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朝鮮人が食っていけなくなったのは搾取だけが原因ではない _ 換金作物を作らせると餓死者が続出する
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/416.html
投稿者 中川隆 日時 2010 年 10 月 09 日 13:53:03: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: アホ? 投稿者 中川隆 日時 2010 年 10 月 09 日 12:17:13)


日本統治前の朝鮮人が毎日大食らいできた理由:


イザベラ L ハード「朝鮮紀行」 P203〜P204より

大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事のよさは質より量で決められ、一日四ポンドのごはんを食べても困らないよう、胃にできるかぎりの容量と伸縮性を持たせるのが幼いころからの人生目標のひとつなのである。

ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量のくだもの、木の実、糖菓を食間にとるが、それでもっぎの食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度でのぞむ。

裕福な家では牛肉と犬の肉は大皿に盛る。また客のごちそうは銘々膳で供されるので、もてなす側は特別大事な客にはふんだんにふるまい、ほかの客には最小限度に抑えておくことができる。

わたしは朝鮮人が一度の食事で三ポンドはゆうにある肉を食べるのを見たことがある。

「一食分」が大量なのに、一日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事もできないほど貧しい人と見なされかねない。

一度の食事で二〇個から二五個のモモや小ぶりのウリが皮もむかれずになくなってしまうのはざらである。

赤ん坊にまで食べさせる莫大な消費量の赤トウガラシがこの大食ぶりを助けているのはまちがいない。

朝鮮人には消化不良のたぐいの疾患が多いというのもうなずける。
http://kukkuri.blog58.fc2.com/blog-entry-573.html

要するに日本人はアホだから歴史に学べないだけ:


仙台藩の主な産物は米である。

江戸時代には、北上川流域の湿地帯の開拓などの新田開発によって実高100万石とも言われるほどに多くの米を収穫できるようになった。

また、買米制と呼ばれる事実上の専売制度が導入されていた。

その米を東回り航路で江戸に運んで大きな利益を得た。

一時期、江戸に流通する米の半数は仙台米と言われた時期もあった。

そのため、石巻はこの航路の拠点として大いに発展した。

また、一部の米は海産物とともに大坂にも運ばれ、上方との交流も盛んであった。

これによって藩財政・農民の暮らし共に潤った時期もあった。


ただし買米制にも凶作に弱いなどの弱点があった。


ひとたび、凶作が起きると領内は大変な食料不足に見舞われ、農民だけではなく武士階級の者までがバダハタと餓死した。

これは他の藩には全く見られない現象であった。

現米収入のみに限定しても楽に100万石を超え、表高で上回り幕府に融資を行うほどであった加賀藩・寛永の大飢饉などにより江戸時代初期から貧乏で幕末に殖産興業に成功してようやく好転した薩摩藩よりも当初から財政的に豊かであり、政宗の時代にはローマへ単独の藩で使節を送るほどの力を有していた。

江戸時代末期の九州人の安井息軒の読書余滴に「二百万石余」、同じく江戸時代末期の九州人の帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。

ただし、東潜夫論は、佐渡12万石(1万7,000石)、隠岐6万石(5,000石)と、太閤検地の10倍表示されており、注意を要する。

佐渡国の佐渡金山についても触れており、米の生産量以外の豊かさも含んだ指標として石高が使用されている。


だが、米に頼りすぎた経済は藩に他の産品の開発の動機を失わせ、藩財政は米の出来・不出来及び米相場の状況によって翻弄され、不安定であった。


凶作が起きれば藩は大借金を抱え、豊作でかつ米相場が高値推移の年には積年の借金が一気に返済できてしまうといった具合である。


まさに「農業は博打である」という格言を地で行く藩経営であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E8%97%A9

小規模自作農で飢饉に強いのは、日本じゃ、アホみたいに、戦前まで米以外に粟や稗を作付け、農作物を多様化している農家だった。


ただ、これをやると農家は基本、貧乏だ。

換金作物を作らず、そのスペースで粟とか稗とか作り、穀物の来年の収穫の見通しがつくまでは新米には絶対に手をつけない用心深い農家だった。

もうけは出ないが、生産量が安定するから飢饉にも強い。

農業経済では、農民が貧困だが安定的な状態ってのが存在していて、うちのご先祖の相模農民なんかは、典型的な貧乏だけど飢饉には強い農民だった。

二宮尊徳のエピソードで、ナスを食べたところ、夏前なのに秋茄子の味がしたことから冷夏となることを予測。

村人に冷害に強いヒエを植えさせた。

二宮の予言どおり冷夏で凶作(天保の大飢饉)となったが、桜町では餓死者が出なかった(実際には、数年前からヒエを準備させていたことが分かっている)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3

用心深い農民ってのは、別に二宮に言われずとも、昔っから、保険として粟とか稗を作付けするもんだったの。


ただ、仙台藩のように、換金作物である米をひたすら推進し、他の産品の開発動機を失わせる農業経営をやっちゃうと、儲かる時は凄く儲かるけど、飢饉になると破滅的な影響がでてしまう。

典型的なギャンブル農業でね。

仙台藩は天候に左右されやすい米みたいな作物を冷害が多発する地方で主要作物にして代替的に推進したせいで、飢饉になると破滅的な影響をうけてしまった。


人口増(子供への医療品の配布)と換金作物推進(農業生産性と収益性の増加)っていうのは、日本の仙台藩の経営と同じだから、素人にはお勧めできない。

というか、仙台藩ならまだいいけど、日本でもっとも一揆が多発した飢饉超発生地帯、盛岡藩になったら悲惨すぐる。
http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20091101/p1

これが飢餓輸出の実態:


天明大飢饉は人災だった
 

 日本の【飢餓】を心配される方が多い原因に、江戸時代の飢饉が誤って伝えられていたこともあるかと、最も酷かったとされる【天明の飢饉】について書かせていただきます。

 結論を先にいっておきますと、これらの飢饉は【人災】でした。

日本中で何百万人も犠牲になったなどということはありません。

江戸では風のたよりに知る程度でした。

もちろん食料は例年と比べかなり不足しましたが、全体としては、それほどのことはありませんでした。

もちろん総論の結論です。

 

 天明に入ると、農作物の収穫が減少しましたが、特に【天明三年】は異変の年で(1783)浅間山が大噴火を起こし、この火山灰による大洪水や山崩れなど大規模な自然災害が発生します。 

 また異常気象が目立ち、海外ではアイスランドのラカギガルム火山が大爆発、また同地のグリームスヴォント火山も大爆発、テムズ川もセーヌ川も凍りついたと伝わります。

 ヨーロッパは冷害となり、このときの飢饉が【フランス革命】のきっかけとなります。地球全体が火山灰の微小粒子に覆われた結果とされています。


 国内の気象は、浅間山爆発の天明三年の冬は異常な暖かさ、年が明けても変わりません。雨はほとんど降らず、その後、雨が少し降ったので五月に田植えが始まりましたが、逆に冷気がつづき、夏になっても綿入れを着るほどの低温だったといいます。このため稲は青立ち(穂が出ないこと)となり、他の作物もほとんど結実せず、大凶作となり関東から東北地方にかけて被害を受け、北に行くほど酷いものでした。

 三月、四月になると冷雨が続き、雨の降らぬ日は七日だけ、それもうす曇で晴天の日は一日もありません。五月六月も同じで、雨の降らぬ日はそれぞれ四日、六日という有様だったといいます。


 「春頃には麦の作柄が例年になく良いと予想され、農民たちは喜んでいたが、雨続きのため麦の刈り取り期にはまったく結実がなかった」といいます。

「稲、大豆、ヒエなどは作柄が良いと見込まれ、経験豊かな老農たちも秋の豊作は間違いないと予測した。しかし異常な天候不順で、七月下旬になっても穂は出ず、わずかに出た穂には実が入っていなかった」とあります。

「八月十三日夜の厳しい寒気で霜が降り、大豆、粟、ヒエ、そば等は全て【穂なし】となり、前例のない大凶作となった」と続きます。

 
 飢饉が予測された津軽藩では、藩主・津軽信寧(のぶやす)は参勤交代で江戸にあり、側用人の大谷津七郎が、藩政を掌握、さまざまな飢饉対策を行っていましたが、

藩は長いこと藩財政が苦しく、大阪商人に借りた借入金が返せず、京坂の商人に代理返済して貰っており、この年にはどうしてもコメを京・大阪へ送らねばならない事情がありました。


【お救(たす)け小屋】の準備をしながら、前年農民から藩に上納されたコメ、「四拾万俵」をすべて大阪と江戸に送り換金しました。


飢えの恐怖におののいている領民の見守るなか、四十万俵のコメを積んだ船が通り過ぎていったと伝わります。

このため領内のコメは尽き、よって農民たちは、飢えの恐怖が現実になり衝撃を覚えます。

 
 「穀物の価格は高騰し、さらに金を出しても買えなくなり、飢えにさらされた領民たちは山菜の根をあさり、そば、大豆の【殻:カラ】までも口にした。

飼料が尽きたので牛や馬を飼うこともできず、すべて捨てて、牛馬が原野を歩きまわった」との記録があり「牛馬を食料にすることは食習慣になかったが、これらを殺して食うものが増した。

また口べらしのため子供を川に流すものが数知れず、大百姓をふくめて多数の農民が田畑、家を捨て、家族とともに【伊勢参り】をよそおって、碇ケ関から秋田藩領へのがれた。世をはかなんで深い森に入り首をくくったり、石を抱いて川に身を沈めたりする者もいた」とつづき


 「このような中で強盗、追剥(おいはぎ)が横行し、盗みに入った者が家に火をつける例も多く、火災が頻発した。天明三年九月から翌年六月まで、津軽藩領では男女八万千七百二人が餓死した」

との記述が残っています。また人間だけでなく「馬一万七千二百十壱頭」と記録にあったといいます。

 

 南部藩(八戸藩・七戸藩)でも被害は甚大でした。

【久慈街道】という八戸市と久慈市を結ぶ街道があり、途中にウミネコの繁殖する島、蕪島(かぶしま)があるというところから、たぶん海沿いの国道45号線のことかと思いますが、十里ほどの道程で途中に新井田村があり、ここの【対泉寺】には天明飢饉を悼む石碑があり、このうちの四文字が素人と思われる手で削られているとか。

そこには【人を食った記述】があったと郷土史家の【中里さん】が語った」と、東北文庫の【久慈街道】に小説家の故井伏鱒二氏が書いています。

 

 人肉の話は事実だったようで、『街道をゆく』の司馬遼太郎氏は確か『久慈街道』で、「これ以上の惨状を書くのは忍びがたい」としていますが、吉村昭氏はそのまま記しています。

両者とも【高山彦九郎】の詳細な日記を引用しています。現在は山門脇に【餓死供養塔】があり、詳細も記されているとか。筆者は中間というか、皆様があまり不快になりそうな表現は避けています。

 

 「野草の類も食いつくすと、人々はイノシシ、シカ、イヌ、ネコ、ウシ、ウマも食いあさり、それらも絶えて人の肉を食うようになった。

親が死ぬと子はそれを食い、子が死ねば親が食う。さらに山中や野外に捨てられた人の死骸も、彼らの食欲の対象になった。

その頃、人の肉を食った村人に聞くと、馬の肉の味はサルやシカのそれよりまさり、さらに人肉のそれは、ウマの肉より優れている、と語ったという」


とあり「村内で人肉を食ったものは、それがたたったらしく十人中七人は死んだ」と記されています。

 

 このような残虐な例は今まで読んだ限りでは、津軽・南部藩(八戸藩・七戸藩)に限られるようです。


津軽は【財政破綻に瀕した好例】であり南部藩は【行政の大失敗】があるようです。


原因のひとつに、この藩には資本主義が日本で最後に入った場所、人々は馴れていないため、商人貸し付けの金銭返済ができず、田畑や家屋などが質流れし、ほとんどの百姓が商人の奴隷となり、百姓から年貢が取れない藩は、百姓の富を奪っていた商人から、無理矢理に金銭を取り立てました。


(たしか戦後、当時の学者で、安藤昌益という今でいう共産主義者が発見されもてはやされましたが、それなりの風土がありました。)
 
 天明三年の大飢饉の際にも、他藩のほとんどは、まさかに備えて十分な準備をしており、特に有名なのが米沢藩、白河藩でした。

このとき、ただ一人の餓死者も出さなかったと伝わります。
 
http://hoihoihoi.iza.ne.jp/blog/entry/1654370/


要するに、東北でやっていたのと同じ悪事を朝鮮でも繰り返した訳ですね。  

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コメント
 
01. 2010年10月09日 16:59:29: 9v0ktw5TBA
天明の大飢饉で、日本中で何百万人も犠牲になったとか言い出す奴自体を、
初めて見たw

牛馬を食料にすることは、たしかに習慣としてはなかったが、
食料と見做すことは当然あった、
というか獣食があったのだからないわけがない。
熊、鹿、狸、猟師が狩る昔話なんぞいくらでもある。


この投稿者は、日本人ではないのだろう。


02. 2010年10月09日 17:41:02: MiKEdq2F3Q

日本語読める?

(日本中で何百万人も犠牲になったなどということはありません。)

と書いてあるだろ。

前の投稿も誤読ばっかりだったね。

そんな国語力で生活は大丈夫?


03. 2010年10月09日 20:02:29: QwdPWVukzI
ん?直接的に言わんとダメだったのか?

>日本の【飢餓】を心配される方が多い原因に、江戸時代の飢饉が誤って
>伝えられていたこともあるかと、最も酷かったとされる【天明の飢饉】
>について書かせていただきます。
>結論を先にいっておきますと、これらの飢饉は【人災】でした。
>日本中で何百万人も犠牲になったなどということはありません。

そんな誤解してる奴や本に出会ったことがない、という意味だったんだが。


>そんな国語力で生活は大丈夫?
皮肉すら解しない国語力の奴に心配される筋合いはねぇなぁ・・・・・
つーか、前の投稿の誤読ってなんだよ。シャドーボクシングでもしてんのか?


04. 2010年10月10日 01:22:16: MiKEdq2F3Q

あるよ:

天明の大飢饉における死者数はこれまた説が分かれており、死者は6万人(一藩で数万から30万人以上の死者を出したところもあるとの記録があるので、この6万人は信憑性が薄いですが)とも90万以上100万人近くであったともされています。

が、松平定信が残した記録によると天明4年から5年にかけて全国で140万人の死者があったとされています。

天明の大飢饉は天明3年から6年(または7年)にかけてですから、この記録を正しいとすれば予想するに200万人規模で死者を出したと考えられます。

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa668622.html


05. 2010年10月10日 10:03:52: 4f3PkrkMJc
01&03
>04
これは失礼。まさか100万人前後を何百万人と称す人物が現代にいるとは思わんかった。
ま、それ以前に、徳川実紀には享保の飢饉死者約97万人とも記載してあることを
知らんかったから勉強になった。

ただし、松平定信が140万人と記載したから予想200万人は、
定信が田沼意次を嫌いきっており、意次の失脚後その施政について
良し悪しに関わらず、意次への批判を行っていることから、
その一環として数の水増し(140万人)をしていた可能性もあり、
それを基にした予想を是とはできないと考える。


06. 2010年10月10日 10:23:40: CeBfC22xOc
松平定信も失脚後には、白河藩においてやはり換金作物奨励をやっているようです。
飢饉時に米より金があればなんとかなる、と考え直したようです。
江戸時代の飢饉の場合、米は全国的にみると不足していたわけではなかったので。

ついでにいうと、江戸時代、たしかに粟とか稗よりは米のほうが換金しやすい
作物ではあったものの、どちからというと年貢のための生産の延長であり、
真の換金作物という意味ではは煙草、木綿、菜種、漆、茶などのことを
言っていました。幕府が勝手に栽培するな、といっていたのもこれら。

東北地方は基本的に米頼みだったことが、商人の買占めによる米不足対策が
できず飢饉を拡大させたようです。


07. 2010年10月11日 00:40:19: 7xkxpH9D6Y
>小規模自作農で飢饉に強いのは、日本じゃ、アホみたいに、戦前まで米以外に粟や稗を作付け、
>農作物を多様化している農家だった。ただ、これをやると農家は基本、貧乏だ。
>換金作物を作らず、そのスペースで粟とか稗とか作り、穀物の来年の収穫の見通しがつくまでは
>新米には絶対に手をつけない用心深い農家だった。
>もうけは出ないが、生産量が安定するから飢饉にも強い。
>農業経済では、農民が貧困だが安定的な状態ってのが存在していて、うちのご先祖の相模農民なんかは、
>典型的な貧乏だけど飢饉には強い農民だった。
>用心深い農民ってのは、別に二宮に言われずとも、昔っから、保険として粟とか稗を作付けするもんだったの。
>ただ、仙台藩のように、換金作物である米をひたすら推進し、他の産品の開発動機を失わせる農業経営をやっちゃうと、
>儲かる時は凄く儲かるけど、飢饉になると破滅的な影響がでてしまう。
>典型的なギャンブル農業でね。

>「春頃には麦の作柄が例年になく良いと予想され、農民たちは喜んでいたが、
>雨続きのため麦の刈り取り期にはまったく結実がなかった」といいます。
>「稲、大豆、ヒエなどは作柄が良いと見込まれ、経験豊かな老農たちも秋の豊作は間違いないと予測した。
>しかし異常な天候不順で、七月下旬になっても穂は出ず、わずかに出た穂には実が入っていなかった」とあります。
>「八月十三日夜の厳しい寒気で霜が降り、大豆、粟、ヒエ、そば等は全て【穂なし】となり、               
>前例のない大凶作となった」と続きます。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

と、粟、稗すら生産量のない大凶作と投稿の中にある。

中川隆氏は、持論(タイトル)に都合の良い内容のサイトを見つけたと思い、
先に結論を書いた上で、中身をロクに見ずコピペしたものだから、これに気付かなかったのだろう。

おそらく、場所が場所であれば、中川隆氏の先祖の相模農民も「粟、ヒエ、そば等は全て【穂なし】」の
大飢饉状況に陥っていたのだろう。
何のことはない。中川隆氏の先祖は、ただただ単に運が良かっただけなのだ。

換金作物を作らせると餓死者が続出するというのは、一見真理に見えるが、
白河藩も米沢藩も結局のところは、金で米を買って凌いでいる。

天明の大飢饉が基本人災なのは間違いないが、換金作物(米)を作らせると餓死者が続出するという
中川隆氏の投稿は、天明の大飢饉においては、完全に誤りだと言える。


08. 中川隆 2010年10月11日 09:52:14: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

私はモノカルチャーが飢饉の原因だと言っただけですけどね:


東北地方では冷害・飢饉が多いことが知られていますが、南部八戸藩に限定して詳細に調べた例がありますので覗いてみましょう。

記録が残っている西暦742年(天平14年)の凶作以来、平成15年の作柄指数53の冷害までなんと139回にも及んでいます(記録が抜けている360年間があります)。

寒冷・降雪早く凶作(742年)霜、五穀熟せず、米価騰貴せり、疫疾ありて死亡数大(762)などとあります。数年おきの凶作も多いので苦労がしのばれます。

 江戸時代には三大(享保、天明、天保の飢饉)または四大飢饉(さらに寛永の飢饉を加える)、その後も明治2、17、30、35, 38年、大正2年、昭和6、9年と凶作が繰り返されてきました。

凶作というと、冷夏が原因と考えがちですが、享保の飢饉はイナゴの大発生によるものです。
http://anshin.co.jp/affiliated/kona09.html


八戸市は昔、南部藩(盛岡市が本家)の中で二万石の八戸藩と言われていた時代から冷害の影響により、米がまったく獲れなかった年には、

ジャガイモや大豆・小麦を主食にして、ひえあわ・きびなどの雑穀を多く入れて食べ、飢えをしのいできた

と言う歴史を何度となく繰り返し、経験をしてきています。 
http://www.kokunokura.co.jp/company.htm

要するに、冷害は定期的に繰り返されるものなので、東北の農民は粟・稗に限らず色々なものを少しづつ栽培して自衛していたのです。

それが金に目が眩んだ南部藩が強制的に大豆や米栽培へ転換させたのが飢饉の原因なのですね。


朝鮮の場合も全く同じですね。


_________

単一作物(モノカルチャー)は、何よりも気候変動(冷害など)や病虫害が起きるとひとたまりもない。

大面積が同じ性質の画一的な世界だから、全滅の危機が極端に高くなる。


 18世紀から19世紀にかけて、不毛の地といわれたアイルランドでジャガイモ生産が成功し、ジャガイモが主食となり人口も増加した。

しかし、ひとたび疫病の発生でジャガイモが全滅すると、ジャガイモだけに頼っていたアイルランド国民の約10%、100万人以上が餓死し、200万人が国外に移住せざるを得なくなった。

世にいう「アイルランドジャガイモ飢饉」だ。

この時に米国に渡った多くのアイルランド出身者の中には、後に大統領などを輩出したケネディ家も含まれていた。

 「アイルランドジャガイモ飢饉」のように、単一作物が全滅を引き起こすことは教訓となっているはずだが、現在の日本を含めて多くの国では売れる品種、金がもうかる品種のモノカルチャーだ。
http://staka-kyoeiac.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300529218-1

飢饉とは、ある地域の死亡率が急上昇するような食料不足をさしますが、その原因は自然現象だけでなく人為的な要因も多いのです。

自然災害の例を見ると、火山、地震、台風、長雨、日照り、霜や雹、虫害、植物病害、疫病による食糧生産者減、食料自給率の低下などです。

一方、人為的な要因として、戦争(内戦を含む)、商工・農業政策の失敗、内政や経済混乱、物資輸送の阻害、投機・売り惜しみ・醸造などへの転用など利潤追求を目的とした経済活動などがあります。

貧困国が多少豊かになると牛肉を食べるようになり、飼料に穀物を取られ周辺で飢饉が起こるのがその例です。


どのような原因で、どのようになったかを、詳細がわかりやすい仙台藩で見ましょう。


 仙台藩では、宝暦の飢饉(1755〜56年)、天明の飢饉(1783〜84年)、天保の飢饉(1836〜37年)と3回の大きな飢饉に襲われていますが、今から230年ほど前の天明の飢饉はとりわけひどく、飢えのどん底に人々を突き落とす、最悪の悲惨な事態となりました。

天明の飢饉での状況を見ましょう。


 天明3年(1783年)10月から餓死者が出始め、翌年2月までに領内で14〜15万人となりました。

さらに、暖かくなり始めた3月から流行病(疫病)がはやりだし、餓死・疫死合わせて30万人ほどが死んだのではといわれています。

もちろん、正確な数字はわかりませんが、宝暦・天明と二度の飢饉前後で、藩総人口が81万8千人から59万6千人と減っていますから、27.1%の人が亡くなったことになります。


 天明3年の気候を見ましょう。

3月14日に吹雪となる異常さで、5月からは長雨となり、6月には仙台市内を流れる広瀬川の橋がすべて流されるほどの洪水がありました。

6、7、9月には噴火した浅間山の降灰までありました。6月になっても暑さがなく、だんだんと冷気が強くなり、7月はじめでも袷に綿入れを着るほどでした。

蝉も鳴かなかったようです。

さらに、8月18日には嵐となり、追い討ちをかけられました。

各地の作柄が皆無になった報告、記録が残っています。

このように凶作の原因は寒冷・雨続きだったのです。


 寒冷・長雨をもたらす気候として「ヤマセ」(太平洋側から吹き付ける東風)が知られています。

天明3年夏以降にどんな社会変化が藩内で見られたのでしょう。

仙台城下中心地の安倍米屋の屋敷が押しかけた住民によって打ち壊されました(9月19日)。

同年の7月までは一分(一両の1/4)で米4斗(1俵)だったのが、8月18日には2斗2升、9月には1斗6升と値上がりし、しかも米が出まわらなくなったのですから、住民の恨みの的になったのです。


 もちろん、藩も手を打っていたのです。

濁酒の製造禁止、納豆、もやしの製造禁止、麹の製造量半減、8月以降は新酒製造禁止、麹、豆腐の一切禁止などのほか、手持ちの米を安価で放出することもしました。

しかし、当然全員にいきわたるものでもないので、不満が募り前記の打ちこわしにつながったのです。

 確かに天明3年は冷夏で作柄が大不良になったのですが、この一年の不作だけで大飢饉にまで広がるとは少々考えにくいのです。

ほかの要因も絡んでいるはずです。

市場経済が徐々に確立し始めたのも関係しているようです。

 天明の飢饉以前にも前記のように大不作や飢饉はありました。

ところが、餓死者は少なかったのです。

藩の蔵には籾・麦が蓄えられ、江戸に出荷する米の量も少なかったから、各地の百姓の備蓄も多かったのです。

 ところが、江戸では米は高く売れ、しかも藩の収入にもつながるとわかると、その量が次第に増えて10倍以上となり、強制的に割り付けられるようになったのです。しかも、新米時期の買い付けから、より高く売れる米のない時期である5〜7月に買い付けが行われるようになってしまいました。

 平均すると年間20万石ほどの米が江戸に送られ、江戸の食卓を支えていました。

享保の飢饉の折には国許で2石4斗を一両で買い付け、江戸では5斗一両で売ったのですから総額50万両のもうけだったそうです。

こんなのは特例ですが、米を売って利潤をあげるという商行為が成立したのです。


 江戸中期には各藩での新田開発で米あまりの状態でしたから、米相場は低迷を続けていました。

そうなると、藩財政への負担は大きくなり、借金が増えてきます。

ますます大量の米を売って利子補填などにもあてなければならなくなり、農民への負担は大きくなります。


 前年の天明2年は全国的に不作でしたから、米価は高値傾向でした。

財政建て直しのチャンスとばかり、年末から積極的に大量に送り出したのですが、5,6月以降の悪天候で状況は一転しました。

一部の米問屋にはこれに便乗したのもいるでしょうから、米価高騰とあいまって打ち壊しの対象になったのです。


 9月20日から一人に一升ずつ売り出されましたが、25日には底をつき、すべての商いはなくなり、奉公人は暇を出され世間は静まり返った状態です。

町人だけでなく、武士も藩からの支給米が1/100程度に減らされました。


 10月には新米が売り出されましたが、さらに高価となったので買えません。

城下には物貰い、捨て子が増えます。

町内への捨て子は町内で育てるようお触れが出されていたので大変です。

町内は空き家だらけで、妻子を捨てて家出する人も多く、礼も法も乱れに乱れました。

年を越しても事態は悪化の一途で、盗人が多くなる一方でした。

 藩の対策は後手後手に回り、しかも中途半端なものばかりでした。

町の米商人が山形、秋田の米を買い付けたいといったときは認めず、その後あわてて役人を派遣したときは米価が高騰した後で買い付けすらできなかった事実があります。

多少でも、他藩の米が入っていれば状態も変わっていたかもしれません。

藩の米放出でもその場しのぎですから、庶民から恨まれるのは出先機関の役人だけです。


 飢饉には疫病が付きもので、天明4年3月から流行し始め、4月になるといっそうひどく、人が尽きるのではと人々は嘆いていました。

チフス系の熱病や、下痢のひどい痢病が主で、やっと厳冬を乗り切った体力の衰えた人たちには致命的です。武士も大勢死んでいます。


 さらに、これに追い討ちをかけたのが藩の失政です。

幕府が発行した金貨、すなわち正金を藩内では使わせないという策で、藩内の正金すべてを藩が吸い上げると決めたことです。

藩は独自の銀札と鋳銭(仙台通宝)を発行したのですが、銀札の正金相場を決めなかったものですから、信用のない銀札の価格はどんどん下がる一方です。

こんな信用の落ちていく銀札をつかまされた武士や商人はたまったものではありません。

物流がとまるのはもちろんです。

飢饉での被害を大きくした要因の三番目に挙げられています。

まさに人災です。さすがに藩も失政を認め正金の流通を復活させました。

 天明4年秋の収穫は平年どおりでしたので、飢饉は終結しましたが、藩の受けた痛手は想像を超えたものでした
http://anshin.co.jp/affiliated/kona09.html


まあ、アホの日本人には植民地統治は無理だという事ですね。


09. 2010年10月11日 10:47:01: JZYIuodkgg
>私はモノカルチャーが飢饉の原因だと言っただけですけどね:

>それが金に目が眩んだ南部藩が強制的に大豆や米栽培へ転換させたのが飢饉の原因なのですね。
>朝鮮の場合も全く同じですね。
>単一作物(モノカルチャー)は、何よりも気候変動(冷害など)や
>病虫害が起きるとひとたまりもない。

で、単一作物で農業やっていたわけでもないとわかるのがこの記載
>>。ヨ八月十三日夜の厳しい寒気で霜が降り、大豆、粟、ヒエ、そば等は全て【穂なし】となり、               
>>前例のない大凶作となった」と続きます。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
自分のコメの元ネタくらいは、ちゃんと読め。
粟、稗も取れないのに「粟、稗を植えてなかったので餓死者が多かった」という愚かなコメして悦に入るな。

あ、ついでに日帝時代の朝鮮での餓死者は少ないようですな。


10. 2010年10月11日 10:51:13: JZYIuodkgg
自分で書いたの持ってきた。

●日帝時代の凄まじい飢餓状況 
※人口百万人当たりなので20倍位にしないといけないことに注意
餓死者と強盗件数(人口百万人当たり)
=======餓死者数 強盗件数
1911〜15、 31、 172
1916〜20、 23、 101
1921〜25、 14、 131
1926〜30、 25、 90
1931〜35、 20、 51
1936〜40、 13、 26
1941〜42、  7、 15
植民地朝鮮の研究  杉本幹夫著 展転社 p76より
杉本氏は朝鮮総督府統計年報より作成
餓死者データー1911、1912、1923年欠

5年分なのか平均なのか不明だか、これは凄い人数だ。。
朝鮮総督府のデータはあてにならないかも知れないので
04がとった手法で日帝朝鮮時代を割り増ししてみよう。
1920年・・・・・422人
1925年・・・・・272人(但し1923年次データ抜け)
1930年・・・・・276人
1935年・・・・・160人

餓死者が少ない=飢餓状態ではないとは言えないが、少なくとも
ギリギリのラインを割ることは少なかったのではないかと推測される。
なお、スターリン支配時代に人口が2倍になったと記載しているようですが、
スターリン時代の餓死者数は1932年〜33年だけで500万人前後とも言われています。
朝鮮と比較するための人口割でも数十万人規模の餓死者です。
百万人単位で考えると2万5千人位ですね←この部分訂正


11. 中川隆 2010年10月11日 17:26:55: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

 (で、単一作物で農業やっていたわけでもないとわかるのがこの記載)


水が無かったり山地で水田にできない所には雑穀を栽培していたというだけの事で本質とは関係ないですね。

______________

ヒエは水田耕作によってイネの作れない丘陵地の農村や山村で米食にかわる主食用穀類として重要な役割をもっていた。

江戸時代には水田といえば稲田か稗田かといったぐらいでとくに中部高地や東北の検地帳にはよくでてくるものだったらしい。

ヒエには育成した苗を本田に移植した田ビエと畑に種をまく畑ビエがある。

畑ビエが1反あたり2〜3.2石採れるのに対し,前者は畑ビエの3倍の収量があるという。

また収穫はいずれも根刈りでおこなう。

精白すると籾の量の1/3に減少するため,そのままつく「白ぼし」と殻のまま蒸して精白する「黒蒸し」がある。

白ぼしは粘り気があってうまいが黒蒸しは味がおちる半面,貯蔵が効くという。

ヒエの稈は栄養価にとみ牛馬の粗飼料として利用される〔市川 1987〕。

シコクビエは臼でついて精白後,粉に挽き熱湯で練って食べる。

ハトムギは粒粥やパンとして食用にする。

アワはコメとまぜて炊いて食べる粒状食である。

したがって粉食にするのはソバ,シコクビエ,粒状食はアワ,ヒエ,ハトムギとなる。http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/seigyo/jomon.html

ヒエは畑でも水田でも栽培が可能である。

特に気候が冷涼で稲の栽培に適さない岩手県の山間部で主食用として大々的に栽培されていた。

下北半島では、明治の中ごろまで水田には稲を植えず、ヒエを栽培していた。

ヒエは飢饉の際の非常食として高く評価されており、二宮尊徳が農民達の反対を押し切ってヒエの栽培を奨励したおかげで、天保の大飢饉の際に多くの農民が救われたと言われている。
これは、冷害に強く、安定した生産量を確保することが容易だった反面、社会的な評価が低く、外への売却が困難だったために、結果的に、一番貯蔵に回しやすい作物だったからであると言われている。
その一方、伝統的な主食穀物の中では最も卑しめられていた側面もあり、食味の悪い貧しい者の食べる穀物とされることも多かった。
これは、米の調理法の影響を受けた炊飯調理が粘り気のないヒエの調理法としては必ずしも適していなかったこと、冷害に強く安定した生産量を確保することが容易だった半面、米などに比べて生産性は必ずしも高くなかったこと、穎果の構造から脱稃・精白に重労働を要したことなどが要因として挙げられる。
http://blogs.yahoo.co.jp/takayuka0091/60284086.html

ブナ林帯における農耕文化複合(市川 健夫)
  日本における五穀は、米、麦、豆(ダイズ)、アワ、キビを指すが、これは照葉樹林帯におけるものと考えてよい。
  伝統的なブナ林帯農業が営まれていた北上山地では、ヒエ、アワ、キビ、ダイズ、ダイコンであった。
  照葉樹林帯の五穀は豆を除くと、米、麦、アワ、キビで、いずれもイネ科の作物で、主食である米を補うための代替作物である。

  ヒエ
 東日本のブナ林帯においては、ヒエが極めて重要な作物になっていた。
 ヒエには田ビエと畑ビエの二種があって、水田、畑の双方に栽培することができ、何よりも冷害に強い穀物であった。
  ヤマセの卓越する下北半島、北上山地などでは、明治中期に至るまで水田農業ではヒエが主体であった。
  稲田に対する稗田で、苗間で育成したヒエが田植えされ、また収穫は根狩りであった。
  アワ、キビなどの他の雑穀が直播きされ、穂刈りされていたのに対し、生産力が高いことを示している。収量も多く、その上栄養価に富むことから牛馬の飼育料としての価値が大きかった。
  最もヒエ作の卓越していた北上山地では、田ビエより畑ビエの作付けが多かった。
  食料としてのヒエは、米はもとよりアワ、キビなどの雑穀よりも味が劣り、その上、つき減りが多く、精殻する30%程度しか残らないなどの欠点を持っている。しかし、長年貯蔵することができた。
  飢饉に襲われやすいブナ林帯においては、貯蔵性の点では優れた穀物であったといえよう。
http://tonko.photo-web.cc/bunarintokodaisi/bunatai/itikawa/2/noukoubunka.html


___________
___________


東北の飢饉の原因はあくまでこういう事:


餓死というか、江戸の後半になると商品作物や殖産産業のほうに力を入れてコメを作らなくなった
農村が多く飢饉がくればそういう蓄えもないから、餓死者が続出するということになる。


江戸時代の後半くらいになるとコメ作るより、商品作物や養蚕といった殖産をしたほうが収入がいいと農民がそちらを本業にしてその収入でコメ買って年貢にするというスタイルが出来てた。

だから飢饉になれば食うものは当然ないし物価も上がるわけだ
http://mimizun.com/log/2ch/newsplus/1192586179/

岩手・北上山系は冷涼なところだ。雨は少なく、夏はすずしく、冬の降雪も少ない。空気はいつも乾燥していて、気温の低下は半端なものではない。

 住民たちはここで雑穀を栽培していた。ソバ・ヒエ・アワ・キビなどは、冷涼な気候でも育ち、栄養価も高い。

また雑穀の藁は、牛馬の良質なエサでもあり、南部駒に伝えらえれる岩手産の馬は、これを原動力に生産されていた。

 そこへ、鎌倉政権の意を受けた南部の殿様がやってきて、稲作を強要した。

 北上山地の山を切り開き、田をつくって、イネを植えさせたのである。

 それが、つごう300年間もつづいた悲劇の始まりであった。

凶作による飢饉の続発である。

 餓死・人肉食い・間引き・娘売りetc…

 天明の大飢饉では、南部藩にて4万人以上が餓死したと伝えられる。越境して秋田藩に逃れてきた人もいた。それらのほとんども野垂れ死にしたという記録が残っている。

 ヤマセに知られる海からの冷たい風が、イネをことごとく灰燼と変えた結果である。

そのような風土を無視し、幕府の意ばかり住民に押し付け、膨大な餓死者を出した張本人、それが「南部の殿様」なのである。

 当然、一揆が頻発した。幕藩体制をゆるがした三閉伊一揆はその代表であるが、自らの命と生活を守るために蝦夷の後裔は立ち上がった。幕府も藩主も住民の要求を受け入れざるをえなかったが、そこへ至るまで、どれだけの蝦夷たちが、食べ物を求め力尽き息絶えたことか。
http://d.hatena.ne.jp/binzui/20090119


八戸地域では、当時の新ビジネスであった関東・野田のしょうゆ産業の原材料供給地として大豆栽培を藩が総力を挙げて取り組んでいました。

そのために農民の主食であった、ヒエなどの生産耕地を焼き畑して、大豆畑に変えたのです。

そのことは藩の産業振興として理解できるし、こんにちの、たとえば夕張などの観光産業振興などとも類推できる。

しかし、写真のイラストは、そういうプロセスの破綻の様子を描いていますが、

1 野山を焼き払って大豆畑にする。
2 畑は、2,3年で次の畑に移動していく。
3 残された、もと畑に残った根茎を掘り起こして食べて餌にしてイノシシが大発生した。
4 数が増えたイノシシは、こんどは作物が実った畑を根こそぎ、食い荒らして農民たちに大被害をもたらした・・・。
というような非常に明確な、自然生態系の破壊が人為的に作り出されていったようなのです。

こういう社会経済的な矛盾が、冷涼な気候によって、より増幅されて日常的に飢饉が発生するシステムが形作られていたのです。

しかし、コメに依存できない八戸藩の農業生産はその1/4が大豆の収益になっていた、ということで、藩の権力は農民たちに、それでも強制的に大豆生産をやらせていたのだそうです。

逆に言えば、こういう災禍のうえに野田のしょうゆという新産業は成立していた、といえます。
http://npo.house110.com/blog/archives/2007/01/28-week/

人口増加ってのがあるけど、あれは豊かになったから人口が増加するのではなく、貧しいからこそ人口が増加するんだよな。
 人口爆発を起こしている国々をみてみると、かつて先進国の植民地となり、なかば強制的に換金作物(お金に換えるための作物。例えばコーヒー、紅茶、ゴムなど)を栽培させられた経験のある国々だということがわかります。
この換金作物こそが人口爆発の原因を探る大きな鍵となります。

 かつてこれらの国々が自給自足を行っていた頃は、貧しいながらも人口は安定していました。
食糧の供給量以上に人口は増えることができなかったからです。
しかし先進国の登場によって換金作物の栽培が始まると、換金作物を売ることで一時的には食料の供給が増えて人口が増加します。
人口が増えた結果、再び食料が不足しますから、作物の収穫量を上げるためにさらに無理な生産をします。
けれどもそのために地力が落ち、次第に人口を養うだけの作物が収穫できなくなり、不自然な人口爆発だけが残されるのです。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001

津軽藩の飢饉も

1,寒冷地なのに、換金性が高い米作りに専念し過ぎ。

2,連年の豊作を信じて、高騰していた貯蔵米まで春に売り払う。

などと、無茶なギャンブル経営が主因であった。


江戸時代の東北ではすでに、食味最優先の稲作が行われている。

伊達政宗が既に当時食味最高品質の品種の稲作を奨励し、その「高級米」で江戸の市場を制したという話が残っているくらいだ。

米が広まったのは、単位面積当たりの生産性が、在来の穀物のなかではぶっちぎりで高かったから。

生産性が稲より高い穀物はトウモロコシしかない。

だが、困ったことに、稲は低温に弱い。東北の太平洋側の場合、ほぼ定期的にやませが吹き続ける夏が来るので、こういう年は収量は最悪ゼロになる。

人口は、すでに暑夏年平均の収量に近いレベルまで増えてしまっているから、やませが吹くたびに大飢饉になる。


盛岡藩は地勢的に冷害多発地帯であり、換金作物の米づくりにこだわり、フレキシブルな対応が出来なかった。

生命力の強い雑穀や芋も植えて、貯蔵食糧は売るべきではなかった。

まあ、商品経済に巻き込まれ始めた農村の悲劇なんだが。


宮城岩手青森の太平洋側の場合、もしコメ単作なら平均数年毎に凶作が来る。

気温の記録が正確に残る明治中期から戦前までの凶作は平均するとそのペースとなる。

数年連続で地獄の冷夏のこともあれば、かなり長い間毎年高温のこともあるが。

そして、19世紀末から20世紀は地球全体が比較的温暖な時期。

18世紀から19世紀初頭はもっと厳しかったことは確実だ。

ただ、農民は普通は自家用に稗などを作っているので数年毎に大飢饉が来ると言うことはさすがにない。


稗などは、稲よりも生産性は劣るが、冷害による収量変化は比較的少ない。

もともと稗だけは日本列島在来の植物と言われている。

中世以前には、基本的には稗が養える人口しかいなかった。

それで人口も生活水準も低位安定だった。

ところが、太閤検地後、土地評価のコメ一元制度と近世大名(特に伊達氏)の稲作傾斜政策により、
従来の稗田にも稲作が普及した。

稲は生産性が極めて高いので、豊作の年は沢山の人口を養える。

また、アジア式の稲作は労働集約的なので人手が必要だ。

それでそれにあわせて人口は増加した。

(ちなみに、この時期の農民は安定性を犠牲にしても生産性を至上のものとしたらしいことは、稲より生産性が劣るが、稗などよりは優れている麦の栽培さえ忌避していたことからも伺える)

だが、ひとたび凶作になると強烈な飢餓となる。

人口は低位安定から、比較的高位で強烈な増減を繰り返すようになる。

______________

飢饉の場合の餓死者は、栄養失調よりも、食料不足の状態で普段は食用にしないものを食した結果による中毒死のほうが多かった。


米沢藩九代目藩主・上杉鷹山は凶作に備え、藩医に山菜の食べ方などを調べるように命じ、1802年その研究を具体的に述べた「かてもの」を刊行し、農民・町民に配りました。

そしておよそ30年後に起った天保の飢饉では全国で大勢の餓死者が出たにも拘らず、米沢藩では「かてもの」に書かれた山菜のおかげで、餓死者の数が非常に少なくてすんだといいます。
http://w3.bs-tbs.co.jp/food/history/bn0504.html

稗科植物は東アジア圏に跨っている

どちらもそのままでは食べられず加工行程を経ないと食中毒を起こして死ぬ
(毒抜きや精白が不十分だとかなり危険なのだ)

稗や団栗は江戸時代の農民には、それを食べる技術が不足していた。

飢饉というと餓死を連想するが江戸期は、かなりの割合が(米が不足するので普段食べないものを食べて)食中毒だったと東北諸藩の記録に書かれていることが多い。

江戸後期になると農業書や復興請負などの技術を導入して雑穀を含めて余剰保存に藩が取り込んでいるので状況は改善される。

実際荒村復興で雑穀の食し方や義倉、余剰蓄積の推奨などのノウハウが伝わると飢饉の被害者が激減する。

逃散や流民化による弊害は、農村荒廃だけでなく生活情報の散逸、消失に繋がっていたのだ。


http://www.unkar.org/read/kamome.2ch.net/history/1152335390


12. 2010年10月11日 23:55:34: dWjEmQkpUA
>水が無かったり山地で水田にできない所には雑穀を栽培していたというだけの事で
>本質とは関係ないですね。

へぇ〜天候不順で栽培していた粟、稗などの雑穀すら実らないという凶作で
飢饉になったのに、場所が悪かったから、場所が狭かったから実らなかったとは
斬新すぎる迷解釈ですね(笑)
あ、天候不順で凶作だったということは、中川隆というコピペ馬鹿のコメの中に
存在しますので、読んでみてくださいね。
・・・・・猪が粟や稗を荒らさないとでも思ってるんだろうか、このコピペ馬鹿は。

しかし、すっかり朝鮮の飢餓のことは語らなくなったな、中川隆w


13. 中川隆 2010年10月12日 08:34:57: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

本当にアホだね。

いくら冷害でも作物が全滅する事はないよ。

換金作物を作るまでは東北でも餓死者は殆ど居なかった。

朝鮮でも日本の統治前は誰も食べるのに困っていなかった。


14. 2010年10月12日 20:28:32: 5CzVm1bV6c
>いくら冷害でも作物が全滅する事はないよ。
『大豆、粟、ヒエ、そば等は全て【穂なし】』
なるほど、全て穂なしは全滅とは言わないと。
いや、ま、いいけどね。穂なしで、大豆、粟、ヒエ、ソバ等に主食として食える部位があるなら。

>換金作物を作るまでは東北でも餓死者は殆ど居なかった。
江戸時代でも中期以降は日本じゃ、米は換金作物じゃねーっての。
基本ダブついてたから武士の生活は苦しかった。

朝鮮併合以降、朝鮮総督府が朝鮮農民の生活のために、非常時以外は全く不要で
あった日本に、毎年米を強制大量輸入させたため、内地米の価格は暴落、
価格の下がった米のせいで東北では身売り騒動が起きた。
19世紀以降の米=換金作物は、あくまで朝鮮でのみ通じる設定。

>朝鮮でも日本の統治前は誰も食べるのに困っていなかった。
________________________________________________________________________
「朝鮮」 金達寿 1958年 岩波新書
農村の荒廃はひどく、農民は流民となってさまよい、そのうえ旱害・水害・悪疫
等々もまた相次いでこの国を襲った。顕宗の時の大飢饉(1671)は飢えと疫病とに
よって死んだものは、前二者(秀吉軍・満州軍)との戦争による死亡者よりも多
く、飢民は墓を暴いて死体の衣をはぎとり、親は子を捨てて道端に行き倒れた。ま
た、この飢民は変じて火賊といわれる群盗となるものもあるという状態であった。
こういう災害は李朝の復興期であった英祖の時代にもおこり、その25年間に疫病に
よる死者5〜60万を数えたといわれ、1812年には飢民の数は平安道90万、黄海道52
万、江原道12万、慶尚道92万、忠清道18万、全羅道69万にのぼった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
__________________________________________________________________________
「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
朝鮮では、飢饉が頻繁にみられる。最も貧しい階級の人びとにとって、それは年に
2度、定期的に訪れる。まず、大麦の収穫を待つあいだの春窮期の6、7月、次い
で粟類の取り入れ前の9、10月である。金銭は、法外な利子付きでしか借りられ
ず、わずかばかりの貯えも使い果たした不幸な人びとは、米やその他の穀物を買う
ことすらできない。彼らに残された生きる糧といえば、ただ塩水で煮つめたわずか
ばかりの草木である
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
_________________________________________________________________________

「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
"生き地獄"を生きた李朝朝鮮の農民たち
フランス人宣教師のシャルル・ダレは、当時の朝鮮王国のがんこな鎖国政策について、こう書いている。
「1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲 い、国土は荒廃し
た。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかに は、娘を中国人の密航業者に1人当た
り米1升で売るものもい た。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何
人か の朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、 「どこの道にも
死体が転がっている」と訴えた。  しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国
や日本からの 食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを 放置
しておく道を選んだ」(朝鮮事情・平凡社東洋文庫) 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「済州島の永遠なる母」、「犠牲と奉仕の済州島の母」。その生涯、一度も子を産
むことがなかった金萬徳(1739〜1812)を、今も済州島の人々はこう呼ぶ。

 そんな折、1792年から95年の間、済州島は度重なる飢饉に襲われ、台風の被
害まで受け、朝廷からの救済米を積んだ船が沈没するや、全島民が餓死の危機に瀕
することになる。
 実際、餓死者は全島民6万人中2万人にも及び、済州島において未曾有の大惨事
だったという。そのとき金萬徳は、自身の全財産を処分し、内陸から5百石の米を
買い島民に捧げたのである。当時の済州島の高額寄付の記録によると、ある官僚が
3百石、将校や儒学者が100石とあるので、萬徳の寄付は並大抵のものではなか
ったことがうかがい知れる。
(趙允、朝鮮古典文学研究者)[朝鮮新報 2004.8.13]

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ワー、ホント、ダレモ、タベモノニ、コマッテナカッタヨウダネw


15. 中川隆 2010年10月12日 21:57:11: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

どちらにしろ結論は変わらない。

朝鮮で飢餓が起きるのは毎年決まった時期だから、みんなそれを計算に入れて生活していたのさ:


朝鮮では三月から六月までは食糧が不足する春窮期である。

春窮期を迎えると、朝鮮人は朝鮮総人口の約六割が山野で草根樹皮を採集して
食べる習慣であった。
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


朝鮮には春窮という言葉があるようです。秋に収穫した米、トウモロコシ、芋などの食物を冬のうちに食べつくし、春になると餓死者が出るようです。中世の言葉と思いきや、北朝鮮では今でも現実のようです。

 どこの国でも収穫の季節はあるものです。逆にまったく収穫の期待できない土地なんて、人はほとんどすんでいません。収穫があるということは年中飢えているわけではなく、収穫があって数ヶ月は食料があり、それを食べつくしたころに飢餓が起きるのが通例ではないでしょうか?
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3998244.html

要するに、戦争や伝染病や特別な事態が起きない限りは春窮位はなんとか凌げるので、それ程は困らなかった。

それから、李朝末期は森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に押さえられたので、そういう特別な事態が起きていた時代でもあった:

1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

しかし、それらの中でも特に困まった事態が日本の朝鮮統治だった訳で、それで朝鮮人は日本の統治時代には春窮を越せなくなった:


日本の施策によって農民が収奪された日本の朝鮮統治時代


当時の大半の農家は小作農です。

つまり販売する以前に小作料を取られます。

で、日本の統治時代の朝鮮では小作料で生産量の5割を取ることがまかり通っていたそうです。

そして手元の半分の米のうちいくらかを売り、それで来期の籾を買う。残った米ではとうてい生きていけないので、春窮となる、故郷を捨て流浪するという例がいくらでもあります。


朝鮮半島全体の春窮農家戸数については1930年、朝鮮総督府編「朝鮮の小作慣行」(1932)によると、

自作農   92(18.4)
自小作農 323(37.5)
小作農  838(68.1) 千戸(全体の割合)

で全体の48%以上が春窮だそうです。

日本の統治時代はまともな治世では無いですね。


次に、では小作農以外はどうだったかと言いますと、次の情報をご覧ください。

農民の戸数とその層の割合を示したものです。値は%です。

全体で100%にならないのは兼業農家がいたためです。

また、地主1は自分で小作を行わない地主、2は一部を自作する地主です。

自小作農は、自作と小作の兼業をしている農家です。

年  農家戸数 地主1 地主2 自作農 自小作 小作農 火田民
1918 2,652,484  0.6  2.5  19.7  39.4  37.8
1920 2,720,819  0.6  2.8  19.4  37.4  39.8
1922 2,712,465  0.6  3.1  19.7  35.8  40.8
1924 2,704,272  0.7  3.1  19.4  34.6  42.2
1926 2,753,497  0.8  3.1  19.1  32.4  43.3  1.3
1928 2,799,188  0.7  3.0  18.3  31.9  44.9  1.2
1930 2,869,957  0.7  2.9  17.6  31.0  46.5  1.3
1932 2,931,088  1.1  2.4  16.3  25.4  52.7  2.1


見てわかるとおり、自作、自小作が減り小作農が増加しています。

日本の統治時代の朝鮮では自分の土地を手放さざるを得ないほどの状況だったのがよくわかります。

さて、この人々は何が原因でそうなったのでしょうか? 

貴方が何度も示しているように米は十分に生産していたのですよね? 

なら豊かになるのではないでしょうか?


問題ない生産を行いながら貧しくなるとするなら、それは生産に対して正当な対価が支払われなかったことを意味します。当然ですね。


つまり

「当時の朝鮮の農家は日本の施策により米を収奪された」

というのを共通理解としてよろしいですね?

また、自小作農とありますが、終戦直後1945年の韓国のデータによると、

自小作農は716,000戸、そのうち耕地の50%以上を小作で行っている、

つまり実質的に小作に近い農家は378,000戸となっています。


完全自作農と自作の割合の方が多い自小作農は全体で3割程度。


当時の食料消費量の変遷について、単位は石(全体からの%)、

元データは朝鮮総督府農林局編「朝鮮米穀要覧」だそうです。

年平均  米      麦      粟     豆類    その他   合計
1915-18 0.70(35.6) 0.42(21.2) 0.28(14.4) 0.26(13.2) 0.31(15.7) 1.9766
1921-24 0.64(31.6) 0.42(20.6) 0.36(17.9) 0.26(12.9) 0.35(17.1) 2.0211
1926-29 0.51(28.1) 0.40(21.8) 0.37(20.2) 0.23(12.7) 0.31(17.2) 1.8163
1931-34 0.44(26.7) 0.42(25.2) 0.31(19.1) 0.21(12.5) 0.27(16.5) 1.6487


輸入していても消費量は見事に落ちていますね。

米の消費の割合が落ちている(それだけ貧しくなった)のも顕著です。


「日本の政策のもと、当時の朝鮮半島の農家は飢餓に苦しむほど困窮していた」で共通理解として良いですね?

参考資料:
朝鮮における産米増殖計画 河合和夫著
朝鮮食料品史 朴容九著


おまけ

穀物の輸入出

年,輸出(石),輸入(石),
1915-1919,3467857,387670,5年平均
1920-1924,5147524,1370072,5年平均
1925-1929,6284434,3649237,5年平均
1930-1936,11734219,2875314,7年平均
1937,8601017,2369537,
1938,12505611,1454957,
1939,8120099,2453789,
1940,1665637,3456780,
1941,4831000,1107000,
1942,7032000,786310,
1943,1576000,2048620,総督府資料に基づく
1944,4486000,1927166,朝鮮食料品史 朴容九著より

食品生産量
,米,麦,豆,小豆,粟,キビ
1919,12057,7270,3281,460,3816,538
1929,13702,7212,3990,810,5244,91
1939,14356,7570,2333,419,5029,89
1944,16052,7672,2696,605,3916,47


単位は千石 朝鮮食料品史 朴容九著より,,,,,,
http://www.han.org/hanboard/c-board.cgi?cmd=one;no=1586;id=



16. 2010年10月12日 22:28:22: fuQJgJ1mlw
>朝鮮で飢餓が起きるのは毎年決まった時期だから、
>みんなそれを計算に入れて生活していたのさ

食べ物に困っていたことは認めるんだw

朝鮮では数千人位の餓死者は計算のうちだから、数百人だけど計算できない餓死者を出す日帝時代は搾取なんだ。
こうですか?よくわかりません。


17. 2010年10月12日 22:43:16: fuQJgJ1mlw
>で全体の48%以上が春窮だそうです。
>日本の統治時代はまともな治世では無いですね。
それで餓死者も強盗件数も減るってすごいなw
同じところが出してても一方は信用しないという思考も凄いけどw

●日帝時代の凄まじい飢餓状況 
※人口百万人当たりなので20倍位にしないといけないことに注意
餓死者と強盗件数(人口百万人当たり)
=======餓死者数 強盗件数
1911〜15、 31、 172
1916〜20、 23、 101
1921〜25、 14、 131
1926〜30、 25、 90
1931〜35、 20、 51
1936〜40、 13、 26
1941〜42、  7、 15
植民地朝鮮の研究  杉本幹夫著 展転社 p76より
杉本氏は朝鮮総督府統計年報より作成
餓死者データー1911、1912、1923年


18. 中川隆 2010年10月13日 10:27:37: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q
(朝鮮では数千人位の餓死者は計算のうちだから、数百人だけど計算できない餓死者を出す日帝時代は搾取なんだ。それで餓死者も強盗件数も減るってすごいなw)

大本営発表は信じない方がいいよ。


官報では1939年から1942年の4年間の合計で18,298人の人が餓死している。

家族が同行していて死亡した場合は官報には掲載されないから、実際の餓死者はこれより遥かに多い。

朝鮮総督府官報というのは死亡した人たちの内、身元の分からなかった人の引き取り手を捜す為のものだからね。


日本が統治してから食べる量が7・8割になったのに、餓死者が減る訳ないだろ。


これが真実:

 植民地下の朝鮮は8割以上を農民が占めていました。

日本の植民支配は軍と警察による力の統治でした。

日本人地主と朝鮮人地主の権力は日本より強固で多くの小作人を支配する農村の社会構造でした。

日本の支配下に年々自作農は少なくなり、小作農が増大しつづけたのが基調でした。

朝鮮農村社会は小作農が52%、これに火田民、農業労働者を入れると57%の人々が土地を全く持たない農民でした。

これに自小作農24%をプラスすると81%の人が小作をしたいたといいえます。

自作農は19%弱に過ぎませんでした。(1939年現在)

また、小作農といっても零細な農家が多かったのです。

朝鮮南部では人口が増加し零細農民が増加する要因になっていましたが、基本的には地主からの高小作料徴収などが農民を没落させていました。


総督府はこうした地主制を維持し、支配の基盤としていました。

農民の多くが食べることが出来ませんでした。

端境期には食べるものがなくなる人が多くなり、総督府はこれを「春窮民」といいました。

総督府は春窮が毎年の年中行事のようにあることを認めていました。

「草根木皮」を食べて暮らさなければならない農民が小作農の大半になっていました。

農民の多くは動物性のタンパク質は採ることが出来ずに、たまにミョルチ(日本のにぼし)を食べれれば良い方でした。

タンパク質はテンジャン(味噌)から得ていました。

こうした食の状況から起きた総督府支配下の朝鮮農村の社会現象を取り上げてみましょう。


その一つは子供の死亡率が著しく高くなっていたことです。                          

 高い乳幼児死亡率

 京城帝国大学医学部教授水島治夫の論文によれば朝鮮人の1歳から5歳までの死亡率は38%にも達していました。

日本人も低い方ではなく21%になっていますが朝鮮人は日本人の2倍弱になっています。

統計に出ない子供の死亡を含めて言えば40%の子供が生き残れなかったのです。

乳幼児の死亡率が高いために朝鮮人の平均寿命は37歳前後となっています。

日本人に較べると約10年の差があります。

栄養状態が悪く一番弱い子供達が多く死亡しました。

多くの死亡原因は食糧不足から来る栄養不良でした。

子供達だけでなく青年達の身長も年々低くなっていました。

特に下層農民の青年の体位の低下が大きかったのです。


子供の高い死亡率と青年たちの体位低下は総督府の政策下に起きていたことです。

窮迫する農家に救済政策がなかった、あるいは役立たなかったことを示しています。

典型的な事例を挙げておきましょう。


 朝鮮に於ける行路死亡人数

 行路死亡人は路傍、畑などで死亡し多人々をいいますが、ここで取り上げるのは

死亡した人たちの内、身元の分からなかった人を引き取り手を捜すために朝鮮総督府官報に掲載された場合に限って取り上げてみます。

官報に掲載された、公認された場合のみを取り上げていますから、実際に身元が分かり、あるいは引き取り手があった場合は官報に掲載されません。

したがって、実際の死亡者はもっと多かったと想定されます。

行路死亡人を取り上げるのは農村社会を象徴するような出来事だったからです。


 朝鮮農村では窮迫した小作農が小作地のみでは暮らしていけなくなり、他の小作地に追い出される人が多かったこと、自然災害などで小作地を失ったりしたこと、などの要因で土地を追われる人が多かったのです。

一部は満州に、一部は火田民として、あるいは都市の下層民として暮らすことになりましたが、落ち着くまでに食糧がなくなり、家族とも離れてしまうことも多かったのです。

農村から離村し、流浪することになります。

ついには路傍で死亡してしまう人も多かったのです。


行路死亡者数一覧  
       
年代 男 女 計 一日あたり死亡者数 行路病人死亡者数 計
1939 4039 669 4708 12.8 866 5574
1940 3863 662 4485 12.3 894 5379
1941 2708 514 3222 8.8 1913 5135
1942 5271 612 5883 16.1 680 6563

  15,881 2,417 18,298 12,5 4,353 22,651

※女性の数が少ない
         

 1939年は旱害があり、離村、流浪する農民が多く、死亡者も多くなっていますがこの4年間の合計で18,298人の人が死亡しています。

死因は餓死、栄養不良がもっとも多く凍死、病死と続きます。

1940年3月1日付けの朝鮮総督府官報には46人の死者が掲載されていますが24人が餓死と栄養不良、8人が凍死、6人が病死などと記録されています。

一日あたり20人以上が死亡している年もあります。

行路病人とは一応の救済施設があり収容されたが死亡した人を言いますが、これも行路死亡人として考えると実数は更に多く22,651人になります。

官報に搭載されていない人を含めれば更に多くなります。

家族が同行していて死亡した場合は官報には掲載されていませんから更に大きな犠牲者が存在したと考えられます。


日本人の行路死亡者数と比較すると官報掲載者のみでも朝鮮のそれは実に15倍(人口比)にもなるのです。

小作地を奪われたり、生活が出来なくなった農民たちは死を覚悟して流浪せざるを得なかったのです。

これが植民地統治の実体です。

 更に強制連行との関連で戦時下朝鮮農村の重要な問題を取り上げておきたいと思います。

朝鮮社会を深刻な状態に追い込んだ米の徹底的な供出政策です。

 農民から米を奪う

 日本と総督府は朝鮮の戦時体制下の要求として労働力と米の供出を求めていました。

戦時下の日本では米が主食でしたが特に軍の食糧は白米中心でした。

朝鮮では1939年に大旱害があり米の減産があり、40年は2100万石、41年は2400万石ほど収穫がありましたが、42年からは16百万石前後に落ち込んでしまいます。

42年から45年まで3年間は大凶作でした。

理由は天候も関係しましたが農村から男子労働力が動員されたこと、肥料不足等を揚げられますがなによりも米の供出が強化されたために起きたのです。


深刻な米不足のなかで1945年には200万石の日本への移出を実施しています。 

供出は愛国班(日本の隣組のような相互監視組織)に割り当てられ、愛国班長の家の庭で警官、面の職員、郡の督励員が立ち会って割当量を集めた。

これに従わない者は罰せられ、検挙されました。

割当量は多く、自家消費量を超えて供出しなければなりませんでした。

また、供出割当の定量に達しない者の家は家宅捜査が行われ、あらゆる所を検索し、発見すると容赦なく供出させた。

生産した物を消費できない農民が多くなりました。

たりない分は満州雑穀を配給しましたが大豆粕などで肥料用に農家に配給した物を代用したのです。


小作農民は農業をしても生産した作物を満足に食べられなくなったのです。

また、米の統制が厳しく自由に売買が出来ず、食糧不足を激しくしました。

米以外でも農民が自分で作った作物を消費できないような統制 が実施されたのです。

これに加えて供出米の代金から自動的に愛国貯金などが差し引かれ、物価は上昇し農民の困窮が一層進んだのです。

農民は農業で食えず、生産する気持ちも萎えてしまっていました。

農業より賃金を得る労働者になれば配給米を受け取れるので下層民ほど離農する人が増加しました。

農民が生産意欲をなくしたのが米の生産減少の最大の要因といえます。

そうした人を高賃金で家族に送金できると説明し、日本に大量に動員したのです。

日本への募集に応じたのはやむを得ないこうした理由が背景がありました。


 この他にも戦時下の朝鮮での暮らしはそれまでにはない困難な条件が多くありました。

例えば経済統制で綿花の作付け統制が実施され、全量供出となり、自家消費が出来なくなり高い衣料品を買わねばならず、白衣の実質的な禁止やもんぺの普及が進められました。

住宅不足も深刻になり暖房も「低温生活」が進められました。

 戦時下の朝鮮では基本産業の農業が疲弊し、統制が強められ暮らしが困難の度合いを深めていました。

 こうした朝鮮社会で賃金をくれて、食事も保障され、家にも送金できるなどというふれこみで募集が始まったのです。

朝鮮人にとって生死ををかけたような植民地支配が存在した中で募集に応じたのは自由意志と言うより、それ以外の道がない閉塞状況が朝鮮社会に存在したということです。

そのようにしたのは日本の植民地支配です。

そうした状況の中から労働者を連れて来るというのは「連行」そのものではないでしょうか。

「強制連行はなかった」論の虚構は植民地支配の悲惨ともいえる農民生活の実態を無視した議論です。

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data2/data2-2.html


19. 2010年10月13日 21:34:09: MgpANMRC3s
>大本営発表は信じない方がいいよ。

んじゃ、コピペ馬鹿の中川隆がもってきた数字、全部嘘じゃんw


さて、換金作物について一言、
朝鮮では元来、換金作物として薬用人参栽培が盛んであり
最近朝鮮事情要覧によると、
1902年13万8千斤
1903年10万斤
1904年には19万6千斤生産された。

ところが、薬用人参に病気が流行り、生産量が減ったにも関わらず
官民ともに無策で
1905年4万7千斤
1906年4万3千斤
1907年3万6千斤
1908年1万3千斤まで落ちたそうな

ところが日本が1908年に人参について政務を所管することになり、
人参栽培法の改善及び人参病撲滅に努めたところ
1909年8千斤
1910年3千斤を切ったものの
1912年には1万7千斤
1913年には3万6千斤
1914年には8万4千斤
1915年にはついに12万斤まで回復←ここまで最近朝鮮事情要覧に記載してある数。
その後は、太平洋戦争突入まで20万斤切ることはなかったそうだ。
(というか1920年以降1942年まで50万斤切ったのが1926年だけで、100万斤超が3年)

すげーな圧政だな、日帝w

あ、朝鮮人参は、収穫まで6〜7年かかるので、初年度とか数年が効果がなかったり低いのは当然なので。


20. 中川隆 2010年10月14日 10:17:04: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q
何故こんなアホかな(呆れ)。

日本人の地主が換金作物でいくら儲けても朝鮮人の手に金は入らないのさ。

朝鮮農民が食べられる量が日本統治前の7-8割になって飢え死にしたら、日本人がいくら朝鮮農業で儲けても意味ないだろ。


21. 2010年10月17日 00:32:43: TVUr0tsubg
純宗十一年三月、都に流浪の乞食が大挙押し寄せ四門の外で穴居する。
純宗十五年一月、流浪の乞食の多くが死亡したことから、これを埋める。
純宗三十三年三月、米騒動。
憲宗五年五月、都に流浪の乞食大挙押し寄せたことから、これを原籍に強制送還する。
憲宗八年十一月、牛泥棒が横行する。
高宗六年、六月に月蝕、七月に日蝕あり。王は救食の儀式を行う。
高宗二十一年十月、火賊横行。
高宗二十二年十二月、墓を堀り人骨を盗み金銭脅迫を行った賊を捉える。

コレラの流行は記載多すぎてて割愛。
なお基本、王族や政治の動向がメインである李朝実録の
概要目録からとったものであることから、王が目をむけなかった、
というかそむけた亊物の記載は少ない。


22. 2010年10月17日 11:51:29: hcpVGHEr9o
[最近朝鮮事情要覧]
(朝鮮米生産高)
明治42年7,457,916
明治43年8,142,852
明治44年10,070,312
大正 1年8,969,620
大正 2年10,003,284
大正 3年10,900,645
大正 4年12,159,084
大正 5年11,373,992

『朝鮮の人口、コピペ馬鹿、中川隆のコピペより
「1877年 1689万人(崔基鎬による韓国教科書からの引用)
 1906年  980万人(警察調査まま)
 1910年 1631万人(警察調査1313万人からの推計)
 1915年 1703万人(警察調査1596万人からの推計)」』

農務局法第15号より[米穀要覧]
(朝鮮より輸入)
明治42年-
明治43年114,262
明治44年368,942
大正 1年246,927
大正 2年294,406
大正 3年1,025,025
大正 4年1,872,142
大正 5年1,332,768
大正 6年1,195,172
大正 7年1,732,958
大正 8年2,757,683
大正 9年1,648,511

(台湾より輸入)
明治42年1,155,190
明治43年749,213
明治44年706,702
大正 1年652,577
大正 2年980,852
大正 3年812,447
大正 4年694,541
大正 5年800,767
大正 6年786,082
大正 7年1,139,055
大正 8年1,262,543
大正 9年663,120

内地生産高(前年実績なので1年ずれる)
明治42年51,933,893
明治43年52,437,662
明治44年46,633,376
大正 1年51,712,433
大正 2年50,222,509
大正 3年50,255,267
大正 4年57,006,541
大正 5年55,924,590
大正 6年58,442,386
大正 7年54,568,067
大正 8年54,699,087
大正 9年60,818,163

日本の人口
明治42年49,549,900
明治43年50,246,700
明治44年50,956,200
大正 1年51,679,300
大正 2年51,679,300
大正 3年52,415,300
大正 4年53,091,200
大正 5年54,176,500
大正 6年55,286,000
大正 7年55,860,000
大正 8年56,448,900
大正 9年60,818,163

日本は概ね内地米のみでも需要(0.9〜1石)を満たしていたことがわかる。
もちろん、おしんのように大根飯とかもあったので実際必要量はもっと低い。
明治以降の米騒動は概ね、米商人による軍需見込みの買占めが原因でもある。

逆に朝鮮は、コピペ馬鹿の人口推計(警察推計は嘘で1909年度1200万人いた)を
使うと、朝鮮の併合前の一人当たりの米消費量は0.62石となり、
元々が(コピペ馬鹿の言を借りるなら)飢餓状態であったということがわかる。


23. 2010年10月17日 12:08:04: MiKEdq2F3Q

その頃は冷害に強い高黍が常食だったんだろ。

朝鮮人が米を食べられる様になったのは戦争後だ。


24. 2010年10月17日 13:15:40: OB7QbIWsIQ
結局のところ、朝鮮って、まともに統計をとろうとしたことがないから、
李氏朝鮮=地上の楽園説が出てくるんだろうなぁ。
さすが、19世紀後半にもなって月食を止める儀式を行った国はダテでない。

実態は軍事力もたない現代北朝鮮みたいなもんだったんだろうなぁ。


25. 2010年10月17日 15:53:22: OB7QbIWsIQ
[支那朝鮮形勢録] 1894年によると
朝鮮の人口は概ね1500万人、
大別すると貴族、平民、奴隷からなる。
貴族は官吏となって、下民より賄賂をとり、家財を増やすことに汲々している。
下民は生業に励み産業を興したところで、直に貪欲な官吏にみつけられ
持っていかれることがわかっているため、
自然と生業に励む者はなくなり、一時の平穏を徒に楽しむようになっている。

[朝鮮農業概説] 1910年による、朝鮮米の日本への輸出量(石)
明治35年398,163
明治36年435,691
明治37年131,623
明治38年91,713
明治39年149,618
明治40年762,360
明治41年646,922
明治42年646,553

同書記載の
明治42年の朝鮮人人口概数12,484,621人(全く概数じゃないが)
※明治41年の朝鮮米生産高7,986,583石


26. 2010年10月23日 18:35:46: r4xXAygTwY
亜細亜諸国教育一斑:明治25年10月(1892年)

○朝鮮
・全面積は82,000平方英里(212,379平方q)
・人口は730万余あるいは1052万余あるいは、実地調査で2650万の数を得たとも云われ
 正確なところはわからない。
・重い過酷な税取立てに耐えられず、一家離散し人口は年々減少しているのが事実ということである。
・初等教育を行う組織がない。一般市民のための学校もない。
 私塾はあるがこれも少数の貴族的階級に多くの書籍を読み覚えさせるに過ぎない。
・ただし京城には、英語学校と日本語学校がある。
・またフランスやアメリカの宣教師が建てた学校などもあるが、通う生徒は非常に少ない。
・朝鮮政府も教育に力を入れるような気はなさそうである。
・よって朝鮮国民の知識は、将来的にも発達する望みはないのではないかと嘆くしかない。
・中国に倣い考試によって文武の才あるものを登用し、身分低いものでも秀才などの
 学位を授ける制度はあるが、これを得るのも今は賄賂による者がほとんどを占める。
・学問について唯一特筆すべきことがある、吏読と諺文の発明である。
・吏読とは、漢字を使って朝鮮音を表現する方法である。
・諺文は満州やインド、モンゴルなどの文字を折衷して作ったものである。
 あらゆる言葉を自由自在に記述でき、清濁アクセントもそのままに記載するには
 最適の文字である。


27. 2010年10月23日 22:59:37: r4xXAygTwY
【韓国出張復命書】明治34年
韓国より日本へ輸入する農産物類品別(第8表)より
明治27年: 289,021担=115,600石
明治28年: 305,154担=122,061石
明治29年: 945,056担=378,022石
明治30年:1,793,972担=717,588石
明治31年: 649,570担=259,828石
明治32年: 436,716担=174,686石

28. 2010年10月23日 23:34:13: r4xXAygTwY
>>27も米の輸入表

【大日本外国貿易対照表】明治19年
輸入品八箇年対照表(米)
明治10年:474石
明治11年:13,193石
明治12年:70,635石
明治13年:93,288石
明治14年:45,069石
明治15年:2,723石
明治16年:−
明治17年:15石


29. 2010年10月23日 23:55:54: r4xXAygTwY
【日清韓要事便覧】明治27年
・朝鮮
全国土地戸口
2,356,267戸
10,528,937口
1戸平均4人4分6厘
(第27回「ステーツメンズ、イヤーブック」
政治家必携万国年間1890年の分から引用とある。)

30. 2010年10月24日 12:26:38: bkUH2XDIVk
【震災叢書 第三編 震災惨話】大正12年
・健氣な鮮人主家の子を救ふ
本所区三笠町長田鉄工所職工朝鮮慶尚北道義城郡生まれ金鐘国(26)は
今春状況5月前期長田方の職工となったが去る1日の震災で同家の
長男幸太郎(五つ)が逃げ場を失っているのを見つけて救い出し
二日は亀戸大島町に野宿し三日朝付近の交番で保護を受け
行方不明となった主人の行方を捜しあるいた結果やっと
太平町精工社前でめぐりあい一同砂町小学校に無事非難した
主人の長田は、この主人思いの金鐘国にわが子を救い出した親切に泣いて感謝した。

関東大震災時の朝鮮人による、良い話。
でも、逆に言えば、日本人の朝鮮・中国人襲撃中であっても、
朝鮮人一人なら意外と自由に歩けていたという話でもあったりする。

嫌日にも嫌韓にも都合が良くも悪くもなる話


31. 中川隆 2010年10月24日 13:09:58: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

嘘は見苦しいよ。 これが真実:


〈関東大震災から80年〉 朝鮮人女性への残虐な性的虐待


荒川放水路の四ツ木橋付近での虐殺に関する証言に次のようなものがある。


 「22、3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは四ツ木橋の下流の土手だ。

西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。

1挺か2挺の機関銃であっという間に殺した。

それからひどくなった。

四ツ木橋で殺されるのをみんな見ていた。

なかには女もいた。


女は……ひどい。

話にならない。

真っ裸にしてね。いたずらをしていた」

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会「風よ 鳳仙花をはこべ」教育史料出版会、1992年、58〜59ページ)


 これは朝鮮人女性を性的にもてあそんだうえで虐殺したということなのであろう。

これは例外的な事件ではない。

女性に対する性的虐待、虐殺の事例は数多くあった。

 東京府南葛飾郡での朝鮮人女性に対する虐待、虐殺事件

 湊七良、亀戸五の橋で朝鮮人女性のむごたらしい惨死体を見た。

「惨殺されていたのは30ちょっと出たくらいの朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。

しかも妊婦である。

正視することができず、サッサと帰ってきた」

と回想した。
(「その日の江東地区」『労働運動史研究』第37号、1963年7月、31ページ)

 亀戸署内では習志野騎兵連隊の軍人たちが朝鮮人や日本人労働者たちを虐殺した。

この状況を目撃した羅丸山の証言によると、殺された朝鮮人のなかには「妊娠した婦人も一人いた。

その婦人の腹を裂くと、腹の中から赤ん坊が出てきた。

赤ん坊が泣くのを見て赤ん坊まで突き殺した」

(崔承万「極熊無筆耕−崔承万文集−」金鎮英、1970年、83ページ)

 当時砂町に住んでいた田辺貞之助は多数の朝鮮人惨殺死体を見た。


「なかでも、いちばんあわれだったのは、まだ若い女が、腹をさかれ、6、7カ月くらいと思われる胎児が、腹ワタの中にころがっているのを見たときだ。


その女の陰部には、ぐさりと竹槍がさしてあった。

なんという残酷さ、

あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」

(「恥ずべき日本人」『潮』1971年9月号、98ページ)

 野戦銃砲兵士第一連隊兵士の久保野茂次は1923年9月29日の日記に岩波少尉たちが小松川で

「婦人の足を引っ張り又は引き裂き、あるいは針金を首に縛り池に投げ込み、苦しめて殺した」

ことを記した。

(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編「歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺」現代史出版会、1975年、18ページ)

 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺の歴史的意味


 上記のような朝鮮人女性に対する言語に絶する虐殺の残酷さは、民族差別にさらに女性差別が加わって行われた結果であろう。

このような日本人の行動は、朝鮮人が暴動を起こしたとデマが流されたので、自衛のために自警団を結成したといったものではなく、極めて攻撃的である。

それは民族的には支配民族としての優越心、性的には男性としての優越心に発した行動であったと思われる。

 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺に関しては、当時も、その後も議論、反省されることは皆無だった。

その無反省がアジア・太平洋戦争の時期の「従軍慰安婦」制度を生み出したといえないだろうか。

吉野作造は、千葉で行われた朝鮮人少年に対する日本人の虐殺事件をつぶさに日記に記し、その末尾に「これを悔いざる国民は禍である」と記した。

(「吉野作造著作集」14、岩波書店、1996年、357ページ)


 日本人拉致事件発表後の他者のみに厳しく自己に甘い日本人の二重基準を見ると、朝鮮や中国に対する日本人の良心喪失を憂慮し続けた吉野の言葉を日本人は今もう一度かみしめなければならないように思われる。

(山田昭次、立教大学名誉教授)

http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2003/j05/0305j0827-00001.htm

関東大震災直後の朝鮮人に対する殺人行為

 当時,埼玉県の「児玉郡本庄町」や「大里郡熊谷町」(いずれも当時の名称,現在の本庄市・熊谷市)で発生した朝鮮人殺戮事件は,関東大地震発生後,東京方面ですでに起きていた朝鮮人などに対する殺人行為から彼らを保護する目的で,その被害の少なかった埼玉県や群馬県方面に彼らを避難させようとする最中に起こされた出来事である。

 本庄町のばあい,地元の住民たちによって結成された自警団が,本庄警察署に到着したトラックに乗っていた朝鮮人たちに襲いかかり,リンチに発展した。

警察は人員不足から阻止することもできないまま,この事件で50人から100人程度の朝鮮人を殺させた。

しかも,殺された朝鮮人たちは,妊婦の女性や子どもたちも大勢含まれていた。


 それでも,このリンチにくわわった者の多くは,事後に開廷された裁判の判決では「執行猶予付の騒擾罪」を受けるだけの「穏便な処分」で済まされていた。

さらにあとでは「恩赦」があり,彼らの刑罰は免除されてもいた。


これが,朝鮮人の子どもたちの首を刎ね,女性(妊婦)にも竹槍を突きさし,男性を日本刀で切りさいて殺す,などという凶行を働いた人たちに対する「事後の法的刑罰」であった。 


この歴史的な殺人事件の犯人たちは,大地震後の社会不安の状況のなかで「流言蜚語」に惑わされてしまった結果,本庄町では,警察が避難させるために保護し護送してきた子どもや妊婦も含む朝鮮人たちを,50人か100人くらい殺してしまった。

けれども,事後にいちおう裁判がおこなわれたものの,犯人たちは「執行猶予」付きの判決で「実質無罪にされ」だけでなく,さらに恩赦もあって,受けた刑をとり消してもらっていた。


第2次大戦後後に法務省の高官は,外国人〔=在日韓国・朝鮮人など〕は「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」(1965年の発言)と言ってのけた。


 関東大震災直後に起きた朝鮮人〔など〕の虐殺事件は,それよりも32年も前の悲惨な出来事であったけれども,すでに庶民の次元で「朝鮮人はけしからぬ奴ども」だから,「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」という残虐な情念に即して,同じ地震の被災者でもあった朝鮮人たちを「殺してもかまわぬ」という気持を実行に移していた。


裁判の最中に殺人行為に関してみなで哄笑する

 1) 殺人行為の様子

 1910年に朝鮮〔当時は大韓帝国と称していた〕を軍事的に脅して合邦し,植民地にした日本帝国であった。

朝鮮民族の底しれぬ怒り・恨みを買ったことはいうまでもない。

この事実が反転されて,日本人・日本民族側の気分においてはどうなったかといえば,朝鮮民族を心底でひどく恐れる感情を醸成してもいた。

 関東大震災直後,官庁関係〔警察・政府・戒厳司令部など〕から意図的に提供された《流言蜚語》を真に受けた庶民たちは,

「朝鮮人が井戸に毒を撒いている」

「朝鮮人たちが徒党を組んで攻めてくる」

と聞かされたのだから,大地震のために混乱した状況のなかで自衛し,朝鮮人どもを「捕まえてなんとかしてもかまわぬ」と考えた。

ある意味でこの考えは理の必然でもあった。

 国家当局側,それも一部で作為的な虚報を流した部署の関係者においては,たとえば軍隊は「東京などでは朝鮮人が反抗したといった理由で銃剣で刺殺或いは射殺するなどの虐殺をおこなった。

こうしたことは,目撃者の談話などでも明らかにされている」。


さらに,その「流言の拡大に驚いて,日本刀,竹槍,鳶口,棍棒などで武装した自警団が各地に出現したが,こうした軍隊,警察の行動をみて,凶暴な行動に出たことはいうまでもない」。

 「各地で “鮮人狩り” がはじまった」。

その「あまりのひどさに驚いて出したと」いう「9月3日の警視庁の宣伝ビラ『急告』も」「鮮人の大部分は順良にして・・・」といいながらも「『不逞鮮人の妄動』を否定していない」始末であった(前掲『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』13頁)。

萱原白洞「東都大震災過眼録(1924)」の写真は,震災後にその記憶を頼りにして描かれた絵画であるが,よくみると右下部分には「虐殺された朝鮮人の死体」が転がっていた(つぎの左側にその部分を切りとった画像をかかげておく)。

まわりの人たちは「朝鮮人をやっつけたぞ!」といって「歓声を挙げている」図である。

これは,萱原の網膜に焼きついて忘れられなかった記憶を復元させたものである。

     

 この絵画全体(9月1日参照)を観察すると,警察官をはじめ,法被を着た男,そして手に棒切れをもった子どもまで描かれていることに気づく。

前段の著作『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』に説明された当時の,官民一体になる殺人実行の現場の様子がこの絵画には正直に写されている。

 前掲右側の写真は,関東大震災時における殺人行為を現わした〈有名な1葉〉である。

警察官と民間人が「殺した朝鮮人2体」を,それも民間人は棒で突くかのような格好で,あたかも記念写真を撮るかのように構えている(前掲書,口絵より)。


「凶器は日本刀,鳶口,竹槍,鉄棒や長さ6尺位の棍棒,小刀,包丁或いは石棒など奇抜なものがズラリ」(同書,167頁)。

 2) 裁判の様子

 さて,警察が東京方面からトラックに乗せて避難させてきた朝鮮人を殺した人たちのうち,埼玉県熊谷市の人びとに対する裁判もおなわれていた。『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』はその一場面をつぎのように描写している。


 a) ある被告の答弁。

裁判長から「お前は首を落とす積りで再びやったというぢゃないか」と叱られると

「そうです。そうですが首は落ちませんでした」

といい,石を打ちつけたことについては,「黒い石はこの位でした」と大きな輪を作る。

満廷もクスクス笑う。

事件とは思われぬ光景だ(158−159頁,1923年10月22日『東京日日』夕刊)。

 b) 「裁判長の突っ込みも茶気たっぷりで曽我廼家の芝居でも見ているようだ」。

「裁判長が『お前は一番最年長だのにどうしてそう無分別だ』と揶揄すると『毎晩4合ずつ引っかけやすのでツイその』と満廷を笑わせてひとまず休憩・・・」。

〇〇万治は

「私は倒れていた鮮人を殴っていると警官が『もう死んでいるからいいじゃないか』と申しました」
(159頁,1923年10月23日『東京日日』)。

 c) 「〇〇隣三郎は事実を是認したがこの樫棒で殴ったろうといわれた時ヘイそのちょっとやったまででと答え,

裁判長からこの6尺もある樫棒ではちょっとやられたってたまるものかといわれ,判官はじめ満廷も吹き出させた。

また,それがそのちょっと飲んでいたものですからというのに,裁判長が酒を飲んでいたのか,ちょっととはどの位飲んでいたのかと問われ,4合ですと答えてまた満廷を吹き出させた」(161頁,同上)。

 d) 「『本庄警察の方が騒がしかったのでいって見ますと,3台の自動車に鮮人が乗せられてその内ころがり落ちた3鮮人の胸を刺しました。

一ぱい機嫌でしたからついへゝゝ』

とありのままを申し立て『お前のやった事について今日はどう思っている』ときかれても返事も出来ぬ程の被告である」(175頁,1923年10月25日『東京日日』朝刊)。


それにしても,殺人事件の裁判であるにもかかわらず,この法廷に関する当時の報道をとおしても「ずいぶんに和気あいあい」とした雰囲気が,よく伝わってくるではないか。


 そもそも,関東大震災時のこうした虐殺事件で犯人=被告となって裁判を受けた人びとは,関係した非常に多人数の犯行者全員を被告とするわけにもいかない事情があったため,しかたなくその代表として選ばれ応じて出廷していた一部の者であった。

したがって,前段 a) b) c) d) に紹介した法廷におけるやりとりのように,人殺しの犯人たちにしてはふざけたような口調さえ聞こえてくる。

 つまり,関東大震災のさい「惹起された他民族殺戮行為」は,官憲がわがでっち上げた朝鮮人騒擾「説」を契機に起こされていた。

しかもこのように,殺人事件の審理とも思われない〈身内を庇うかのような共有の感情〉のなかで,被告たちが裁かれていた(!?)のであるから,その「異常な事態を異常とも思わない」当時の時代精神の恐ろしさがあらためて疑われてよい。


 要するに,この大量殺人事件を裁くために開廷された場所においては,裁判官にも被告にも傍聴席にも「満廷に笑いの渦」が吹き出ていたというのである。

そもそも軍隊が,多数の朝鮮人・中国人を大衆の面前で虐殺していただけでなく,社会主義者・無政府主義者もついでにといっていいように,無法なかたちでもって捕縛・虐殺していた。

これでは,国家機関である裁判所が,関東大震災時において殺人行為を犯した一般庶民をまともに裁けるはずもなかった。
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2394667


32. 中川隆 2010年10月24日 13:41:25: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

歴史の汚点といえば、大正12年(1923年)関東大震災のときの朝鮮人虐殺はどうであろう。

日本人はよくアメリカ人のマネが得意だといわれるが、なぜこのような、おぞましいことまでまねる必要があったのだろうか。

それもたんなる排斥にとどまらず、虐殺の挙にでたところなど、出藍の誉れというべきか。

しかもその虐殺は、政府筋の計画的煽動に乗って一般の民間人がおかした犯行だという点で、アウシュビッツのことは、その存在さえも知らなかったというドイツ人のばあいとも異なる。


震災がおそった9月1日の午後、東京市内の被害状況を巡視した内務大臣水野錬太郎(元朝鮮総督府内務総監)は、その惨状のなかにあえぐ人々のいら立ちがが支配階級に向けられることを防ぐためには、朝鮮人と社会主義者の弾圧が必要であると判断し、

1日夜から2日夜にかけて、東京、神奈川の各警察署に朝鮮人暴動のデマを流させ、

さらに3日午前、朝鮮人暴動の「事実」についての電文を作成、船橋海軍無線送信所から全国地方長官当宛に打電させた。


中山競馬場の名物になっていたこの無電台が1971年夏撤去され、「なつかしい風物詩」が消え去ったことを嘆く人も少なくないという。

しかしわたしはあの不気味な鉄塔をながめるたびに、背筋に寒気をおぼえずにいられなかった。



朝鮮人暴動のデマは、またたく間に日本全国にひろまり、警察とそれに呼応した民間の自警団は、政府公認の朝鮮人虐殺を開始した。


竹槍で刺し、トビグチで頭を割り、ノコギリで首をひき、さしみ包丁で妊婦の腹をさく……


阿鼻叫喚の地獄絵図のなかで、抵抗のすべもなく殺されていった朝鮮人の数は6,000人をこえた。



「ハダカ同然の死がいが、目をあけたまま頭を北にして空地に並べられていました。

数は二百五十ほど。

ノドを切られて気管や食道が見えている人、

首筋を切られて肉がザクロのようにわれている人、

無理に首をねじ切られたらしく、皮と筋がほつれている人…


なかでもあわれだったのは、まだ若い女性の腹が真一文字に切りさかれ、その中に六、七ヶ月の胎児が目をとじて姿でした」


以上は仏文学者田辺貞之助氏が目撃した、その日の朝鮮人の姿である。



「旦那、朝鮮人はどうですい。

俺ァきょうまで六人やりました。…

天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさァ。…

電信柱へ、針金でしばりつけて、…

焼けちゃってナワなんかねえんだからネ…。


そして、殴る、蹴る、鳶で頭へ穴あける、竹槍で突く、めちゃめちゃでさァ。



けさもやりましたよ。…

奴、川へ飛び込んで、向かう河岸へ泳いで逃げようとした。…

みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ、でとうとう舟を出した。


ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分位も水の中へもぐっていた。

しばらくすると、息がつまったとみえて、舟のじきそばへ頭を出した。

そこを舟にいた一人の野郎が、鳶でグサリと頭を引掛けて、ズルズル舟へ引きよせてしまった。…

舟のそばへ来れば、もうめちゃめちゃだ。

トビグチ一つでも死んでいる奴を、刀で斬る、竹槍でつく…」


『横浜市震災誌』に記録されている、ある日本人のその日の武勇談である。



サンフランシスコ震災で、日本人排斥運動が燃えあがったとき、大統領テオドル・ルーズベルトは怒りにふるえてこれを非難したという。

大統領が国会に送った年頭教書(1906年12月4日)を読むと、大統領は日本人排斥運動を「ウィキッド・アブサーディティー(悪辣な愚行)」と痛罵し、これがアメリカの恥であることを述べ、もしこのような愚行がやまないならば、日本人保護のために、軍隊を動員するとまでいきまいている。



日本のばあいどうか。


虐殺が行われた大正12年から今日にいたるまで、わたしたちは、責任ある日本の為政者から、一言たりとも陳謝の言葉を耳にした記憶はない。

いや、「貧乏人は麦を食え」で勇名を馳せた池田勇人元首相からは一言きいたことがある。


「朝鮮を併合してから、日本の非行に対しては私は寡聞にして存じません」。

http://blog.livedoor.jp/danjae/archives/51404976.html


33. 2010年10月24日 14:46:20: bkUH2XDIVk
>31-32
コピペ馬鹿 中川隆再登場!
まずは、元記事アタリな。

34. 2010年10月24日 15:47:21: bkUH2XDIVk
これが元ネタの一つな。
新聞はケチだから、ネット提供してくれんので、図書館であたるなりしてくれ。

『横浜市震災誌』東京朝日新聞記者

男はウィスキーを持っている
「どうです旦那いっぱい・・・・・
髭面が出してくれた茶碗に水を汲んで、それにウィスキーを2、3滴たらして飲んだ。
足が痛み出してたまらない。俄かに降りつのってきたこの雨が、
いつまでも止まずにいてくれるとよいとさえ思った。
>「旦那、朝鮮人はどうですかい。俺は今日までに6人やりました。」
「そいつは凄いな。」
「なんといっても、身が護れねぇ。
>天下晴れての人殺しだから、豪気なものでさぁ。」
雨はますますひどくなってきた。焼け跡からはまだ所々煙が昇っている。
着物も傘もない人々は、焼け跡から亜鉛の焼板を拾って頭に被せて、雨を防ぎながら走り回っている。
凄い髭の労働者は話し続ける。
「この中村町なんかは、一番朝鮮人騒ぎが酷かった。
一人の朝鮮人を捕まえて白状させたら、その野郎、地震の日から十何人って強姦したそうだ。
その中でも地震の夜、亭主の居ねえうちで女を強姦してうちへ火をつけて、赤ん坊をその中へ
投げ込んだという話しだ、そんなのは直ぐ殴り殺してやったが・・・・・・。」
>電信柱へ、針金でしばりつけて、…焼けちゃってナワなんかねえんだからネ…。
>そして、殴る、蹴る、鳶で頭へ穴あける、竹槍で突く、めちゃめちゃでさァ。

※ここまでが一つの話
______________________________________
※ここからは別の話(注、語る者は同じ髭面労働者)
>
けさもやりましたよ。…

その川っぷちにゴミ箱があるでしょう。
その中に野郎一晩隠れていたらしい。
腹は減るし、蚊に食われるし、箱のなかじゃ動きも取れねえんだから。
奴さん堪らなくなって、今朝のことこと這い出した、それをみつけたから
皆で捕まえようとしたんだ。

>奴、川へ飛び込んで、向かう河岸へ泳いで逃げようとした。…
>みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ、でとうとう舟を出した。
>ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分位も水の中へもぐっていた。
>しばらくすると、息がつまったとみえて、舟のじきそばへ頭を出した。
>そこを舟にいた一人の野郎が、鳶でグサリと頭を引掛けて、ズルズル舟へ引きよせてしまった。…
>舟のそばへ来れば、もうめちゃめちゃだ。
>トビグチ一つでも死んでいる奴を、刀で斬る、竹槍でつく…」



35. 中川隆 2010年10月24日 16:28:14: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

(一人の朝鮮人を捕まえて白状させたら、その野郎、地震の日から十何人って強姦したそうだ。)

おめでたいアホだな。 それが日本政府が流したデマだ:

関東大震災:朝鮮人守った大川常吉鶴見署長

 関東大震災(1923年9月1日)で暴徒による虐殺の危機にあった朝鮮人代表が、守ってくれた横浜市の大川常吉鶴見署長(当時46歳)に感謝状を贈った。

そのうち3人の存在とその後の行動を、同市立下瀬谷中の後藤周教諭(59)が資料から突き止めた。

 <代表8人>

 大川署長は「デマを信じるな」と約300人の朝鮮人、中国人を暴徒から救った。

ハングルで書かれた感謝状は大川署長の孫、豊さん(55)=同市=宅に保管されていた。

日付は震災翌年の2月。最後に代表8人の名が書かれていた。


後藤教諭は

「デマによる虐殺を二度と起こさないよう、若い世代に伝えたい」
と冊子作りを進めている。【網谷利一郎】

毎日新聞 2007年8月31日
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/kanagawa/news/20070831ddlk14040548000c.html

震災当時、修羅の巷と化していた東京近郊では、もう一つの惨劇が発生していました。

事実無根の流言蜚語に踊らされた人々が、次々に無辜の朝鮮人を虐殺していったのです。


 元来、巨大地震などの激甚災害襲来直後には、情報の空白が生まれ、その中でさまざまな流言蜚語が生まれるといわれています。

関東大震災の時にもやはり、根拠の定かではない怪しげな噂が東京周辺を駆け巡っています。

最初は巨大地震再来や大津波襲来、富士山大噴火の噂が流れました。

これら自然の脅威に関する噂は、震災の記憶が生々しい間には威力を振るいますが、事態が小康を得るにつれ、次第にフェードアウトしていきます。

これに取って代わるように頭をもたげて来たのが、世情不安に絡む諸々の噂です。

地震によって刑務所から放たれた受刑者たちが暴動を起こすと言う噂、平生の世の中に不満を持つ社会主義者たちが混乱に乗じて暗躍すると言う噂…。


そして、日本社会で虐げられてきた朝鮮人が、震災を千載一遇のチャンスとばかりに日本人に対する逆襲を行うと言う噂です。

世情不安型の噂の中でも、朝鮮人に関する噂に対する反応は、前二者に比べてひときわ鋭敏だったようで、つまるところそれが虐殺に結びつきました。

 当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。

背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。

植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。


そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。

その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。

しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。

日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。

日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。

小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。

 惨劇を招いた流言はどこから発生したのか。

噂・流言研究の題材としては定番中の定番ともいえるようなこの関東大震災時流言ですが、実のところ最初の流言が、いつ、どこで発生したのかについて、はっきりとしたことは分かっていないようです。

確認できる範囲でもっとも早い段階の事例だと思われるものは、地震が発生した9月1日当日の夕方、横浜市本牧町あたりのもののようです。

実際には、似たような噂が同時多発的に発生していたと見るのが自然でしょう。

最初に囁かれた噂は、「地震の混乱に乗じて朝鮮人が放火を行っている」という様なものです。


噂は夜を越えるうちに、朝鮮人による強盗、強姦、殺人、井戸水への毒の投げ込みという形へ発展していきました。

噂の伝播・変質をもっと長いスパンで捉えた場合には、「朝鮮人が伊豆大島に爆弾を仕込んで地震を起こした」というような突飛なものまでも発生したようです。


 井戸水へ毒を投げ込まれるという毒水流言は、古くその歴史を遡る事ができ、決して関東大震災に特有の珍しいものではありません。

中世ヨーロッパでは、(大正期日本における朝鮮人と同じように差別待遇を受けていた)ユダヤ人が井戸水にペスト菌を投げ込むと言う噂が流れた事があります。

日本国内の酷似した事例では、明治19年、愛知県下之一色村(当時。現在の名古屋市中川区下之一色)での出来事があります。

当時、全国的にコレラが流行しており、下之一色でも患者が発生しました。

そこで官憲が公衆衛生維持のために井戸水へ消毒薬を投げ込んだのですが、これを見た村人たちは「住人を殺害するために毒薬を投入した」と誤解し、竹槍や鎌で武装して暴動を起こしました。

そして鎮圧に動いた官憲と衝突、双方に死者を出しています。

若干余談になりますが、この名古屋の事例からは、人間には自分の命を脅かす者を容赦なく殺す部分があることをうかがえます。

虐げられた朝鮮人の存在は、震災時に毒水流言の真実味を補強する材料となりましたが、虐殺という行為に直接つながったのは、民族差別とは別次元の要素なのかもしれません。

 地震によって井戸水が濁るのは良くあることです。

関東大震災の時も上野でこの現象があり、知識のない一般人にとっては、これが毒水流言の真実味を補強する材料となりました。


 東京帝国大学教授・吉野作蔵の調査によると、

「朝鮮人はもともとテロ活動を目論んでいたが、震災の破壊と混乱を千載一遇のチャンスとして蠢動しはじめた」

という見方が、数多くの流言の底流にあったと思われる節があります。

そう考えた人たちにしてみれば、「火災被害の拡大も朝鮮人の暗躍のせい」となりました。


 また偽情報の傾向を追っていくと、朝鮮人の襲撃は神奈川方面から東京を目指して行われると考えられていたようです。

あるいは、噂の伝播の傾向と一致するものなのでしょうか。

 このように流言蜚語による混乱が生じた場合の対処には、正確な情報の周知徹底が必要である事は論を待ちません。

現代的な感覚で言えば、行政の広報や、各種マスコミが正しい情報を発信する役割をになう事になります。

では関東大震災の時、各種情報インフラはどのような状態だったのでしょうか。

 当時まだテレビなど存在していなかった事は言わずもがなですが、大正12年にはラジオの放送も行われていませんでした。

NHKによるラジオ放送開始は、震災から2年後の1925年(大正14)の話です。

この時代の情報伝達の手段としては、電信・電話網が重要な役割をになっていたようですが、これも被災して壊滅状態。

在京各社の新聞報道も社屋の被害により停止状態。

復旧が順調だった東京日日新聞の場合で、新聞の発行が再開されたのは5日の夕刊から。遅いところでは19日になるまで新聞記事を発行する事ができませんでした。

これに対し、震災の被害を被らなかった地方新聞は、流言の内容を真に受け、そのまま報道するという失敗(脚注参照)を犯しています。

また地震により発令された戒厳令の関係で、官憲による情報管制も敷かれました。

 その官憲は、早い段階においては流言の内容を信じ、むしろ自分が朝鮮人虐殺に加担していたと言われています。


官憲は自分自身が流言情報の権威付けを行った上でこれを民衆に向けて発信し、そこから跳ね返ってきた情報を自分で受信してそれを信じ込むという過ちを犯してしまったようです(脚注参照)。


官憲による虐殺は、関連資料の多くが隠蔽されたため、実態が良く分かっていません。


そもそも、この流言の発生源が、他ならぬ官憲であったとする陰謀論の見方も根強く、これが一定の説得力を有しているようです。


亀戸事件・甘粕事件など、憲兵隊は流言による混乱に乗じて、日ごろから自分達が不穏分子と見なしていた集団の「粛清」を行ってもいます。

マッチポンプの可能性すら疑われている憲兵に比べ、警察や震災を受けて発足した戒厳令司令部は、比較的早い段階で流言はあくまで流言に過ぎないことを看破し、事態の収拾に向けて動き出しています。

 日本では伝統的に隣組的な組織が存在しており、その点で自警団の結成をうながす素地はあったと言えます。

関東大震災時に結成された多くの自警団も、もともとは朝鮮人に限らず火事場泥棒に対し、また、地震被害に対処するために自然結成されたものでした。

自警団に参加していた人の言によると、飢餓と流言が自警団を虐殺行為へと駆り立てたという実感があるようです。

また、民衆の中でも流言が流言である事に気づいている人が少なくなかったのかもしれません。


しかしながら、そのことに気づきつつ、これを積極的に吹聴した者もいました。

また、内容に不信を持っていても、頭からそれを否定するような事をしにくい空気があったようです。


噂を否定する事で回りから浮き上がってしまう恐れもあったのでしょうし、万一の危険の可能性を見逃してしまう事を恐れたからなのかもしれません。


ある種の使命感に駆られて積極的に言いふらした者もいたようですが、不思議なもので、事実かどうかは怪しいことを自覚しているはずの情報も、「事実である」と言う触れ込みで吹聴して回っているうちに、話者の中で次第に紛れもない事実であると認識されれるようになっていくようです。

 自警団の活動は、流言が盛んに飛び交い始めた前述の1日夜を越えたあたりから始まりました。

手近で武器になりそうなもの、中には銃や日本刀で武装した彼らは、中世ヨーロッパの魔女狩りを彷彿とさせる朝鮮人狩りを開始しました。

外見上では日本人との明確な差異を認められない朝鮮人を識別するために用いられた方法の代表的なものが、「十五円五十銭」と発音させてみる方法です。

朝鮮人には、「チュウゴエンコチュッセン」としか発音できない人が多いそうです。


この方法は官憲も用いていました。


これ以外の識別法としては、「教育勅語の暗誦」「座布団と言わせる」「歴代天皇の名前を答えさせる」「ザジズゼゾ、ガギグゲゴを発音させる」「君が代を歌わせる」「いろはカルタを言わせる」などといったものがあったようです。


もちろんこの方法は、簡易ではあるものの確実な識別法ではなく、勘違いから日本人や中国人も殺害されています。


被害者数は調査主体でまちまちですが、「朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人」(内務省警保局調査)、「2711人」(吉野作造調査)、「6415人」(独立新聞調査)などの数字があがっています。内務省警保局の算出した数はあまりにも少ないと言えます。


事後の事務処理を簡略化するため、「虐殺」の認定条件を極端に厳しくしている可能性があるようです。

その反面、独立新聞=朝鮮人側の新聞が提示した6000人超と言う数字も、他の事実との整合性に問題があるために絶対的に信頼の寄せられるものではありません。

政治的思惑がもっとも薄いと思われるのが、吉野作造による調査結果ですが、組織力=調査力において他の二者に見劣りする感が否めないのも事実です。

なお、この件に関する犠牲者をもっとも多く出したのは、神奈川県ということで間違いないようです。

 最終的に事態が沈静化に向かったのは、民衆が警察などが発信する情報を受け入れて冷静さを取り戻したためではなく、自警団が軍による力での押さえつけに屈したからだと見るのが妥当なようです。

民衆が理性的な判断を行ったのは、力で行動を押さえつけられ、文字通り手も足も出なくなってからの事でした。

なお余談になりますが、当時の警察は、人員数はもちろん、そしてその武装の内容においても、自警団に劣っていたため、最終的には軍部の軍事力を背景にして事態の沈静化に乗り出さなければならなかったようです。


■各地方紙の誤報 ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P61より抜粋


「朝鮮人大暴動 食糧不足を口実に盛に掠奪 神奈川県知事よりは大阪、兵庫に向かひ食料の供給方を懇請せり。

東京市内は全部食料不足を口実として全市に亘り朝鮮人は大暴動を起こしつつあり……」(河北新報、九月三日)

「歩兵と不逞朝鮮人戦斗を交ゆ 京浜間に於て衝突す 

火災に乗じ不逞鮮人跋扈 近県より応援巡査派遣……」
(福島民友新聞、九月四日)


「放火・強盗・強姦・掠奪 驚くべき不逞鮮人暴行 

爆弾と毒薬を所持する不逞鮮人の大集団二日夜暗にまぎれて市内に潜入 

警備隊(自警団のこと)を組織して掃討中……」(河北新報、九月四日)

「不逞鮮人凶暴を極め飲食物に毒薬や石油を注ぐ 

彼らは缶詰に似た爆弾を所持しつつあり」

(北海タイムズ、九月五日)

■官憲の主な動き(時系列) ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P66より抜粋

九月二日十四時ごろ:内務省警保局長より呉鎮守府、地方長官宛電報。

東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不貞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。

スデニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ十分周密ナル視察ヲ加エ、鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ。


九月二日夕刻:警視庁、戒厳令司令部に、朝鮮人による火薬庫放火計画があると報告。

同    :警視庁菅下各警察署に通達。
 
鮮人中不逞ノ挙ニツイテ放火ソノ他凶暴ナル行為ニイズルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。

コノ際コレラ鮮人ニ対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ。


 九月三日十六時三十分:海軍省船橋送信所所長電信発信(独断)。全国で受信。

船橋送信所襲撃ノオソレアリ。至急救援頼ム。騎兵一個小隊応援ニ来ルハズナルモ、未ダ来タラズ。


九月四日八時十分:船橋送信所電信発信。

本所(船橋送信所)襲撃ノ目的ヲ以テ襲来セル不逞団接近、騎兵二十、青年団、消防隊等ニテ警戒中、

右ノ兵員ニテハ到底防御不可能ニ付約百五十ノ歩兵ノ急派取計イ度ク、当方面ノ陸軍ニハ右以上出兵ノ余力ナシ。

■不逞鮮人

 震災当時の政治用語。抗日的な運動を行う朝鮮人に対し、官憲が用いた呼称。

この言葉にも当然、「朝鮮人」と同じ問題が付きまとう。

 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。

 
 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、

一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、

婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり……


身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。

(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年)


 
 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。

実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。

そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。

しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。

 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、

その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、


という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。


なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。

 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。

したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。

(『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)


 魔女狩りを彷彿とさせる、集団ヒステリーが生んだ狂気か。


 この「虐殺」に関する話は、関東大震災を起源とする「防災の日」の各種行事の場面などでも、滅多に触れられる事がないのだという。

この種のイベントは専ら自然災害としての地震の恐ろしさに対する啓蒙を目的に行われるものらしく、天災から派生した人災についてはほとんど言及しないのだそうだ。そして、その現状を無念に思う韓国人・朝鮮人は多い。

参考文献
山岸秀 、2002年、『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』、早稲田出版
http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm


36. 2010年10月24日 16:33:59: bkUH2XDIVk
>35
またまた出ましたコピペ馬鹿、中川隆w

自分のコピペしてきたサイト内の元ネタ否定って、
「中川隆のコピペは全く意味がない」と自ら主張してるだけだぞw


37. 2010年10月24日 16:38:37: bkUH2XDIVk
>31
(「恥ずべき日本人」『潮』1971年9月号、98ページ)
>35
姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。
同じ話を引用してどうするw

ま、コピペ馬鹿で中身は全く読まない結果だけどな。


38. 中川隆 2010年10月24日 17:03:35: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q
著者が違うコピペ間に部分的な齟齬があるのは当然だ。

いずれにしろこれが日本政府が流したデマだというのは変わらない:


「この中村町なんかは、一番朝鮮人騒ぎが酷かった。一人の朝鮮人を捕まえて白状させたら、その野郎、地震の日から十何人って強姦したそうだ。
その中でも地震の夜、亭主の居ねえうちで女を強姦してうちへ火をつけて、赤ん坊をその中へ投げ込んだという話しだ、そんなのは直ぐ殴り殺してやったが・・・・・・。」


俺は答えは最初から知ってるからそれが載ってるHPを探してきてコピペしてるだけさ。

アホの相手をするには関連資料をすべて集めるのが一番手っ取り早いのさ。


39. 2010年10月24日 17:40:21: bkUH2XDIVk
>著者が違うコピペ間に部分的な齟齬があるのは当然だ。
齟齬じゃなくて、同じ話持ってきてるのに気付かないのか?ってことだがw

>俺は答えは最初から知ってるからそれが載ってるHPを探してきてコピペしてるだけさ。
なに、その負け惜しみw

>いずれにしろこれが日本政府が流したデマだというのは変わらない:
『この中村町なんかは、一番朝鮮人騒ぎが酷かった。一人の朝鮮人を捕まえて白状させたら、その野郎、地震の日から十何人って強姦したそうだ。
その中でも地震の夜、亭主の居ねえうちで女を強姦してうちへ火をつけて、
赤ん坊をその中へ投げ込んだという話しだ、
そんなのは直ぐ殴り殺してやったが・・・・・・。』
これ、髭面の男自身が白状させた後の言動だぜ?答えを知らないから伝聞に見えたんだろうがw
いや、それでも普通に読めば伝聞には見えないだろ?コピペ馬鹿 馬鹿川隆よ?


40. 2010年10月24日 17:45:48: bkUH2XDIVk
>アホの相手をするには関連資料をすべて集めるのが一番手っ取り早いのさ。
正確には、
「理詰めで来る奴には、関連資料を集めたサイトを適当にまとめてコピペして
長文にしとくのが一番手っ取り早いのさ。
引用が半端だったり歪曲してあろうが、長文にさえしとけば読むのが面倒くさく
なって途中で検証を諦めるだろうからな。」だろ?w

だからコピペ馬鹿なんだよ。中川隆は。


41. 中川隆 2010年10月24日 17:53:23: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q
何故こんなに頭悪いのかな?

(髭面の男自身が白状させた後の言動だぜ?答えを知らないから伝聞に見えたんだろうがw)

白状させたと言ってる事自体がデマなのさ。

今もそうだけど、マスコミと日本政府と警察・軍隊はグルだ。

朝鮮人の暴動を防ぐ為にデマを流させて朝鮮人を虐殺する様に仕向けたんだ。


42. 2010年10月24日 18:15:00: bkUH2XDIVk
コピペ馬鹿 中川隆よ。

>白状させたと言ってる事自体がデマなのさ。
出典が中川隆がコピペしたサイトの元ネタなんだが。
つまり、お前のコピペ全てがデマということになるんだぞ?
ホントに馬鹿だな、お前。
コピペすることしか能も脳も無いのか?


43. 中川隆 2010年10月24日 18:20:49: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q
だから本当かどうかわからない時は全部書くものさ。

何も知らない人なら、まさか、日本政府がそんなにあくどいとは思わないだろ。


44. 2010年10月24日 18:38:30: bkUH2XDIVk
コピペ馬鹿 中川隆よ。

>何も知らない人なら、まさか、日本政府がそんなにあくどいとは思わないだろ。

「横浜市震災誌」は横浜市作成だ。
そして、白状させたのは髭面の労働者だ。

一体どこまで脳なしなんだ・・・・・


45. 中川隆 2010年10月24日 18:45:00: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q
髭面の労働者が日本政府のまわし者で嘘を言っただけさ。

46. 2010年10月24日 19:32:19: bkUH2XDIVk
>髭面の労働者が日本政府のまわし者で嘘を言っただけさ。

コピペするネタが尽きるとその程度しか書けなくなるのかw
ちょっと可哀そうになってきた。まぁいい。

念のため言っとくが、自分は
「関東大震災時に朝鮮人への虐殺・暴行はなかった」とか
資料無視するような馬鹿げたこと言ってるわけじゃないんだからな。

むしろ、当時の資料(戦後資料は、まずアテにならん)を読めば読むほど、
流言飛語によって虐殺・暴行された一般朝鮮人という図式のほうが、より鮮明になるんだよ。

大震災の時に不逞(日本人も朝鮮人も)の輩がいて、そいつらの暴虐によるものが、
日本人なら信用できる(はずだ)、白人・黒人も同じだ。
なら黄色人種の朝鮮人か支那人だ、という思考で大げさに広まった結果が
本当に不幸な結末になったんだよ。
※言葉が、多少タドタドしいということで、日本人ではないとして暴行された地方出身者もいたそうだ。

いろんな意味でこれが現実。
どちらも極端に走るなという意味で持ち出したのが30の資料。


47. 2010年10月24日 19:47:49: bkUH2XDIVk
あとな、中川隆よ。

投稿するにしてもコメするにしても、まずは当時の資料を読んでからにしようや。
自説に都合の良いほうに偏った、最近の資料のしかも抜粋だけ載せたサイトを
コピペしたところで、なんの役にも立たない。それどころか、むしろ説得には有害だぞ。

嫌日も結構だが、まずは当時の資料をみてからにしろ。
朝鮮側から書いた当時の資料は、日本では簡単に手に入らないから、
そっちの資料を読んでから投稿したら、反論できる奴はそうそういないはず。

というか、自分はハングルは一切読めないので当時のハングルでの資料を出されれば、
正確な意味を記載した投稿はもちろん、どんなデタラメ書かれても反論はムリ。
最近のものでない漢文なら、ある程度可能だが。

だから、頑張って、まずは当時の資料を読め。


48. 中川隆 2010年10月24日 19:57:29: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

僕は朝鮮人は大嫌いだし、そんな下らない事に時間を使う気は無いですから。

いずれにしろ、流言飛語や朝鮮人の虐殺は偶発的な事件ではないですね。

上の髭面の労働者が言った朝鮮人による強姦殺人もそれだけならともかく、他の多くの流言飛語が乱れ飛んだ事を考え合わせると、明らかに日本政府関係者による意図的な風説の流布ですね。


関東大震災の時に虐殺されたのは朝鮮人だけではないですから、日本政府が組織的にやったとしか考えられないでしょう:


関東大震災の日には、当時の日本の暗部ともいうべき事が噴出しもしました。

この一つの現われが亀戸事件です。

亀戸事件では、私が住んでいる江戸川区の隣の江東区では南葛労働組合の理事であった川合義虎氏が特高警察につかまり、拷問によってその日のうちに殺されました

(川合義虎氏は、現在の日本民主青年同盟の前身である日本共産青年同盟の初代委員長であり、同時に前年の日本共産党創立時からの党員でもありました)。


関東大震災直後に起きた亀戸事件


 1923年9月1日午前11時58分、死者9万1千人をこえた関東大震災が起きました。

2日成立したばかりの山本権兵衛内閣は翌3日、東京府と神奈川県に戒厳令をしき、軍隊を動員しました。

混乱の中で、朝鮮人や社会主義者が暴動をたくらんでいるというデマが流れ、当局も

「震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ…」

(内務省警保局長から各地方長官あての電報)

としたことなどで、流言は広がり、多くの町内で在郷軍人や青年団が「自警団」を組織し、朝鮮人に襲いかかりました。

軍隊も、とくに江東方面では朝鮮人を「敵」として追いたて殺害しました。

虐殺された総数は正確にはわかっていませんが、6千人を超えるという調査もあります。

 前年創立の日本共産党にたいして、警察は、震災3カ月前の6月5日、いっせい弾圧を加え、30余人を検挙しました。

しかし、南葛(現在の江東、墨田)を中心に労働運動はなお活発でした。

このため、軍と警察は一体になって、震災の混乱に乗じて、社会主義者を一挙に根絶やしにしようとします。

 9月3日、被災者救援のため活動中の南葛労働会の本部から、

川合義虎(21)=民青同盟の前身である日本共産青年同盟初代委員長=と、居合わせた労働者、山岸実司(20)、鈴木直一(23)、近藤広造(19)、加藤高寿(26)、北島吉蔵(19)、さらに同会の吉村光治(23)、佐藤欣治(21)、純労働組合の平沢計七(34)、中筋宇八(24)らが相次ぎ亀戸署に留置されました。

 同署では、その夜から翌日にかけて、多数の朝鮮人が虐殺されました。

川合ら10人は軍に引き渡され、5日未明、近衛師団の騎兵第13連隊の兵士によって刺殺されました。

これがいわゆる「亀戸事件」です。

 「社会主義者狩り」は、亀戸ばかりではありませんでした。

9日ごろには、共産党の合法部隊だった農民運動社を近衛騎兵連隊の一隊が襲い、浅沼稲次郎夫妻ら8人をとらえ重営倉にいれ、後手にしばったまま梁(はり)につりさげました。


堺利彦ら第1次共産党弾圧の被告が収容されていた市ケ谷刑務所にも軍隊がおしかけ、被告たちの引き渡しを迫りました

(刑務所長が拒否したため、被告たちは命びろいした)。


獄外にいた山川均も追われますが、友人宅を転々と逃げ、助かりました。

士官たちは、吉野作造や大山郁夫ら民本主義のリーダーもねらい、大山は拘引されましたが、新聞社が行方をさがしたので、釈放されたのでした。


16日には、アナーキスト・大杉栄夫妻と6歳になる甥(おい)が甘粕憲兵大尉によって絞殺される甘粕事件が起きます。

このように大震災時に、驚くべき野蛮なテロリズムに支配勢力が走ったことは、国民にはけっして忘れることのできない教訓です。(喜)

 〈参考〉『亀戸事件〜隠された権力犯罪』(加藤文三著、大月書店)、『物語・日本近代史3』(犬丸義一・中村新太郎著、新日本出版社)

http://blog.goo.ne.jp/aleido_che_guevara/e/d71b5ef12160027300894c0c7afe6af3


49. 五月晴郎 2010年10月24日 20:06:50: ulZUCBWYQe7Lk : AnPH8ZXDmM
>>47
>当時のハングルでの資料

脇からすいません。

日本統治下の朝鮮は情報も厳しく統制されていた。大震災時朝鮮人虐殺に関連する朝鮮人側のハングル資料なんかあるの?あったとしても朝鮮人側が書いたの分かったらアレで残されてないだろうし、という根本的な疑問があります。

言わんとされることは分かりますが。


50. 五月晴郎 2010年10月24日 20:24:08: ulZUCBWYQe7Lk : AnPH8ZXDmM
虐殺行動自体は、真偽混じった情報を計画性を持って流し、虐殺惹起扇動も、扇動された民衆の虐殺行動からの被害者保護も、指揮を執ったのは正力でしょ。

51. 中川隆 2010年10月24日 21:03:33: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生。

この時政府の宣伝

「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」

に乗せられた民衆は、社会主義者、労働組合幹部や朝鮮人に対して野蛮なテロを行い、9.3日、亀戸事件により南葛労働組合の指導者・川合義虎らの社会主義者やアナーキストらが亀戸警察署で虐殺された。

9.16日、大杉栄が妻・伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一と共に甘粕正彦憲兵大尉に殺害された。


 9.7日、政府は、関東大震災時の混乱に対して「治安維持の為の緊急勅令」を公布した。

これは、前に成立を見なかった「過激社会運動取締り法案」を、このたびは天皇の名のもとに議会の審議を要しない緊急勅令という形で公布したということである。

しかし、政府はなお満足せず、やがて治安維持法に向けて着々と周辺整備していく。

 「第一次共産党事件」と「関東大震災直後の反動攻勢」に接して、獄中闘争組の中からも解党的方向が提起されたようである。

幸徳秋水の大逆事件、関東大震災時の大杉栄虐殺事件という官憲側のテロル攻勢に「緊急避難」の名目で党の解党止む無し論が強まっていった。


 これに関連して福永操は次のように述べている。

「革命運動の犠牲者たちは、人民が(人民のほんの一部でもが)その犠牲の意義をみとめて心の中で支持してくれると思えば、よろこんで死ねるであろう。

なさけないのは、大逆事件関係者に対する日本の一般民衆の反感がものすごかったことであった。

事件そのものにまったく無関係であった社会主義者たちまでが、この事件のとばっちりを受けて、『主義者』というよびかたのもとに一括して世間からつまはじきされて、文字どおり広い世間に身のおきどころもない状態になったことであった。

労働運動も火が消えたような状態になった」(福永1978)。


 以下、検証する。 

【関東大震災発生】

 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。

地震の規模はマグニチュード7.9、震度6であった。

焼失家屋24万戸、崩壊家屋2万4千棟、死者5万9千人、行方不明者を入れると犠牲者は10万人以上という被害が発生した。

これにより関東一円の商工業地区が壊滅的大打撃を受けた。被害総額は当時の金で約100億円(当時の一般会計の6.5年分、現在で数兆円)と推定される。


 関東大震災の翌9.2日急遽、軍による戒厳令司令部を設置した。

この日、後藤新平が内務大臣に就任している。

 警視庁は、非常事態に備えて臨時警戒本部を設置し、正力官房主事が特別諜報班長になって、不穏な動きを偵察する任務を持ち、その行動隊長として取締まりに専念した。

後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。


「内務大臣・後藤新平と正力の繋がり」について

 正力は、この後藤新平と深く繋がっており、「直接ルート」の間柄。正力の富山四高時代の友人にして官房主事であった品川主計は、回想録「叛骨の人生」の中で「正力君は、後藤新平内務大臣に非常に信用があった」と記している。

同書に拠れば、越権的な「汚れ役」(ダーティーワーク)仕事を躊躇無く引き受けることで信頼を得ていったとのことである。

「仕事の鬼としての出世主義的性格」が強かった、ということになる。

正力は、後藤内相の下で警視庁警務部長となる。

同時に、財界のご意見番的存在であった郷とも親しくなって行った。

【流言飛語飛び交い、朝鮮人、社会主義者、アナーキストの検束始まる】


 直後、

「朝鮮人、中国人、社会主義者、博徒、無頼の徒が放火掠奪の限りを尽くしている」

との噂が飛び交い始めた。

発生源は在郷軍人会、民間自警団辺りからとされているが、今日なお真相不明である。


 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、「朝鮮人による放火、井戸への投毒」という風評を逆手に取って朝鮮人と社会主義者、アナーキストの検束を始めた。

9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。


 東京朝日の石井光次郎営業局長の次のような証言がある


 「建物は倒壊しなかったものの、9月1日の夕刻には、銀座一帯から出た火の手に囲まれ、石井以下朝日の社員たちは社屋を放棄することを余儀なくされていた。

夜に入って、石井は臨時編集部をつくるべく、部下を都内各所に差し向けた。

帝国ホテルにかけあってどうにか部屋を借りることは出来たが、その日、夜をすごす宮城前には何ひとつ食糧がない。

そのとき、内務省時代から顔見知りだった正力のことが、石井の頭に浮かんだ。

石井は部下の一人にこう言いつけて、正力のところへ走らせた。


 『正力君のところへ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、あそこには食い物と飲み物が集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい』。

間もなく食糧をかかえて戻ってきた部下は、意外なことを口にした。

その部下が言うには、正力から、

『朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから、各自、気をつけろ。

君たち記者が回るときにも、あっちこっちで触れ回ってくれ』

との伝言を託されてきたというのである。


 そこにたまたま居合わせたのが、台湾の民生長官から朝日新聞の専務に転じていた下村海南だった。

下村の『その話はどこから出たんだ』という質問に、石井が『警視庁の正力さんです』と答えると、下村は言下に『それはおかしい』と言った。

『地震が9月1日に起るということを、予想していた者は一人もいない。

予期していれば、こんなことになりはしない。

朝鮮人が9月1日に地震がくることを予知して、その時に暴動を起こすことを企むわけがないじゃないか。

流言飛語にきまっている。断じてそんなことをしゃべってはいかん』。

 石井は部下から正力の伝言を聞いたとき、警視庁の情報だから、そういうこともあるかも知れないと思ったが、ふだんから朝鮮や台湾問題を勉強し、経験も積んできた下村の断固たる信念にふれ、朝鮮人謀反説をたとえ一時とはいえ信じた自分の不明を恥じた。

正力は少なくとも、9月1日深夜までは、朝鮮人暴動説を信じていた。

いや、信じていたばかりではなく、その情報を新聞記者を通じて意図的に流していた」

 内務官僚上がりの石井のこの証言に加えて、戒厳司令部参謀だった森五六の回想談によると、正力は腕まくりして戒厳司令部を訪れ、

「こうなったらやりましょう」と息まいている。


この正力の鼻息の荒い発言を耳にした時に、当時の参謀本部総務部長で後に首相になる阿部信行をして、「正力は気が違ったのではないか」と言わしめたという。

 正力にまつわる一連の行動を分析した佐野は、

[正力は少なくとも大地震の直後から丸一日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、この流言を積極的に流す一方、軍隊の力を借りて徹底的に鎮圧する方針を明確に打ち出している]

と結論づけている。

更に、警視庁に宛てた亀戸署の内部文書にも、


「この虐殺の原因はいずれも警察官の宣伝にして、当時は警察官のごときは盛んに支鮮人を見つけ次第、殺害すべしと宣伝せり」

と書いてあり、中国人労働者が300人ほど虐殺された大島事件も、正力がこの事件を発生直後から知っていたのは、間違いないと自身を持って断定するのである。

【関東大震災時事件その@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺】


 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、

「朝鮮人による放火、井戸への投毒、襲撃」、

「震災の混乱にまぎれて、朝鮮人と社会主義者が政府転覆を図っている」

という風評を逆手に取って警察と軍による朝鮮人、中国人、社会主義者、社会主義的労働者の検束を始めた。


 9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。

自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺も発生している。

無抵抗の者を陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが一方的に撃ち殺したところに特質がある。この時官憲テロルに倒れた朝鮮人は3千名、中国人は3百名。

 その後毎年、9.1日は共産主義運動、朝鮮民族運動の逃走記念日として追悼されていくことになる。

【関東大震災時事件そのA、川合義虎らが虐殺される亀戸事件発生】


 9.3日午後10時頃、亀戸事件の被害者となる南葛労働組合の指導者にして共産青年同盟初代委員長にして党員北原龍雄と共に第一次共産党事件後の留守委員会を構成していた川合義虎ら8名の社会主義者と、アナーキスト系の元純労働組合長・平沢計七らが亀戸警察署に拘束監禁された。


 9.5日、河合義虎ら7名の革命的労働者(北島吉蔵、山岸実司、吉村光治(南喜一の弟)、加藤高寿、近藤広造、鈴木直一)、アナーキスト系の平沢計七らが亀戸警察署で虐殺された。

これを「亀戸事件」と云う。

 その遣り口が憤激に耐えない次のような史実を残している。

古森署長は事後対策を警視庁に上申。この時のこの時の警視庁官房主事が正力松太郎(米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った)で、正力は軍隊への応援依頼、千葉県習志野騎兵第13連隊(田村騎兵少尉指揮)がやって来て、留置された中から最も指導能力を有していた危険な人物を選別し、演武場前広場へ引きずり出し、銃剣と軍刀で虐殺した。

 その虐殺の様について今日奇跡的に伝えられた二葉の写真があり、これを見るに多数の刺傷はそれとしても生きたまま打ち首にされている。

遺体は家族に引き渡されず、二、三日放置された後、荒川放水路の一般の火葬死体の中に投擲された。

田村少尉らは軍法会議にもかけられておらず、「この乱痴気が軍隊と警察と裁判所、検事局と監獄とを、内部から腐敗堕落させた」(志賀義雄「日本革命運動の群像」)とある。

 ちなみに、南喜一は、弟の吉村光治虐殺という権力の横暴に義憤して、共産党活動に入った。

「大正13年の春、私は工場や家を全部処分し、17万円の金をつくつた。

妻子に4万円渡し、13万円を持って、亀戸の南葛飾労働組合に入った。

共産党に入党したのだ」、


「大正15年の共同印刷の争議までは、命ぜられることを名誉とし、火の中でも水の中へでも喜んで飛び込んだ」(「南喜一著作全集」)とある。

【関東大震災時事件そのB、中国人留学生・王希天虐殺事件発生】


 この時、東京中華日キリスト教青年会幹事、中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生・王希天は、亀戸署に拉致監禁された上陸軍に引き渡され、陸軍将校の手で斬殺されている。

死体は切り刻まれて川に捨てられた。

警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」。警察と軍の関係を取り持っていたのは、官房主事の正力であった。

 10.20日、中国代理公使から王の殺害について抗議が為される。

中国政府は王希天殺害調査団を派遣してくることになり、一気に国際的大事件となった。日本政府はその対応に苦しむことになった。

警視庁はじめとする当局は口裏を合わせて知らぬ存ぜぬの「徹底的に隠蔽するの外無し」対応に終始した。

結局、事件そのものは当時の日中の力関係を反映し、最後にはうやむやのままに葬り去られることになった。

【関東大震災時事件そのC、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件発生】


 9.16日関東大震災の混乱に際して、アナーキストで社会運動家のリーダー的存在だった大杉栄は妻・伊藤野枝(いとうのえ、28歳)、甥(おい)の橘宗一(たちばなそういち、6歳)と共に甘粕憲兵大尉(あまかすまさひこ、32歳)に殺害された。

享年38歳。妻野技は1895年1月12日生、享年28歳、甥橘宗一は1917年4月12日生、享年6歳。


 この日、大杉は、その妻(婚姻はしていなかったので正式には同棲)の伊藤野枝と横浜鶴見にあった弟の家から自宅へ帰る途中に東京憲兵隊本部に検束された。

一緒にいた甥の橘宗一も一緒に連れ去れた。検束された大杉達は、麹町憲兵分隊に連行された。


午後8時頃、取調中だった大杉に対し、部屋に入ってきた憲兵大尉《甘粕正彦がいきなり背後から大杉の喉に右腕を回し締め上げた。

大杉がもがき後ろに倒れると、背中に乗りさらに締め上げ絞殺したと伝えられている。

続いて伊藤野枝も絞殺され、橘宗一は部下の憲兵が殺害し、遺体は憲兵分隊内にあった古井戸に投げ込まれた。


 ちなみに甘粕のその後は次の通り。

大杉虐殺事件の軍法会議の進行は非常に早かった。戒厳令下の10.8日に第一回、以後、11.16日、17日、21日の4回で結審となり、12.8日に10年の禁固刑に処せられたものの、軍閥団体の助命運動によって3年で出獄、満州国へ渡り参議の地位に上り詰めていく。


 この大杉栄の拘束・殺害が発端となって、軍部による社会主義者の徹底的な弾圧が始まる。

【官房主事・正力松太郎の暗躍】


 この時、警察と軍の関係を取り持っていたのは、警視庁官房主事の正力松太郎であった。

これを追跡してみる。正力は米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、特高制度の生みの親であった。

後に読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買うことになる。

 9.2日、大震災の翌日急遽、軍による戒厳令司令部が設置された。

船橋の海軍無線送信所から「付近鮮人不穏の噂」の打電が為されている。

今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。


 9.3日、「内務省警保局長」名で全国の「各地方長官」宛てに、要約概要「鮮人の行動に対して厳密なる取締要請」電文打たれる。

内務省が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。


実際には「不逞鮮人暴動」は根拠が曖昧で「流言飛語」の観がある。


この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。

つまり、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。


 9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。

 9.11日、更に、正力官房主事名で、

「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令


が発せられている。

 研究者によると、正力が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」のデマを一番最初にメディアを通じて意識的に広め、虐殺を煽ったのは、なんと、官房主事の正力自身であった。

自身も「悪戦苦闘」という本で、

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。

当局者として誠に面目なき次第」


と弁解しているように、朝鮮人大虐殺の張本人と目されている。

 この時、朝日新聞の記者の1人が警視庁で正力官房主事から、

「朝鮮人むほんの噂があるから、君たち記者があっちこっちで触れてくれ」

と示唆されたことを明らかにしている。

しかし、専務の下村海南が「流言飛語に決まっている」と制止したと云う。

「正力の胡散臭さ」について

 後に読売新聞の社主となって登場してきた正力松太郎には「負の過去」がある。


関東大震災当時、警視庁官房主事という警察高級官僚であった正力こそ朝鮮人大虐殺の指揮官であった形跡がある。

こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていく。

その意味で、「読売新聞建て直しの功労者」ではある。

しかし、正力の本領は当時の「聖戦」賛美にあった。

新聞でさんざん戦争を煽った。

これが為、松太郎はA級戦犯指名で巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。

しかし、政権与党に食い入り常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。

「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」


 こうしたムショ帰りの権力主義者の社主に忠誠を誓い、その負の遺産を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。

日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。
http://www.gameou.com/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_oosugisakae.htm


52. 中川隆 2010年10月24日 21:50:11: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

 正力松太郎の生態はもっと研究されて良いように思われる。

内務省特高課(戦前日帝の諜報・弾圧機関)の創設者にして終始黒幕で在り続けた後藤新平に見出され、米騒動、関東大震災時の「暗躍」で「血塗られた強固な同盟」が確立する。以下、この関係を追跡する。

【後藤新平の履歴(1857〜1929)】


 岩手県水沢市の小藩出身。

幕末の蘭学者高野長英の親族。

須賀川医学校を卒業して医師となりも愛知県立病院長を経て内務省に入る。

1892年衛生局長(現在の厚生省事務次官)。

その間ドイツに留学し、プロイセン国家の統一ドイツ建国過程をつぶさに見て、ビスマルク政治に憧憬したと伝えられている。

1895年日清戦争で台湾を割譲させたが、4代目台湾総督になった児玉源太郎が後藤を見出し民政長官となって赴任。


後藤は、「アメと鞭を併用した辣腕政治」で判明するだけで抗日ゲリラ1万1千余名を虐殺している。

結果的に「台湾島民の鎮圧と産業開発で名声を高めた」。

 後藤は、台湾総督府初代民政長官を皮切りに、以後、

1906年満鉄初代総裁、1908(明治41)年桂太郎内閣の下で逓信大臣兼鉄道院総裁、1916(大正5)年寺内正毅内閣の下で内務大臣、

続いて1918(大正7).4.23日外務大臣、

山本権兵衛内閣の下で内務大臣再任を歴任し、晩年に伯爵の位を得ている。


植民地政策の統合参謀本部・満鉄調査部を設置したのも後藤である。

未解明であるが、阿片政策にも手を出しており、その収入が機密費として縦横に駆使された形跡がある。

 その政治的軌跡は、伊藤博文の後継者。後藤は言論統制に著しく関与している。

 1919(大正8)年、後藤は、寺内内閣の総辞職を機会に欧米視察の旅に出た。

訪問先はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、オランダ。

帰国するやいなや、「大調査機関設立の議」建白書を政府に提出している。

これは、アメリカのCIA(中央情報局)のような強力な組織を設立せよという構想であった。

【内務省】


 内務省は、一口で云えば「天皇制警察国家」と呼ばれる当時の大日本帝国の最高官庁であった。

要するに内政にかかわる一切の行政権を一手に握っている中央官庁であった。

現在の機構に当て嵌めれば、国家公安委員会、警察庁、公安調査庁、消防庁、自治省、厚生省、労働省、建設省、農林省の一部、法務省の一部、文部省の一部的機能を持つ官庁であった。

全国の知事と高級官僚は、内務官僚が任命し派遣するというシステムで、地方行政は市町村議会の監督権まで含めて内務省が握っていた。

内務官僚は、天皇直属であり、平常時の警察機構、緊急時の法律に対抗する緊急勅令権、警察命令権を握っており、いわば万能であった。

 大逆事件の年の1911(明治44)年に高等課特高係(特高)が新設され、後に特別高等部に昇格し、得意な指揮系統を持つ事になった。

新聞の統制など言論動向の調査は特高の中の検閲課の任務であり、更に全国の警察機構の元締め内務省警保局の図書課でも行われた。

両者の関係は、図書課が本庁であり、検閲課は出先機関となる。

 内務省本省の図書課は、後藤新平内務大臣時代の1917(大正6).9月、直接の声係りでロシア革命への対応を意識して拡張された。

同時に警視庁の人員増強も要請され、当時の6000名が6年後には1万2000名に倍増された。特高も同時期に12名から80名へと約7倍化している。

【正力松太郎の履歴(1857〜1929)】

 1885(明治18).4.11日、富山県の土建請負業の旧家に生まれる。

青春時代を柔道に打ち込む。

 1911(明治44)年、東京帝国大学法科大学独語科卒業(26歳)。

翌年に内閣統計局に入り、高等文官試験に合格し、1913(大正2).6月、警視庁に雇用される。

直ちに警部となり、翌年に警視、日本橋堀留署長となる。


 1917年、第一方面監察官。

 1918(大正7)年、米騒動鎮圧に一役買い、勲章を貰う。

 1919(大正8)年、刑事課長。

 1920(大正9)年、普通選挙大会の取締まり、東京市電ストの鎮圧。

 1921(大正10)年、警視庁で警視総監に次ぐbQの位置とされる官房主事となり、高等課長を兼任(36歳)。


本人自身が「私ほど進級の早いのはいません」(「週間文春」1965.4.19日)と語っている。

 1923(大正12)年、正力の警視庁官房主事、共産党の猪俣津南雄宅にスパイを送り込み、早稲田大学研究室の捜査、6.5日、第一次共産党検挙を指揮した。

 「米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、

読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、

軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った」。


 「関東大震災時の暗躍」


 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。


 関東大震災の翌9.2日急遽、後藤新平が内務大臣に就任し、非常事態に備えて軍は戒厳令司令部を、警視庁も臨時警戒本部を設置した。

この時、正力は官房主事であったが、特別諜報班長になって不穏な動きの偵察、取締まりに専念した。

後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。

 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。


「不逞鮮人暴動」に如何ほどの根拠があったのか不明であるが、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。

こうして、内務省が流した「朝鮮人暴動説」が全国各地の新聞で報道され、この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。

 後藤−正力ラインが警戒したのは、社会主義者の動きであった。

9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。

9.11日、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。


 後藤−正力ラインはこうした通達のみならず、実際に迅速に先制的官憲テロをお見舞いしていった。


@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の多数虐殺、

A、川合義虎らが虐殺される亀戸事件、

B、中国人留学生・王希天虐殺事件、

C、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件)


等が記録されている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mascomiron_yomiurico2.htm


53. 2010年10月25日 07:30:46: FtBpZiRG09
>僕は朝鮮人は大嫌いだし、
嫌日も結構だが、とは書いたが、朝鮮人の好き嫌いなんてことは訊いてないんだが(笑)
共産党な人だったのか・・・・・といいたいところだが実際は、朝鮮人も大好きなんでしょうね。

>混乱の中で、朝鮮人や社会主義者が暴動をたくらんでいるというデマが流れ、当局も
>「震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ…」
デマを聞きつけた上で、電信自体が海軍の持っていたものしか使えなかったことから
誤った情報が唯一の報告となって電信が打たれたのが現実。

実際はコレらしい↓
「東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不貞ノ目的ヲ遂行セントシ、
現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。
スデニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ十分周密ナル視察ヲ加エ、
鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ。」

あくまで取締りだったし、地方の鎮守府宛に発信されたので罹災民衆には届いていない。
それ以前に、この時点では社会主義者出てきてないけどね。
予め震災が起こることを予測し、それを利用して流言を流すとかできないだろ、普通に考えて。
現代科学でもムリ。

>この時政府の宣伝「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」に乗せられた民衆は
電信不通、電話不通、携帯なんてもちろんない。新聞社も関東方面はまともな配達は不可能
そんな状況で1日や2日で朝鮮人虐殺計画を広めるというのは根本的に無理、というより無茶。
元々、計画として民衆に流布していたというのなら可能だが。

震災によって不安にかられた民衆が、異民族排他に動いたのが、この結果。
社会主義者については、時期を狙っていた可能性はあったかも知れないがね。


それにして、またコピペネタ見つけて、無駄に長いだけのコピペ馬鹿中川隆に戻ったか。
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五月晴郎さん
>日本統治下の朝鮮は情報も厳しく統制されていた。
厳しいというのは、どういうのが厳しいとみるかで違ってくると思いますが。
どちらかというと詳細を知りたいですね。どこまでセーフで、どこからアウトだったとか。

>大震災時朝鮮人虐殺に関連する朝鮮人側のハングル資料なんかあるの?
自分も日本資料しか見れないのでなんとも。あるかどうかと考えれば、ないんじゃないですかね。
当時、日本に在住していて、朝鮮に戻った人が書いていない限り。
横浜市震災誌に出てきた李根榮さんみたいな人が書いていませんかね。

>あったとしても朝鮮人側が書いたの分かったらアレで残されてないだろうし
アレとはなんぞや?
コピペ馬鹿中川隆のいうところの、大震災を利用した社会主義者抹殺陰謀説
(今ならともかく印刷された大正13年当時ならそう言われておかしくない)物まで
印刷された本が残ってるくらいですから、朝鮮人側が書いた本でも、
仮にあったとすれば、全く残っていないとは思えませんけどね。
もっとも朝鮮にのみ流通していれば朝鮮戦争で消されている可能性もありますけど。

>虐殺行動自体は、真偽混じった情報を計画性を持って流し
まぁ、それは後知恵じゃないですか?としか言えませんね。
上でも書いたように、社会主義者については、時期を狙っていた可能性はあるでしょうが。


54. 中川隆 2010年10月25日 10:40:00: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q
必死だね。

(そんな状況で1日や2日で朝鮮人虐殺計画を広めるというのは根本的に無理、というより無茶。)

朝鮮人を搾取して絶えず朝鮮人の怒りを感じていたんだから、後藤新平と正力松太郎はいざという時の準備をして待っていただけさ。

資料としてこれも貼っとくよ:


「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告がある。

民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。

しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。

いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html


関東大震災に便乗した治安対策


陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒

 正力が指揮した第一次共産党検挙が行われたのは、一九二三年(大12)六月五日である。

 それから三か月も経たない九月一日には、関東大震災が襲ってきた。

このときの警視庁の実質的な現場指揮者は、やはり正力であった。

この一九二三年という年は、日本全体にとっても正力個人にとっても激動の年であった。

月日と主要な経過を整理し、問題点と特徴を明確にしておきたい。


 六月五日に、第一次共産党検挙が行われた。

この時、正力は官房主事兼高等課長だった。

 九月一日に、関東大震災が起きた。正力の立場は前とおなじだった。

 一二月二七日には、虎の門事件が起きた。この時、正力は警務部長だった。

 虎の門事件の際、警備に関して正力は、警視総監につぐ地位の実質的最高責任者である。

警視総監の湯浅倉平とともに即刻辞表を提出し、翌年一月七日に懲戒免官となった。

ただし、同じ一月二六日には裕仁の結婚で特赦となっている。

 以上の三つの重大事件を並べて見なおすと、

第一次共産党検挙と虎の門事件の背景には、明らかに、国際および国内の政治的激動が反映している。

その両重大事件の中間に起きた関東大震災は、当時の技術では予測しがたい空前絶後の天災であるが、この不慮の事態を舞台にして、これまた空前絶後で、しかも、その国際的および国内的な政治的影響がさらに大きい人災が発生した。

朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件である。

 さて、以上のように改めて日程を整理してみたのは、ほかでもない。本書の主題と、関東大震災における朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件との間に、重大な因果関係があると確信するからである。

そこで以下、順序を追って、虐殺、報道、言論弾圧から、正力の読売乗りこみへと、その因果関係を解き明かしてみたい。


 どの虐殺事件においても明らかなことは、無抵抗の犠牲者を、陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが、一方的に打ち殺したという事実関係である。

正力は、当然、秩序維持の責任を問われる立場にあった。

正力と虐殺事件の関係、正力の立場上の責任などについては、これまでにも多数の著述がある。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-1.html

「朝鮮人暴動説」を新聞記者に意図的に流していた正力

 正力自身も『悪戦苦闘』のなかで、つぎのように弁明している。

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」

 これだけを読むと、いかにも素直なわび方のように聞こえるが、本当に単なる「失敗」だったのだろうか。

以下では、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆に当たって参考にした資料に加えて、それ以後に出版された新資料をも紹介する。

いくつかの重要な指摘を要約しながら、正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。

 興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の一九六〇年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第一二巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第一師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。

「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」

 この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。


伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。

論理的な解明は不可能ではない。

ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。

「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると、その組織自体の権威も高くなければ筋が通らない。

字数が正しいと仮定すると、三字だから「警察」では短すぎるし、「官房主事」「警視総監」では長すぎる。「警視庁」「警保局」「内務省」なら、どれでもピッタリ収まる。

 詳しい研究は数多い。

『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編によれば、すくなくとも震災の翌日の九月二日午後八時二〇分には、船橋の海軍無線送信所から、「付近鮮人不穏の噂」の打電がはじまっている。


 翌日の九月三日午前八時以降には、「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれた。

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、

すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」


 正力の『悪戦苦闘』における弁解は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」となっていた。

では、この「虚報」と正力の関係、「失敗」の経過は、どのようだったのだろうか。

 記録に残る限りでは、正力自身が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」の噂を一番最初に、メディアを通じて意識的に広めようとしたのは、なんと、正力自身なのである。


 シャンソン歌手、石井好子の父親としても名高かった自民党の大物、故石井光次郎は、関東大震災の当時、朝日新聞の営業局長だった。

石井は内務省の出身であり、元内務官僚の新聞人としては正力の先達である。

震災当日の一日夜、焼け出された朝日の社員たちは、帝国ホテルに臨時編集部を構えた。

ところが食料がまったくない。

石井の伝記『回想八十八年』(カルチャー出版社)には、つぎのように記されている。


「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎が官房主事だった。


『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい[中略]』といいつけた。

それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。

ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、


『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』


と頼まれたということであった」

 ところが、その場に居合わせた当時の朝日の専務、下村海南が、「それはおかしい」と断言した、


予測不可能な地震の当日に暴動を起こす予定を立てるはずはない、

というのが下村の論拠だった。

下村は台湾総督府民政長官を経験している。

植民地や朝鮮人問題には詳しい。

そこで、石井によると、「他の新聞社の連中は触れて回ったが」、朝日は下村の「流言飛語に決まっている」という制止にしたがったというのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html

東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見


 ただし、石井の回想通りに、朝日が「朝鮮人暴動説」報道を抑制したのかどうかについては、いささか疑問がある。

内務省筋が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。


『大阪朝日』は九月四日、「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると」、という書き出しで、さきの船橋送信所発電とほぼ同じ内容の記事を載せた。

『朝日新聞社史/大正・昭和戦前編』には、震災後の東京朝日と大阪朝日の協力関係について、非常に詳しい記述があるが、なぜか、大阪朝日が「朝鮮人暴動説」をそのまま報道した事実にふれていない。


『大阪朝日』ほかの実例は、『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』に多数収録されている。

この基本資料を無視する朝日の姿勢には、厳しく疑問を呈したい。

 東京の新聞でも、同じ報道が流されたはずなのであるが、現物は残っていないようである。

わたしが目にした限りの関東大震災関係の著述には、東京の新聞の「朝鮮人暴動説」の報道例は記されていなかった。

念のためにわたし自身も直接調べたが、地震発生の九月二日から四日までの新聞資料は、実物を保存している東京大学新聞研究所(現社会情報研究所)にも、国会図書館のマイクロフィルムにも、まったく残されていなかった。


 たしかに地震後の混乱もあったに違いないが、そのために資料収集が不可能だったとは考えにくい。

報知、東京日日(現毎日)、都(現東京)のように、活字ケースが倒れた程度で、地震の被害が軽い社もあった。

各社とも、あらゆる手をつくして何十万部もの新聞を発行していたのである。

各社は保存していたはずだから、九月一日から四日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。

戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。

 ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「九月三日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。

要点はつぎのようである。


「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」


「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」


 同書の編著者で、当時は東海大学教授の山本文雄に、直接教えを乞うたところ、この号外の現物はないが、出典は『新聞生活三十年』であるという。


 実物は国会図書館にあった。著書の斉藤久治は当時の報知販売部員だった。

同書には、新聞学院における「販売学の講演」にもとづくものと記されている。

発行は一九三二年(昭7)である。のちの読売社長、務台光雄は元報知販売部長で、同時代人だから、この二人は旧知の仲だったに違いない。

ところが、この二人が残した記録は、肝心のところで、いささか食い違いを見せるのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-3.html

号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄


 務台の伝記『闘魂の人/人間務台と読売新聞』(地産出版、以下『闘魂の人』)には、務台が、震災直後から一週間ほど社の講堂で寝泊まりしたことやら、その奮闘ぶりが克明に描き出されている。

「活字が崩れてしまったので、大きい活字を使って、号外のような新聞を、四日には出すところまでこぎつけた」ということになっている。

ところが、『新聞生活三十年』には、「写真1」のような「九月一日」付けの報知号外のトップ見出し部分のみが印刷されているのである。

「四日」と「一日」とでは、この緊急事態に際しては大変な相違がある。


 謎を解く鍵の一つは、まず、『別冊新聞研究』((4)、77・3)掲載、「太田さんの思い出」という題の、務台自身の名による文章である。

そこでは、「直ちに手刷り号外の発行を行う一方、本格的新聞の発行に着手、まず必要なのは用紙だ」となっている。

地震で電気がこないから、輪転機が動かせない。

輪転機用の巻紙もない。

だが、活字を組んでインクを塗れば、「手刷り」印刷は可能だった。

しかも、「手刷り」には、もう一つの手段があった。


 さきの『新聞生活三十年』を出典とする「朝鮮人暴動説」の号外は九月三日付けだが、「写真2」のようなガリ版印刷である。

本文中には、「汗だくになって号外を謄写版に刷る」という作業状況が記されている。


 務台のフトコロ刀といわれた元中部読売新聞社長、竹井博友の著書、『執念』(大自然出版局)によると、電気がこないので九月九日まで、「四谷の米屋からさがしてきたガス・エンジンでマリノニ輪転機を動かして」いたという。

普段よりは印刷能力が低かったので、手刷りやガリ版印刷で補ったのであろう。

晩年の務台から直接取材したという『新聞の鬼たち/小説務台光雄(むたいみつお)』(大下英治、光文社)では、震災当日に「手刷り」と「謄写版」の号外を出した事を認めている。

つまり、務台自身が、段々と真相の告白に迫っていたのだ。

 もう一つの手段は、近県の印刷所の借用である。

斉藤久治の表現によれば、「報知特有の快速自動車ケース号(最大時速一時間百五十哩)」で前橋の地方紙に原稿を届け、九月七日までに、「数十万枚を東京に発、送し、市内の読者に配ることに成功した」という。

 さて、そこからが一編の歴史サスペンスを感じさせるところである。

『新聞生活三十年』の本文には、問題の号外の文章は復原されていない。

そのほかにも本文には、「朝鮮人暴動説」報道に関しての記述はまったくないのである。

 「写真2」は同書の実物大(WEB上の注:87ミリ×53ミリ)である。

もともとのガリ版が乱筆の上に、かなりかすれている。

しかも、極端に縮尺されているから、拡大鏡で一字一字書き写してみなければ、判読できない状態である。

結果から見て断言できるのは、「写真2」のガリ版号外が、『新聞生活三十年』の本文の記述を裏切っているということである。


奇妙な話のようだが、当時の言論状況を考えれば、真相は意外に簡単なことかもしれない。

著者の斉藤が、手元に秘蔵していたガリ版号外の内容を後世に伝えるために、検閲の目を逃れやすいように判読しがたい状態の写真版にして、印刷の段階で、すべりこませたのかもしれないのである。

 わたしは、このガリ版号外の件を『噂の真相』(80・7)に書いた。

読売の役員室に電話をして務台自身の証言を求めたが、返事のないまま務台は死んでしまった。

あの時代の人々には、この種の秘密を墓場まで抱いていく例が多いようだ。残念なことである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-4.html


「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者


「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、発生地帯の研究などもあるが、いまだに決定的な証拠が明らかではない。

軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告もある。

民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。

しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。


いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。

 さきに紹介した「内務省警保局長出」電文の打電の状況については、「船橋海軍無線送信所長/大森良三大尉記録」という文書も残されている。

歴史学者、松尾尊兌の論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」(『思想』93・9)によると、

大森大尉は、

「朝鮮人襲来の報におびえて、法典村長を通じて召集した自警団に対し四日夜、

『諸君ノ最良ナル手段ト報国的精神トニヨリ該敵ノ殲滅ニ努メラレ度シ』

と訓示したために現実に殺害事件を惹起せしめ」たのである。


 九月二日午後八時以降と、一応時間を限定すれば、「噂」「流言」、または「好意的宣伝」を積極的に流布していたのは、うたがいもなく内務省筋だったのである。

 なお、さきの船橋発の電文例でも、すでに「戒厳令」という用語が出てくる。

「戒厳」は、帝国憲法第一四条および戒厳令にもとづき、天皇の宣告によって成立するものだった。

前出の『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、この経過をつぎのように要約している。


「一日夜半には、内相官邸の中庭で、内田康哉臨時首相のもとに閣議がひらかれ、非常徴発令と臨時震災救護事務局官制とが起草された。

これらは戒厳に関する勅令とともに二日午前八時からの閣議で決定され、午前中に摂政の裁可を得て公布の運びとなったのである」


 前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」によると、この戒厳令公布の手続きは、「枢密院の議を経ない」もので「厳密にいえば違法行為である」という。

ただし、このような閣議から裁可の経過は、表面上の形式であって、警視庁は直ちに軍の出動を求め、それに応じて軍も「非常警備」の名目で出動を開始し、戒厳令の発布をも同時に建言していた。


 戒厳令には「敵」が必要だった。

警察と軍の首脳部の念頭に、一致して直ちにひらめいていたのは、一九一八年の米騒動と一九一九年の三・一朝鮮独立運動の際の鎮圧活動であったに違いない。

 首脳部とは誰かといえば、おりから山本権兵衛内閣の組閣準備中であり、臨時内閣に留任のままの内相、水野錬太郎は、米騒動当時の内相だった。

その後、水野は、三・一朝鮮独立運動に対処するために、朝鮮総督府政務総監に転じた。


 震災当時の警視総監、赤池濃は、水野の朝鮮赴任の際、朝鮮総督府の警務部長として水野に同行し、一九一九年九月二日、水野とともに朝鮮独立運動派から抗議の爆弾を浴びていた。

 震災発生の九月一日、東京の軍組織を統括する東京衛戍司令官代理だった第一師団長、石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていた。

 つまり、震災直後の東京で「市内一般の秩序維持」に当たる組織の長としての、内相、警視総監、東京衛戍司令官代理の三人までもが、朝鮮独立運動派から浴びせられた爆弾について、共通の強い恐怖の記憶を抱いていたことになる。

さらに軍関係者の方の脳裏には、二一か条の要求に反発する中国人へのいらだちが潜んでいたにちがいない。

 その下で、警視庁の実働部隊の指揮権をにぎる官房主事、正力は、第一次共産党検挙の血刀を下げたままの状態だった。

正力自身にも、朝鮮総督府への転任の打診を受けた経験がある。

 かれらの念頭の「仮想敵」を総合して列挙すると、朝鮮人、中国人、日本人の共産党員または社会主義者となる。

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戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺


 戒厳司令部の正式な設置は、形式上、震災発生の翌日の午前中の「裁可」以後のことになる。だが、震災発生直後から、実質的な戒厳体制が取られたに違いない。

前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」には、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が一九六二年一一月二一日に語った回想談話の内容が、つぎのように紹介されている。

「当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ

『こうなったらやりましょう』

といきまき、阿部信行参謀をして

『正力は気がちがったのではないか』

といわしめたと語っている」


 文中の「阿部信行参謀」は、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となった。

これらの戒厳司令部の軍参謀の目前で、腕まくりした正力が「やりましょう」といきまいたのは、どういう意図を示す行為だったのであろうか。

正力はいったい、どういう仕事を「やろう」としていたのだろうか。

「気がちがったのではないか」という阿部の感想からしても、その後に発生した、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量「保護」と、それにともなう虐殺だったと考えるのが、いちばん自然ではないだろうか。


森五六元参謀の回想には、この意味深長な正力発言がなされた日時の特定がない。


だが、「やりましょう」という表現は、明確に、まだ行為がはじまる以前の発言であることを意味している。

だから、戒厳司令部設置前後の、非常に早い時点での発言であると推測できる。

警察と軍隊は震災発生の直後から、「保護」と称する事実上の予備検束を開始していた。

その検束作業が大量虐殺行動につながったのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-6.html

「社会主義者」の「監視」と「検束」を命令していた警視庁


 関東大震災後の虐殺事件では、直接の殺人犯を二種類に分けて考える必要がある。

 第一の種類は、いわゆる「流言」「噂」または「情報操作」にあおられて、朝鮮人や中国人を無差別に殺した一般の自警団員などの民衆である。

前項で検討した材料から判断すれば、虐殺を煽ったのは正力ほかの警察官であり、こちらの方がより悪質な間接殺人犯である。

背後には日本の最高権力の意思が働いていた。

 同じ中国人の殺害でも、のちにくわしくふれる王希天のような指導者の場合には、ハッキリと「指名手配」のような形で拉致監禁され、しかも、職業軍人の手で殺されている。

日頃から敵視していた相手を、地震騒ぎに乗じて殺したことが明らかである。

朝鮮人についても同じような実例があったのかもしれない。

社会主義者の虐殺に関与したのは、明白に、警察と軍隊だけであった。

これらの、相手を特定した虐殺の関与者が、第二の種類の職業的な直接的な殺人犯である。

その罪は第一の種類の場合よりもはるかに重いし、所属組織の上層部の機関責任をも厳しく問う必要がある。

上層部による事後の隠蔽工作は、さらに重大かつ悪質な政治犯罪である。

 正力らが犯した政治犯罪を明確にするために、虐殺事件の問題点を整理してみよう。

 中国人指導者の王希天や日本人の社会主義者の場合には、かれらが警察と軍の手で虐殺されたのは、いったん警察に「指名手配」のような形で拉致監禁されたのちのことである。

警察の方では、軍に身柄を引き渡せば殺す可能性があるということを、十分承知の上で引き渡している。

軍の方が虐殺業務の下請けなのである。

当時の制度では、戒厳令のあるなしにかかわらず、市内秩序維持に関するかぎりでは警視庁の要請で軍が動くのであった。

全体の指揮の責任は、警視庁にあった。警視庁と戒厳司令部の連絡に当たっていたのは、官房主事の正力であった。

『巨怪伝』では、つぎのような経過を指摘している。

「九月五日、警視庁は正力官房主事と馬場警務部長名で、

『社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ』

という通牒を出した。

さらに十一日には、正力官房主事名で、

『社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ』

という命令が発せられた」

 これによると、「社会主義者」の「監視」または「検束」に関する警視庁の公式の指示は、九月五日以後のことのようである。

ところが、「亀戸事件」の犠牲者、南葛労働組合の指導者、川合義虎ら八名の社会主義者が亀戸署に拉致監禁されたのは、それ以前の「三日午後十時ごろ」なのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-7.html

「使命感すら感じていた」亀戸署長の暴走を弁護する正力


『関東大震災と王希天事件/もうひとつの虐殺秘史』(田原洋、三一書房、以下『関東大震災と王希天事件』)では、川合義虎ら八名の社会主義者が近衛騎兵によって虐殺された「亀戸事件」の経過を細部にわたり、「時系列にしたがって検分」している。

 かれら八名の社会主義者が

「三日午後十時ごろ、理由も何もなく、狙い打ちで検束されてしまった」

時点では、十一日の「検束」命令どころか、五日の「監視」通牒さえ出ていなかったのである。


 亀戸署管内では、別途、それに先立って、中国人大量虐殺の「大島事件」と、反抗的な自警団員四名をリンチ処刑した「第一次亀戸事件」も発生している。

署長の古森繁高は、社会主義者らの生命を奪うことに「使命感すら感じていた」という点で、「人後に落ちない男」であった。


古森は、「朝鮮人暴動説」が伝えられるや否や、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り、「二夜で千三百余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場にした」のである。


 社会主義者の検束に当たって古森が「とびついた」のは、「三日午後四時、首都警備の頂点に立つ一人、第一師団司令官石光真臣」が発した「訓令」の、つぎのような部分であった。

「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」

 つまり、社会主義者が朝鮮人の「暴動」を「悪用」する可能性があるから、注意しろという意味である。

『20世紀を動かした人々』(講談社)所収の「正力松太郎」(高木教典)には、正力が亀戸事件について語った当時の新聞談話が収録されているが、つぎのような説明ぶりで、古森署長の行動の後追い弁護になっている。


「実際、二日、三日の亀戸一帯は、今にも暴動が起るという不安な空気が充満し、二日夜も古森署長は部下の警官を集めて決死の命令を下す程、あたかも無警察の状態で、思想団、自警団が横行していたそうで、

軍隊の力を頼んで治安維持を保つべく、ついにこうしたことになったのであるが、

今回の事件はまったく法に触れて刺殺されたものである。

警官が手を下したか否かは、僕としては、軍隊と協力、暴行者を留置場外に引き出したことは事実であるが、刺殺には絶対関与していないと信ずる」

 この新聞談話から、社会主義者にかかわる部分を抜き出して、検討してみよう。

 まずは、「思想団」が「横行していたそうで」というが、そのような事実があったと主張する歴史書は皆無である。

つぎには、「法に触れて刺殺」と断定していうが、せいぜいのところ、留置場のなかで抗議の大声を挙げたり、物音を立てたぐらいのことであって、

そのどこがどういう「法に触れ」たのかの説明がまったくない。

「暴行者を留置場外に引き出したことは事実」としているが、これも同じ趣旨である。

正力はいったい、どの行動を指して「暴行」だと断定しているのだろうか。

 最後の問題は、「[警察側が]刺殺には絶対関与していないと信ずる」という部分にある。

正力としては、虐殺の責任を「軍隊」になすりつけ、監督責任を逃れたかったのであろう。

だが、すでに指摘したように、当時の制度では警視庁の要請で軍が動くのであった。


『関東大震災と王希天事件』には、古森署長がみずからしたためた「第一次亀戸事件」に関する報告が収録されている。

警視庁が編集した『大正大震火災誌』からの引用である。

引き渡しの理由は、「兵器ヲ用ウルニアラザレバ之ヲ鎮圧シガタキヲ認メ」たからだとなっている。

古森は、「兵器」による「鎮圧」を予測しつつ、または希望しつつ、反抗的な自警団員四名を軍に引き渡したのだ。

結果は、違法なリンチ処刑だった。

 この四名の自警団員の場合は、道路で日本刀を持って通行人を検問していた。

警官が検問の中止を勧告したところ、「怒って日本刀で切りかかった」のだそうである。本人たちは、警察が流した「朝鮮人暴動説」に踊らされていたわけだから、中止勧告が不本意だったのだろう。

留置場内で警察の悪口を並べ、「さあ殺せ」とわめいたりしたようである。

「結局、軍・警察の処置は妥当と認められ、四人は死に損となった」とあるが、リンチ処刑が「横行」するような「無警察」状態を演出したのは、いったいどちらの方なのだろうか。

 しかも、『関東大震災と王希天事件』ではさらに、この四日夜の「第一次亀戸事件」を、川合義虎ら八名の社会主義者の虐殺、いわゆる「亀戸事件」への導火線になったのではないかと示唆している。

反抗的な自警団員四名の引き渡し以後、留置場内は「前にもまして騒然となった」のである。そこで「古森は、ついに五日午前三時」、川合らを騎兵隊に引き渡した。同書では時系列の記述の最後を、つぎのように結んでいる。

「古森は『失態』を告発する恐れのある川合らを抹殺した。

両次亀戸事件の犠牲者十四人の死体は、こっそり大島八丁目に運ばれ、多くの虐殺死体にまぎれて焼却された」


 同書はまた、この「両次亀戸事件」に、中国人指導者王希天虐殺事件と大杉栄ら虐殺事件に共通する「パターン」を指摘する。

「法にしばられる警察は、自ら手を下さずとも、戒厳令下で異常な使命感と功名心に燃え狂っている中下級軍人を、ちょっとそそのかすだけで、目的をとげることができた」のである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-8.html

留学生で中華民国僑日共済会の会長、王希天の虐殺事件


 さらに重大な問題は、すでに何度か記した在日中国人の指導者、王希天の虐殺事件であった。

 ここで「さらに重大な問題」と記した意味には、虐殺そのものとは別の側面も含まれている。

この事件は、読売の紙面が輪転機にかける鉛版の段階で削除されるという事態を招いていた。

つまり、この事件は、本書の主題の読売の歴史に、深い影を落としているのだ。

 元警視庁警務部長が、こともあろうに首都の名門紙に「乗りこむ」という事態は、一種の政治犯罪を予測させる。

だが、およそ重大な犯罪の背景には、間接的または一般的な状況だけではなくて、直接的な契機、または引くに引けない特殊な動機があるものである。

とくに、一応は正常な社会人として通用してきた人物を「重大な犯罪」に駆り立てるためには、それだけ強力で衝動的な動機が必要である。

わたしは、この事件の真相を知ることによって初めて、長年の、もどかしい想いの疑問の核心部分に達したと感じる。

読売の紙面の鉛版削除という稀有な事態を招いたこの事件こそが、正力の読売「乗りこみ」という、これまた稀有な事態の直接的な動機だと、確信するに至ったのである。


 関東大震災と朝鮮人・社会主義者の虐殺の関係は一応、一般にも広く知られている。

 だが、虐殺の被害者の中でも「中国人」の三文字は、これまで付け足りのようだった。

とくに知られていなかったのは、王希天虐殺事件そのものと、その国際的な重要性であった。

中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生、王希天は、陸軍将校から斬殺されていた。

「行方不明」と発表されていた王希天の捜査、調査活動は、当時の政界、言論界を揺るがす国際的な大事件に発展していたのである。

 一九九五年には、さまざまな角度から日本の戦後五〇年が問われた。

試みに、その年の暮れの集まりで会った在日朝鮮人の研究者と、駐日特派員の中国系ジャーナリストに、「王希天虐殺事件を知っていますか」という質問を向けてみた。

案の定、二人とも、まったく知らなかった。

詳しく話すと、真剣な表情で耳を傾けてくれたのちに、「大変に貴重な情報を教えていただき、ありがとうございました」と、ていねいにお礼をいわれた。

その後、何人かの日本人ジャーナリストにも同じ質問を向けてみたが、やはり、王希天の名を知っている人は非常に少ない。

ただし、わたし自身も数か月前に知ったばかりで、自慢などできる立場ではなかった。「五十歩百歩」そのものである。


 王希天が代表としてノミネートされる中国人の大量虐殺事件については、いまから七三年前の一九二三年(大正12)、関東大震災の直後に、中国政府が派遣した調査団が訪日している。

日本政府が対応に苦慮した国際的大事件である。ではなぜ、そんな大事件が、いまだに広くどころか専門家にさえ知られていないのだろうか。


 中心的な理由は簡単である。

当時、日本政府首脳が「徹底的に隠蔽」の方針を決定し、全国の警察組織を総動員して、新聞雑誌(放送は発足前)報道をほぼ完全に押さえこんだからである。

基本的には、そのままの言論封鎖状況が続いているのだ。


 王希天は、関東大震災の直後、亀戸署に留置されたのち陸軍に引き渡され、以後、警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」となっていた。

陸軍当局も、当時は警視庁官房主事兼高等課長の正力松太郎を実質的責任者とする警視庁も、王希天殺害の事実を知りながら、国際的追及の最中、必死になって、ひた隠しにしていた。

実際には王希天は、陸軍の野戦重砲第三旅団砲兵第一連隊の将校たちにだまされて連れ出され、背後から軍刀で切り殺されて、切り刻まれて川に捨てられていた。

事件そのものは、当時の日中の力関係を反映し、最後には、賠償問題さえうやむやのままに葬り去られた。


 象徴的なドラマは、「支那(ママ)人惨害事件」と題する読売新聞(23・11・7)の社説および関連記事の周辺に展開された。

同社説(別掲)と記事をそのまま載せた地方向けの早版は、少部数だが輪転機で刷り出され、発送まで済んでいたのだが、急遽、検閲で不許可、発売禁止となり、各地で押収されたのである。

同時に、その問題の紙面には、「写真3、4」のような鉛版段階での削除という稀有の処置が取られた。


 関係資料は十数点ある。

戦後最初の大手メディア報道は、毎日新聞(75・8・28夕)の「『王希天事件』真相に手掛かり/一兵士の日記公開/『誘い出して将校が切る』」だが、同記事の段階ではまだ、王希天殺害についての証言は、所属部隊の一兵士の「伝聞」にしかすぎない。

以後、日本の研究者、ジャーナリストらの招きで、王希天の遺児が来日した際に、数件の報道があった。

しかし、残念ながら、それらの報道の中には、当時の言論弾圧状況の紹介がなかった。

 専門雑誌の記事、少部数の単行本、断片的なマスコミ報道、それだけでは世間一般どころか普通の企業ジャーナリストの目にさえ、「事件は存在しない」と同様である。

わたしが湾岸戦争以来、「マスコミ・ブラックアウト」と名付けている現象である。

王希天事件の場合には、この現象が意識的かつ政治的に作り出され、しかも、約四分の三世紀にもわたって続いていることになる。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-1.html

「震災当時の新聞」による偶然の発掘から始まった再発見


 おおげさなようだが、わたし自身も、この問題に関する「マスコミ・ブラックアウト」の被害者の一人である。

というのは、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆の際、わたしは王希天について何も知らなかった。

正力と関東大震災後の虐殺事件の関係を調べるために、何冊かの関係書に当たったが、そこには王希天のことは書いてなかった。

実際には、すでにそのころ、雑誌論文や何冊かの単行本に、王希天に関する研究が発表されはじめていたのだが、わたしの資料探索は、そこまで達していなかったのである。


 旧著の発表後にも、つぎつぎと新たな資料が発表されていた。

 前出の『関東大震災と王希天事件』の終章の題は「事件発掘史」となっているが、それによれば、王希天に関して戦後に最初の国内論文が発表されたのは一九七二年である。

 関西大学講師の松岡文平は、『千里山文学論集』(8号)に「関東大震災と在日中国人」を発表した。

その研究の発端の説明は、「震災当時の新聞に、王の『行方不明』が大きく報じられているのに疑問を抱き」始めたからとなっている。

つまり、当時の新聞を調べていたら、偶然、「王希天」というキーワードに突き当たったわけである。


 一九七五年に出版された『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)には、松岡論文を米軍押収資料など裏付け、さらに発展させた横浜市立大学教授、今井清一の研究が収められている。

だが、その時点では、王希天虐殺の事実については、つぎのような推測の範囲にとどまっている。

「野重[野戦重砲第三旅団砲兵]第一連隊の将校が、おそらく旅団司令部の意もうけて人に知られない時間と場所とを選んで殺害したのであろう」


 『甘粕大尉』の著者、角田房子は、一九七九年に同書の中公文庫版の「付記」として、つぎのように記している。

「『甘粕大尉』執筆中私は、関東大震災直後のドサクサの中で惨殺された王奇天を調べたが、努力の甲斐もなく確かな資料を見つけることが出来なかった。

 本書初版は昭和五十[一九七五]年七月二十五日に出版された。それから一ヵ月後、八月二十八日の『毎日新聞』夕刊に『「王奇天事件』真相に手掛り/一兵士の日記公開』という記事と、王奇天の経歴が発表された。関連記事は九月一日夕刊にもあった」

 角田は「希」を「奇」と誤記している。わたしの旧著、『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社、79刊)は、この『甘粕大尉』の「付記」が書かれたのと同じ年の、一九七九年に出版されている。そのころまでは、こんな状況だったのである。

 さきの毎日報道から七年後、『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋(よう)は、王希天を殺した本人の「K中尉」こと、元砲兵中尉(のち大佐)の垣内八州男を探し当てた。

垣内は、拉致された王希天の「後ろから一刀を浴びせた」ことを認める。

「[殺害を指示した佐々木大尉]は、上から命令を受けておったと思います。……

後で、王希天が人望家であったと聞いて……驚きました。

可哀そうなことをしたと……[殺害現場の]中川の鉄橋を渡るとき、いつも思い出しましたよ」、

などと、その後の心境を、ポツリ、ポツリと告白する。


『将軍の遺言/遠藤三郎日記』(宮武剛、毎日新聞社、86刊)は、毎日新聞の連載記事をまとめたものである。

のちに紹介するが、遠藤は当時、垣内中尉の直属上官だった。

 つい最近の一九九三年に発行された『震災下の中国人虐殺/中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』(仁木ふみ子、青木書店、以下『震災下の中国人虐殺』)には、「日本側資料について」の項目がある。

それによると、「軍関係資料」の内、参謀本部関係は米軍による接収以前に処分されており、防衛庁戦史資料室には皆無である。

警視庁関係は米軍に接収され、現在は国会図書館と早稲田大学で一部のマイクロフィルムを見ることができる。

一部の、しかし、きわめて貴重な資料が、外務省外交史料館に、「一目につかない工夫をして保存」されていたようである。

『関東大震災/中国人大虐殺』(岩波ブックレット、91刊)の著者でもある仁木ふみ子は、以上のような資料探索の結果、ついに、外務省外交資料館に眠っていた「まぼろしの読売新聞社説」までを発見した。

 これだけの材料が揃っているのを知ったとき、とりわけ、「まぼろしの読売新聞社説」の「発見」について、最初に『巨怪伝』の記述を目にしたとき、徐々に、そしてなお徐々に徐々に、長年の疑問と戦慄の想いが、わたしの胸の奥底からこみ上げ、背筋を走り、全身に広がり始めた。

これらの発見は、わたし自身にとっても、大変な半生のドラマの一部だったのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-2.html

「相手は外国人だから国際問題」という理解の重大な意味


 以上の資料に接するより一六年前、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』の仕上げの段階で、わたしは一応、国会図書館のマイクロ・フィルムで当時の読売の記事を検索していたのである。

そこには明らかに、輪転機にかける鉛版の段階での削除と見られる紙面があった。だが、その時には、それ以上の詳しい追及をする時間の余裕がなかった。

そこで旧著では、「なお、読売新聞の紙面そのものの細部にわたる調査も必要である」という心覚えを残し、つぎの点だけを中間報告として記しておいたのである。

「実物をみると、関東大震災の記事に、相当量の、鉛版段階における全面削除がみられる。一部の残存文字から察するに、震災時の朝鮮人、社会主義者に関する記事であることに間違いない」

 ところが、「間違いない」と断定的に書いた記事内容の推測は、不十分であった。

まずは「中国人」が抜けていた。

拡大した「写真5」で見れば、全面を削り取られた一九二三年一一月七日の読売記事の残存文字のなかには、明らかにルビ付きで「王希天氏(おう き てん し)」とあるのだが、その意味が、当時のわたしには分からなかった。

その左隣の、やはりルビ付きの「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」の方だけに気を取られて、王希天を朝鮮人だと思い込んでしまったのである。

残念といえば残念だが、わたしは、長年の戦慄の想いに終止符を打ち、この訂正と調査不足の告白を余儀なくしてくれた諸氏の研究に感謝する。


『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋の場合には、わたしとはまったく逆で、偶然の機会に王希天事件の存在を知り、それから追跡取材を開始した。

 念のために田原本人にも直接聞いて確かめたが、田原は別の用向きで、元陸軍中将の遠藤三郎と会った。

話がたまたま関東大震災当時におよび、遠藤が、当時は大尉で、江東地区の第一線の中隊長だったと語った。

田原が「大杉栄が殺されましたね」と相槌を打つと、遠藤は意外なことを語りだした。

 正確を期すために、田原の著書の方から引用すると、遠藤は、「大杉栄どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだ」と言い出した。

「オーキテンという支那人(原文傍点有り)労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺(ヤ)ってしまった。

朝鮮人(原文傍点付有り)とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽(いんぺい)したんだ」

 文中の支那人(原文傍点有り)と朝鮮人(原文傍点有り)の傍点は、田原が付けたものである。

遠藤が育った時代の用語そのままだから、別に他意はないと思う。

最大の問題は「相手は外国人」の部分にある。

 わたしの場合、この部分を自分のワープロで入力した時に、初めて、その意味の重大さに気付いた。


それまでの頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」を、関東大震災の際の「虐殺被害者」という項目で一括して考えていたのである。

「虐殺」を告発する立場の人々の多くは、わたしと同じ錯誤に陥っている可能性が高いと思う。

ところが、立場が違えば、同じ物が別の角度から見える。時の権力の頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」の三者は、まったく別の項目で整理されていたのである。

とくに「中国人」は、別扱いの「外国人」だった。

監督官庁としても外務省が加わるから、行政上では決定的な違いが出てくる。

 震災時の朝鮮人の大量虐殺事件も、もちろん重大であるし、国際的にも非難を浴びた。

しかし、当時の国際法の秩序からいえば、植民地保有とその支配自体は非合法ではない。

許しがたいことではあるにしても、いわゆる欧米列強の帝国主義国を中心とする国際外交上で考えるかぎりでは、日本人の社会主義者の虐殺問題と同様の国内問題である。

ところが、中国人の虐殺となると、当然のことながら、明確に外国人の虐殺であり、国際外交上の問題とならざるをえない。

だから遠藤は、「大杉栄どころじゃない」と語ったのである。


 しかも、当時の日本は、満鉄の利権拡大を中心に、中国東北部への侵略の意図を露骨にしていた。

第一次世界大戦中の一九一五年(大4)には、火事場泥棒で奪った旧ドイツ領の青島に増兵を送って威圧を加えながら、対中国二一ヵ条要求を突き付け、その内の一六ヵ条を承認させていた。

中国の内部での反日運動も高まっていたし、国際的な批判も日を追って増大していた。

だから、「中国人指導者・王希天」の虐殺は、現在の日本人が感じるよりも、はるかに重大な国際問題だったのである。

 その後の資料探索で、田原は読売の紙面の削除を知り、紙面の検索をしている。田原は、事前に、その削除された紙面の執筆者が、中国通の著名記者、小村俊三郎だということまで知っていた。

「中国問題に詳しい小村俊三郎」については、『読売新聞百年史』にも非常に簡単ながら、その「入社」が、松山社長時代の項に記録されている。それだけのキャリアが認められる人物だったのである。

しかし、削除された紙面の内容については、まだ、残存文字という手掛りしかない。田原は、非常に残念そうに、つぎのように記していた。

「削除された記事は、いまとなっては復原の方法はない。

『読売』のバックナンバーは、削られた白紙のままだし、小村も記録は残していない」

 田原はさらに、つぎのような想像を付け加えていた。

「そこで推測するしかないが、この記事の筆者は小村俊三郎記者であった。

彼は期するところがあって、ある“過激な”記事を書こうとした。検閲にかけたのでは通りっこないから、何らかの策を使って『鉛版』をとり、ともかく早版を刷り出すところまでは行った。

が、いよいよ近郊版を刷ろうとしたところで誰かにストップをかけられてしまった。

鉛版工のベテランが、指定された記事に削り(のみを使う)を入れる。……

と、そのとき、小村が必死の形相で近より『ここだけ削り残してくれ』と耳打ちする。

あるいは何らかの方法で、小村の“頼み”が伝えられた。

残せといった文字は『王希天』の三文字であった。

この三文字が残っていれば、何が書かれていたか、およその察しはつくのである」

 田原の想像は、おそらく「当たらずといえども遠からず」であろう。

さきにも記したし、「写真3」で明らかなように三文字のみではないが、「王希天氏(おう き てん し)」と「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」という決定的に重要なキーワードだけが、なぜか明瞭に残っているのだ。

とうてい偶然の結果とは思えない。

戒厳令が敷かれていた当時のことだから、その鉛版がはまっていた輪転機の側には、警察官、それもかなり重要な地位の検閲のベテランが、にらみを利かせていたのではないだろうか。

そうだとすれば、まさに、その目の前で、緊迫の鉛版削りのドラマが展開されていたことになる。

 この想像のドラマの緊迫感が、わたしの全身に、いい知れぬ戦慄を走らせるのだ。

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「まぼろしの読売社説」の劇的発見! 分散して資料を温存か?


 さて、それだけのドラマを秘めた削除紙面の実物が、また、なんとも劇的なことには、その後に発見されたのである。

削除は二か所にわたっていて、二面は社説、五面は関連記事であった。

「写真6、7」の「要保存/発売禁止トナレル読売新聞切抜」がそれである。

 発見者の仁木は、元日教組婦人部長である。

会ってみると、かつてのいかめしい肩書きとは違って、優しい教師そのままの気さくな人柄だった。

「定年後に時間ができて、ただただシラミ潰しに探し回っただけのことですから……」と、静かにほほ笑む。

とくに事前にお願いしたのでもないのに、貴重この上もない発見資料のコピーをも用意してくれていた。

わたしは、それを押し頂いて、発見の経過をうかがった。


 仁木は、『震災下の中国人虐殺』の中で、つぎのように記している。

「これは『要保存、発売禁止となれる読売新聞切抜』と墨書されて、外務省外交資料館にひっそりとしまわれていたのであった」

 この「ひっそりと」という表現の裏にも、おそらく大変な戦慄の人間ドラマが潜んでいたようなのである。

仁木は、「人目につかない工夫をして保存」されていたという表現もしている。

くわしくは同書を参照していただきたい。

何か所にも分かれて外務省外交資料館の資料管理状況が記されている。

とりあえず簡略に要約紹介すると、「書類を分散させて一見関係なさそうな項目の下に配列し」てあったのである。

最後には、つぎのように謎を解く鍵の人名が出てくる。


「だれがこのような文書配列をしたのであろうか。

事件の結末に何とも納得できなかった一青年事務官が、歴史の検証の日に備えて、暗号のように分散させ保管したのではなかったか。

かれの名は多分守島伍郎である。後の駐ソ大使、戦後は自由党代議士一期。

日本国連協会専務理事、善隣学生会館理事長をつとめ、一九七〇年、七〇歳で亡くなった」


 田原によれば、守島は、「同じ外交出身のワンマン吉田茂(一八七八〜一九六七)とは一定の距離を保ち、『オレは社会党から出てもおかしくはない』と語ることもあった」という。

いわゆるリベラル派であろう。

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中国側の調査団は「陸軍の手で殺されたと思う」と語って帰国


 さて、以上はまだ、王希天虐殺事件をめぐる緊迫のドラマの導入部にしかすぎない。

もう一度、物語の主人公を紹介し直し、この事件の国際的および国内的な位置付け、引いては歴史的な意味を確認し直したい。

 王希天は、当時はエリートの留学生で、その後に満州国がデッチ上げられる中国東北部の吉林省から来日していた。

推定二七歳。東京中華留日キリスト教青年会の幹事、および中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった。


1948年、東京にて、前列右から周恩来、王希天
写真提供:仁木ふみ子

 事件発生当時においても、日本国内の報道よりも中国での報道の方が早かった。

『中華日報』(23・10・17)の社説では、「共済会長王希天が警察に捕らわれたまま行方不明」という事態を「故意の隠蔽」と疑い、「軍、警察の手」によって「殺された」可能性を指摘していた。

仁木はさらに、王希天の出身地、長春、吉林省の新聞、『大東日報』(23・11・1)の記事から、つぎのような憤激の呼び掛けの部分を紹介している。


「本件発生につき考うるに彼等は吾に人類の一分子と認めざる方法を試みたるものなり。

吾々もし放任し、彼等を問罪せず黙認せば吾々は人間にあらざるなり。同胞起きて醒めよ」


 情報源は、捜索に当たった王希天の友人の留学生や、震災発生後、上海に送還された中国人労働者たちだった。

上海や吉林省などの現地の憤激を背景にして、北京政府も調査団を日本に派遣した。

日本側当局は事実の隠蔽に終始したが、中国側代表団は帰国する前に日本の外務省書記官に対して、「王希天は大杉栄同様陸軍の手で殺されたと思う」と語っていた。

『震災下の中国人虐殺』では、「まぼろしの読売新聞社説」という小見出しを立てて、つぎのように指摘している。

「十一月七日、『読売新聞』の朝刊は発売禁止となり、二面の社説と五面の記事を削りとって、この部分は空白のまま発行された。

政府に強烈なインパクトを与えたといわれる『まぼろしの読売社説』は復原すると次のようである」

 以下、二面の社説、「支那人(ママ)惨害事件」の全文は、巻末(367頁・WEB版(15)資料)に小活字で紹介する。

とりあえず要約すると、「惨害」の犠牲者を「総数三百人くらい」としている。

「支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天も亀戸署に留置された以後生死不明となった事実」を指摘し、「重大なる外交問題」の真相を明らかにしないのは、「一大失態」だと論じている。

 結論部分は、「本事件に対する政府の責任は他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。[中略]

故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する」となっている。

 仁木は、この「まぼろしの読売新聞社説」を、つぎのように評価している。

「戒厳令下の執筆であるが、実に堂々たる論調である。[中略]

一本の筆に正義を託す記者魂が厳然とそこに立つ」


 同時に鉛版から削除された五面の記事は、

「支那政府を代表し抗議委員が来朝する/王氏外百余名の虐殺事件につき精査の上正式に外務省へ抗議申込/我態度を疑う公使館」

という三段大見出しで、本文約八〇行である。

これは、もしかするとわたしの新発見なのかもしれないが、削除された二面の社説の下のベタ記事を眺めていたら、「虐殺調査委員/支那から派遣する」という本文七行の「北京四日国際発」電が残っていた。

いずれも記事の本文では「調査委員」または「特別委員」となっているのに、見出しで「抗議委員」または「虐殺調査委員」と表現している。

社説の題にも「惨害」とある。

当時の読売新聞のデスクの、この事件に対する判断基準が伝わってくるような気がする。

 読売の全面削除された社説は当然、王希天その人と中国側の動きを知り、その惨殺の事実を知るか、またはその事実にせまりつつあったジャーナリストの存在を示している。

 全面削除の社説を執筆した小村俊三郎(一八七二〜一九三三)は、「外務省一等通訳官退職後、東京朝日、読売、東京日日など各新聞社で中国問題を論評、硬骨漢として知られる中国通第一人者」だった。

王希天事件については、その後も独自の調査を続け、外務省に「支那人被害の実情踏査記事」と題する報告書を提出している。

 しかもこの小村俊三郎は、日露戦争後のポーツマス条約締結で有名な小村寿太郎と、祖父同士が兄弟の再従兄弟の関係にあった。

いわば名家の出でもあるし、もともと東京の主要名門紙に寄稿するコラムニストなのだから、顔も広い。

政府筋が個人的に攻撃すれば逆効果を生み出しかねない。

当時の松山社長時代の読売には、そういう人材が集まっていたのである。

『巨怪伝』では、当時の読売の報道姿勢を、つぎのように指摘している。

「大杉栄殺害の事実を、時事と並んでいち早く号外で報じたことにも示されるように、関東大震災下に起きた一連の虐殺事件の真相と、政府の責任を最も鋭く追及したのが読売新聞だった」

 もしかすると、内務省関係者は、田原が想像したような、「王希天」の三文字をかすかに残す印刷現場でのひそかな抵抗のドラマにも気付いて、警戒の念を高めていたのかもしれないのである。

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九二四件の発売禁止・差押処分を大手紙の社史はほぼ無視


 さて、ここで愕然とせざるをえないのは、日本の三大新聞、朝日・毎日・読売、すべての社史に、ほぼ共通する実情である。

王希天虐殺事件はもとより、関東大震災下の言論弾圧に関しての記述が、あまりにもお粗末なのである。

 まずは前項の「まぼろしの読売社説」の件であるが、『読売新聞百二十年史』を最新とする読売の社史には、たったの一行の記述もない。

それどころか、関東大震災後に報道規制があったことすら、まったく記されていない。

改めて呆れはしたが、読売のことだから、さもありなんと諦めた。


 毎日新聞はどうかというと、『毎日新聞七十年』にはまったく記載がないが、最新の『毎日新聞百年史』には、つぎのように記されている。

「新聞は“大杉栄殺し”を直感したが、戒厳令下、報道の自由はなかった」

 ただし、これだけでは、陸軍憲兵隊による社会主義者大杉栄の一家惨殺事件のみが、報道規制の対象になったかのような、誤解が生れかねない。

「王希天」の三文字はもとより、「朝鮮人」という単語も、「中国人」という単語もない。

 朝日の場合も、『朝日新聞の九十年』には確かに、「惨禍の中で特報や号外を連発」の見出しはある。

「『大阪朝日』数十万部を増刷して、船と汽車で東京に送」ったことなどの奮闘の経過は、八頁にもわたって克明に記されている。

だがやはり、報道規制の「キ」の字も出てこないのである。

 朝日は『百年史』を発行せずに、「百年史編修委員会」名で、創立から数えると一一一年目に当る一九九〇年から『朝日新聞社史』全四巻の社内版発行を開始し、一九九五年から全巻を市販している。

本文六五九頁の第二巻、『朝日新聞社史/大正昭和戦前編』には、つぎのように記されている。

「震災直後の流言からおこった社会主義者や朝鮮人の陰謀騒ぎで多数が殺された事件の実態は、九月二日に出された戒厳令によって報道が差し止められ、東朝[東京朝日]は十月二日になってその一部の報道が許された」

 ここでかろうじて「朝鮮人」という単語が、報道差し止めとの関係で登場する。

しかし、「中国人」も「王希天」もない。


 この状況は、いかにも不自然であり、不都合なのである。

国際的にも評判の「横並び」方式による隠蔽工作が、いまだに継続されているのではないかとさえ思えるのである。

 歴史的な資料がなかったわけではない。

さきに挙げたほかにも、たとえば、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会、75刊)では、これらの一連の虐殺事件に関する「ジャーナリズムの沈黙と右傾化」と、それを促進した権力の「強圧」を指摘している。

出典として『災害誌』(改造社編)などを挙げており、当時の新聞統制の模様を、つぎのように要約している。

「甘粕事件、内鮮人殺害、自警団暴挙に関する差止事項を掲げた日刊新聞で、発売頒布を禁止されたものは、寺内内閣当時の米騒動の際における処分に比すべきものと見られ、

新聞紙の差押えが、十一月頃まで殆ど三十以上に及び、一新聞紙の差押えが優に二十万枚に達したものがあった」


 ただし、ここにも「中国人」が登場しないという弱点があるし、さらには、この数字でも実は、まだまだ控え目だったようなのである。

おそらく、ここでいわれている「米騒動の際における処分に比すべきもの」という水準をはるかに越えていたに違いない。

日本の言論弾圧の歴史上、最大規模の問題として根本的な見直しをせよ、日本のメディア史の研究をやり直すべきだと、強調せざるをえないのである。

『関東大震災と王希天事件』の著者、田原は、当時の内務省警保局図書課の秘密報告を入手し、「表1」の「(秘)震災に関する記事に依り発売禁止並びに差押処分に付せられたる新聞件数調」を作成している。

「総件数」は、なんと、さきの『災害誌』の「三十以上」という数字を一桁以上も上回り、「九二四件」に達しているのである。

その内、「亀戸警察署刺殺事件に関する記事」(王希天行方不明記事を含む)と分類されているものだけでも、「三〇件」である。
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後藤内相が呼び掛けた「五大臣会議」で隠蔽工作を決定


 これだけの言論弾圧を行った当時の内務大臣は、いったい誰だったのであろうか。

 おりから新内閣の組閣中で、

関東大震災発生の九月一日までは留任中の水野錬太郎(一八六八〜一九四九)、

二日からは再任の後藤新平(一八五七〜一九二九)だった。

つまり、内務大臣としては水野の先輩に当る後藤が、この激動の際に、二度目の要職を引き受けていたのである。


 後藤が果たした役割については、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』に、つぎのように記されている。


「一〇月中旬に王希天の行方不明が報道され、同二〇日に中国代理公使から王の殺害について抗議をうけると、日本政府も対策の検討をすすめた。

内務省当局では大島事件、王希天事件を両者とも隠蔽する意見で、

一一月七日には閣議のあと後藤内相、伊集院彦吉外相、平沼騏一郎法相、田中陸相、それに山本首相も加わって協議したうえ、

『徹底的に隠蔽するの外なし』と決定し、中国がわとの応対方法については警備会議に協議させることになった」

 この「閣議のあと」の「協議」については、『関東大震災と王希天事件』にも『震災下の中国人虐殺』にも、さらに詳しい記述がある。

内務省や外務省の関係者の記録が残されているからである。

「協議」の場は「五大臣会議」と通称されている。

 本稿の立場から見て、もっとも重要なことは、この「五大臣会議」が行われた「一一月七日」という日付である。

つまり、「まぼろしの読売社説」を掲載した少部数の早版が、輪転機で刷り出されてしまい、その後に急遽、鉛版が削られた日付なのである。

日付の一致は偶然どころではない。

これこそが「協議」開催の原因であることを示す明白な記録が、すでにたっぷりと発掘されているのである。

 閣議後に協議を呼び掛けたのは後藤である。

だが、内務大臣の後藤が「五大臣会議」を発案したという経過の裏には、なにやら、ご都合主義の謀略的な臭気がただよう。


 本来の建て前からいえば、内務省は、犯罪を捜査し、処罰すべき主務官庁である。

ところが後藤個人は、すでに簡略に紹介したように、外務大臣時代に推進したシベリア出兵とそれに続く米騒動に際して、外務省の霞倶楽部の記者たちと紛争を起こしたり、報道取締りの先頭に立ったりしていた。

メディア界の進歩的勢力とは激しい対立関係にあった。

すでに紹介したように「新聞連盟」結成工作、ただし時期尚早で実らず、などの「新聞利用」なり「新聞操縦」政策を展開していた。

ラディオ放送の支配に関する構想をも抱いていたはずである。

後藤は、しかも、首相の座を狙う最短距離にいた。

その機会に備えて、メディア界の敵対分子を排除したいと腹の底で願っていた可能性は、非常に高い。

当の読売社説の内容自体も重大な問題ではあったが、それを逆手を取って政府部内の主導権を握り、一挙に、かねてからの狙いを実現しようと図ったのではないだろうか。

 政府部内の主導権を握る上では、王希天の虐殺事件は絶好の材料だった。

後藤と田中陸相とは不仲だったというし、外務省は国際世論上、日頃から言論統制には消極的だった。

ところが、この際、後藤と相性の悪い陸軍は加害者であり、被告の立場である。

外務省は国際世論対策で四苦八苦である。

いまこそ特高の親玉、内務官僚の出番であった。

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「荒療治」を踏まえた「警備会議」と正力の「ニヤニヤ笑い」


『関東大震災と王希天事件』では、関係者が残したメモ類を多数収録している。

その日の午後五時から開かれた「警備会議」の冒頭で、岡田警保局長は、つぎのような発言をした。

「本日、急に五大臣会議を開いたのは、今朝の『読売』のためであります。

相手の出方を待つ姿勢で、政府がふらふらしていると、新聞に対する取締まりも徹底を欠くし、むずかしい。

今朝は、

危いところで削除 → 白紙のまま発行

という荒療治になってしまったが、今後は隠蔽の方針も定まったことであるし、お互いに緊密なる連携のもとに、ことを進めたいと思うので、よろしくご協力をお願いします」

 早版地区に送られた少部数の「削除前」の読売は、配達直前に押収されていた。

「五大臣会議」の決定は、あくまでも政府段階での正式決定であって、内務省はすでに隠蔽工作を実施していた。

検閲の実務担当者たちは、「まぼろしの読売社説」を目にした時、冷汗三斗の思いだったに違いないのである。

「警備会議」は、実務担当者による実行手段の相談の場である。

そこには、なんと、小村寿太郎の長男の小村欣一が、外務省情報部次長の立場で参加していた。

読売社説の執筆者、小村俊三郎は、東京高等師範学校に在学中、寿太郎の邸宅に書生として住み、この欣一の家庭教師をしていた。

岡田警保局長が、小村たちに事情を話して隠蔽の「諒解を求むる」という方針を報告すると、欣一は、小村たちについて、「主義上の運動者」だから「諒解を求ることすこぶる困難なるべし」という意見をのべ、「考慮を要する」と注意した。

 いやはや、こうなると最早、何ともものすごい接近戦である。

敵味方入り乱れての白兵戦の様相である。

関係者たちは、上を下への大騒ぎ、という感じがしてくる。

 警視総監の湯浅倉平は「すこぶる沈痛なる態度」であった。

以下、関係者のカナまじりのメモに残された湯浅の「熱心説述」を、ひらがなで読みやすいようにしてみよう。


「本件は、本官のいまだ際会せざる重大問題なり。

本件は実在の事件なれば、これを隠蔽するためには、あるいは新聞、言論または集会の取締をなすにつきても、事実においてある種の『クーデター』を行うこととなる義にて、誠に心苦しき次第なり。

また本件は必ず議会の問題となるべきところ、その際には秘密会議を求め得べきも、少くとも事前あらかじめ各派領袖の諒解を求めおく必要あり。

 さればとて、本件の隠蔽または摘発、いずれが国家のため得策なるかは、自分としては確信これ無く、政府において隠蔽と決定したる以上、もちろんこの方針を体し、最善の努力をなすべきも、自分の苦衷は諸君において十分推察されたし」

 この「苦衷」を訴えた警視総監、湯浅倉平は、その後、正力松太郎とともに虎の門事件で責任を追って即日辞任届けを提出し、のち懲戒免官、恩赦となる。

警視総監になる以前に岡山県知事、貴族院議員になっていた。

虎の門事件の恩赦以後には、宮内相、内相となっている。

 湯浅の発言のあとには、「北京政府が派遣する調査団および民間調査団の調査にどう対処するか、新聞取締などが話題」になった。

新聞取締に関する警保局長の提案は、つぎのようであった。

「適当の機会に主なる新聞代表者を招致し、大島町事件は厳密調査を遂げたるも、結局事実判明せず、

ついては事実不明なるにかかわらず揣摩(しま)憶測して無根の記事を掲載するにおいては、厳重取締をなすべき旨を告げ、

もって暗に発売禁止の意をほのめかせば、効果あるべし」


 この発言内容には、当時の言論弾圧の実情が露骨に表れている。

警保局長はさらに、「新聞取締の必要上、戒厳令撤廃の延期」まで提案したが、これには同意者が少く、そのままとなった。

 この時にはまだ官房主事兼高等課長だった正力松太郎は、職責からいえば、当然、右の「警備会議」に出席しているはずであるが、以上に挙げた資料の「警備会議」の発言者の中には、正力の名はない。

まだ位が低いのである。

もちろん、研究者たちは、正力の存在を十二分に意識してきた。

 田原は、遠藤元中将から直接の証言を得て、詳しい経過を記している。


 正力は、遠藤を警視庁に呼び出していた。

「ニヤニヤ笑いを浮かべ」ながら、「聞き込みも一応終わっています」などと脅しを入れた。

すでに後藤と「五大臣会議」の間にただよう「臭気」を指摘したが、この件で、正力または内務省勢力は、陸軍と対等に取り引きができるネタを握ったわけである。

その強みが正力の顔に表われていたのではないだろうか。

田原はさらに、その後の読売への正力の乗りこみと、小村俊三郎の退社との因果関係をも指摘している。

『将軍の遺書』の方には、つぎのような日記添付「メモ用紙」部分の記載がある。

「佐々木兵吉大尉、第三旅団長の許可を得て、王希天のみをもらい受け、中川堤防上にてK[垣内]中尉、その首を切り死がいを中川に流す。[中略]

正力警備課長[警視庁官房主事の誤記]は、その秘密を察知ありしが如きも深く追及せず」

 以上、概略の紹介にとどめるが、いやはや、驚くべき本音の記録の連続である。

これらの発言記録を発見したときの、田原ら先行研究者の興奮が、じかに伝わってくるような気がするのである。


 事件の翌年、一九二四年(大13)二月二六日に、正力は読売「乗りこみ」を果たす。

 同年一〇月四日、読売記者の安成二郎は、築地の料亭で開かれた前編集長千葉亀雄の慰労会での会話を、あとでメモし、「記憶のために」と注記しておいた。

本人が三六年後に自宅で再発見したこのメモは、『自由思想』(60・10)に発表された。

内容のほとんどは、大杉栄ら虐殺事件の関係であるが、その最後の短い(三)は、つぎのようになっている。

「(王希天はどうしたんでせう、軍隊では無いでせうが……)と千葉氏が言うと、

正力氏は(王希天か、ハハハ)と笑って何も言はなかった」

 この正力の「ハハハ」という笑い声は、どういう響きのものだったのだろうか。

壮年期の正力の声については、『経済往来』(10・3)に、「男性的で丸みがあり、声量があって曇りがない」と記されている。

六尺豊かの大男が、柔道で鍛え、警官隊を指揮してきたのだったから、それだけの迫力のある声だったに違いない。

だが、「虐殺」の話題で出た「ハハハ」という笑い声には、いわゆる「地獄の高笑い」のような、真相を知りつつとぼける不気味さが、漂っていたのではないだろうか。

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戒厳令から治安維持法への一本道の上に見る正力の配置


 軍や警察当局が恐れていたのは、新聞報道の内容や新聞そのものだけではなかった。

小村欣一の発言にもあったように、「主義上の運動者」の動きもあった。

すでに「警備会議」の「話題」にものぼっていた「民間調査団」がある。

そこには、読売の小村記者以外に、東京日日(毎日系)、大阪毎日、東京朝日の記者が参加していた。

かれらは中国から来日した宗教家の調査団と接触する一方、吉野作造邸で協議をしていた。北京政府が派遣した調査団も、吉野作造邸に立ち寄っていた。


 吉野作造(一八七九〜一九三三)は、東大法科卒で、同大教授として政治史を講義していた。

デモクラシーを「民本主義」と訳したことでも知られている。

東大新人会の総帥でもあり、いわゆる大正デモクラシーの理論的主柱ともいうべき存在であった。

後日談になるが、関東大震災の翌年に当たる一九二四年(大13)には、朝日新聞社論説顧問に迎えられ、五か月あまりで退社した。

退社の原因は、「五ヶ条のご誓文は明治政府の悲鳴」という講演内容などを、右翼団体が「不敬罪」として告発したためである。

『朝日新聞の九十年』でも、退社の経過について、「検察当局の意向もあり」と記している。

「不敬罪」の告発自体は不起訴となったが、この件でも朝日は「白虹事件」の時と同様、右翼と検察のチームプレーに屈服したのである。


 さて、以上のような状況を背景にしながら、強権の発動による王希天虐殺事件の隠蔽工作が行われたのだが、それはまず戒厳令下にはじまっている。戒厳令は約二か月半も続いた。

解除は一一月一六日である。『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、戒厳令の解除後に「かわって憲兵が大増強され、警察官もまたピストルまで配備された上に増員された」と指摘する。

 戒厳令下、および以後の虐殺問題報道の全体像をも、調べ直す必要があるだろう。

田原は、王希天虐殺事件の隠蔽工作と大杉殺害事件の関係を、つぎのように示唆する。


「王希天事件は『行方不明』扱いで、十月十七日から二十日にかけて、各紙に掲載された。

『殺害』をにおわせる記述は厳重にチェックされたので、さりげない震災エピソード風に受けとめられ、やがて“関係者”以外には忘れられた。

大杉栄殺害事件で、甘粕らがスケープゴートとなった意味は、単に『犯人』を買って出ただけでなく、報道操作の陽動作戦に必要な犠牲バントとしての役割もあったのである」

 大杉栄殺害事件の軍法会議の進行は、非常に早かった。

戒厳令下の一〇月八日に第一回、以後、一一月一六日、一七日、二一日の四回で結審となり、一二月八日には、甘粕に懲役一〇年などの判決が出ている。

この間の新聞報道は、シベリア出兵以来の「反ソ」キャンペーンとも呼応している。

社会主義者への世間一般の反感をも土台にして、甘粕らに同情的な風潮さえ作り出したようである。


 その後、甘粕はたったの三年で釈放され、満州国の黒幕となる。

緊急事態を根拠にして公布された「治安維持勅令」は、そのまま法律化され、翌々年の一九二五年(大14)に制定される治安維持法への橋渡しの役割を果たした。

このようなドサクサまぎれの突貫工事によって、外にはシベリア出兵、内には米騒動、関東大震災という人災、天災のはさみうちの混乱のなかで、昭和日本の憲兵・警察支配、治安維持法体制は完成を見たのである。


 わたしは、正力の読売「乗りこみ」を、以上の政治状況と深くかかわりながら企まれた一大政治謀略に相違ないと確信している。

 さらにさかのぼれば、当時の読売が「出る釘は打たれる」のたとえ通りの襲撃目標に選ばれた理由には、まさに日本のメディア史の矛盾を象徴するような典型的経過があったというべきであろう。

 第一の理由は、その明治初年以来の歴史的ブランドである。

第二の理由は、「白虹事件」残党を中心に形成されつつあった大正デモクラシーの「メディア梁山泊」としての位置づけである。

最後の第三の理由、すなわち、「まぼろしの読売社説」をめぐるオロドオドロの衝撃ドラマは、それらの歴史的経過の必然的な帰結であった。

読売は、日本の歴史の悲劇的なターニング・ポイントにおいて、右旋回を強要する不作法なパートナー、正力松太郎の、「汚い靴」のかかとに踏みにじられたのである。

 日本の最高権力と、それに追随する勢力は、関東大震災という天災を契機として、大量の中国人とその指導者を虐殺し、卑劣にも、その事実の徹底的な隠蔽を図った。

この虐殺と隠蔽工作とは共に、以後ますます拡大される中国大陸侵略への狼煙の役割を果たした。

 正力社長就任以後の読売新聞は、最左翼から急速に右旋回し、「中道」の朝日・毎日をも、さらに右へ引き寄せ、死なばもろとも、おりからのアジア太平洋全域侵略への思想的先兵となった。

正力の読売「乗りこみ」は、いいかえれば、この地獄の戦線拡大への坂道を転げ落ちようとしている日本にとって、雪だるまを突き落とす最初の、指のひと押しの位置づけだったのではないだろうか。

 正力本人は、戦後にA級戦犯として巣鴨入りした。

だが、この時も、アメリカの世界政策上の措置によって、その罪は裁かれずに終わってしまった。

今こそ改めて、多数の中国人労働者と王希天の虐殺事件とその報道状況とを、日本のジャーナリズムの歴史の中央に位置づけ直し、事実関係を確認し直すべきなのではないだろうか。

自社の歴史を正確に記して過去を反省するか否かは、また、メディア企業の決定的な試金石でもあろう。

 わたしは一応、読売新聞広報部に電話をした。本書に記したような事実を読売新聞は把握しているか、今後の社史などで明らかにする予定があるか、などを問いただした。

しかし、「お答えすべき筋のことではないと思う」という、番犬の唸り声のような返事だけだったので、この件について、本書を「公開質問状」とすると告げた。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-9.html


55. 五月晴郎 2010年10月25日 16:20:34: ulZUCBWYQe7Lk : AnPH8ZXDmM
>>53
すいませんね、脇から茶々入れしたみたいになって議論(?)の邪魔してしまいまして。
--------

五月晴:日本統治下の朝鮮は情報も厳しく統制されていた。

53氏:厳しいというのは、どういうのが厳しいとみるかで違ってくると思いますが。
どちらかというと詳細を知りたいですね。どこまでセーフで、どこからアウトだったとか。

私も単なる推測しか出来ないのに、すいませんでした。漠然としか答えられないのを御寛恕ください。江藤淳だかが書いている戦後日本のGHQによる検閲、少なくともこれ以上に厳しかったであろうことは間違いないと思います。
----------

五月晴:大震災時朝鮮人虐殺に関連する朝鮮人側のハングル資料なんかあるの?

53氏:自分も日本資料しか見れないのでなんとも。あるかどうかと考えれば、ないんじゃないですかね。
当時、日本に在住していて、朝鮮に戻った人が書いていない限り。
横浜市震災誌に出てきた李根榮さんみたいな人が書いていませんかね。

御指摘の点に加え、上述したような背景が間違いなくあったと思うので、時の内地政府の意に沿うようなもの以外、公開される形での資料を、残すことは許されなかったと考えるのが妥当だと思います。
----------

五月晴:あったとしても朝鮮人側が書いたの分かったらアレで残されてないだろうし

53氏:アレとはなんぞや?

アレ(すいません)とは、上述の(に、又なっちゃうのですが)ところと同じように、書いていたことが分かったら厳しく圧力を加えられたと考えるのが妥当なので、という意で書きました。

53氏:コピペ馬鹿中川隆のいうところの、大震災を利用した社会主義者抹殺陰謀説
(今ならともかく印刷された大正13年当時ならそう言われておかしくない)物まで
印刷された本が残ってるくらいですから、朝鮮人側が書いた本でも、
仮にあったとすれば、全く残っていないとは思えませんけどね。
もっとも朝鮮にのみ流通していれば朝鮮戦争で消されている可能性もありますけど。

当時からサンフランシスコ条約までは異民族ではあっても同国民でしたが、内地の統治と外地、それも実質は植民地での統治は格段の差があったようです。旧台湾の人、旧朝鮮の人が東京の大学に来てその差を肌で感じて驚いたというのは複数読んだ記憶があります。といっても、内地でも特高や公安の監視対象だったでしょうから内地人のように印刷出来なかったろうし、ましてや植民地であるところの外地では、内地人が内地で印刷出来るように出来たとは考えれないと思います。
--------------

五月晴:虐殺行動自体は、真偽混じった情報を計画性を持って流し

53氏:まぁ、それは後知恵じゃないですか?としか言えませんね。
上でも書いたように、社会主義者については、時期を狙っていた可能性はあるでしょうが。

これは確かに後から出来る説明であるかも知れません。
-------------

すいませんでした。


56. 五月晴郎 2010年10月25日 16:25:14: ulZUCBWYQe7Lk : AnPH8ZXDmM
>>55
記述に明らかな間違いがありました。
「当時からサンフランシスコ条約までは異民族ではあっても同国民」
関東大震災ということで在日の人と短絡して、こう書いてしまいました。
「当時から終戦までは異民族ではあっても同国民」
の間違いです。すいませんでした。

57. 2010年10月25日 20:54:39: 2IscBge4LY
五月晴郎 氏
>>53
>すいませんね、脇から茶々入れしたみたいになって議論(?)の邪魔してしまいまして。
これが本当に議論に見えるなら、まことに申し訳ないが、
コピペ馬鹿中川隆と同レベルとしか思いざるを得ませんが・・・・・
まぁ議論には見えないでしょうね。

いろいろ書いてくださり、大変ありがたいのですが、何かしらの資料を提示いただいたうえで
日帝の検閲の凄さを書いていただければと思います。
※ちなみに大震災を利用した社会主義者抹殺陰謀説物とは、
大正13年印刷の「流言」(そのまんまなタイトル)の本です。

資料とは、コピペ馬鹿中川隆のように、ひたすら自分の主張にあった単語やフレーズで
ネット検索に引っかかったサイトのコピペというようなものではなく、
戦中・戦前の文書類からの書き出しとタイトルの併記といった形でお願いします。

正直、コピペ馬鹿中川隆のコピペは行数を阿呆みたいにとっているだけで、中身はスカスカです。

あ、コピペされたサイトの中身がスカスカというわけではなく、
コピペ馬鹿中川隆が検索に引っかかったサイトを、そのままコピペするという
能無しな方法でコピペするからスカスカだ、というそのままの意味ですので。


58. 中川隆 2010年10月25日 21:18:44: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

本当にアホだねえ。文献学のイロハも知らないんだ。

それに例えコピペでもあなたは論破されているんだから議論に負けたのは動かない。(まあ、コピペがデタラメでなければだけどね。)


それにコピペは資料として出しているんだから、自分で勝手に省略したり改竄したら資料価値がなくなるだろ。だから、なるべくそのままコピペしてるんだ。

ネット上のHPは大抵数カ月でなくなるから、俺がコピペしておかなければ永遠に失われてしまうのさ。


59. 五月晴郎 2010年10月25日 22:47:31: ulZUCBWYQe7Lk : AnPH8ZXDmM
>>57
>何かしらの資料を提示いただいたうえで
本来はおっしゃる通りなのですが、>>55で申し上げたように類推でしかないです。
類推の元になったのも↓と小熊英二くらいですから、平に御容赦を。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/392.html#c7


60. 2010年10月26日 17:41:24: IWbFYFzKzk
>本当にアホだねえ。文献学のイロハも知らないんだ。
文献学って言葉知ってるだけで、文献学の内容は知らないのが、コピペ馬鹿中川隆。
コピペ馬鹿のやっていることはただのコピペ。
そもそも、コピペ馬鹿中川隆に、迷惑にもコピペ対象とされたサイトがやっているのは
文献学ではなく、歴史研究のほう。これを文献学と称す馬鹿はなかなかいないな。
さすがは、コピペ馬鹿中川隆、といったところかw

>それに例えコピペでもあなたは論破されているんだから議論に負けたのは動かない。
議論じゃなくて大量にコピペしてるだけだろ。なにか議論的なものがあったか?
議論は自分の言葉でやるものであって、大量のコピペをすることではない。
大体、主題すら明らかにしてない議論が存在しえるか?
論破?それを、詭弁の特徴のガイドラインでいうところの、勝利宣言をする、というのだよ。

>それにコピペは資料として出しているんだから、自分で勝手に省略したり
>改竄したら資料価値がなくなるだろ。だから、なるべくそのままコピペしてるんだ。
サイトが本来必要な前後を省略した時点で資料価値はない。

>ネット上のHPは大抵数カ月でなくなるから、俺がコピペしておかなければ永遠に失われてしまうのさ。
引用されたサイトのかた、コピペ馬鹿中川隆に馬鹿にされているぞ。


五月晴郎さん
>朝鮮産金
>小熊英二
ですか。
小熊英二氏のどの書に載っていたかを教えてもらえれば、ありがたいです。
そこから引用された戦中・戦前の文献に辿りつけるかも知れませんので。
強烈な思想統制はされている時代(よりは前ですが)上記で記した「流言」という
大杉栄殺害事件や亀戸事件は陰謀であったと主張する書物が印刷され残存するくらいなので。


61. 中川隆 2010年10月26日 20:00:02: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q
知能指数いくつ?

(歴史研究のほう。これを文献学と称す馬鹿はなかなかいないな。)

俺が文献と言ってるのはネットのHPの記事そのものだ。


それより、朝鮮人虐殺が偶発的だったという話は引っ込めたのかな?

コピペした資料を否定できなければ論破されたのと同じだ。

俺の投稿スタイルとは関係ない。

コピペの中身の問題さ。


62. 2010年10月26日 22:30:28: 1tLZ7QYHrQ
>知能指数いくつ?
中学生か?さすがコピペ馬鹿中川隆3bF/xW6Ehzs4I。
知能指数の意味もわからず使ってるとは。

>(歴史研究のほう。これを文献学と称す馬鹿はなかなかいないな。)
>俺が文献と言ってるのはネットのHPの記事そのものだ。
文献学ってのは、そういう意味じゃねーよ、コピペ馬鹿め。

>それより、朝鮮人虐殺が偶発的だったという話は引っ込めたのかな?
>コピペした資料を否定できなければ論破されたのと同じだ。
コピペ馬鹿中川隆3bF/xW6Ehzs4Iよ。
せめて中身を読んでコピペしろ。
お前の阿呆垂れ流しなコピペのなかに、いくつ朝鮮人虐殺が計画としてデマが流されたってのがある?
百分率でいいから答えてみろ脳なし。

市中に流れたデマが、誤って無線にのせられたが、それでも
「・・・鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ。」
鎮圧をしろではなく、取締をしろと言ってるだけだ。

そもそも、真に政府による計画的な朝鮮人虐殺であれば、なぜ罹災地近辺でしか朝鮮人虐殺がみられなかったんだ?
極限状態じゃなかったからか?計画的であれば極限状態の有無なくの虐殺となるぞ。
ところが、それは起こっていない。能無しにコピペするばかりじゃなく、当時の地方新聞読んでみろ。
9月4日までの地方紙は「これでよく地方で朝鮮人への暴行が起きなかったな」って書きっぷりだから。

そして、なぜ警察官自らがデマを信じるな、と言って朝鮮人を守ったんだ?
昔の警察は現代より、よほど政府に近い機関だぞ。

>俺の投稿スタイルとは関係ない。
投稿スタイル?w 能なしだから、コピペしかできないだけだろ。
単にコピペ馬鹿中川隆3bF/xW6Ehzs4Iが能なしの上に脳なしの結果。

>コピペの中身の問題さ。
コピペの中身ぐらい読んでからコピペしろ。


63. 五月晴郎 2010年10月27日 02:40:30: ulZUCBWYQe7Lk : AnPH8ZXDmM
>>60
あんたもしつこいねえ。
類推だって言ってんだろ。

基礎的な教養と基本的な礼に欠けてる方と話す準備は無いので。悪しからず。


64. 中川隆 2010年10月27日 08:21:57: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

>>60さんのは論証になっていないんですよね。

直観的把握能力と論理的思考力に欠陥があるのではないですか?

他人の批判はいいですから、ご自分できちんとした論証をしてみて下さい。


65. 2010年10月27日 20:47:36: QtI15XNhdc
五月晴郎さん

おや?切れられてしまった。
「小熊英二氏のどの書に載っていたかを教えてもらえれば、ありがたいです。
そこから引用された戦中・戦前の文献に辿りつけるかも知れませんので。」
昔読んだので覚えていない、で済むことなのに。
実際、それを検証してみようかと思ったんですがね。ま、いいです。

さて、
コピペ馬鹿中川隆3bF/xW6Ehzs4I
>直観的把握能力と論理的思考力に欠陥があるのではないですか?
文献学と言ったり直観的把握能力と言ったり、言葉がすぐ変わるのは
論理的思考能力に欠陥がある証拠ですよ。

>論証になっていないんですよね。
>他人の批判はいいですから、ご自分できちんとした論証をしてみて下さい。
コピペ馬鹿中川隆3bF/xW6Ehzs4Iは、なんか論証したのか?
コピペ垂れ流して中身見ずにフレーズのみで感想書いただけだろ。


66. 2010年11月17日 11:30:31: mfEeyId7gI
中川氏の投稿は改行がおおくて、しかも、空白が多い。その上、コメントが長すぎてくたびれる。もう少し要領よく読みやすくまとめて投稿してくれないと読む気になれない。


67. 中川隆 2015年2月15日 00:29:04 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

大野「現代の農業問題の原点は大正時代の米騒動にあると思っています。はじめてその頃、日本で食糧問題が出てきました。1918年の米価高騰は、凶作と買い占めが原因で、帝国内自給といって、朝鮮半島、満州、台湾でジャポニカ米を作って、本土に持ってきました」

大野「朝鮮の農民に対する“コメの強制連行”とも言われ、技術と品種を持っていき、韓国に農地試験場を作り、食料の本格的な国家統制が始まったのです。『稲もまた、大和民族なり』と言う言葉がありました。コメが植民地支配の尖兵だったと言えます」

大野「朝鮮の在来品種を作っていたら、引っこ抜かれ、日本が奨める品種の栽培を強制されたと言われています。満州事変のあと、満蒙開拓として、日本の失業者を大陸の農村に押し込んで、土地も強奪し、入植した、ということです」
http://sun.ap.teacup.com/souun/16641.html


68. 2015年10月15日 21:02:24 : fCf2aw2LSg
朝鮮の当時の米作は、基本陸稲で収穫量が少なかった。
日本が持ち込んだ水田耕作方式で飛躍的に収穫量が増えている。
馬鹿は、そんなことすら知らないで語るから困るな。

69. 中川隆[-8863] koaQ7Jey 2019年7月29日 09:45:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3857] 報告

2018年05月06日
木村光彦『日本統治下の朝鮮 統計と実証研究は何を語るか』
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_14.html


 中公新書の一冊として、中央公論新社から2018年4月に刊行されました。

https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE-%E7%B5%B1%E8%A8%88%E3%81%A8%E5%AE%9F%E8%A8%BC%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%81%8B-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%9C%A8%E6%9D%91-%E5%85%89%E5%BD%A6/dp/4121024826

本書は経済問題に限定して、日本の朝鮮半島支配を実証的に検証しようとしています。著者はかつて、韓国の高校生向け教育番組において、朝鮮における日本の支配は世界の植民地支配のなかで最悪だった、との見解が受け入れられている様子であることに疑問を抱き、それが本書の執筆動機になっています。世界の植民地支配をすべて調べて比較したのか、そもそも最悪とはどのような意味なのか、などといった疑問です。

 本書はまず、1910年の日韓併合時点での朝鮮の経済状況を概観します。当時の朝鮮は都市商業や工業が未発達で、1870年代の日本よりも農業への依存度が高かったようです。当時の朝鮮の米作の生産性は、同じ頃の日本よりかなり低かったそうですが(半分程度)、これは技術的な問題が大きいようで、灌漑設備が少なく、肥料は自給自足といった事情がありました。前近代おいて、朝鮮の初等教育は日本より未発達だったようです。両者の大きな違いは、日本ではそれなりに女性がおり、「実用的」知識も教えられていたいのに対して、朝鮮では女子がほぼおらず、「実用的」知識は教えられず、ほぼ儒教の古典に依拠していたことです。

 日本による保護国化を経て、1910年以降、朝鮮は日本の統治下におかれます。これはオランダ領東インド諸島と同じく直接的統治で、イギリスによる間接的なインド統治とは対照的です。日本の朝鮮統治は、1919年の万歳騒擾事件(三・一独立運動)を契機に武断政治から文化政治へと大きく変わりました。警察の拡充など朝鮮における支配機構の肥大から、朝鮮総督府の財政自立が進んで1919年には全廃された補充金が、1920年以降再び、1911〜1912年以上の水準にまで増額されました。しかし、後述するように、日本財政における負担割合は低下していきました。とはいえ、朝鮮の租税負担率は「内地」の3〜4割、台湾の6〜7割程度だったので、朝鮮財政は補充金と公債金が欠かせなくなり、「内地」依存型から完全には脱却できませんでした。

 1910年以降、朝鮮の産業構造は大きく変わりました。1912年には国内総生産のうち第一次産業が7割近くを占めていましたが、1939年には4割程度に低下しています。これは第一次産業の衰退を意味するのではなく、相対的には縮小したものの、絶対的には成長しました。米の生産量は、1910年代初めには1200万石前後でしたが、1937年には2700万石まで増加します。米の生産性も1.6〜2倍程度に上昇しました。ただ、朝鮮総督府は土地改良や優良品種の普及などによる米の生産性の向上には熱心でしたが、大豆・大麦・粟など畑の作物への関心は低く、生産性は低下傾向にあったようです。なお、この間、土地調書事業で農民の多数が土地を喪失したわけではなかった、と指摘されており、じゅうらいの有力説が否定されています。

 上記の国内総生産の割合の変化から窺えるように、朝鮮は日本統治下で工業化が進展します。これは欧米の植民地にはない特異なものだった、と本書では指摘されています。「内地」にもない巨大水力発電所とそれに依拠する大規模工場群の建設は、日本統治下の朝鮮と欧米の植民地との違いを際立たたせる、というわけです。産業発展の主導者は「内地人」でしたが、朝鮮人の側にも、自発的な模倣や企業者精神が明瞭に見られました。驚異的な工業化の進展は、統治側・被統治側双方の力が結合したものだった、と本書は評価しています。なお、このように朝鮮人が主体的に工業化に関わった一因として、朝鮮における華人の少なさが指摘されています。華人がいれば、朝鮮人は経済的にその家風に立たされていたのではないか、というわけです。

 このように、日本統治下の朝鮮では、農業生産が増大し、工業化が大きく進展しました。では、多数の朝鮮人の生活水準はどうだったのかというと、主観的要素も大きいので評価は難しい、と指摘されています。日本統治下で激減したと推定されている1人当たりの米消費量について、たとえば、1920〜1930年にかけて0.63石から0.45石に減少したとの推定は間違いで、減少はしたものの、その程度はさほど大きくなかった、と指摘されています。具体的には、1915〜1919年には0.589石、1930〜1933年には0.556石、1934〜1936年には0.511石、1936〜1940年には0.555石です。

 身長を指標とすると、日本統治下の朝鮮では、一般人の生活水準は大きくは変わらなかったのではないか、と推測されています。経済は大きく成長したものの、人口増加と平均寿命の向上により、生活水準自体は大きく変わらなかった、ということかもしれません。経済が成長しても生活水準が大きく変わらなかったとすると、主観的には貧しくなった、との実感が生じるかもしれません。ただ、公衆衛生や鉄道のような交通手段の発達は顕著なので、その点では生活水準の向上を実感した人もいるかもしれません。

 総合的には、日本は朝鮮を比較的低コストで統治しました。朝鮮における治安維持に成功し、経済成長も促進しました。朝鮮からの米の移入が「内地」の農家に打撃を与えたようなこともあったものの、総じて日本経済に占める朝鮮の比重は小さく、財政面でも日本政府の負担は小さくて、歳出総額に占める朝鮮統治の財政負担割合は、併合後次第に低下していきました。日本の朝鮮領有はレーニンの帝国主義理論のような経済決定論では説明できず、安全保障的観点が色濃いものでした。

 このような比較的安定した日本の朝鮮統治が大きく変わったのが、日中戦争以降、とくに太平洋戦争以降のことでした。当時の日本の国力では無理のある総力戦体制が企図され、経済統制が進展していきます。1940年代になると、農業生産は低下し、生産性も低下します。これは、朝鮮および「内地」の工業部門への労働力流出、資材・肥料の不足、過大な供出などが要因でした。一方、1940年以降、農業生産とは対照的に鉱工業生産は増大しました。これは、戦争遂行が優先されたからでした。1940年以降、とくに太平洋戦争以降、日本は絶望的な総力戦に突入し、朝鮮を巻き込みました。現在の日韓の歴史問題の多くはこの時期に根源がある、と本書は指摘します。

 朝鮮経済は戦時期に内地経済により従属するようになった、との見解がじゅうらいは有力でしたが、じっさいには逆で、大日本帝国政府は、長期戦に備えての朝鮮における「戦争経済」構築のため、本国から自立した軍事および非軍事工業の建設を企図しました。戦時期には朝鮮と満洲との経済的結びつきが強くなり、朝鮮・満洲の自立的工業の建設は、完全に達成されたわけではないとしても、敗戦までに大きく前進しました。朝鮮は米軍の爆撃対象にならなかったので、インフラ・工業設備は温存されました。

 本書は、表題とは異なり、北部(朝鮮民主主義人民共和国)と南部(大韓民国)に分断された第二次世界大戦後も検証しています。本書はまず、南北の違いを指摘していきます。日本統治下の朝鮮では、インフラ・鉱物資源・工業設備の多くは北部に存在しました。鉄道の路線距離も、面積・人口あたりのいずれでも北部の方が上でした。農業に関しても、1人当たりの食糧生産能力では、北部が南部を凌駕していました。こうした状況を前提として、本書は南北の違いを検証していきます。

 第二次世界大戦後の朝鮮に関しては、人材面では、北部の非連続性と南部の連続性が指摘されています。しかし、イデオロギーの観点からは、全体主義という点で戦前と戦後(独立後)の朝鮮北部における連続性が指摘されています。北部では、体制転換は統治の理念もしくは精神の根本的変革を必要としなかったので、大きな混乱がなかった、というわけです。一方南部では、統治理念の全面的な転換が図られ、北部と比較して大きな混乱が見られました(李承晩大統領のデモによる退陣など)。経済面に関しては、北部では日本統治時代の戦時期に続いて統制経済が採用されました。しかし南部では、市場経済が基盤となりました。

 ソ連は朝鮮北部から穀物・工業原料・製品のみならず工業設備も解体して持ち去りましたが、それは初期に留まり、規模も限定的でした。北部は軍事優先の国家体制構築を進め、日本統治時代の産業遺産は経済の根幹であり続けましたが、軍事偏重は長期にわたる経済停滞をもたらしました。一方南部では、軍事工業の解体と民需中心経済への転換が図られました。南部が日本統治時代から継承した工業設備は北部よりずっと少なかったものの、交通・通信・農業など、さらには人材面で継承した遺産は少なくはなく、朴正熙政権の優れた指導力のもと、経済が発展して北部を圧倒するに至ります。

 本書はこのように、日本統治下の朝鮮を経済に限定して検証し、さらには戦後の南北朝鮮をも視野に入れています。日本統治下の朝鮮の近代化を強調する見解は大韓民国でも主張されており、「ニューライト」と呼ばれています。こうした動向自体は、随分と前から知っていたので、本書の見解はさほど意外ではありませんでした。しかし、この問題に関しては不勉強だったので、本書のように一般向けにやや詳しく解説した書籍を読んだことがなく、本書は大いに参考になりました。本書の見解に激しく反発する人は少なくないでしょうが、議論の前提となる根拠を具体的に提示したというだけでも、一般社会における本書の意義はとても大きいと思います。
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_14.html

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