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ウォール街とボルシェビキ 第8章 ブロードウェイ120番地、ニューヨーク市
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/513.html
投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 20 日 08:28:41: tZW9Ar4r/Y2EU
 

第八章

ブロードウェイ120番地、ニューヨーク市


7月から11月末までペトログラードにいたウィリアム・B・トンプソンは、ドイツとオーストリアにボルシェビキのドクトリンを広めるためにボルシェビキに個人的に100万ドルを寄付していた。

Washington Post、1918年2月2日

この本のために資料を集めている間に、ウォール街地域の単一の位置および住所 ―ブロードウェイ120番地、ニューヨーク市― が表面化した。たぶん、この本は1917年においてブロードウェイ120番地に所在の個人、企業、および組織だけを含んで書かれ得たのかも知れない。この研究方法だと押し付けで不自然になるかも知れないが、物語の比較的小さな断片だけを除外して良いならば可能である。

ブロードウェイ120番地に元々あった建物は第一次世界大戦前に火事で破壊された。その結果、その土地はdu Pont de Nemours Powder Companyの社長であるT・コールマン・ドゥ・ポントによって設立されたEquitable Office Building Corporationに売られた。1 新しい建物は1915年に完成し、Equitable Life Assurance Companyはその古い場所に戻った。2 ちなみに、我々はEquitableの歴史における興味深いインターロックに注目すべきである。1916年におけるベルリンのEquitable Life事務所の財務担当は、後にヒトラーの銀行家および金融魔人になったヒジャルマー・ホレイス・グリーリー・シャチの父親であるウィリアム・シャチであった。ウィリアム・シャチはアメリカ市民で、ドイツのEquitableに30年間勤め、"Equitable Villa"として知られるドイツの邸宅を所有していた。ヒトラーと合流する前、若い頃のヒジャルマー・シャチは、ゼフレンドフのWorkers and Soldiers Council (ソビエト)のメンバーとして務めていたが、1918年にこれと離別してNationalbank fur Deutschlandの取締役会に参画した。DONATにおける彼の取締役仲間は、ニューヨークのGuaranty Trust Companyのマックス・メイとともにソ連の最初の国際銀行であるRuskombankの取締役であったエミル・ウィッテンベルグであった。

脚注
1 By a quirk the papers of incorporation for the Equitable Office Building were drawn up by Dwight W. Morrow, later a Morgan partner, but then a member of the law firm of Simpson, Thacher & Bartlett. The Thacher firm contributed two members to the 1917 American Red Cross Mission to Russia (see chapter five).

2 R. Carlyle Buley, The Equitable Life Assurance Society of the United States (New York: Appleton-Century-Crofts, n.d.)

p. 125

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とにかく、ブロードウェイ120番地の建物は1917年においてEquitable Life Buildingとして知られていた。ニューヨーク市における最大のオフィースビルでは決してなかったが、その大きな建物はブロードウェイとパインの1ブロックの面積を占めていて、34階建てであった。Bankers Clubはその34階にあった。1917年のテナントリストはボルシェビキ革命とその余波に対するアメリカの関与を事実上反映していた。連邦準備地区の中で断然最も重要な連邦準備制度のNo.2地区 ―ニューヨーク地域― の本部はブロードウェイ120番地にあった。ニューヨーク連邦準備銀行の数名の取締役の個人事務所や、最も重要な点であるが、American International Corporationもまたブロードウェイ120番地にあった。対比するために述べると、ソ連によって合衆国への最初のボルシェビキ"大使"に任命され、ソ連支局の局長であったルドウィグ・マルテンスは、1917年においてWeinberg & Posner の副社長であったが、彼もまたブロードウェイ120番地に事務所を構えていた。*

この集中は偶然であろうか? その地理的な近接は何らかの意義を持つのであろうか? 答えを示唆しようと試みる前に、我々は論及の枠をスウィッチし、政治的分析の左翼的色合いを捨て去らなければならない。

ほとんど満場一致の直感で、アカデミックな世界は国際的な政治関係を資本主義と共産主義の確固不動の対立という状況で論じ、分析してきた。そして、このマルクス主義公式への硬直した固着が近代史を歪めてきた。その双極性は実際は見せかけであるという趣旨での常軌を逸した論及が時折投げかけられたが、これらは速やかに忘却の彼方に片付けられた。たとえば、ジョージタウン大学の国際関係学教授のキャロル・クイグリーは、House of Morganについて次のコメントをした。

脚注
* The John MacGregor Grant Co., agent for the Russo-Asiatic Bank (involved in financing the Bolsheviks), was at 120 Broadway ―and financed by Guaranty Trust Company.


p. 126

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50年以上前に、モルガン商会は合衆国において左翼政治運動を浸透させることを決めた。これらのグループは資金に飢えていて、人々に声が届くのを切望していたので、これは比較的し易かった。ウォール街は両方を供給した。その目的は、破壊することや、支配することや、引き継ぐことでもなかった。3

明らかに機密文書に基づいていると思われるクイグリー教授のコメントは、もしそれが支持されるならば、歴史的な爆弾宣言の全ての重要な構成要素を持っている。モルガン商会は、クイグリーが着目したように、国内の左翼だけではなく海外の左翼、すなわちボルシェビキ運動および第三インターナショナルを浸透させたことを、我々は示唆する。更に言えば、合衆国国務省の友人を通して、モルガンおよびその仲間の金融財閥、特にロックフェラー一族は、第一次世界大戦から現在まで合衆国とロシアの関係の上に強力な影響を行使してきた。この章に示す証拠は、海外革命運動を浸透させるかあるいは影響する2つの操作媒体がブロードウェイ120番地にあったことを示唆している。一つ目はモルガン被指名者と濃密に結ばれていたニューヨーク連邦準備銀行で、もう一つはモルガンが支配していたAmerican International Corporationである。更にまた、ニューヨ−ク連邦準備銀行とAmerican International Corporationとの間には重要なインターロックがあった ―すなわち、American International Corporationの社長C・A・ストーンは連邦準備銀行の重役でもあった。

現状では不確かな仮説であるが、単一の住所への普通でないこの集中は特別な会社や個人による目的ある活動を反映したものであり、これらの活動と出来事は左翼・右翼の政治的対立という通常の色合いに閉じこもっている限り分析不可である。

AMERICAN INTERNATIONAL CORPORATION

American International Corporation (AIC)は、スチルマンのNational City Bankとロックフェラー財閥を主要な参加者として、J・P・モルガン財閥によって1915年11月22日ニューヨークに設立された。 AICの全体的な事務所はブロードウェイ120番地にあった。その会社の設立勅許状は、世界中のどの国においても銀行業と公共事業を除く如何なるビジネスをも許すものであった。その会社の公表された目的は、国内および海外の事業を発展させること、アメリカの活動を海外に拡張すること、アメリカおよび海外の銀行家、ビジネスマン、エンジニアの利益を振興することであった。

脚注
3 Carroll Quigley, Tragedy and Hope (New York: Macmillan, 1966), p. 938. Quigley was writing in 1965, so this places the start of the infiltration at about 1915, a date consistent with the evidence here presented.


p. 127

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フランク・A・バンダーリップは彼の回顧録において、American International がどのようにして設立されたか、およびそのビジネスの潜在性に関してウォール街で湧き上がった興奮について述べている。4 元々のアイデアは、「合衆国においてそれほど沢山の鉄道ビルが必要だったのかを疑われていた」国有鉄道請負業者Stone & Websterと、National City Bank (NCB)のジム・パーキンスおよびフランク・A・バンダーリップとの間での議論によって生み出された。5 初期の資本認可は5千万ドルで、取締役会はニューヨーク金融界の第一級の傑物で占められていた。バンダーリップは、American International Corporationにとっての広大な潜在性に熱狂して、NCB社長スチルマンに次のように書き送ったことを記録している。

ジェームス・A・ファレルおよびアルバート・ウィギンが[取締役会に加わるように]招かれたが、それを受諾する前に彼らの委員会と相談しなければならなかった。私もまたヘンリー・ウォルターおよびマイロン・T・ハーリクに頼むことを忘れていなかった。ハーリク氏は極めて強くロックフェラー氏を嫌っていたが、ストーン氏は彼を欲しがっていて、私は彼がフランスで特に役に立つであろうと感じている。全体のことは満足できる順調さで進行し、たとえ私が我々は正しい道筋にいるのであろうかと強く疑問に思っているとしても、私にとって驚くべき熱烈さによってその受諾は特徴付けられた。

たとえば、今日、私はジェームス・J・ヒルに会った。彼は最初彼の責任範囲を拡張することについて考えられないと言ったが、我々がすることを期待していることを私が彼に告げ終えた後、彼は喜んで取締役に就任すると言い、大量の株式を買うこと、特にCity Bankにおいて相当な利権を望むこと、および彼のために市場で株式を買うのを私に委任することを告げた。

私は初めて今日その問題についてオグデン・アーマーと話し合った。私がその物語を話している間、彼は完全に沈黙して座っていた。そして、一つの質問をすることもなしに、取締役に就任するということと、50万ドルの株式が欲しいということを彼は言った。


脚注
4 Frank A. Vanderlip, From Farm Boy to Financier (New York: A. Appleton-Century, 1935).

5 Ibid., p. 267.


p. 128


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[General Electricの]コフィン氏はすべてからリタイヤしたもう一人の男であるが、これについて熱狂的になり、彼は喜んで取締役に就任し、最も積極的な協力を申し出た。

サビンを手に入れるのに関して私は非常に良い感触を得ている。Guaranty Trustは全体的に見てその分野での最も活動力のある競争相手であり、彼らをこういう風に取り込むことは非常に価値がある。 彼らは特にKuhn, Loeb'sに熱狂的であった。彼らは250万ドルまで買いたがっている。誰を取締役会に迎えるべきかという見解には、本当はかなり沢山の争いがあった。しかし、私はたまたまカーンと話し合い、最初に彼を招いたので、彼を迎えることは決定されていた。彼はたぶん誰よりも熱狂的であろう。彼らはその計画について電報で伝え、その承認を得た相手であるアーネスト・キャッスル卿*のために50万株を望んでいる。

私は金曜日に[City Bankの]取締役会に全容を説明したが、好ましいコメントがあっただけで、反対はなかった。6

皆がAIC株を切望した。 (W. R. Grace & Co.の)ジョー・グレイスはNational City Bankにおける彼の利権に加えて60万ドルを望んだ。アムブローズ・モネルは50万ドル、ジョージ・ベーカーは25万ドルであった。そして、「ウィリアム・ロックフェラーは入会権として5百万ドルを彼に払うよう私に働きかけたが、無駄であった」。7

1916年までにAICの海外投資額は2千3百万ドルを超え、1917年には2千7百万ドルを超えた。その会社は、ロシアのペトログラードだけではなく、ロンドン、パリ、ブエノスアイレス、および北京に代表者を就任させた。その設立後2年以内で、AICは豪州、アルゼンチン、ウルグアイ、コロンビア、ブラジル、チリ、中国、日本、インド、セイロン、イタリア、スイス、フランス、スペイン、キューバ、メキシコ、および中央アメリカの他の国において相当な規模で営業していた。

脚注
* Sir Ernest Cassel, prominent British financier.

6 Ibid., pp. 268-69. It should be noted that several names mentioned by Vanderlip turn up elsewhere in this book: Rockefeller, Armour, Guaranty Trust, and (Otto) Kahn all had some connection more or less with the Bolshevik Revolution and its aftermath.

7Ibid., p. 269.


p. 129

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American Internationalは数社の完全子会社を保有し、他の会社においても相当な所有権を有しており、更には合衆国および海外の他の企業も経営していた。Allied Machinery Company of Americaは1916年2月に設立されたが、その全株式資本はAmerican International Corporationによるものであった。American International Corporationの副社長はエンジニアでHolbrook Cabot & Rollins Corporationの前会長のフレデリック・ホルブルークであった。1917年1月、Grace Russian Companyが設立されたが、その共同経営者はW. R. Grace & Co.およびペトログラードのSan Galli Trading Companyであった。American International CorporationはGrace Russian Companyに相当投資していて、ホルブルークを通して連動する取締役職を有していた。

AICはまた、1920年代の中米革命に関わったUnited Fruit Companyにも投資した。American International Shipbuilding CorporationはAICによって完全に所有されていて、Emergency Fleet Corporationとの戦争用の船に関する相当数の契約に署名した。一つの契約は50隻で、次の契約では40隻、更に次の契約では60隻の貨物船であった。American International Shipbuildingは、合衆国政府によってEmergency Fleet Corporationとの契約を認められた最大で唯一の会社であった。AICによって経営されていた他の会社はニューヨークのG. Amsinck & Co., Inc.であった。その会社の支配権は1917年11月に獲得された。Amsinckは合衆国におけるドイツのスパイ行為のための融資の源泉であった(66ページ参照)。1917年11月、 American International Corporationは、砲弾鍛造品の主要な政府請負業者のSymington Forge Corporationを完全子会社として設立した。その結果、American International Corporationは合衆国および海外での戦争関連契約において著しい利権を持った。一言で言えば、それは第一次世界大戦の継続において既得の利権を持った。

American Internationalと提携会社数社の取締役は(1917年において)次のようであった。

シカゴのArmour & Companyの精肉業者J・オグデン・アーマー。 ニューヨークNational City Bankの取締役でもあり、ソ連支局との関連でA・ヘラーによって言及されている。

ブロードウェイ120番地のStone & Websterのジョージ・ジョンソン・バルドウィン。 第一次世界大戦の間、バルドウィンはAmerican International Shipbuildingの取締役会会長、American International Corporationの先任副会長、G. Amsinck(Amsinckのバン・パベンステッドは合衆国におけるドイツのスパイ工作の黒幕であった。65ページ参照)の取締役、および国際社会主義が世界金融によって陰で支配されるべくマーブルグ計画に融資した(ページ174−6を参照)Carnegie Foundationの役員であった。

General Electric(重役事務所:ブロードウェイ120番地)の会長で、アメリカ赤十字社の協力委員会委員長のC.A.コフィン。

American Bank Note Company、Mechanics and Metals Bank、Midvale Steel and Ordnance、およびInternational Nickel Companyの取締役で、後にNational City Bankの取締役になったW.E.コレイ。

合衆国法規に違反して1920年にソ連のために帝政ロシアの金本位制ルーブルを合衆国に輸入しようと企てたサンフランシスコ海運王のロバート・ダラー。

p. 130


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ド・ポント一族のピエール・S・ド・ポント。

National City Bank取締役のフィリップ・S・A・フランクリン。

National City Bank取締役のJ.P.グレイス

New York Life Insurance取締役、American Bankers Associationの前社長、Carnegie Foundationの役員のR.F.ヘーリク。

Kuhn, Loeb共同経営者のオットー・H・カーン。 カーンの父親は、"その年の不首尾に終わったドイツ革命に参加したあと"1948年にアメリカにやって来た。J.H.トーマス(ソ連から資金援助を受けていた英国の社会主義者)によれば、"オットー・カーンの顔は光に向いていた。"

Carnegie Foundationの役員H.W.プリチェット。

ジョン・H・ロックフェラーの息子で、National City BankのA.スチルマンの娘イザベルと結婚したパーシィ・A・ロックフェラー。

銅採鉱会社、National City Bank、およびMechanics and Metals Bankの取締役ジョン・D・ピィアン。(この本の口絵参照)

ブロードウェイ120番地のニューヨークFederal Reserve Bank取締役で、Ingersoll-Rand会長のW.L.サンダース。 National Cyclopaedia (26:81)によれば、"戦争中における大統領の最も信頼していた助言者の一人"。ソ連に関する彼の見解については15ページを参照のこと。

父親(NCB会長J.スチルマン)が1918年3月に亡くなった後、National City Bank社長に就任のJ.A.スチルマン。

ニューヨークのNational City Bank of Troy社長T.N.ベイル。

National City Bank社長F.A.バンダーリプ。

ブロードウェイ120番地のStone & WebsterのE.S.ウェブスター。

1930年代初期におけるニューヨーク連邦準備銀行取締役ベックマン・ウィンスロープ。

ブロードウェイ120番地のニューヨーク連邦準備銀行およびHanover National Bankの取締役ウィリアム・ウッドワード。


p. 131

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American International Corporation の22名の取締役の他の機関とのインターロックは意義深い。National City BankはAICの取締役会に少なくとも10名の役員を送り込んでいた。NCBのスチルマンはその当時、ロックフェラーおよびモルガン財閥の間の仲介者で、モルガンおよびロックフェラー財閥は両者ともにAICに直接代表を送っていた。Kuhn, Loebとdu Pontsはそれぞれ1名の取締役を送り込んでいた。Stone & Websterは3名であった。AICの取締役のうち4名(サンダース、ストーン、ウィギン、ウッドワード)以上は、ニューヨーク連邦準備銀行の取締役であったか、あるいは後にニューヨーク連邦準備銀行に加わった。我々は最初の方の章において、ボルシェビキ革命に資金および彼の相当な威信をささげたウィリアム・ボイス・トンプソンもまたニューヨーク連邦準備銀行の取締役の一人、7人しかいないニューヨークFRBの取締役であったことに言及している。

革命に対するAmerican Internationalの影響

AICの取締役を確認した今、我々は彼らの革命への影響を確認しなければならない。

ボルシェビキ革命が中央ロシアで起こったとき、国務長官ロバート・ランシングは政策に関するAmerican International Corporationの見解がソ連体制の方に針路を取られるべきと要求した。1918年1月16日 ―ペトログラードとモスクワでの奪取のあとのやっと2ヵ月後で、ロシアのほんの一部がボルシェビキの支配下になる前― American International Corporationの社長室長ウィリアム・フランクリン・サンヅは国務長官ランシング宛にロシア政策に関して要求されたメモを提出した。ブロードウェイ120番地というヘッダーの入ったサンヅの添え状は次のように始まっていた。

尊敬に値する国務長官殿、ワシントンD.C.  1918年1月16日

拝啓

ロシアの政治情勢についての私の見解について御要求のメモを作りましたので、同封させて頂きます。

私はそれを3つに分けました。すなわち、可能な限り簡潔に書いた革命の歴史的な原因についての説明、政策についての提案、およびロシアで進行中のアメリカの活動の様々な支流についての詳述の3つです。8

ボルシェビキはロシアにおいて不安定な支配力を持っていただけで、実際、1918年の春にそれを失いそうになっていたにも関わらず、合衆国は既に(1918年春)"トロツキー"を承認するのに遅れ過ぎているとサンヅは記した。「たとえ、立脚点が失われようとも、トロツキーの少し個人的勝利という犠牲を払ってでさえ、今、回復されるべきであるとも」9、彼は追記している。

脚注
8 U.S. Stale Dept. Decimal File, 861.00/961.


9 Sands memorandum to Lansing, p. 9.


p. 132

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ブロードウェイ120番地またはその近くにあった企業

American International Corp 120 Broadway
National City Bank 55 Wall Street
Bankers Trust Co Bldg 14 Wall Street
New York Stock Exchange 13 Wall Street/12 Broad
Morgan Building corner Wall & Broad
Federal Reserve Bank of NY 120 Broadway
Equitable Building 120 Broadway
Bankers Club 120 Broadway
Simpson, Thather & Bartlett 62 Cedar St
William Boyce Thompson 14 Wall Street
Hazen, Whipple & Fuller 42nd Street Building
Chase National Bank 57 Broadway
McCann Co 61 Broadway
Stetson, Jennings & Russell 15 Broad Street
Guggenheim Exploration 120 Broadway
Weinberg & Posner 120 Broadway
Soviet Bureau 110 West 40th Street
John MacGregor Grant Co 120 Broadway
Stone & Webster 120 Broadway
General Electric Co 120 Broadway
Morris Plan of NY 120 Broadway
Sinclair Gulf Corp 120 Broadway
Guaranty Securities 120 Broadway
Guaranty Trust 140 Broadway

事務所の位置を示したウォール街地区の地図


p. 133

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サンヅはその後、合衆国が失った時間を埋め合わせできる方法を念入りに仕上げ、ボルシェビキ革命を"我々自身の革命"と対比し、"ロシアのための政権の計画は連邦議会の全ての可能な支援、および合衆国における世論の暖かい是認を得るであろうと信じるに値するあらゆる理由を私はもっている"と結論する。

要約すれば、サンヅは、取締役達がウォール街における最も権威があった企業の社長室長として、革命が始まって数週間以内に早くも、ボルシェビキとボルシェビキ革命に対して断固たる支持を与えた。そして、ニューヨーク連邦準備銀行の取締役として、サンヅはボルシェビキに百万ドルをちょうど寄付したところであり、銀行事業によるそのようなボルシェビキ支援は少なくとも首尾一貫している。

更に付け加えると、American Internationalのウィリアム・サンヅは国務省との関係で本当に非凡な繋がりと影響力を持つ男だった。

サンヅのキャリアは国務省とウォール街を往復していた。19世紀末と20世紀初頭において、彼は様々な合衆国の政策に関わるポストに就いた。1910年、彼は国務省を去り、エクアドル債券を商議するためにジェームス・スペイヤーの銀行業に参画し、次の2年間、プエルトリコのCentral Aguirre Sugar Companyの代表者を務めた。1916年、彼は"赤十字の仕事" ―バシル・マイルスとともに実は2人用の"特別任務"― でロシアにいて、帰国後にニューヨークのAmerican International Corporationに参画した。10

1918年初頭、サンヅはあるロシアの"秘密協定書"の知られていて意図的な受取人になった。もし、国務省ファイルが信頼性あるならば、サンヅは運び屋でもあり、公文書を先立って ―すなわち合衆国の官僚に先立って― 目にしていた。1918年1月14日、サンヅがボルシェビキに対する政策についてのメモを書く丁度2日前、ランシング国務長官はストックホルムのアメリカ領事館宛に次の電文を緑の組字の付いた郵便袋に入れて送らせた。「ここに持ってこられるべき、サンヅにとって重要な公文書が領事館に残されている。それらを送ってくれ。ランシングより」。ストックホルムのモリスからの1月16日付けの返事には次のように書かれている。「1月14日午後5時の書類番号460への回答。言及の書類は12月28日に郵便袋No.34で国務省に送った。」これらの書類には、"BM"(サンヅの仲間であるバシル・マイルズ)と署名されたメモが添付されている。:「フリップ氏。彼らはサンヅがペトログラードからストックホルムに持ってきた秘密協定の第一回目の分割払込みを彼に渡すのに失敗した。」11

脚注
10 William Franklin Sands wrote several books, including Undiplomatic Memoirs (New York: McGraw-Hill, 1930), a biography covering the years to 1904. Later he wrote Our Jungle Diplomacy (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 1941), an unremarkable treatise on imperialism in Latin America. The latter work is notable only for a minor point on page 102: the willingness to blame a particularly unsavory imperialistic adventure on Adolf Stahl, a New York banker, while pointing oust quite unnecessarily that Stahl was of "German-Jewish origin." In August 1918 he published an article, "Salvaging Russia," in Asia, to explain support of the Bolshevik regime.


11 All the above in U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/969.


p. 134

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何故、私的な市民がロシアの秘密協定書を運んでいたのかと云う疑問や、そのような秘密協定書(たぶん、いわゆるシッソン文書の初期バージョン)の内容についての疑問は横に置いておいて、AICの社長室長が1917年末にペトログラードからストックホルムに旅行し、秘密協定書にアクセスできる特権を持ち、顔のきく市民であったに違いないということを少なくとも推量できる。12

2〜3ヵ月後の1918年7月1日、サンヅは財務長官マクアドーに、ロシアへの"経済的援助"に関する委員会を示唆する手紙を書いた。そのような援助が如何なるものであろうとも政府委員会がそのような"機械類を提供する"ことは困難であろうから、委員長またはこの目的のために大統領によって選ばれる官僚の支配の下で、そのような機械類を提供するために合衆国の金融、商業、産業の利害関係者を呼び込む必要があるように思えると、彼は力説した。13 換言すれば、ボルシェビキのロシアの商業的開拓はブロードウェイ120番地を含むように進んでいくであろうと、サンヅは明らかに意図した。

ニューヨーク連邦準備銀行

ニューヨーク連邦準備銀行の会社免許は1914年5月18日にファイルされた。その地区のメンバー銀行を代表する3人のクラスA取締役、商業、農業、工業を代表する3人のクラスB取締役、および連邦準備制度理事会を代表する3人のクラスC取締役に、それは与えられた。最初の取締役は1914年に選挙された。彼らは精力的なプログラム作成に前進した。ニューヨーク連邦準備銀行設立の1年目において開催されたミーティングは50回以上であった。

脚注
12 The author cannot forbear comparing the treatment of academic researchers. In 1973, for example, the writer was still denied access to some State Department files dated 1919.

13U.S. State Dept. Decimal File, 861.51/333.

p. 135

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我々の観点で興味深いことは、一方の(ニューヨーク地区の)連邦準備銀行およびAmerican International Corporationの取締役と、他方の新興ソ連ロシアの間の繋がりである。

1917年において、3人のクラスA取締役はフランクリン・D・ロッケ、ウィリアム・ウッドワード、およびロバート・H・トレマンであった。ウィリアム・ウッドワードは、American International Corporation(ブロードウェイ120番地)およびロックフェラーが支配するHanover National Bankの取締役であった。ロッケとトレマンはいずれもこの物語には含まれない。1917年におけるクラスB取締役は、ウィリアム・ボイス・トンプソン、ヘンリー・R・タウネ、およびレスリー・R・パルマーであった。ウィリアム・B・トンプソンがボルシェビキ運動に多額の現金を寄付したことは既に述べた通りである。ヘンリー・R・タウネは、ブロードウェイ120番地のニューヨークMorris Planの取締役会会長で、その席はのちにAmerican International Corporation(ブロードウェイ120番地)およびStone & Webster(ブロードウェイ120番地)のチャールズ・A・ストーンに引き継がれた。レスリー・R・パルマーはこの物語には含まれない。3人のクラスC取締役は、ピエール・ジェイ、W.L.サンダース、およびジョージ・フォスター・ピーボディである。事務所がブロードウェイ120番地にあったということ以外、ピエール・ジェイについて何も知られていないが、彼はBrearley School, Ltd.のオーナーであったという点のみで有意義なように思われる。ウィリアム・ローレンス・サンダースはAmerican International Corporationの取締役でもあった。彼は、これまで述べたように、公然と親ボルシェビキであることを認めていて、ウッドロー・ウィルソン大統領への手紙の中でそれを打ち明けていた(15ページ参照)。ジョージ・フォスター・ピーボディは社会主義活動家であった(ページ99−100参照)。

要約すると、ニューヨーク連邦準備銀行の7人の取締役のうち、4人がブロードウェイ120番地に身を置いていて、2人がAmerican International Corporationとその時に繋がりがあった。そして、AICの取締役会の少なくとも4名はニューヨークFRBの取締役でもあったか、あるいはかつてそうだった。我々はこのすべてを意義深いと称することができるが、それを優位な興味と必ずしも看做している訳ではない。

アメリカ-ロシア産業連合会社(AMERICAN-RUSSIAN INDUSTRIAL SYNDICATE INC.)

ロシアへの経済的な委任についてのウィリアム・フランクリン・サンヅの提案は採用されなかった。その代わり、ロシア市場を開拓するための私的な手段が組み立てられ、早期の援助がボルシェビキに与えられた。これらの機会を展開促進するために、ブロードウェイ120番地からの産業グループがAmerican-Russian Industrial Syndicate Inc.を設立した。新会社へ資金援助をしたのは、以前ウィリアム・ボイス・トンプソンの仲間であったブロードウェイ120番地のGuggenheim Brothers(グゲンヘイムはAmerican Smelting and Refiningとユタの銅会社を支配していた)、同じくブロードウェイ120番地のSinclair Gulf Corp.社長ハリー・F・シンクレア、およびエクスチェンジプレイス43番地 ―American-Russian Industrial Syndicateの住所― のG. White Engineering Corp.のジェイムス・G・ホワイトであった。


p. 136

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1919年秋、ロンドン駐在合衆国大使はワシントンに、"American-Russian Industrial Syndicate Incorporatedの代表者である"ルボヴィッチとロッシについて電報を送った。そのSyndicateと個人に対する国務省の評判および姿勢はどうですか?14

この電報に対して、サンヅの以前の仲間である国務省官僚バシル・マイルスは返答した。

言及の紳士達および彼らの会社は、ロシアとのビジネスの扉を開けるために、ホワイト、シンクレア、およびグゲンヘイム財閥によって資金的に支援された立派な身分である。15

それ故、ウォール街の財閥はロシア市場がどのように開拓されるべきかという極めて明確なアイデアを持っていたと結論して良い。ワシントンやその他の場所の当事者達によって差し出された、ボルシェビキのための援助および助言が報いられないままということではなかった。

ジョン・リード:革命の確立

国務省におけるAmerican Internationalの影響力とは全く別に、有名なボルシェビキ主義者ジョン・リードとの間に親密な関係 ―そしてそれはAIC自身、"支配"と呼んでいた― がある。 ジョン・リードは、多作の作家で、第一次世界大戦中、広く読まれ、ボルシェビキ寄りのMasses16、およびモルガンが支配していた雑誌Metropolitanに投稿していた。ボルシェビキ革命についてのリードの本「世界を震撼させた10日間」はニコライ・レーニンの序論を誇示していて、リードの最も有名で、最も広く読まれた文学作品になった。今日、その本は最近の事件についての皮相の実録のように読め、ボルシェビキ宣言と布告がちりばめられていて、海外の同情者を誘発するであろうボルシェビキの不可解な熱情が充満している。その革命のあと、リードは第三インターナショナルの執行委員会のアメリカのメンバーになった。彼は1920年にロシアでチフスで死んだ。

脚注
14 U.S. State Dept. Decimal File, 861.516 84, September 2, 1919.

15 Ibid.

16 Other contributors to the Masses mentioned in this book were journalist Robert Minor, chairman of the, U.S. Public Info, marion Committee; George Creel; Carl Sandburg, poet-historian; and Boardman Robinson, an artist.


p. 137

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ここで思いつく極めて重大な焦点は、リードの既知の親ボルシェビキ傾向・活動ではなく、レーニンの完全な信頼を持ち(レーニンは「10日間」において、"この本は何百万部を出版され、すべての言語に翻訳されるのが好ましいと思う"とコメントした)、第三インターナショナルのメンバーで、"American Socialist press"の代表者としていつでもSmolny Institute (革命本部)に入れる軍革命委員会パス(No.955、1917年11月16日発行)を所有していたリードが、―これらのことに関わらず― どのようにして、American International Corporationを通してモルガン金融財閥"支配"下の操り人形でもあったのかという点である。記録による証拠がこの外見上の矛盾のために実在する。(以下およびAppendix 3を参照)

その背景を書こう。MetropolitanとMassesの記事は、メキシコとロシアのボルシェビキ革命をレポートするため、ジョン・リードに広い読者を与えた。リードの伝記作家であるグランヴィル・ヒックスは、「ジョン・リード」において"彼は合衆国におけるボルシェビキのスポークスマンであった"ことを示唆している。一方、1913年から1918年までにおけるリードへの資金は、この本のすべての章で引用している機関Guaranty Trustの取締役ハリー・ペイン・ホイットニーが所有するMetropolitanから沢山援助され、また直接あるいは親ボルシェビキのMassesを通してリードに資金を流したニューヨークの銀行家で商人であるユーゲネ・ボイスヴェインからも援助されていた。換言すれば、ジョン・リードは政治的な色合いにおいて互いに競合すると思われる2グループの少数分子によって資金援助されていた。これらの資金は著作のためであって、次のように分類され得る。記事に対する1913年以降のMetropolitanからの支払い、1913年以降のMassesからの支払いで、その収入は少なくとも部分的にユーゲネ・ボイスヴェインに端を発していた。第三の分類が言及されるべきである。リードはペトログラードの赤十字社理事レイモンド・ロビンスから、より少ないが明らかに関連性の無い支払いを受けていた。多分、彼は他の雑誌に向けて書いた記事の原稿料や著作の印税として、より少額の支払いも受けていたのであろうが、それが支払われるべきだという証拠は見つかっていない。

p. 138

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ジョン・リードとメトロポリタン雑誌

Metropolitanは、たとえば軍備を含む同時代の体制運動を支援した。その雑誌は、Navy Leagueを創立し、J.P.モルガン商会のパートナーであったハリー・ペイン・ホイットニーによって所有されていた。1890年代後半にホイットニーはAmerican Smelting and RefiningとGuggenheim Explorationの取締役になった。1908年に彼の父親が亡くなると、彼はGuaranty Trust Companyを含む多数の他の企業の取締役になった。リードは1913年7月にホイットニーのMetropolitanのために書き始め、メキシコ革命について半ダースの記事、すなわち、"メキシコでヴィラと共に"、"背後の原因/メキシコの革命"、"もし我々がメキシコに入国するならば"、"3月にヴィラと共に"などの記事を投稿した。リードの共感は革命家パンチョ・ヴィラに対してであった。Guaranty Trust とヴィラの弾薬供給の間の繋がりを思い出して欲しい(65ページ参照)。

とにかくMetropolitanはリードの主要収入源であった。伝記作家グランヴィル・ヒックスの言葉では、「お金は主にMetropolitanに対する仕事を意味し、付随的に他の投稿料を払ってくれる雑誌向けの記事や物語を意味した」である。しかし、Metropolitanに雇われることで、リードはモルガンおよびロックフェラー財閥を批判する記事を書くのを妨げられなかった。その一例である"共和国の喉元で"(Masses、1916年7月)は、軍需産業、国家安全軍備ロビー、およびモルガン−ロックフェラー財閥の重なり合う取締役職との間の関係の足跡を辿っていて、「彼らは、後進国の開拓のために組織化された軍備産業および新しく設立されたAmerican International Corporationの両方を支配していることを示した。」17

1915年、ジョン・リードはロシア帝政のその筋によってロシアで逮捕され、Metropolitanはリードのために国務省と共に介入した。1915年6月21日、H.J.ウィグハムは国務長官ロバート・ランシングに手紙を書き、ジョン・リードとボードマン・ロビンソン(同じく逮捕され、同じくMassesへの寄稿者)が「東部戦線の記事とイラストを作成するというMetropolitan雑誌からの任務で」ロシアにいることを彼に知らせた。ウィグハムは、いずれも「交戦国官憲の作戦行動の邪魔をするという我々からの如何なる要望や権限」を持っていないと指摘した。ウィグハムからの手紙は次のように続いている。

もし、リード氏がブチャレストから精神的に反ロシア体制のガルシアの人々への紹介状を持ち運んでいるならば、できるだけ多くの人々に会いたいという単純な目的のために悪意なく為されたと私は確信している。

脚注
17 Granville Hicks, John Reed, 1887-1920 (New York: Macmillan, 1936), p. 215.


p. 139

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ウィグハムはランシング長官に、ジョン・リードはホワイトハウスで知られており、メキシコの事件に関して政府に"ある支援"をしたと指摘している。彼は、"作家および思索家としてのリードの偉大な才能に対して我々は最高の敬意を抱いており、彼の身の安全に関して非常に心配している"18と結論する。そのウィグハムの手紙はボルシェビキ作家を支援する体制雑誌からではないことに注意して欲しい。それは、Massesおよび同じような革命に関する印刷物のボルシェビキ作家で、Metropolitanを所有する同一のモルガン財閥への辛辣な攻撃(たとえば、"ビッグビジネスの不本意な倫理:ペシミストのための寓話")の著者でもある作家を支援する体制雑誌からである。

民間銀行家ボイスヴェインによる資金援助の証拠は疑いの余地が無い。1918年2月23日、ノルウェイのクリスティアニアのアメリカ公使館は、社会党の党首モリス・ヒルキットへの配達を目的として、ジョン・リードのためにワシントンへ電報を送った。その電文において、部分的に"ボイスヴェインは彼を利用しなければならないが、注意せよと伝えよ"と述べられている。1918年4月3日付けの、国務省ファイルのバシル・マイルスによる不可解な手記においては、「もし、リードが帰国しようとするならば、彼はお金を持っていた方が良いのに。代替案はノルウェイによる追放または丁重な召還と私は理解している。もしこの通りならば、後者が好ましいように思われる」と書かれている。この保護的な手記のあとに、1918年4月1日付けでクリスティアニアの公使館からの電文が続いている。「ジョン・リードは、ニューヨーク、ウィリアムス街29番地のユゲーネ・ボイスヴェインに、公使館気付けで300ドル送金することを要求している。」19 この電文は、1918年4月3日に国務省によってユゲーネ・ボイスヴェインに渡された。

リードは、どうやら彼の資金を受け取ったようで、無事に合衆国に戻った。国務省ファイルの次の文書はジョン・リードからW・フランクリン・サンズへの手紙で、その日付は1918年6月4日で、ニューヨークのクロトノン-ハドソンから書かれたものである。その手紙において、リードは国務省のためにメモを作成したと主張し、ロシアから持ち帰った書類箱の返却のため、サンヅの影響力を行使してくれるように彼に要請している。リードは、「あなたの邪魔をして申し訳ないけれども、私は他に頼れるところを知らないし、もう一度ワシントンへ旅行する余裕がない」と結んでいる。その結果、フランク・ポーク国務長官代理は、ジョン・リードの書類の返却に関してのサンヅからの手紙を受け取った。1918年6月5日付けでブロードウェイ120番地からのサンヅの手紙は、完全に復元されてここにある。それは、リードの影響力を全くあからさまに証明している。

脚注
18 U.S. State Dept. Decimal File, 860d.1121 R 25/4.

19 Ibid., 360d.1121/R25/18. According to Granville Hicks in John Reed, "Masses could not pay his [Reed's] expenses. Finally, friends of the magazine, notably Eugene Boissevain, raised the money" (p. 249).


p. 140

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ブロードウェイ120番地、ニューヨーク

1918年6月5日

親愛なるポーク様

勝手ながら、ジョン("ジャック")・リードからの ―もし可能ならば、彼がロシアから持ち帰った書類の返却を達成するのを助けて欲しいという内容の― 懇願状を同封する。

リード氏が最初に訪れたとき彼と会話したが、彼は建設的な発展をするためにロシア政府がしようとしているある試みをスケッチし、我々の政府の要望があれば、彼の得た如何なる情報でも、レオン・トロツキーとの繋がりを通して得た情報を提供したいと彼は述べた。私は、あなたのためにこの問題についてメモを書くように彼に示唆し、ワシントンに電話して彼にこの目的のためのインタビューをするよう、あなたに依頼することを約束した。彼は多量の書類を持ち帰ったが、調査のために没収されていて、この問題に関して、彼はその筋の誰かと話したがっていた。それらに含まれているかも知れない情報を自発的に政府に提供するため、および彼の新聞や雑誌に関わる仕事に必要とされるあれらの書類の返却を求めるためである。

私は、彼が噂されているのと違って、"ボルシェビキ主義者"や"危険な無政府主義者"ではないと信じている。彼は疑いなくセンセーショナルなジャーナリストであるが、それがすべてである。彼は我々の政府を困らせようとしているのではなく、この理由のため、彼がニューヨークに戻り、"Masses"裁判における彼に対する告発に直面する際、トロツキーによって彼に提供されたと私が理解している"保護"を拒絶した。しかし、彼はペトログラードのボルシェビキに好かれていて、それゆえ、警察がするかもしれない迫害のように見えるすべてのことは、ペトログラードを憤慨させるであろうし、それは不必要なため望ましくないと私は信じている。彼は警察よりも他の手段によって、はるかに良く統御支配され得る。

私は彼がブリット氏に与えたメモを見ていない。それを最初に私に見せて、必要ならば手を加えさせるように彼に言っておいたが、彼はそうする機会を持たなかった。

私がこの問題で出しゃばっているとか、私に関係のない問題でちょっかいを出していると、あなたは考えないと思う。そうする必要がないならば、また万一そうする必要が生じるとしてもその時までは、ボルシェビキの指導者達を怒らせないことが賢明であると私は信じる。また、ロシアのボルシェビキと友好関係にあるすべての人物を疑わしいとか、危険な人物だというように見ることは賢明でないと信じる。もし、そうすることが可能ならば、ロシアに対する我々の政策を展開するに際し、そのような人々を我々の目的のために利用しようと試みることは、より良い政策だと思う。リードがフィラデルフィアで述べようとして、警察に妨げられた(彼は冷静さを失い、警察と衝突して逮捕された)講演は、もし私が既にその話題についてのノートを見ていないならば、聴くためにお金を払っても良い、ロシアについての唯一の講演です。それは、我々がソ連政府との接触点や建設的な仕事を始める取っ掛かりを見つけ得る話題をカバーしていた!


p. 141


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彼に敵意を持たせ、敵にする代わりに、彼を利用することができませんか? 彼はあまり常識がないけれども、もし私が大きな間違いをしていないならば、彼は分別あるガイダンスに影響され易く、非常に役に立つかも知れない。

敬具  
ウィリアム・フランクリン・サンヅ

フランク・リオン・ポーク閣下
国務省顧問、ワシントンD.C.

WFS:AO
同封物20


この書類の意義は、有名なボルシェビキのための、American International Corporationの役員(社長室長)による直接の干渉を厳然と暴露していることである。リードについてのサンヅの2〜3の言明を熟考しなさい。"彼は警察よりも他の手段によって、はるかに良く統御支配され得る"、および"彼に敵意を持たせ、敵にする代わりに、彼を利用することができませんか? もし私が大きな間違いをしていないならば、彼は分別あるガイダンスに影響され易く、非常に役に立つかも知れない"。極めて明らかなように、American International Corporation はジョン・リードをスパイまたはスパイとして使える人物と見ており、たぶん既にスパイであってその支配下にあったのであろう。サンヅが(ブリットのために)リードによるメモの編集を要求する立場にいたということは、ある程度の支配が既に確立されていたことを暗示している。

次に、サンヅのボルシェビキに対する潜在的に敵意ある態度 ―およびかろうじて隠された挑発する意図― に気付きなさい。"そうする必要がないならば、また万一そうする必要が生じるとしてもその時までは、ボルシェビキの指導者達を怒らせないことが賢明であると私は信じる"(イタリック体を追加した)。

脚注
20 U.S. State Dept. Decimal File, 360. D. II21.R/20/221/2, /R25 (John Reed). The letter was transferred by Mr. Polk to the State Department archives on May 2, 1935. All italics added.


p. 142

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これは、民間の合衆国市民からのソ連スパイのための異常な手紙であり、その市民の助言を国務省が求めたことがあって、求め続けていたのである。

国務省ファイルにおけるその後、1920年3月19日のメモは、アボでのフィンランド官憲によるジョン・リードの逮捕、およびリードが英国、アメリカ、ドイツのパスポートを保持していたことを報じていた。カスゴルムリッチの偽名の下に旅行していたリードは、ダイヤモンド、多額の現金、ソ連のプロパガンダ文献およびフィルムを携行していた。1920年4月21日に、ヘルシングフォースのアメリカ公使館は国務省に電報を送った。

次の郵便袋で、リードが所有していたと分かったエマ・ゴールドマン、レーニン、およびシロラからの手紙の公認コピーを後送する。外務省は法廷議事の完全な記録を与えると約束した。

もう一度、サンヅは干渉した。"私は個人的にリード氏を知った"。21 そして、1915年におけるように、Metropolitan雑誌もリードを助けた。H.J.ホイグハムは1920年4月15日に国務省のブレインブリッジ・コルビーに書いた。「ジョン・リードがフィンランドで処刑される危険があると聞いた。国務省は彼が適切な裁判を受けるように取り計らうために直ちに手段を講じることができると思う。迅速な行動を緊急に要求する。」"22 これは、ルーズベルト大統領のもとで名声を約束されていたハリー・ホプキンスからの1920年4月13日の次の電文に追加されたものであった。

国務省はフィンランドで監禁されたジャック・リードが処刑されるであろうという情報を持っていると理解している。彼の友人であなたの友人の一人として、彼の妻のために、あなたが処刑を阻止し、釈放を確固たるものにするために迅速な行動を起こすよう懇願する。あなたの迅速にして効果的な干渉に頼ることができると確信している。23

かくして、ジョン・リードはフィンランドのその筋によって釈放された。

脚注
21 Ibid., 360d.1121 R 25/72.

22 Ibid.

23 This was addressed to Bainbridge Colby, ibid., 360d.1121 R 25/30. Another letter, dated April 14, 1920, and addressed to the secretary of state from 100 Broadway, New York, was from W. Bourke Cochrane; it also pleaded for the release of John Reed.


p. 143

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ソ連スパイのための介入についてのこの奇妙は叙述に対して、いくらかの説明が成り立つ。ウォール街とボルシェビキ革命に関する他の証拠に合致する一つの仮説は、ジョン・リードが実質的にはモルガン財閥のエージェントであったということ ―たぶん、彼の二重の役割については半分気付いていたであろう― すなわち、彼の反資本主義的著作は、すべての資本家はすべての社会主義革命家と永遠に抗争するという有益な神話を維持したということである。既に述べたように、キャロル・クイグリィは、モルガン財閥が国内の革命組織および反資本主義的著作を金銭的に支援したことをレポートした。24 そして、我々はこの章で、モルガン財閥はソ連スパイに対しても影響力を行使していて、彼のために仲裁し、より重要なことに、ソ連の利益のために合衆国政府に広く介入していたという反駁できない証拠書類を提示した。これらの活動は、単一の住所 ―ニューヨーク市、ブロードウェイ120番地― に集中していた。


脚注
24 Quigley, op. cit.


p. 144
http://www.nn.em-net.ne.jp/~komoda/chap8.html
 

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