐独ドイツ大使と当時から揶揄されていた)や松岡洋右外相がナチス贔屓となってしまったのか、そして心酔していたのか、わかるような気がします。

'''公共事業で支出した金を回収するシステム'''p67
{{{+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
これまで見てきたように、ナチスは莫大な公共投資をすることで、ドイツ経済を復興させた。
ナチスはさらに巧妙なことに、ただお金を出しっぱなしにしているわけではなかった。投
資した金を回収するシステムも作っていたのだ。
ナチスは、景気対策で企業の業績が上向きになったのを見て、配当制限法という法律を作った。
これは企業は資本の6%以上の配当をしてはならない、というものである。もし6%以上
の利益が出た場合は、公債を購入することが義務づけられたのだ。
そのため、公共事業で投資した金は、次のような順序で国庫に戻ってくる仕組みになった
のだ。
公共投資
 ↓
景気回復企業の収益が上がる
 ↓
公債購入
この仕組みは、企業だけでなく個人も似たようなものだった。
個人は、賃金が増えた分を貯蓄に回すように奨励された。
またナチスは、国民に貯蓄をさせるために、今でいうところの財形貯蓄のような制度を考え出していた。
日給の労働者は1日1マルク、週給のものは6マルク、月給のものは26マルクを国の作った共済に積み立てれば、この積み立て金の利子には税金がかからないというものである.この制度は、定期預金と同じように期間が定められて、満期になるまでは引き出せない。
ただし利子は引き出すことができた。
また貯金した金額は、所得税の対象となる収入から除外されたので、所得税も安くなった。そのため強制加入ではないのに、加入者は400万人以上に達し、1942年の時点で総頷は650億マルクにもなった。
またこのほかにも、ナチスは様々な形で貯金を奨励した。住宅貯蓄組合では一戦蒔は節約して、戦後は家を建てましょう!Lという標語で住宅貯金を募った。
また宣伝省は、ことあるごとに「無駄遣いをせずに貯金をしましょう」と呼びかけた。
1938年から1942年の間に、個人貯金は4倍になって446億マルクになった。
こうして集められた貯金は、ほとんどが国庫へと向かうことになる。
当時、ドイツ企業は1920年代に設備投資が終わったばかりだったので、銀行惜り人れをあまり必要としていなかった。必然的に銀行の資金は、公債に向かうことになった。
つまり、国全体の儲けは、公債購入という形で国庫に戻ってくるようになっていたのだ。ナチスが莫大な出費を重ねつつ、破綻しなかったのは、こういうシステムがあったからなのだ、ただし敗戦により、貯金した者たち、公債を買っていた企業、銀行はその財産の多くを失った。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}
この他に、労働組合幹部を労使協調路線の全国組合「労働戦線」幹部として体制側に取り込んだ。組合を廃止し、ストライキを禁止することにより、社会全体の生産性が向上した。

有給休暇、健康診断至れり尽くせりの労働環境構築にも力を入れた。労働者を格安で海外旅行できる仕組みを作った。労働者の為の郊外住宅、労働者向けの自動車VWを開発、戦前には間に合わなかったがフォルクスワーゲンビートルは戦後世界で最も売れた乗用車となった。

'''減税して税収を上げるという奇跡'''p105
{{{+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
ナチスは、アウトバーンなどの公共事業、大々的な再軍備を行なったのだから、さぞや税
金は高かっただろう、と思われるかもしれない。しかし、事実はその逆である。
ヒトラーは政権を取るや否や大減税を行なっているのだ。1933年の減税規模は、国家、地方合わせた税収の1割にも相当する。税収の1割を滅税するというのは、相当なものである。

たとえば、今の日本で税収の10%を減税するなどということはとてもできないだろう。ナチスは、それを世界大恐慌で国家財政が極度に」逼迫しているときにやり遂げているのだ。
ヒトラー政権発足当初の主な減税項目は次のとおりである。
・自動車税の減税
・メイドを雇用した場合の所得税の減税
・農産物売上税の減税
・農地の土地税の減税
・住宅の土地税の減税
・防空施設などを作った場合の所得税の減税
・設備投資をした場合の事業税の減税
・建物の修理をした場合の事業税の減税
・卸売業の売上税の減税
・失業保険料の引き下げ
・家賃税の引き下げ
これを見ると、ナチスは巧みな税金政策を採っていることがわかる。
減税のほとんどは景気対策に結びついているのだ。
白動車税の減税は、白動車の購入欲を刺激する。メイドを雇用した場合の所得税の減税は・メイドの雇用を促進する。農産物売上税の減税は、農産物の流通を活発にする、という具合である。
この景気刺激策のおかげで、減税しているのに税収は減らない(むしろ増加した)という
現象を生んだ。1933年の税収は51億マルクだったのが、34年には59憶マルク、35年には75憶マルクになっている。
これは、景気がよくなって失業者が減り、所得税を納めるものが増えたために生じた現象である。1932年には所得税を納税していたものは34%に過ぎなかった、が、36牢には57%に増えているのである。
この現象を簡単に表せば次のようになる。

減税する
 ↓
国民が潤う
 ↓
景気がよくなる
 ↓
税金を払う人が増える
 ↓
税収が増える
この仕組みは、財政学では以前から知られていたことではある。
しかしどこの国もこの政策をなかなか採用しようとはしない。財政が苦しいときに減税するというのは勇気がいることだからだ。やったとしても小規模の減税なので、景気にはさほど影響はなく、税収が増えることもないのだ。
ヒトラーは、思い切った減税をやり、また思い切った公共事業をやったからこそ成功したわけである。この思い切りこそが、ヒトラーの経済政策成功の大きな要因だといえる。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}
ヒトラーは、大企業に増税し労働者には大減税を行っている。
1934年末に導入された「配当制限法」は企業に6%を超える剰余金があった場合、配当は6%までしかしてはならず、残額は特別公債を購入しなければならないというものだ。
この特別公債は4年間償還できず、貧困者救済資金、建築資金に充てられることになっていた。

景気が悪いということは、世の中の金回りが悪くなっているということである。つまり経済が動脈硬化を起こしているわけだ。なので、金の流れが詰まっている部分を除去して、金が薄いところに流れを作る。これは「所得の再分配」として、税金が果たすべき重要な役割のひとつなのである。

私(Ddog)は大きな政府に反対の立場だが、強欲資本主義の米国や、小泉以降の日本では、企業減税、高齢者には大減税を行ない、中間層以下のサラリーマンには増税に次ぐ増税を行なっている。これでは日本経済が立ち直るわけが無い。

**********************************************************************************************************

C『「ヒトラーの経済政策」副題:世界恐慌からの奇跡的な復興 武田知弘 著(祥伝社)』を読む。その4 天才財政家シャハトの錬金術−1 2009/7/2(木) 午後 10:37
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/28392126.html

ヒトラーの経済政策を語る上で、ホレイス・グリーリ・ヒャルマール・シャハト(Horace Greely Hjalmar Schacht)博士を語らないわけにはいかないだろう。1877年に現在デンマーク領であるティングレフで生まれ、経済学の博士号を取得したのちドレスナー銀行に入社し、1916年にはドイツ国立銀行理事に就任。1923年レンテンマルク流通責任者、同年ドイツ帝国銀行総裁就任 30年辞任 1933年ナチス政権化で復帰 ナチス政権下で経済大臣兼務。

アウトバーンをはじめとする多額の公共事業費を捻出し、インフレが起きないように巧みに通貨を調節し、ブロック経済で封鎖された世界経済に風穴を開けた新しい貿易システムを構築するなど、彼の功績を挙げれば枚挙にいとまがない。

これまで、私(Ddog)がシャハト博士について知っていたのは「日本経済破局の論理」小室直樹著(1992年)の以下の部分であった。

P77〜84
'''GNPの本質を見抜いて権カを握ったヒトラー'''
{{{+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
ヒットラーは何をした。
大軍拡、アウトバーン(高速自動車専用道路)、スポルトバラスト(大競技場)をはじめ、政府の手で巨額の設備投資を次々に行なった。
それまでこんな失業対策、誰も見たことも聞いたこともたい。ドイツの経済学者は肝をつぶした。口をそろえてヒトラーを諌(いさ)めた。こんなことをしていては、政府は破産し経済は破綻しますぞ、と。
ドイツの経済学者も、経済思想においてはコチコチの古典派であった。失業の原因がまるでわかっていない。そのうえ、財政思想もまた古典派的。政府の借金(財政赤字)をトコトン嫌い抜いた。

だから、政府の手で、巨額の設備投資をやっちゃうなんて論外。
ヒトラーはせせら笑って、世の経済学者の言うことをみんな無視した。
そして、政府は次から次へと巨額な設備投資を続けていった。

破天荒の天才ヒトラーは、有効需要の原理を知っていたからである。GNPの本質を見抜いていたからである。ツーロンにおけるナポレオンのごとく、「あらゆる経験に先んずるこの不思議な生得の知恵」、「記憶の知識」、プラトソのいわゆる「想起」(アナムメージス:生まれる前の霊的認識)によって(メレジコフスキー)。

ヒトラーの経済大臣シャハト博士は、ヒットラーの経済政策について回顧している。
「ヒトラーが言うことは単純であった。が、それを実行すると驚くべき効果があった。彼は、経済の知識は乏しかった。しかし、彼は経済の本質を見抜いていた。ヒトラーは当時のドイツのエコノミスト(当時、世界的に著名な碩学[せきがく]もずいぶんいたのに)をみんな馘首(クビ)にした。

唯一の例外がシャハト博士。
ヒットラーはシャハト博士に全幅の信頼をよせ、この人に経済に関する全権を与えた。
シャハト博士は回顧している。「わたしが、最も自由に手腕をふるえたのは、ヒトラーの経済大臣のときであった」シャハト博士は、すでに「マルクの魔術師」と呼ばれるほどの盛名を獲得していた。経済における「奇跡」の演出者としても知られていた。

1923年、空前絶後と言われるドイツの超イソフレを収めたのはシャハト博士。シャハト博士が発明した「レンテン・マルク」はいまや経済史における古典的名称である。

シャハト博士を経済大臣にして、ヒットラーはケインズ政策を強行していったのである。
有効需要(国民総需要)を増やせ。そうすれば、GNP(国民総供給)は押し上げられる。
GNPが増えた結果、労働の需要は増え、失業は減る。
この政策を続ければやがて、失業者は消滅するであろう。
有象無象のエコノミストの諫止(かんし)なんぞに聞く耳もたぬ、シャラクセー。
ヒットラーはシャハト博士だけを信じて、有効需要増大への道を驀進(ばくしん)していった。

設備投資のチャンスがなければ、ピラミッドを作れ有効需要(国民総需要)を増大させるにはいかにすべきか。
有効需要は、消費プラス投資である。消費と投資との合計である。
が、消費は増やせと命令しても駄目。いくら独裁官の命令だって、この命令に限ってきかれない。きかれっこない。これが経済というもの。お願いしても駄目。消費者は自分の欲しいものだけを買う。
有効需要を増やそうとすれば、投資を増やすしかない。
が、景気が冷えきっている(悪くなりきっている)ときには、民間投資を増やせって言ったって無理。民間の投資意欲もまた冷えきっているから。利子率を下げた程度では、民間投資は増えない。
これはどうしても、政府による設備投資にまたなければならない。

ケインズは断言しているではないか。
ほかに設備投資のチャソスがなければ、ピラミッドを作ってもよい、と。ピラミッドを作るのが嫌たら、札束を土に埋めて労働者を雇って掘り返させろ。
ピラミッドを作っても、ともかく設備投資さえすれば、有効需要(国民総需要)は増大し、それだけ、GNP(国民総供給)も増大する。「GNPが増える」ことが肝要なのであって、そうすれば労働力需要が増えて失業は減る。

これ、ケインズ経済学の神髄である。

ヒトラーは、ケインズを知らずしてケインズ経済学の神髄を断行したのであった。
ヒットラーは経済学の独覚(どっかく:師なくして悟った者)か。釈迦に対する唯摩居士(出家せずに悟ったイソドの富豪)のごとき者か。

ヒトラーは、凡百のエコノミストの猛反対を押し切って、設備投資につぐ設備投資。
結果は。ドイツに失業者はいなくなった。

古典派経済学者の夢想だにあたわざることである。政府の手で、これほどまでの設備投資を断行しても、ドイツ政府は破産しなかった。財政危機にも陥いらなかった。ドイツ経済は、破綻しないだけではない。
ドイツ経済は隆々として栄えた。六年後には全ヨーロッパを征服するに足る軍事力の兵站基地として機能しうるまでの力をたくわえた。

もうひとつの心配。インフレは。

これほどまで急に景気が上昇したのである。大イソフレの来襲は避けられまい。ドイツ人のイソフレ恐怖症は骨がらみである。それもそうだろう。1922年におけるウルトラ・インフレのすさまじかったこと(ドイツ・マルクの崩壊と呼ぼれる)。生活の根拠が根こそぎやられた。
アウトバーソやら大軍拡やら。ヒトラーによる設備投資のおかげで、ドイツ国民は失業から救われた。ヤレヤレ、これで餓死の心配はなくなったわい。

ヤレ嬉しや。でも、うますぎる話には、どこかに穴があるはずだ。きっと、大インフレが襲ってくるにちがいない。
ドイツ人は、心理的に当然のことながら、インフレにおびえた。が、どういたしまして。

これほどの好況を招来しても、インフレは来なかった。影も形も見せない。物価は上昇しない。
ヒットラーは、インフレなき好況を実現したのであった。

「マルクの魔術師」経済大臣シャハト博士は、ヒットラーに経済的独裁権を与えられたので、その天才的手腕を自由自在にふるえた。巧妙このうえない金融政策で、インフレを抑え込んでしまったのであった。10年前、決死的大手術でウルトラ・インフレを全治せしめたシャハト博士にとっては、インフレの発生を未然に防ぐくらいは朝飯前であったのかもしれないが。

英国の歴史家、A・J・Pニアイラーも言っている。
第二次世界大戦の前半、連合国は負けそうであった。英国は敗戦一歩手前まで追い込まれたし、フランスは本当に負けてドィツに降伏した(1940年6月22日)。
これほども強くなったドイツをなぜ、連合国は見誤ったのか。
「われわれは、ヒトラーの政治的・外交的天才を過小評価した。このことについては戦後、よく反省されている。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}
以上「日本経済破局の論理」小室直樹著(1992年)より。

'''レンテンマルクの奇跡とは'''

シャハトを一躍有名にしたのは、第一次世界大戦後のドイツのハイパーインフレを収束である。

そのインフレを収束させるために、「レンテンマルク」というドイツの土地を担保にした通貨が発行された。


これはフランス革命のときに通貨を安定させるために一時使われたことがあった。もしものときにはドイツの土地と交換されるという、執行側としては危険極まりない方策でもある。しかしなにしろインフレがひどく社会が成り立たない。金の保有量が少ないため、金を担保にして通貨を発行することができないドイツにとっては、苦肉の策だった。

1923年11月、このレンテンマルクを市場に流す実行責任者にシャハトが選ばれた。シャハトは、通貨に関する一切の権利を自分に集中させることを条件に、この大役を引き受けた。
レンテンマルクは、1兆マルクと交換される。また対外的には1ドル=4.2レンテンマルクで固定されていた。

またレンテンマルク導入時、あらゆる新規融資が禁止された。高い利率で外貨を借りて、ドイツ国内の不動産や商品を買い叩き、素早く売り抜けて儲けるという悪徳商法が横行していたからである。
そして同年11月25日、ついにレンテンマルクが市場に流通しはじめた。
すると嘘のようにインフレは収束し、ドイツ経済の混乱は終わった。

レンテンマルク自体はシャハトの発案ではないが、シャハトが実行責任者だったために、レンテンマルクは「シャハトの魔術」というようにいわれるのだ。

当時のドイツの状況を考えれば、現在ドルが紙切れになる説を唱える学者は、戦前のドイツの「シャハトの魔術」をよく認識していないのかもしれません。また外貨を借りて、暴落したものを買い漁るハゲタカ商法は当時も今も健在というところかもしれません。

シヤハト博士は、ナチスを利用することで、ドイツの経済を立て直したいと考えていた。これまでの政権は不安定で優柔不断だったので、なかなかシャハトの思うとおりに経済政策をさせてくれなかった。
ナチスならば自分の思うとおりのことができる、と考えたのだ。

1931年、ナチス政権の可能性が高まったとき、アメリカのジャーナリスト・ドロシー・トンプソンがこういう質問をした。
「ナチス政権でもドイツ経済を操ることができるか」
シャハトは「当然だ」と答えた。
{{{「ナチスに統治はできない。私がナチスを使って統治する」と。}}}

****************************************************************************************************************

D『「ヒトラーの経済政策」副題:世界恐慌からの奇跡的な復興 武田知弘 著(祥伝社)』を読む。その5 天才財政家シャハトの錬金術−2 2009/7/4(土) 午後 1:26
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/28433797.html

1933年ドイツ帝国銀行総裁に返り咲いたシャハトがヒトラーの公共事業の費用を捻出する為に国債を発行せず、インフレを引き起こさない巧妙な仕組みを考えた。

'''労働手形'''
P173〜175
{{{+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
労働手形というのは、労働力を保持している事業者が、その労働力に応じて手形を発行する。その手形は、自治体などが受け取り銀行が割り引いてもらえる事になっていた。その金を使って公共事業を行ない、事業者に還元するというものである。
労働手形は、最終的にドイツ帝国銀行が保証していたので、基本的には固債と同じである。が、ドイツが保持している労働力に応じて発行される仕細みになっているので、「裏付けのない国債」ではない。だから国民は、労働手形の発行にそれほど不安を感じず、インフレも起きなかったということだ。
ナチス.ドイツはこのほかにも租税債(この債券を持っていれば納税の代わりになる)や、納品債(商品を生産した量に応じて発行される手形)など多様な信用創造をして、経済を活性化させた。

シャハトはこの政策により、金、の保有がなくても、安定した、通貨を供給し、景気を回復できることを証明したのである。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}

'''シャハトの職人芸'''P177
{{{+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
このようにしてシャハトはドイツを金本位制から脱却させることに成功した。
1936年背末ドイツ・ライヒスバンクの金の保有量は6千900万マルクだった。
通貨額は42億7千400万マルクだったので、金の保有比率は1.6%という少なさだ。
これは当時の常識では考えられないことだった。激しいインフレが起き、経済が滅茶苦茶
になっていてもおかしくない状況だったのだ。
しかし・当時のドィツは・大したインフレも起きず、失業率は劇的に低下し、貿易も持ち直していたのだ。金本位制主体の世界事情から見れば、それは奇跡に近い状態だった。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}
'''インフレにならない理由'''P176
{{{+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
シャハトはただ、信用創造を増やしただけでなく、金融の引き締めにも気を配っていたからだ。
たとえば、軍事債であるメフオ社債は、1938年までに償還されるようにヒトラーにしつこく迫った。ヒトラーも根負けして、メフォ社債の償還合意している。
インフレを起こさずに、経済を活性化させ失業無くしたということは、シャハトがやみくもに通貨もどきを作っていたのではなく、ドイツの経済状況覧極めながら、どの程度信用創造をするべきかを調節していたのである。
この職人芸こそがシャハトの真骨頂であり、ドイツを救ったものといえるのだ。
ただシャハトは、金本位制から完全に脱却することを目指していたわけではない、やはり、もっとも通貨を安定させることができるのは、金に裏打ちされた通貨だと思っていた。
他国との貿易でも、最終的にモノをいうのは金だったからだ。
なのでシャハトは、ドイツの状態は「緊急事態」であり、仮の状態だと考えていた。
が持ち直したらいずれ金本位制に戻そうと思っていたのだ。
そのために後年、ヒトラーと鋭く対立することになる。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}
'''「このままではドイツは倒産する」と債権者を脅す'''
P177〜179
{{{++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
シャハトは、次に外国からの借金の滅額に取り掛かった。
これまで何度か触れたように、ドイツはベルサイユ条約により多額の賂償金を背負わされていた。また世界恐慌以前にアメリカなどから大量の投資を受けていた。そのため対外債務が莫大な額に上っていたのだ。
この対外債務をなんとかしなければ、ドイツ経済はどうにもならない。
ナチス政権発足直後の1933年5月、シャハトはワシントンを訪問した。6月にロンドンで開かれる60ヵ国による経済会議の下準備のためである。
ここでシャハトは、新任のルーズベルト大統領に「アメリカヘの利子の支払いを停止しなければならない」と切り出した。意外なことにルーズベルトは膝を叩いて「ウォール街の銀行家どもめ、ざまあみろだ」と喜んだという。先の大統領選で、ウォール街はルーズベルトを支持していなかったからだ。当時の大統領の金融知識は乏しいもので、ドイツが利子の支払いをしないことがアメリカにとってどんなに大きなことかわからなかったのである。
しかし後で事の重大さを知らされたルーズベルトは、翌日、シャハトに憤慨を表明する文書を送ってきた。シャハトは「憤慨するのに24時間かかった」と大統領を皮肉った。
またシャハトは、このワシントン訪問時に、ドイツに債権を持っている国の代表を集めて「債権者集会」を開いた。
そこでシャハトは、「このまま借金を取り立てれば、ドイツは破産する。ドイツが破産すれば、あなたがたの債権はすべて紙くずになる」と脅しつけた。
しかしこれは満更ハッタリではなかった。
当時、各国はブロツク経済化に進もうとしており、世界貿易は非常に収縮していた工業製品を他国に輸出することが、ドイツの唯一の利得手段だったので、これは死活問題だったのである。
シャハトはいい放った。
「世界恐慌のため諸国が、目同い輸人関税を設定し、通貨切り下げを行なったために、ドイツの貿易は不振となり、帝国銀行は外貨不足に陥っている.だからドイツは・外国債務の利子支払いを一時停止しなくてはならないかもしれない」と。
債権者たちはもちろん憤慨した。が、シャハトのいうことにも一理あったし、なによりドイツがつぶれてしまえば、本当に債権はパーになる。そのため、結局、「支払い利子の一部を一時的に停止する」という合意が交わされた。
また1934年4月には、ベルリンで「トランスファー会議」が開かれた。これもドイツが外国から借りた金の返済方法を決めるためのものだ。
シャハトはここでもまた「このままでは7月1日にはドイツは破産する」と宣言した。そして、もちろんお決まりの「利子の引き下げ」や「債務の減額」を訴えた。
また、こういうこともいった。
「ドイツの輸出品をもっと受け入れてくれる国や、借金を割り引く国は特別待遇をする」と。商品を買ってくれたり、借金を滅額してくれる国には、ちゃんと惜金を払いますよ、ということである。これを見ると金の貸し借りというのは、開き直ってしまえば、借りた側のほうが強くなれるということがわかる。
そして、イギリスとフランスは初めから特別扱いするなどをして、債権国同士が結束しな
いようにした。まさに辣腕の交渉人なのである。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}

シャハト大臣は英仏米に対し保護貿易を止め、貿易拡大を求めるよう求め、自由貿易を主張した。

また輸入代金を「ドイツの商品券」で支払う「ニュープラン」と呼ばれるドイツの新しい貿易清算システムを作り、各国は反発し、貿易量も一時減ってしまったが、金や外貨が無いのだからどちらにしてもやむを得なかった。結局新システムでドイツの輸出が振興された。
新システムは、各国の反発を招いたが、大恐慌で外貨が枯渇し貿易に支障がでていた東欧中南米の国々とは、物々交換での貿易は活発となり、植民地を持たないドイツは、独自のドイツ広域貿易圏を持つことに成功した。

'''各国の金融危機に乗じてドイツの借金を半分にする'''
P188〜189

{{{+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
1933年から36年までの間に、欧米諸国は、ドル、ポンド、フランをはじめ軒並み自国通貨の切り下げを行なっている。
マルクも当然引き下げられるだろう、と国際経済筋は見ていた。マルクだけが高ければ輸出に差し支えがあるからだ。
しかしシャハトはマルクの切り下げは頑として行なわなかった。
あれほど輸出を奨励し、外貨獲得に命を燃やしていたシャハトにもかかわらず、である。
シャハトは、外貨獲得よりも外債の支払いを優先的に考えていた。
ベルサイユ条約の賠償金や、大恐慌前に受け入れた外国投資は、今、ドイツ経済を苦しめている。
これらの外債を支払うには、強いマルクのほうが有利である。
なので、どれだけ輸出業者から要請があろうと、シャハトはマルクの切り下げには頑として応じなかったのである。
もちろん、シャハトとしてもマルクを切り下げたいのはやまやまだった。
輸出はドイツの生命線である。これが不振になれば、せっかく上向いたドイツ経済がまた下降するかもしれない。
しかし、シャハトはそこをぐっとこらえて、強いマルクを維持したのである。
レンテンマルク創設当初は1ドル=4.2マルクだった。が、1ドル=3.4マルクになり、1ドル=2.46マルクにまでマルク高となった。
実際のマルクの価値はその半分くらいしかなかったのだが、公定レートは高いまま据え置かれた。そのため、ドイツの抱えていた外憤は半分程度になった。この職人芸たるや感嘆するしかない。
またドイツ帝国銀行は、例のニュープランでドイツの輸入業者に対しては、マルク高になっても以前のレートでの支払いを求めた。そのため、マルク高になった分だけ、ドイツ帝国銀行の利ざやとなった。
この利ざやが、公共事業費や軍事費に充てられたのである。
またシャハトは、「ドイツは破綻する」などとさんざん触れ回ったために、ドイツの賠償金支払いのための外国向け債券が急落し、ほぼ半額になった。
それを見たシャハトは、この債権を至急償還するように命じた。それやこれやで、ドイツの抱えていた外債は半額以下になったのである。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}
'''「あなどられない程度の軍備は必要だ」'''
P190
{{{++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
シャハトは、ナチスの再軍備にも手を貸した。
この点についてシャハトは、ニュルンベルク軍事法廷でも、まったく隠しだてしていない。
「相手にあなどられない軍事力を持っていない限り、まともな貿易はできない」とシャハトは考えていたのだ。
1923年、ベルサイユ条約の賠償金不履行問題で、ドイツはフランスにルール地域を占領されてしまっている。このことがシャハトの脳裏にこびりついていたのだろう。
それにしても世界恐慌で破綻寸前に陥っていたドイツの国家財政のなかで、シャハトはどうやって軍事費を捻出したのか?
ここにもシャハトらしい工夫が凝らされている。
シャハトは再軍備に際し、メフォと呼ばれる幽霊会社を作った。
メフォは利率4%で5年満期の社債を発行し、ドイツの主要軍事メー力1、クルップなど4社に分配した。このメフォ社債は、いつでも償還できるようになっており、ドイツ帝国銀行が保証していた。
このメフォ社債を使って、軍事メーカーたちは武器の製造に取り掛かった。
軍事メーカーが下請けに発注した仕事は、メフォ社債で支払われる。下請け業者は、メフォ社債を償還して現金化することもできる。
でも手元に持っていれば、年利4%の利子が受け取れる。ドイツ帝国銀行が保証している安心感もあり、すぐに償還せずに持っておくものも多かった。
その代わり、いざというときに取っておいた手持ちの資金を使うようになったのだ。
そのため経済は活気づき、政府は現金をあまり使うことなく、軍備を整えることができたのだ。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}

今回、だいぶコピペしてしまったが、紹介したのは序章+全5章のうち序章1章と4章(若干2章)にすぎない。シャハト博士とヒトラーの経済政策に興味をもたれたと思います。是非本書の他の部分も買って、お読みになってみて下さい!オススメデス!

最後に、シャハト博士の残した名言を2つ紹介してとりあえず、このシリーズは終了です。

{{{:+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「経済政策は科学ではない、ひとつの技術である。だから確固不動の経済方策や不変の経済法則について云々するのは誤りである。経済政策家は不可能に見えるものも可能にすることができねばならない」
1935年3月のライプチヒの演説
....................................................
「ひとつの国が、長い時間、輸出ばかりを続けることができると思うのは間違いである。他国の商品を買い、自国と同じ程度に発展させなければ、自国だけ経済的発展を持続することは不可能である。国際収支が一時的に出超あるいは入超を示している場合、それは国際信用
というトリックが事態を隠蔽し、これを一時的に引き延ばしているに過ぎない」(『防共ナチスの経済政策』H・シャハト著・刀江書院)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++}}}  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      HOME > 国家破産63掲示板

フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。