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ウォール街とボルシェビキ 第3章 レーニンとボルシェビキ革命に対するドイツの援助
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/507.html
投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 11 日 14:59:05: tZW9Ar4r/Y2EU
 

第三章

レーニンとボルシェビキ革命に対するドイツの援助

ボルシェビキは、我々から様々なルートを通る多様なレッテルの付いた定常的な資金流入を受け取って初めて、主要な機関紙であるプラウダを設立し、精力的な宣伝活動をし、元々は狭かった党の基礎をはっきりと感じられるほど拡張できる立場となった。

1917年12月3日、外務大臣バン・クールマン(Von Kühlmann)からドイツ皇帝へ

1917年4月にレーニンと大半がボルシェビキ主義者であった32名のロシア人革命家は、スイスからドイツを横切ってスウェーデンを通りロシアのペトログラードまで汽車旅行した。彼らは、レオン・トロツキーと合流し、"革命を完成させる"ための途上にあった。彼らのドイツを横切っての通行は、ドイツの参謀によって公認され、助成され、かつ資金供給された。レーニンのロシアへの通行は、ドイツ最高司令部によって、どうやらドイツ皇帝に直ちに知られることなく、公認された計画の一部で、その計画は、ロシア軍の崩壊の手助けをし、第二次世界大戦からロシアを排除することを目的としていた。 ボルシェビキ主義者が寝返ってドイツと欧州の敵になるかも知れないという可能性に、ドイツ参謀は気付かなかった。ホフマン(Hoffman)少将は、「我々は、ボルシェビキ主義者のロシアへのこの旅行の結果から生じる人類への危険性について知らなかったし、予見もしなかった」と書いている。1

脚注
1 Max Hoffman, War Diaries and Other Papers (London: M. Secker, 1929), 2:177.

p. 39

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レーニンのロシアへの旅行を認めた最高地位のドイツ行政官はセオバルド・バン・ベスマン-ホルウェグ(Theobald von Bethmann-Hollweg)首相であり、彼は19世紀に莫大な資産を築いたフランクフルトの銀行業一族であるベスマン家の子孫である。ベスマン-ホルウェグは1909年に首相に任命され、1913年の11月にドイツ国会によって首相不信任案を最初に可決された人物になった。ベルギーに対するドイツの保証は単なる"紙切れ"であると世界に向かって告げたのは、ベスマン-ホルウェグであった。けれども、たとえば、潜水艦による無制限の交戦のような他の戦争問題に関して、ベスマン-ホルウェグの態度は煮え切らないものであった。1917年の1月、彼は皇帝に「私は陛下に潜水艦による無制限の交戦に対して私の承認と拒否のいずれも与えることができない」と告げている。1917年までにベスマン-ホルウェグは国会の支持を失い、辞任したが、ボルシェビキ主義者のロシアへの通行を認可してからである。ベスマン-ホルウェグからの通行指示は、国務大臣アーサー・ジンマーマン(Arthur Zimmermann)(彼は、ベスマン-ホルウェグの直属の部下で、ベルンとコペンハーゲンの両方のドイツ公使と日々の作戦上の任務を処理していた)を経由して、1917年4月上旬にベルンのドイツ公使に届いた。皇帝自身は、レーニンがロシア内へ通過したあとまで、その革命家達の移動に気付いていなかった。

レーニン自身は、正確な援助源について知らなかったが、ドイツ政府が数件の財政的支援をしていたことを疑いなく知っていた。

1917年4月におけるレーニンのロシアへの移動

最終決定      ベスマン-ホルウェグ  
(首相)                   
仲介者T      アーサー・ジンマーマン
(国務大臣)
仲介者U      ブロックドルフ-ランツアウ (BROCKDORFF-RANTZAU)
 (コペンハーゲン駐在ドイツ公使)
仲介者V      アレクサンダー・イスラエル・ヘルプハンド(ALEXANDER ISRAEL HELPHAND)
(別名:パルバス(PARVUS))
仲介者W      ヤコブ・フルステンベルグ(JACOB FURSTENBERG)
(別名:ガネトスキー(GANETSKY))

        レーニン、スイスに 

p. 40

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ベルリンから、ジンマーマンとベスマン-ホルウェグは、コペンハーゲン駐在ドイツ公使ブロックドルフ-ランツアウに連絡を取った。次に、ブロックドルフ-ランツアウは、コペンハーゲンに住みついていた(パルバスという偽名の方がより広く知られていたところの)アレクサンダー・イスラエル・ヘルプハンドと連絡を取った。2 パルバスは、ガネトスキーという偽名の方でより知られていた裕福な家の出であるポーランド人、ヤコブ・フルステンベルグの縁故者であった。そして、ヤコブ・フルステンベルグがレーニンに直結する人物であった。

ベスマン-ホルウェグ首相はレーニンの移動に関する最終的な権威者であったけれども、またレーニンは援助がドイツに源を発していることに多分気付いていたけれども、レーニンはドイツのスパイと称され得ない。ドイツ外務省は、ロシアでのレーニンのありそうな行動が、ロシア現行権力構造の崩壊という彼ら自身の目的と一致するであろうと判断していた。けれどもまた、当事者双方は隠された目的を持っていた。:ドイツは戦後のロシア市場への優先的参入を望んでいて、レーニンはマルクス主義者独裁政権を築くつもりであった。

このようにロシア革命を利用するというアイデアは、1915年まで遡って調べることができる。その年の8月14日に、ブロックドルフ-ランツアウはドイツ国務次官宛てにヘルプハンド(パルバス)との会話について書いており、「月並みでない力を持つと感じている途方もなく重要な人物であり、戦争期間中、我々は雇わなければならない」とヘルプハンドを雇うよう強く推薦している。3 そのレポートには、次の警告が含まれている。:「ヘルプハンドの背後に広がっている力の利用を欲することは多分向こう見ずかも知れないが、もし、監督できないという恐れから彼らの貢献を拒絶するならば、確実に我々自身の弱さを認めることになるであろう。」4

革命家達に指図し支配するというブロックドルフ-ランツアウのアイデアは、今に分かるように、ウォール街の金融家達のアイデアと類似している。彼ら自身の目的のために、合衆国における自国および外国の革命家達を支配しようと試みたのは、J.P.モルガンとアメリカン・インターナショナル会社であった。

脚注
2 Z. A. B. Zeman and W. B. Scharlau, 「革命の商人、アレクサンダー・イスラエル・ヘルプハンド(パルバス)の生涯、1867-1924」 (New York: Oxford University Press, 1965).

3 Z. A. B. Zeman, 「ドイツとロシア革命、1915−1918年、ドイツ外務省公文書館からの文献」(London: Oxford University Press, 1958), p. ????5.

4 Ibid.


p. 41

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次の文献5は、レーニンによって要求された条項の要点を述べたもので、"ロシア軍のインドへの侵攻"を許すという条項7が最も興味深い。これは、レーニンが独裁・拡張主義プログラムを続行するつもりであったことを示唆している。ゼーマン(Zeman)はまた、マックス・ウォルバーグ(Max Warburg)がロシアの出版社創立において果たした役割について記録しており、ドイツ実業家スチンズがロシアにおける出版社に出資するため、200万ルーブルを提供するのに合意したという、1916年8月12日付けの協定に言及している。6

その結果として、1917年4月16日に、レーニン、妻ナデズダ・クルプスカヤ(Nadezhda Krupskaya)、グリゴリー・ジノビエフ(Grigori Zinoviev)、ソコロニコフ(Sokolnikov)、およびカール・ラデク(Karl Radek)を乗客として含めた32両編成の列車がストックホルムを目指してベルンの中央駅を出発した。一行がロシア国境に到着したとき、フリッツ・プラタン(Fritz Plattan)とラデクだけがロシアへの入国を拒まれた。一行の他の者たちは入国が許された。数ヶ月後、マルトフ(Martov)とアクセルロド(Axelrod)を含むほとんど200名に達するメンシェビキ達が、彼らの後に続いた。

当時ニューヨークにてトロツキーがドイツに起源を発する資金を所持していたことは注目に値する。更に、バン・クールマン(Von Kuhlmann)は、ドイツ人が資金を提供するまでは、レーニンは彼のボルシェビキ党の土台を広げる能力が無かったことをほのめかしている。トロツキーはメルシェビキであったが、1917年になってやっとボルシェビキに転向している。これは、ドイツ資金が所属政党を変えたことに多分関係していることを暗示している。

シッソン文献

1918年の初めに、合衆国広報委員会のペトログラード代表者であるエドガー・シッソン(Edgar Sisson)は、トロツキー、レーニン、および他のボルシェビキ革命家がドイツ政府に雇われていないし、スパイでもないということを証明するように見せかける一束のロシア文献を購入した。

これらの文献は、のちに"シッソン文献"と呼ばれるようになったが、大急ぎで秘密のうちに合衆国へ船で送られた。ワシントン市で、それらは認証のため全国歴史活動委員会に提出された。二人の著名な歴史家、J.フランクリン・ジェイムソン(J. Franklin Jameson)およびサムエル・N・ハーパー(Samuel N. Harper)がそれらの信憑性を立証した。これらの歴史家はシッソン文書を3つにグループ分けしており、グループTについては次のように結論している。

我々は、それらを細心の注意を払って、歴史学者が慣れ親しんだすべての適用可能なテストにさらしたが、これらの研究に基づき、これら53の文献の信憑性・信頼性を疑うべき理由はないと断言するのを躊躇しない。7

脚注
5Ibid., p. 6, doc. 6, reporting a conversation with the Fstonian intermediary Keskula.

6Ibid., p. 92, n. 3.

7U.S., Committee on Public Information, The German-Bolshevik Conspiracy, War Information Series, no. 20, October 1918.


p. 42

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その歴史家達は、グループUの資料についてはそれほど確信を示していない。このグループは完全な捏造文書として退けられていないが、原文献のコピーであるということが示唆されている。歴史家達はグループVについて確信ある宣言をしていないけれども、完全な捏造文書として退ける覚悟がなかった。

シッソン文献は広報委員会によって出版されているが、その委員長は以前「親ボルシェビキ労働者」への寄付者であったジョージ・クリール(George Creel)であった。アメリカの新聞は、その文献に信憑性があると受け取っていた。注目すべき例外はニューヨーク・イブニング・ポスト紙であり、その当時、モルガン商会のパートナーであるトーマス・W・ラモント(Thomas W. Lamont)が所有していた。ほんの少数回だけであったが、ポスト紙はすべての文献の信憑性に異議を唱える記事を掲載している。8

我々は今、シッソン文献がほとんど全て捏造されたものであることを知っている。ほんの一つか二つの重要でないドイツ語のちらしだけが本物である。ドイツの便箋をちょっと調べさえすれば、捏造者はたぶん騙され易いアメリカ市場のために働いていた異常に不注意な人物であったことに気付くであろう。ドイツ語の文章としては、馬鹿馬鹿しいぐらいの用語が撒き散らされている。たとえば、ドイツ語のBüroの代わりにBureauが、またドイツ語のZentralの代わりにCentralが使われていること等を挙げることができる。

文献が捏造されたものであるということは、ジョージ・ケナン9の精力的な研究および1920年代の英国政府による研究の結論である。いくつかの文献は本物の情報を基にして捏造されており、ケナンが論評しているように、捏造者達は何らかの極めて優れた情報を間違いなく入手していた。たとえば、文献1、54、61、および67は、ストックホルムのニア銀行(Nya Banken)がドイツからのボルシェビキ資金のパイプとして貢献していたと述べている。このパイプは、より信頼性のある資料において裏付けられている。文献54、63、および67は、フルステンベルグ(Furstenberg)がドイツ人とボルシェビキ主義者間の仲介をした銀行家であると述べている。フルステンベルグの名前は、信憑性のある文献の他の箇所にも現れている。シッソン文献54はオロフ・アシュベルグ(Olof Aschberg)について触れており、オロフ・アシュベルグ自身も"ボルシェビキ銀行家"だと言っている。1917年においてアシュベルグはニア銀行の重役であった。シッソンの他の文献には、たとえばドイツのNaptha-Industrial Bank、the Disconto Gesellschaft 、およびハンブルグの銀行家であるマックス・ウォーブルグ(Max Warburg)といった名前や機関が載っているが、補助的な動かしがたい証拠はより見つかりにくい。一般に、シッソン文献は明白な捏造物であるが、それでも一般に本物の情報に部分的に基づいている。

脚注
8 New York Evening Post, September 16-18, 21; October 4, 1918. ボルシェビキ主義者達もその文献の信憑性を断固疑っているということは興味深いが、何らの結論も示されていない。

9 George F. Kennan, "The Sisson Documents," Journal of Modern History 27-28 (1955-56): 130-154.


p. 43

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この本における物語的に不可解な面は、その文献がスカンジナビアのボルシェビキ主義者スパイであり、のちにチェイス・ナショナル銀行およびFloyd Odium of Atlas 社の陰の補佐人となったアレクサンダー・ガンベルグ(別名:ベルグ、実名:ミカエル・グルゼンベルグ)からエドガー・シッソンに渡ったということである。一方、ボルシェビキ主義者はシッソン資料を執拗に否認していた。そして、第三インターナショナル執行部のアメリカ代表であるジョン・リード(John Reed)もそうであった。彼の給料はJ.P.モルガン財閥が所有していたメトロポリタン誌から出ていた。10 ニューヨーク・イブニング・ポストを所有していた、モルガンの仲間であるトーマス・ラモントも否認していた。数通りの可能な説明がある。たぶん、ニューヨークのモルガン財閥とジョン・リードやアレクサンダー・ガンベルグのようなスパイとの間の結びつきは、極めて柔軟なものであったのであろう。これは、捏造された文献を与えることによって、シッソンとクリールの評判を落とすためのガムベルグの策略ではなかったろうか。すなわち、恐らく、ガムベルグは自分の利益のために動いたのであろう。

シッソン文献は、ボルシェビキ主義者との排他的なドイツの関与を"証明している"。それはまた、シオン議定書の線でのユダヤ−ボルシェビキ陰謀論を"証明"するためにも利用されてきた。1918年に合衆国政府は、ドイツとの評判の良くない戦争を支持するようにアメリカの意見を一本化したかったが、シッソン文献はドイツとボルシェビキ主義者との排他的な共謀を劇的に"証明"していた。 またシッソン文献は、この本で記述される事件について大衆から隠しておくための煙幕でもあった。

脚注
10 John Reed, The Sisson Documents (New York: Liberator Publishing, n.d.).

p. 44

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ワシントンでの綱引き11

国務省十進法ファイル中の文献を再吟味すると、国務省とペトログラードのフランシス大使はボルシェビキ運動の目的および進行状況について非常に良く知っていたことが推測される。たとえば、1917年の夏、国務省は"有害な者達"(すなわち、帰路にあったロシア革命家)の出発を阻止したかったけれども、彼らがロシアとアメリカのパスポートを使っていたので、そう出来なかった。ボルシェビキ革命のための準備がなされていることは、それが起こる少なくとも6週間前には良く知られていた。国務省ファイル中の一文献では、ケレンスキーの戦力についてであるが、政府が反乱を鎮圧できるかどうかは疑わしいと記述されている。ケレンスキー政府の崩壊は9月初めから10月末までの間に亘って報告されており、ボルシェビキのクーデター準備に関しても同じ期間に報告されている。英国政府は、ボルシェビキ革命が始まる少なくとも6週間前であったが、在留英国人に対してロシアを離れるように警告している。

11月初旬の事件についての最初の詳細な報告は1917年12月9日、ワシントンに到着した。このレポートは、革命そのものの性質を控えめに記述しており、ウィリアム・V・ジュードソン(William V. Judson)将軍がトロツキーを非公式に訪問したと述べており、ソビエト本部Smolnyにドイツ人が駐留していることを指摘している。

1917年11月28日に、ウッドロー・ウィルソン大統領はボルシェビキ革命に干渉するなという命令を発している。この指示は、英国が既に同意していた連合国会議の結果として、フランシス大使が要求したことに対するレスポンスであったことが明白である。国務省は、そのような会議は実行力が無いと主張している。パリにおいて、連合国とエドワード・M・ハウス(Edward M. House)大佐との間に議論があったが、このハウスはこれらについてウッドロー・ウィルソンに"ロシアについての長くて頻発した議論"として報告している。ハウスは、イングランドは「消極的に賛同している」、フランスは「反対しているが実のところは無関心である」、イタリアは「積極的に賛成している」と述べている。その後すぐにウッドロー・ウィルソンは、国務長官ロバート・ランシングによって書かれた電報を是認しているが、このランシングはカレディン(Kaledin)運動(1917年12月12日)に対して資金援助をした人物である。「君主制主義者がボルシェビキ主義者と一緒に働いていて、事件などが起こるたびに支援している」ということ、すなわち、Smolny政府は完全にドイツ人参謀の支配下にあるという噂もまたワシントンに徐々に知れ渡っていたし、他のところでは、「彼ら(すなわち、ボルシェビキ主義者)の多くまたは大半はアメリカから来ている」という噂が立っていた。

脚注
11 This part is based on section 861.00 of the U.S. State Dept. Decimal File, also available as National Archives rolls 10 and 11 of microcopy 316.

p. 45

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12月にジュードソン将軍が再びトロツキーを訪問している。フランシス大使からワシントンへ宛てた1918年2月5日付けのレポートは承認しないように推奨しているけれども、これは合衆国による承認に向けての一ステップと看做される。ワシントンのバジル・マイルズ(Basil Miles)からの覚書では、「我々はボルシェビキ主義者を含むロシアの権威者と付き合うべきである」と論じられている。そして、1918年2月15日に、国務省はフランシス大使に電報を送り、「いかなる公式の承認をも避けるような筋を使って、ボルシェビキ権威者と徐々に幾分より親密な状態と非公式な接触を維持することを国務省は希望する」と述べている。

翌日、国務長官ランシングは、ワシントン駐在フランス大使であるJ.J.ジュセランド(Jusserand)に次のように伝達している。「ロシアの政権を支配している人々のうち、どの様々な構成分子についても目下敵に回すような如何なる行為もとらないことが得策だと考える。」12

2月20日、フランシス大使はワシントンに電報を送り、ボルシェビキ政府の近付きある終末について報告している。2週間後の1918年3月7日に、(合衆国広報委員会の)アーサー・ブラード(Arthur Bullard)はハウス大佐に、ドイツの資金がボルシェビキ主義者を補助しているということと、この補助金が以前考えられていたよりも多額であると報告している。アーサー・ブラードは、「我々は、いかなる公正な国家政府も喜んで助けるべきである。しかし、ロシアの現支配者に送られる人材、資金、および備品は、少なくともドイツ人に不利になるのと同じぐらいロシア人に不利になるように使われるであろう」と論じている。13

これは、ブラードからハウス大佐への「私は現ロシア政府に物質的援助を与えないように強くアドバイスする。ソビエトの邪悪な構成分子が支配力を得ているように思われる」という別のメッセージによって追随されている。

しかし、有力な反対勢力が動いた。早くも1917年11月28日にハウス大佐は、パリからウッドロー・ウィルソン大統領に、"ロシアは敵と看做されるべき"は"伏せるべき"であると提唱する合衆国の新聞の論評は"事の外、重要である"と電報している。そして翌月、モルガンが支配するアメリカン・インターナショナル会社の事務局長にして、上述のバシル・マイルズの友人であるウィリアム・フランクリン・サンズ(William Franklin Sands)は、レーニンとトロツキーが一般大衆に気に入られているという内容で、また合衆国にロシアを承認することをせきたてる内容の覚書を提出している。アメリカの社会主義者ウォーリング(Walling)でさえ、国務省に対し、(合衆国広報委員会の)ジョージ・クリール(George Creel)、ヘルベルト・スウォプ(Herbert Swope)、および(ニューヨーク連邦準備銀行の)ウィリアム・ボイス・トンプソンの親ソビエト的態度について不満を述べていた。

脚注
12 U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/1117a. The same message was conveyed to the Italian ambassador.

13 See Arthur Bullard papers at Princeton University.


p. 46

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1917年12月17日に、ロシア革命とアメリカ銀行家の間の繋がりを主張している赤十字社大佐のレイモンド・ロビンス(Raymond Robins)およびトンプソンに対する襲撃がモスクワの新聞で報じられている。

何故、彼らは啓発に対してそれほど関心があるのであろうか? 何故、資金は社会主義革命家に与えられ、立憲的な民主主義者に与えられなかったのであろうか? 後者の民主主義者の方が銀行家達の心により近く、より大事であろうと思われるが。

これは、アメリカの資本家階級がロシアを将来の市場として眺め、確固たる足掛かりを手に入れたいからだったのでは。資金が革命家達に与えられた理由は、次の通りでは。

後進的な労働者および農民は社会主義を信頼していた。資金が渡された当時、社会主義革命家は政権を握っていて、暫くは彼らのロシア支配が維持されるであろうと想像されていた。

1917年12月12日付けのレイモンド・ロビンスに関連する別のレポートでは、"アメリカ赤十字使節団のアメリカ銀行家の一グループとの折衝"、すなわち2百万ドルの支払いに関する"折衝"について詳しく述べられている。1918年1月22日に、銀行業と通貨に関する合衆国上院委員会議長で、ウォール街の財閥と繋がっているロバート・L・オーウェン(Robert L. Owen)がウッドロー・ウィルソンに手紙を送っているが、その内容はロシアの事実上の承認、ロシアで緊急に必要とされる品物の船荷の許可、ドイツの影響を相殺するためのロシアに対する代表者の任命、およびロシアにおける専門職業務グループの設立を推奨するものであった。

このアプローチは、ロシアにおけるレイモンド・ロビンスによって首尾一貫して補助されている。たとえば、1918年2月15日、ペトログラードのロビンスが発信したワシントンの赤十字社のダビソン(Davison)宛の(そして、ウィリアム・ボイス・トンプソンに転送された)電報において、ボルシェビキ主義者を出来る限り長期間支援すべきこと、新生の革命ロシアは"ドイツ帝政と決裂"したので合衆国の方を向くであろうと論じられている。ロビンスによれば、ボルシェビキ主義者は合衆国に対して鉄道の再編制の他に援助と協力を望んでいた。なぜならば、「商工業を再編制するに際しての寛大な援助と技術的な助言によって、アメリカは、戦争が均衡している間、ドイツとの貿易を完全に排除するかも知れない」からである。

要するに、ワシントンでの綱引きは、次のような争いを反映している。綱の一端には、(フランシス大使のような)保守的な外交官および下級官僚が居て、他端には、国務省のランシングやマイルズ、また国会のオーウェン上院議員のような味方と一緒に、ロビンス、トンプソン、およびサンズのような金融業者が居た。


p. 47
http://www.nn.em-net.ne.jp/~komoda/chap3.html
 

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