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後北条氏の臣下風魔(本姓:風間)氏、江戸の盗賊、香具師、水戸藩隠密、風見章、橘孝三郎、立花隆 など
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/548.html
投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 02 日 10:59:43: ulZUCBWYQe7Lk
 

「小沢一郎の知る闇1/2創価発祥の地:風魔一族の系譜」
http://www.youtube.com/watch?v=uBlN2z4k55Q
「小沢一郎の知る闇2/2創価発祥の地:風魔一族の系譜 」
http://www.youtube.com/watch?v=dCEvr3zxQ70

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49. 五月晴郎 2011年10月02日 09:06:37: ulZUCBWYQe7Lk : EfhqwnQoDU
>>46
そのYouTubeでインタビューを受けてる方の話は嘘ではないです。
その方が話している歴史的事実に嘘はないと思うということです。
(その歴史的事実から現在を推論しているところの当否は判断しかねますが)

江戸以前から下総に住んできた(江戸時代は士分ではない)旧家の話を私は幼年期少年期に随分聞きました。
話の中の当該の地域、家ではありませんが、私が聞いた四方山の昔話と内容が合います。

風見晃という戦前は近衛内閣の司法大臣、戦後は左派社会党の代議士で日ソ協会の副会長だった政治家がいました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%A6%8B%E7%AB%A0

50. 五月晴郎 2011年10月02日 09:24:51: ulZUCBWYQe7Lk : EfhqwnQoDU
続きのYouTube見ましたが
下総、、で、、住吉とも関わりがあると思います。

51. 五月晴郎 2011年10月02日 09:44:07: ulZUCBWYQe7Lk : EfhqwnQoDU
スレ違いになるので止めますが、インタビュー中の小田原の後北条氏の臣下の風魔(本姓:風間かざま)は後世の江戸の香具師と関わっていると思います。
池波正太郎なんかは文献で知っていて、歴史物でない時代物で換骨奪胎したと思います。

52. 五月晴郎 2011年10月02日 09:57:36: ulZUCBWYQe7Lk : EfhqwnQoDU
橘孝三郎という農本主義の右翼思想家がいます。
立花隆は、橘孝三郎の従兄弟の子で一族ですがw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%AD%9D%E4%B8%89%E9%83%8E
この一族は>>51の風魔の水戸藩に抱えられた流れと思います。

53. 五月晴郎 2011年10月02日 10:30:41: ulZUCBWYQe7Lk : EfhqwnQoDU
なぜ>>52の連想をしたかと言うと、ある人が「立花隆は香具師につながる組織なんかと関係のある人らしいな」とボソッと言うのを聞いたことがあって、その時は意味不明で、明晰な人でバリバリの近代主義者が何故こんなことを言うのか覚えていたからです。
たまたま橘孝三郎のウィキペディアでの記述(>>52)に下記のように出ていますが、この記述からの連想ではありません。(下記【 】とアンカーの>>49はコメント者が付記)
***
農本主義にもとづく青少年教育を目指し、1931年(昭和6年)4月に勤労学校愛郷塾を設立。設立にあたり【風見章(>>49)と知己となり、資金援助を受けた。】また、井上日召と知己となり、五・一五事件では塾生7人を率いて東京の変電所を襲撃。爆発物取締罰則違反と殺人および殺人未遂により無期懲役の判決を受けた。
***
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『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』 朝日新聞社、1982年、中公文庫 1994年  

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コメント
 
01. 五月晴郎 2011年10月02日 16:05:19: ulZUCBWYQe7Lk : EfhqwnQoDU
後北条氏滅亡以降の歴史から、千代田城に対する敵愾心を持ち、江戸で火付け盗賊改の取り締まり対象に成り、香具師のネットワークと関わりの深い人達。

その流れから出た人達は、明治以降の歴史で、どうやって体制側に入っていったか。きっかけとなるコネクションがあったと思います。

ここまでは史実を背景にした仮説です。ここから先は完全な仮説です。

その前に

歴史は、大きく転換しても、連続性があります。
既存の要素(部分)を組み替える力によって新しい展開が生まれていく連続性です。

戦後日本は、アメリカの力によって、それ以前の要素が組み替えられましたが、旧軍以外の部分は、戦前日本の統治組織(体制)の各部分が、そのまま連続しているのは良く知られたところです。
明治は、薩摩と長州が英国の力を背景にして既存の要素を組み替え、歴史が新しく展開していきました。

10年くらい前かに「江戸しぐさ」の本がベスト・セラーになりました。

その本のなかの本論ではないですが、長年蓄えられた経済的な力と「江戸しぐさ」の教養を持った、八っつあん、熊さんでない人達を、薩摩、長州が徹底的に弾圧し人狩りのようなことをしたが、記述に残ることを当然許さなかったので謂わば歴史に埋もれた旨のことが、さらりと書かれていました。
旧江戸府内、近郊、関東でも危なく、開拓地の北海道にも随分逃げたとのことです。

ここから先が完全なる仮説ですが

旧自藩内でないのに、薩摩系や長州系が、こうしたことをするネットワークがあったでしょうか。
上記「千代田城に対する敵愾心を持ち、江戸で火付け、盗賊改の取り締まり対象に成り、香具師のネットワークと関わりの深い人達」を使ったのだと思います。
薩摩系や長州系の思惑と、この人達の敵愾心が一致したのだと思います。
これが上記「きっかけとなるコネクション」だと思います。

う〜ん、昼酒飲んで電波出してる気もしますが、存外真面目です。


02. 五月晴郎 2011年10月02日 16:08:43: ulZUCBWYQe7Lk : EfhqwnQoDU
X その本のなかの本論ではないですが、
○ その本のなかで本論ではないですが、

03. 五月晴郎 2014年4月27日 09:40:29 : ulZUCBWYQe7Lk : t1f9NVG9cc
>>1 

 江戸っ子とは、芝居、講談、落語などにでてくる一心太助や大工の政五郎のような者で、べらんめえ口調で話して、お天道さまと米の飯はついてまわってらあ、宵越しのゼニは持たねえなどと、威勢のいいことをいっているように思っている人は少なくない。しかし、それは職人や行商人などのことであっても、江戸っ子でも、ていねいな口をきいたり、威勢のよくないのもいれば、さっぱりしていなくて、しめっぽいのもズルイのもいる。勤労意欲がなくて、節約を心がけて、人に対してへいこらして、かげでは人の悪口ばかりいっているのもいて、そういう江戸っ子は<くすぶり>という。私の父などは典型的な江戸のくすぶりだったと思える。

 私の家の遠い先祖が江戸へきたのは、徳川幕府ができて三十年たたないうちだった。伊勢平氏のうちの伊勢の国加太(かぶと)の郷の加太城の城主で、本能寺の変のとき、泉州境にいた徳川家康を伊賀の服部半蔵たちと共に、当時の加太城主が護衛して三州岡崎へ無事に帰した。そのときの功で江戸にきて幕臣になるようにさそわれたが、断って、四男が江戸へきて金融業者になった。幕府財政方といえる役目を果たす大町人として、代々伊勢屋八兵衛を名乗って幕末まで江戸・麹町十三丁目に邸宅と店をかまえていた。幕末には幕府に現金(金貨――大判小判)がたくさんなかったので、私の家で立て替えてフランスから軍艦四隻を買って、その代金を幕府への貸しにした。

 明治維新で幕府は瓦解、私の家は関連倒産で明治十二年に一族の大部分が離散した。それまでに麹町の本宅は人出にわたり、江戸市中二十八カ所の別宅中、最大の中野の成趣園は山岡鉄太郎に売り、山岡はそれを有栖川宮に売った。有栖川家は戦後、児玉期間の某氏に売り、昭和三十年頃、中野の成趣園は分譲地になった。今は成趣園の石碑だけが残っていて中野区の史跡とされている。三重県加太城跡も城壁と門ぐらいが残っていて、先年、三重県の史蹟に指定された。

 私の曾祖父加太民之助は威勢のいいほうの江戸っ子で、慶応四年五月十五日、上野の戦争に刀を持って参加して彰義隊の一員として死んだらしい。死骸は見つからなかった。以後、没落した一族中でも私のところが一番ひどい没落の仕方で、父は江戸のくすぶりになってしまった。それでも、私の向かって「おめえが、うまいもんが食べられないのも、上級学校に行けないのも、みんな、おれのせいじゃあねえ、悪いのは薩長藩閥だ。薩長藩閥は親のかたきだぞ。日の丸の旗なんてのは、薩長が江戸を占領したとき持ってきたんだ。江戸っ子はあんなものは立てねえ」といって、終生、日の丸の旗をかかげなかった。そして、かげではそんなことをいっても、表向きは警察を恐れて、私に「アカの本は読むな」といった。

              ―私の江戸・東京学 加太こうじ p224,p225 ―


04. 五月晴郎 2014年4月27日 11:27:25 : ulZUCBWYQe7Lk : t1f9NVG9cc
>>3

 加太の当主は代々八兵衛と名乗っていた。この時の加太八兵衛は、家康に、江戸へ行くのはいいが、これからは町人の世の中になると思うから、武士として家康に仕えないで、江戸で町人の情報を集め、幕府に報告する事を任務としたいと申し出た。これは、家康から、そう命じられたのかも知れないが、私の家の言い伝えでは、申し出たという事になっている。

 家康は江戸に衣類が不足していると、盗賊の親方を呼んで、衣類を盗ませて、古着屋として売らせたという話があるくらいだから、情報集めに、加太八兵衛を使ったのだろうと推察できる。

 それで加太八兵衛は、質屋にカネを貸す金融業者になった。

 質屋を通して江戸市民の生活を調べて、幕府に報告するのが任務だった。この任務は明治になるまで、代々の加太家につづいていた。質屋にカネを貸して、利息をとるのが仕事だったが、そのモウケは一部を幕府へ献納して、残りは私有になった。

 伊勢、伊賀から江戸へ来て、加太一族は江戸市内の動静を調べ、服部半蔵たちは全国の動静を調べたわけである。

 加太八兵衛もズルイから、適当に報告をして、質屋の親方としてもうけたカネは、幕府へも渡したが、自分も適当にしまい込んだらしい。それで、江戸市中に二十余の別邸をもつほどになった。その一つが、幕末に加太政之が住んだ政越園で、つい先頃まで、名称が残っていた。

 私の家の言い伝えでは、二代将軍秀忠の時代までは、伊勢の加太を本拠として、江戸での仕事その他は、伊勢からはるばると使いが来て、指示したといわrている。三代将軍の頃から、江戸が加太一族の本拠になったわけである。

                       ― 東京四方山ばなし 加太こうじ p7,p8―


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