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医師免許さえあれば食いっぱぐれはないですよね?  日経メディカル
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/716.html
投稿者 ダイナモ 日時 2013 年 7 月 18 日 21:50:34: mY9T/8MdR98ug
 

質 問

 転職でいくつかの病院を転々とし、気付けば履歴書に病院名がたくさん並んでいます。自分なりにやってきたつもりですが、キャリアを積んでいる自信はありません。将来についての不安を少々感じつつも、「医師免許があれば食いっぱぐれはないのでは?」と思っています。今の時代、こんな考えでは甘いのでしょうか。(卒後10年目、35歳男性、内科医)


回 答

幻想です。今の世の中、それほど甘くありません。

 医師免許があれば転職先には困らない、どこでも雇ってもらえる、というのは幻想です。やりたい仕事、働いてみたい病院がある人なら、なおさらです。

 言い方は悪いですが、「医師免許さえ持っていれば誰でもいい」という医療機関なら、医師不足の今、どんな経歴の持ち主でも構わず雇ってくれるかもしれません。ただし、そういうところは運営も、医師の扱いもそれなりであることがほとんどです。

 表面的にはそんな態度をおくびにも出さないものの、病院側はそういう医師を大切にしようとは思いません。恐らく「何かミスをしたら理由をつけて辞めてもらえばいい」「もっと優秀な先生がいたらそっちにしよう」と考えているはずです。

安易に転職を繰り返す人たち
 特に本人が望むような転職が難しいのは、数カ月とか半年程度で複数回の転職を繰り返している場合です。これは一般社会での転職と変わりません。医師の転職の支援をする中で私も時々、そうした出入りの激しい履歴書を目にしますが、やはり病院側に良い印象を与えません。最も敬遠されるケースと言っていいでしょう。

 転職理由を聞くと、たいてい「人間関係がうまくいかない」とか「思っていたイメージと違う」といった、傍目には取るに足らないような事柄が少なくない。こうした人たちに共通するのは、毎回似たような理由で辞めているという点です。その場合、根本的な問題を解決しない限り、どこの病院へ移ろうとも状況は変わりません。

 「雇ってくれるところがいくらでもあるのだから、我慢してまで今のところにいる必要はない」というのが、そうした人たちの言い分です。確かに今は何とかなっているのかもしれません。でも選択肢はどんどん狭まり、いつか誰からも相手にされなくなります。

 当然と言えば当然ですよね。短い間に病院を転々としている医師から「信用しろ」と言われたところでなかなか難しい。まともな病院なら「これだけしょっちゅう病院を移っているということは何か問題があるんじゃないか」と見なして、はじめから採用しないでしょう。

 もし今のままではいけない、どうにかしてやり直したいと思うなら、まず「なぜどこの病院でも長続きしないのか」と自分に問いかけましょう。自分に原因があるのか、選ぶ病院が悪いのか、はたまた別に問題があるのか、色々な背景を分析した方がいい。それを踏まえた上で、現在の勤務先もしくは今度紹介される病院にできるだけ長く勤務することです。

 また半年や1年で辞めたら次はないと覚悟し、最低でも3、4年は一つのところに勤めてください。失った信用を取り戻す第一歩としては、これが何より肝心です。もう一度やり直そうという決意を行動で示せれば、再びチャンスは与えられるでしょう。

 安易に見える転職を重ねる人は少数かもしれません。それでも、例えば「職員募集に応募して自分は不採用になったのにもかかわらず、求人は出たまま」とか「契約が更新されなかった」「自分では頑張っているつもりなのに、周りの評価が低いと感じる」ことはないでしょうか。そんなときは「自分の経歴や技量に何か足りない点があるのかもしれない」と疑ってみてもいいでしょう。

 医師免許があれば一生安泰ということはありません。医師としてやりがいを持ちながら安定的に長く働くためには、やはり技術と人間力に磨きをかけ続けること。至極当然であるものの、これに尽きるのではないでしょうか。


http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/special/career/nandemo/201307/531608.html  

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コメント
 
01. 2013年7月21日 15:21:26 : poP8U2cHwk
と入れて検索。
3K職場で………をクリック。
www.asyura2.com/12/social9/msg/213.htmlに入る。
下のほうにいろんな人がいろんなコメント書いているが、06や09や14のコメント読むと医師あまりはかなりひどいらしい。
医師の失業率や生活保護受給者数は統計自体がないのではっきりしたことはわからないが、医師免許がペーパードライバー化している医師や生活に困っている医師は増えているように感じられる。仕事がないからといって下手に開業すると借金地獄に陥るので、まだ失業医やニート医のほうがましといえるかもしれない。

02. 2013年7月24日 10:07:25 : niiL5nr8dQ

栄養チューブ姿の私の祖母、「でも生きて」−問われる「死の質」 

  7月24日(ブルームバーグ):今、日本には推計26万人が胃ろうの手術を受け、寝たきりで生きている。私の96歳の祖母もその仲間入りをした。
チューブで胃に栄養を投与する医療行為は、日本で高齢者にごく普通に行われている。一度導入されると実質的に後戻りできない。感染症で入院して間もなく、祖母は鼻から胃に栄養を直接送り込むチューブを看護師に勝手に挿入された。家族へ説明はなかった。翌朝、チューブをつけられた祖母を見た母は、ベッドの横で膝を落とし、「こんなことするつもりなかったのに、ごめんね、ごめんね、と泣きながら祖母に謝った」と、後になって教えてくれた。
医療技術が進歩し、さまざま形で延命ができるようになった。祖母、三宅寿子がこの世に誕生した1916年(大正5年)、日本人の平均寿命は43歳にすぎなかったが、今は83歳。世界一だ。その半面、終末期ケアなど死の迎え方に関する評価は低い。エコノミスト・インテリジェンス・ユニットの調査によれば、日本の「死の質」は、先進国・開発途上国40カ国中23位にとどまる。
日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団の柏木哲夫理事長は、「日本では、歴史的に病院が回復の見込みのない終末期患者の延命にも力を入れてきた。そしてそれがまだ主流だ」と言う。私たち日本人は日常の中で死についてほとんど話をしない。リビングウィル(生前の意思表示)を用意したり、終末期をどのように迎えたいかという話をすることは珍しい。
ならまち
祖母が生まれたとき、65歳以上の人口は20人に1人だった。今は4人に1人。2060年には4割を占めると推測されている。高齢化は、世界第3位の経済大国でありながら世界で2番目の巨額債務を抱えるこの国の財政を破綻させる可能性をはらんでいる。高齢者を支える勤労者や納税者が少なくなるにもかかわらず、出生率は低く、移民を増やす政策もない。
奈良県奈良市、現在は観光地として栄える「ならまち」と呼ばれる町屋が多く残る市街に、1800年代前半に店を構えた米問屋の長女として、1916年12月27日に祖母は生まれた。同年に米国ではウッドロー・ウィルソンが大統領に再選され、18カ月後には第一次世界大戦始まっている。
私が学生だったころ、祖母は女学校に通っていた日々の話をたくさんしてくれた。自宅から駅まで人力車に乗って大阪の学校に行き、お小遣いで家族にケーキやシュークリームを買って帰ってきたとよく言っていた。それは、1930年代のこと。女性が中等・高等教育を受けるのは珍しい時代だった。
かくれんぼ
祖母が住んでいた町屋は子供ころの私にとって楽しい遊び場だった。1800年代前半に700平方メートルの敷地に建てられた木造二階屋は二棟続きで、たくさんの部屋や通路、階段があり、かくれんぼをするにはちょうどいい場所だった。
今は、豆腐レストランやバー、ラジオ局などがテナントとして入っている。玄関には、当時の奈良では多分最初であろう電話室が今もそのまま残っている。祖母の家に遊びに行くのを楽しみにしていたもう一つの理由は、私や妹、弟にお菓子やジュースをたくさん振る舞ってくれたことだった。
祖母の裕福な生活は、第二次世界大戦の最中に突然終わりを告げた。政府が戦時中に米の統制を始め、米問屋を廃業せざるを得なくなったからだ。また代々、米問屋の事業を拡大するために稼いだお金で田んぼを買い、作付け面積を増やそうとしていた。それも1947年の農地改革で取り上げられ、小作農家に分配された。祖母は1998年に雑誌「太陽」の取材で「いっぺんに貧しくなってしまいましたわ」と答えている。
慰問袋が結んだ縁
戦争による傷痕はそれだけではなかった。祖母の5人兄弟の末っ子で長男、跡継ぎの裕が戦死した。18歳のときに学徒出陣で旧満州(中国東北部)方面へ行ったまま戻らず、1946年に死亡宣告が出された。享年20歳。遺体は見つからなかった。
祖母はよく「戦中は健康な独身男性はみんな戦地に取られてしまったから自分たちの年代は結婚したくてもできなかった」と言っていた。女性は家で慰問袋を縫い、住所や名前も添えて戦地に送ったという。祖母が作ったものは満州にいた三宅澄夫、のちの祖母の夫に届いた。
彼は陸軍士官学校の卒業生、陸軍大佐で大砲の弾の軌道を難解な数式を使って計算する人だった。先祖の一人は四国の高松藩藩士で弓の名手として有名だったという。戦時中、陸軍の大阪での研修のため帰国したとき、お礼のあいさつにと奈良までやって来たそうだ。その後2人は恋愛結婚。祖母と祖父は私の父を含めた3人の子をもうけた。
誇り
戦後、家には祖母夫婦とその子供、祖母の両親、祖母の叔父家族の計12人が一つ屋根に住んでいた。下働きの人たちがいない生活を初めて経験した祖母に主婦業は大変だったようだが、若い時の生活から染みついていたスタイルはできるだけ保ちたかったようだ。朝食は家族全員が紅茶を飲み、夕食にはときどき洋食や肉を食卓に出したという。1960年代に祖母の次男が大学の友人を家に連れてきたとき、下宿生ではろくなものを食べていないだろうと朝食にステーキを用意したとの逸話もある。
「安い肉を買わないといけないのは分かってますねんけどね、口が勝手に別のこと言いますねん」とニコニコ笑いながら私の母に言ったことがあるという。昔の誇りを失いたくなかったのもあるのだろう。私にとって祖母といえば、ワンピースの上に腰から前掛けをして土間の台所に立っている姿を思い出す。祖母は、毎食前に仏壇や神棚へ食べ物をささげ、日々の生活を感謝していた。また、お中元やお歳暮を通して親戚付き合いをするのも好きだった。
祖父は1984年に心筋梗塞で70歳で亡くなった。その後、祖母は1人で暮らしていた。11年前に失禁し始め、1人での生活が難しくなったので、私の両親が引き取った。祖母はその時85歳だった。祖母が家から持ち出した所持品は、それほど多くなかった。箪笥(たんす)の引き出しを開けてみると、弟の裕宛てに届いた大阪師団司令部からの面接予告のはがきがみつかった。
デイケア
両親と一緒に住み始めて3年過ぎたころ、祖母は腰に圧迫骨折を起こし、3カ月入院した。それからはだんだんと体が弱っていった。家の中でも杖(つえ)を突いて歩くようになった。158センチ、60キロの祖母は母だけでは支え切れず、週2回、入浴のためデイケアに通った。
祖母は、私の両親、特に母に全面的に依存するようになった。それは私が数カ月に一度奈良に帰省するたび明らかだった。祖母は自分で箸を持つのをやめ、母がスプーンで食べさせるようになった。咀嚼(そしゃく)をしっかりするので食事に1時間以上かかることもあったと母が言った。
「『えいや』と向こうの世界に行けると楽やのにな。でもそういうわけにはいきませんな」と母に言ったという。母は「人間の体は90まで生きるようにできてませんわ、お義母さん。体が言う事を聞かなくなってくるのも自然なことやと思いますよ」と返したそうだ。
以心伝心
それでも祖母の老いはゆっくりとしたものだったので、どのような終末期を迎えたいか、本人の願いを家族が聞くことなど思いもつかなかったし、祖母が胃ろうを受けることになるとは想像もしなかった。本人も思いつかなかったのではと思う。
日本人がどのような終末期を迎えたいかという話がなかなかできないのは、ものをはっきりいう文化でなくて、以心伝心で伝わるだろうと思っていることもある、と日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団の柏木氏は言う。
千葉大学法経学部総合政策学科の広井良典教授は、日本人の死生観は戦後の経済成長を経て変化したと述べる。「日本人は神道や仏教を通じて死生観を持っていた。しかし、戦後、経済成長を中心にして物質的な富の拡大を目標としたために、老いや死を受容する考えが薄くなった、そして死は公の場で語られなくなった」という。
それから祖母の認知機能が落ち始めた。部屋の中や庭に死んだ親戚が見えると言うようになった。家族の名前や顔などの記憶も薄れていった。ただ記憶が全部なくなってしまっても、時々核心を突いた返答をすることがあったと母は言う。母が一度、自分も祖母のように長生きができるか聞いたところ、「あんたの心掛け次第」と即答され、この人は認知機能が衰えてもすごいと感心したという。
突然のメール
「おばあちゃんの死が近づいたと感じたのは、よく疲れたと言ったり妄想したりしたころじゃないかな。すごく怖かったと思う」と母は私に言った。
昨年12月のある日、突然母から携帯電話にメールが届いた。「寿子おばあちゃんが熱が下がらないので病院に入院した。思ったより悪い方向です。心配掛けるけど、伝えとくわ」。
普段の母は少々のことがあっても心配させるだけだろうからと言ってこのような連絡はすぐしない。事態はよっぽど急だと思った。40度以上の高熱を出し、意識がもうろうとしていたと電話で告げられた。私は翌日東京から急いで奈良に戻った。その時点では容態は安定していた。救急搬送されたのは、祖父が30年前に心筋梗塞で運ばれ亡くなった病院と偶然同じで、嫌な予感がしたと父は言った。
診断は、誤嚥(ごえん)性肺炎と腎盂(じんう)炎の併発。回復を待つしか手立てがないと医師は私の両親に言った。
激怒
ある日、祖母がすやすやと寝ていたので両親は夕食前に病院から帰宅した。気になることがあったので、後ろ髪を引かれる思いで一時帰宅したという。翌朝、病室に戻ったところ、祖母の鼻から栄養投入チューブが入れられていたのを発見し、母は激怒した。家族以外の者が祖母から自然死という選択を相談なしに取り上げてしまったこと、またチューブ胃ろうで何年も生かされ続けるかもしれないことを想像したからだ。私の両親はそのような判断が下されると全く予想をしていなかった。
母はナースステーションに駆け込み、看護師に詰め寄って理由を聞いた。前夜食事の際にむせて嘔吐(おうと)した、鼻に栄養チューブを挿入するくらいで家族には連絡しない、と返答されたと母は言った。
1日過ぎ、祖母の容態に変化があった。顔色が良くなり、冷たい手で触られると「冷たい」などと反応した。家族で思い出話をすると、耳を澄まして聞いているのが分かり、反応して笑っていた。「本当にびっくりした。口からものを食べるよりチューブの方が栄養が取れるんだと思うわ」と母が言った。
胃ろう
鼻に栄養チューブを挿入していると息苦しそうなので、家族で話し合い、胃ろうをしようと決めた。2月1日、祖母は救急病院から両親の家の近くの病院に移り、その3日後、胃ろうの手術を受けた。手術中胃カメラで胃の中をのぞくと本当にきれいなピンク色だったと母が言った。1時間もかからずに手術は終了した。これで、祖母の臓器が栄養分を吸収し続ける限り、何カ月も生きることが可能になった。
全日本病院協会の2011年3月の調査報告書によると、26万人の胃ろう患者は、平均81歳で平均2.3年にわたり胃ろうを受けている。また90%以上は寝たきりだ。米国消化器病学会によると、米国では胃ろうは脳梗塞で脳に障害を起こし、嚥下が困難な患者や、食道がん、口腔がんで食べ物がのみ込めない人に適用されるのが通常だ。重度の認知症患者で嚥下が困難な人への介入は賛否両論だという。寿命と生活の質、満足度で評価すべきだとしている。
米国のホスピス緩和ケア学会や老年学会は重度の認知症患者には胃ろうより口からの摂食を推奨している。日本では、日本老年医学会が12年6月に「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン」を発表し、人工的な水分や栄養補給を導入した後の減量や中止について、患者や家族の同意を得ることを容認した。
意識と現実
国際医療福祉大学病院外科の鈴木裕教授が931人の胃ろう患者を追跡し、10年に世界消化器病学会の雑誌に発表した論文によると、胃ろう患者の死因は約60%が肺炎、14%が心不全、3%ががん、22人がその他だ。厚生労働省が3月に行った「人生の最終段階における医療に関する意識調査」によれば、日本人の70%以上が末期がんや重度の認知症を患った場合に胃ろうは選択しないと回答した。リビングウィル支持は70%だったが、実際に用意したのは3.2%だった。
父は、胃ろう手術手順の説明を受けた際、挿入しているチューブを外して自然な死を迎えるという選択は可能か主治医に確認したという。医師は拒否したと父は言った。「前の病院で鼻にチューブを勝手に付けられた。もうそれは胃ろうと一緒や。鼻だろうが、胃だろうが一度チューブを付けてしまったらもう外せない」と祖母のベッドのそばで私に言った。
「医療虐待」
東京の水道橋東口クリニック理事長・院長で高齢者の在宅医療に携わる辻彼南雄医師は、「日本の老人は無理やり長生きさせられている。今の状態は医療虐待。当たった医師によって施されるケアが違う。高齢者尊厳法のような法制化や、終末期ケアに対する患者の願いを聞き取るような第3者機関をつくり、プロセス化をする必要がある」と述べる。
祖母のいとこの松山ヒロ子は3年前に96歳で亡くなった。終末期に胃がんが見つかり、ひどく痛がったので外科手術で摘出したという。「おばちゃんが亡くなってから聞いたので、医師と家族でどのような話し合いがあったのか分からないが、96歳の体力を考えると、ほかの方法はなかったのかなと思った」と父が話した。
10年の米国の65歳以上向けの公的医療保険制度メディケアにおける慢性患者1人当たりの人生最後の2年間の医療費の平均は6万9947ドル(約700万円)だったとダートマス医療政策臨床研究所が報告した。ロサンゼルスが全米で一番高く11万2263ドル(約1130万円)だった。メディケア費用の約30%は人生最後の2年間に使われている。
死んでほしくない
12月の入院から最初の5カ月、祖母の窓口支払いは月額10万円程度だった。国民皆保険制度は1960年代、日本人の死因の1位が結核だったときにできた。今はがんや心疾患などが死因の上位を占めている。これらは、治療が難しく医療システムに大きな負担がかかるので、政府の費用負担も増加している。
祖母は5月に療養ベッドに移動させられ、病院から差額ベッド代として月額6万5000円を加算されたので、今は総額16万5000円を窓口負担として支払っている。政府の施策の一環で長期入院患者の保険償還が減るため、病院が補てんしようと家族に負担させたのだと思う。
私は現在33歳。近代日本を作り上げ、社会に貢献し続ける祖母やその世代に敬意を持ち合わせている。英国の慈善団体、ロイヤル・ボランタリィ・サービスの2011年3月のリポートには、65歳以上の高齢者が、税金、消費、ケア、ボランティアを通してネットで400億ポンド(約6.1兆円)経済に貢献し、2030年までに770億ポンド貢献するという試算もある。総務省統計局によると、日本では65歳以上の20%が就労している。これは先進国の中で最も高い比率だ。
この世との接点は小さくなり続けているけれども、祖母はまだ心地よく毎日を過ごし、この世とつながり続けている。死んでほしくない。祖母の子供、父、叔父、叔母は面会に来るたびに、祖母が生きていて、話し掛けられるだけですごくうれしそうだからだ。
母の病気
日本の国民医療費は国内総生産の9.6%を占める、これは米国の18%の半分だ。しかしは私の世代は祖母が受けている社会保障と同じレベルのサービスを享受することはできない。1955年以降に生まれた世代の年金、医療、介護の生涯純受給率はマイナス、つまり支払い超過になるとの報告を内閣府経済社会総合研究所が2012年1月に出している。
61歳、156センチ、43キロの母にとって、自分より大きい祖母を介護するのは大変だったと思う。母は祖母の雑用、食事、トイレの介助、おむつ交換などを祖母が老人ホームに入居する2年前まで家でこなしていた。
1月、母は初期の乳がんと診断された。乳房温存術を受け、そのあと放射線治療とホルモン治療を受けた。すでにほっそりとした体つきにもかかわらず、体重は減り、血液検査で、悪玉コレステロール値や肝数値が急上昇したことが分かった。最初の医者がすぐに治療をしなかったので、先月末に病院を変えると、即入院、点滴治療薬と絶対安静を言い渡された。すでに3週間以上入院していて、数値が正常値に戻れば退院できる予定になっている。
ピンピンコロリ
ここ数年、特にこの半年、私は母と日本の高齢化社会や終末期医療や介護、その経済的影響についてよく話をしてきた。母は、祖母の世代は生まれたときの平均寿命よりずっと長生きしてしまった世代で、必要以上の医療を受けていたとしてもこれは「もうどうしようもないし仕方ない」という。
「自分たちの両親がどうやって年を取り、死を迎えたかを見たり、経験したりすると、自分はどう生きようかと考えるようになる」と母は私に言った。「年寄りが若い世代の負担になってるのなんてみんなよく分かっている。だから私たちは若い世代に負担を掛けないようにどうしようかと考えるし、世話にならずに自分で何とかしようという思いが強いの。みんなピンピンコロリを目指しているよ」と。
最近、私は、祖母が病院でどのように過ごしているか知りたくて、病院で1日過ごしてみた。生まれたばかりの赤ちゃんのように無防備に布団の下でくるまってベッドに横たわっている祖母は、顔やのどにしわが少なく、96歳とは思えない顔つきをしている。褥瘡(じょくそう)を防ぐために1、2時間に一度、介護士が祖母の体を反転させる。1日に摂取する栄養が600キロカロリーのため、ふくよかな体は年を取るとともにしぼみ、今は43キロくらいに小さくなってしまった。
「ありがとう」
3人部屋の病室には、83歳と88歳の女性も入院している。83歳の女性は相手なしに歌を歌い、話をし、88歳の女性は、ほとんどものを言わず、ベッドに横たわっている。88歳の女性は、鼻に挿入された栄養チューブや点滴の管を引っ張り抜かないように綿の手袋をさせられ、そのひもがベッドの縁に縛り付けてある。
病院の廊下では、薄暗い蛍光灯の中で看護師、介護士の女性たちがおむつや、お茶、薬を用意し、歩き回っている。病院内には汗や汚物のにおいが漂っている。祖母のおむつは、数時間に一度交換され、食事前にははさみのようなものでスポンジをはさみ、軽く口腔ケアが施される。
毎週月曜にお風呂に入れてもらい、木曜は体を濡れたタオルで拭いてもらっているそうだ。手は閉じて硬直していて、開いて握ろうとしてもなかなか開かない。コットンで目やにを拭くから目をつむってねと私が声をかけると祖母は「ありがとう」と言ってくれた。
その日、病院に祖母の洗濯物を取りに来た叔母と祖母の昔話をすると、祖母の顔に笑顔が見えた。声を出したが、「ちえこちゃん」という名前以外理解できなかった。ちえことは6年前に亡くなった祖母の一番下の妹の名前だ。
祖母の願い
毎日3回、午前9時、午後1時、午後4時半にボトルに入った160ミリリットルの白い液体栄養液が管を通して祖母の胃に直接投入される。その時、祖母は空っぽの口で何かを食べているかのように咀嚼を始める。ほとんどの場合口で息をしているので、絶え間なく口内が乾いている。水分を含んだ綿棒を口の中に入れてあげると吸いついて離さない。
祖母はよく100歳まで生きると言っていた。家族や親せきが仲良く幸せに生活できるようにと気を配り、自分の健康のためにと一口30回の咀嚼を怠らなかった祖母。そののどにはこの7カ月、食べ物が通っていない。そしてこれからも通ることはない。
記事についての記者への問い合わせ先:東京 Kanoko Matsuyama kmatsuyama2@bloomberg.net
記事についてのエディターへの問い合わせ先:大久保義人 yokubo1@bloomberg.net;Teo Chian Wei cwteo@bloomberg.net
更新日時: 2013/07/24 07:45 JST


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