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ノモンハン事件はソ連が準備しソ連が挑発した事件であることはソ連資料で明らかです。いまさら日本の挑発は古すぎます。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/581.html
投稿者 TORA 日時 2011 年 12 月 14 日 14:19:53: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu253.html
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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ノモンハン事件はソ連が準備しソ連が挑発した事件であることは
ソ連資料で明らかです。いまさら日本の挑発は古すぎます。

2011年12月14日 水曜日

◆「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 12月12日  読者の声
http://melma.com/backnumber_45206_5360573/

(読者の声2)黒宮広昭・米インディアナ大教授(ソ連政治史)がロシア情報などを基に、関東軍第23師団の小松原道太郎師団長がソ連のスパイだった可能性が大きく、関東軍はスターリンの巧妙なわなに陥れられたとの新説を唱えたので、騒ぎになっています。
 そこで以下ご参考まで。
 張作霖暗殺事件の河本がソ連工作員の手先らしい、となってから、そこら中でスパイ警戒が叫ばれるようになったのは良いことです。
しかしこれはどうでしょうか。事件の動機や経過がソ連崩壊後に分かった史実と違うからです。黒岩教授がロシアや中共のスパイという可能性だった否定しにくいことにもなりかねません。

1.事件の動機論:ノモンハン事件はソ連が準備しソ連が挑発した事件であることはソ連資料で明らかです。いまさら日本の挑発は古すぎます。
 日本軍がソ連を攻撃したと言う説に対して、元ソ連の将軍は、「支那事変で苦しむ日本軍がソ連を攻撃すると等という主張は、よほどの馬鹿か間抜けしか思いつかない愚論である」と片づけています。また偶発で始まった戦争ではありません。近代戦は補給戦であり、小競り合いで始まる戦争などありません。勿、論指導者の冷厳な戦略があります。

 2.ソ連の準備:ソ連軍は1939年2月ごろからシベリヤ鉄道から一千キロも離れた、ノモンハンの原野に20万の大軍、数千輌の戦車、軍用車、一千機以上の飛行機を集めて、攻撃を準備していました。その上でモンゴル騎兵を使った越境挑発してきたのです。
日本軍は当然反撃しました。どこの国でも同じです。するとソ連は計画通り戦闘を拡大してきました。始めから計画的だったのです。

3.経過:ノモンハン事件は1939年の5月に発生し、9月に終わりました。日本は1937年の支那事変の終息に必死の努力をしていました。ソ連と戦う気などありませんでした。
支那では蒋介石は敗北を続け、ソ連は蒋介石が日本と講和することを恐れていました。満洲狙いで蒋介石を支援していた米国もそうです。
そこでスターリンは蒋介石を督戦するために1938年には張鼓峰事件で日本軍を挑発し、そしてノモンハン事件を起こしたのです。
それだけではなく、西部のナチスドイツとの9月のポーランド分割に備えた東部国境の牽制策でもありました。だからスターリンはノモンハンでは緒戦は敗北しましたが、分割の迫る8月下旬には日本軍の十倍の戦力で攻撃してきました。
このため日本軍は大打撃を受けたのです。しかしスターリンはポーランド分割が迫っているので、ヒトラーの仲介で講和しました。
予定通りだったのです。

4.小松原師団長スパイ説の疑問:もしスパイならソ連へ逃げていたでしょう。しかし自決に近い死去をしています。こうした馬鹿げたデマはソ連が得意とするところです。西安事件も日本がやったと報道しました。
そのうち東條首相はスパイだったなどと言い出す可能性もあります。謀略の世界では、スパイだといっているものが実はスパイということもあり、合理的な理由がない限り信用しないことです。そのために歴史の勉強が必要です。

5.ソ連スパイ:ただし日本にはゾルゲが既に侵入しており、当時世界の軍事筋では日本軍の軍事力はソ連が一番良く知っていると言われていました。
スパイが関東軍にも入っていたことはあり得ます。戦前の世界では共産主義の正体を知らず、ソ連にあこがれた人が多かったのです。

6.ソ連の資料の信憑性:ソ連の資料は謀略用の資料もあるので簡単には本気にできません。前後の歴史の合理性で確率的に把握することが必要です。

7.日本軍大損害説:日本は前半で圧勝しているので8月攻勢で打撃を受けても、ノモンハンは総計で見ると勝っています。これが勝った、負けたの誤解の理由です。
 スターリンはソ連軍の大敗に怒って、ジューコフを殺そうとしましたが、ジューコフは身代わりにシュテルン大将を差出し助かりました。ジューコフが一番恐ろしかった戦争はノモンハンといったのはそのためと思われます。
ソ連が、日本軍は兵士は優秀だが将校は無能だといったのは、日本軍の分裂を狙う定番の謀略ですから、騙されないこと。日本軍は上下ともに実に優秀であり勇敢でした。

8.ハニートラップ:ソ連の情報機関は工作に美女を使った。24時間フル・アテンドです。理由は費用安くて効果的だったからと言います。
これに英国の将軍が引っ掛かりました。ただしナチスの将軍には通じなかった。ある将軍はソ連視察旅行で散々アテンドを楽しみ、写真を撮られましたが、帰国後恐喝に乗らないので、ソ連諜報部がゲシュタボに流すと「元気でよい」ということでお咎めなし、だったそうです。
文化が違うのでしょうか。

9.特務機関: 英国のMI5です。米国のCIA,ソ連はkGBとGRUの2系統。国家必須の情報機関です。ノモンハン事件当時、日本はソ連とは戦争状態にはありませんでした。当時、満洲ではハルピンのソ連領事館の通信担当者が日本側に接触してきました。そして重要情報を漏らしたのです。これに対して日本側も何か与えたのでしょう。諜報の前線ではギブアンドテイク(えび鯛)が常識です。
ただ、菅沼光弘先生の講演によると、1939年8月20日のソ連の大反撃については、偽情報だったそうです。
したがって日本の満洲の特務機関の提供した資料があったとしても不思議ではありません。それだけではスパイではありません。なお、黒岩説は史実が全く誤っていますので、出鱈目です。

ウィキぺディアを正す必要があります。
特に太平洋戦争2年前と言いながら、支那事変中と言わないところが不自然です。支那事変中だと誰もがソ連を攻撃するわけがないと気づくからです。こうしたところも謀略誘導では非常に重大です。
  (東海子)


(私のコメント)


「株式日記」では、ノモンハン事件については日本軍の大勝利だったと書きましたが、戦後において日本に都合のいい事は隠されてしまって、日本は戦争を仕掛けた犯罪国家と言うことにされてしまった。ノモンハン事件も関東軍の野心家が仕掛けたとされているようですが、当時は日中戦争中であり日本から仕掛けることは合理的ではありません。

日中戦争で日本が勝ってしまうと、中国に利権を持っていたイギリス、フランスなどの帝国も困るし、ソ連も困ることになる。だから日本軍を牽制するためにスターリンはノモンハンで日本軍を挑発してきたのでしょう。そうでなければ日本軍の10倍もの軍備をそろえることが出来ません。日本は結果的には挑発には乗りませんでしたが、日本国内では南進論が強くなった。

石原莞爾は満州を朝鮮半島との緩衝地帯にしようと考えていたのでしょうが、当時の満州人も朝鮮人も、とても中国やソ連に対抗するだけの気概を持っていなかった。日本軍が中国や朝鮮半島から撤退すれば、代わりにソ連が乗り出してきたことでしょう。西側ではポーランドを分割占領していました。だから日本が中国や朝鮮から撤退していればソ連が占領するような状況だった。

朝鮮軍司令官だった板垣征四郎大将は、朝鮮独立運動が本物ならばこれを支援すると言う意見の持ち主でしたが、独立運動は昭和20年8月15日まで起きることはなかった。その事が朝鮮半島分断の引き金になっていますが、このような事は韓国では教えられていないだろう。満州国も同じであり中国やロシアと対峙する気概に欠けていた。

今では大韓帝国も満州国も消滅して無くなりましたが、当時の日本の戦略としては満州国や大韓帝国を中国やソ連の緩衝地帯にすることだったのだろう。その為には当面は日本軍が進駐していなければならなかった。しかし中国やソ連が黙って見ているはずがなく、関東軍内部にはスパイが入り込んで満州でも挑発を繰り返して日本軍を挑発してきた。

盧溝橋事件もノモンハン事件も、共産主義勢力が仕掛けてきた構造は同じであり、日本軍はノモンハンでは自制が効いたが、盧溝橋では挑発に乗ってしまった。陸軍自身は挑発には乗らない方針でしたが、海軍が上海事変を拡大して引くに引けなくしてしまった。当時の海軍大臣はソ連駐在経験がありロシア語が堪能な米内光政だった。

おそらく米内はソ連のスパイであり、日中戦争を拡大させる意図で上海で海軍陸戦隊を投入して事件を拡大させたのだろう。その辺の状況は以前の「株式日記」でも書いてきましたが、米内光政が東京裁判でも被告にならなかったのはソ連のスパイだったからだろう。今でもそうですが中国やロシアはハニートラップを仕掛けて罠にかけてくる。女を使う方法が一番手軽だからですが、日本の政治家も皆引っかかってしまう。

今から考えれば、満州や朝鮮半島の利権をアメリカに半分ぐらい渡していれば、日米戦争は起きずに済んだかもしれない。しかしそれだけの戦略を考える戦略家がいなかった。地政学的に見れば満州も朝鮮半島も守りきれるものではなく、アメリカ軍が韓国からいなくなれば韓国は中国の勢力下に入るだろう。それは朝鮮戦争を戦ったアメリカ軍が一番良く知っている。

張作霖暗殺事件の河本がソ連工作員の手先らしい事はソ連崩壊に伴う資料で明らかになっているようですが、日本の戦後の歴史教育ではことごとく日本の軍国主義者がやったことにされてしまっていた。しかし当時の日本の大本営は不拡大方針であり、それを戦争拡大を煽ったのが日本のマスコミだ。日本のマスコミにも尾崎のような共産主義者が沢山いたからだ。

日中戦争も何度も講和の試みがなされましたが、それをぶち壊したのが共産党のスパイでありマスコミだった。当時の新聞で不拡大方針を支持している新聞は全くなかった。不拡大を支持すれば新聞が売れなかったからだ。


◆三村文男(著)『米内光政と山本五十六は愚将だった』近衛、広田、杉山は死刑で、米内が無罪はおかしい。 2005年4月29日 株式日記
http://www.asyura.com/0502/bd39/msg/495.html

北支事変といわれた日中戦争初期の段階で、戦火の拡大が日本の命とりになることを予見して、最大の抵抗を続けたのは、参謀本部第一部長石原莞爾少将であった。戦争熱をあおり立てるマスコミをバックにして、優柔不断な堂上人の近衛首相に圧力をかける積極派の力のゆきつくところ、戦火が上海に及ぷにいたって、海軍の主唱で日中全面戦争となり、その名も第二次上海事変をあわせた支那事変となった。上海居留民の引揚げと、揚子江上艦隊の撤収を主張した戦略が却下された失意の石原は、辞意を表明して、昭和十二年九月二十三回関東軍参謀副長に転出した。

石原が北支事変の拡大に反対した最大の理由は、対ソ戦備にあった。日本に二正面作戦をする戦力が無いと、知りつくしていたからである。彼が昭和七年八月満洲から帰還して、昭和十年八月参謀本部に着任し、最初に着手したのは、日本の戦力の正確な調査把握ということであった。その結果、想像していたよりはるかに弱体な現状を知ることになった。

昭和七年に満洲国が出来て、日ソ勢力の接触する長大な国境線に包囲された形の、内戦作戦を考えると、寒心に堪えぬものであった。昭和七年の関東軍三個師団に対して、極東ソ連軍は六個師団であった。北支事変の起る前年の昭和十一年には、関東軍五個師団に対して、ソ連は十六個師団どなっていた。昭和十四年には彼の三十個師団に対して、我は十一個師団、しかも一個師団あたりの戦車数は、彼の七十二台に対して、我は十八台であった。それでいてこの時、関東軍はノモンハンでこちらから事を構えたのである。

昭和八年(一九三三)から始まったソ連の第二次五か年計画は、事変勃発時には最終年度を迎え、成果が宣伝され、翌年から第三次計画に入ることになっていた。これに比して日本の生産能力を考えると、隔差はひらくばかりではないかと思われた。事変の拡大は対ソ戦略の欠陥を増大するばかりで、国防上許されない、というのが石原の反対理由の第一であった。事実北支事変が支那事変となってから、弾薬が不足し、弾薬増産のために、他の兵器の生産が圧迫されるという、構造上の欠陥が暴露され、産業上も泥沼の様相を呈してゆくのである。

蒋介石の国民軍は、ドイツ軍事顧問団ファルケンハウゼン中将の指揮の下に、交通不便な華北決戦を避け、重要な上海地区に全力を注いでこれを要塞化し、日本軍を邀撃しようという計画であった。後になってわかった事だが、上海を避ける石原戦略は、その裏をかいていたのだった。海軍の米内戦略を採用した日本首脳部は、敵が全力を傾注し、万全を期して待機した地点に、正面から攻撃を強行することになった。果たせるかな、予想せぬ犠牲の続出で、攻撃は失敗した。(後略)

◆本当は日本軍の大勝利だったノモンハン事件  五味川純平、司馬遼太郎の小説は虚構である 2003年10月3日 株式日記
http://www.asyura.com/biz0310/idletalk5/msg/137.html

五.ようやく状況の重大さを認識した軍中央が本格反撃作戦を決意したことを知って、震え上がったスターリンは、リッペントロップを通じてヒットラーに停戦の仲介を頼み込む。不拡大方針をとる政府・軍中央は、一方的に国境侵犯攻撃をしてきたソ連軍の非をとがめること無く、これに応じてしまうである。増援部隊の集結を得て、反撃を期していた兵士は停戦命令に憤激したという。

六.もしこの時に反撃を行っていたら歴史は変わっていたであろう。 この二年前の昭和一二年には外蒙古で大規模な反乱計画があり、前首相・参謀総長を含む二万八千人が処刑されている。これは当時の人口八〇万の四%近くにあたり、それまでの粛清を加えると総人口の六%がソ連=共産党支配者によって虐殺されるという異常事態が進行していたのである。また昭和一四年にも千人が参加した反革命蜂起が起こっている。
  そのような反対派を押さえ込み支配を固めることを狙って、断固たる決意で行ったのが大兵力を結集した国境侵犯だったのである。 それが日本軍の反撃によって敗退することになったら、ソ連=共産党の外蒙古支配は完全に崩壊していたであろう。その結果、内蒙古・満州内蒙古人勢力と協力した親日の政権が生まれていた可能性が高いのである。

七.こうした歴史的事実を教えてくれる本が昨年出版された「ノモンハン事件の真相と戦果-ソ連撃破の記録」(小田洋太郎・田端元著)(有朋書院)である。歴史偽造を突き崩す貴重な情報を教えてくれる書である。
  多くの人に読まれることを願うものである。

 

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