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日本国家は明治維新で長州藩田布施一味に乗っ取られた?・・田布施は朝鮮人集落だった?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/601.html
投稿者 稲垣勘尚 日時 2012 年 2 月 13 日 10:02:39: Je/tdYZdw47GA
 

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=261332

明治天皇替玉説の検証詳細です。

『明治天皇以降は南朝 明治維新と田布施朝鮮人部落』(真実探究)リンクより転載します。
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現在の天皇は南朝系、明治維新のときに入れ替わった。
明治維新によってできた明治新政府は、明治簒奪政府である。

そんな話を、先日話を聞きに行った講演会「未来地球デザイン塾」で聞いた。

明治天皇は、江戸時代最後の天皇である孝明天皇の子ではない。孝明天皇は、邪魔になったために長州藩によって毒殺され、長州の田布施(たぶせ)、現在の山口県熊毛郡出身の大室寅之祐が明治天皇になったというのは以前から言われていて、私もこの話は知っていた。事実かどうか確信は持てなかったが、話を聞いて、大筋で事実であることが確認できた。

ただ事実と違うのは、孝明天皇は毒殺ではなく、伊藤博文に刀で殺されたということ。

孝明天皇は、40歳くらいのとき、疱瘡にかかった。その年齢で疱瘡にかかるとかなりたいへんな病状になる。が、病状は快方に向かった。

病気が良くなると、孝明天皇は京都郊外にある女の家に出かけた。それを見越してあらかじめ暗殺に都合が良いよう、女の家の場所・作りを整えていた。孝明天皇が厠(かわや)に立ったとき、そこで待ち伏せしていた伊藤博文が床下から天皇の尻に刀を刺し殺害。遺体はきれいに洗われ、孝明天皇は疱瘡で死んだことにされた。

孝明天皇には、睦仁親王(むつひとしんのう)という息子がいた。彼もまた殺害された。そして、長州によって大室寅之祐が睦仁親王と置き換えられ、明治天皇となった。

孝明天皇は毒殺されたという話が「裏の歴史」のようなものを読む人たちの間でされている。しかし、それはそういう話が意図的に流されたためで、実際には伊藤博文に刀で刺され、殺されているという。

大室寅之祐が明治天皇に据えられたのは、彼が後醍醐天皇の末裔で、南朝を継ぐ者だったから。孝明天皇までは、天皇は北朝の血筋であったのだが、明治天皇が大室寅之祐に置き換えられたことで、天皇家は南朝の血筋に移ることになった。

明治天皇が偽者で替え玉であることは、状況証拠からも判断できる。孝明天皇の息子の睦仁親王は、体が虚弱で精神的にも弱かった。しかし、明治天皇は体格が立派で馬に乗るのが大好きだったという。睦仁親王とは、特徴が全く一致しない。

南北朝の争いで南朝が負けた際、光良親皇という南朝の王権を持つ者を長州がかくまい、その血筋は代々受け継がれた。そしてその末裔である大室寅之祐が、明治天皇に即位することになる。

徳川家康は、正統である南朝を復活させることを狙っていた。しかし、寿命がつきこれを断念。南朝の復活は、ひそかに水戸藩に託された。徳川御三家の中でも水戸は特殊は使命を帯びた家だった。

幕末、徳川最後の将軍・徳川慶喜は、水戸藩の出身。彼は明治維新の黒幕といえる存在である。
下はフルベッキ写真と呼ばれる写真で、勝海舟・陸央宗光・西郷隆盛・坂本龍馬そして大室寅之祐(明治天皇)などなど、幕末から明治維新にかけて活躍した者たちが勢ぞろいして写っている。真偽が疑われているが本物であり、徳川慶喜の命によって彼らが長崎に集められた際、撮られた写真であるという。

フルベッキ写真〜明治天皇、西郷隆盛、勝海舟 他の集合写真(クリックで拡大)リンク

徳川慶喜は、江戸幕府を解体して終わらせ、大室寅之祐を明治天皇に担いだあと、自分は新しい幕府の将軍になろうとした。が。結局これは失敗に終わる。

天皇が入れ替えられたことについて、長州の国家老一族の益田勝実の言葉が残っている。鬼塚英昭氏の著書「日本のいちばん醜い日」に掲載されている一文を紹介する。

「天皇様をお作り申したのはわれわれだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされことだったが、近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものではなかった。かれらが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、……激化すると、天皇を取り換えてしまうほかなくなる。

わが家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、蜜月時代にもたらされたものだろう。奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は謀殺されてしまった。もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではない。志士側で、天皇が倒幕の障害になりはじめたからである。今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。
孝明天皇は、暗殺された。

明治天皇は大室寅之祐に置き換えられた。

以後天皇家は、南朝の血筋になった。

これは事実として確定したといって良いだろう。

同書によると、明治維新以降、日本の政治は、大室寅之祐(明治天皇)の出身地である山口県の田布施出身者で占められることになった。田布施は長州時代の朝鮮人被差別部落である。

日本のいちばん醜い日リンク

伊藤博文、木戸幸一、宮本顕治、河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などだ。岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この田布施一味の末裔である。

小泉元首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)出身の朝鮮人。鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、朝鮮人部落だ。小泉純也は上京して小泉又次郎というヤクザ(刺青大臣と言われた)の婿養子となり「小泉姓」を名乗り、日本国籍を取得した。小泉の次の安倍も、もともとの出は、朝鮮人部落だった山口県の田布施である。

現在の菅直人首相も田布施の出身であるという話を聞いたことがあるが、公式プロフィールでは山口県宇部市の生まれということになっており、確認は取れていない。

明治天皇=大室寅之祐になり、天皇家は正統の南朝に移った。が、明治維新の立役者たちは暗殺されるなどして、実権は革命の趣旨を無視して利権を重視する岩倉具視・伊藤博文・山縣有朋らの手に渡ることになった。山縣は特に重罪で、第2次世界大戦へと導いた張本人だという。このことをもって講演会の講師は、「明治簒奪政府」という言い方をしていた。

教科書に書かれない、書けない歴史の闇が明治維新にはあった。坂本龍馬の大河ドラマを見て喜んでいる場合ではない。今に至る日本の支配階層の腐敗の根が、明治維新にあったのだ。


 

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コメント
 
01. 2012年3月04日 10:00:54 : FAdXNQZfM2
私も明治天皇の替え玉説を信じている者です。 
根拠は
1、徳川慶喜が許され、明治天皇に拝謁したのは老人になってから。若いときに孝明天皇、明治皇太子に面識あり、双方長年月を経て、変わっていても当然の年月が明治政府には必要だった。
2、明治神宮の明治天皇と皇太后の件も、本当の明治皇太子が孝明天皇と一緒に岩倉の姉?妹?に毒殺された時に殺されていたから、本当の明治皇太子の嫁は幽閉され、偽の替え玉明治皇太子=明治天皇が後日結婚され、皇后になったから、死んだ本当の明治皇太子の妻=嫁は皇太后と言われたと思うのが自然だ。
  東大合格して初めて父母と明治神宮参拝したときに、皇室崇拝論者の母に看板の明治天皇・昭憲皇太后の違いを聞いても答えられず、それ以降、気にしていたが、孝明天皇が9穴から血が出たと知り、息子も同時に殺されないと公武合体が急転しないと思った。
3、明治天皇が南朝が正統と言ったと、高校日本史で聞いてから不思議だったが、自分が替え玉で南朝出身なら表面上、北朝でも南朝が正統と言いたいだろうと思った。明治政府の薩長偏重はこれに由来すると思った。
  中国の首相か外相が日本人はもっと日本の歴史を勉強しなさいと言ったことが有った。それ以来、自分の疑問だったことをネットで調べ出した。ウィキペディアで必ずチェックしてから調べ直していたら、習った高校日本史は嘘ばかりに思えた。天皇家のヘブライ渡来、平家がアレクサンダー大王に敗北したペルシャ海軍の残党で平家は皆が平姓。村上も同じ。それに御落胤を貰い、勢力拡大。自説を開陳時に東京外大出の方に戦前戦後にユニークな歴史家で『源=元、平=ペルシャ、藤=唐、橘=契丹』説を主張した方の名を聞いた。ど忘れ。是非、広めて欲しい。

02. jyoudanya 2013年1月20日 20:32:18 : nceEDojtYufn6 : Sz31qDxMWc
孝明天皇と明治天皇睦仁の陵墓を発掘して、是非、DNA鑑定をして欲しい
もっとも天皇の陵墓を考古学者に開放することに宮内庁は激しく抵抗するだろうから
DNA鑑定は決して実現はしないでしょうけど・・・
これができれば、この論争に決着がつくはずだと思う

03. 2013年7月13日 08:42:42 : 0JtTPjBLHw
こちらの動画も見てみましょう。

日本の真相1 明治天皇すりかえ - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=igJ12gwRtvQ


04. 2013年7月14日 21:07:16 : nry0CYIJxg
僕も色々調べまして、明治天皇替え玉説は真実であるという結論に達しました。

05. 2013年8月08日 13:28:39 : j5HhiQYWcA
ジャパン 〜田布施の呪い〜(「ジョジョ 〜その血の運命〜」の替え歌)

(ジャパン…ッ!ジャパン…ッ!ジャパン…ッ!)
悪を生み出した 二つの田布施
蠢く薩摩・長州 暗躍する志士
ロスチャイルドが 操る維新

誇りの歴史説くために 天皇のすり替えを
一等国を目指すために 侵略を
(ジャパン…ッ!ジャパン…ッ!ジャパン…ッ!ジャパン…ッ!ジャパン…ッ!)

日本国に巣食い 乗っ取りをする悪魔
ユダヤの支援を受けた 半島系のルーツで
悪政の果てには「敗戦」を
〜田布施の呪い〜 ジャパン

嘘で塗り固め 作る支配が
戦前・戦後と今 繰り返されてる
満州とつながる  売国者

反体制の異端者に 検察の弾圧を
属国日本支えるために 原発を
(ジャパン…ッ!ジャパン…ッ!ジャパン…ッ!ジャパン…ッ!ジャパン…ッ!)

僅かな夢だった 経済超大国
作るは田布施の岸が 壊すは孫の晋三が
亡国の未来に「絶望」を
〜田布施の呪い〜 ジャパン

日本を滅ぼす 幕末期の呪い
全ては田布施(ここ)から始まっていたのさ

日本国に巣食い 乗っ取りをする悪魔
ユダヤの支援を受けた 半島系のルーツで
悪政の果てには「敗戦」を

僅かな夢だった 経済超大国
作るは田布施の岸が 壊すは孫の晋三が
亡国の未来に「絶望」を
〜田布施の呪い〜 ジャパン
(ジャパン…ッ!ジャパン…ッ!ジャパン…ッ!ジャパン…ッ!ジャパン…ッ!)


06. 2013年8月08日 18:36:34 : qwpvV5Nc6s
あべがとりもろすっていってたのは

田布施システムのことだったんじゃないか?
ここまで、B民 が表にでてくる政治は
いままでなかったからねー
あべ、はしもと、いしはら、たけなか

ほんと、おぞましい!


07. 2014年6月07日 17:55:07 : a9atg4zhKM
2005年8月30日 (火)
舎人学校

大学生と高校生の父親の“教育論”
フルベッキ写真の考察
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2005/08/post_deda.html


08. 2014年8月30日 12:34:04 : Z3n04NUVkM
タマちゃんの暇つぶし
フルベッキ写真は合成!?
http://1tamachan.blog31.fc2.com/blog-entry-5139.html

日本と地球の命運
近代天皇制は海賊某の孫大室寅之祐を明治天皇にすり替えた長州の大陰謀で成立した (2)
>
http://tatsmaki.at.webry.info/200511/article_4.html

<長い論文>

<結びの言葉>


 今の天皇家は全員カトリック信者で、心はアメリカ人だと米国では見られている。

 これらの現実を直視して、そこから出発しなければならない。

日本人が目指すべき途は、世界最初のエコロジスト安藤昌益が提起したように、

縄文時代の原始共同体を螺旋状に上昇発展させて、フリーメーソンの世界支配の最後の砦

−あらゆる悪事の社会・経済的土台たる貨幣制度を廃止して、宇宙の掟に従った地球、

人間、動植物、人間同士の共生を可能にする万事無償奉仕の21世紀新人類社会へ

グローバルに移行する途である。

 まず自民党改憲案をまかり通してはならない。

そして天皇制廃止を目指し、「人の上に人を創らず、人の下に人を創らず」の、

真の万民平等、真の自由をもたらす万事無償奉仕の21世紀新地球社会の創造を目指すべきである。

*************

うーーん、時代に合わせた憲法修正もそろそろ必要だと思うけど、するなら他の政権交代してからでないと。
でも、どこ党がいいのか。


09. 2014年11月25日 02:43:02 : mLHEfk0teg
大室寅之助は南朝の末裔ではない、と鬼塚英昭氏は主張していますが
あれこれ資料を読んでいる内に、末裔の可能性も無きにしも非ずではないかと思えてきました。

下記のブログ主さんもそう言っています。
はっきり云って、どうも鬼塚氏は怪しい気がするのです。

碧い世界
魑魅魍魎のうごめく裏の裏2 田布施システム・・!?
http://aoisekai487.blog7.fc2.com/blog-entry-620.html

>鬼塚氏、綿密に調べることは調べているようだけれど、妙にあっさり通り過ぎているところがところどころにあるのが、私にはすごく気になる。
また、私は寅之助が南朝の血筋ではないかと印象を持っているが、鬼塚氏は南朝に連なるものではないと言い切っている。
寅之助が南朝の血筋ということになると,寺、興正寺(本願寺興正寺派)・浄土真宗に触れざるを得なくなる。

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nanboku4-1.html

まあ、通り過ぎたところは、次の本の題材にしようっていうことかもしれないけれど

__________


NEWS

一人でも多くの人に知ってもらいたいことをニュースやブログより引用させてもらっています。

鬼塚英昭氏って
http://blogs.yahoo.co.jp/pandausagichan/33928513.html 丸写し

http://cosmo-world.seesaa.net/article/150443593.html
「心に青雲」より引用。

鬼塚英昭氏の新著『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)を読むと、日本国家の真相は、明治維新で長州藩田布施一味に国家を乗っ取られたということであることが解る。


http://blogs.yahoo.co.jp/warasaburo/31607224.html#31607224

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この成甲書房。

怪しい。

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南朝鮮労働党出身の朴甲東によって1979年日本で設立された
成甲書房より出版され続ける鬼塚英昭の本について。

朴甲東は、朝鮮慶尚南道生まれ。
1945年5月に抗日パルチザン「朝鮮独立同志会」を組織
1957年6月に脱北して日本へ移住
1976年6月に脱北の1年後にして、資本金1千万円を用意して出版社設立。

1953年に粛清に遭ったことになっているが、ある方面では教育を受けて
日本での工作活動のために入り込んだとみられている。

活動内容:出版
著作:鬼塚英昭

『日経新聞を死ぬまで読んでも解らない 金の値段の裏のウラ』 (2007年)
『八百長恐慌! 「サブプライム=国際ネズミ講」を仕掛けたのは誰だ』(2008年)
『トヨタが消える日 利益2兆円企業・貪欲生産主義の末路』(2009年)
『ロスチャイルドと共産中国が2012年、世界マネー覇権を共有する』(2009年)
『金は暴落する!2011年の衝撃 ロスチャイルド黄金支配のシナリオを読み解く』(2010年)


ド素人が経済分析して未来予想してみても意味が無い
こいつは単なる占い師レベル。

どれ一つとして当たってない。

米自動車品質調査でトヨタ「レクサス」がV3
中国は2014年経済破綻の危機状態 
資料だけじゃなく民族性も加味しろよボケ
ロスチャイルド言ってりゃ本が売れると思ってんのか?


最近では、菊タブーや国際情勢についての著作を執筆している。

http://ameblo.jp/japan4war/entry-11772228141.html

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こんな出版社があったんだね!

鬼塚英昭 wikiより

大分県別府市生まれ。

大分県立別府鶴見丘高等学校卒業、

中央大学法学部に入学するが学費未納で中退。

ますます怪しい・・

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成甲書房

朴甲東によって1979年日本で設立。

朴甲東は1919年朝鮮慶尚南道に生まれ、1941年早稲田大学卒業後朝鮮へ帰国し、朝鮮独立運動に身を投じ抗日パルチザン「朝鮮独立同志会」を組織する。

戦後朝鮮共産党機関紙「解放日報」記者を経て、南朝鮮労働党に合流。

1948年朝鮮民主主義人民共和国が建国されると、文化宣伝省ヨーロッパ部長になるが、1950年金日成の粛清により逮捕、監禁される。

1956年釈放されると翌年に北朝鮮を脱出し、日本へと逃れて金日成政権批判を続けた。同じ南朝鮮労働党出身の朴正煕とも親交があった。



10. 2014年11月25日 17:50:02 : pjudVWMMA2
坂本龍馬のせいか

11. 2015年2月21日 12:49:53 : bpnjjCM0nY

NHK大河ドラマで放送してる最中にあえてチャチャを入れます。
明治の志士とかいって彼らを持ち上げ英雄視するのはもうやめましょう。
国賊の中の国賊。売国奴のパイオニアではありませんか。


>(グラバーの)そのパシリとなって暗躍した男こそ死の商人・坂本龍馬である。

>つまり「維新」とは今さら言うまでもないが極左テロリストによって政権転覆させられた「革命」のことなのである


↓では、すり替え天皇寅さん説には触れておられませんが、非常におもしろかったです。


隠された真実
https://sites.google.com/site/uranenpyou/ishin-gensou

<全文転載>


「維新」と云う幻想

山伏 太賢さまのブログより転載
http://ameblo.jp/yamabushitaiken/


「明治維新」とは一体どこからが維新なのか、そして「維新」の本当の意味を御存知だろうか?

またこの時使われた様々なスローガンの本当の意味を改めて検討したいと思う。

○1853年 黒船来航。

断って於くが先ず明治維新の勝者は長州藩であり、明治新政府はその長州藩が作ったと云うこと。

この時点で多くの史実は明治新政府(長州藩)に都合の良いように作り変えられており、江戸幕府や他の諸藩は悪役であるように伝えられているということである。

「 腐敗の為に不満の溜まった諸藩によって江戸幕府は既に崩壊寸前だった」

「 無為無策で統治能力を失った徳川幕府に代わって薩長等の若い志士が立ち上がり、明治維新を成し遂げ、輝かしい近代国家を建設した」

これらのことは江戸幕府を悪役にする為の 真っ赤なウソである。

従って黒船来航以来様々な事件は起きるが、まだまだ日本は安泰であった。

◎「開国」と「攘夷」

先ず黒船が来航し開国を要求した。この時に持ち上がった「 開国」とはどう云う事なのか。

分かり易く云えば

「 国民と自由に貿易をさせろ」

と云う事である。

 これによって諸外国は、国を弱体化させる為の物資を、それが麻薬でも最新式銃火器であろうと、いくらでも売ることが出来るようになる。

そしてタダ同然の食糧を長期にわたって輸入し国内の食糧生産業界を破綻させ、その後価格を通常に戻せばよい。

もうその国は、輸入に頼らなければ生きていけない国になる。

そして輸入品を買うと云うことは、日本の金が海外に流れると云う事である。

そしたら最終的には日本人は海外資本の奴隷に貶められることになる。

それが「 開国」である。

断って於くがこの「 開国」は「先進技術導入」では無い。

つまり「先進技術導入の為には日本が進んで植民地にならなければならない」と云う意味である。

即ちこの「 開国」とは「植民支配受容」と云うことである。

これに対するのが「 攘夷」。

「攘夷」とは夷人(いじん)を攘う(はらう)と云うことで、「外国人を見たら斬って斬って斬りまくれ!そしたら怖くなって二度とやって来ようとは思わないだろう」と云うこと。

つまり「海外勢力を武力で追い出せ」と云う事である。

情報が乏しいその当時の人々がどれだけ世界の動向を知っていたのか分からないが、直感でこの結論に至ったのであるなら我が国の人々の直感力には底知れぬものがある。

そもそもが艦砲射撃で威嚇して「 植民支配要求」を突きつけて来るような礼儀知らずな連中に、弱腰で接してどうするのか。

◎公議輿論と公議政体

公議とは公正な議論(公論)、輿論とは世間一般の議論(民意)のことである。そして、公議輿論派とは、公論や民意に基づいて政治を行おうとした人々のことである。

これに第一に着手し、抜群の政治手腕を発揮し獅子奮迅の働きをしたのが名宰相、首席老中阿部正弘である。

まず阿部老中は一般情報公開、庶民からも意見を公募し、御三家代表の前水戸藩主徳川斎昭を幕政参与に任じ、親藩代表の越前藩主松平慶永と外様代表の薩摩藩主島津斎彬を幕政の相談役として、全員参加の 民主的挙国一致体制を確立した。

この「情報公開による民主的対応」によって諸大名・幕臣のみならず、庶民からも多数の意見書が出され、後に「国民的議会主義への胎動」と評価された。

この公議輿論尊重の考え方の延長線上に公武合体論が展開され、さらにそれが西洋議会制度の知識で洗練されると、公議政体論が生まれてくることになる。

阿部老中が安政の改革で着手したことは、優秀な人材を登用し、海防技術を飛躍的に高め、徳川幕府の事だけでなく我が国の将来を視野に入れた偉大なる事跡であった。

安政四年、三十九歳の若さで没す。

○1858年 日米修好通商条約、
安政の大獄

○1860年 桜田門外の変

この日米修好通商条約に端を発する「安政の大獄」や「桜田門外の変」などは、水戸藩と彦根藩が十四代将軍の継承をめぐって跡目・派閥争いをしていただけで「維新」ではない。

そしてこの時点で幕府の威光がもともと衰えていたのなら、こんな過激な争いにはなっていなかった筈である。

常識で考えても倒産寸前の会社の社長の座を巡って争う者はいないであろう。

従って未だ幕府は安泰。

実際、彦根藩の井伊直弼が暗殺され、水戸藩の徳川斉昭が亡くなると、両藩とも維新の歴史に関わらなくなって来る。

○1862年 公武合体

◎公家たちの尊皇

黒船来航から始まった世情不安のなか、天皇を担ぎ出して幕府と対立し、日本の内戦を誘うような動きが過激公家から出てきた。

この過激公家たちから出た「尊皇」とはこの混乱を機に幕府から権力を奪うためのスローガンで、幕府や諸藩が天皇に対して「尊ぶ」と云う意味と違う。つまりこの時点での公家たちの「尊皇」とは「幕府は自分達の下に就け!」と云うこと。

◎公武合体論

この状況に対処するべく天皇家と徳川家の婚姻を実施し、公武の分裂と対立を未然に防ごうとした。

それが和宮降嫁による「 公武合体論」である。

公武合体論とは、朝廷と幕府、諸藩が一致協力して国政を運営しようとする考え方である

そもそも幕府を弱体化してどうやって攘夷すると云うのか。

攘夷にしても、外交で立ち回るにも、日本が一丸となって立ち向かわなければどうしようもない。

それに孝明天皇は将軍家茂を深く信頼していた。

だからこそ孝明天皇は公武合体に賭けたのである。

そしてこの公武合体はそのまま幕権強化論の一部となる。

◎幕権強化論(佐幕)

攘夷論で外国人を威嚇するのは良いが、相手が引き下がらなかったらどうするのか?

長く続いた太平の世とは云え幕府は専門戦闘集団である武家の元締めであり、将軍は武家の棟梁である。冷静に戦略を立て国家総動員で長期戦の構えでいれば決して負けることは無かったであろう。戦国時代には世界の銃火器の三分の一を我が国は保持していたのである。

しかし、そうなれば甚大なる犠牲が出るのは間違いない上、軍事技術が遅れていたのは事実であるし、何よりその最新式軍事技術や高性能銃火器を目の当たりにした幕府は、当然それを欲しがった。

その最新式軍事技術を手に入れ迫り来る外圧に対抗すれば、攘夷も可能になり対等に外交が出来る。

海外諸勢力をそれぞれ競合させることによって牽制させ合い、好条件に協力してくれる国を選び、最新式軍事技術を提供させる。

その為には外交窓口を幕府に一本化させる必要があり、幕府の権力を上げる必要がある。

それが「 最新武装技術導入+外交窓口一本化=幕権強化論」である。

つまり攘夷断行の為には最新式軍事技術が必要であり、その為には一旦は開国(決して植民支配受容では無い)し武力を高め、それを円滑に行う為に幕府の権限を強化すると云うことである。

実際に黒船来航から幕府は財政の総力を挙げ、死に物狂いで近代型海軍創設に当たり、十四年の歳月を掛け慶応三年には 対米七割の幕府海軍を整備した。

この頃から攘夷テロが散発し出すが、同年に発生した「寺田屋事件」は薩摩藩の名君島津斉彬の跡目を、島津久光が継いだことに端を発する薩摩藩のお家騒動である。

その島津久光にかかわる「生麦事件」は、日本人をナメきった不良英国人たちによる狼藉で、薩摩藩に非は無い。

従ってこの時点でも未だ幕府は健在、「 維新」でも無い。

ここまでのスローガンは

幕府= 尊皇+攘夷の為開国
天皇= 佐幕+攘夷
長州= 佐幕+尊皇+攘夷
薩摩= 佐幕+尊皇+開国

しかしこの年・・・

1862年の夏、上海から国家転覆を企む男がひとり、日本に帰って来たことから歴史の歯車が狂い出す。

即ち長州藩を過激な倒幕運動に導き、国際金融資本の手先として動いた男、 高杉晋作である。

ここからが倒幕テロリズム開始の年となる。

それに先立つ22年前、清国では英国との貿易の結果アヘン輸入量が増大、大量の銀が国外に流出したため、英国との貿易を禁止。これを不服とした英国は貿易保護を理由に軍隊を派遣した。アヘン戦争である。

敗れた清国は南京条約を締結し、英国に香港を割譲、上海・広東・アモイ・福州・寧波を開港した。

つまり香港を始め上海等は英国に本拠地を置く国際金融資本家たちの集合地帯となっていた。

この連中は世界のほとんどを植民地にし、アジアもインド・ビルマ・シンガポール等を支配下におき、アヘンを撒き散らし、略奪・虐殺の限りを尽くして荒稼ぎしていた者たちである。

そして当時清は「太平天国の乱」真っ最中で、「滅満興漢!」(満族から漢族へ)のスローガンを掲げ、そこかしこに打倒・清を目論んでいる連中がいた。

おそらく高杉率いるグループはここで国際金融資本家や打倒・清を目論む連中から革命思想でも吹き込まれたのであろう。

そもそも高杉の師匠、吉田松陰は易姓革命の理論的根拠となっている「孟子」を信奉していた。

つまりその松陰から薫陶を受けた高杉が革命思想に取り付かれるのも故無きことではない。

フランス革命も後のロシア革命もこの国際金融資本家たちが資金の提供元とされていることを考えると、さもありなんである。

○1863年 薩英戦争
     長州藩、外国船を砲撃
     八月十八日の政変

この薩英戦争は先の「生麦事件」の報復攻撃であるが、そもそも薩摩は英国と密貿易で儲けてきた藩であり、ただの仲間割れである。

一方、当時の長州の藩論の主体は「攘夷」であり、長州の外国船の打ち払いはこれが実行された訳である。

この長州藩の考えていた事は、漁業を妨害する外国船を打ち払い、攘夷を唱えていた孝明天皇の信を得ようという、自衛と忠誠心であった。

しかし当の孝明天皇は

「長門宰相の暴臣のごとき、その主を愚弄し、故なきに夷舶を砲撃し、幕使を暗殺し実美らを本国に誘引す。」

とお怒りになるのだが・・・。

従ってこの時点での長州は「倒幕」ではない。

◎尊皇=倒幕

一方、高杉晋作ら過激派テログループの悲願は「倒幕」。 つまり攘夷なんかよりも、自分らが日本の政権を握ることに野心を燃やしていた。

いわば、高杉ら過激派の活動は、攘夷の邪魔にこそなれ、長州藩の思惑とはまったく関係のないところで動いていたわけである。

だからこそ、長州正規軍と高杉率いる奇兵隊は相容れず仲が悪い。

それは同年に起きた「教法寺事件」で、奇兵隊が長州正規軍を襲撃したことで表れている。

これも、そういった実情を考えれば不思議なことではない。

この過激派テログループの自分らが日本の政権を握る野望と、幕府を倒して公家の時代を到来させたい過激公家たちが結託して掲げたスローガンが「尊皇=倒幕」である。

いつの時代でも、世情不穏になるとその黒幕になって国家転覆を企むのは公家の伝統行事みたいなものである。

こうして過激派テログループや倒幕派公家たちの陰謀によって攘夷運動がいつの間にやら尊皇(倒幕)思想に巻き込まれていき、京都に長州や各地のテロリストたちが結集、「天誅」の名の下に攘夷テロの嵐が吹き荒れることになる。

ここで確認であるが、「尊皇」と「攘夷」は本来別モノ。

「倒幕」を企むテロリストたちが、公家たちにそそのかされ掲げたのは「尊皇」、当事者である孝明天皇が掲げていたのは「攘夷」である。

孝明天皇はこの倒幕派公家と過激派テロリストたちを危険視する。

当たり前である。

もう一度言うが、幕府を倒してどうやって攘夷するのか。

それで京都守護職松平容保公や薩摩に命じてこの愚か者どもを京の都から一掃することにした。

それが「八月十八日の政変」。

この辺りから攘夷テロによって治安崩壊に瀕していた京の都を勇猛果敢に守り、大活躍し始めるのが「新撰組」である。

次の年、「八月十八日の政変」で追い出された長州テロリストたちが、すぐにまた京都に集まって大規模なテロを画策する。

それを未然に防ぎ大打撃を与え、新撰組の名を天下に轟かすのが「池田屋事件」である。

この京都守護職松平容保公や新撰組が京の都を攘夷テロから守ってくれなかったらどれだけの死傷者がでたであろう。

○1864年 禁門の変
      下関戦争
      第一次長州征伐

長州藩は池田屋事件後すぐさま反撃に出て、あろうことか京都御所を包囲し総攻撃をかける。これが「禁門の変」である。

御所に向かって発砲するとは何と云う暴挙だろうか。しかも旗色が悪くなり逃げ出すのは良いが、京の都に火を放ち二万七千世帯を焼き払う無差別テロを起こす。

これで「勤皇の志士」とは聞いて呆れる。

これに激怒した孝明天皇、長州征伐の勅令を出す。それが「第一次長州征伐」である。

一方その頃、前年の長州からの砲撃で被害を受けた各国が英国を中心として連合艦隊を組織、報復攻撃へ出る。それが「下関戦争」である。

倒幕派中心グループが京都にいる間に仕掛けてくるとは、まるで共謀してたかのようである。

弱り目に祟り目の長州藩はこれではいけないと椋梨藤太たち保守派層によって藩内の倒幕派テロリストたちを排斥、藩体制の統一を実施し幕府への恭順を表明する。

討伐軍参謀を任されていた薩摩の西郷隆盛は、「禁門の変」の責任者である三家老を切腹させ、過激公家たちを長州から追い出し、何とか幕府にとりなす。

ここでやっと日本は統一された。決して腐敗して弱体化などしていない。

幕府は天皇と手を組み朝幕一体化し、幕権強化を成し遂げ、過激公家や長州藩のテロリストたちを鎮圧した。

これからも海外の諸勢力と渡り合っていける。

ここまでのスローガン

幕府= 尊皇+攘夷の為開国
天皇= 佐幕+攘夷
長州= 佐幕+尊皇+攘夷
薩摩= 佐幕+尊皇+開国
公家= 尊皇+倒幕
テロ= 倒幕

問題はこの後・・・。

いよいよ「明治維新」の幕開けである。

○1864年 元治の内乱(維新前夜)

第一次長州征伐によって壊滅的打撃を与えられた高杉晋作や伊藤博文、公家三条実美たち過激派テログループが再び決起し「功山寺挙兵」でクーデターを起こし、椋梨藤太を中心とした保守派を排斥してしまう。それが維新前夜「元治の内乱」である。

ここからが「明治維新」の幕開けである。

このクーデターによって長州藩は完全に反日倒幕テロ組織、「新長州藩」となる。

すっかり国際金融資本の手先となっていた高杉晋作は藩政を掌握すると「開国」、これまで攘夷派が封鎖していた下関港を開港し外国船をどんどん迎え入れ、武器弾薬、外国製品で下関港は溢れかえった。

この辺りから今まですっこんでいた極悪人岩倉具視や武器密売人坂本龍馬、そして薩摩の売国奴たちが一斉に動き出し、時代は風雲急を告げる。

○1865年 米国、南北戦争終結。
○1866年 第二次長州征伐
薩長同盟 

ここでまた不思議な事に米国では、頃合を見計らってたかのように南北戦争が終結する。

後にその南北戦争で使われた武器を二束三文で買い叩き、薩長に高値で売りさばいていたのが英国の金融資本ジャーディンマセソン系列のグラバー商会である。麻薬貿易で暴利を貪った連中である。

そのパシリとなって暗躍した男こそ死の商人・坂本龍馬である。

その頃、薩摩のテロリストたちも動き出していた。

もともと薩摩藩論の主体は「佐幕」であり、「攘夷」ではない。

つまり、「開国」という悲願を内に秘めている。

そもそも薩摩は地理的に本土の末端であるということから、欧米との密貿易で藩政を賄い利益を上げていた。

薩英戦争などの遺恨は色々あったように見えるが、実は薩摩は初めから英国と手を結んでいたようなものである。

だから長州が「攘夷」から「開国」へ転身したところで利害が一致、それなら同盟を結んで自分たちに有利な新政権を立てることも出来ると考えた。

ここで薩摩は「開国」の為「佐幕」を捨て、「倒幕」に変節した。

長州と並ぶ二大反日藩、「新薩摩藩」の誕生である。

つまり薩摩も結局は日本の行く末よりも、自分たちの利益が大切であったのである。

その急進派の代表が、大久保利通と西郷隆盛である。

そして薩摩は長州の武器調達のため英国を紹介した。これを「薩長同盟」と言う。

一般的には「坂本龍馬が、薩摩と長州を結びつけた」と言われてるがそれは間違いで、正確には「薩摩が、英国の商社お抱えの武器密売商人坂本龍馬を長州に紹介した」と云うのが正しい。


○同年、第二次長州征伐
      将軍家茂薨去

○1867年 孝明天皇崩御
         大政奉還

幕府はついに朝敵長州に「第二次長州征伐」を開始、薩摩は当然、出兵を拒否。

しかしこの途中、時代の波に翻弄され幕府の苦悩を一身に背負った悲劇の将軍家茂が21才の若さで亡くなり、幕府軍は撤退を余儀なくされる。

将軍就任以降打ち続く難局をなんとか乗り越え、さらに薩長+英国連合と云う幕府最大の危機に直面した、この真っ只中に病没した。

さらに悲劇は続き、翌年には36才の若さで孝明天皇が亡くなってしまう。

死因は毒殺である。

慶応二年十二月十一日から十六、七日に掛けて発熱し痘瘡(天然痘)によるものと典医一同診断す。

その後回復に向かうが二十五日一転して重体に陥る。

激しい嘔吐、下痢、下血を繰り返し、その日の夜十一時頃には「九穴より御脱血」の重症となり、のたうち回って苦しんだあと息を引き取ると云う、凄惨な最後であった。

明治維新にもっとも深くかかわった孝明天皇の研究は、維新から大東亜戦争終結まで約八十年間、タブーであったのは不可解なことではないだろうか。


歴史家の石井孝氏は法医学者の見解も求め、痘瘡が回復の時点で突如、病状が悪化したのは、砒素をもられたことによる急性砒素中毒であり、使われた毒薬は当時の砒素系の殺鼠剤「石見銀山」をあげている。

石井氏は

「孝 明天皇の毒殺説は没後ただちに広がり、サトウの自叙伝によると、明治初年(1868)には、半ば公然の秘密として語られてたらしい。しかし、戦前の天皇制 下にあって、痘瘡による病死が国定説とされ、毒殺説は国家権力によって禁圧されていた。戦前には天皇の死因について虚像が罷り通り、実像は権力により隠蔽された」

と述べている。

明治天皇の祖父中山忠能は
「毒を献じた結果であり、陰計が企てられた」
と日記に記している。

また「旧皇族が語る天皇の日本史」の著者竹田恒泰氏は

「現代医学の知識を動員して考察すると、痘瘡は空気感染であるが、この時期に天皇の周辺で痘瘡感染者が居ないため、痘瘡自体が生物テロであった可能性が指摘される。また、感染症の常識からしていったん回復に向かったのに急変して死に至ることはありえない。さらに天皇の最期が急性砒素中毒症状と酷似することもあり、天皇が天然痘にかかったことに乗じて、二十四日の晩に誰かが砒素を盛った可能性がある。」

と述べている。

下手人最有力候補は勿論、極悪策士・岩倉具視である。

孝明天皇は、前年の岩倉具美の策謀によって倒幕派公家22人が押し掛け幕府批判を述べ、朝廷が大政を行うべしと訴えでた際には「徒党を組んで乱訴とは何事か!」と烈火の如く怒り、倒幕派公家22人に厳しい処断を下す決断力に溢れた一面があり、また攘夷強硬論者であった天皇ではあるが、中川宮に「深く時機を考えて見ると、慶喜や容保らの奏上するように、まだ武備が充実していないのに開戦するのは時機尚早である」と言い、冷静に状況を分析する栄邁な方であられた。

何より内外の時局を深く憂い、塗炭の苦しみに喘ぐ万民を自らの子とし、その苦しみを救いたいと、将軍家茂に賜った御宸翰でその叡慮を述べられているように慈愛に満ちた天皇であらせられた。

孝明天皇は決して脇役などではない。

陰謀渦巻く朝廷にあって孤軍奮闘し、自ら「国民の盾」となって我が国最大の危機を救おうとした英雄である。

後年、明治新政府の御用学者や小説家等が孝明天皇を

「時局を考えられない、ただの外人嫌いの頑固者」

と無能扱いのレッテルを貼っているが笑死千万の大嘘である。

黒船来航以来一貫して佐幕攘夷を掲げていた孝明天皇は、倒幕派公家やそれと結託した過激テロ組織らの最大の障害となっていた。

孝明天皇が生きてる限り倒幕は有り得なかった。

そこで私利私欲の塊、岩倉具視の毒牙にかかり亡きものとされてしまったのであろう。

幕府の大黒柱である将軍と、その守護者である天皇の余りにも早すぎる死。

ここに来て幕府は突然、求心力に不安を生じさせてしまう。

将軍には、これまで家茂を補佐して来た一橋慶喜がつき、孝明天皇の後継者は明治天皇となる。

しかし当時、明治天皇はまだ15歳。優しく柔和で、政治や武芸にも興味の薄い方であった。

一方、最後の将軍慶喜は後に家康公再来と云われ、短い間ではあったが獅子奮迅の働きをすることになる。

問題は、海外の手先となって倒幕を企てる勢力が一気に膨らんだという事実である。

しかも、一旦遠ざけていた倒幕派公家たちも、これに再び結びつき、倒幕工作に暗躍している。


◎大政奉還(公儀体制)

そして倒幕派がいよいよ決起しようとした時、最後の将軍慶喜は先手を打った。

将軍慶喜による大政奉還と公議体制樹立の奏上である。

大政奉還の上奏文に

「従来の旧習を改め、政権を朝廷へ帰し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、ともに皇国を保護仕り候わば、必ずや海外万国と並び立つべく、臣慶喜、国家につくすところこれに過ぎずと存じ奉り候」

とあるとおり慶喜は、政権を朝廷に返したのちは、

「広く天下の公議を尽くし」て、天皇の御英断を仰ぎ、諸侯と同心一体となって協力し、彼らと共に我が国を安んじ守りたい、それが自分として国家につくす最大の誠意である、と、公議体制による国家運営を奏上しているのである。

大政奉還と公議体制樹立は、幕末の我が国が採るべき道として最高の政治判断であった。

なぜならそれは、幕府の政権を朝廷に返し、朝廷の下で上下両議会を設置して、議会もしくは行政府の長が、天下の公論を以て政治を行うことであるから、倒幕派は名目を失い、戦乱を避けて平和裏に新しい政治体制に移行できるからである。

この場合の上下両議会とは、当時の概ねの議論では、上院が諸侯を議員とするもの、下院が藩士の中から有能な人物を議員とするものであり、一般庶民まで下院に登用すべきとする議論もあった。

新体制に参加することを余儀なくされれば、海外勢力を牽制しつつ、その中で薩長の不満に対して何らかの対策を講じることも出来る。

そして大政奉還は実行され公家、長州、薩摩ら、倒幕勢力はクーデターの名目を失い、初代将軍家康以来政権を担い、統一国家「日本」の礎を築いた幕府は終焉を迎え「公儀政府」となった。

ここまでのスローガン

公儀政府= 尊皇+攘夷の為開国
天皇= 公儀+攘夷

新長州= 倒幕+開国
新薩摩= 倒幕+開国
 公家= 倒幕

しかし、新長州、新薩摩、過激公家のテログループは表向きのスローガンとして「尊皇攘夷」を掲げ、情報工作した。

○1868年 倒幕の密勅
      王政復古の大号令

倒幕の動きは、これまでのテロ活動とは打って変わり変わり、大規模な反乱計画となっていた。

最後の将軍慶喜が「大政奉還」をしたその頃、朝廷から薩長に「倒幕の密勅」が下った。

これは岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛らの姦計で、前大納言・中山忠能、前大納言・正親町三条実愛、権中納言・中御門経之らに出させたものであった。

この「密勅」は、幼帝のまったく関知しないところで作成された即ち「公文書偽造の偽勅」である。

慶応3年12月9日、岩倉具視や大久保利通らは武力クーデター計画を進め、佐幕派の摂政・二条斉敬や賀陽宮朝彦親王らを排除し、御所を包囲制圧し明治天皇の掌握した。

この時岩倉具視の主導のもとに発令されたのが「王政復古の大号令」である。

これは「王政復古」と言いながら天皇には実権を渡さず、摂政・関白などの伝統的な上級公家を排除し、天皇親政の名の下、岩倉具視一派や薩長のテロリストらが主導する新政府樹立宣言であった。

そして小御所会議にて徳川家廃却の為「辞官納地」を決定。

その頃最後の将軍慶喜は近代化された旧幕府陸軍五千余人、会津藩兵二千余人、桑名藩兵千余人、その他あわせて一万余人の大軍を率いて二条城にいたが、薩・長・芸の藩兵が続々と入京し京都は一触即発に状態となった。

将軍慶喜は偶発戦争を回避するため大阪へ拠点を移し、江戸へ旧幕府陸海軍の精鋭部隊の来援を命じ軍事的優位を確立する。

のみならず小御所会議での決定に反撃に出る為、外交面でも手を打った。

英・仏・米・蘭・独・伊の六ヶ国の行使を引見し正論で小御所会議の決定を非難し、徳川政権の正統性を諸外国に認めさせ、逆に岩倉具視や大久保利通らを追い詰める。

国際社会から認められた政権が正統政権である。

こうして将軍慶喜は政治的挽回を果たし、巻き返しに成功した。

しかし・・・

ここで岩倉具視のクーデターを鎮圧することが出来れば、歴史はまだ修正出来たのであろう。

○同年、鳥羽伏見の戦い

将軍慶喜の大政奉還によって武力倒幕の名目を失った西郷隆盛は開戦の切っ掛けを作る為、江戸で薩摩のテロリストたちに無差別テロを繰り返させ、幕府を挑発し続けた。

ここへ来て今まで海外勢力が迫る中、同じ日本人同士が血を流す愚を避けようと隠忍自重し、我慢に我慢を重ねた将軍慶喜も幕府も遂に堪忍袋の緒が切れた。

幕府は江戸薩摩藩邸へ総攻撃、焼き討ちにする。

そして将軍慶喜は明治天皇を奪回する為に京へ軍を進め、そこで戊辰戦争の緒戦となる「鳥羽伏見の戦い」が発生する。

滝川具挙率いる幕府軍、「討薩表」を朝廷へ奉上の為鳥羽伏見街道を進発。

薩摩軍に行く手を阻まれ、押し問答の末戦闘開始。

会津藩兵大活躍するも形勢不利の為、滝川隊退却。

これに対して幕府軍は近代化された幕府陸軍を投入。砲兵隊からの支援砲撃を受けた幕府精鋭部隊、善戦し敵中深く突入。

幕府軍有利であったが、この時、

テロリスト側薩長陣営に「錦の御旗」が翻った。

戦況は逆転し幕府軍総崩れ。

敗退・・・。

なぜ幕府軍は、一万五千対五千、三倍近くの兵力を持ちながらこの戦いに敗れてしまったのか。

本来、正規軍によるテロリスト討伐戦だった。

武器の差が、三倍の兵力差を凌いだのであろうか。

いや、その原因はテロリストたちが掲げた天皇の「錦の御旗」である。

つまりクーデターによって無理矢理身柄を拘束されていた明治天皇が、今度はテロリストたちを正規軍だと認め、正規軍であるはずの幕府軍を賊軍とみなしたということである。

「明治維新」は、ここに完了した。。。

将軍慶喜は徹底抗戦派らの意見を抑え、上野の寛永寺に入って謹慎恭順に踏み切った。

こうして政権はテロリスト側に移った。

抗戦派が主張するように幕府が総力を挙げて戦えば絶対に負けなかったろう。

そうなれば外国勢力も介入した激しい内戦となり、どちらが勝っても壊滅的被害が出たであろう。

それが将軍慶喜は良く分かっていた。

この時点でのスローガン

明治新政府= 開国(殖民支配受容)

◎維新後

新政府軍、国民の不満を抑えるため赤報隊に「新政府は年貢半減」と呼ばわせる。

その後、豪商らからの苦情に慌てた明治新政府は赤報隊を解散、幹部を処刑し公約はなかったことにした。

これは現政権民主党が「政権交代」「国民の生活が第一」をスローガンに、出来もしないマニフェストを掲げ国民の支持を得たのと同じである。

そして江戸市中砲撃をやめる代わりに江戸城を開城させ、史料捏造を開始する。

この政権交代以後、国際金融資本の傀儡政府である明治新政府は、政府とは別個の軍事組織である総督府を勅命で組織し、官軍を名乗り戊辰戦争と云う目を覆いたくなるような「侵略戦争」を開始、江戸を攻め、会津を攻め、東北、函館へと蹂躙し、略奪暴行虐殺を続け、植民地とする。

この総督府には、軍令、軍政に関する一切の権限、並びに民政一般にわたる広範囲な裁量権まで与えられた。

この軍事組織である総督府は、後の植民地経営にも応用され、台湾総督府、朝鮮総督府として受け継がれる。

 政府ではなく総督府が戊辰戦争を取り仕切った理由は、政府内部には慶喜に味方する意見や東征反対論があったため、政府自体が戦争指導を行うと、反対派らの意見によって戦争遂行が妨げられるから別立ての組織を整えたのである。

後の大日本帝国憲法は、この軍・政分離の仕組みを明文化したものであった。

即ち軍隊を統帥・編成し、宣戦布告や和平を結ぶ権限を天皇が独占して、議会は、予算面における関与だけで軍部をコントロールする道が閉ざされてしまったのである。

実際には軍事を支配する者たちが、天皇の御名を利用して、議会からの干渉を排除し、自分たちの軍事行動の自由を確保するために定めたものであった。

昭和に入って政治問題化した統帥権独立の議論は、帝国憲法の軍・政分離とシビリアンコントロール排除の規定に起因するものであったが、これらは、根源的には、戊辰戦争時の総督府に由来するものである。

即ち明治新政府の成立過程で既に内在化されていたものなのである。

既に幕府が消滅し「攘夷か開国か、尊皇か佐幕か」の争点に決着がついている以上、明治新政府が東北諸藩を攻める理由は、今や全く無い。

にもかかわらず恭順を申し出る東北諸藩を呵責無きまでに攻撃した。

死んだ者の埋葬を許さず、埋葬した者を罰し、降伏したものを虐殺し、そこかしこで女達を「分捕り」として強姦しまくり、少年達の首を刎ね、その生首を肴に酒盛り・・・。

東北諸藩は搾取と隷属の対象とされ、明治新政府の方針は「搾れるだけ搾れ!」であった。

戦国時代さながらである。

これが近代化を目指す者たちのやることであろうか。

戊辰戦争は、公議輿論に基づく公議体制樹立を阻み、我が国の良き伝統である祭祀王としての天皇のあり方を崩し、天皇の御名を利用して薩長のテロリストとその後継者である藩閥・閨閥・財閥出身の政治家が長く政治を支配するシステムを確立し、国民に対する政治責任を忌避し、我が国の近代型立憲主義の運動を歪め、その発展を遅らせた。

「四民平等」をスローガンに掲げたのにも関わらず、現実には華族・士族・平民と新たな階級をつくり、華族を特権階級化して権勢を振るった。

◎誇り

維新に於ける僅かな誇りとすべきは、旧幕府側が公議政体論を掲げ、新政府内の倒幕派に非を唱え、まさに血の贖いによって「五箇条の御誓文の発布」を政府から引き出したこと。

そして戊辰戦争では短期間で崩壊したとはいえ、会津と奥羽越列藩同盟が郷土防衛のために一致協力して公議体制を樹立し、近代型議会主義のさきがけとなったこと。

新政府の悪辣非道なやり方に異議を唱え、尽忠報国を貫き、老若男女一丸となって薩長土の侵略軍に対して最後まで奮戦した会津藩や、忠義のため、誠のために五稜郭で最後まで戦い抜いた方々によって武士道の誉れを後世に輝かせたことである。

◎保守主義

黒船来航から遡ること64年前、フランスでは「自由・平等・友愛」をスローガンに革命が起きた。

穏やかなスローガンとは裏腹に略奪暴行虐殺の嵐で、ギロチンによる恐怖政治の幕開けとなるものであった。

このフランス革命における革新思想に対してイギリスでは保守主義の父、エドマンド・バークが『フランス革命についての省察』を公表し、保守主義を大成した。

『フランス革命についての省察』に於けるバークのフランス革命に対しての批判はそのまま明治維新にも当てはまる。

何故なら明治新政府が行ったことは、フランス革命後の恐怖政治と非常に酷似しているからである。

●つまり「維新」とは今さら言うまでもないが極左テロリストによって政権転覆させられた「革命」のことなのである。

「文明開化」や「脱亜入欧」などのスローガンのもとにあれほど多くの欧米の哲学者・思想家の著書を翻訳刊行し流布せしめたにもかかわらず、英米の保守主義のみはほとんど排除された。

明治憲法の運用なども、上からの改革を推進するためドイツ法を範にされることになり、その後東大法学部はドイツ憲法学を中心として英国憲法学を排除した。

そのためコークやウィリアム・ブラックストンとともにバークなどの保守思想は東大のカリキュラムから排除され、ドイツ観念論やマルクス主義がもてはやされた。

これなどはバークなどの保守主義が出回ると革命政権である明治新政府はあらゆる意味で不都合が生ずるからである。

このことは昭和に入っても同じで、日本の知識層と軍部中枢が社会主義一辺倒となり、全体主義(社会主義、共産主義)と対極にある保守主義は、これまた時代に反逆する思想でしかなかった。

また戦後になってもこの傾向は変わらず、ことにマルクス主義に汚染された学界は英米系保守主義の研究を意識して積極的に排斥し、「検閲」と「弾圧」が陰湿に実行された。

●我が国に左翼が多いのはこれが原因である。


◎伝統文化の破壊

新政府は思想統制と自らの権威付けの為に「神道国教化政策」を実施、神仏分離令や神社統合令などの大悪法を発令し、それに伴う廃仏毀釈によって神仏を無理矢理分けられ、我が国の心の拠り所を破壊されまくった。

明治新政府の権力を笠にきた神主どもや役人どもによる寺院破壊や仏像破壊等で多くの国宝が失われた。

そして皇室からは古代からの神道に拠るものや仏教、陰陽五行に拠るものなど、即ち神仏習合思想に拠るものを全部撤廃してしまった。

現代の日本人が精神を病みやすいという原点はこの我が国が誇るべき神仏習合思想などの心の拠り所を奪われたからに他ならない。


◎我が国の保守主義とは?

一般に、明治維新によって「日本は世界に雄飛した」、と賛美する人々もいるが、それは明治以降の政府がそのように史実を捻じ曲げたものを、そのまま素直に信じているに過ぎない。

明治新政府が樹立後に始めた数々の悪行は、知れば知るほど恐ろしいものである。

現在から見て幕末の正義と悪が混然としてしまっているのは、当時のテロリストたちが情報の乏しい中にそれぞれ好き勝手な喧伝をし、実態を伴わないスローガンで人々の思想を捻じ曲げようとしたことに第一の原因がある。

それは恰も「尊皇攘夷!尊皇攘夷!」と叫んで、幕府が天皇と敵対し、開国して外人を引き入れようとしていると、その当時の人たちに思わせ、実は自分達が天皇と敵対し開国しようとしてたようなものである。

それともう一つは、「勝てば官軍」の明治新政府が自分たちの悪行を覆い隠し、正道をすりかえる為に、事実の端々を塗り替えた事にもある。

このように欺瞞に満ち、捏造した歴史を押し付け、国体を大いに歪め、天皇を操り人形にし、数々の公約に違反し、偽勅を連発し、自国民を虐殺し、弾圧政治を行った英国の傀儡・明治新政府を賛美するのが真の保守であろうか。

長らく続いた戦乱の病を癒し、太平の世を拓き、庶民文化を花開かせ、同じ日本人同士が争う愚を何としても阻止し、近代化への布石をすべて打って西欧列強から我が国を守ろうとした幕府こそが真の保守であったのではなかろうか。

つまり当時佐幕こそ真の保守主義であったのだ。

しかし、その幕府も今はもう無い。

であれば、その幕府が目指そうとし、「維新」がなかったら歩んでいたはずの「もう一つの日本」を模索し、独立国家「日本」であった頃の江戸文化を現代に適合させた「新江戸体制」を構築していこうとすることが、現代の真の保守主義ではなかろうか。

◎これからの戦い

以上見てきたように明治からの日本は日本では無い。

英国の策略に負けて植民地となったのである。

●歴史は繰り返す。

現在の我が国が明治へ回帰したら、また戦争を引き起こし、そして負けるであろう。

大東亜戦争に於いて我が国は欧米列強に「大独立戦争」を挑み、そして負けた。

英国の植民地から米国の植民地に変わった。負けたから・・・。

今度は支那か露西亜か・・・。

日本が日清戦争の勝利に酔い痴れていたその頃、米国では対日戦争計画が立てられていた。つまり第二次世界大戦より五十年近く前から対日長期戦略が策定されていたのである。

それが「オレンジ計画」である。

そしてその計画通り戦争は進み、計画通り勝利した。

計画誤差は殆ど無い。

●つまり米国の勝利は戦争前から確定していたのだ。

●戦争に於いて「やってみなければ分からない!」などと言ってるのは愚か者である。

戦国時代の諸武将たちが学んだ兵法書「孫子」には以下のように書かれている。

『昔えの善く戦う者は、先ず勝つ可からざるを為して、以て敵の勝つ可きを待つ』

●古代の巧みに戦う者は、まず敵軍が自軍を攻撃しても勝つことの出来ない態勢を作り、敵軍が態勢を崩して、自軍が攻撃すれば勝てる態勢になるのを待ち受けた、と云う意味である。

さらに

『善く戦う者は、不敗の地に立ちて、敵の敗を失わざるなり。是の故に勝兵は先ず勝ちてしかる後に戦い、敗兵は先ず戦いてしかる後に勝を求む』

巧みに戦う者は、決して敗れる恐れの無い態勢に身を置き、敵が敗れさる機会を逸しない。だから勝利する軍は、まず勝利を確定しておいてから、その勝利を予定通り実現しようと戦闘するが、敗北する軍は、先ず戦闘を開始してから、その後で勝利を追い求める、と云う意味である。

●このように戦争とは先ず勝たなければならない。実際の戦闘はその勝利の確認作業なのである。

最近やたらと、「隷米体制を脱却せよ!」或いは「中国と一戦交えてやれ!」と威勢良く云っている方を見かけるが、果して我が国の軍事力と我が国を取り巻く軍事情勢を理解してるのであろうか。

●属国支配から脱するにしても、一戦交えるにしても、何十年何百年と云う視野で見なければならないのである。

●そして戦いに於いて「勝つ」ことより最も大切なことは「負けない」と云うこと。

これからの戦いは「物資の量」でも「核」でも「経済」でもない。

我が国独自の伝統文化に基く「価値観」である。

そう、明治以前の「循環と調和」を尊ぶ、即ち「和を以って尊しと為す価値観」である。

これこそが我が国最大最高の武器である。

●その為に早く「維新」と云う幻想から覚めなければならない。

今度こそ「負けない戦い」を始めよう。

◎おわりに

真の黒幕とは一体誰であったのだろうか。

国際金融資本ジャーディン・マセソン?、英国首相パーマストン?、英国公使パークス?、通訳官アーネスト・サトウ?、仏国公使ロッシュ?・・・

勿論、グラバーだの坂本龍馬だの岩崎弥太郎だのはジャーディン・マセソンの手駒の一つに過ぎない。

そして、そのジャーディン・マセソンも・・・。

それとも「明治維新」とは薩長を支援した英国と幕府を支援した仏国の代理戦争だったのか・・・

それとも英仏の日本植民地化共同作戦だったのか・・・

何れにしろその当時の世界情勢からこの「明治維新」を読み解かなければ、その本当の姿は見えて来ないだろう。

終わりに当たってTHINKERさんが素晴しい動画を提示されていたので紹介する。


 日本人の知らない日本(動画削除)


以下、「フランス革命の省察」から抜粋

『我々は、歴史から道徳上の教訓を引き出せるかも知れないというのにそれをしません。

反対に、歴史とは、注意を怠れば、我々の精神を蝕んだり幸福を破壊したりするのに使われ兼ねないものなのです。

歴史の中には我々にとって教訓となる大部の巻物が繰り拡げられ、過去の誤謬と人間的弱みが将来の智慧に向っての素材として引かれています。

他方、悪用されれば、歴史は、教会内や国家内諸党派に攻撃用守備用いずれの武器をも供給する武器庫(不和と敵意を生かし続け、復活させ、更には内戦の狂乱に油を注ぐ手段を提供する武器庫)として役立ち兼ねません。

歴史の大部分を成すものは、高慢、野心、貪欲、復讐、情欲、叛乱、偽善、抑制なき熱情、その他あらゆる混沌たる欲望の連続、等々がこの世にもたらした不幸なのです。』

byエドマンド・バーク


12. 2015年5月21日 14:29:27 : Q0N5CqTihk
カムめくり/カムカムミニキーナ日替わりブログ

カムカムミニキーナのメンバーが日替わりでお送りするブログです。


明治天皇はすり替えられた?

2007.06.24 Sunday | by 今村佳岳
http://3297.jugem.jp/?month=201505

先週書いた通り今日は明治天皇すり替え説について詳しく書きたいと思います。弁護士であり、在野の歴史研究家であった鹿島昇が「裏切られた三人の天皇」を出版し、その中で山口県にいた南朝の末裔である大室寅之祐が睦仁親王とすり替わって明治天皇として即位したと発表しました。そのきっかけとなったのは、鹿島が人の紹介で山口県に住んでいた今は故人となった大室近祐を訪問したことです。鹿島が訪ねた時、大室近祐は「私は南朝の流れを引く大室天皇家の末裔であり、明治天皇は祖父の兄・大室寅之祐です。」と語りました。その話を聞いた鹿島はその後詳しく調査し、明治天皇すり替え説を発表したわけです。

明治天皇すり替え説をもう少し詳しく説明するとこういうことです。鹿島によれば、吉田松蔭は偽朝である北朝の天皇を倒し、正統である南朝の天皇を立てることによる南朝革命論を打ち立てており、南朝方の菊地家の末裔である西郷隆盛がその考えを聞き、薩長連合が誕生したというのです。そして岩倉具視と伊藤博文の策略によって北朝の孝明天皇と睦仁親王が殺され、長州に匿われていた南朝の末裔である大室寅之祐が睦仁親王とすり替えられ、京都に行き明治天皇として即位したというのです。その証拠として、親王時代には病弱なイメージであったのに明治天皇になってからは馬術にも長けたたくましい姿に変わっていること、北朝の天皇である明治天皇が南朝正統論を発表したこと等を上げています。

あまりにも荒唐無稽な説であるので到底信じられない話ですが、鹿島の本の中には、社会党の前国会議員であった山田恥目が、国会で某自民党の議員から「大室近祐と南朝天皇家のことを調べ直して、日本の歴史を明らかにしよう。」いう議員提案が提出されようとしたが、それを見た岸信介と佐藤栄作がその書類を握り潰して提案を揉み消した現場を見たとか、以前大室家にある宮様が来て大室近祐に「近祐の孫を天皇家の養子にもらえないか、昭和天皇にも了解を得ている。」と言ったが、その話を断った等具体的な話が書いてあります。

明治天皇すり替え説の詳細については、鹿島の本や鹿島の研究の後継者ともいうべき松重楊江の本を読んでもらえればと思います。また、Google等で「大室天皇」と検索すれば、鹿島や松重の本にも書かれていないより荒唐無稽なことが書かれているサイトが見れます。いずれにせよ明治天皇すり替え説は、具体的な証拠となるものがなく、基本的には大室近祐の話などが元になっているだけで根拠が乏しいと言えます。


この話に関連することですが、中丸薫と言う国際ジャーナリストがいます。彼女は「自分は明治天皇の子供の堀川辰吉郎の子供、すなわち自分は明治天皇の孫である。」と称して、明治天皇の孫が語るなどのタイトルが付いた本を何冊も出版しています。数年前に中丸は自らの著作の中で、明治天皇すり替え説を肯定し、ある新聞記者だったかに頼まれて、山口県にいる大室家の人とDNAを照合して明治天皇すり替え説をする為に、自分の口の中の粘膜を提供したのでいずれ結果を発表すると言っていましたが、未だに一致したとも一致しなかったとも言ってません。おそらく一致しなかったはずです。元々明治天皇すり替え説が怪しいことですし、中丸が明治天皇の孫であることも怪しいからです。ちなみに中丸が明治天皇の孫であることは、宮内庁は認めていないようです。昨年朝まで生テレビに中丸が出ていましたが、明治天皇の孫であると自ら名乗ることもなく、誰も彼女に明治天皇の孫であることを突っ込んだりしていませんでした。


鹿島、松重、中丸は明治天皇すり替え説を唱えているだけでなく、万世一系の天皇の歴史にも異義を唱え「古事記」や「日本書紀」に書かれていることがでたらめだとしています。

いずれにせよ、明治天皇すり替え説はかなり信奉者がおり、ネット上でも話題になっていて、面白い話ではあります。

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余多歩き

2005年11月26日

鹿島昇3 大室天皇の誕生
http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/200511260002/


大室天皇の誕生

また いわゆる明治帝が 大室帝が摩り替わった点についても、孝明帝の死について いまでも不鮮明な点があるのは事実のようですが

なぜ 大室帝かという点については いろいろ事情があるようです。

「高松宮殿下、ご災難(昭和五十八年八月二十五日 朝日新聞)」

山口県田布施町御訪問中の高松宮殿下に対し、
同町在住の大室近祐容疑者(82)が古今未曾有の暴挙に及び、
その場で逮捕される。
大室容疑者は毎日、明治天皇は南朝満良親王の二十五世の末裔、
大室寅之助なりなどと意味不明の発言を繰り返しており、
現在同容疑者に余罪があるものと追及中。
今回の事件で鹿島昇なる徳弁護士(横浜弁護士会所属)を顧問として
今回の犯行に及んだ模様。同弁護士も今回の事件に関与したものとして
追求、横浜弁護士会では弁護士資格の剥除を決定。
大室容疑者は精神鑑定のうえ、八王子特別鑑別所へ収容される模様

とのことで

この前後に 下記のような事情があったようです。

もともと電波な人だったんですが、山口県熊毛町田布施町在住の
大室近祐(平成8年没)という人の裁判で弁護人に選任された事で
大室氏と知り合い、大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が
睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、
大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。
もともと大室近祐氏は、地元でも有名な詐話氏でして、
「田布施の和田喜八郎(東日流外三郡誌の作者)」と呼ばれていました(藁)
大室氏は一時あの古田武彦氏にも接近しましたが、古田氏は「私の専門外」と
相手にされませんでした。しかし鹿島氏らとは意気投合し、大室氏曰く、
「ワシの顧問弁護士」と大変気に入られていたようです。
しかし大室氏にとって、鹿島氏は唯一の自己代弁者であり、
鹿島氏にとっては、ネタの提供だけでなく、金銭面での最大のスポンサーであり、
鹿島氏、大室氏の利害の一致という点で結びついていたのが真相です。

もっとも鹿島氏は平成8年に大室近祐氏の死後の相続問題が泥沼化し、
長男の大室照元氏、次男の大室弘樹氏双方が告訴する事態になりました
鹿島氏は大室弘樹氏の弁護人に選任されましたが、
鹿島氏が作成した大室近祐氏の遺言状について、
「遺言書は無効」とする判決が平成12年11月に山口地裁から下され、
そのショックが大きかったのか、平成12年の12月15日に
心不全でお亡くなりになりました。合唱。

60 :原田 実 :03/06/23 23:18
>>349 >>351 >>353 >>359

364 :全土日 ◆qR2CHzz.Xo :03/06/26 19:55
原田実先生、はじめまして。

2chネットウォッチ板在住の「全土日」と申します。

上記349-351の「鹿島狂信者」氏ですが、この人物(以降はG氏と呼びます)は、
「大室寅之祐=明治天皇」を言い出した大室近祐氏の親族であり、
自分は天皇家に連なる人間だと発言して失笑を買っております。
(竹下義朗「帝国電網省掲示板」参照)
しかし上記掲示板にて、G氏はたびたび罵倒発言や掲示板荒らし行為を繰り返したため
上記掲示板への書きこみを禁止され、さらに2ちゃんねらーの巧妙な誘導に引っかかり、
住所、氏名、家族構成、学歴(早稲田大学中退)などを自ら暴露しております(笑)

ちなみにG氏は日本史掲示板にて「大室寅之祐が明治天皇になったと言える」という
スレッドを八回以上立てていますが、最近はすっかり飽きたのか、
「邪馬台国はどこですか」スレッドにて、
邪馬台国は西都原にあった、畿内論者はバカ、などと
何度も何度も投稿(実際はコピペ荒らしですが)するので、
「西都くん」「西都厨」「西都バカ」などと呼ばれております。

気が向いたら、HNを「日本@名無史さん」にして、G氏をからかってやって下さい(笑)

365 :日本@名無史さん :03/06/26 22:35
原田さん。ヤフー板にも参戦してください。
http://search.mb.yahoo.co.jp/search?p=%C5%EC%C6%FC%CE%AE&M=&sid=

366 :原田 実 :03/06/28 14:56
>>362
明らかな偽書をもてはやす人が記紀の史料批判云々といっても
説得力ないと思うのですが。特に鹿島さんの場合、その立論に三郡誌を根拠とすることが
多かったのですから、何をかいわんや、というところです。
そもそも素性がある程度判明している史料よりも現代人の偽書の方と親和性が高い古代史像など、
現代人の妄想の産物としか言いようがないでしょう。
>>364
おかげさまで事情がわかりました。20年近く前の話ですが、冨士文献研究家の加茂喜三氏に同行して、
生前の「大室天皇」のお宅をうかがったことがあります。
「大室天皇」の家(御所というべきか?‘^^)は大きな紙に殴り書きされたメモやイラストが屋内いっぱいに山積みで、
「大室天皇」自らそれを広げて、その家の場所が世界文明発祥の地で、宇宙の中心であることを力説しておられました。
当時の「大室天皇」からすると明治天皇の出自などはもはや小さなこと、という口ぶりでした。

367 :原田 実 :03/06/28 15:06
「大室天皇」の書き物のあの膨大な紙の山を思えば、和田氏が一人でダンボール20箱分の書き物をしたというのも、
不可能ではなかったことがあらためて実感されます(和田家文書も大部分は清書なしで書き飛ばしたものです)。
349−351の方が「大室天皇」のご親族なら、あの膨大な書き物をきちんと保管しておられるのでしょうか。
鹿島さんの受け売りよりも、「大室天皇」ご宸筆の歴史論・宇宙論の方がはるかに面白いような気もします
(もっとも常人には理解不能かも知れませんが)。

2ちゃんねるよりの収録でございます。この原田実氏のレポートについては
最近の新潮45にも記載されております。

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13. 2015年5月21日 15:00:16 : Q0N5CqTihk

明治天皇替え玉説の無稽と無惨

      狂人の戯言ざれごと

http://members3.jcom.home.ne.jp/shishoukaku/05shushinkai/004special/130601fate/13060132crazy-joke.html

前述の書[A]の扉裏には「故大室近祐氏に捧ぐ」と書かれている。

つまり睦仁=寅之佑説の本は、生前の大室近祐なる人物の語った話から
出発したのだろう(この名前の人物は山口県田布施町麻郷現在の電話番号
帳に現存するのだが?)。

[著者]には近祐なる人物が本当に南朝の子孫であるのか、学術的批判
に耐える古文書の提示が先ず求められる。話は其処から始まる。

戦後すぐ熊沢天皇事件というのがあった。これは名古屋の熊沢寛道とい
う人が、自分は南朝正系の子孫であると主張したのだが、何らかの古文書
は提出していた。熊沢という姓の家には歴史的由緒はあるので、たとえば
高名な儒学者熊沢蕃山などが出ている。だが蕃山が天皇位を窺うかがったことは
ない。

 [西園寺公一が睦仁と明治天皇は別人だといっていた。難波大助はヒロ
ヒトとその皇后になった良子の取り合いをした。大助は学習院にいて
良子と深い交際をしていた云々]

故西園寺公一が公望公(嘉永2〜昭和15)の息子であったことは事実
で、オックスフォード大学に留学(卒業は?)している。のち周恩来など
の招きで北京に長く滞在していた。母は雪子という出自定かでない女性
だったようだ。

 だが大介が学習院に在学した事実などがあるとはおよそ考えられない。
このようなことは当時の社会ではまったく起こりえないので、周防の素封
家とはいえ地方平民の息子の関わることでは凡そあり得ない。

 これはまったくものを知らない戦後育ちの無分別者に付け込んだワイルド
な空想であろう。見方、受け取り方が賎しい。こういう人物は日本人の中
には大変少ない。特殊な生まれ、育ちでもあろうか。ふつう一般人の想像力
の範囲にはこういった発想はない。これは正常の日本人の想像とは違うもの
だ。

 難波大介:

 山口県熊毛郡周防村立野(光市)の旧家に生まれ、虎ノ門事件の当事者。
 父作之進は県会議員、 代議士。徳山、鴻城中学に学ぶが中退。大正11
 年に早稲田第一高等学院に入学、12年退学。新聞配達などの労働や木賃
 宿での底辺生活も経験した。

 関東大震災の際の官憲の非道ぶりにテロリズムの実行を決意、12月父の
 ステッキ銃を持って上京した。その27日虎ノ門で議会開院式に赴く車中
 の皇太子を狙撃。

 父は県議を経て大正9年(1920)代議士当選。長兄は東京帝国大学、
 三兄、弟は 京都帝国大学出身。 母方の遠縁に河上肇・大塚有章、長兄
 夫人の遠縁に宮本顕治がいる名望家。

 父への反抗心強く、徳山中学に進んだが退学、私立鴻城中学に移り、高等
 学校受験に失敗、ようやく11年第一早稲田高等学院文科に入学したが、
 翌年2月退学、深川の労働者街に身を投じた。

 この間河上肇『断片』(「改造」)を讀んでロシアのテロリストに共感、
 反天皇の思想を抱き、関東震災直後の帰省の途次、甘粕事件・亀戸事件
 などを聞いて一層その意志を固める。摂政(昭和天皇)暗殺を意図し
 12月22日、父作之進のステッキ銃をもって離郷する。

 この銃は、韓国帰りの林文太郎が作之進に譲ったものだが、伊藤博文が
 部下の林に与えたものという説がある。京都の友人宅に滞留の後、27日
 早朝上京した大助は、帝国議会開院式に向かう摂政を、10時40分ごろ
 虎ノ門で狙撃したが失敗した。

 この事件で第2次山本権兵衛内閣は総辞職、湯浅倉平警視総監・正力松太郎
 警務部長らは懲戒免職、山口県知事は休職、父は衆議院議員を辞任して閉門
蟄居、謹慎した。

 事件当日より予審訊問が行われ、翌年2月本裁判に付された。裁判長は横田
 秀雄大審院長、検事は小山松吉検事総長ら。官選弁護人は今村力三郎・岩田
 宙造・松谷与二郎であった。10月1日公判開始、11月13日に死刑の
 判決が下った。

 裁判所の改悛慫慂政策は、判決直後、難波の「日本無産労働者、日本共産党
 万歳」の絶叫で挫折した。判決2日後の15日、大助は処刑された。26歳。
                 
                          (『国史大辞典』)

 難波大介:

 虎ノ門事件の当事者、大正期の反逆的な社会運動家。山口県熊毛郡周防村
 (光市)の旧家に生まれた。父作之進は県会議員、代議士も務めた。
 母はロク。

 徳山、鴻攘城両中学に学ぶが、中退。大正11年早稲田高等学院に入学。
 労働運動や社会主義運動にも触れ、12年退学。新聞配達などの労働や木賃
 宿での底辺生活も経験した。帰郷中の12年、関東大震災の際の官憲の非道
 ぶりにテロリズムの決行を決意、12月父のステッキ銃をもって上京した。

 事前に新居格ら新聞記者にテロ決意の手紙を送ったうえで、同月27日東京
 ・虎ノ門で議会開院式に赴く車中の皇太子(昭和天皇)を狙撃したが、失敗
 に終わった(虎の門事件)。

 大審院でも天皇制否定の主張を曲げず、死刑に処された。
 (明治32年11月7日〜大正13年11月15日)

                    (『朝日日本歴史人物事典』)

 興味深いのは難波家の縁戚には学者、思想家として高名な人物、左翼学者
川上肇、後の共産党書記長宮本顕治などがいる。一部周防人の反骨の系列の
表れかもしれない。

 さて [大室近祐(1905〜1995)が祖父庄吉(1853〜1926)
    から聞いた話:「儂が12、3歳のころ伊藤俊輔が毎日のように家
    に来て兄(寅之佑)を連れだし、石城山に登っていた」という話
    とも符合する]

 という。

 そうすると伊藤俊輔と大室寅之佑が邂逅したのは1865年(慶応元年)
ころのことになる。祐宮は当時13才で、寅之佑は14才であるはず。

 大忙しの当時24才の伊藤俊輔が、京都御所に居るべきこの14歳の替え玉
少年と毎日郷里で石城山登りしていたとでもいうのだろうか。寅之佑という
人物は現実にいたものかどうか、少年時代から行方不明としてもいる。これが
事実であれば、これを奇禍として祐宮とのすり替えを噺を造ったのか。

 別の箇所では睦仁・寅之佑の取り替えは両者5才ころの話とも書かれてある。
こにも本書誣説の無稽がある。日本人はこんなすぐ足の出ることはしないもの
だが。

 幕末の周防麻郷村に南朝の子孫、或いは七郷都落ちの際の誰かのご落胤、の
大室家が存在し、その家に寅之佑という長男が成長していたという話を、どこ
から聞きつけたのだろうか。大室寅之佑(1851〜1912、16歳)、
睦仁親王(1851〜1867、15歳)と主張しているが。

 大室という家を現在の電話番号簿で調べて見ると、山口県熊毛郡田布施町
大字麻郷(おごう)に3軒現存している。それらは、大室弘樹(小字助政)、
大室近祐(小字助政)、大室 勝(小字尾迫)である。[著者] は故大室近祐
氏から寅之佑の事を聞いたと書いている。

 伊藤博文=俊輔は天保12・9・2(1841・10・16)に生まれている。
そうすると寅之佑と俊輔の年齢差は10才になる。大忙しの俊輔が宮中にいる
べき寅之佑を連れて毎日郷里で山登りとは、怪談だろうかホラ譚ばなしだろうか。

睦仁         生誕 1852  親王宣下

[大室寅之佑 生誕 1851]

 伊藤博文          生誕 1841
        (1856・15才相模に、1857・16才松下村塾へ、
         1862・21才英国公使館焼き討ち、
         1863・22才英国留学、
         1866・25才のとき孝明帝崩御)


                        (平成13年6月)

***************************************************************************

大本教の系譜:中丸薫と堀川辰吉郎の「誇大妄想」革命:ヒロさん日記
http://hiro-san.seesaa.net/article/250626011.html

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14. 2015年5月26日 11:31:11 : BjJO7yk1E2


匿名党ブログとてんこもり野郎ヲチスレ(ブログ版)
http://tenkomoriwotisure.blog.fc2.com/blog-entry-2452.html


連合国軍最高司令官総司令部−Wikipedia


●イギリス連邦占領軍は山口県、広島県、島根県、鳥取県、岡山県と四国4県の占領を担当


●エ下劣に汚染されてるからなんですよwwwwww

●山口も、田布施システム云々じゃないんでつね。

●エ下劣に汚染されまくってるわけでつね。

ベネッセ&少女誘拐事件の岡山も。

島根だけは竹島があるからまだ目が覚めてる方。


芸能界なんて所詮チ○ンだらけ。

往年のスターだろうが何だろうが

汚染されまくってるわけで、

あんなヤツらに夢見ちゃダメなんでつね。


ブサヨはもう滅亡寸前で、メシの種のコンサートで

客に暴言はいてでも奇痴害行為を晒すほど

追いつめられてるってことでつね。

わかり松。

( ゜∀゜)・∵ブハ八ノヽ/ \!!!!!!!!


15. かっぺたんパッチ[233] gqmCwYLYgr2C8YNwg2KDYA 2015年12月18日 09:11:02 : ea87LB8lXE : QLXs07ycaI8[492]
生麦事件
チヤールス リチャードソン WIKIPEDIA

イギリス本国はリチャードソン殺害事件に際して、代理公使ジョン・ニールを通じて薩摩藩と江戸幕府に賠償金10万ポンド、犯人の引渡しと陳謝を要求するが、薩摩藩は拒否し、薩英戦争を引き起こすことになる。

親孝行で物静かな性格であったとの話の一方、当時の清国北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルース(Frederick Wright-Bruce、エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースの弟)は、リチャードソンに対して冷ややかな見解を持っており、本国の外務大臣ラッセル伯爵への半公信(半ば公の通信)の中でこう書いている。「リチャードソン氏は慰みに遠乗りに出かけて、大名の行列に行きあった。大名というものは子供のときから周囲から敬意を表されて育つ。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、引き返すか、道路のわきに避けるしなかったのであろうか。私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分の雇っていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼はスウィフトの時代ならばモウホークであったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である」[1]

墓所は横浜市中区の横浜外国人墓地にある。

________

このWIKIは個人に対して無礼で、薩摩のその切り付け藩士の無礼について
正当化しているのが納得がいかない。

この期に及んで、日本語のWIKIで好き勝手日本の誰かの好都合に書き続けても世間は納得しないと思う。

また、当時のリチャードソンにしても、無礼があると切り付けられるので、
注意を払っていたと思われる。

また、賠償金を要求したイギリスに対して、支払いを断り、薩英戦争となってい折り、リチャードソンの評価について言えた立場にないと思える薩摩の判断。

あまり、いい気がしない。



[32初期非表示理由]:担当:関係が薄い長文を大量にスパムしているので全部初期非表示

16. かっぺたんパッチ[234] gqmCwYLYgr2C8YNwg2KDYA 2015年12月18日 09:14:47 : ea87LB8lXE : QLXs07ycaI8[493]
日本人の英語の身勝手な訳っておかしいと思うね。
そのくーりえについての記述があるにしても、
そうやって書いておかないと、イギリス人としては、自分まで因縁をアジア系の
人達からつけられると、中国にも日本にも商売しにくくなるから
そう書いてるんであって。

あのラストサムライを見ればわかるとおり、
かなり怖がって天皇の前を去らなければならない。

あれほど怖がって行動していたって事はあるってこと。



[32初期非表示理由]:担当:関係が薄い長文を大量にスパムしているので全部初期非表示

17. かっぺたんパッチ[235] gqmCwYLYgr2C8YNwg2KDYA 2015年12月18日 09:20:25 : ea87LB8lXE : QLXs07ycaI8[494]
日本はあやしいんだよ、私が見るサイトの変なエロアイコンは削除しないが、
WIKIでも消したり付け足したり、日本の誰かの都合の良いように書き換えがたったこの1か月で激しくて、更には、バカなんで世界の政府とか、あるいは大学レベル院言い訳して回ってる感じが無きにしも非ずなのかなって気がするね。

更には、事実関係修正してみても、誰がほっとするって当事者(加害者)だけで
多くの日本人にとって無関係なんだよね。



[32初期非表示理由]:担当:関係が薄い長文を大量にスパムしているので全部初期非表示

18. 2016年10月31日 16:28:02 : COWqmqFM9M : Ie_z6C9tvhE[4]
>>08 消されてた↓

>フルベッキ写真は合成!?
http://1tamachan.blog31.fc2.com/blog-entry-5139.html


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2ちゃんねるのコメントから
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1474174465(抜粋)

16 :名無しさん@1周年:2016/09/18(日) 13:59:12.40 ID:xHq3cEyW0.net -
 
■ ウソ → 明治天皇すり替え・田布施システム説 ← ウソ ■


この人↓は明治天皇や大室寅之祐ではありません。佐賀藩校の生徒の1人です。物証で反論できます。
http://verbeck19.exblog.jp/

●『フルベッキ写真』伝説覆す原板: 幕末の志士集合写真 → 実は佐賀藩校の生徒 (読売新聞 2013/4/24)
http://blog.goo.ne.jp/sagastudents

この写真↑の撮影場所と時期は物証で特定できます。撮影は坂本龍馬の死後、明治天皇の江戸入り後なので2人は写真の中にはいません。

すり替え説には証拠はなく、すり替える必要性もなく、また、天皇の親族や側近が継続的に勤めていたことを説明できません。
そもそも、討幕派の最重要な拠り所は天皇であり、すり替えでは政権の幕府を倒す大義を失ない逆賊となってしまいます。

 
■ 反日の狙いは、日本の国家体制と歴史に悪いイメージを植え付けること ■


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【田布施システムw】明治天皇すり替え説 フルベッキ写真←大ウソ【大室寅之祐(笑)】

ライター:teinouinbouchuさん(最終更新日時:7時間前)投稿日:2014/8/10
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n297974(結び文抜粋)


・・明治天皇すり替え説が広まった流れとして、第二次大戦後の自称南朝の自称天皇ブーム、熊沢天皇(熊沢寛道 )・三浦天皇(三浦芳聖)等そして、三浦が『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を自費出版→トンデモ歴史家鹿島昇が自分は南朝で大叔父(大室寅之祐)が明治天皇になったとする田布施の変人である大室近祐と出会い、明治天皇すり替えを書いた『日本侵略興亡史』を出版→日本で革命を起こしたい共産主義者や新左翼(松重楊江、太田竜、鬼塚英昭)がそれらと出会い、朝鮮系、トンデモ系、陰謀系の出版社で本を出版→それが今知られているすり替え説です。

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明治天皇すり替え説Q&A として分かりやすく論点をまとめました。

どうぞこちらもご覧ください。

明治天皇すり替え説Q&A→http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n346861


皆さんは明治天皇が大室寅之祐にすり替えられた、


という説を聞いたことあるだろうか?

それらは単なる憶測・妄想の域を出ない根も葉もない虚説である。


以下の根拠を上げる。


●まず、そもそも、世襲親王家(皇位継承資格者)がそんな天皇を認める訳がない。


陰謀論者が明治天皇として広めている

●この写真は伏見宮貞愛親王を写したものである。
 ↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

                

(写真)  伏見宮貞愛親王 (1858年- 1923年)

(写真) 「貞愛親王逸話」(佐藤愛麿著/伏見宮家蔵版/1931年)「御少年時代(御家来と共に)


●親王宣下を受けた伏見宮邦家親王(1802年 - 1872年)が、明治維新の時に健在であり。

邦家親王の跡を継いだ、伏見宮邦家親王第14王子である伏見宮貞愛親王は

孝明天皇の養子になっており。


●伏見宮邦家親王は孝明­天皇を亡くした、睦仁親王(明治天皇)の後見人のような形­­­に­­なっている。

●明治天皇の皇女は、次々­と伏見宮系の王子の妃になって­­いる。

●皇統断絶の危機の事態には、伏見宮邦家親王の系統に

皇位を移す準備をして­­いた­­­のは明らかであり、


中山忠能や摂政の二条斉敬など、

孝明天皇と睦仁親王をよく知る人物ですり替えを

支持した人物はいないばかりか、孝明天­皇の

信頼の篤かった側近や堂上公家を騙すことは不可能である。

●かつまた、すり替えが事実であればこれ等の人々が明治になって

も皇室につかえる道理もなく、必ず皇位継承をめぐる争いになっていたことだろう。

●顔見知りの他の皇族との物理的な婚姻関係はすり替えが無かったことの有力な証拠の一つである。

●これらの経緯と状況証拠をみれば睦仁親王のすり替えなどは不可能であり、絶対にあり得ないことがわかる。


●尊皇攘夷思想が蔓延していた幕末において、

そんなことをしたら、「朝敵」長州藩を徳川家はもとより

他藩の志士が黙っている訳がなく、内戦の長期化に

より欧米の植民地になっていたことだろう。


それに敵対する旧幕府側・奥羽越列藩同盟に伏見宮邦家親王の第9王子であり

孝明天皇の義弟でもある、北白川宮能久親王がいるのにすり替えなどは到底考えられません。

●何故なら幕府に対しての不当なクーデターの正当性として、錦の御旗を掲げる新政府軍はその時点で正当性が失われるからです。


さらに井上毅が世襲親王家を永世皇族とし、

それをすり替わったとする天皇が認める訳がない。

●それに明治天皇は御所言葉を話してい­た。

●御所言葉を一朝一夕で覚えるのは困難である。


●さらに、フルベッキ写真が明治維新の

立役者が全員そろった写真であるという奇説は、

それを覆す原版の発見によって、完全に否定された。


●さらに、東京歯科大学­法人­類学教室の橋本正次

教授がフルベッキ写真を検証したところ99パーセント

別人という鑑定が『鑑定書』付きで出た。


●自分たちの意見で操ることができる、都合のいい幼

帝をわざわざ殺して入れ替える動機がそもそも無い。


●「維新」の根拠となる、天照大神の神裔、神の血統

である南北両統の皇統を否定してまでも、いわゆる

後南朝にすり替える理由もない。


明治44年に明治天皇の裁定により、南朝の2代2人

(後村上天皇、後亀山天皇)を正統な天皇と認め、

光厳天皇から後円融天皇までの

5代5人を北朝として正統から外したが、

明治天皇は北朝の五帝の祭祀については

従前どおり行うよう指示したとされ、皇室祭祀等に

おいては天皇として扱われている。


●明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の

正当性を認めたものであり、そのことは最終的に

南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に

三種の神器を渡し、南北朝が合体した

明徳の和約までを否定するものではない、

したがって現在の北朝の天皇の正統性を否定する

ものではない。


●南北朝正閏論は「南朝も正統」

あるいは「南朝は正統」であって、

熊沢寛道など自称南朝後胤を除き

いわゆる後南朝の正統性は明治時代

の後でも議論になっていない。

第二次世界大戦後、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人である、三浦芳聖が田中光顕から「明治天皇は実は南朝の正統である」という「秘説」を聞き、ならば自分はあえて皇位を要求しない、として天皇家の擁護派に回ったとするが。

三浦芳聖 の『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は自費出版で絶版でとても歴史学的な証拠に成り得ない。


●以上、これらの根拠からすり替えは無かったと断言する。

(略)

http://masterlow.net/?p=2565
大室近祐

●陰謀論者の「リチャード・コシミズ」、「鬼塚英昭」という人物が明治天皇すり替え説の論者としているが、コシミズの本を出版し、鬼塚英昭の書いた本のすべてを出している出版社の成甲書房は朴­甲東という、朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者である在日朝鮮人が設立した会社である。


●鬼塚英昭に影響を与えたのが、この鹿島昇ともう一人、松重楊江である。

●そして鹿島昇の設立した会社を継いだのが太田竜なのである。


●太田竜とは、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。反家畜制度、反米、フリーメーソンやイルミナ­ティのような秘密結社を含む反ユダヤ主義、反国際金融支配論者。人類は爬虫類人によって支配されているという説を取り込んだ。2­009年5月19日腹膜炎のため死去。


鹿島昇とは、「もともと電波な人だったんですが、山口県熊毛町田布施町在住の大室近祐(平成8年没)という人の裁判で弁護人に選任された事で大室氏と知り合い、大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。

もともと大室近祐氏は、地元でも有名な詐話氏でして、

「田布施の和田喜八郎(東日流外三郡誌の作者)」と呼ばれていました

大室氏は一時あの古田武彦氏にも接近しましたが、古田氏は「私の専門外」と相手にされ­ませんでした。

しかし鹿島氏らとは意気投合し、大室氏曰く、

「ワシの顧問弁護士」と大変気に入られていたようです。しかし大室氏にとって、鹿島氏は唯一の自己代弁者であり、鹿島氏にとっては、ネタの提供だけでなく、金銭面での最大のスポンサーであり、鹿島氏、大室氏の利害の一致という点で結びついていたのが真相で­す。」


鹿島昇は新国民社を設立後。

1978年倭と王朝を出版し、これが韓国で話題となり、これが機縁となって朴蒼岩氏や李裕ャ氏と知り合い、韓国の20世紀に作ら­れた全くの偽書である桓檀古記を委託された。この書から全訳桓檀古記を出版。


●他には、同和差別問題に取り組んでいたという。鹿島­昇の背後には大韓民国在郷軍人会日本支部(もしくは統一教会)が関係しているといわれる。


●1987年に松重正、または松重楊江と出会い、自分の大叔父(大室寅之祐)が

睦仁親王を殺害して明治天皇になったとする、大室近祐という人物に会いに行き。その後日本侵略興亡史を出版し、すり替え説を書いたのだ。


●もう一人の松重は鹿島の本に影響を受けた日韓親善協会、日中親善協会会員でもある共産党員である。

松重正 曰く、「朝鮮総督府時代の日本人が、特にクズのような日本人が、韓国人の父祖を差別した事実は歴史としてよく知られているし、こ­とに、厚化粧の年増だった閔姫女史の屍姦事件は伊藤博文がやらせたものだが、日本人のツラよごしでしかない。...韓日の同祖民­族が共同の文化構築を進め、玄界灘にもトンネルを開通して、やがては手を携えて東洋民族の国を樹立すべきであると考える。その一­助にもなればと、いま『韓国と日本の歴史』を書いている・・・」

http://negajap.seesaa.net/article/391263025.html

『 韓国と日本の歴史 』について

http://www.infact-j.com/matsushige/jobun.htm

●このような認識の在日朝鮮人や共産主義者が明治天皇すり替えを主張しているのである。

●明治天皇すり替え説が広まった流れとして、第二次大戦後の自称南朝の自称天皇

ブーム、熊沢天皇(熊沢寛道 )・三浦天皇(三浦芳聖)等そして、三浦が『徹底

的に日本歴史の誤謬を糺す』を自費出版→トンデモ歴史家鹿島昇が自分は南朝で大

叔父(大室寅之祐)が明治天皇になったとする田布施の変人である大室近祐と出会

い、明治天皇すり替えを書いた『日本侵略興亡史』を出版→日本で革命を起こした

い共産主義者や新左翼(松重楊江、太田竜、鬼塚英昭)がそれらと出会い、朝鮮

系、トンデモ系、陰謀系の出版社で本を出版→それが今知られているすり替え説です。



19. 中川隆[-11292] koaQ7Jey 2018年4月25日 10:23:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12259]
田布施システム(笑)明治天皇すり替え説・後南朝替え玉説は大嘘【幕末の真実〜西郷隆盛本当の顔】

陰謀論者が広める伏見宮貞愛親王、明治天皇、西郷隆盛等々の幕末明治の偉人達の偽キャプション写真や「奇兵隊天皇」や後南朝を検証する
更新日: 2018年04月16日
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101


明治天皇として陰謀論者の間で広まってるこの写真は
伏見宮貞愛親王 (1858年-1923年)を写したものである。
明治天皇ではない。


「貞愛親王逸話」(佐藤愛麿著/伏見宮家蔵版/1931年)「御少年時代(御家来と共に)


奇兵隊の天皇なんて存在しない

前後の事柄に因果関係はなく、差し迫った出来事を箇条書きしただけと思われる。


これから元服する明治天皇の父は崩御された孝明天皇であると記された文献がすり替え説の根拠になる訳が無い。


『中山忠能日記』


出典
dl.ndl.go.jp


『中山忠能日記』

(『正心誠意』)
慶応三年 七月十九日

謂況以御冠禮之故被縮父帝之諒闇之条甚不可然欤尚可有熟慮示答卿甚 
不服之氣、井蛙徒 不弁大道悲哉 正三又光仁帝之列可然稱賛之由
一、攝政拝面お八百姪 事申入置―
一、去十日自加州異人上陸
一、寄兵隊ノ
(段落)
天皇来正月上中旬之内御元服御治定之事


まず、そもそも後南朝は滅亡しています。


『群書類従』第拾參輯「嘉吉記」


出典
dl.ndl.go.jp

『群書類従』第拾參輯「嘉吉記」


「南帝を輙く弑し奉り。三種の神器を取持て忍び出ける。吉野十八郷の者ども起て急に追懸る。御頸をば中村太郎四郎給て出けるが郷人に討れ。とりかへされにけり。三種の神器をば。間島其外の者共持奉て罷上り。内府へ此由申す。」

後南朝の皇子が殺され、再び奪われたものの、三種の神器(神璽)は取り返されて後南朝は滅亡している。 その後の後南朝の正統な末裔などは西陣南帝などを除き確認されてない。


『昭和史の謎を追う』熊沢天皇始末記  後南朝の皇統(川上村伝承)


「昭和史の謎を追う」熊沢天皇始末記の一節からスキャンした画像です。
南朝の血統の行方を記す最後の信用できる史料が記す「長禄の変」について説明がなされています。

田中義成博士「南北朝時代史」の長禄の変の項には「吉野の山奥に尚南朝の皇子二人御座し・・・・・共に御名並びに御系統を審らかにせず・・・」の記載がある上月記、赤松記を紹介して、これ以上の資料がまだ発見されておらず、今後も期待が出来そうもないと論じられています。


他に南朝の末裔と伝えられる家といえば、鹿児島の後醍醐天皇皇子懐良親王を祖と称する後醍院氏や、後醍醐天皇の孫で宗良親王の王子の尹良親王を祖と称する津島神社社家の氷室氏や大橋氏等以外にはないと思われるが。それらは臣籍降下した後醍醐源氏であり皇位などは以ての外であろう。


一部の陰謀論者は神皇正統記や神皇正統記に影響された大日本史などの水戸学・国学の尊皇攘夷思想の結果、南朝天皇のすり替えがおこったと意味不明な説明をするが


『神皇正統記』―「伏犠氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六。乱のはなはだしさ、云にたらざる者哉。」


出典
www.j-texts.com

『神皇正統記』―「伏犠氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六。乱のはなはだしさ、云にたらざる者哉。」


(伏羲(前3308年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王。)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。)

『神皇正統記』
「唯我国のみ天地ひらけし初より今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓の­中におきてもおのづから傍より伝へ給しすら猶正にかへる道ありてぞたもちまし<ける」


北畠親房「我が国のみ、今の世の今日に至るまで皇統は連綿と続いている。」


神皇正統記には、「一種姓の中で傍系継承であっても正しきにかえる道があって皇統は保たれてきた」とあるので、現在の公式的立場である南朝が正統で、南朝→北朝の皇統は矛盾せずに成立し得るが。
皇位にもついていない、系譜も定かではない、自称後南朝→明治天皇などを正統とするロジックは神皇正統記や大日本史には記されていない。

明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の
正当性を認めたものであり、そのことは最終的に
南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に
三種の神器を渡し、南北朝が合体した
明徳の和約までを否定するものではない。
後南朝が絶たれ、三種の神器が取り返され、明徳の和約の両統迭立は履行され得ない。


現在の皇統は北朝なのに皇居前に楠木正成像があるのはおかしいという者がいるが


北朝側の立場から描かれている史料である
『梅松論』には
「最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。」

と記されている。

北朝側の立場から描かれている史料の『梅松論』楠木正成のこと―「賢才武略の勇士」「敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり」


『梅松論』
「今度は正成、和泉・河内両国の守護として勅命を蒙り軍勢を催すに、親類一族なほ以て難渋の色有る斯くの如し。況や国人土民等においておや。是則ち天下君を背けること明らけし。然間正成存命無益なり。最前(まつさき)に命を落とすべきよし」申し切りたり。最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。」


その死を「敵も御方も惜しまない人はいない」 その栄誉を称えた楠木像があっても当然で、何ら不思議はない。


敵味方、南朝側・北朝側にかかわらず、楠木正成は忠臣・勇士扱いであり、皇居外苑にその栄誉を称えた楠木像があっても当然で、何ら不思議はない。

「フルベッキ写真」伝説覆す原板 幕末の志士集合写真→実は佐賀藩校の生徒


2013年04月24日読売新聞  東京朝刊 文化 27面

佐賀藩が幕末、長崎に設けた藩校・致遠(ちえん)館で教育にあたったオランダ生まれの宣教師フルベッキ(1830〜98年)と佐賀藩士ら計7人が写った古写真のガラス原板が見つかった。


(上の写真)
写真=見つかったガラス原板。前列の右がフルベッキ、その左隣が伊東次兵衛とみられる(倉持さん提供)

二つは同時期の撮影と考えられ   「原板からも志士の集合写真説は完全に否定された」


記録から明治元年(1868年)に写真家・上野彦馬が撮った可能性が高いという。撮影者や撮影日が分かる古写真は珍しく、貴重な発見だ。
 縦7・8センチ、横10・7センチ。個人所蔵の資料から倉持基・元東大特任研究員(歴史写真学)らが確認した。古写真研究家の高橋信一・元慶応大准教授によると、原板に写る佐賀藩士の一人で、中老などを務めた伊東次兵衛の日記に、明治元年10月8日に長崎にあった上野彦馬の写真館にフルベッキらと出かけ、写真を撮ったことが記されている。「若い武士は月代(さかやき)をそっておらず、時期は幕末から明治期。日記にある通り明治元年の撮影と考えられる」と言う。

志士の写真ではあり得ない。だが、約40年前に「慶応元年(1865年)に志士が長崎で撮った写真」とする説が出され、写真に名前をつけたものが売られたことから、「志士の集合写真」として広まった。


写真=幕末志士の集合写真と言われている「フルベッキ写真」。フルベッキが中央部分に写っている

興味深いのが、西郷隆盛や坂本龍馬ら幕末の志士が写っていると言われる「フルベッキ写真」との関係。フルベッキを囲んで多数の武士が写るこの写真は、もともと明治時代に致遠館の生徒の写真として世に出ており、龍馬没後の明治元年に同館に留学した、岩倉具視の息子2人が写っている点などからも、志士の写真ではあり得ない。だが、約40年前に「慶応元年(1865年)に志士が長崎で撮った写真」とする説が出され、写真に名前をつけたものが売られたことから、「志士の集合写真」として広まった。


しかし、原板と比較した結果、伊東以外の6人が「フルベッキ写真」にもほぼ同じ姿形で写っていた。このため、二つは同時期の撮影と考えられ、高橋さんは「原板からも志士の集合写真説は完全に否定された」とする。

原板には致遠館の教官も確認されるといい、「フルベッキ写真」が同館の生徒らを写したものであるのは間違いないようだが、「研究があまり進んでいなかったため、史実と離れたイメージが独り歩きしてしまった」と倉持さんは苦笑する。
古写真を歴史資料として生かすには、実証的な研究が欠かせないことを、今回の発見は改めて教えてくれる。(大阪文化・生活部 早川保夫)


元治元年12月「島津久治公と薩摩藩士一行」 テリー・ベネット「Early Japanese Images」


元治元年12月から慶應元年1月にかけて薩摩藩主島津忠義の名代で島津久治と珍彦が長崎のイギリス艦隊を表敬訪問した時に、上野彦馬のスタジオで撮影された写真であることは以前から知られていた。

島津久治の長崎訪問については「写真サロン」昭和10年12月号で、古写真研究家の松尾樹明が「写真秘史 島津珍彦写真考」として説明しており、写っている人物数名を明らかにしている。
また、昭和43年刊行の「図録 維新と薩摩」には13名中11名の名前が上げられているが、西郷隆盛従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。」
加治将一「西郷の貌」の問題点
http://bit.ly/2jPqjaZ

この写真に西郷隆盛 従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない


出典
pro.cocolog-tcom.com


西郷の遺族、親族列席の上にて「此こそ翁の真像」との決定を与えられ、イト子未亡人に贈呈されたのがキヨッソーネの西郷隆盛の肖像である。

西郷の遺族、親族列席の上にて「此こそ翁の真像」との決定を与えられ、イト子未亡人に贈呈されたのがキヨッソーネの西郷隆盛の肖像である。


キヨッソーネは西郷とゆかりの深い得能良介からのアドバイスなど西郷の縁者の意見の結果、下半分は従兄・大山巌をモデルに上半分は弟・西郷従道をモデルに西郷の肖像を描き上げたのだから、かなり実像を捉えた肖像だと思われる。

西郷と直接的に会った顔見知りの絵描きが描いた肖像画という複数の傍証が存在するので「このような顔」だったことは間違いない。


服部英龍/画(上段左)
肥後直熊/画(上段右)
床次正精/画(下段左)
石川静正/画(下段中央)
平野五岳/画(下段右)

西郷の肖像といえばキヨッソーネの肖像画が有名だが、他にも西郷に直接会った顔見知りの絵描きが描いた肖像画という複数の傍証が存在している。
親戚縁者のお墨付きがあるので「このような顔」だったことは間違いない。

伝源頼朝の肖像と違い、キヨッソーネの西郷の肖像画は縁者の意見をもとに間違いなく西郷本人を描いた肖像である。


「西郷隆盛の肖像」佐藤均/画 “隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれる。”


「もと荘内藩 士族の石川静正が、明治3年11月鹿児島に練兵修行に赴き8年4月にも再訪し、西郷の風容に接した。このときの印象をもとに年月をかけ隆盛の肖像を描いた。これを見た薩摩出の洋画の巨匠黒田清輝が、肖像画家として令名の高かった門弟佐藤均に勧め、苦心の上、大正2年に完成したのが此の肖像。隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれる。」(「安藤英男『西郷隆盛』 学陽書房」)

西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、 亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で 出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。


上野の西郷像の公開の際に招かれた西郷夫人 糸子は
「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」
といった意の言葉(薩摩弁)を漏らしたというが。

「 西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、
亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で
出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。 」

つまり、上野の西郷象の風体、
正装ではなく浴衣で着流しという
だらしない姿に「こげんなお人ではない」と言ったのが真意だったのだ。

ドイツで発見されたとされる真偽が怪しい西郷隆盛 ※撮影は明治7年となっているが明治8年太政官布告第54号(勲章制定ノ件)から始まった勲章をつけている。


※「ほとんどの人物が陸軍の軍服を着ていますが、川村純義と勝安房は海軍所属のはずです。これはまったくお笑い種です。海軍の人間が陸軍の軍服を着るような、そんなことは起き得ないことです。http://bit.ly/2gcZqgy

研究者の高柳毅氏は「軍服が意外」「これまでいろいろ写真は出てきたが、すべて偽物だった」
歴史教師の浮世博史氏は「撮影は明治7年(1874年)となっているが、西郷はその前年の明治6年に征韓論で敗れて下野、7年には東京にいなかった」と指摘。
http://bit.ly/2fgSUTe


鹿児島の西郷像のモデルになった石澤宏太郎氏は構図と体型そして雰囲気のモデルであって、鹿児島の西郷象の顔はキヨッソーネの肖像画がモデルである。


元山形県議会議員の石澤宏太郎氏


キヨッソーネの西郷の肖像画を参考に作られた鹿児島の西郷隆盛の銅像
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101


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血統妄想 [ Descent delusion]統合失調症や躁病などの症状として現れる。
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?page=2

血統妄想とは、「自分は王侯貴族のような高貴な血統の生まれだが、事情により一般家庭で育てられた」などと思い込む、誇大妄想のひとつ。ミニョン妄想とも呼ばれる。
血統妄想は、統合失調症や躁病などの症状として現れる。


出典
ミニョン妄想 - 意味・解説 美容外科用語辞典

血統妄想の場合は、自分をより偉く、より強く見せるという願望から、自分の血統を誤った状態で信じ込んでいるというケースに至ることが多いようです。
ただの思い込みのレベルではなく、実際にそうである者として行動、言動を行うという点に問題があります。
周りの人から見れば、やはりそれは「危険な人」という認識をせざるを得ないでしょう。
血統妄想は、天皇陛下の隠し子であるとか、織田信長の生まれ変わりとか、そのような思い込みが多いようです。
つまり、現状の自分で満たされない部分を、血統という安易なステータスの向上によって補うというものです。


出典
血統妄想


第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。


熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日)


熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする


昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが拒否される。

歴史学者は熊野宮信雅王の実在を否定し、反熊沢キャンペーンを展開、さらにGHQの昭和天皇利用方針が固まると、世間は熊沢天皇に次第に冷ややかになっていった。情勢を打開すべく、1947年(昭和22年)3月政治団体「南朝奉戴国民同盟」の総裁に就任したり、同年10月に正皇党を結成して、党首として選挙で候補者を立てるが失敗する。その後、熊沢は多くの側近、それに妻子にまで見捨てられた。


サンフランシスコ講和条約が成立すると、人々の熊沢への関心も次第に薄れていった

その後も、折に触れ週刊誌や同人誌のネタとなっていた熊沢は、支持者の家を転々としながら、映画の幕間のアトラクションに登場して南朝の正当性を訴えるなどの活動を続ける。1957年(昭和32年)、尊信天皇に自称天皇を譲位し、法皇を自称するようになり、1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙では天皇廃止論を主張したという理由で日本共産党の神山茂夫の支持を表明した。1966年(昭和41年)6月11日、東京の板橋病院で膵癌のため死去。晩年は東京池袋の人生横町に間借りし、著書『日本史の誤りを正す』の編纂に専念していた


第二次世界大戦後、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人である、三浦芳聖


三浦芳聖が田中光顕から「明治天皇は実は南朝の正統である」という「秘説」を聞き、ならば自分はあえて皇位を要求しない、として天皇家の擁護派に回ったとするが。 三浦芳聖 の『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は自費出版で絶版でとても歴史学的な証拠に成り得ない。


三浦の主張は以下の通りである。

「南朝には、1336年(延元元年)10月に後醍醐天皇から皇位を継承して北陸に落ちた神皇正統の皇統(北陸朝廷#三浦芳聖の主張する北陸朝廷)と、後醍醐天皇が陽動作戦のために吉野に設けた偽装朝廷である副統の「正副二統」が存在した。擬天皇である後亀山天皇(三浦の主張では「熙成王」)が、足利義満の謀略により合一した後、正統の天皇は三種の神器を封印して地下深く埋蔵し、民伍に隠れ、今日に至った。三浦家は、その正統の皇統家の嫡孫である。」


出典
三浦芳聖 - Wikipedia

自称「大室天皇」の誕生

「ニセ天皇」かく語りき(『新潮45』2005年10月号)

「大室天皇の存在が、一部の歴史研究者の間に噂されるようになったのは1980年代初め頃である。いわゆる「ニセ天皇」としてはごく新しいデビュー(?)といえよう。
大室家は南朝の末裔という。大室天皇こと大室近祐(1904〜1996)によると、慶応3年(1867)に北朝系の孝明天皇の皇子・睦仁親王が近祐の祖父の兄にあたる大室寅之祐とすりかえられたという。それは長州藩と岩倉具視ら公卿の画策によるものであった。それが本当なら、明治天皇とは大室寅之祐に他ならず、近祐は明治天皇の弟の孫ということになる。
 ハイヤーを下りて、表札を確かめ、玄関に立つ。庭先には「史跡 大室遺跡(弥生時代)」という表示杭が立っていた。
 家族の方の取次ぎがあり、やがてがっちりとした体格の老人が私たちを出迎えに現れた。


「明治天皇のことですか。まあ、こっちに来てください」
 家の離れに建てられたプレハブの倉庫、その中には大量の巻紙が積み上げられていた。大室天皇はその巻紙の一つを抜くと代の上に広げ、私たちに指し示した。紙面に踊るは「瀬戸内海―エジプトの神セト」「聖母マリア」「十字架の地」といった書き込みだ。彼は上機嫌で語った。


その内容は、大室遺跡は宇宙の中心、あらゆる宗教の発祥地であり、大室家はそれを守る家である、といったものである。いつまでたっても、南朝なり、明治維新の裏面なり、のことは出てこない。
 そこで明治天皇すりかえ説のことに水を向けようとしても、大室天皇曰く、明治天皇がこの家で生まれたことなど、宇宙全体からすれば、ささいなことにすぎないから、というわけで、またも新たな巻紙を広げ、大室家は世界の中枢、といった内容の話を始める。
 大室天皇の語り口からは、その純朴さと熱意とが伝わってはきたが、とても歴史の参考にはなりそうもない。」


出典
熊沢・長浜・大室・・・・・・「ニセ天皇」かく語りき(『新潮45』2005年10月号) 熊野孤道


「大室遺跡は宇宙の中心、あらゆる宗教の発祥地であり、大室家はそれを守る家である、といったものである。」


「その純朴さと熱意とが伝わってはきたが、とても歴史の参考にはなりそうもない。」

大室近祐


「高松宮殿下、ご災難(昭和五十八年八月二十五日 朝日新聞)」
山口県田布施町御訪問中の高松宮殿下に対し、
同町在住の大室近祐容疑者(82)が古今未曾有の暴挙に及び、
その場で逮捕される。
大室容疑者は毎日、明治天皇は南朝満良親王の二十五世の末裔、
大室寅之助なりなどと意味不明の発言を繰り返しており、
現在同容疑者に余罪があるものと追及中。
今回の事件で鹿島昇なる徳弁護士(横浜弁護士会所属)を顧問として
今回の犯行に及んだ模様。同弁護士も今回の事件に関与したものとして
追求、横浜弁護士会では弁護士資格の剥除を決定。
大室容疑者は精神鑑定のうえ、八王子特別鑑別所へ収容される模様」
http://bit.ly/2kTdpcF


この説は鬼塚英昭のオリジナルではなく、歴史研究家の鹿島昇や郷土史家の松重揚江によるもの。田布施の隣の柳井市の郷土史家、松重揚江氏が、近所で変わり者扱いされていた「大室近佑」という古老(写真は鹿島昇『日本王朝興亡史』より)が、自分の爺さんは天皇になったと言っていたことから、鹿島昇と聞き取りを開始し、それからこの近佑の祖父が明治天皇になったという説ができたわけだ。


出典
陰謀論「田布施システム」とはなにか −三宅洋平氏が信じる日本近現代史とユダヤの陰謀論 | Football is the weapon of the future

陰謀論者の「リチャード・コシミズ」、「鬼塚英昭」という人物が明治天皇すり替え説の論者としているが、コシミズの本を出版し、鬼塚英昭の書いた本のすべてを出している出版社の成甲書房は朴­甲東という、朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者である在日朝鮮人が設立した会社である。

陰謀論者、リチャード・コシミズ


陰謀論者の「リチャード・コシミズ」


竹細工職人、鬼塚英昭


出典
ja.wikipedia.org


大分県別府市生まれ。大分県立別府鶴見丘高等学校卒業、上京し中央大学法学部に入学する。働きながら大学で学んでいたが学費が払えず中退。故郷の別府にて家業の竹細工職人となる。
2016年1月25日死去。78歳没。

鬼塚英昭の書いた本のすべてを出している成甲書房は朴­甲東という、朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者である在日朝鮮人が設立した会社である。


出典
page.auctions.yahoo.co.jp

http://ja.wikipedia.org/wiki/成甲書房
朴甲東によって1979年日本で設立。
朴甲東は1919年朝鮮慶尚南道に生まれ、1941年早稲田大学卒業後朝鮮へ帰国し、朝鮮独立運動に身を投じ抗日パルチザン「朝鮮独立同志会」を組織する。
戦後朝鮮共産党機関紙「解放日報」記者を経て、南朝鮮労働党に合流。1948年朝鮮民主主義人民共和国が建国されると、文化宣伝省ヨーロッパ部長になるが、1950年金日成の粛清により逮捕、監禁される。
1956年釈放されると翌年に北朝鮮を脱出し、日本へと逃れて金日成政権批判を続けた。同じ南朝鮮労働党出身の朴正煕とも親交があった

鹿島昇が大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。


山口県熊毛町田布施町在住の大室近祐(平成8年没)という人の裁判で弁護人に選任された事で大室氏と知り合い、大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。


桓檀古記―20世紀に作られた朝鮮半島の偽書。


出典
ja.wikipedia.org

桓檀古記―20世紀に作られた朝鮮半島の偽書。


鹿島昇は新国民社を設立後。
1978年倭と王朝を出版し、これが韓国で話題となり、これが機縁となって朴蒼岩氏や李裕ャ氏と知り合い、韓国の20世紀に作ら­れた全くの偽書である桓檀古記を委託された。この書から全訳桓檀古記を出版。

他には、同和差別問題に取り組んでいたという。鹿島­昇の背後には大韓民国在郷軍人会日本支部(もしくは統一教会)が関係しているといわれる。
1987年に松重正、または松重楊江と出会い、自分の大叔父(大室寅之祐)が
睦仁親王を殺害して明治天皇になったとする、大室近祐という人物に会いに行き。その後日本侵略興亡史を出版し、すり替え説を書いたのだ。


韓国の超民族主義者の聖典である桓檀古記―国粋的歴史観を持つ韓国人を卑下してファンパというが、この書から生まれた言葉である。


ファンパという言葉は、韓国の在野史学で韓民族(朝鮮民族)の過去の歴史を語るときに根拠とする『桓檀古記(환단고기、ファンダンゴギ)』に由来する。つまり桓檀古記の内容を非常に信頼して、韓民族の初代国家である古朝鮮の領域は黄河以北の大陸全般をカバーしていたと信じている。

http://mottokorea.com/mottoKoreaW/Vocabulary_list.do?bbsBasketType=R&seq=26677


鬼塚英昭に影響を与えたのが、この鹿島昇ともう一人、松重楊江である。 そして鹿島昇の設立した会社を継いだのが太田竜なのである。


← ja.wikipedia.org/wiki/太田竜
太田竜とは、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。反家畜制度、反米、フリーメーソンやイルミナ­ティのような秘密結社を含む反ユダヤ主義、反国際金融支配論者。人類は爬虫類人によって支配されているという説を取り込んだ。2­009年5月19日腹膜炎のため死去。


松重楊江(日韓親善協会、日中親善協会会員)


もう一人の松重は鹿島の本に影響を受けた日韓親善協会、日中親善協会会員でもある共産党員である。

明治天皇すり替え説が広まった流れとして、第二次大戦後の自称南朝の自称天皇ブーム、熊沢天皇(熊沢寛道 )・三浦天皇(三浦芳聖)等そして、三浦が『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を自費出版→トンデモ歴史家鹿島昇、松重楊江が自分は南朝で大叔(大室寅之祐)が明治天皇になったとする田布施の変人である大室近祐と出会い、鹿島が明治天皇すり替えを書いた『日本王朝興亡史』を出版→日本で革命を起こしたい共産主義者や新左翼(太田竜、鬼塚英昭)がそれらと出会い、朝鮮系、トンデモ系、陰謀系の出版社で本を出版→それが今知られているすり替え説です。


おまけ 万世一系の日本の皇室を羨む中国・朝鮮

天壌無窮の神勅―『日本書紀』「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。」


『日本書紀』
「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。」


「葦原千五百秋之瑞穂國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之降、當與天壤無窮者矣。」
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?page=2


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天孫降臨
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?&page=3

出典
teikoku-denmo.jp

天孫降臨


天壌無窮の神勅―
現代語訳:
「日本国は、我が子孫が王たるべき国である。さあ瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)よ、行って、しっかりと治めなさい。恙(つつが)なくお行きなさい。天津日嗣(あまつひつぎ;寶祚=皇位)は、天地と共に永遠に栄えることでしょう。」


神武天皇


高天原から天降ったニニギの曾孫
第一代天皇,神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四皇子。九州日向(ひむか)から東進して大和地方を平定,紀元前660年(皇紀元年),大和の橿原宮で即位したという。


歴代天皇と世界の帝国興亡史

北宋の第2代皇帝・太宗も驚く日本の皇室


『宋史』日本伝「北宋の太宗は、その国王(日本の天皇)は一つの姓で継承され、その臣下も官職を世襲して絶えることが無いと聞き、嘆息して宰相にいうには...

『宋史』日本伝「これは島夷であると言うのに、代々の位は遥かに久しく、その臣下もまた世襲していて絶えていない。これぞまさしく古の王朝の在り方である。」

太宗(たいそう)は、北宋の第2代皇帝(在位:976年11月15日 - 997年5月8日)。太祖趙匡胤の弟。諱は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、即位してからはQ(日の下に火)に改めた。


『宋史』日本伝「これは島夷であると言うのに、代々の位は遥かに久しく、その臣下もまた世襲していて絶えていない。これぞまさしく古の王朝の在り方である。」

中国は唐李の乱(李克用による禅譲)により分裂し、五代は王朝こそ継承したが、その期間は短く、臣下も世襲できる者は少なかった。我が徳は太古の聖人に劣るかもしれないが、常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、臣下の子等に官位を継がせることこそが我が願いである」


上聞其國王一姓傳繼臣下皆世官 因歎息謂宰相曰 此島夷耳 乃世祚遐久其臣亦継襲不絶 此蓋古之道也 中国自唐李之乱寓縣分裂梁周五代享歴尤促 大臣世冑鮮能嗣続 朕雖徳慙往聖常夙夜寅畏講求治本不敢暇逸建無窮之業 垂可久之範 亦以為子孫之計 使大臣之後世襲禄位此朕之心焉(『宋史』日本伝)

『宋史』(そうし)は、中国、元代に編纂された正史(二十四史)の一つ。宋(北宋・南宋)を扱った紀伝体の史書である。1345年完成。元のトクト(托克托・脱脱)が編纂した。16本紀47巻、15志162巻、2表32巻、197列伝255巻の計496巻。正史の中で最も膨大である。


出典
宋史 - Wikipedia

『宋史』では日本は巻四百九十一、列伝第二百五十、外国七において「流求」国の少し後で触れられている。「然が太宗に献上した『王年代紀』から引用して、天御中主から彦瀲尊まで23世と神武天皇から守平天皇(円融天皇)まで64世の系譜が述べられる。周の僖王の甲寅の年に神武天皇が即位したと記すが、日本書紀では即位は辛酉の年であり、甲寅は東征開始の年である。どちらも周の恵王の時代に当たる。


出典
宋史 - Wikipedia


聖徳太子が年3歳にして10人の言葉を聞き分けられたという逸話も紹介している。また日本が中国で滅失したものも含め多くの漢籍を蔵していることはこの頃から知られていたようで、「其國多有中國典籍」という記載も見える。記述は南宋寧宗(趙擴)の嘉泰二年の記事までで終わっている。

朝鮮通信使も羨む日本の皇室ー『日東壮遊歌』

『日東壮遊歌』とは第11次朝鮮通信使として来日した金仁謙の著書で旅行記である。


『日東壮遊歌』(にっとうそうゆうか、イルトンジャンユガ)とは、江戸時代の1763年(宝暦13年)から1764年(明和元年)にかけて来日した第11次朝鮮通信使(目的は徳川家治(在職1760年〜1786年)の将軍襲職祝い)の一員(従事官の書記)として来日した金仁謙(ko:김인겸、キム・インギョム、当時57歳)の著書で旅行記である。

『日東壮遊歌』大坂での記述より「天下広しといえこのような眺め、またいずこの地で見られようか。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという。」


『日東壮遊歌』
大坂での記述より

「天下広しといえこのような眺め、またいずこの地で見られようか。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという。この世界も海の向こうよりわたってきた穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、周の平王のときにこの地に入り、今日まで二千年の間世の興亡と関わりなくひとつの姓を伝えきて、人民も次第に増えこのように富み栄えているが、知らぬは天ばかり、嘆くべし恨むべしである。」

『日東壮遊歌』大坂での記述より「この世界も海の向こうよりわたってきた穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、」


「周の平王のときにこの地に入り、今日まで二千年の間世の興亡と関わりなくひとつの姓を伝えきて、」


「人民も次第に増えこのように富み栄えているが、知らぬは天ばかり、嘆くべし恨むべしである」


『日東壮遊歌』京での記述より「この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」


『日東壮遊歌』京での記述より「沃野千里をなしているが、惜しんであまりあることは、この豊かな金城湯池が倭人の所有するところとなり、帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」

『日東壮遊歌』京での記述より「惜しんであまりあることは...帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。」


第11次朝鮮通信使、金仁謙の著
『日東壮遊歌』
「この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」

「この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし」


「朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」


「倭王は奇異なことに何ひとつ知ることなく、兵農刑政のすべてを関白にゆだね、自らは関与せず、」


『日東壮遊歌』「倭王は奇異なことに何ひとつ知ることなく、兵農刑政のすべてを関白にゆだね、自らは関与せず、宮殿の草花などを愛でながら、月の半分は斎戒し、あとの半分は酒色に耽るとか」
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?&page=3


20. 中川隆[-12002] koaQ7Jey 2018年5月05日 03:15:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13231]
【田布施システムw】明治天皇すり替え説 フルベッキ写真←大ウソ【大室寅之祐(笑)】
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n297974

teinouinbouchuさん投稿日:2014/8/10

明治天皇すり替え説Q&A として分かりやすく論点をまとめました。

どうぞこちらもご覧ください。
明治天皇すり替え説Q&A→http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n346861

皆さんは明治天皇が大室寅之祐にすり替えられた、という説を聞いたことあるだろうか?

それらは根も葉もない虚説である。


以下の根拠を上げる。


まず、そもそも、世襲親王家(皇位継承資格者)がそんな天皇を認める訳がない。


陰謀論者が明治天皇として広めているこの写真は伏見宮貞愛親王を写したものである。

                

伏見宮貞愛親王 (1858年- 1923年)
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n297974

「貞愛親王逸話」(佐藤愛麿著/伏見宮家蔵版/1931年)「御少年時代(御家来と共に)
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n297974


親王宣下を受けた伏見宮邦家親王(1802年 - 1872年)が、明治維新の時に健在であられ。
邦家親王の跡を継いだ、伏見宮邦家親王第14王子である伏見宮貞愛親王は孝明天皇の養子になられており。


伏見宮邦家親王は孝明­天皇を亡くした、睦仁親王(明治天皇)の後見人のような形­­­に­­なっており。明治天皇の皇女は、次々­と伏見宮系の王子の妃となられている。


皇統断絶の危機の事態には、伏見宮邦家親王の系統に皇位を移す準備をして­­いた­­­のは明らかであり、中山忠能や摂政の二条斉敬など、孝明天皇と睦仁親王をよく知る人物ですり替えを支持した人物はいないばかりか、孝明天­皇の信頼の篤かった側近や堂上公家を騙すことは不可能である。

かつまた、すり替えが事実であればこれ等の人々が明治になっても皇室につかえる道理もなく、必ず皇位継承をめぐる争いになっていたことだろう。


顔見知りの他の皇族との物理的な婚姻関係はすり替えが無かったことの有力な証拠の一つである。


このような状況下で睦仁親王をすり替える事などは不可能であり、絶対にあり得ないことは誰の目にも明らかである。


尊皇攘夷思想が蔓延していた幕末において、そんなことをしたら、「朝敵」長州藩を徳川家はもとより他藩の志士が黙っている訳がなく、内戦の長期化により欧米の植民地になっていたことだろう。

明治天皇に対し大政奉還した母方が皇族で水戸出身の尊皇家である徳川慶喜が許す訳もない。

それに敵対する旧幕府側・奥羽越列藩同盟に伏見宮邦家親王の第9王子であり孝明天皇の義弟でもある、北白川宮能久親王がいるのにすり替えなどは到底考えられない。

何故なら幕府に対しての不当なクーデターの正当性として、錦の御旗を掲げる新政府軍はその時点で正当性が失われるからです。


そもそも自分たちの意見で操ることができる、都合のいい幼帝をわざわざ殺して入れ替える動機がそもそも無く
井上毅が世襲親王家を永世皇族とし、それをすり替わったとする天皇が認める訳もない。

当時の明治天皇は14歳の成長期である。

成長期には、身長・体格及び声帯の変化を経て成人となり、人格が形成される。

身体的特徴及び性格の変化は成長期には誰しも起こる一般的な変化である。

ましてや激動の時代に天皇位ともなれば、即位に伴う精神的変化は劇的なものであった事は察するに余りあり、その事は何の根拠にもならない。

それに明治天皇は御所言葉をお話になられており、御所言葉を一朝一夕で覚えられる訳もない。

陰謀論者はフルベッキ写真に明治天皇が写っていると言うがフルベッキ写真が明治維新の
立役者が全員そろった写真であるという奇説は、それを覆す原版の発見によって、完全に否定されており。

さらに、東京歯科大学­法人­類学教室の橋本正次教授がフルベッキ写真を検証したところ99パーセント別人という鑑定が『鑑定書』付きで出ています。

「維新」の根拠となる、天照大神の神裔、神の血統である南北両統の皇統を否定してまでも、いわゆる後南朝にすり替える理由もない。

明治44年に明治天皇の裁定により、南朝の2代2人(後村上天皇、後亀山天皇)を正統な天皇と認め、光厳天皇から後円融天皇までの 5代5人を北朝として正統から外したが、明治天皇は北朝の五帝の祭祀については従前どおり行うよう指示したとされ、皇室祭祀等においては天皇として扱われている。

明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の正当性を認めたものであり、そのことは最終的に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した明徳の和約までを否定するものではない、

したがって現在の北朝の天皇の正統性を否定するものでもない。

南北朝正閏論は「南朝も正統」あるいは「南朝は正統」であって、熊沢寛道など自称南朝後胤を除きいわゆる後南朝の正統性は明治時代の後でも議論にもなっていない。


第二次世界大戦後、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人である、三浦芳聖が田中光顕から「明治天皇は実は南朝の正統である」という「秘説」を聞き、ならば自分はあえて皇位を要求しない、として天皇家の擁護派に回ったとするが。

三浦芳聖 の『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は自費出版で絶版でとても歴史学的な証拠に成り得ない。

以上、これらの根拠からすり替えは無かったと断言する。


【追記】

虎の子という言葉があるが、薩長にとって正しく 睦仁親王は虎の子であった。

しかるに、「君臣豊楽」、「国家安康」の故事を引くまでもなく、政治とは微妙なバランスの上に成り立っている。

かの太閣殿下の堅牢な大阪城・豊臣政権もかくの如く哀れな末路。

このように、どんな一文も攻撃の口実に利用され、どんな政権でも滅ぼされかねないのに、ましてや不安定な時期に親王をすり替えるなど言語道断、政治力学的に不可能である。


仮に、恐れ多くも天子様を傀儡にしたあげく、どこの馬の骨とも知らぬ者にすり替えたとすれば、そのような事はすぐに広まり、尊皇でありこそすれ、引いた徳川、並びに幕臣及び諸藩一党、不倶戴天の敵・逆賊薩長相手に捲土重来・一意奮闘、戦っていたであろう。


1874年 明治天皇第三皇子 大正天皇ご生誕

明治天皇の皇子は男子5人、女子10人がいたが、成人した男子は大正天皇ただ一人である。

大正天皇ご誕生から昭和天皇ご誕生まで皇統(明治天皇の男系系統)の危機であった。

1886年 伏見宮邦家親王第17王子 定麿王 親王宣下を受け、明治天皇猶子となり名を依仁と改める。

1889年 皇室典範 永世皇族制を採用         

1901年 大正天皇 第一皇子 昭和天皇ご生誕

1902年 大正天皇 第二皇子 秩父宮雍仁親王ご生誕

1905年 大正天皇 第三皇子 高松宮宣仁親王ご生誕

1907年 皇室典範増補第1条「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムコトアルヘシ」

1908年 竹田宮恒久王と明治天皇第六皇女 昌子内親王ご成婚

1909年 北白川宮成久王と明治天皇第七皇女 房子内親王ご成婚

1910年 朝香宮鳩彦王と明治天皇第八皇女 允子内親王ご成婚

             全て伏見宮邦家親王の系統の王子。

1915年 大正天皇第四皇子 三笠宮崇仁親王殿下ご生誕

1920年 「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」

   

宣仁親王ご生誕から、皇族降下準則までの15年間(1905年〜1920年)は大正天皇の皇子の元服までの期間。

当時は幼児死亡率も高い上に大正天皇以外の明治天皇の男系の皇子は早年で薨去されたため。

事と次第によっては伏見宮邦家親王の系統に皇位を移す可能性もあったと思われる。

そのために邦家親王系の王子と明治天皇皇女の間で婚姻が成立している。

大正天皇は4人もの男子を授かり、明治天皇の系統の皇位継承資格者が確保されたことで一先ず安定し、

皇室の肥大化が問題になり皇族降下準則を定めた。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n297974  


21. 中川隆[-12001] koaQ7Jey 2018年5月05日 03:20:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13231]
田布施システム(笑)明治天皇すり替え説・後南朝替え玉説は大嘘【幕末の真実〜西郷隆盛本当の顔】

陰謀論者が広める伏見宮貞愛親王、明治天皇、西郷隆盛等々の幕末明治の偉人達の偽キャプション写真や「奇兵隊天皇」や後南朝を検証する
更新日: 2018年04月16日
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101

明治天皇として陰謀論者の間で広まってるこの写真は
伏見宮貞愛親王 (1858年-1923年)を写したものである。
明治天皇ではない。


「貞愛親王逸話」(佐藤愛麿著/伏見宮家蔵版/1931年)「御少年時代(御家来と共に)


奇兵隊の天皇なんて存在しない

前後の事柄に因果関係はなく、差し迫った出来事を箇条書きしただけと思われる。


これから元服する明治天皇の父は崩御された孝明天皇であると記された文献がすり替え説の根拠になる訳が無い。


『中山忠能日記』


出典
dl.ndl.go.jp


『中山忠能日記』

(『正心誠意』)
慶応三年 七月十九日

謂況以御冠禮之故被縮父帝之諒闇之条甚不可然欤尚可有熟慮示答卿甚 
不服之氣、井蛙徒 不弁大道悲哉 正三又光仁帝之列可然稱賛之由
一、攝政拝面お八百姪 事申入置―
一、去十日自加州異人上陸
一、寄兵隊ノ
(段落)
天皇来正月上中旬之内御元服御治定之事

まず、そもそも後南朝は滅亡しています。

『群書類従』第拾參輯「嘉吉記」


出典
dl.ndl.go.jp


『群書類従』第拾參輯「嘉吉記」


「南帝を輙く弑し奉り。三種の神器を取持て忍び出ける。吉野十八郷の者ども起て急に追懸る。御頸をば中村太郎四郎給て出けるが郷人に討れ。とりかへされにけり。三種の神器をば。間島其外の者共持奉て罷上り。内府へ此由申す。」

後南朝の皇子が殺され、再び奪われたものの、三種の神器(神璽)は取り返されて後南朝は滅亡している。 その後の後南朝の正統な末裔などは西陣南帝などを除き確認されてない。

『昭和史の謎を追う』熊沢天皇始末記  後南朝の皇統(川上村伝承)


「昭和史の謎を追う」熊沢天皇始末記の一節からスキャンした画像です。
南朝の血統の行方を記す最後の信用できる史料が記す「長禄の変」について説明がなされています。

田中義成博士「南北朝時代史」の長禄の変の項には「吉野の山奥に尚南朝の皇子二人御座し・・・・・共に御名並びに御系統を審らかにせず・・・」の記載がある上月記、赤松記を紹介して、これ以上の資料がまだ発見されておらず、今後も期待が出来そうもないと論じられています。

他に南朝の末裔と伝えられる家といえば、鹿児島の後醍醐天皇皇子懐良親王を祖と称する後醍院氏や、後醍醐天皇の孫で宗良親王の王子の尹良親王を祖と称する津島神社社家の氷室氏や大橋氏等以外にはないと思われるが。それらは臣籍降下した後醍醐源氏であり皇位などは以ての外であろう。

一部の陰謀論者は神皇正統記や神皇正統記に影響された大日本史などの水戸学・国学の尊皇攘夷思想の結果、南朝天皇のすり替えがおこったと意味不明な説明をするが

『神皇正統記』―「伏犠氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六。乱のはなはだしさ、云にたらざる者哉。」


出典
www.j-texts.com


『神皇正統記』―「伏犠氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六。乱のはなはだしさ、云にたらざる者哉。」


(伏羲(前3308年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王。)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。)

『神皇正統記』
「唯我国のみ天地ひらけし初より今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓の­中におきてもおのづから傍より伝へ給しすら猶正にかへる道ありてぞたもちまし<ける」


北畠親房「我が国のみ、今の世の今日に至るまで皇統は連綿と続いている。」


神皇正統記には、「一種姓の中で傍系継承であっても正しきにかえる道があって皇統は保たれてきた」とあるので、現在の公式的立場である南朝が正統で、南朝→北朝の皇統は矛盾せずに成立し得るが。
皇位にもついていない、系譜も定かではない、自称後南朝→明治天皇などを正統とするロジックは神皇正統記や大日本史には記されていない。

明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の
正当性を認めたものであり、そのことは最終的に
南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に
三種の神器を渡し、南北朝が合体した
明徳の和約までを否定するものではない。
後南朝が絶たれ、三種の神器が取り返され、明徳の和約の両統迭立は履行され得ない。

現在の皇統は北朝なのに皇居前に楠木正成像があるのはおかしいという者がいるが


北朝側の立場から描かれている史料である
『梅松論』には
「最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。」

と記されている。


北朝側の立場から描かれている史料の『梅松論』楠木正成のこと―「賢才武略の勇士」「敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり」


『梅松論』
「今度は正成、和泉・河内両国の守護として勅命を蒙り軍勢を催すに、親類一族なほ以て難渋の色有る斯くの如し。況や国人土民等においておや。是則ち天下君を背けること明らけし。然間正成存命無益なり。最前(まつさき)に命を落とすべきよし」申し切りたり。最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。」

その死を「敵も御方も惜しまない人はいない」 その栄誉を称えた楠木像があっても当然で、何ら不思議はない。


敵味方、南朝側・北朝側にかかわらず、楠木正成は忠臣・勇士扱いであり、皇居外苑にその栄誉を称えた楠木像があっても当然で、何ら不思議はない。


「フルベッキ写真」伝説覆す原板 幕末の志士集合写真→実は佐賀藩校の生徒


2013年04月24日読売新聞  東京朝刊 文化 27面

佐賀藩が幕末、長崎に設けた藩校・致遠(ちえん)館で教育にあたったオランダ生まれの宣教師フルベッキ(1830〜98年)と佐賀藩士ら計7人が写った古写真のガラス原板が見つかった。


(上の写真)
写真=見つかったガラス原板。前列の右がフルベッキ、その左隣が伊東次兵衛とみられる(倉持さん提供)

二つは同時期の撮影と考えられ   「原板からも志士の集合写真説は完全に否定された」


記録から明治元年(1868年)に写真家・上野彦馬が撮った可能性が高いという。撮影者や撮影日が分かる古写真は珍しく、貴重な発見だ。
 縦7・8センチ、横10・7センチ。個人所蔵の資料から倉持基・元東大特任研究員(歴史写真学)らが確認した。古写真研究家の高橋信一・元慶応大准教授によると、原板に写る佐賀藩士の一人で、中老などを務めた伊東次兵衛の日記に、明治元年10月8日に長崎にあった上野彦馬の写真館にフルベッキらと出かけ、写真を撮ったことが記されている。「若い武士は月代(さかやき)をそっておらず、時期は幕末から明治期。日記にある通り明治元年の撮影と考えられる」と言う。


志士の写真ではあり得ない。だが、約40年前に「慶応元年(1865年)に志士が長崎で撮った写真」とする説が出され、写真に名前をつけたものが売られたことから、「志士の集合写真」として広まった。


写真=幕末志士の集合写真と言われている「フルベッキ写真」。フルベッキが中央部分に写っている

興味深いのが、西郷隆盛や坂本龍馬ら幕末の志士が写っていると言われる「フルベッキ写真」との関係。フルベッキを囲んで多数の武士が写るこの写真は、もともと明治時代に致遠館の生徒の写真として世に出ており、龍馬没後の明治元年に同館に留学した、岩倉具視の息子2人が写っている点などからも、志士の写真ではあり得ない。だが、約40年前に「慶応元年(1865年)に志士が長崎で撮った写真」とする説が出され、写真に名前をつけたものが売られたことから、「志士の集合写真」として広まった。

しかし、原板と比較した結果、伊東以外の6人が「フルベッキ写真」にもほぼ同じ姿形で写っていた。このため、二つは同時期の撮影と考えられ、高橋さんは「原板からも志士の集合写真説は完全に否定された」とする。


原板には致遠館の教官も確認されるといい、「フルベッキ写真」が同館の生徒らを写したものであるのは間違いないようだが、「研究があまり進んでいなかったため、史実と離れたイメージが独り歩きしてしまった」と倉持さんは苦笑する。
古写真を歴史資料として生かすには、実証的な研究が欠かせないことを、今回の発見は改めて教えてくれる。(大阪文化・生活部 早川保夫)

元治元年12月「島津久治公と薩摩藩士一行」 テリー・ベネット「Early Japanese Images」


元治元年12月から慶應元年1月にかけて薩摩藩主島津忠義の名代で島津久治と珍彦が長崎のイギリス艦隊を表敬訪問した時に、上野彦馬のスタジオで撮影された写真であることは以前から知られていた。

島津久治の長崎訪問については「写真サロン」昭和10年12月号で、古写真研究家の松尾樹明が「写真秘史 島津珍彦写真考」として説明しており、写っている人物数名を明らかにしている。
また、昭和43年刊行の「図録 維新と薩摩」には13名中11名の名前が上げられているが、西郷隆盛従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。」
加治将一「西郷の貌」の問題点
http://bit.ly/2jPqjaZ

この写真に西郷隆盛 従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない


出典
pro.cocolog-tcom.com


西郷の遺族、親族列席の上にて「此こそ翁の真像」との決定を与えられ、イト子未亡人に贈呈されたのがキヨッソーネの西郷隆盛の肖像である。


西郷の遺族、親族列席の上にて「此こそ翁の真像」との決定を与えられ、イト子未亡人に贈呈されたのがキヨッソーネの西郷隆盛の肖像である。


キヨッソーネは西郷とゆかりの深い得能良介からのアドバイスなど西郷の縁者の意見の結果、下半分は従兄・大山巌をモデルに上半分は弟・西郷従道をモデルに西郷の肖像を描き上げたのだから、かなり実像を捉えた肖像だと思われる。


西郷と直接的に会った顔見知りの絵描きが描いた肖像画という複数の傍証が存在するので「このような顔」だったことは間違いない。


服部英龍/画(上段左)
肥後直熊/画(上段右)
床次正精/画(下段左)
石川静正/画(下段中央)
平野五岳/画(下段右)

西郷の肖像といえばキヨッソーネの肖像画が有名だが、他にも西郷に直接会った顔見知りの絵描きが描いた肖像画という複数の傍証が存在している。
親戚縁者のお墨付きがあるので「このような顔」だったことは間違いない。

伝源頼朝の肖像と違い、キヨッソーネの西郷の肖像画は縁者の意見をもとに間違いなく西郷本人を描いた肖像である。

「西郷隆盛の肖像」佐藤均/画 “隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれる。”


「もと荘内藩 士族の石川静正が、明治3年11月鹿児島に練兵修行に赴き8年4月にも再訪し、西郷の風容に接した。このときの印象をもとに年月をかけ隆盛の肖像を描いた。これを見た薩摩出の洋画の巨匠黒田清輝が、肖像画家として令名の高かった門弟佐藤均に勧め、苦心の上、大正2年に完成したのが此の肖像。隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれる。」(「安藤英男『西郷隆盛』 学陽書房」)


西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、 亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で 出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。


上野の西郷像の公開の際に招かれた西郷夫人 糸子は
「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」
といった意の言葉(薩摩弁)を漏らしたというが。

「 西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、
亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で
出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。 」

つまり、上野の西郷象の風体、
正装ではなく浴衣で着流しという
だらしない姿に「こげんなお人ではない」と言ったのが真意だったのだ。


ドイツで発見されたとされる真偽が怪しい西郷隆盛 ※撮影は明治7年となっているが明治8年太政官布告第54号(勲章制定ノ件)から始まった勲章をつけている。


※「ほとんどの人物が陸軍の軍服を着ていますが、川村純義と勝安房は海軍所属のはずです。これはまったくお笑い種です。海軍の人間が陸軍の軍服を着るような、そんなことは起き得ないことです。http://bit.ly/2gcZqgy

研究者の高柳毅氏は「軍服が意外」「これまでいろいろ写真は出てきたが、すべて偽物だった」
歴史教師の浮世博史氏は「撮影は明治7年(1874年)となっているが、西郷はその前年の明治6年に征韓論で敗れて下野、7年には東京にいなかった」と指摘。
http://bit.ly/2fgSUTe

鹿児島の西郷像のモデルになった石澤宏太郎氏は構図と体型そして雰囲気のモデルであって、鹿児島の西郷象の顔はキヨッソーネの肖像画がモデルである。


元山形県議会議員の石澤宏太郎氏


キヨッソーネの西郷の肖像画を参考に作られた鹿児島の西郷隆盛の銅像
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101


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血統妄想 [ Descent delusion]統合失調症や躁病などの症状として現れる。
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?page=2


血統妄想とは、「自分は王侯貴族のような高貴な血統の生まれだが、事情により一般家庭で育てられた」などと思い込む、誇大妄想のひとつ。ミニョン妄想とも呼ばれる。
血統妄想は、統合失調症や躁病などの症状として現れる。


出典
ミニョン妄想 - 意味・解説 美容外科用語辞典


血統妄想の場合は、自分をより偉く、より強く見せるという願望から、自分の血統を誤った状態で信じ込んでいるというケースに至ることが多いようです。
ただの思い込みのレベルではなく、実際にそうである者として行動、言動を行うという点に問題があります。
周りの人から見れば、やはりそれは「危険な人」という認識をせざるを得ないでしょう。
血統妄想は、天皇陛下の隠し子であるとか、織田信長の生まれ変わりとか、そのような思い込みが多いようです。
つまり、現状の自分で満たされない部分を、血統という安易なステータスの向上によって補うというものです。


出典
血統妄想

第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。


熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日)


熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする

昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが拒否される。


歴史学者は熊野宮信雅王の実在を否定し、反熊沢キャンペーンを展開、さらにGHQの昭和天皇利用方針が固まると、世間は熊沢天皇に次第に冷ややかになっていった。情勢を打開すべく、1947年(昭和22年)3月政治団体「南朝奉戴国民同盟」の総裁に就任したり、同年10月に正皇党を結成して、党首として選挙で候補者を立てるが失敗する。その後、熊沢は多くの側近、それに妻子にまで見捨てられた。

サンフランシスコ講和条約が成立すると、人々の熊沢への関心も次第に薄れていった


その後も、折に触れ週刊誌や同人誌のネタとなっていた熊沢は、支持者の家を転々としながら、映画の幕間のアトラクションに登場して南朝の正当性を訴えるなどの活動を続ける。1957年(昭和32年)、尊信天皇に自称天皇を譲位し、法皇を自称するようになり、1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙では天皇廃止論を主張したという理由で日本共産党の神山茂夫の支持を表明した。1966年(昭和41年)6月11日、東京の板橋病院で膵癌のため死去。晩年は東京池袋の人生横町に間借りし、著書『日本史の誤りを正す』の編纂に専念していた


第二次世界大戦後、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人である、三浦芳聖


三浦芳聖が田中光顕から「明治天皇は実は南朝の正統である」という「秘説」を聞き、ならば自分はあえて皇位を要求しない、として天皇家の擁護派に回ったとするが。 三浦芳聖 の『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は自費出版で絶版でとても歴史学的な証拠に成り得ない。

三浦の主張は以下の通りである。

「南朝には、1336年(延元元年)10月に後醍醐天皇から皇位を継承して北陸に落ちた神皇正統の皇統(北陸朝廷#三浦芳聖の主張する北陸朝廷)と、後醍醐天皇が陽動作戦のために吉野に設けた偽装朝廷である副統の「正副二統」が存在した。擬天皇である後亀山天皇(三浦の主張では「熙成王」)が、足利義満の謀略により合一した後、正統の天皇は三種の神器を封印して地下深く埋蔵し、民伍に隠れ、今日に至った。三浦家は、その正統の皇統家の嫡孫である。」


出典
三浦芳聖 - Wikipedia


自称「大室天皇」の誕生


「ニセ天皇」かく語りき(『新潮45』2005年10月号)


「大室天皇の存在が、一部の歴史研究者の間に噂されるようになったのは1980年代初め頃である。いわゆる「ニセ天皇」としてはごく新しいデビュー(?)といえよう。
大室家は南朝の末裔という。大室天皇こと大室近祐(1904〜1996)によると、慶応3年(1867)に北朝系の孝明天皇の皇子・睦仁親王が近祐の祖父の兄にあたる大室寅之祐とすりかえられたという。それは長州藩と岩倉具視ら公卿の画策によるものであった。それが本当なら、明治天皇とは大室寅之祐に他ならず、近祐は明治天皇の弟の孫ということになる。
 ハイヤーを下りて、表札を確かめ、玄関に立つ。庭先には「史跡 大室遺跡(弥生時代)」という表示杭が立っていた。
 家族の方の取次ぎがあり、やがてがっちりとした体格の老人が私たちを出迎えに現れた。

「明治天皇のことですか。まあ、こっちに来てください」
 家の離れに建てられたプレハブの倉庫、その中には大量の巻紙が積み上げられていた。大室天皇はその巻紙の一つを抜くと代の上に広げ、私たちに指し示した。紙面に踊るは「瀬戸内海―エジプトの神セト」「聖母マリア」「十字架の地」といった書き込みだ。彼は上機嫌で語った。


その内容は、大室遺跡は宇宙の中心、あらゆる宗教の発祥地であり、大室家はそれを守る家である、といったものである。いつまでたっても、南朝なり、明治維新の裏面なり、のことは出てこない。
 そこで明治天皇すりかえ説のことに水を向けようとしても、大室天皇曰く、明治天皇がこの家で生まれたことなど、宇宙全体からすれば、ささいなことにすぎないから、というわけで、またも新たな巻紙を広げ、大室家は世界の中枢、といった内容の話を始める。
 大室天皇の語り口からは、その純朴さと熱意とが伝わってはきたが、とても歴史の参考にはなりそうもない。」


出典
熊沢・長浜・大室・・・・・・「ニセ天皇」かく語りき(『新潮45』2005年10月号) 熊野孤道

「大室遺跡は宇宙の中心、あらゆる宗教の発祥地であり、大室家はそれを守る家である、といったものである。」


「その純朴さと熱意とが伝わってはきたが、とても歴史の参考にはなりそうもない。」

大室近祐

「高松宮殿下、ご災難(昭和五十八年八月二十五日 朝日新聞)」
山口県田布施町御訪問中の高松宮殿下に対し、
同町在住の大室近祐容疑者(82)が古今未曾有の暴挙に及び、
その場で逮捕される。
大室容疑者は毎日、明治天皇は南朝満良親王の二十五世の末裔、
大室寅之助なりなどと意味不明の発言を繰り返しており、
現在同容疑者に余罪があるものと追及中。
今回の事件で鹿島昇なる徳弁護士(横浜弁護士会所属)を顧問として
今回の犯行に及んだ模様。同弁護士も今回の事件に関与したものとして
追求、横浜弁護士会では弁護士資格の剥除を決定。
大室容疑者は精神鑑定のうえ、八王子特別鑑別所へ収容される模様」
http://bit.ly/2kTdpcF

この説は鬼塚英昭のオリジナルではなく、歴史研究家の鹿島昇や郷土史家の松重揚江によるもの。田布施の隣の柳井市の郷土史家、松重揚江氏が、近所で変わり者扱いされていた「大室近佑」という古老(写真は鹿島昇『日本王朝興亡史』より)が、自分の爺さんは天皇になったと言っていたことから、鹿島昇と聞き取りを開始し、それからこの近佑の祖父が明治天皇になったという説ができたわけだ。


出典
陰謀論「田布施システム」とはなにか −三宅洋平氏が信じる日本近現代史とユダヤの陰謀論 | Football is the weapon of the future


陰謀論者の「リチャード・コシミズ」、「鬼塚英昭」という人物が明治天皇すり替え説の論者としているが、コシミズの本を出版し、鬼塚英昭の書いた本のすべてを出している出版社の成甲書房は朴­甲東という、朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者である在日朝鮮人が設立した会社である。


陰謀論者、リチャード・コシミズ


陰謀論者の「リチャード・コシミズ」


竹細工職人、鬼塚英昭


出典
ja.wikipedia.org


大分県別府市生まれ。大分県立別府鶴見丘高等学校卒業、上京し中央大学法学部に入学する。働きながら大学で学んでいたが学費が払えず中退。故郷の別府にて家業の竹細工職人となる。
2016年1月25日死去。78歳没。


鬼塚英昭の書いた本のすべてを出している成甲書房は朴­甲東という、朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者である在日朝鮮人が設立した会社である。


出典
page.auctions.yahoo.co.jp


http://ja.wikipedia.org/wiki/成甲書房
朴甲東によって1979年日本で設立。
朴甲東は1919年朝鮮慶尚南道に生まれ、1941年早稲田大学卒業後朝鮮へ帰国し、朝鮮独立運動に身を投じ抗日パルチザン「朝鮮独立同志会」を組織する。
戦後朝鮮共産党機関紙「解放日報」記者を経て、南朝鮮労働党に合流。1948年朝鮮民主主義人民共和国が建国されると、文化宣伝省ヨーロッパ部長になるが、1950年金日成の粛清により逮捕、監禁される。
1956年釈放されると翌年に北朝鮮を脱出し、日本へと逃れて金日成政権批判を続けた。同じ南朝鮮労働党出身の朴正煕とも親交があった

鹿島昇が大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。


山口県熊毛町田布施町在住の大室近祐(平成8年没)という人の裁判で弁護人に選任された事で大室氏と知り合い、大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。


桓檀古記―20世紀に作られた朝鮮半島の偽書。


出典
ja.wikipedia.org


桓檀古記―20世紀に作られた朝鮮半島の偽書。


鹿島昇は新国民社を設立後。
1978年倭と王朝を出版し、これが韓国で話題となり、これが機縁となって朴蒼岩氏や李裕ャ氏と知り合い、韓国の20世紀に作ら­れた全くの偽書である桓檀古記を委託された。この書から全訳桓檀古記を出版。

他には、同和差別問題に取り組んでいたという。鹿島­昇の背後には大韓民国在郷軍人会日本支部(もしくは統一教会)が関係しているといわれる。
1987年に松重正、または松重楊江と出会い、自分の大叔父(大室寅之祐)が
睦仁親王を殺害して明治天皇になったとする、大室近祐という人物に会いに行き。その後日本侵略興亡史を出版し、すり替え説を書いたのだ。


韓国の超民族主義者の聖典である桓檀古記―国粋的歴史観を持つ韓国人を卑下してファンパというが、この書から生まれた言葉である。


ファンパという言葉は、韓国の在野史学で韓民族(朝鮮民族)の過去の歴史を語るときに根拠とする『桓檀古記(환단고기、ファンダンゴギ)』に由来する。つまり桓檀古記の内容を非常に信頼して、韓民族の初代国家である古朝鮮の領域は黄河以北の大陸全般をカバーしていたと信じている。

http://mottokorea.com/mottoKoreaW/Vocabulary_list.do?bbsBasketType=R&seq=26677

鬼塚英昭に影響を与えたのが、この鹿島昇ともう一人、松重楊江である。 そして鹿島昇の設立した会社を継いだのが太田竜なのである。


← ja.wikipedia.org/wiki/太田竜
太田竜とは、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。反家畜制度、反米、フリーメーソンやイルミナ­ティのような秘密結社を含む反ユダヤ主義、反国際金融支配論者。人類は爬虫類人によって支配されているという説を取り込んだ。2­009年5月19日腹膜炎のため死去。


松重楊江(日韓親善協会、日中親善協会会員)


もう一人の松重は鹿島の本に影響を受けた日韓親善協会、日中親善協会会員でもある共産党員である。


明治天皇すり替え説が広まった流れとして、第二次大戦後の自称南朝の自称天皇ブーム、熊沢天皇(熊沢寛道 )・三浦天皇(三浦芳聖)等そして、三浦が『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を自費出版→トンデモ歴史家鹿島昇、松重楊江が自分は南朝で大叔(大室寅之祐)が明治天皇になったとする田布施の変人である大室近祐と出会い、鹿島が明治天皇すり替えを書いた『日本王朝興亡史』を出版→日本で革命を起こしたい共産主義者や新左翼(太田竜、鬼塚英昭)がそれらと出会い、朝鮮系、トンデモ系、陰謀系の出版社で本を出版→それが今知られているすり替え説です。

おまけ 万世一系の日本の皇室を羨む中国・朝鮮

天壌無窮の神勅―『日本書紀』「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。」


『日本書紀』
「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。」


「葦原千五百秋之瑞穂國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之降、當與天壤無窮者矣。」
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?page=2


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天孫降臨
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?&page=3

出典
teikoku-denmo.jp


天孫降臨


天壌無窮の神勅―
現代語訳:
「日本国は、我が子孫が王たるべき国である。さあ瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)よ、行って、しっかりと治めなさい。恙(つつが)なくお行きなさい。天津日嗣(あまつひつぎ;寶祚=皇位)は、天地と共に永遠に栄えることでしょう。」


神武天皇


高天原から天降ったニニギの曾孫
第一代天皇,神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四皇子。九州日向(ひむか)から東進して大和地方を平定,紀元前660年(皇紀元年),大和の橿原宮で即位したという。

歴代天皇と世界の帝国興亡史

北宋の第2代皇帝・太宗も驚く日本の皇室


『宋史』日本伝「北宋の太宗は、その国王(日本の天皇)は一つの姓で継承され、その臣下も官職を世襲して絶えることが無いと聞き、嘆息して宰相にいうには...

『宋史』日本伝「これは島夷であると言うのに、代々の位は遥かに久しく、その臣下もまた世襲していて絶えていない。これぞまさしく古の王朝の在り方である。」

太宗(たいそう)は、北宋の第2代皇帝(在位:976年11月15日 - 997年5月8日)。太祖趙匡胤の弟。諱は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、即位してからはQ(日の下に火)に改めた。


『宋史』日本伝「これは島夷であると言うのに、代々の位は遥かに久しく、その臣下もまた世襲していて絶えていない。これぞまさしく古の王朝の在り方である。」


中国は唐李の乱(李克用による禅譲)により分裂し、五代は王朝こそ継承したが、その期間は短く、臣下も世襲できる者は少なかった。我が徳は太古の聖人に劣るかもしれないが、常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、臣下の子等に官位を継がせることこそが我が願いである」


上聞其國王一姓傳繼臣下皆世官 因歎息謂宰相曰 此島夷耳 乃世祚遐久其臣亦継襲不絶 此蓋古之道也 中国自唐李之乱寓縣分裂梁周五代享歴尤促 大臣世冑鮮能嗣続 朕雖徳慙往聖常夙夜寅畏講求治本不敢暇逸建無窮之業 垂可久之範 亦以為子孫之計 使大臣之後世襲禄位此朕之心焉(『宋史』日本伝)


『宋史』(そうし)は、中国、元代に編纂された正史(二十四史)の一つ。宋(北宋・南宋)を扱った紀伝体の史書である。1345年完成。元のトクト(托克托・脱脱)が編纂した。16本紀47巻、15志162巻、2表32巻、197列伝255巻の計496巻。正史の中で最も膨大である。


出典
宋史 - Wikipedia


『宋史』では日本は巻四百九十一、列伝第二百五十、外国七において「流求」国の少し後で触れられている。「然が太宗に献上した『王年代紀』から引用して、天御中主から彦瀲尊まで23世と神武天皇から守平天皇(円融天皇)まで64世の系譜が述べられる。周の僖王の甲寅の年に神武天皇が即位したと記すが、日本書紀では即位は辛酉の年であり、甲寅は東征開始の年である。どちらも周の恵王の時代に当たる。


出典
宋史 - Wikipedia

聖徳太子が年3歳にして10人の言葉を聞き分けられたという逸話も紹介している。また日本が中国で滅失したものも含め多くの漢籍を蔵していることはこの頃から知られていたようで、「其國多有中國典籍」という記載も見える。記述は南宋寧宗(趙擴)の嘉泰二年の記事までで終わっている。


朝鮮通信使も羨む日本の皇室ー『日東壮遊歌』


『日東壮遊歌』とは第11次朝鮮通信使として来日した金仁謙の著書で旅行記である。


『日東壮遊歌』(にっとうそうゆうか、イルトンジャンユガ)とは、江戸時代の1763年(宝暦13年)から1764年(明和元年)にかけて来日した第11次朝鮮通信使(目的は徳川家治(在職1760年〜1786年)の将軍襲職祝い)の一員(従事官の書記)として来日した金仁謙(ko:김인겸、キム・インギョム、当時57歳)の著書で旅行記である。


『日東壮遊歌』大坂での記述より「天下広しといえこのような眺め、またいずこの地で見られようか。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという。」


『日東壮遊歌』
大坂での記述より

「天下広しといえこのような眺め、またいずこの地で見られようか。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという。この世界も海の向こうよりわたってきた穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、周の平王のときにこの地に入り、今日まで二千年の間世の興亡と関わりなくひとつの姓を伝えきて、人民も次第に増えこのように富み栄えているが、知らぬは天ばかり、嘆くべし恨むべしである。」


『日東壮遊歌』大坂での記述より「この世界も海の向こうよりわたってきた穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、」


「周の平王のときにこの地に入り、今日まで二千年の間世の興亡と関わりなくひとつの姓を伝えきて、」


「人民も次第に増えこのように富み栄えているが、知らぬは天ばかり、嘆くべし恨むべしである」


『日東壮遊歌』京での記述より「この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」


『日東壮遊歌』京での記述より「沃野千里をなしているが、惜しんであまりあることは、この豊かな金城湯池が倭人の所有するところとなり、帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」


『日東壮遊歌』京での記述より「惜しんであまりあることは...帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。」


第11次朝鮮通信使、金仁謙の著
『日東壮遊歌』
「この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」


「この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし」


「朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」


「倭王は奇異なことに何ひとつ知ることなく、兵農刑政のすべてを関白にゆだね、自らは関与せず、」


『日東壮遊歌』「倭王は奇異なことに何ひとつ知ることなく、兵農刑政のすべてを関白にゆだね、自らは関与せず、宮殿の草花などを愛でながら、月の半分は斎戒し、あとの半分は酒色に耽るとか」
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?&page=3


22. からか[1] gqmC54Kp 2018年8月13日 09:58:39 : XMeqcebCtw : swU6V1Cd2sA[1] 報告
逆賊新撰組や八重桜が震災復興とからめて美化されて大河ドラマにされているが、しょせんフィクションであることを
確認すべき。八重桜や戊辰戦争とその子孫東條とか、新撰組に資金援助していた今の関東連合や部落開放同盟?竹中?みたいな弾左衛門は天皇に弓引いた朝敵であるためである。そうした朝敵を靖国は独立系だからといってごちゃ混ぜに
祭ってしまうと天皇が東條同様敗戦の元凶なの?とおかしなことになるのは明白。天皇はこの国では負け側になることは有り得ないことを確認する必要があるわけであり、それらはわが国の国体維持にとって超えられない一線であることを理解できない一部の者が逆賊だけど日本人だからとか、信念が〜などと小さな弁明によって大きな損失を見せないようにしようという、イラクの3馬鹿みたいな左翼思想に他ならないというわけである。平清盛が栄華を極めたのに法皇や上皇や天皇サイドから逆賊となり、今や平家の落人は部落民扱いなのであるが、それは例え華族になれても天皇に弓引いた逆賊徳川とその穢れた遺伝子を撒き散らす名古屋土人や、皮革部落で有名な関東連合の江戸時代バージョンの弾左衛門、そしてそれらの飼い犬の逆賊新撰組、戊辰戦争の八重桜などが叩かれるのはそういう理由である。震災に陥ったことは非常に残念なことではあるが、現状の被災状況と当事の政治的闘争において因果関係を捻じ曲げてまで逆賊新撰組や逆賊戊辰組、その子孫東條を美化しようというのはNHKという大規模放送局が放映するにはいささかに稚拙過ぎるというわけだ。我々は地域の小英雄だけが全てなのではなく、小さな島国日本としてみた場合に当時として最も最適な政権を選ぶ自由や獲得闘争を引き起こすことは当然の権利であったので、単に福島が可哀相だから、徳川が部落扱いで可哀相だから、土方がゲイに人気有るから、という田舎の小英雄を美化したいからという理由だけで事実をどんぶり勘定することはよくないというだけの話である。これらの前提を踏まえれば、憲兵隊と新撰組と部落開放同盟の類似性も言わずもがなではあるが、アイヌ同様天皇家に弓引いた逆賊としてこの国の歴史上で既に処理された集団であり、だからこそ天皇否定に走る中国共産党系のような逆賊思想をこちらが正しい、本物だと煽ろうとするとすることが少しづつではあるが理解できるのではあるまいか。天皇のDNAでどの成分が検出されるにせよ、朝敵となった、ならないの事実に及ぶものではないため、仮に部落民の娘が部落民の立場をよくするために苗字が平とかいかにもな出自の娘を嫁がせてもそれで大逆行為というものが消えると言うわけではないので、この国の精神的国体維持にとってむしろ神経を逆撫でする結果にしかならないことを知るべきである。要するに新撰組や徳川や東條を美化することは、この国の日本人の日本国民の神経を逆撫でする精神であり、それらが例え、日本人の中で主流派から脱落した被差別部落のコンプレックスから来る物であっても、彼らだけが日本に住んでいるわけではないので新手な思想テロとしてむしろ弾劾されなければならないのである。これがまさしく極右と右翼の違いである。ヒトラーは昭和時代、日本人は天皇を大事にせよと伝えているが、当時の日本の宰相、東條と松岡はむしろその天皇から逆賊認定された非国民、もしくは隠れ非国民の出自であった為、こうした勢力はドイツよりもむしろソ連と組んで天皇制を廃止し江戸時代をさらに強化した東條幕府、八重桜幕府でも作り、占領地を大東亜共栄圏の小さなソ連にしたいとする意向が強いことが、自民族優先主義のエリート極右、ナチスドイツと国体解体、権力者による圧政支配と憲兵と言う被差別民による弾劾左翼支配のソ連左翼(半端な右翼)=これが実質左翼であり極左という構図が成立することになるのだ。要するに極右からみれば右翼というのは腐敗体制維持のために左翼が右翼ごっこをとった姿であり、それは無能な現体制を恐怖政治で強いる為に自国民に厳しい、もしくは虐殺を正しい犠牲と執行するのが右翼(この場合は極左)であり、腐敗体制を駆逐して、自国民の発展を促す為に無能な現体制を崩壊させ新秩序を作ろうというのが極右というわけである。明治維新は言ってみればナチ的でもあったが、それらは無能徳川と無能エタヒニンの根絶であり、昭和クーデターは中国共産党みたいな腐敗体制護持のための自国民犠牲当然主義者が陸軍士官学校を統制派で乗っ取り、かつての明治時代の逆恨みを自国民の抑圧で達成しようというポルポトや毛沢東のような極左革命でああったことが伺える。何より靖国神社をアピールすることで右翼のめっきを被ったことであり、これらが盲目的な愛国心を尽忠報国などして賛美しようとする見た目右翼の韓日友好、竹島提供みたいな右翼というよりは右翼(笑)に結びつくというわけである。靖国神社の東條庇い工作は八重桜や部落民新撰組徳川や東條を賛美しようとする右翼と言うよりは右翼(笑)の実質的左翼であり、この手法は文化大革命などの権力者による知的階層の絶滅工作に近いというわけだ。いや、本質的には同じである。ドイツはヒトラーによって日本の徳川や部落にあたるドイツ共産党は葬り、戦後分割統治されても目立った戦闘もなく東ドイツ、つまり左翼側から勝手にソ連崩壊に合わせて併合できている点が興味深く、彼らはその後ワイマル憲法時代の塗炭の状態からはいくぶんマシになっているだろうし、イスラム左翼が国家を荒らしまわり、ドイツを乗っ取ろうとする新しい問題に直面してはいるが少なくとも賠償金で踏み潰される状況ではないことから、敢えて暴れた意味はあったのかもしれないが、ある意味自国民優越主義のもたらした結果とその正反対なのが日本のポルポト東條や徳川、新撰組のケースである。こちらは自国民弾圧主義という反省、刑罰、虐殺主義である為、腐敗体制が内圧(明治)、外圧(米英)によって、なされ、現状は米英によって潰された分中国で言う香港のような状態となり、東條の左翼支配よりも米英の植民地支配のほうがまだマシになってしまったという馬鹿げた状態に陥っているという目を背けたくなるような状況にあることが分かるだろう。仮に日本をワイマルドイツぐらいに追い込むと極右が行動しやすくなるという歴史を踏まえ、自民党という左翼寄り政党と竹中のような部落民を用いて中間層を絶滅させ、アルバイトと移民にして自国民弾圧主義と自民幕府の形成を促したいと考えている連中が冒頭における八重桜美化、逆賊新撰組美化、東と日本は違う思想のばら撒き、文系学問に左翼思想の投入などを行い、有能層の弾圧と無能談合の為のコミュニケーション至上主義、この場合は完全なるコミュニストではあるが、実質左翼体制の達成だというだけの話である。これは内部左翼が自民であり、中国共産側からの支援による民主党、所謂外部左翼との違いこそあれ、どちらにも左翼的であるという類似点があるが、違いがあるのは自国民労働者を守ろうとする側がこの場合ドイツでいうワイマル否定派の極右サイド的であり、自国民労働者を絶滅させ、移民に置換しよう、反対派は粛清しようという犠牲必定主義が極左サイド的であるということである。安倍は低学歴ゆえに理解はしないだろうが、TPPに反対する左翼に屈しないといいながら、それは外部左翼に対しての言葉であるが、実質自民党と部落開放同盟のやっていることは内部左翼、ポルポト的な労働者絶滅、移民置換によるソフトな自国民弾圧思想であることから、彼らもまた左翼であるというわけである。左翼と左翼が食い合っているため、政権交代しても改善される問題もあるが、残る問題もあるどころか、外部左翼の悲願である人権侵害設置法案や外人参政権、自民と部落の派遣改悪法など恐るべき国家解体法が自民、民主両サイドから発生した事実からも知ることが出来るのだ。自民であっても民主であっても八重桜という自滅賛美はNHKみたいな大手が垂れ流し、自国民の労働者の雇用を派遣によってぶつ切りにして生活基盤を破壊し絶滅を試みようとする部落開放同盟を野放しにする小泉政権やその後継者安倍を含め、戦後米英の植民地であり続けたわが国はまさしくワイマルドイツのように左翼がストライキを起こして国家と国民の生活基盤を外国に売り渡し、滅亡させようとする勢力に満ち満ちている末期的状況であることを知らねばならない。敵はこうした滅びを善とする左翼勢力そのものであるが、名古屋土人を含めこの国のサヨクと言うのは非常に巧妙であり右翼の”皮”を着ることに長けているのであるが、近年ネットの台頭によってそうしたややこしい工作を看破することは容易となりつつあるのだ。今や若者は新聞やテレビを信用せず、むしろネットで相互情報を確認して話の根幹を知るようになり、より左翼の排撃というナチ的闘争に近付きつつあることは非常に喜ばしいことでもあるだろう。というのは極右勢力が不在なため、今まで愛国右翼の側を被った左翼な部落民どもが図に乗れたことが弾劾しやすくなったからである。面白いのは名古屋人という日本の天皇弓引いた逆賊の末裔どもやその下僕憲兵新撰組や平家のカムロみたいな被差別民どもと外部左翼の中国共産党系や北朝鮮などの外部左翼が権益を奪い合って殺し合いを始める点であろう。しかし、あくまでこの国を本当の意味で正しく導くことが出来るのはそうした内部左翼や外部左翼やどっちに転んでも自国民弾圧左翼となる自民民主ではなく、極右闘争に目覚めた我々でなければならないということである。この国は天皇を精神的柱としながら、無能な政治権力との決別の為の闘争によって統一されなければならないのであり、それは内部左翼と外部左翼の内ゲバによるものであってはならないのだ。自民民主が徳川、不良アジア人や部落開放同盟が憲兵や新撰組みたいなものであるが、明治時代はその両勢力を連続して克服しているという事実を忘れてはならない。在日支配と部落支配の壊滅こそ我々が真に望む闘争でなくてはならないのだ。自民と民主はそうした意味で末期的であり、真に自国民優越主義、自民族優越主義を望む者だけが破滅的状況を打破しうる唯一の存在であることを過去の克服闘争を再確認して知る必要があるといえるだろう。この国は名古屋人を始めとした天皇に弓引いた無能層どもの玩具に堕させてしまってはならず、それらは逆賊新撰組や逆賊東條、裏切りの靖国野郎との決別でもある。奴らは感情に訴えるだけで何の進歩のビジョンも見出さないどころかむしろその逆だ。破壊し破滅させるだけの、そして結果を予想できないが保身だけは直感的に感じる単なる一方通行感覚バカに過ぎないことを今一度確認しなければならないだろう。
23. 2018年12月08日 16:54:47 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-9749] 報告
孝明天皇暗殺の秘話【NET TV ニュース】国家非常事態対策委員会 2018/11/23
.
JRPtelevision
2018/11/23 に公開
https://www.youtube.com/watch?v=hlEv1kGQtws

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