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乃木大将の実像 (八切史観)
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投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 16 日 15:29:44: ulZUCBWYQe7Lk
 

http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/nogi.htm

=転載開始=

乃木大将の実像(筆者:日露戦争で強制的に召集された兵士たちは、日本各地の「サンカ」であった。又聖将として美化されている乃木大将の実像と、切腹の真相。しかしこれも、単なる批判ではなく、八切先生の人間的な優しい眼差しで書かれている優れた史観である)

乃木希典(1849〜1912)西南戦争の植木坂の激戦の時、連隊旗を奪われたのを苦にして自決せんとしたのを明治大帝の思召しで止めたが、大帝崩御の時後を追って静子夫人と共に殉死。「軍神」として崇敬され、辻占売りの少年をやさしく扱ったとする浪花節などで一般には親しまれている。高島易断が今日有るのは乃木大将のおかげだとまで言われている。

皇国史観が一世を風靡した際、待っていたとばかり水戸人は、水戸光圀が弘道館で編纂に着手したと称する処の「大日本史」全十六巻をもって水戸学はこれなりとし、これらの著述こそ勤皇の先鞭だったと主張した。
それに対して長州人は、吉田松陰を持ち出してきて、松下村塾精神で対抗し、「乃木大将も松下村塾で学んだ一人である」と歴史家がこぞって宣伝したから乃木は軍神になる前に聖と言う呼称が出来た。つまり<聖將>と言われるのである。

確かに吉田松陰の伯父玉木文之進が、松陰の処刑後は松下村塾で教えており、その息子に当たる大将も乃木家へ養子に行くまでは塾で生まれ育ったのだから、学んだというより「生え抜き」である。だが大将は長州人にはあまり人気がないという。しかしこれには訳がある。当時は江藤新平の佐賀の乱を皮切りに、旧会津藩士の思案橋事件、ついで九州の秋月の乱から熊本の乱と、ひっきりなしに内乱が各地で起きていた。さて、早死にした高杉晋作と並んで、吉田松陰門下の三羽鴉と言われたのは、広沢兵助と前原一誠の二人である。同じ長州人でも桂小五郎はコンプレックスというか、松陰門下の連中を毛嫌いして頭ごなしに、軽輩達なりとしていた。

だから桂は、鍋島のアームストロング砲で上野を焼き払った後で東北を征圧した大村益次郎を兵部大輔にしたものの、薩摩から陸海軍の統帥権は此方へと言われると、周防人を唆して襲わせた。が、薩摩の海江田信義が下手人達を六角の牢で処刑する直前に放免してしまった。

余りにカラクリが見えすぎ、大村の後任に直ちに薩摩人を直ぐともゆかず、とりあえず人望のある前原一誠をもってきて据えた。しかし大久保利通が早く入れ替えろと催促するので、桂は伊藤博文や井上馨をやり、「長州で奇兵隊が解散を拒み内乱を企てているから鎮撫に行って貰いたい」と、まことしやかに、君が行かねば収まらぬと嘘の情報で前原に兵部大輔をやめさせ、西下させた。
だが、広沢兵助が妾宅で暗殺され、前原も戻って直ぐ何者かに拳銃の乱射を受け襲われたので、
「こりゃ桂小五郎の手下共が、我ら松下村塾出身者を目の敵にして始末しよるんじゃ。こうなりゃ二十一回猛子の故松陰先生の御意志を継ぎ、われらは決起すべきである」と国許では主張。奥平謙輔が憤って塾の旧士族八十名を率い、殉国軍と名乗って山口県庁へ押しかけようとすると、前原一誠を総大将に玉木文之進の息子で当時の松下村塾で松陰の遺訓を教えていた玉木正誼が在校生百名を集めて第一大隊を結成した。

そこで薩摩の大久保利通の内命を受けた桂小五郎改め木戸孝允は、腹心三浦悟楼陸軍少将を討伐司令官に任命した。
玉木正誼の実兄乃木少佐が小倉から先発隊長となって長州へ戻り、松下村塾出身の第二大隊と己が弟の第一大隊を萩で包囲して捕捉し、撃ち殺してしまった。
後に水戸学に対抗のため、松下村塾精神をおおいに謳歌させたのは、彼らを滅ぼした木戸だが、「聖將」「軍神」と明治軍部に追従するマスコミからおおいに讃えられても乃木に長州人が冷やかなのは、松下村塾の建物は残したが、実の弟をはじめ皆殺しにしたせいなのである。

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軍人ゆえに命令には絶対服従とはいえ、肉親を撃ち殺した悩みは酷かったろう。四国丸亀の連隊にいた頃は、女郎屋に流連していて、そこから人力車で通って副官に諫められると、「人間の人格とはへそから上の話しである」と言い放った。
有名な言葉だが聖將とか軍神に祭り上げられてしまってからは、読み人知らずではなく言い人知らずに今ではなっている。何しろ酔うと軍刀を直ぐ引き抜き暴れたのは、一般には隠されているが陸軍部内では知れ渡っていたことらしい。今は東北と称せられる当時の満州公主嶺の料亭で、酒乱の中尉が芸者の生首を叩き斬って憲兵が来ると「軍神の真似をして何が悪いか」と道路へ出ても、なおも居丈高になって、血塗れの軍服姿で大声で喚いているのを実際に私は見ている。

乃木大将が有名になったのは二○三高地攻撃である。息子を二人まで戦死させたことを同情されて、あまり世間から非難されてないが、故福岡徹の考証によると乃木は前線から五里も遠ざかった司令部で、寛永三馬術などの講談本を読んでいただけで、酒浸りになり前線視察にもあまり出なかったという。

といって乃木大将が怠惰だとか臆病だったというのではない。
日本では黒色火薬の主要成分の硝石が鉱石として産出しないので、一発ずつ大事をとって小銃を撃つか、さもなければ弾薬を使わずに斬込み隊で突撃するなどの攻撃を繰り返しているのに、敵は機関銃を持っていて掃射をくり返し寄せ付けぬ戦況ゆえ、乃木大将としては策もなく匙を投げていたと見るのが正しかろう。

しかしハバロフスクの陳列館の二階への改段口に面した硝子戸棚の中に、当時使用された青銅製の機銃と、原爆にあった広島の被害者の山積み光景に似た日本兵の死骸の拡大写真が展示されていて、説明文は、「愚かなる敵司令官は我々の機銃の目印にする為か、わざわざ白布で胸部の位置を明確にした兵士を次々に送り込んできて全滅した」と大きく出ている。白襷隊の事である。
当時の葉書は一銭五厘だったが、いくら赤刷り召集令状で集めた兵を送り込んでも全滅するゆえ、全国的に召集令状が次々と乱発された。

二○三高地攻撃の乃木大将の方え廻されぬようにと、家族が「死線(四銭)を越えて」と当時の五銭玉を千人針の布に縫いつける習慣も始まったのである。しかし旅順をバルチック艦隊来航前に、何としても陥落させねばならぬ陸軍は、応召兵はみな片っ端から消耗の激しい乃木軍へやむなく投入した。だから五銭玉のついた千人針の白布で襷がけさせられた彼ら応召兵は屍体の山に突進、自分らも次々とその上積みの死骸になっていった。

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よって参謀本部の児玉源太郎がたまりかね、「とても乃木には委せておけぬ」と密かに満州へ渡った頃、横浜の関門に露天の占師をしていた高島象山が、それまでの腰掛け式を止め「あいや御通行中の皆さん」と大道の真ん中に立ちはだかり、桜の太いステッキの先で地面に姓名を書き、集まってきた群衆に向かって、
「お国のために出征なさっても、無事に凱旋なさる方もいれば武運つたなく戦死の方もいる。運不運の分かれ道はこうして姓名の中央に線を引き、左右同じになるのは弾丸がさあっと通り抜けていって吉運。そうでない方はお気の毒だが改名せねば運が開けない」と、今日で言う姓名判断を字画で数える型を創始した。

溺れる者は藁をも掴むというが、夫や倅を生還させたい人々は争って行列を作って並んだ。江戸時代にはなかった姓名判断や高島易断の名が、明治三十八年から日本全国に広まったのは乃木大将のおかげなのである。

「庭にひともとナツメの樹、弾丸跡もなまなましい・・・」という、ステッセル将軍と乃木大将が水師営で会見した唱歌が、文部省の国定教科書にのせられ普及した。

司令部からあまり外へ出たがらなかった乃木大将が何故に水師営まで行ったかといえば、児玉源太郎によって解任され、司令部には児玉やその幕僚が入り、大口径要塞砲を陸揚げ、それによって小銃や斬り込み隊では突破出来なかった機関銃座を吹っ飛ばし、ついに陥落させてしまったからである。が、乃木大将を内地へ戻せば、前代未聞の戦死者を出した原因が彼に有ったことになり、長州軍閥にとっては大変な結果になる。そこで無任所司令官のような恰好で乃木大将は残されていたから、暇つぶしに水師営の捕虜収容所へ行き、ステッセル将軍に会っただけの話しなのだろう。

山下奉文大将がパーシバル将軍に「イエスかノーか」と卓を叩いて凄んだのとは全く別個のものである。しかし唱歌では仁愛の大将が敵の大将を労ったように優しくなっているので、浪花節の辻占い売りの少年に優しくした乃木大将の話しが作られ、本当らしく広まったのである。

児玉が渡満したために、無事に生還できた者らは高島易断のお庇と、象山先生は生き神様のように信仰され、不運にも前に召集され戦死した兵の遺族も、学校唱歌や浪花節で「情け深い乃木さんの部下として死んだのが....せめてもの慰めである」と、皆それぞれ納得したものである。

何しろ戦争は済んでも一般大衆は小村寿太郎の講和条約が不満で、日比谷公園の交番へ焼き討ちをかけたり、暴動を起こしていた。が、「民には知らすべからず、寄らしむべし」のお国柄ゆえ、今で言うマスコミ利用と義務教育で、乃木大将は戦争責任を問われることもなく、聖將といった虚像に祭り上げられた。

海軍での軍神は日本海海戦の東郷元帥なのに、陸軍では乃木に大将の上の元帥はつけたくてもつけられなかった。周囲も辛かったろうが、当人の大将はもっと苦しかったろう。

恰好がつかず陸軍部内では白眼視されたろう。松下村塾を継いだ玉木家の生まれゆえ、漢詩を作るのは教わっていたが、読書は
生涯、講談の速記本だけだった老人にとって、二人の子息を失っていたし、さぞかし侘びしい晩年の日々だったろう。
なにしろ聖將と祭り上げられてしまっては、若い頃のように遊廓やお茶屋へ行って憂さ晴らしも出来ない。ちびちび酒を呑みほすしか、戦後は過ごしようが無かったからだろう。酔うと決まって何時も、
「わしも白襷をかけ、彼らと突貫し、機銃の餌食になっていたらよかった....」と、愚痴るごとく下僕に洩らしていたとも言う。

だから、周囲の長州閥が見かねて、何か仕出かさないようにと学習院の院長の職につけた。黙々と学校には行ったが、院長室では<寛永三馬術>とか<真田三代記>の速記本を、折角職員が手でカバーが掛けて有るのに、しきりに口に出して音読していたという。

<<切腹美化の真相>>

大正元年九月十五日付「国民新聞」一面にでかでかと写真入りで、「世上の誤伝風評は真実ならず、一作十三日午後八時に割腹殉死された乃木将軍の最期に関し、所轄東京赤坂警察署本堂署長談」の大見出しがつけられ、
「精神に異常をきたされての偶発的椿事とか他殺の流言もあるも、立ち会った自分は、偉人の最期が武士道的模範的割腹であって、立派な殉死であったことを証明します。西洋間だった二階の居室を室内から施錠してあったので、異様な呻きを聞きつけた下女たちが、女の手で厚いドアが開けられぬ為に、あわてて戸外に飛び出し喚いたゆえ詰まらぬ風評がたったのである」

と、断ってから、芝居の忠臣蔵に出てくる切腹作法そっくりその儘が、まるで実地に見てきたごとく続けて述べられている。そして殉死の起因は、明治十年四月の植木坂で西郷軍に連隊旗を奪われたが、山県参謀が不問にした。
だがその責任に悩み自決を覚悟して長年に渡り堪えていたが、明治大帝の御葬列の死出のお供をするための潔い覚悟の割腹となったのである。と結んである。

勿論軍神としての名誉を守るために、長州閥が死後二日経ってからなのに、赤坂署長に記者会見させ公式記事としたのだろう。が、明治の世でも新聞記事は一般に盲目的な信用がある。「軍人はおかみから授けられた軍旗は、一死をもって守らねばならぬ」
といった不文律や、それまで割腹というのは、斬首、縛り首などの処刑の一手段にすぎなかったのが、新聞紙上で「武士道の華」と賛美されたために、それからというものここに、日本人の精神構造に、切腹という死に方が、非常に偉大な評価を受けるようになってなってしまったのである。
しかし芥川龍之介の単篇や林房雄初期の作品「絵のない絵本」には遠慮しいしい書かれた居るが、昭和四十一年十月号の”文芸首都”には福岡徹が「愚將軍神論」を書き、四十二年六月号の”別冊文春”には、旅順攻撃の無為無策を暴露した「要塞」が発表されたし、天中軒雲月の浪花節台本を書いていた松浦泉三郎の「明治芸談こぼれ話」には、

「お居間の中から静子夫人の誰か......と救いを呼ばれる声がするし、将軍の苦しがって喚かれる叫びがしても、厚いケヤキの六分板の頑丈な戸板の次ぎに樫の板戸。それに中から桟が落ちていて押せども叩けど駄目で、近くの近衛第一連隊へ急を知らせたが、御大葬の儀仗兵に将校が皆出払っていて留守。

ようやく朝になって副官の将校達が来て、掛矢で順に戸板を壊し御居間に入った時には、出血多量でもう手遅れ。取り乱されてと言うより格闘したみたいな様子も見えたので、覚悟の御自害にしてはおかしい。賊が忍び込んで見つかり居直って御夫妻を害したのではないかと、覗きに来た近所の者の口から広まり警察が来て盗難品の調べを何日もかけ多勢でやったようです」と当時の裏話が聞き語りで書かれている。

幕末の長州は家中の侍の教育用に、江戸中期の明和四年に編纂された「御家誠」を安政二年に藩の儒臣中村清旭に判りやすく書き直させ、長州の国定教科書として藩校明倫館だれでなく、私学や私塾においても藩士子弟の教育用に使うことを義務づけた。その中の初めの一章に、「毛利隆元公の御代にあっては、腹せを切れと言われ、否応いう家臣は一人もいなかった」の条項があり、松下村塾の吉田松陰さえも、「長州人は昔から常時、切腹の心構えで忠義に励んだものである」と明け暮れ真面目くさって講義をなし、そしておもむろに、

「いくら力任せに腹に刃を突き刺したにしても、介錯人が首をさっとはねてくれねば絶命できず、身体中の血が流れ出て悶え苦しまねばならぬものである。それ故卑怯未練な振舞いをして切腹の沙汰を受け、自分で生殺しみたいな辛い目にあうよりは、死中に活を求めるよう勇敢に敵に突きこめ。そうすれば死ぬのも一瞬の安楽死であり、突破すれば命拾いすることも有り得るのだ」

これは代々に渡って扶持を貰っている家臣は努力を尽くして毛利家のために努力すべきであるといった教訓だったが、吉田松陰はそれに中世の輪廻の思想を加味して、「人間は一度死んでも、また七回までは生き返ってくるものだから、七生報国の精神を持て。わしは、その三倍ぐらい死んでもきっと蘇生してくるぞ」と自分は、二十一回猛子と名乗った。
毛利家上層部は、切腹刑を課せられぬように死力を尽くして奉公しろと教育させる筈が、松下村塾だけでなく、私学校の塾でもみな、「腹の切り方」の作法の実習を生徒にさせ、若者達は死への悲壮感に酔わされての教育となった。

そこで松下村塾の玉木家に生まれ育った乃木大将も、幼時から腹切りの実習を見よう見まねで何度もしていたから、雀百まで踊り忘れずというか三つ子の魂は百までの格言通りに、介錯無しでは即死できぬ切腹なのに敢然とやってのけたのだろう。そして死にざまによってその生涯の評価の決まる日本人の精神構造から、「自決し明治大帝お供をした乃木大将は、武人の亀鑑であり武士道の権化である」

とされ、軍神に相応しい最期であったと偉人として遇され、切腹も美化され乃木神社に祀られている。
長州の切腹教育は明治になって有終の美を飾ったことになる。だが、である。

安政二年に教科書を作った中村清旭は知らなかったらしいが、毛利元就からその子隆元までの間は、関ヶ原合戦で防長二州へ押し込められる前ゆえ、今の広島に当たる安芸にいて吉田城が殿様の居城であった。そしてそこの安芸弁で、「腹せ切る」というのは、腹から背へ突き通すように刃物を刺すことではなく、意味は「腹から背まですり切れるまで働く事」つまり他の地方では「身を粉にして働く」というのと同じ方言だったのである。

しかし尼子氏の領地だった防長二州へお国替えとなって山口の萩を本城にしてから二世紀も経つと、言葉が安芸の方言とは判らず文字通りに解釈してしまって、『大訓衍儀』の木版刷りとなして配布したのである。この怪我の功名というか、この切腹の勘違いが長州人を幕末になって勇猛にし、ついに明治の世にしてしまったのである。

となると、「武士道とは死ぬことと見つけたり」で教育しても効果があがらず、洋式武装を完備し、薩長も購入出来なかったアームストロング砲まで輸入しても駄目だった佐賀鍋島に比べれば大成功と言えようものである。

勘ぐれば或いは毛利の殿様もよく承知の上で「人使いのコツ」として猛烈家臣養成
のため故意に刷本にして教育させたのかも知れぬが、哀れ痛い目にあって苦しんだ
大将や、付き合わされた静子夫人は誠にお気の毒であるというしかないような想いにさせられる。
【終わり】     

<<引用参考文献>>
八切止夫著「獅子の時代」「幕末奇人伝」「野史辞典」「庶民日本史辞典」
幕末確定史資料大成・日本歴史資料集大成明治史学会雑誌その他。

=転載終了=  

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コメント
 
01. 2012年6月05日 23:08:20 : KG0umpqgu3
乃木大将の本は幾つか読みました。確かに明治30年生の祖父、昭和10年生の父から聞いていた大将像とは随分と違いましたが、どの本も晴郎さんの文章ほどには意地悪ではなかった。
 真実を追究することは大切なことですが、美談をぶち壊しにして夢を瓦解させるのは、罪なことですね。

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