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]『日本国の正体』政治家・官僚・メディア−本当の権力者は誰か 
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投稿者 クマのプーさん 日時 2009 年 11 月 27 日 11:47:55: twUjz/PjYItws

http://www.soejima.to/


「気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板」から転載。


[1415]『日本国の正体』政治家・官僚・メディア−本当の権力者は誰か (長谷川幸洋著・講談社) 投稿者:松投稿日:2009/11/27(Fri) 09:21:26

こんにちは、名古屋の松です。
 今年8月に地元の書店(三省堂名古屋テルミナ店)で購入したまま、本棚に保管してあった『日本国の正体(長谷川幸洋著・はせがわゆきひろ)・講談社』を読みました。

 書店で、うず高く平積みされた副島先生の『日米「振り込め詐欺」大恐慌』『売国者たちの末路』『あと5年で中国が世界を制覇する』のすぐ横で(お世辞ではない。事実そうだったのである。)谷間のごとく3冊だけあったのが目にとまり、タイトルに惹かれて購入したのですが、中日新聞(東京新聞)の論説委員である著者の長谷川氏が、官僚とメディア、とりわけ新聞記者と官僚との「関係」を自身の経験と反省をもとに告白した、大変読み応えのある内容でした。この掲示板を閲覧する方々であれば、すでに読了済みで「なにをいまさら」とういことでしょうが、佐藤優氏も絶賛の良書ですので、この場を借りて紹介させていただきます。(以下、長文の引用が続きますがご容赦願います。)

『日本国の正体』第一章の冒頭部分から一部引用します。

<引用開始>

新聞は何を報じているか

新聞は曲がり角を迎えている。
霞ヶ関の官僚機構が肥大化する一方で、新聞は官僚にあまりに多くの情報を依存し、結果として官僚の巧みな情報操作に乗せられてきたのではないか。役所や権力を監視する仕組みとして続いてきた記者クラブ制度も、いまや官僚が記者たちを飼い慣らすための道具になっているのではないか。
 
 私は長く新聞記者をしてきたが、ここ数年、そんな思いが膨らむのを抑えられない。
 天下りはもちろん、独立行政法人を通じた無駄遣いなどについて、多くの怒りを覚えている。新聞はそうした「官僚問題」をさまざまな角度から報道し、批判してきた。ところが、その新聞自身の足下をみれば、多くの記者が役所に設けられた専用の「記者クラブ室」に出勤し、官僚が投げ込む情報を基に活動している。

 記者たちは問題点を追及しようと努力しているにもかかわらず、大量の情報の渦に巻き込まれ、ゆっくり考える時間もない。記者会見のたびに、発言内容をコンピューターのキーボードにひたすら打ち込んでいく記者たちの姿がそれを象徴している。

 官僚主導をあらためて、真に国民が主権を発揮する新しい「国のかたち」を実現しようとするなら、新聞もまた変わっていかざるをえない。新聞本来の使命である報道の力を取り戻すには、どうしたらいいのか。

<引用終了>

松永です。長谷川氏は前作、『官僚との死闘七〇〇日』(講談社・2008年7月30日第1刷発行)で、安部政権がいかに官僚と闘いそして敗れていったのかを、政権に関わったひとりとして内側から描きだしています。この『官僚との死闘七〇〇日』では、安部総理(当時)があのときこう発言したとか、渡辺善美行革担相(当時)がこのときこう言ったなど、当時の政治家や官僚、官房長官等、政権にたずさわった大物の発言が、実名入りでそのまま紹介されていて、こちらも大変読み応えのある本です。

長谷川氏はこの本ですでに官僚と新聞記者との関係について言及しています。『第八章 崩壊する「大蔵王朝」』から引用します。

<引用開始>

新聞記者は財務省支配のお先棒かつぎか

日銀総裁騒動がマスコミに連日報じられる中で、私がもっとも注目し、かつ考えさせられたのは、3月13日付産経新聞1面に掲載された記事だった。それは「通らぬ民主の常識」と題して、民主党に批判的な世論を紹介し、次のように報じていた。
「報道各社の批判的論調に党内では動揺をみせる議員もいる。ある民主党幹部は『論説の人たちは財務省に毒されているんじゃないですか。政府・与党に批判的に書かなきゃだめですよ。』と八つ当たりし、『朝日新聞も厳しいなあ』とため息をついた」

 この記事は政府が最初に提示した武藤の総裁昇格案に対して、民主党が不同意にすると、多くの新聞が社説で民主党の態度を批判したことを受けて書かれていた。たとえば、朝日新聞は「腑に落ちぬ不同意の理由」との見出しで「民主党の反対理由を聞いても、政府が最終的に任命責任を負う重い人事を覆すほどの説得力があるとは思えない」と批判した。日本経済新聞社も「『不同意ありき』の民主党は無責任だ」と非難していた。
 毎日新聞にいたっては「『採決棄権』も民主の選択肢だ」との見出しで、民主党に参院本会議の欠席あるいは採決棄権まで呼びかけている。政党が組織として国会を欠席すれば、国会の機能は止まる。民主主義の原則を一体、どう考えているのだろうか。

 私はこうした各紙の社説を読んでいた。そのうえで、産経記事に目を奪われたのは、「論説の人たちは財務省に毒されている・・・・」というくだりである。私は「そのとおりではないか」と思った。私も記者のはしくれだ。記者と霞ヶ関が「持ちつ持たれつ」の関係にあることくらいは、知っている。

 多くの記者は霞ヶ関の官庁にもれなく配置されている記者クラブに所属して、取材活動をする。私を含めて多くの論説委員は、そんな「記者クラブ」の上がりポストでもある。ベテラン記者である経済担当の論説委員ともなれば、財務省ともそれなりの付き合いがある。そんな論説委員が、財務省が省を挙げて総裁に推していた元財務省事務次官の武藤を応援したくなる気持ちはよく理解できた。

 批判の筆が鈍ったところはなかったか。コメントした民主党幹部は、そのように感じたからこそ「財務省に毒されている」と率直に語り、また産経記者も発言にぴんとくるところがあったからこそ、記事に引用したのだ、と私は思った。
 産経記事にあったコメントは、本質を突いていた。

 マスコミの記者たちは記者クラブ体制に安住するうちに、いつしか「霞ヶ関の補完物」になりかかっているのではないか。もっといえば、財務省支配体制のお先棒をかついでいるのではないか。産経記事はそんな問いかけを私に鋭く突きつけていた。私が実名でこの本を書こうと決めたのは、この記事を読んだときの衝撃が動機の一つになっている。

<引用終了>

松永です。長谷川氏は最新作『日本国の秘密』で官僚の記者コントロールの実態をさらにわかりやすく踏み込んで書いています。『第5章●メディア操作を打破するために』から引用します。

<引用開始>

 私が観察してきた官僚の生態はこうだ。
 官僚は新聞に大きく扱ってもらいたい情報があると「どの新聞に書いてもらうか」をまず考える。できれば発行部数が多くて、読者層もその情報に敏感な人が読んでいそうな新聞を選ぶ。もちろん記者も慎重に選別する。「○○新聞の××記者なら、こっちが言うとおり書いてくれますよ」などと課内で検討する。この程度は課長でも係長でも、まったく普通の作業だ。むしろ、こういうときに知り合いの記者の一人や二人、名前を挙げられないようでは役立たずと言われかねない。
「あいつは記者に人脈が広い」というのは「使える記者をたくさん知っている」とういことであり「できる官僚」の重要な要素になる。

 そのうえで、どう接触するか考える。そのものずばり、その記者を携帯電話で呼び出す場合もあれば、相手が取材に来たときに、さりげなく話題をふる場合もある。最近では、
手っ取り早く携帯で呼び出すケースの方が多い感じがする。なぜなら、かつて私自身が何度も呼び出された経験があるからだ。

 社説執筆が本業である論説委員の私は、そんな特ダネをニュースとして書く立場ではない気楽さもあって「ほかに、だれに連絡しているのか」とずばり聞いたこともある。
 それで、呼び出した記者に適当な「紙(政策ペーパー)」を渡して説明し「よろしく」と頼めば、おしまいだ。自分だけがもらった紙と分かれば、記者は喜んで書く。

 たまに根性があって、官僚がブリーフしたとおりに記事を書かない記者もいる。そんなときは、すかさず携帯をまた鳴らす。
「△△さん。あの記事どうなってんの。私がそういう理解は違うって、ちゃんと言ったでしょ。こっちの話を聞いてないわけ。せっかくこっちから連絡したのに、そんなことだと、もう取材に応じられないな」
 これは簡単に言えば、恫喝である。

 <引用終了>

 また官僚からの情報をとろうとして必死になっている記者の姿を以下のように表しています。『第4章●記者の構造問題』から引用します。

<引用開始>

記者はひたすらに情報が欲しい。できれば自分だけに。相手にしてもらうだけで、とりあえず一歩前進だ。食事を交えた夜の懇談にでも誘い出すことに成功すれば、二歩前進である。それで、ときには携帯電話で話せるようになれば、三歩前進になる。
 そうやって一歩ずつ進みながら、関係を積み重ね、情報をもらうようになっていく。だが、情報の本質的な意味合いは新人時代に刑事や県庁の役人からもらったものとたいして変わらない。苦労して手にするのは、ほとんどが役所が宣伝したい情報なのだ。
 だが、記者は官僚に食い込むために苦労を重ねているから、その苦労と引き換えに得た称号が「代弁者=ポチ」であるなどとは絶対に認めない。

 かくて官僚は記者との関係が自分の政策を宣伝するための道具であることを初めから承知しているが、記者の側はそんなことを絶対に認めない、という不思議な関係が出来上がるのである。

<引用終了>

松永です。長谷川氏は、この2冊の著作で、官僚の実態をじつにわかりやすく描きだしています。また、記者や新聞などのメディアが内包する構造的な問題を鋭く抉り出しています。
長谷川氏は、「霞ヶ関は本来、政策の選択肢を示す役割を担うはずであるのに、実際は自分たちが決めた政策を政治家に売り込んで、巧みに政治家を動かしながら、政策の実現を図っている。」と主張されています。「選択肢は官僚からはでてこない」そうだ。

脱官僚政治、真の議会制民主主義を取り戻そうとしている現民主党政権を、多くの国民が選択したいまだからこそ、ひとりでも多くの方に読んでいただきたいと思い、この場を借りて紹介させていただきました。

最後に『日本の秘密』から一文を引用させていただきます。

<引用開始>

本来、政策を決定する役割を担うべき閣僚による内閣の機能や国会の機能が空洞化している。国民に選ばれた国会議員による民主的統治の仕組みが形骸化して、官僚による実質的な統治が進んでいるのである。
 国民に選ばれたわけでもない官僚が政策決定を独占しているような状態なのだ。

<引用終了>

『日本国の正体』政治家・官僚・メディア−本当の権力者は誰か (長谷川幸洋・講談社)

第1章 官僚とメディアの本当の関係
    新聞は何を報じているか
    不可解な事件
    霞が関の補完勢力になった新聞
    転向の理由
    政権を内側からみるということ

第2章 権力の実態
    政治家と官僚
    「増税」をめぐるバトル
    財務官僚の変わり身
    福田首相の本心
    事務次官等会議
    
第3章 政策の裏に企みあり
「政策通」の現実
カネは国が使うべきか、国民が使うべきか
定額給付金は「ばらまき」か
「官僚焼け太り予算」を点検する
政策立案の手法
「専務理事政策」とはなにか

第4章 記者の構造問題
    記者はなぜ官僚のポチになるのか
    真実を報じる必要はない?
    「特ダネ」の落とし穴
    記者は道具にすぎない
    官僚にとっての記者クラブ

第5章 メディア操作を打破するために
    霞が関幻想
    先入観としての「三権分立」
    「政府紙幣発行問題」の顛末
    記者が陥る「囚人のジレンマ」
    報道の力を取り戻すために


 

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コメント
 
01. 2013年10月30日 20:18:50 : FHsPPATMrc
私も購読しました。
そこで、疑問が。
庶民、大衆の世論の情勢はどうのように分析しているのか。
新聞、TVのマスメディアは当てにならないのは重々承知。なぜなら大衆の考えを誘導している張本人がマスメディアの世論の結果を受け入れるわけがない。
ならば、どこで分析している?

多分、その分析の基礎は単行本、であろう。と推測する。では、電子出版になったら?
だから、電子出版には不利益を被るように行政指導する。今回、消費税増税で電子出版がクローズアップ。来年で3回目ですよ。なんかおかしい。


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