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「大化の改新はなかった」。「日本書紀成立の真実 書き換えの主導者はだれか 森博達」
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/574.html
投稿者 manase8775 日時 2011 年 11 月 20 日 12:16:54: PZJnfOiEOPWZI
 

20世紀に誕生した天才日本書紀区分論学者 森博達(ひろみち)氏彼の待望の親書が発売された。内容は、一般の日本書紀研究者向けなので比較的平易に内容を選んでいる。
では、少し紹介します。

日本書紀は、日本で最初の正史です。書紀なしには、7世紀以前の日本の歴史は語れません。日本古代史の研究にとって卓越した文献です。
 しかし、書紀は史実のみが書かれているわけではありません。史実と創作をどのように判別するのでしょうか。
書紀は「古事記」と違って漢文で書かれています。それゆえ分析には、昔の中国語の知識が不可欠です。
学問とはなんでしょう。「学問の虚実の判別は簡単です。事実の発見を伴っているか否か。事実の発見を伴わず、想像の隘路を辿る研究があります。「それを解釈史学」と名付けました。印象史学といってもいいでしょう。学問ではなく評論の類です。
さらに、一部の『印象史学」は事実を被い隠しています。虚偽を捏造するものがいます。もはや、学者でも評論家でもありません」
「書紀成立区分論を無視した日本書紀研究は、砂上の楼閣となりました。書紀区分論は難しくありません。漢和辞典というツルハシ一本で着手できます。百の妄想より1グラムの純金です。ぜひ多くの方々に事実を掘り出す喜びを味わっていただきたいと願っています。」
このような言葉で始まる最新版の森博士の本を購入した。
私が本を買うのは珍しい、この本に期待することは大きいのです。
大化の改新の詔勅は、α群に属する。正確な当時の唐代北方音の話者が記録したものだ。
その人物には「薩 広恪」という唐人捕虜を登用した。その前に「続 守言」さんが百済戦(660~663)で捕虜として列島に連れてこられたと記録されていますが、これを記録したのが「薩 広恪」、優秀な人物2名のうちの一人。

しかし、おかしい。百済戦の捕虜を倭国に移すということは、倭国、百済国は一心同体なのかとも思える。(こういう書き方は事実をもとにした推量である。歴史捜査とでも言っておこう。)
その間違いのないはずの孝徳紀は、誤用が多い。特に、「大化の改新」への始まりから、「改新の詔」部分は間違いのオンパレードであるそうだ。


私が以前から、このあたりに焦点をあてて推理を展開してきたことは間違いはなかった。
「薩 広恪」は、私の大好きな皇極紀から書き始めていますが、スタートは691年からであると森博士はいいます。(714年に書紀編集の命令が下ったのですが)、それを改ざん・加筆したのが、われらがヒーロー三宅の藤麻呂様です。(三宅臣藤麻呂)彼は、倭人系の癖を持った方で、たくさん致命的漢文のミスを残しました。大化の改新につながる皇極紀から孝徳紀がとくに多い。(でも、それで真実が明らかになってきたから、彼はヒーローです。)

そして、決定的に編纂が合わらないまま終了せざるを得なかったのが、天智紀です。その理由を博士は具体的に述べています。
藤原不比等の死です。死期が迫り、大急ぎで提出させたのです。だから未完成の状態で残されているのです。
皇極紀・孝徳紀への加筆は、入鹿暗殺の予兆から改新の詔まで長いが、そこには、唐人の正格漢文を改ざん・加筆した決定的証拠がめじろ押しだったことが、この本に一部書かれている。
私が以前投稿した範囲の記事をちょうど証明してくださっていいる。細部は一致していないがその流れは間違いない。

1) http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/533.html
2)http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/541.html
3)http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/542.html
4)http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/534.html

*本文は森先生の新刊から参考にしています。
 

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コメント
 
01. 2012年4月21日 21:38:19 : KbjUzFqPyw
中丸薫【古代天皇家と日本正史】や金?【日本=百済説】をご参照下さい。

02. 石山 2013年4月24日 08:44:06 : OW800dYTjbiHc : muHp5iM18I
長屋親王から高皇子 天皇 この関係がどうしても理解できませんでしたが、こう考えたらどうかと思いつきました。
           相似性
長屋       ーーー秀頼
高市 総持    ーーー秀吉
729年 一族全滅 ーーー大阪城落城滅亡
不比等      ーーー徳川家康
724年 聖武    ーーー秀忠
日本紀 −−−日本書紀
不比等作ーーー続日本紀のあとに改作・徳川中心の史書

3. 2019年2月17日 11:14:57 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-11232] 報告
日本人の起源(縄文・弥生・大和)

269840 不比等が歴史を捏造する「日本書紀」の真実を見抜くことの難しさ、
 
今井勝行 ( 中年層 東京 会社員 ) 12/10/21 AM01 【印刷用へ】

天子降臨の夢 藤原不比等プロジェクト 著者:大山誠一 NHK出版

【要約記事引用】
第4章 王権の諸問題
 一 王権の成立と展開  1

●解明された真実
 ここまでに明らかになったことを整理しておきます。

@聖徳太子は『日本書紀』が作った架空の人物である。実在の人物ではない。
A『隋書』によれば裴世清が会った倭王は男性であった。推古は女性であり、『日本書紀』においても大王としての存在感はない。推古は大王ではなかった。
B『日本書紀』の記述自体から、用明と崇峻の即位も否定される。彼らは大王ではなかった。
C舒明十三年(五五二)の仏教伝来とその彼の崇仏論争記事は、隋唐の末法思想にもとづく創作であり、事実ではなかった。作者は、唐に留学した道慈と思われる。
D本当の仏教伝来は、国家レベルのものとしては、崇峻元年(五八八)粂の百済から僧侶や技術者が渡来した記事である。その後、蘇我馬子により飛鳥寺が建立され、日本の仏教が始まる。
E『日本書紀』の中では、蘇我馬子の存在感は絶大である。『隋書』の倭王の記述と矛盾するところもない。だから、現実に飛鳥に君臨した大王は蘇我馬子であったに違いない。『日本書紀』編者は、この馬子の権力を執拗に否定しようとしているが成功していない。

 以上であるが、右の諸点を要約すれば、『日本書紀』の編者は、当時における近代文明の象徴と言うべき仏教の伝来を隋唐の末法思想によって描きつつ、たくみに、蘇我馬子という現実を否定し、その代わりに聖徳太子と用明・崇峻・推古の歴代大王を捏造した、ということになる。仏教伝来の話は、道慈らの手になるとしても、右のストーリーというか論理を構想したのは藤原不比等であったと思われる。多数の人々が『日本書紀』の前案にかかわったとしても、その指導的理念を構想したのは不比等だったからである。
 不比等が自らに課した政治的使命は、草壁、軽(文武)、首(聖武)の三人の皇子の擁立であった。擁立と言って即位と言えないのは、草壁は即位前に二八歳で亡くなっており、軽(文武)も即位はしたもののわずか二五才で亡くなり、首(聖武)の場合は、その即位を待つことなく不比等自身が没したからである。天の与えた試練であろうか。不比等にとっての現実は、常に幼い皇太子と中継ぎの女帝であった。いつか、この幼い皇太子が立派に成人し、即位して欲しい。それを頼りなげな中継ぎの女帝に託さねばならない。その祈るような気持ちを文字にしたのが『日本書紀』の推古女帝と聖徳太子だったのではないか。
 同時に、蘇我馬子という現実を排除し、遠く高天原にいたる万世一系の論理を構築する。これにより、歴代天皇の神性を確保する。そして何よりも、これからのち万世一系の未来は、藤原氏の娘たちの生むことになる子孫である。不比等の場合は、何とも表現しつらいが、男親こそ借り物なのである。藤原氏の娘が天皇の子を生む。やがて、その子が天皇になる。これを繰り返せば、天皇は完全に藤原氏の一部になる。その論理を 『日本書紀』において確立する。そこで確立した価値観を未来永劫につなげる。恐ろしいというか、なんとも壮大な不比等の野望である。

●史料としての『日本書紀』の難しさ
 『日本書紀』を批判的に論ずる研究者はほとんどいなかったし、いても、政治の力で異端視され押さえ込まれてきたからである。しかし、見てきた通り、『日本書紀』の記事は虚構に満ちている。その虚構を剥ぎ取ると、その下に蘇我馬子という真実が隠されている。どちらにしろ、これまでの常識とはまったく異なるものである。そういう史料としての『日本書紀』の難しさ、これを、まず直視しなければならない。
 『日本書紀』の虚実を技術的に分析し、地道に真実の歴史を復元する作業は必要である。けれども、そういう作業によって個々に実績を積んでも、常に、虚偽にもとづく根強い常識(これを迷信という)による批判にさらされ、不当な扱いを受けるのが通常である。日本の歴史は万世一系の天皇の歴史であるという先入観から、異端視され否定されてしまうのである。とすれば、必要なのは、むしろこの誤った先入観ないし迷信を根底からくつがえし、新たな方向性を示すことではないか。
 『日本書紀』の記事を個々に論ずるのはやめ、王権はどのように成立したのか。なぜ大和に成立したのか。また、その性格はどのようなものであったか。さらに、その王権の歴史の中で、蘇我氏はどのような存在だつたのか。このような問題について述べてみたいと思う。
【つづく】
日本書紀がどのような目的で編集されたのかが、はっきり見えてこないと、聖徳太子が虚像人物であったとしても、何故虚像人材が必要であったのか。蘇我馬子は絶大な権力を持っていたが、100年以上前の歴史を変えてまで、蘇我馬子の存在を小さく見せる必要性は何処のあったのか。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=269840

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