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ブッダの議論への批判 形而上学的な議論への批判 現在の社会的性格の肥大化
http://www.asyura2.com/09/idletalk36/msg/300.html
投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 5 月 01 日 17:02:17: mY9T/8MdR98ug
 

(回答先: “運命”における“苦”の滅法としての釈尊の教え 投稿者 彼岸楼 日時 2009 年 4 月 30 日 02:18:49)

彼岸楼さん。こんにちは。

おおむね彼岸楼さんの書かれたことに同意します。ただブッダの独創性は、普通には意識することができない根本的な生存欲求(無明)の存在を明らかにし、それが苦(輪廻)の生ずる根本原因だと見抜いたことだと思います。それまでの多くの宗教諸派の開祖が説いたのは人の欲望が苦(輪廻)の生ずる原因であり、欲望を滅することで解脱し心の平安を得ることができるとしていたからです。これでは根本原因を滅することができず、輪廻的存在から解脱することができません。

ブッダは自身の教えを文書に書き残すことはしませんでした。ブッダから教えを説かれた弟子たちのそのまた弟子たちをいく世代も経てブッダの死後数百年経って仏典としてまとめたものが原始仏教最初期の仏典として残っています。従ってブッダが実際にどのように教えを説いたかは厳密には不明であり、後世の仏典を解釈するしかありません。最初期にインドで書かれたパーリ語やサンスクリット後の仏典は中国へ渡り、漢語に翻訳されました。後にそれが日本にも渡り、当時の日本語に翻訳されます。こうした数々の変転を経るうちに無数の仏典に対する様々な異なる解釈が生まれ、結果として数多くの仏教諸派が誕生したと考えられます。

ブッダは形而上学的な議論を拒否しました。たとえば、世界は時間的に無限であるか? 世界は空間的に有限であるか? 如来は死後にも存続するか? ブッダはこのような問いは、経験的な事実に基づかない水掛け論争に陥るものとして答えませんでした。

またブッダはある種の議論そのものをも批判しました。仏典「スッタニパータ」から少し長いですが引用します。

「世の学者たちはめいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い、みずから真理への熟達者であると称して、さまざまに論ずる。 『このように知る人は真理を知っている。これを非難するする人はまだ不完全な人である』と。
 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、『論敵は愚者であって、真理に達した人ではない』という。これらの人々はみな『自分こそ真理に達した人である』と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?
 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級なものであり、智慧の劣ったものであるならば、これらの人々はすべて各自の偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であることになる。
 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のないものはだれもいないことになる。かれらの見解はその点で等しく完全であるからである。
 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは『これは真実である』とは説かない。かれらは他人を『愚者』であると決めつけるのである。
 或る人々が『真理である。真実である』と言うところのその見解をば、他の人々が『虚偽である、虚妄である』と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一のことを語らないのであろうか?
 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。」

ブッダはみずからの経験的な事実のみから実存的な真理を発見したのであって、他人ととやかく議論しなければならないような性質のものではなく、ブッダ自身の実存にかかわる真理であるので他人と争うことをしなかったのです。

さて、ブッダはみずからの経験的な事実を徹底的に観察する禅定をおこない、根本的な生存欲求(無明)の存在を発見し、その滅を実現してブッダ(目覚めた人)となりました。ブッダ自身はみずから経験したことのみをもって考察したのですが、輪廻転生については既存の前提条件としています。インドでは輪廻思想が古代からあり、ブッダもそれを受け入れています。私が引っかかるのはこの点です。ブッダは形而上学的な議論を拒否しましたが、輪廻思想も形而上学的なものであるのに、ブッダがこれを受け入れた点には疑問を感じます。

それはさておき、ブッダと同じ頃のインド社会にヤージュニャヴァルキヤという哲学者がいました。かれが一貫して考察し続けたものは自己(アートマン)です。真の自己と言ってもいいものです。「わたしは・・・である」というときの「わたし」は真の自己ではありません。この場合の自己とは社会的性格と同じようなものです。真の自己はいかなる限定や属性も持ちません。あえて言えばすべての「・・・でない」ということばを投げかけて、そうして残ったものが真の自己にあたります。そうした真の自己を発見、体得するためにはそれなりの修行を行わなければならないとされています。

日々発生する事件や争乱を耳にするにつけ、真の自己ではない、肥大化した社会的性格の自己がその背景にあると感じざるを得ません。社会的性格にはあらゆるものが含まれます。民族、国籍、職業、役職、家族構成、年齢、政治指向、などなど。たがいに異なる社会的性格を背景としてさまざまな事件、争乱、紛争が起きています。社会的性格の肥大化です。互いの社会的性格が異なることを認め合い、互いに妥協し合うことで世界はより住みやすくなると思うのですが。

 

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