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No.735 井上毅 〜 有徳国家をめざして(上)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/604.html
投稿者 堀川 日時 2012 年 2 月 18 日 01:51:08: YXgkZLRTFAguM
 

国際派日本人養成講座
http://blog.jog-net.jp/201202/article_4.html

大震災では、戦前の教育勅語が理想としていた生き方が、あちこちで見られた。

■1.「避難して」最後まで防災放送

 昨年3月11日、大地震の直後、宮城県南三陸町の防災対策庁舎から「6メートルの津波が来ます。避難してください」と冷静で聞き取りやすい女性の声で呼びかけが何度も繰り返された。

 この放送で多くの町民が避難できた。しかし、放送は途中で切れた。最後の方は声が震えていたという。3階建の庁舎は津波にのまれ、鉄筋しか残らなかった。庁舎に残った職員約30人のうち、20人が殉職した。

 最後まで放送を続けたのは危機管理課で防災放送担当をしていた24歳の遠藤未希さん。昨年7月に婚姻届を出し、今年の9月の披露宴に向けで楽しそうに準備をしていたという。

 避難所へ逃げることができた女性(64)は、「あの放送でたくさんの人が助かった。町民のために最後まで責任を全うしてくれたのだから」と語った。[1]


■2.「一旦緩急アレバ義勇公ニ報ジ」

 遠藤未希さんの生き様で改めて思い起こしたのは、「一旦緩急アレバ義勇公ニ報ジ」という一節である。「危急の際には、自らの義務を果たそうと、勇気をもって、公のために尽くし」というほどの意味だ。

 戦前の道徳教育で中核的な役割を果たしてきた教育勅語の一節である。現在では、戦前のものはすべて軍国主義で悪いものと決めつけられて、この教育勅語も否定され、忘れられてきたが、遠藤さんの防災放送担当として「義勇公に報」ずる生き方があったからこそ、多くの人々が救われたのである。

 遠藤さんだけではない。福島第一原発事故に身を賭して対応し、「福島の英雄たち」としてスペインのアストリアス皇太子賞を受賞した自衛隊、東京消防庁、警視庁の人々[a]、被災者支援に立ち上がったボランティアたち。みな「義勇公に報じ」た人々である。[b]

 国家の安全、国民の生活は、こういう人々の「義勇公に報」ずることで守られている、ということが、今回の大震災で明らかになった。

 もう一つ、東北の人々が着の身着のまま放り出されても強い家族愛、同胞愛を持って助けあう姿が、国民全体を感動させたが、これについても、教育勅語は次のように述べている。

__________
父母ニ孝(こう)ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和
(あいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ、恭倹(きょうけん)己(
おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆(しゅう)ニ及ボシ、

 父母に孝養をつくし、兄弟姉妹は仲良く、夫婦は仲むつまじく、友とは信じあい、自らの言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 被災地の人々が身をもって示してくれたのは、まさに教育勅語が理想として説いた生き方そのものであった。


■3.明治天皇の教育に関するご憂慮

 教育勅語は明治の代表的教育家・井上毅(こわし)が中心となって起草したものだが、その動機となったのは、明治の文明開化のなかで、何でも西洋風が良いとして、伝統的な道徳が見失われつつあった当時の社会風潮に対する危機感であった。

 それはちょうど、現代日本で、戦前のものはすべて封建的・軍国的だとして否定しながら、なんら新しい道徳を示せず、社会の混乱を招いているのとよく似た状況であった。

 積極的な西洋文明の導入により、社会全体に、欧米を一段高く見て、日本の歴史伝統を捨てて、欧米化しなければダメだ、という風潮が蔓延していた。

 当時の教育の状況について、明治天皇も憂慮されていた。天皇が地方を巡幸された時、ある学校では先進的な授業を見せようと、生徒に英語でスピーチさせた。ところが、陛下がその生徒に「その英語は日本語で何というのですか」と尋ねられても、生徒は答えられなかったという。

 明治12年、明治天皇は側近であり、ご自身で師と仰がれていた元田永孚(もとだ・ながさね)に命じて『教学聖旨』という一文をまとめさせ、政府首脳にお示しになった。そこには、次のような認識が示されていた。

__________
 最近、専(もっぱ)ら知識才芸のみを重んじ、文明開化のむしろ悪いところを学び、品行を損ない、風俗を乱す者が少なくない。

 その原因となっているのは、明治維新の始めにおいて陋習を破り、知識を世界に求めるとした卓見により、西洋の良い所を学び、文明開化の実を挙げたことは良かったとしても、その反面として、仁義忠孝を後にし、いたずらに洋風を競うような状況になってしまったことである。[2,p28]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■4.県知事たちの危機感

 しかし、問題は簡単ではなかった。内務大臣・伊藤博文は、この『教学聖旨』への反論書ともいうべき『教育議』を提出した。儒教の「仁義忠孝」を教育の根本に据えたのでは、信教の自由という近代政治の原則に悖(もと)ることになり、それは政府が率先してやるべきことではない、と主張したのである。

 この『教育議』を書いたのは、伊藤のブレーンであり、後に教育勅語起草の中心となった井上毅だと言われている。明治天皇のお考えを示した『教学聖旨』に堂々と反論を挑むところに、当時の自由、かつ真剣な議論ぶりが窺われる。

 しかし、この信教の自由の問題もあって、政府は具体的な手を打てず、事態はますます悪化していった。明治20年頃になると、米国からの留学帰りが、文部省の中で「学士会」という党派を組織して羽振りを効かせていた。文部大臣の森有礼(ありのり)は、英語を国語にしようとまで主張していた。

 教育の現場でも、小学生は少しでも数学や物理の初歩を学ぶと、たちまちその知識を誇って、大人を軽蔑するような態度をとっていた。中学生は、天下国家を論じ、校則を犯し、職員を批判し、紛争を起こす。

 明治23(1890)年に開かれた地方官会議(県知事会議)では、こうした事態に対する危機感から「徳育涵養の義につき建議」が採択された。そこにはこんな危機感が表明されていた。

__________
 このままでは実業を重んじず、妄(みだ)りに高尚の議論を振り回し、年長者をバカにし、社会の秩序は乱れ、ついには国家を危うくすることにもなりかねない。

 これは知育の一方のみが進み、徳育が同時に進んでいないからであって、今その救済策を講じなければ、他日必ず臍(ほぞ)をかむような悔いを残すだろう。[2,p42]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この建議をもって、全国の知事が打ち揃って、文部大臣に詰め寄ったものの、やはり宗教との距離をどう置くのかという問題にぶつかって、先へ進まなかった。


■5.「これは納得できない」

 このような状況をご覧になっていた明治天皇は、「徳育に関する箴言(しんげん)を編纂して、それを子供たちに教えたらどうか」と提案された。

 この天皇の命を拝した文部大臣・芳川顕正(よしかわ・あきまさ)は、サミュエル・スマイルズの『自助論』を翻訳してベストセラー『西国立志編』を著した中村正直(まさなお)に、草案の作成の委嘱をした。

 中村はもともと儒学者だったが、イギリス留学をきっかけにキリスト教徒に転向した人物で、作成した草案はきわめてキリスト教色の強いものだった。

 これを正式な内閣案にするためには、法令上の問題がないか、法制局長官のチェックが必要だった。しかし、当時の長官・井上毅はその草案を一読して、「これは納得できない」と断固、拒絶をした。
 儒教道徳を教育の根底に据えるのと同様、キリスト教に基づいた教育も、国民全体を教育する規範としては、受け入れられない、というのが、井上の考え方だった。

 しかし、これが井上毅が教育勅語に関わるきっかけとなった。


■6.「西洋に何を学べば、日本の独立を保てるか」

 井上毅は天保14(1844)年12月、熊本藩の下級武士の家に生まれた。4歳で『百人一首』を全部暗記して神童ぶりを発揮した。

 暗くなっても、小窓から差し込む光を頼りに本を読んでいる毅に母親が「勉強に根をつめず、暗くなったら早く寝なさい」と繰り返し注意していた。そこで毅は「ならばお母さんのご飯炊きを手伝う」と言って、暗いうちから起きて、かまどの火の明かりで本を読んでいた、という。

 長じて、藩校・時習館の居寮生(藩が俊才を10名ほど選抜し、藩費で寄宿させる制度)に抜擢された。20歳の時には、熊本藩の大先輩で、当時56歳、日本を代表する論客・横井小楠に論戦を挑んだ。

 開明派で「万国一体、四海同胞」を説く小楠に対して、「人類がみな兄弟と言うなら、なぜ西洋諸国は植民地支配という非人道的行為をしているのか」と堂々と論難した。

 井上毅は、鎖国ではやっていけない世界情勢を認識し、近代的な軍備を急ぐ必要があると説きながらも、「万国一体」などという美辞麗句に惑わされて、我が国らしさを失っては元も子もない、と考えた。

 23歳で明治維新を迎え、明治5(1872)年、司法省から抜擢されて、フランスに留学し、司法制度を学ぶ。しかし、井上には多くの留学生が陥ったような西洋崇拝も、一方的な日本卑下もなかった。「西洋に何を学べば、日本の独立と日本らしさを保てるか」という一点に徹して、研究したのである。

 たとえば、刑法、刑事訴訟法などでの西洋の進んだ人権の考えは取り入れつつも、民法などは国民の独自の習俗、慣習に基づいたものでなければ社会が混乱する、と考えた。

 帰国後、岩倉具視、伊藤博文のブレーンとなり、「日本の司法制度、裁判制度は井上毅によってつくられた」と評されるような業績を上げていく。


■7.「法は民族精神・国民精神の発露」

 明治13(1880)年から翌年にかけて、自由民権運動の高まりとともに、憲法制定や国会開設を求める運動が盛り上がった。政府内でも数年内に国会開設しようという急進派がいたが、井上毅はこれに危機感を抱き、岩倉、伊藤に漸進的な進め方を取るべきと説いた。

 この結果、明治14(1881)年の秋、明治天皇の詔勅(しょうちょく)により、22年に憲法制定、翌年に国会開設という方針が示された。これを受けて伊藤博文は、モデルとなる憲法を求めて、欧米視察に出る。

 伊藤がヨーロッパで師事したのが、政治・社会学の権威、ウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授だった。シュタイン教授は「法は民族精神・国民精神の発露」であり、国民の歴史の中から発達していくものとする歴史法学の考えを伊藤に教えた。[c]

 井上毅は国内で並行して欧米各国の憲法を慎重に比較検討しながら、具体的な憲法条文の研究を進めていたが、明治18(1885)年頃から、国史の研究に没頭し始める。

「法は民族精神・国民精神の発露」とするシュタイン教授の考えは、当然伊藤を通じて、井上毅にも伝えられていただろうし、それは日本らしさを失わずに、近代化を進めようとする井上自身の考えにも合致するものであったろう。


■8.凄まじい国史国典研究

 近代憲法の根基となるべき「民族精神・国民精神」の伝統を解明しようとする井上の勉強ぶりは凄まじいものだったと、国典研究の助手をつとめた国文学者の池辺義象(いけべ・よしかた)が回想している。

 井上はこの頃から肺結核の兆しが出始めており、心配した池辺は明治19(1886)年の暮れから正月にかけて、千葉や神奈川の名所を巡る旅に連れだした。

 千葉の鹿野山に登った時も、片手に書類を握って、読みながら歩く。12月の冷たい風に手が凍るように痛むと、ようやく手にしていた書類を鞄にしまい込んだ。

 池辺がようやく「やれやれ、これでやっと歩くのに専念するのか」と思いきや、次の瞬間には「ところで、大国主神(おおくにぬしのかみ)のあの『国譲(ゆず)り』の故事は、一体どういうことだったろうか」と聞いてきて、池辺を驚かせた。

 鎌倉に着いた時、雪も降り風も強くなっていた。井上は「大宝律令にはどんなことが書いてあったか」と池辺に質問した。池辺が「今ここに原文がありません。私の記憶だけでは正確に答えられません」というと、「では今すぐにでも確かめたい。帰京予定を一日早めて、これから出発すれば今日中に東京に帰ることができるだろう」と、雪が降り風の吹きすさぶあぜ道を駆け出した。

 雪で、顔が針で刺されたように痛むにもかかわらず、藤沢まで行き、そこから人力車で横浜に出て、横浜からは汽車でその日のうちに東京に戻った。

 こういう鬼気迫る国史国典研究から、井上は「民族精神・国民精神」に関する重大な発見をする。井上は、それを大日本国憲法の根幹に据え、さらにそこから教育勅語を起草するのである。

(続く、文責:伊勢雅臣)  

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コメント
 
01. 2012年2月18日 11:37:20 : MiKEdq2F3Q

大震災の時に日本人がやった事


関東大震災から80年  朝鮮人女性への残虐な性的虐待

荒川放水路の四ツ木橋付近での虐殺に関する証言に次のようなものがある。

 「22、3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは四ツ木橋の下流の土手だ。
西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。
1挺か2挺の機関銃であっという間に殺した。 それからひどくなった。
四ツ木橋で殺されるのをみんな見ていた。 なかには女もいた。

女は……ひどい。
話にならない。
真っ裸にしてね。いたずらをしていた」

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会「風よ 鳳仙花をはこべ」教育史料出版会、1992年、58〜59ページ)

 これは朝鮮人女性を性的にもてあそんだうえで虐殺したということなのであろう。
これは例外的な事件ではない。 女性に対する性的虐待、虐殺の事例は数多くあった。

 東京府南葛飾郡での朝鮮人女性に対する虐待、虐殺事件
 湊七良、亀戸五の橋で朝鮮人女性のむごたらしい惨死体を見た。

「惨殺されていたのは30ちょっと出たくらいの朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。
しかも妊婦である。 正視することができず、サッサと帰ってきた」

と回想した。(「その日の江東地区」『労働運動史研究』第37号、1963年7月、31ページ)


 亀戸署内では習志野騎兵連隊の軍人たちが朝鮮人や日本人労働者たちを虐殺した。 この状況を目撃した羅丸山の証言によると、殺された朝鮮人のなかには

妊娠した婦人も一人いた。 その婦人の腹を裂くと、腹の中から赤ん坊が出てきた。
赤ん坊が泣くのを見て赤ん坊まで突き殺した」

(崔承万「極熊無筆耕−崔承万文集−」金鎮英、1970年、83ページ)

 当時砂町に住んでいた田辺貞之助は多数の朝鮮人惨殺死体を見た。


「なかでも、いちばんあわれだったのは、まだ若い女が、腹をさかれ、6、7カ月くらいと思われる胎児が、腹ワタの中にころがっているのを見たときだ。

その女の陰部には、ぐさりと竹槍がさしてあった。 なんという残酷さ、
あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」
(「恥ずべき日本人」『潮』1971年9月号、98ページ)

 野戦銃砲兵士第一連隊兵士の久保野茂次は1923年9月29日の日記に岩波少尉たちが小松川で

「婦人の足を引っ張り又は引き裂き、あるいは針金を首に縛り池に投げ込み、苦しめて殺した」

ことを記した。
(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編「歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺」現代史出版会、1975年、18ページ)

 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺の歴史的意味

 上記のような朝鮮人女性に対する言語に絶する虐殺の残酷さは、民族差別にさらに女性差別が加わって行われた結果であろう。このような日本人の行動は、朝鮮人が暴動を起こしたとデマが流されたので、自衛のために自警団を結成したといったものではなく、極めて攻撃的である。 それは民族的には支配民族としての優越心、性的には男性としての優越心に発した行動であったと思われる。

 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺に関しては、当時も、その後も議論、反省されることは皆無だった。
その無反省がアジア・太平洋戦争の時期の「従軍慰安婦」制度を生み出したといえないだろうか。
吉野作造は、千葉で行われた朝鮮人少年に対する日本人の虐殺事件をつぶさに日記に記し、その末尾に
「これを悔いざる国民は禍である」と記した。
(「吉野作造著作集」14、岩波書店、1996年、357ページ)


 日本人拉致事件発表後の他者のみに厳しく自己に甘い日本人の二重基準を見ると、朝鮮や中国に対する日本人の良心喪失を憂慮し続けた吉野の言葉を日本人は今もう一度かみしめなければならないように思われる。
(山田昭次、立教大学名誉教授)
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2003/j05/0305j0827-00001.htm


関東大震災直後の朝鮮人に対する殺人行為

 当時,埼玉県の「児玉郡本庄町」や「大里郡熊谷町」(いずれも当時の名称,現在の本庄市・熊谷市)で発生した朝鮮人殺戮事件は,関東大地震発生後,東京方面ですでに起きていた朝鮮人などに対する殺人行為から彼らを保護する目的で,その被害の少なかった埼玉県や群馬県方面に彼らを避難させようとする最中に起こされた出来事である。

 本庄町のばあい,地元の住民たちによって結成された自警団が,本庄警察署に到着したトラックに乗っていた朝鮮人たちに襲いかかり,リンチに発展した。 警察は人員不足から阻止することもできないまま,この事件で50人から100人程度の朝鮮人を殺させた。 しかも,殺された朝鮮人たちは,妊婦の女性や子どもたちも大勢含まれていた。

 それでも,このリンチにくわわった者の多くは,事後に開廷された裁判の判決では「執行猶予付の騒擾罪」を受けるだけの「穏便な処分」で済まされていた。 さらにあとでは「恩赦」があり,彼らの刑罰は免除されてもいた。

これが,朝鮮人の子どもたちの首を刎ね,女性(妊婦)にも竹槍を突きさし,男性を日本刀で切りさいて殺す,などという凶行を働いた人たちに対する「事後の法的刑罰」であった。 

この歴史的な殺人事件の犯人たちは,大地震後の社会不安の状況のなかで「流言蜚語」に惑わされてしまった結果,本庄町では,警察が避難させるために保護し護送してきた子どもや妊婦も含む朝鮮人たちを,50人か100人くらい殺してしまった。 けれども,事後にいちおう裁判がおこなわれたものの,犯人たちは「執行猶予」付きの判決で「実質無罪にされ」だけでなく,さらに恩赦もあって,受けた刑をとり消してもらっていた。

第2次大戦後後に法務省の高官は,

外国人〔=在日韓国・朝鮮人など〕は「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」

(1965年の発言)と言ってのけた。

 関東大震災直後に起きた朝鮮人〔など〕の虐殺事件は,それよりも32年も前の悲惨な出来事であったけれども,すでに庶民の次元で「朝鮮人はけしからぬ奴ども」だから,「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」という残虐な情念に即して,同じ地震の被災者でもあった朝鮮人たちを「殺してもかまわぬ」という気持を実行に移していた。

裁判の最中に殺人行為に関してみなで哄笑する


 1) 殺人行為の様子

 1910年に朝鮮〔当時は大韓帝国と称していた〕を軍事的に脅して合邦し,植民地にした日本帝国であった。
朝鮮民族の底しれぬ怒り・恨みを買ったことはいうまでもない。 この事実が反転されて,日本人・日本民族側の気分においてはどうなったかといえば,朝鮮民族を心底でひどく恐れる感情を醸成してもいた。

 関東大震災直後,官庁関係〔警察・政府・戒厳司令部など〕から意図的に提供された《流言蜚語》を真に受けた庶民たちは,

「朝鮮人が井戸に毒を撒いている」

「朝鮮人たちが徒党を組んで攻めてくる」

と聞かされたのだから,大地震のために混乱した状況のなかで自衛し,朝鮮人どもを「捕まえてなんとかしてもかまわぬ」と考えた。 ある意味でこの考えは理の必然でもあった。

 国家当局側,それも一部で作為的な虚報を流した部署の関係者においては,たとえば軍隊は「東京などでは朝鮮人が反抗したといった理由で銃剣で刺殺或いは射殺するなどの虐殺をおこなった。
こうしたことは,目撃者の談話などでも明らかにされている」。

さらに,その

「流言の拡大に驚いて,日本刀,竹槍,鳶口,棍棒などで武装した自警団が各地に出現したが,こうした軍隊,警察の行動をみて,凶暴な行動に出たことはいうまでもない」。

 「各地で “鮮人狩り” がはじまった」。

その「あまりのひどさに驚いて出したと」いう「9月3日の警視庁の宣伝ビラ『急告』も」「鮮人の大部分は順良にして・・・」といいながらも「『不逞鮮人の妄動』を否定していない」始末であった(前掲『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』13頁)。

萱原白洞「東都大震災過眼録(1924)」の写真は,震災後にその記憶を頼りにして描かれた絵画であるが,よくみると右下部分には「虐殺された朝鮮人の死体」が転がっていた(つぎの左側にその部分を切りとった画像をかかげておく)。

まわりの人たちは

「朝鮮人をやっつけたぞ!」といって「歓声を挙げている」

図である。 これは,萱原の網膜に焼きついて忘れられなかった記憶を復元させたものである。
     
 この絵画全体(9月1日参照)を観察すると,警察官をはじめ,法被を着た男,そして手に棒切れをもった子どもまで描かれていることに気づく。

前段の著作『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』に説明された当時の,官民一体になる殺人実行の現場の様子がこの絵画には正直に写されている。

 前掲右側の写真は,関東大震災時における殺人行為を現わした〈有名な1葉〉である。 警察官と民間人が「殺した朝鮮人2体」を,それも民間人は棒で突くかのような格好で,あたかも記念写真を撮るかのように構えている(前掲書,口絵より)。

「凶器は日本刀,鳶口,竹槍,鉄棒や長さ6尺位の棍棒,小刀,包丁或いは石棒など奇抜なものがズラリ」
(同書,167頁)。


 2) 裁判の様子
 さて,警察が東京方面からトラックに乗せて避難させてきた朝鮮人を殺した人たちのうち,埼玉県熊谷市の人びとに対する裁判もおなわれていた。『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』はその一場面をつぎのように描写している。


 a) ある被告の答弁。

裁判長から

「お前は首を落とす積りで再びやったというぢゃないか」

と叱られると

「そうです。そうですが首は落ちませんでした」

といい,石を打ちつけたことについては,

「黒い石はこの位でした」と大きな輪を作る。 満廷もクスクス笑う。

事件とは思われぬ光景だ(158−159頁,1923年10月22日『東京日日』夕刊)。

 b) 「裁判長の突っ込みも茶気たっぷりで曽我廼家の芝居でも見ているようだ」。

「裁判長が『お前は一番最年長だのにどうしてそう無分別だ』と揶揄すると『毎晩4合ずつ引っかけやすのでツイその』と満廷を笑わせてひとまず休憩・・・」。

〇〇万治は

「私は倒れていた鮮人を殴っていると警官が『もう死んでいるからいいじゃないか』と申しました」

(159頁,1923年10月23日『東京日日』)。


 c) 「〇〇隣三郎は事実を是認したがこの樫棒で殴ったろうといわれた時ヘイそのちょっとやったまでで

と答え, 裁判長からこの6尺もある樫棒ではちょっとやられたってたまるものかといわれ,判官はじめ満廷も吹き出させた。 また,それがそのちょっと飲んでいたものですからというのに,裁判長が酒を飲んでいたのか,ちょっととはどの位飲んでいたのかと問われ,4合ですと答えてまた満廷を吹き出させた」(161頁,同上)。


 d) 「『本庄警察の方が騒がしかったのでいって見ますと,3台の自動車に鮮人が乗せられてその内ころがり落ちた3鮮人の胸を刺しました。 一ぱい機嫌でしたからついへゝゝ』

とありのままを申し立て

『お前のやった事について今日はどう思っている』

ときかれても返事も出来ぬ程の被告である」(175頁,1923年10月25日『東京日日』朝刊)。

それにしても,殺人事件の裁判であるにもかかわらず,この法廷に関する当時の報道をとおしても「ずいぶんに和気あいあい」とした雰囲気が,よく伝わってくるではないか。


 そもそも,関東大震災時のこうした虐殺事件で犯人=被告となって裁判を受けた人びとは,関係した非常に多人数の犯行者全員を被告とするわけにもいかない事情があったため,しかたなくその代表として選ばれ応じて出廷していた一部の者であった。 したがって,前段 a) b) c) d) に紹介した法廷におけるやりとりのように,人殺しの犯人たちにしてはふざけたような口調さえ聞こえてくる。  つまり,関東大震災のさい「惹起された他民族殺戮行為」は,官憲がわがでっち上げた朝鮮人騒擾「説」を契機に起こされていた。 しかもこのように,殺人事件の審理とも思われない〈身内を庇うかのような共有の感情〉のなかで,被告たちが裁かれていた(!?)のであるから,その「異常な事態を異常とも思わない」当時の時代精神の恐ろしさがあらためて疑われてよい。

 要するに,この大量殺人事件を裁くために開廷された場所においては,裁判官にも被告にも傍聴席にも「満廷に笑いの渦」が吹き出ていたというのである。 そもそも軍隊が,多数の朝鮮人・中国人を大衆の面前で虐殺していただけでなく,社会主義者・無政府主義者もついでにといっていいように,無法なかたちでもって捕縛・虐殺していた。 これでは,国家機関である裁判所が,関東大震災時において殺人行為を犯した一般庶民をまともに裁けるはずもなかった。
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2394667


歴史の汚点といえば、大正12年(1923年)関東大震災のときの朝鮮人虐殺はどうであろう。
日本人はよくアメリカ人のマネが得意だといわれるが、なぜこのような、おぞましいことまでまねる必要があったのだろうか。 それもたんなる排斥にとどまらず、虐殺の挙にでたところなど、出藍の誉れというべきか。
しかもその虐殺は、政府筋の計画的煽動に乗って一般の民間人がおかした犯行だという点で、アウシュビッツのことは、その存在さえも知らなかったというドイツ人のばあいとも異なる。


震災がおそった9月1日の午後、東京市内の被害状況を巡視した内務大臣水野錬太郎(元朝鮮総督府内務総監)は、その惨状のなかにあえぐ人々のいら立ちがが支配階級に向けられることを防ぐためには、朝鮮人と社会主義者の弾圧が必要であると判断し、1日夜から2日夜にかけて、東京、神奈川の各警察署に朝鮮人暴動のデマを流させ、
さらに3日午前、朝鮮人暴動の「事実」についての電文を作成、船橋海軍無線送信所から全国地方長官当宛に打電させた。

中山競馬場の名物になっていたこの無電台が1971年夏撤去され、「なつかしい風物詩」が消え去ったことを嘆く人も少なくないという。
しかしわたしはあの不気味な鉄塔をながめるたびに、背筋に寒気をおぼえずにいられなかった。


朝鮮人暴動のデマは、またたく間に日本全国にひろまり、警察とそれに呼応した民間の自警団は、政府公認の朝鮮人虐殺を開始した。

竹槍で刺し、トビグチで頭を割り、ノコギリで首をひき、さしみ包丁で妊婦の腹をさく……

阿鼻叫喚の地獄絵図のなかで、抵抗のすべもなく殺されていった朝鮮人の数は6,000人をこえた。


「ハダカ同然の死がいが、目をあけたまま頭を北にして空地に並べられていました。
数は二百五十ほど。 ノドを切られて気管や食道が見えている人、
首筋を切られて肉がザクロのようにわれている人、 無理に首をねじ切られたらしく、皮と筋がほつれている人…

なかでもあわれだったのは、まだ若い女性の腹が真一文字に切りさかれ、その中に六、七ヶ月の胎児が目をとじて姿でした」


以上は仏文学者田辺貞之助氏が目撃した、その日の朝鮮人の姿である。



「旦那、朝鮮人はどうですい。
俺ァきょうまで六人やりました。…
天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさァ。…
電信柱へ、針金でしばりつけて、…
焼けちゃってナワなんかねえんだからネ…。

そして、殴る、蹴る、鳶で頭へ穴あける、竹槍で突く、めちゃめちゃでさァ。


けさもやりましたよ。…
奴、川へ飛び込んで、向かう河岸へ泳いで逃げようとした。…
みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ、でとうとう舟を出した。

ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分位も水の中へもぐっていた。
しばらくすると、息がつまったとみえて、舟のじきそばへ頭を出した。
そこを舟にいた一人の野郎が、鳶でグサリと頭を引掛けて、ズルズル舟へ引きよせてしまった。…
舟のそばへ来れば、もうめちゃめちゃだ。
トビグチ一つでも死んでいる奴を、刀で斬る、竹槍でつく…」



『横浜市震災誌』に記録されている、ある日本人のその日の武勇談である。


サンフランシスコ震災で、日本人排斥運動が燃えあがったとき、大統領テオドル・ルーズベルトは怒りにふるえてこれを非難したという。 大統領が国会に送った年頭教書(1906年12月4日)を読むと、大統領は日本人排斥運動を「ウィキッド・アブサーディティー(悪辣な愚行)」と痛罵し、これがアメリカの恥であることを述べ、もしこのような愚行がやまないならば、日本人保護のために、軍隊を動員するとまでいきまいている。
 日本のばあいどうか。
虐殺が行われた大正12年から今日にいたるまで、わたしたちは、責任ある日本の為政者から、一言たりとも陳謝の言葉を耳にした記憶はない。 いや、「貧乏人は麦を食え」で勇名を馳せた池田勇人元首相からは一言きいたことがある。


「朝鮮を併合してから、日本の非行に対しては私は寡聞にして存じません」。

http://blog.livedoor.jp/danjae/archives/51404976.html

日本政府関係者による意図的な風説の流布

1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生。
この時政府の宣伝

「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」

に乗せられた民衆は、社会主義者、労働組合幹部や朝鮮人に対して野蛮なテロを行い、9.3日、亀戸事件により南葛労働組合の指導者・川合義虎らの社会主義者やアナーキストらが亀戸警察署で虐殺された。

9.16日、大杉栄が妻・伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一と共に甘粕正彦憲兵大尉に殺害された。


 9.7日、政府は、関東大震災時の混乱に対して「治安維持の為の緊急勅令」を公布した。

これは、前に成立を見なかった「過激社会運動取締り法案」を、このたびは天皇の名のもとに議会の審議を要しない緊急勅令という形で公布したということである。

しかし、政府はなお満足せず、やがて治安維持法に向けて着々と周辺整備していく。


 「第一次共産党事件」と「関東大震災直後の反動攻勢」に接して、獄中闘争組の中からも解党的方向が提起されたようである。

幸徳秋水の大逆事件、関東大震災時の大杉栄虐殺事件という官憲側のテロル攻勢に「緊急避難」の名目で党の解党止む無し論が強まっていった。


 これに関連して福永操は次のように述べている。

「革命運動の犠牲者たちは、人民が(人民のほんの一部でもが)その犠牲の意義をみとめて心の中で支持してくれると思えば、よろこんで死ねるであろう。

なさけないのは、大逆事件関係者に対する日本の一般民衆の反感がものすごかったことであった。

事件そのものにまったく無関係であった社会主義者たちまでが、この事件のとばっちりを受けて、『主義者』というよびかたのもとに一括して世間からつまはじきされて、文字どおり広い世間に身のおきどころもない状態になったことであった。

労働運動も火が消えたような状態になった」(福永1978)。


 以下、検証する。 


【関東大震災発生】

 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。

地震の規模はマグニチュード7.9、震度6であった。

焼失家屋24万戸、崩壊家屋2万4千棟、死者5万9千人、行方不明者を入れると犠牲者は10万人以上という被害が発生した。

これにより関東一円の商工業地区が壊滅的大打撃を受けた。被害総額は当時の金で約100億円(当時の一般会計の6.5年分、現在で数兆円)と推定される。


 関東大震災の翌9.2日急遽、軍による戒厳令司令部を設置した。

この日、後藤新平が内務大臣に就任している。

 警視庁は、非常事態に備えて臨時警戒本部を設置し、正力官房主事が特別諜報班長になって、不穏な動きを偵察する任務を持ち、その行動隊長として取締まりに専念した。

後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。


「内務大臣・後藤新平と正力の繋がり」について


 正力は、この後藤新平と深く繋がっており、「直接ルート」の間柄。正力の富山四高時代の友人にして官房主事であった品川主計は、回想録「叛骨の人生」の中で「正力君は、後藤新平内務大臣に非常に信用があった」と記している。

同書に拠れば、越権的な「汚れ役」(ダーティーワーク)仕事を躊躇無く引き受けることで信頼を得ていったとのことである。

「仕事の鬼としての出世主義的性格」が強かった、ということになる。

正力は、後藤内相の下で警視庁警務部長となる。

同時に、財界のご意見番的存在であった郷とも親しくなって行った。


【流言飛語飛び交い、朝鮮人、社会主義者、アナーキストの検束始まる】


 直後、

「朝鮮人、中国人、社会主義者、博徒、無頼の徒が放火掠奪の限りを尽くしている」

との噂が飛び交い始めた。

発生源は在郷軍人会、民間自警団辺りからとされているが、今日なお真相不明である。


 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、「朝鮮人による放火、井戸への投毒」という風評を逆手に取って朝鮮人と社会主義者、アナーキストの検束を始めた。

9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。


 東京朝日の石井光次郎営業局長の次のような証言がある


 「建物は倒壊しなかったものの、9月1日の夕刻には、銀座一帯から出た火の手に囲まれ、石井以下朝日の社員たちは社屋を放棄することを余儀なくされていた。

夜に入って、石井は臨時編集部をつくるべく、部下を都内各所に差し向けた。

帝国ホテルにかけあってどうにか部屋を借りることは出来たが、その日、夜をすごす宮城前には何ひとつ食糧がない。

そのとき、内務省時代から顔見知りだった正力のことが、石井の頭に浮かんだ。

石井は部下の一人にこう言いつけて、正力のところへ走らせた。

 『正力君のところへ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、あそこには食い物と飲み物が集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい』。

間もなく食糧をかかえて戻ってきた部下は、意外なことを口にした。

その部下が言うには、正力から、

『朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから、各自、気をつけろ。

君たち記者が回るときにも、あっちこっちで触れ回ってくれ』

との伝言を託されてきたというのである。

 そこにたまたま居合わせたのが、台湾の民生長官から朝日新聞の専務に転じていた下村海南だった。

下村の『その話はどこから出たんだ』という質問に、石井が『警視庁の正力さんです』と答えると、下村は言下に『それはおかしい』と言った。

『地震が9月1日に起るということを、予想していた者は一人もいない。

予期していれば、こんなことになりはしない。

朝鮮人が9月1日に地震がくることを予知して、その時に暴動を起こすことを企むわけがないじゃないか。

流言飛語にきまっている。断じてそんなことをしゃべってはいかん』。


 石井は部下から正力の伝言を聞いたとき、警視庁の情報だから、そういうこともあるかも知れないと思ったが、ふだんから朝鮮や台湾問題を勉強し、経験も積んできた下村の断固たる信念にふれ、朝鮮人謀反説をたとえ一時とはいえ信じた自分の不明を恥じた。

正力は少なくとも、9月1日深夜までは、朝鮮人暴動説を信じていた。

いや、信じていたばかりではなく、その情報を新聞記者を通じて意図的に流していた」


 内務官僚上がりの石井のこの証言に加えて、戒厳司令部参謀だった森五六の回想談によると、正力は腕まくりして戒厳司令部を訪れ、

「こうなったらやりましょう」と息まいている。


この正力の鼻息の荒い発言を耳にした時に、当時の参謀本部総務部長で後に首相になる阿部信行をして、「正力は気が違ったのではないか」と言わしめたという。


 正力にまつわる一連の行動を分析した佐野は、

[正力は少なくとも大地震の直後から丸一日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、この流言を積極的に流す一方、軍隊の力を借りて徹底的に鎮圧する方針を明確に打ち出している]

と結論づけている。

更に、警視庁に宛てた亀戸署の内部文書にも、


「この虐殺の原因はいずれも警察官の宣伝にして、当時は警察官のごときは盛んに支鮮人を見つけ次第、殺害すべしと宣伝せり」

と書いてあり、中国人労働者が300人ほど虐殺された大島事件も、正力がこの事件を発生直後から知っていたのは、間違いないと自身を持って断定するのである。


【関東大震災時事件その@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺】


 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、

「朝鮮人による放火、井戸への投毒、襲撃」、

「震災の混乱にまぎれて、朝鮮人と社会主義者が政府転覆を図っている」

という風評を逆手に取って警察と軍による朝鮮人、中国人、社会主義者、社会主義的労働者の検束を始めた。 9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。

自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺も発生している。無抵抗の者を陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが一方的に撃ち殺したところに特質がある。この時官憲テロルに倒れた朝鮮人は3千名、中国人は3百名。 その後毎年、9.1日は共産主義運動、朝鮮民族運動の逃走記念日として追悼されていくことになる。


【官房主事・正力松太郎の暗躍】


 この時、警察と軍の関係を取り持っていたのは、警視庁官房主事の正力松太郎であった。これを追跡してみる。正力は米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、特高制度の生みの親であった。後に読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買うことになる。


 9.2日、大震災の翌日急遽、軍による戒厳令司令部が設置された。

船橋の海軍無線送信所から「付近鮮人不穏の噂」の打電が為されている。今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。


 9.3日、「内務省警保局長」名で全国の「各地方長官」宛てに、要約概要「鮮人の行動に対して厳密なる取締要請」電文打たれる。

内務省が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。実際には「不逞鮮人暴動」は根拠が曖昧で「流言飛語」の観がある。この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。つまり、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。


 9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。

 9.11日、更に、正力官房主事名で、

「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令


が発せられている。 研究者によると、正力が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」のデマを一番最初にメディアを通じて意識的に広め、虐殺を煽ったのは、なんと、官房主事の正力自身であった。自身も「悪戦苦闘」という本で、

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。当局者として誠に面目なき次第」


と弁解しているように、朝鮮人大虐殺の張本人と目されている。 この時、朝日新聞の記者の1人が警視庁で正力官房主事から、


「朝鮮人むほんの噂があるから、君たち記者があっちこっちで触れてくれ」


と示唆されたことを明らかにしている。しかし、専務の下村海南が「流言飛語に決まっている」と制止したと云う。


「正力の胡散臭さ」について


 後に読売新聞の社主となって登場してきた正力松太郎には「負の過去」がある。


関東大震災当時、警視庁官房主事という警察高級官僚であった正力こそ朝鮮人大虐殺の指揮官であった形跡がある。こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていく。その意味で、「読売新聞建て直しの功労者」ではある。

しかし、正力の本領は当時の「聖戦」賛美にあった。新聞でさんざん戦争を煽った。これが為、松太郎はA級戦犯指名で巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。しかし、政権与党に食い入り常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。

「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」


 こうしたムショ帰りの権力主義者の社主に忠誠を誓い、その負の遺産を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。

http://www.gameou.com/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_oosugisakae.htm


関東大震災に便乗した治安対策


陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒

 正力が指揮した第一次共産党検挙が行われたのは、一九二三年(大12)六月五日である。 それから三か月も経たない九月一日には、関東大震災が襲ってきた。

このときの警視庁の実質的な現場指揮者は、やはり正力であった。この一九二三年という年は、日本全体にとっても正力個人にとっても激動の年であった。月日と主要な経過を整理し、問題点と特徴を明確にしておきたい。


 六月五日に、第一次共産党検挙が行われた。この時、正力は官房主事兼高等課長だった。

 九月一日に、関東大震災が起きた。正力の立場は前とおなじだった。

 一二月二七日には、虎の門事件が起きた。この時、正力は警務部長だった。


 虎の門事件の際、警備に関して正力は、警視総監につぐ地位の実質的最高責任者である。警視総監の湯浅倉平とともに即刻辞表を提出し、翌年一月七日に懲戒免官となった。ただし、同じ一月二六日には裕仁の結婚で特赦となっている。


 以上の三つの重大事件を並べて見なおすと、

第一次共産党検挙と虎の門事件の背景には、明らかに、国際および国内の政治的激動が反映している。

その両重大事件の中間に起きた関東大震災は、当時の技術では予測しがたい空前絶後の天災であるが、この不慮の事態を舞台にして、これまた空前絶後で、しかも、その国際的および国内的な政治的影響がさらに大きい人災が発生した。

朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件である。


 さて、以上のように改めて日程を整理してみたのは、ほかでもない。本書の主題と、関東大震災における朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件との間に、重大な因果関係があると確信するからである。そこで以下、順序を追って、虐殺、報道、言論弾圧から、正力の読売乗りこみへと、その因果関係を解き明かしてみたい。


 どの虐殺事件においても明らかなことは、無抵抗の犠牲者を、陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが、一方的に打ち殺したという事実関係である。正力は、当然、秩序維持の責任を問われる立場にあった。正力と虐殺事件の関係、正力の立場上の責任などについては、これまでにも多数の著述がある。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-1.html


「朝鮮人暴動説」を新聞記者に意図的に流していた正力


 正力自身も『悪戦苦闘』のなかで、つぎのように弁明している。

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」

 これだけを読むと、いかにも素直なわび方のように聞こえるが、本当に単なる「失敗」だったのだろうか。以下では、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆に当たって参考にした資料に加えて、それ以後に出版された新資料をも紹介する。いくつかの重要な指摘を要約しながら、正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。 興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の一九六〇年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第一二巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第一師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。

「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」


 この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。


伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。論理的な解明は不可能ではない。ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。

「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると、その組織自体の権威も高くなければ筋が通らない。字数が正しいと仮定すると、三字だから「警察」では短すぎるし、「官房主事」「警視総監」では長すぎる。「警視庁」「警保局」「内務省」なら、どれでもピッタリ収まる。

 詳しい研究は数多い。

『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編によれば、すくなくとも震災の翌日の九月二日午後八時二〇分には、船橋の海軍無線送信所から、「付近鮮人不穏の噂」の打電がはじまっている。


 翌日の九月三日午前八時以降には、「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれた。

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、

すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」


 正力の『悪戦苦闘』における弁解は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」となっていた。では、この「虚報」と正力の関係、「失敗」の経過は、どのようだったのだろうか。 記録に残る限りでは、正力自身が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」の噂を一番最初に、メディアを通じて意識的に広めようとしたのは、なんと、正力自身なのである。


 シャンソン歌手、石井好子の父親としても名高かった自民党の大物、故石井光次郎は、関東大震災の当時、朝日新聞の営業局長だった。石井は内務省の出身であり、元内務官僚の新聞人としては正力の先達である。震災当日の一日夜、焼け出された朝日の社員たちは、帝国ホテルに臨時編集部を構えた。ところが食料がまったくない。石井の伝記『回想八十八年』(カルチャー出版社)には、つぎのように記されている。


「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎が官房主事だった。


『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい[中略]』といいつけた。

それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、


『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』


と頼まれたということであった」

 ところが、その場に居合わせた当時の朝日の専務、下村海南が、「それはおかしい」と断言した、予測不可能な地震の当日に暴動を起こす予定を立てるはずはない、というのが下村の論拠だった。


下村は台湾総督府民政長官を経験している。植民地や朝鮮人問題には詳しい。

そこで、石井によると、「他の新聞社の連中は触れて回ったが」、朝日は下村の「流言飛語に決まっている」という制止にしたがったというのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html

東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見


 ただし、石井の回想通りに、朝日が「朝鮮人暴動説」報道を抑制したのかどうかについては、いささか疑問がある。内務省筋が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。『大阪朝日』は九月四日、「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると」、という書き出しで、さきの船橋送信所発電とほぼ同じ内容の記事を載せた。『朝日新聞社史/大正・昭和戦前編』には、震災後の東京朝日と大阪朝日の協力関係について、非常に詳しい記述があるが、なぜか、大阪朝日が「朝鮮人暴動説」をそのまま報道した事実にふれていない。『大阪朝日』ほかの実例は、『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』に多数収録されている。この基本資料を無視する朝日の姿勢には、厳しく疑問を呈したい。


 東京の新聞でも、同じ報道が流されたはずなのであるが、現物は残っていないようである。わたしが目にした限りの関東大震災関係の著述には、東京の新聞の「朝鮮人暴動説」の報道例は記されていなかった。念のためにわたし自身も直接調べたが、地震発生の九月二日から四日までの新聞資料は、実物を保存している東京大学新聞研究所(現社会情報研究所)にも、国会図書館のマイクロフィルムにも、まったく残されていなかった。 たしかに地震後の混乱もあったに違いないが、そのために資料収集が不可能だったとは考えにくい。

報知、東京日日(現毎日)、都(現東京)のように、活字ケースが倒れた程度で、地震の被害が軽い社もあった。各社とも、あらゆる手をつくして何十万部もの新聞を発行していたのである。各社は保存していたはずだから、九月一日から四日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。

戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。


 ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「九月三日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。

要点はつぎのようである。


「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」


「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」


 同書の編著者で、当時は東海大学教授の山本文雄に、直接教えを乞うたところ、この号外の現物はないが、出典は『新聞生活三十年』であるという。


 実物は国会図書館にあった。著書の斉藤久治は当時の報知販売部員だった。同書には、新聞学院における「販売学の講演」にもとづくものと記されている。発行は一九三二年(昭7)である。のちの読売社長、務台光雄は元報知販売部長で、同時代人だから、この二人は旧知の仲だったに違いない。ところが、この二人が残した記録は、肝心のところで、いささか食い違いを見せるのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-3.html

「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者


「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、発生地帯の研究などもあるが、いまだに決定的な証拠が明らかではない。軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告もある。

民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。


いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。

 さきに紹介した「内務省警保局長出」電文の打電の状況については、「船橋海軍無線送信所長/大森良三大尉記録」という文書も残されている。歴史学者、松尾尊兌の論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」(『思想』93・9)によると、

大森大尉は、

「朝鮮人襲来の報におびえて、法典村長を通じて召集した自警団に対し四日夜、

『諸君ノ最良ナル手段ト報国的精神トニヨリ該敵ノ殲滅ニ努メラレ度シ』

と訓示したために現実に殺害事件を惹起せしめ」たのである。


 九月二日午後八時以降と、一応時間を限定すれば、「噂」「流言」、または「好意的宣伝」を積極的に流布していたのは、うたがいもなく内務省筋だったのである。 なお、さきの船橋発の電文例でも、すでに「戒厳令」という用語が出てくる。「戒厳」は、帝国憲法第一四条および戒厳令にもとづき、天皇の宣告によって成立するものだった。

前出の『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、この経過をつぎのように要約している。


「一日夜半には、内相官邸の中庭で、内田康哉臨時首相のもとに閣議がひらかれ、非常徴発令と臨時震災救護事務局官制とが起草された。

これらは戒厳に関する勅令とともに二日午前八時からの閣議で決定され、午前中に摂政の裁可を得て公布の運びとなったのである」


 前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」によると、この戒厳令公布の手続きは、「枢密院の議を経ない」もので「厳密にいえば違法行為である」という。

ただし、このような閣議から裁可の経過は、表面上の形式であって、警視庁は直ちに軍の出動を求め、それに応じて軍も「非常警備」の名目で出動を開始し、戒厳令の発布をも同時に建言していた。


 戒厳令には「敵」が必要だった。

警察と軍の首脳部の念頭に、一致して直ちにひらめいていたのは、一九一八年の米騒動と一九一九年の三・一朝鮮独立運動の際の鎮圧活動であったに違いない。

 首脳部とは誰かといえば、おりから山本権兵衛内閣の組閣準備中であり、臨時内閣に留任のままの内相、水野錬太郎は、米騒動当時の内相だった。

その後、水野は、三・一朝鮮独立運動に対処するために、朝鮮総督府政務総監に転じた。


 震災当時の警視総監、赤池濃は、水野の朝鮮赴任の際、朝鮮総督府の警務部長として水野に同行し、一九一九年九月二日、水野とともに朝鮮独立運動派から抗議の爆弾を浴びていた。

 震災発生の九月一日、東京の軍組織を統括する東京衛戍司令官代理だった第一師団長、石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていた。

 つまり、震災直後の東京で「市内一般の秩序維持」に当たる組織の長としての、内相、警視総監、東京衛戍司令官代理の三人までもが、朝鮮独立運動派から浴びせられた爆弾について、共通の強い恐怖の記憶を抱いていたことになる。

さらに軍関係者の方の脳裏には、二一か条の要求に反発する中国人へのいらだちが潜んでいたにちがいない。

 その下で、警視庁の実働部隊の指揮権をにぎる官房主事、正力は、第一次共産党検挙の血刀を下げたままの状態だった。

正力自身にも、朝鮮総督府への転任の打診を受けた経験がある。


 かれらの念頭の「仮想敵」を総合して列挙すると、朝鮮人、中国人、日本人の共産党員または社会主義者となる。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html


戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺


 戒厳司令部の正式な設置は、形式上、震災発生の翌日の午前中の「裁可」以後のことになる。だが、震災発生直後から、実質的な戒厳体制が取られたに違いない。

前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」には、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が一九六二年一一月二一日に語った回想談話の内容が、つぎのように紹介されている。

「当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ

『こうなったらやりましょう』

といきまき、阿部信行参謀をして

『正力は気がちがったのではないか』

といわしめたと語っている」


 文中の「阿部信行参謀」は、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となった。

これらの戒厳司令部の軍参謀の目前で、腕まくりした正力が「やりましょう」といきまいたのは、どういう意図を示す行為だったのであろうか。

正力はいったい、どういう仕事を「やろう」としていたのだろうか。

「気がちがったのではないか」という阿部の感想からしても、その後に発生した、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量「保護」と、それにともなう虐殺だったと考えるのが、いちばん自然ではないだろうか。


森五六元参謀の回想には、この意味深長な正力発言がなされた日時の特定がない。


だが、「やりましょう」という表現は、明確に、まだ行為がはじまる以前の発言であることを意味している。

だから、戒厳司令部設置前後の、非常に早い時点での発言であると推測できる。

警察と軍隊は震災発生の直後から、「保護」と称する事実上の予備検束を開始していた。

その検束作業が大量虐殺行動につながったのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-6.html



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