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日本は一夜にして「軍事弱国」になり、米国は、日本の行うありとあらゆる国際政策に対し、なんだかんだと難癖をつけるようになる
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/496.html
投稿者 TORA 日時 2011 年 6 月 13 日 15:59:58: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu241.html
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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日本は一夜にして「軍事弱国」になり、米国は、日本の行うありと
あらゆる国際政策に対し、なんだかんだと難癖をつけるようになります。

2011年6月13日 月曜日

◆航空戦艦「伊勢」と「日向」の物語  2月6日 ねずきちのひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1159.html

そして世界はまさに「力」が支配していた時代です。
「力」の強い欧米列強は、「力」を持たない黄色人種や黒人を支配し収奪し、国家ごと植民地として支配下に置いていた、そういう時代です。

植民地支配された有色人種には、もはや「人権」はありません。
殺されても収奪されても文句をいうことはできない。
そして植民地からの奪うことが、欧米列強の「富」の源泉であり、彼らの「力」をますます強大なものとしていた。そういう時代です。

そんな中で、明治維新後、国力を増した日本は、明治38(1905)年、日本海海戦において、世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊を撃破します。

これによって日本は、黄色人種としては唯一、世界の三大強国の仲間入りをすることになった。
つまり、世界の三大強国は、日、英、米の三カ国となったのです。

そして日本は、有色人種唯一の、白人支配に対抗できる強国として、世界の期待を一身に担う国家となった。

実際には、日露戦争は辛勝であり、戦争に勝利したとはいってもロシアからの賠償金はもらえず、国家財政は極めて厳しい状況に置かれていたのだけれど、白人支配に苦しめられている国々からみたら、日本は、まさに夢のような武士の国、であったわけです。

しかもその日本は、世界最強の植民地国家である大英帝国と同盟関係にあった。

つまり、世界から見れば、世界第一位の強国と、それに並ぶ強国の2カ国が同盟関係にあったことになる。
これは、のちのちの世でいえば、全盛期のソ連と冷戦時代のアメリカが、同盟国となったようなものです。

この同盟に勝てる国は、世界広しといえども、どこにもない。(中略)

日本おそるに足らずと見た米国は、大正11(1922)年に、米国の首都ワシントンで軍縮会議開催を呼びかけます。
そして、日、英、米の保有艦の総排水比率を、3:5:5と決めてしまいます。

しかもこの会議に出席した日本政府の代表は、これで軍事予算を軽減できて財政が潤った、世界が軍縮に向かって、良かったよかった、と小躍りして喜んだ。
しかも、なんと、陛下の勅許さえ得ないで独断でこれを決めてきてしまった。

こういうことは、幕末に井伊直弼が、天皇の勅許を待たずに独断で日米和親条約を締結し、その結果、日本の金(gold)が大量に米国に流出し、日本から金(gold)がなくなってしまったのと同じで、とかく日本の政府が陛下を軽んじると、のちろくなことが起こらない。

日本国内では、政府の勝手なワシントン条約批准に、これは陛下の統帥権を干犯した大問題である、との抗議運動が起こって内政は大混乱します。
かたや世界では、日本がこの条約を飲むやいなや、翌年8月には日英同盟が失効してしまう。継続は、なしです。
変わって米英が同盟国となった。

つまり、世界の三強国(日、英、米)は、それまでの、

(日5+英5)対、米5

という関係だったものが、なんと一夜にして、

日3、対(英5+米5)

という、状態になったのです。

軍事バランスが変わった。

米英の10に対して、日本3では勝ち目がありません。
それまでの米英日の軍事バランスは、これで完全に崩れ去ったのです。
日本は一夜にして「軍事弱国」になってしまったのです。

こうなると、あとは日本の力を削ぐだけです。
米国は、日本の行うありとあらゆる国際政策に対し、なんだかんだと難癖をつけるようになります。

そしてついには、中国内にいる不良武装集団である軍閥に、英国と手を組んで武器弾薬や糧食を裏から渡し、外地にいる日本人を殺害したり、拉致したり、日本人婦女を強姦したりと、あくどい戦争挑発行為を行いはじめます。
そしてついには、日本に対してハルノートを突き付け、日本が戦争に踏み切らざるを得ないように挑発した。

要するに、日本が支那事変や大東亜戦争に向かわざるを得なくなったその遠因を手繰り寄せれば、それは、英国が「トレッドノート」を建艦し、日本が扶桑級4隻の軍艦建造を「財政上の理由」から「渋った」ことが、遠因である、ということです。

こうした切り口での解説には、保守系の方でも、詳しい方なら詳しい方ほど、いろいろなご説はあろうかと思います。

けれども、国際情勢の中で、やるべきときにはやらなければならないこと、いかに財政上の苦労があろうが、軍事バランスを常に「強者」に置いておく努力がなければ、国家は他国に軽んじられるのだ、という事実は、ちゃんと記憶しておく必要があるものと思います。

軍隊というものは、戦争をするためのものではありません。
軍隊は、戦争を未然に防ぐのが、最大の役割なのです。

そこを間違えると、財政上の理由でケチった何百倍ものツケを払うことになり、国の経済は傾き、国民の生命も財産も失うハメになる。
これが現実となったのが、大正2年の軍艦建造反対の国会の動きだったのです。(後略)


(私のコメント)


戦前においては日米英が三大軍事大国であり、ドイツやロシアが軍事大国といっても大陸国であり、海軍力は小さかった。当時は戦略爆撃機も戦略ミサイルも実用化されていなかったから、戦艦こそが勝敗を決める切り札だった。大正時代の頃は英国が世界最大の海軍国家であり、日英同盟によって二大海軍国家が同盟を組んでいた。それに一番脅威を感じていたのが国力を増して来たアメリカであり、日英同盟の解消を図るのは当然の動きだろう。

現在の英国も日本も、かつての面影はありませんが、アメリカが仕掛けた日英同盟解消が原因と言えるのではないだろうか? アメリカから見れば、英国が弱体であればヨーロッパでアメリカの影響力が大きくなれるし、日本が弱体化すればアメリカはアジアで好き勝手なことが出来る。アメリカが世界覇権を取れたのも第二次世界大戦で日英両国が弱体化したためだ。

このアメリカからの視点に立てば、日本が経済大国になり軍事大国になる事は、アメリカのアジアにおける利権を失うことになるから好ましくない。中国市場を独占するには日本を徹底的に弱体化しなければならないとアメリカの戦略家が考えてもおかしくはない。ブレジンスキーやキッシンジャーがそうですが、ソ連の共産主義が猛威を振るっていた頃は、アメリカは日本や英国を援助してソ連と対抗しようとした。

ソ連から見れば、日本と英国の存在は海への出口を塞がれる事であり、中国から見ても日本の存在は海への出口を塞ぐことでは同じ戦略的な価値を持つ。しかし中国の海軍力は今のところアメリカにとっては取るに足らないから、日本を弱体化したままでもいいのだろう。つまりアメリカが世界の覇権国家として強大である内は英国や日本は弱体化させておかなければならない。それがアメリカの戦略だ。

株式日記には、英国の読者もいるようですが、英国人はこのようなアメリカの戦略が分かっているのだろうか? 英国は日本と手を切りアメリカと手を組むことでアメリカの術中にはまり、ドイツ人の反英意識をくすぐって二度にわたる世界大戦を仕掛けさせた。アメリカはアジアに対しても中国人の反日意識をくすぐって、トラブルをけしかけて日中戦争を起こさせた。

このようにアメリカは、ヨーロッパやアジアに戦争を起こさせることが戦略であり、英国や日本を弱体化させて西ヨーロッパや東アジアの支配力を強めた。アメリカは敵の敵と手を組むことで勝利してきましたが、敵の敵とはドイツであり中国だ。英国にとってはドイツが目の前の脅威であり、二度の世界大戦によって大英帝国はただの英国になった。日本も中国が一番の脅威であり、中国に深入りしすぎて後ろからアメリカにばっさりとやられた。

日本も英国も、アメリカに対しては死んだ振り戦略で、アメリカの好きなようにさせておくしか手はないのであり、ロシアや中国と直接対峙させてアメリカ人に真の味方はどちらかを見極めさせることが大事だろう。地政学的に見ても強大な海軍力を持つ条件を持っているのは日本と英国とアメリカだけであり、ロシアも中国もドイツも強大な海軍力を持てても陸軍力も強化しないと国家が維持できない。

昨日はアメリカの経済危機について書きましたが、経済力が弱体化すれば金のかかる海軍力も削減しなければなりません。原子力空母は金食い虫であり一隻につき建造費が5000億円で年間400億円も維持費用がかかる。それを11隻も運用しているのだから軍事予算も巨額になる。しかし国債をデフォルトするとアメリカ国債を買う人がいなくなり、国家予算も組めなくなる。

ソ連の崩壊はCIAも予知することが出来ないほど急速な出来事であり、アメリカの崩壊も予知することが出来ないほど急速に進むかもしれない。そうなると世界の警察官がいない状態となり、世界の海は海賊や国籍不明の潜水艦が出没して海上交通は遮断される。日本も自前で中東のオイルル−トを維持しなければなりませんが、アメリカに任せっぱなしだ。日本は死んだ振りをしていなければならないからそうなる。

アメリカはドイツを援助することで英国を弱体化させ、中国と手を組んで日本を敗北させた。英国や日本国内にはアメリカの軍事基地が出来て日英は死んだも同然となった。日本も英国も島国だから死んだふりも出来ますが、アメリカの基本戦略は、英国と欧州大陸を対立させ、日本と中国と対立させることにある。以前にもバランスオブパワー戦略を書いた事がありますが、アメリカの衰退化するにつれて戦略を変えてくる必要があるだろう。

中国やロシアが強大化して海軍力を増強してくればアメリカにとっても脅威となりアメリカ一国では対抗できない状況になるかもしれない。アメリカの西海岸や東海岸にロシアや中国の潜水艦が出没するようになればアメリカは北アメリカ大陸に封じ込められることになる。同盟国である英国や日本は頼りにならず英国は本当に死んでしまうかもしれない。だから分裂してスコットランドも独立しようとしている。

このようになった始まりは、大正時代のアメリカの日英同盟に対する脅威であり、日英の二大海軍国に挟まれる事はアメリカが封じ込められる可能性があった。ワシントン条約の締結と日英同盟の解消はアメリカ外交の成果であり、大英帝国の没落の始まりでもあった。日英同盟の解消が英国のアジアの植民地を失う結果となりアメリカがその後のアジア市場を獲得した。中国の共産化は誤算だったが日本を一時的に強化してソ連崩壊に繋げて中国の市場開放化を促した。

オバマ大統領は「米中関係が世界のどの2国間関係より重要」と演説しましたが、90年代から米中は「戦略的パートナー」と言われてきた。ソ連が既に崩壊しているのだから共通の敵は日本しかないのであり、日本に対しては1ドル=80円の円高にする反面では中国に対しては人民元安を認めて日本を弱体化することに成功した。1921年のワシントン条約の戦略が90年後の今でもアメリカの戦略として息づいているのだ。


 

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コメント
 
01. 2011年6月13日 20:20:39: MiKEdq2F3Q
(アメリカはアジアに対しても中国人の反日意識をくすぐって、トラブルをけしかけて日中戦争を起こさせた。)

戦前は中国という国は無かったんだよ。中国は共通語として漢字を使っている無数の民の総称だから、日本人が虐殺しまくらなければ、反日意識なんか存在しなかったんだ。

というより日本人の残虐行為に怒って反日感情を持ってしまった無数の民族が日本に対抗する為に纏まって中国という国を作ったのさ。

日本が滅びれば、中国も民族ごとに分裂する。


02. 2011年6月14日 07:24:27: MiKEdq2F3Q

日本人の残虐行為がデマだというなら、まずこれを否定してね。
できる訳ないけど(嘲笑い):


「徹底した史料の読解によって、南京事件の真実を明らかにします」
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ  
http://www.nextftp.com/tarari/

それから、従軍慰安婦が売春婦だったと言ってるアホも居るけど、売春は20才以上でなければ営業認可が下りない。従軍慰安婦にされた朝鮮女性は12,13才で慰安所に連れて行かれてるから、売春婦ではありえないんだよね。


03. 2011年6月18日 03:19:19: AjqXJWnyg7
参考までに。

「南京大虐殺はウソだ!」
http://www.history.gr.jp/~nanking/

小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」。 (by 1喝たぬき)
http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/949.html


04. 2011年6月18日 12:30:10: MiKEdq2F3Q

自分の狭い見聞を絶対視する小野田寛郎は典型的なアホ人間:


慰安所は合法的だったか?


戦前の日本では、売春は公然と認められていた。戦地でも売春業者が軍隊を相手に商売をしただけではないのか?と云う人がいます。 しかし、いくら戦前でも売春やり放題ではありませんでした。これはかなり誤解されています。

 「貸座敷、引手茶屋、娼妓取締規則」と云う法規制があり、「強制」とか「虐待」とかが伴う売春は法律違反だったのです。売春が本人の自由意志によることを確認するために、まず、本人が自ら警察に出頭して娼妓名簿に登録することが必要でした。また娼妓をやめたいと本人が思うときは、口頭または書面で申し出ることを「何人といえども妨害をなすことを得ず」とされていました。営業はどこでおこなっても良いものではなく「貸座敷」と認定された特定の建物の中だけで許されたのです。だましたり、強制したりして売春婦を集めることを防ぐために「芸娼妓口入業者取締規則」で売春婦のリクルートを規制していました。

日本も婦女売買を禁止する国際条約(1910)や児童の売買を禁止する国際条約(1925)に加盟しており、売春を目的とした身売りは、「本人の承諾を得た場合でも」処罰しなければならなかったのです。もちろんいつの世にも法の裏街道を行く無法者はいるわけですが、大日本帝国では軍が税金を使って無法者と同じ事をしていたのです。

 慰安婦の登録もなかったし、慰安婦の自由意志の確認などされた形跡はまったくありませんから、軍の慰安所は売春規則を守っていません。

国内法的には完全な違法行為である慰安所が作られたのは法律を上回る「軍の力」によるものです。占領地では軍の司令官がすべての法権限を持っていましたから、国内法を無視することも出来たのです。

戦地での強姦事件があとをたたず、「皇軍の威信低下」が危ぶまれたので慰安所はこれを防ぐ目的で作ったそうです。(万引きを繰り返す子どもの親が、小遣いを増やす事でこれに対応したようなものです。)設置のされかたは業者が部隊に取り入ったりする場合もあったし、軍が設営して慰安婦を徴募した場合もありますが、部隊長名で利用規定や料金を定め、軍医や憲兵を配置して実効支配していますから軍の組織の一部であり従軍慰安婦であったことに間違いはありません。慰安所の普及は隅々にまで及び、全ての部隊に慰安所があったと云っていいほどで慰安婦にされた人の数も20万人に達したと言われています。

http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/


  「慰安婦」制度が軍用性奴隷である理由、

女性たちが自由もない状況に置
かれていたことを示す資料を見てみよう。


  問題となるのは

(1)慰安所で強制があったこと、

(2)徴募時に強制があったこと、

(3)未成年者が連行・使役されたことである。


  まず(1)だが、慰安所制度では、内地の公娼に認められていた「拒否す
る自由」「外出の自由」「廃業の自由」すらなかったことが挙げられている。

  軍は、「娼妓取締規則」(1900年)に該当するような軍法を作ること
もなく、慰安所を作っていった。当然、「廃業の自由」はなかった。

  「外出の自由」を認める軍法がなかったことは、「慰安婦」の外出を厳し
く制限する慰安所規則が現地の部隊によって種々作られていることから確認で
きる。「特に許したる場所以外に外出するを禁ず」とした独立攻城重砲兵第二
大隊の規定、業者に「慰安婦外出を厳重取締」するように命じた比島軍政監部
ビサヤ支部イロイロ出張所の規定、「慰安婦の外出に関しては連隊長の許可を
受くるべし」とした独立山砲兵第三連隊の規定などである。

  もちろん、許可制なので、外出できる場合もあった。しかし、許可制であ
れば外出の自由があったとはいえない。逃亡の恐れのない遠隔地に連行された
場合、規則がゆるくなる場合もあった。

  また、兵站司令部が介入して「慰安婦」の待遇を改善したという漢口の慰
安所の事例でも、前借金を「売春」で返済しなければならないという、民法第
90条に明確に違反する契約を軍は当然視している。

  山田清吉漢口兵站司令部慰安係長も「妓は自分の身体で稼いで前借りを返
さねばならぬという拘束がある。何とも不合理な話なのだが、私にも特別の配
慮のしようがない」と記している。

  「拒否する自由」も当然なかった。あったのは泥酔した兵士の相手を拒む
ことができることぐらいで、この程度では拒否する自由があったとはいえない。

  (2)の徴募時の強制については、官憲が「奴隷狩り」のように暴力で拉
致する強制がなければ強制ではない、というような議論があるが、以下のケー
スは「強制」と考えるのが当然ではないだろうか。  朝鮮・台湾では、軍に選定された業者が


(a)前借金でしばって連れていくケース、
(b)だまして連れていくケース、
(c)誘拐・拉致するケース


は、韓国や台湾でのヒヤリング記録に見られる。とくに(b)は多かった。

(a)(b)については、アメリカ戦時情報局の資料でも確認できる。

  軍の要請により総督府が上から割り当てていったと思われるケースは、次
のようなものがある。まず、1938年11月、第21軍の要請で徴募した時
「台湾総督府の手を通じ同地より約300名渡航の手配済み」という記録があ
る。台湾でのヒヤリングでは、48名の元「慰安婦」のうち役所から割り当て
られたという者は6名いる。

  1941年7月の関特演(関東軍特別演習)では、関東軍は2万人の「慰
安婦」を集めようとし、朝鮮総督府に依頼して約1万人を集め、ソ「満」国境
に配置したという。これが事実だとすれば、上から割り当てるしかなく、そこ
で事実上の強制があったと思われる。

  末端での官憲の直接関与を示す資料は、現在までのところ出てきていない。
これは非公開の政府資料が調査できるようになれば、あったかなかったかはっ
きりするだろう。

  占領地ではどうか。中国・フィリッピンの被害者の証言は、ほとんど軍に
よる暴力的な連行である。インドネシアでもこのケースの証言が少なくない。

  被害者の証言以外では、インドネシアの事例がかなり明らかになっている。
ジャワ島スマランなどでオランダ人女性を連行したケースや、スマランからフ
ローレス島へオランダ人・インドネシア人女性を連行したケース、ボルネオ島
ポンティアナックで地元女性を連行したとみられる事件、モア島で軍が連行し
たとする裁判資料、サバロワ島で地元女性を連行したとする証言、アンボン島
で地元女性を連行したとする証言などがある。

  (3)朝鮮・台湾からの未成年者の連行・使役については、半数以上が2
1歳未満の未成年者であったことが、ほぼ確認できる。
(吉見義明「何が事実で証拠なのか」法学セミナー、97年8月号、ただし引
用資料は省略、またカタカナはひらがなに変換)

http://www.han.org/a/half-moon/hm036.html#No.250

『慰安婦』にされた年齢

韓国人元「慰安婦」(43名)の徴集時の年齢は以下のようになります。

11歳  1名

12歳  1名

13歳  1名

14歳  3名

15歳  5名

16歳 16名  ←台湾での公娼の下限年齢*3

17歳  7名  ←朝鮮、満州での公娼下限年齢

18歳  3名  ←日本(内地)での公娼下限年齢

19歳  3名

20歳  -

21歳  1名  ←国際条約*4における成人女性の年齢

22歳  -

23歳  1名

 ・

 ・

 ・

29歳  1名


:「募集年−生誕年」で単純計算しただけなので、実際はこの結果より年齢が1歳下である場合も多いと思われる。

韓国での調査なので、年齢が満年齢ではなく数え年齢の可能性がある。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080923/p1


軍人の戦争犯罪は、たとえそれが個人的なものであったとしても、国際法上国家には損害賠償責任がある。


国立国会図書館所蔵の極東軍事裁判の関係文書の中に、日本軍人の戦争犯罪を立証する尋問調書が見つかった。指揮官だった陸軍中尉が(インドネシア)モア島で現地の女性をむりやり「慰安婦」にしたことが供述されている。

問「ある証人はあなたが婦女たちを強姦し、その婦人たちは兵営に連れて行かれ、日本人たちの用に供せられたと言いましたが、それはほんとうですか」

答「私は兵隊たちのために娼家を一軒設け、私自身もこれを利用しました」


問「婦女たちはその娼家に行くことを快諾しましたか」

答「ある者は快諾し、ある者は快諾しませんでした」

問「幾人女がそこにおりましたか」

答「六人です」

問「その女たちのうち、幾人が娼家に入るように強いられましたか」

答「五人です」

問「どうしてそれらの婦女たちは娼家に入るように強いられたのですか」

答「彼らは憲兵隊を攻撃した者の娘たちでありました」


問「ではその婦女たちは父親のしたことの罰として娼家に入るよう強いられたのですね」

答「左様です」


  住民が憲兵隊を攻撃したという行為に当時の日本軍政に対する強い抵抗の意志を見ることができる。この尋問調書で興味深いのは兵営を慰安所にしたという陸軍中尉の証言が、ウイダニィンシさんらの証言と重なることだ。

  ウイダニィンシさんは、軍が接収して使用していた、もとはオランダ人の民家に監禁され、性奴隷状態におかれた。彼女を拉致した軍人数人が強姦し、その後、「慰安婦」にしたということまで、モア島で慰安所をつくった陸軍中尉のやりくちと同じだった。


  強制連行を示すもうひとつの公文書、1948年2月14日に下されたバタビア臨時軍法会議判決を『季刊、戦争責任追及』No3所収「オランダ女性慰安婦強制事件に関するバタビア臨時軍法会議判決」でみてみよう。これは、オランダ人抑留所から女性が慰安所へ連行され、性奴隷とされた事件を戦争犯罪として裁いたものである。

  被告は12人であった。


被告1. 45歳、1902年広島県生まれ 陸軍大佐

  1945年3月から4月にかけて、スマランの兵站将校の職務にあった被告は戦争犯罪が犯されていると、あるいは戦争犯罪が犯されるであろうと察知していたか、当然、疑ってみるべきだったにもかかわらず、自分の指揮下にあった民間人ならびに軍人が35人程の女性に売春を強制し、強姦するのを黙認した。

  この女性たちは日本軍占領当局によって、スマラン市内のスマラン東、ヘダンガン、ハルマヘラの3カ所の婦人収容所、また、アンバラワ第4、第5という2カ所の婦人収容所から連行され、将校クラブ、スマラン・クラブ、日の丸、二葉荘などのスマラン市内の数軒の慰安所に収容されていた女性たちである。

被告3. 38歳、1910年広島県生まれ 陸軍少佐

(a)被告は1944年2月26日頃か、同年同月のある日、スマラン市内カナリラーンにある建物において35人ほどの女性たちを、慰安所として設備された4カ所の建物に輸送することを命じた。・・略・・


  また被告は、兵站将校代理の職務にあって、前記の女性たちのうち、自由意志で売春を行う女性は皆無か、いたとしてもごく少数であり、売春をさせるために実力行使が行われるであろうことを承知しながら、あるいは、当然、その疑いを持つべき立場にありながら、女性たちに売春婦として働くことを命じた。

(b)・・略・・将校クラブと呼ばれる建物において・・略・・

不特定多数の日本兵との自発的な性交を拒否し続けるならば、彼女たちは殺されるか、あるいは彼女たちの親族が報復を受けるであろうと脅迫して売春を強制した。


     ・・・


被告9. 41歳、1907年10月9日東京生まれ 陸軍曹長

  ・・・当時、スマラン・クラブと呼ばれた慰安所の支配人をしていた頃、被告は日本軍占領当局の強制収容所から連行された少女や女性の7人ほどに対し、売春を強制し、女性たちが日本兵との婚外性交を拒むと殴るなどの暴力を行使した。
     ・・・


被告12. 39歳、1909年1月24日山梨県生まれ 陸軍曹長

  ・・・将校クラブとよばれる慰安所の支配人であったとき、・・・婚外性交を拒否すれば、もっと悪い状況下にある兵士用慰安所に移すと脅かし、強姦、強制連行、強制売春またその他の一般的虐待で女性たちすべて、あるいは多くの少女たちに深刻な肉体的、精神的苦痛を与えた。

(川田文子「インドネシアの『慰安婦』」明石書店)

http://www.han.org/a/half-moon/hm036.html#No.250


そして慰安所から逃げた慰安婦の運命は…


            _ -‐ァ                   __
       (三ニニL.                   _j‐-.三)
       {:::rj  !                   `ト、::::::j
      _ノ==-く                     ,)ーヘ、
     / {    _,.)                    r=, ̄ ̄ヽ、
.     L-!     | (|                     | |    ハ
    丁 |    Lニ|                /、_j  i   L.|
     | ,ハ____l l                    !`7′ !  |「 |
     | | {:::::::::::::::ト, l                  ノ ハ―-―.{l !
     | 〉|::::::i::::ヽ| |_j              rヘ/ |::ノ:::::::::::ハ |
     ` !:::::i:::::::i|                    〉′l:::::::::i::::::| L!
.        |:::::i:::::::::!      ξノノλミ      | . |:::::::::!:::::|
      l::::::〉:::::/     ξξ`Д)     |   !::::::::!:::::!
      |:::/:::::/         {    ` ヌ.___ノ    !:::::::i:::::|
      |/:::::/        |i   「`´          |:::::::i:::::|
.       /:::::〈_        ヽヽ l            |:::::::l:::::|
      `ー一′        | l 〈_         |:::::::ト-′
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 ( ( `ハ´ .) / ̄ ̄ ̄'し ̄ ̄/\
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  し ̄ ̄ ̄\)     ./ \


日本軍「慰安婦」生活を強要されたキム・デイル女性の証言を聞いてみよう。


 「平壌が故郷だという、“ハナコ”と呼ばれた女子が妊娠したが、田中は酒をひどく飲んで入ってきて、彼女を倒して容赦なく腹を蹴り飛ばし、次に彼女の腹から胎児を取り出して投げ飛ばした。

 そして、朝鮮女性をみな集めてからそのはらわたを刃先で引き出して「慰安婦」の首にかけ、部屋の床の血をなめろと言った。

この時、多くの女子は気絶し、心臓が破裂して死んだ女子もいた。

 ある日、田中は大きい犬一匹を引いて入ってきて、犬に

「俺もしたから、お前もやれ」

とそそのかし、私に×××させた。

私が気を失って倒れると、冷水を浴びせて狂ったように襲いかかり、獣欲を満たした。

 さらに奴らは麻薬を吸わせた後、タバコにガソリンをつけて口や鼻、子宮に突っ込み、火をつけて火傷させた」

 日本兵は、ある「慰安婦」少女が必死に反抗したため、5匹の馬に彼女の腕と脚と首をくくり、引きちぎって殺したという。

かと思えば、ある女性が自分たちの要求に応じないため、「乞食」に「しつけ」をしてやるといい、彼女を木に逆さにぶら下げ、無理矢理襲いかかって銃卓で殴打した後、乳房をえぐり取って残忍に虐殺したという。

 日本兵は「慰安婦」が伝染病にかかれば、彼女らがいる「慰安所」に火を放ち、死体を川や山中に捨て、戦闘に敗れて追われる時には「慰安婦」を一列に並び立たせ、順に首を切り落とした。

http://www.piks.or.tv/date/japan/20040826.htm

『沈黙の叫び 日本軍「慰安婦」出身のおばあさんの声』


耐えかねて逃げようとした女を日本兵達が見せしめに縛り上げて乳房を短剣で
切り落とすと傷口から真っ白な脂肪が溢れ出してきて、やがてそこから血が流れ出した。
http://www.eigaseikatu.com/imp/14905/152813/

日本兵は彼女の首を切り、その煮汁を飲めと強要しました

 私は4人兄弟の長女で、弟3人がいました。

ところが、両親は私たちを残して死ん でしまい、一番下で乳飲み子だった弟もお母さんに続いて死んだのです。

  住む家もないので橋の下で雨露をしのぎながら、乞食をしたり農家の手伝いをして弟たちを養いました。
 
私が数え年で17歳の夏、住んでいた小屋に帰って来ると、巡査か兵隊なのかわからない日本人の2人の男が現れたのです。

彼らは私の髪の毛をつかんで、放り投げるように大きなトラックに乗せました。

弟たちが「お姉ちゃん行くな」と泣き叫んだの で私は振り返ろうとしたのですが、男たち に蹴られてトラックに押し込められました。

その中には、幼い少女から20歳前後までの娘たちでいっぱいで100人くらいいました。
男たちは、泣き叫ぶ私たちを殴ったり蹴ったりして黙らせたのです。

  水原(スウォン)の駅から汽車に乗せら松中国の大連へ連れて行かれました。

私たちが列車の外をのぞこうとすると、「何を見ている」 と兵隊は髪を引っ張ったり足で蹴ったりしました。

私は、弟たちのことも心配だしこれから何が起きるかという不安で泣き出したのですが、そしたらまた殴られたのです。

兵隊たちは、途中のハルビンや牡丹江などで娘たちの一部を汽車から次々と降ろして行きました。

私は東寧県で汽車を降ろされ、20人くらいの女性たちとトラックでプチャゴルに連れて行かれました。

到着すると将校が

「天皇と軍の命令だ。 言うことを聞かないと殺す」

と言いました。

私は5号室に入れられ、着いたその日から強姦されたのです。

あちこちの部屋からも悲鳴が聞こえてきました。

それからは、少ない日でも30人くらいの日本兵の相手をしなければなりませんでした。
 

ある日、2人の女性が兵隊の相手をするのを拒否したということで、両手を縛られて庭に引っ張られて来ました。

兵隊たちは、 私たちを呼び集めて2人を高い木に吊るしたのです。

その娘たちは兵隊に

「犬のようなお前たちの言うことなんか聞かない」

と言いました。

そうしたら、奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです。

血が吹き出ました。あまりにも残酷なので私は気絶してしまいました。

  彼女たちが死ぬと兵隊たちは首を切って沸いた湯の中に入れました。

そして、その煮汁を私たちに飲めと強要しました。

拒否 すれば私たちも殺されるので、生きるために仕方なく飲んだのです。

  女性たちの数はいつも20人くらいで、病気で死んだり逃亡に失敗して殺されたりすると新しい女性が補充されました。

ある時、 私は逃げようとして捕まってしまいました。

板にくぐり付けられて何十人もの兵隊に犯され逃げ出せないように足の神経を切られてしまったのです。

  そして、別の部隊に移されて砂地に天幕を張っただけの所に入れられました。

私は、 鉄条網の下をくぐって逃げようとしましたが、鉄条網に鈴が付いていたのを知らなかったので再び捕まってしまいました。

すると、兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押しつけたのです。

この時の火傷はケロイドになってしまったので今でも歩くのが困難で、痛くて横になることもできないほどです。


  ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました。

私は火傷のために早く歩けなかったので食事に遅れたのですが、私が行った時には先に食べていた女性たちがすでに死んでいたのです。

私は、這って逃げ出して、その村の中国人にかくまってもらいました。

私はここの「慰安所」に8年間いました。

  体の火傷の跡を見てください。正視できないほどです。

1947年に帰国しましたが、 故郷には帰れませんでしたし、子どもを生 むこともありませんでした。
http://www6.ocn.ne.jp/~kitanisi/knews/knews0109.html


日本軍はどのように慰安婦の秩序を保ったか:

A. 韓国人慰安婦の1人は、なぜ1日に40人もの男にサービスしなければならないのかと尋ねたために、日本軍指揮官の命令によって、他の慰安婦の面前で、刀でたたかれ、裸にされて、たくさんの釘の突き出た板の上を転がされ、血だらけになった後に首を切られた。

さらに、日本軍指揮官の1人は、それを見ていた人々の前で

『あなたたち全員を殺すのは、犬を殺すよりも簡単だ』

と述べ、死んだ女性の死体を煮て食べるように強要した。


B. 韓国人慰安婦の1人は、他の40人とともに蛇だらけの水溜りに入るよう命令され、そのうち数人は、無理やり水中に押し込まれ、その後、土をかぶせて生き埋めにされた。


C. 兵士に噛み付いた新入りの慰安婦は、他の慰安婦の面前、慰安所の中庭で首を切られ、ぶつ切りにされた。


D. 激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦の面前で引きちぎられて殺された。


E. 多くの慰安婦は、中国兵捕虜の頭を煮た水の残りを飲むように強要された。


F. 性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。

G. 性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。


筆者が最近傍聴した集会にも、元慰安婦が招かれ、体験談を語ったが、その上品で温和な顔立ちの元慰安婦が、

「慰安所の天井から赤ん坊の頭で作ったモビールのような飾りが吊るされていた」

と語ったとき、会場は一瞬息を呑んだ。

http://www.cmht.com/casewatch/civil/comfort.html
http://www.geocities.com/lordfreeza88/esytesti.htm


05. 2011年6月18日 14:47:49: MiKEdq2F3Q

私が知る「従軍慰安婦」 湯浅謙

当時の軍人の目から見ると「慰安婦」は公娼のように見えたのです。料金を払いますし愛想もよかったからです。

然し彼女たちには本当のこと、つまり

「私は強制され連れて来られた」とか、

「帰ろうとしても脅迫され帰れなかった」

などとは絶対に言えなかったのです。

相手は軍人、ましてや将校、

「日本軍を談議する」とか、「戦争に協力しない」として憲兵隊に通報される。

またにこにこして兵隊を迎えなければぶん殴られるが関の山。


ここに落ちたら泣いても反抗しても同じ、することはしなくてはならない。

だから性奴隷です。これが植民地支配の実情です。

 私は路安で一日に30人を相手にして急死した女性のことを聞きました。苦しくても逃げられなかったのです。

 しかし

「外出もできたから自由があった。お金を得たから奴隷ではない」

などと言う若いマンガ家や

「兵隊を拒否しなかったから商売だった」

という大学教授もおります。これらは植民地支配や戦地の軍支配の実体を何も知らない人たちの言うことです。「慰安婦」は正しく日本軍の性奴隷だったのです。

 私はまた彼女たちの性病検査をしました。前記の河南省に派遣される部隊が、まだ山西省南部に駐留しているときのことでした。周囲は山々で各分遣隊への道には点々とトーチカが作られておりました。赴任して間もなく大隊長に呼ばれたところ、「嬉しいことがある」とにこにこ顔で言われ、「慰安婦」六、七名が来たのです。別に性病検査の命令は受けなかったのですが、軍医の私しかいないのです。

 私は産婦人科の経験は学生時代しかなく自信がなかったのですが、六、七名の「朝鮮人慰安婦」の性病検査をしました。リンパ腺にふれて腫大をみたり、クスコという器具を性器に突っ込み粘膜の異常をみる。尿道部を圧迫して腹が出るかを検査しました。そして全員合格とし、部隊には回覧を廻して「全員合格だが肉眼的所見によるものだから必ず予防具をつけること」と通知したわけです。

 そこでは又こんなことがありました。「大隊長の子を宿した」と言う女性がいたのです。これには困りました。日本軍の権威に係わることです。そこで大隊副官と相談し「絶対に堕させること」にしました。私は検査官という武器=権力を持っておりましたから彼女も従わざるを得なかったのでしょう。結局よそに行って堕胎したようです。

 私が3年半いた路安陸軍病院のことですが、兵隊は日曜の外出日には慰安所を訪れるのが最大の楽しみでした。整列した兵に「みんな持っているか」「はーい」、予防具を持っているかを確かめるのです。

 また外出日に当番に当たると町を巡察します。肩から巡察の帯をつけて衛兵を連れ肩をいからして歩くのです。乱れた態度の兵を見つけると注意します。私は巡察時には慰安所には行かぬよう先輩から注意されました。その先輩は馴染みの慰安婦から「今日は偉そうな格好している」と冷やかされ、慌てて逃げてきたそうです。また路安では露営会議といって駐屯する部隊の副官が集まり、私も出席し、日曜日だけの外出では慰安所がいっぱいになるから、部隊に外出曜日を割りあてました。また物価騰貴の折から2円を3円に値上げしたように記憶しています。このように慰安所の経営は業者(軍属?)が行ったのですが、管理は軍がしていたのです。結局戦地の兵士は殆ど全部慰安所を訪れたでしょう。

 以上のほか私が他の軍人と違う体験をしたのは、敗戦後も2700名の軍人と共に国民党軍に徴用され3年半も人民解放軍と戦ったわけですが、その中に軍人の妻となった朝鮮人慰安婦が何十名かおりました。そして全中国の解放時に軍人は捕虜収容所に収容されましたが、彼女たちは軍人の家族として家族隊で生活していました。

その時、日本軍国主義の束縛から解放された彼女たちは、


「日本軍に騙されいた」

「村祭りで遊んでいたら軍人に集められつれて行かれた」

「父親の『承諾書』を見せられたが父親は字が書けなかったのに」

「苦しくて消毒薬をのんで死を図った」


等々の不満が噴出したそうです。 また殆どの捕虜と家族は、1953年夏帰国を許され大部分は朝鮮に一部は日本に帰りましたが、日本の家庭では彼女らは受け入れられず、ただ働いて働いて多くは苦しみの中に亡くなられたと聞いています。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/05/yuasa_ianhu.htm


06. 2011年6月19日 15:49:40: MiKEdq2F3Q


日本軍がシンガポールを占領した直後に「軍司令部の後方係り」によって慰安所が開設された時のことである。当時、少尉であった著者が衛生兵から聞いた話であるが次のように記述している。


「彼(衛生兵注)が行ってみると、薄板を張って小部屋を仕切った急造の慰安所の部屋の前には、兵たちがいくつもの列を作って、並んで待っていた。(中略)

英軍時代には一晩に一人ぐらいを相手にして自分も楽しんでいたらしい女性たちは、すっかり予想が狂って悲鳴をあげてしまった。四、五人すますと、「もうだめです。体が続かない。」と前を押えしゃがみこんでしまった。

それで係りの兵が「今日はこれまで」と打ち切ろうとしたら、待っていた兵士たちが騒然と猛り立ち、撲り殺されそうな情勢になってしまった。恐れをなした係りの兵は、止むをえず


女性の手足を寝台に縛りつけ、「さあどうぞ」と戸を開いたという。


ちょうど番が来て中に入ったくだんの衛生兵は、これを見てっ青になり、体のすべての部分が縮み上ってほうほうのていで逃げ帰って来たというのであった。」

(総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社、1983年)

これを見ると、軍による組織的な強姦(輪姦)としか言い様のない実態が示されている。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper32.htm

子供ができた慰安婦はこういう目に遭うのかな?:

731部隊元隊員が証言 「子持ちの慰安婦を生体解剖したこともあった」


「病原体の生体実験 毎日2〜3人解剖」731部隊元隊員証言


 戦時中に中国大陸で、捕虜などに人体実験を重ねた旧日本陸軍731部隊の衛生兵だった三重県尾鷲市の大川福松さん(88)が8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席、「毎日2〜3体、生きた人を解剖した」と証言した。当時の体験を人前で明かしたのは初めてで、「不正なことは、社会に、はっきり示さなあかんと思うようになったから」と語った。

 大川さんは早稲田大で細菌学を学び、1941年に召集。44年8月から旧満州(現中国東北部)にあった関東軍防疫給水部本部(通称731部隊)の「ロ号棟」で、衛生伍長をしていたという。所属した班は、ペストやコレラ、梅毒などの病原体を人体に注射して感染の状態を調べたり、人為的に凍傷を作ったりしていた。最初は「大変な所に来た」と思ったが、次第に感覚がまひし、「そのうち、毎日2〜3体解剖しないと仕事が終わらん気になっていった。多い時は1日5体を解剖した。実験の対象は名前ではなく、番号で呼ばれていた」と証言した。

 子持ちの慰安婦を解剖したこともあった。「子どもが泣いている前で母親が死んでいった。子どもはどうするのかと思っていると、凍傷(の実験台になった)。それをざんごうに放り込んで埋める。本当に悲惨なことがたくさんあった」

 戦後は「国から口止めされていたから」と沈黙を続けていた。シンポの開催を新聞で知り、「当時の仲間に会えるかも」という思いもあって出席したという。

(2007年4月9日 読売新聞)
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20070409/1176115827

いわゆる「従軍慰安婦が存在したか否か」、「731部隊の戦争犯罪は本当に行われたか」あるいは「南京虐殺は本当に行われたか」などという件について、産経新聞系の右派メディアや「日本会議」系の政治家、それにいわゆる「ネット右翼」(ネットウヨ)などは否定に躍起になる。

これらについては、証言者がたくさんいて、報道もされているし、それをまとめた本もある。

改めて書くのも馬鹿馬鹿しい話だが、読売新聞の記事を転載した「朝鮮日報」の記事に、固有名詞の誤記があった。それをとらえて、あたかも読売新聞の記事に誤記があったかのような印象を与える記事を、「博士の独り言」という電波ブログが書いたのだ。その卑劣さには、開いた口からエクトプラズマが出ていって幽体離脱してしまいそうになったほどだ。

このように、戦争の記録をとどめようとする努力に対して、政治的な意図を持った勢力から妨害が行われるが、安倍晋三政権の目指す「戦争のできる『美しい国』づくり」を阻止するためにも、戦争の証言は次の世代へと受け継いでいきたいものだ。


http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-313.html


女マルタは、私の運んだ分で10本ほどいた。男のマルタは何百本と運んだので、数をはっきり覚えていないが、女マルタは少なかったのでよく覚えている。

 ハルピン駅にある憲兵隊詰所に、受領に行った時、女マルタ3人だけということもあった。3人とも断髪にしていて、小柄で水色の満服を着て、若くて美しいロシアの女マルタだった。

白系ロシアの若い女性は色が白く、つやがあり、青い眼は宝石でも光っているようで、肉付きがいい割には、足がすらっと長く、大変に魅力的であった。

 彼女たちは寒さに強く、こちらは何枚も何枚も重ね着をし、しかも襟に毛のついた防寒着をを着て、それでも背を丸めて足踏みしているのに、彼女たちは、薄着の上に、リスの栗色の毛のシューバーをひっかけて、颯爽と歩いているのであった。
 女マルタも囚人服を着せられるが、男マルタと違って、手錠も足錠もかけられていなかった。数が少ないので、貴重な存在として扱われ、布団のつくろいやミシンを踏まされたりしていた。しかし、断髪で房の中にいることが多く、顔色もさえず、ろうそく色をしている者が多かった。

 つかまった時に妊娠していて、隊内で子どもを生んだマルタもいた。けれども女マルタは、結局梅毒実験などの対象とされ、顕微鏡検査に使われ、時には病状を猟奇的興味でくまなく検査され、最後には解剖され、局部はホルマリン漬にされた。生首や他の臓器とともに、陳列室に並べられたのであった。


※戦争時の国家の機関で起こったことである。密室の閉鎖的なところで女の人を猟奇的興味でくまなく検査したり、解剖したり。もちろんこのほかにも、いろいろなことがあったと思う!また、その女の人の局部や生首をよくもまあ陳列室において見たものだ!!天皇の承認した機関で堂々と行なわれていた!!おぞましい限りである。(ノブ)

http://blog.goo.ne.jp/bu0007/e/eb97fe3b5a31fd8835dfccee374a0b2b


07. 2011年6月19日 16:40:28: MiKEdq2F3Q

日本人の変態ぶりは世界中で有名になって、こんな映画まで次々に作られているんですね:

女性器にゴキブリを挿入する拷問映像 ※ショッキング注意!

動画:Death By Vaginal Cockroach

映像のネタ元は「ナイフの哲学」というホラー系の作品になるんだそう。この作品は旧日本軍の731部隊の人体実験を描いていて、他にもエグイ拷問シーンが見られるみたいです。

http://www.elog-ch.com/news/archives/2008/11/29115830.html#comments

K太陽731.wmv
http://www.youtube.com/watch?v=7udy-cgbOxI&feature=related


08. 2011年6月19日 18:01:04: MiKEdq2F3Q

Man Behind the Sun (Torture Clip)1988
http://www.youtube.com/watch?v=blI1CLco4W4&feature=list_related&playnext=1&list=PLA6189C4FAC177D24

Men Behind the Sun II - Laboratory of the Devil.mp4
http://www.youtube.com/watch?v=NqkxEM1vY9Y


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