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孫文の正体(太田述正コラム)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/627.html
投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 5 月 07 日 11:36:36: ulZUCBWYQe7Lk
 

太田述正コラム#4934(2011.8.16) <孫文の正体(その1)>(2011.11.6公開)
http://blog.ohtan.net/archives/52107635.html
太田述正コラム#4936(2011.8.17) <孫文の正体(その2)>(2011.11.7公開)
http://blog.ohtan.net/archives/52107785.html

1 始めに

 XXXXさんが送ってくれたばかりの資料、なかなか面白いので、さっそく紹介することにしました。
 最初にとりあげるのは、田嶋信雄「孫文の中独ソ三国連合」構想と日本 1917〜1924年--「連ソ」路線および「大アジア主義」再考--」(服部龍二・土田哲夫・後藤春美『戦間期の東アジア国際政治』(中央大学政策文化総合研究所研究叢書6 中央大学出版会 2007年)の第一章)です。
 
 「中国における改革開放政策の進展と国際関係における冷戦体制の終焉は、中独(ソ)関係史研究の史料状況をも劇的に改善し、いままで用いられてこなかった多くの史料へのアクセスが可能となった。」(6頁)と書いてあるだけで、期待感が膨らんだ次第です。
 実際、典拠文献として、日本語、英語、ドイツ語、ロシア語、漢語のものがあげられています。
 筆者がこれらをすべて読みこなす能力があるとすれば、大変なものです。
 ちなみに、田嶋信雄(1953年〜)は、「東京都生まれ。北海道大学法学部卒業、<ドイツの>トリーア<(Trier)>大学およびボン大学留学を経て、・・・北海道大学法学部助手などを経て、現在、成城大学法学部教授」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B6%8B%E4%BF%A1%E9%9B%84
という人物です。

 XXXXさん提供の資料のこれまでの紹介は、どちらかと言うと、資料に出てくる一次史料に着目して、それら一次史料を踏まえて、資料(本や論文)の筆者が提示する説には余りとらわれず、私自身の説を打ち出す、というものでした。
 しかし、この論文に関しては、筆者は信頼するに足ると判断したので、彼の結論、すなわち、彼の説の紹介を軸とし、それに私のコメントを付す、という、やや、従来とは違う紹介の仕方をしようと思います。

2 田嶋信雄説の骨子

 37〜38頁に、結論として、こう書いてあります。

 一、孫文は、第一次世界大戦への<中国の>参戦問題<(注1)>以来、首尾一貫して対独接近政策を追求した。孫文の<言動>は状況的で<あり、>・・・時と所に応じて<変化した。>・・・しかしながら、孫文のドイツに対する態度は、・・・一貫しており、ドイツの工業・軍事・科学技術・学問などへの高い評価に基づく援助を期待していた。・・・
 二、孫文の親独政策は親ソ政策と結びつき、「中独ソ三国連合」構想として展開された<(注2)>。・・・しかもそこには、・・・独ソの支援を受け、ソヴィエト領ないしモンゴルを起点とした「北伐」を実行するという地政学的な考慮<(注3)>も働いていた。
 三、孫文の「連ソ」路線<(注4)は、未完の「中独ソ三国連合」の一部として実現された。・・・
 四、孫文の「大アジア主義」は、中独ソ三国を中核とする被抑圧民族の連帯を目指した。・・・<すなわち、>ユーラシア<主義>的な次元を有していた・・・。孫文は日本にこの反帝国主義的・・・<反>英米アングロサクソン二大国的・・・構想への参加を求めたが、日本は・・・これを拒否した<(注5)>・・・。
 五、中独ソ<及び日本>の連合構想は、中国にも、ソ連にも、ドイツにも、日本にも存在した。<(注6)>

 (注1)「<北京政府国務総理の>段祺瑞<(コラム#4502、4520、4528、4724)>は、<1917年>8月14日、・・・ドイツに対する宣戦布告に踏み切った・・・。この対独宣戦布告は中国の分裂を加速する一因となった。8月27日、反段祺瑞派の国会議員130余名は広東で非常国会を開催し、9月10日には孫文を大元帥とする広東軍政府が組織されたのである。これ以降中国で・・・二重権力状況<が>・・・続くことにな<った。>・・・ただし、3日後の9月13日、孫文と広東政府は、国際情勢および段祺瑞政権からの圧力が強まる中でドイツに対し形式上の宣戦布告を行わざるを得なかった。」(12頁)
 (注2)「1917年11月、ロシアでレーニン・・・の率いるボリシェヴィキ革命が成功し、国際情勢は根本的に変動することとなった。翌18年3月3日にはブレスト=リトフスクで独露講和条約が締結され、ドイツとソヴィエト・ロシアの間での講和が成立すとともに、ヨーロッパの東部地域はほぼドイツの支配下に置かれることとなった。反イギリス・親ドイツ戦略をとる孫文にとっては絶好の機会が到来したのである。1918年・・・12月1日に・・・「孫の親しい友人」であり「南方派におけるドイツの信頼しうる情報提供者」でもあった曹亜伯・・・はベルリン・・・<の>ドイツ外務省を訪れ、・・・「孫文の建議」を提出した・・・。<それは、>中国(広東政府)、ドイツおよびソヴィエト・ロシア三国の同盟関係の形成の提案<だった。>・・・
 この間、1918年11月9日にはドイツでも革命が起こり、同月11日にドイツは連合国との間で休戦協定を締結するのやむなきに至っていた。ソヴィエト・ロシアを通じたドイツ軍の「東漸」と中独ソ三国の連合形成にかけた孫文の期待は、ここにひとたび潰え去ったのである。」(9、
 (注3)「1921年11月<の時点で、>・・・ソビエト・ロシア・・・首脳は、モンゴルは地勢上、戦争となれば必ず帝国主義国<(日本(太田))>に占領され、反ソ軍事基地とされるであろう<ことから、>・・・外モンゴルの中国からの独立を<確保しなければならないとの考えを>・・・外モンゴルのスフバートルを長とする代表団<に伝えている。>・・・
 <他方、>孫文<は>1922年末に<駐中国ソヴィエト代表の>ヨッフェ<(コラム#228、4498)>に・・・中国外蒙地域に全中国統一の軍事基地を建設すること・・・<を>提案し<てい>た。・・・<しかし、>ソ連は外モンゴルはすでに中国から独立した別個の国であり、中国領土ではないと考えており、国民党の外モンゴル干渉を許すはずはなかった。トロツキーは蒋介石にこう明言した。「国民党はモンゴルではなく、自国の領土で軍事行動を始めなければならない」。・・・
 <孫文は、結局、このソビエト<(ママ。以下同じ)>の要求を呑む。>
 1923年初めから24年秋・・・、コミンテルン<は、>孫文・国民党を「全力で支持」し、これを「唯一の盟友」とした・・・。・・・ここで無視できない重要な要因は、ヨッフェ等のソビエト代表との数次の会談において、孫文は外モンゴル及び中東鉄道問題におけるソビエトの基本的観点を明確に支持していたことであ<る。(ちなみに、>この両問題こそがソ連政府と中国北京政府の国交正常化交渉における主要な障害であった<)>・・・。」(中央大学人文科学研究所編『研究叢書21 民国前期中国と東アジアの変動』(中央大学出版部 1999年 の第4章)156〜160頁)

(注4)「孫文は1922年5月8日に「北伐」を発動したが、・・・これに反対する・・・反乱に遭遇し、・・・からくも総統府を脱出した孫文は、・・・ついに万策尽き、・・・上海への撤退を決せざるを得なかったのである。・・・<当時、>孫文は、・・・今後の中国外交が目指すべき方向について<以下のように>語った。・・・
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 今日の中国の外交についていえば、ソヴィエト・ロシアほど国土が隣接し、関係が密接な国はない。国際的な地位についていえば、ソヴィエトとわが国の利害は一致しており、いささかも侵略を危惧する必要はない。・・・
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 <1923年>6月19日、コミンテルンのマーリング(Maring・・・)と会談した孫文は、・・・<マーリングによれば、>以下のように述べたのである。
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 ・・・「ソヴィエト・ロシアの[ボルシェヴィキ的]諸原則とドイツの技術」が<私>の大きな希望である。・・・
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 孫文<の>・・・「連ソ」構想の一端が表明されたのは、・・・1923年1月26日の上海における「孫文=ヨッフェ宣言」であるが、その後2月21日には孫文の権力掌握により第三次広東政府が組織され、6月には広州で中国共産党第3回全国代表大会が開かれて国民党との合作が決定された。さらに10月以降、ボリシェヴィズムの組織原則に基づく国民党の改組が共産党員を含めて展開されていく。・・・
 注目されるのは、1923年秋に・・・<孫文の命で>ソ連を訪問していた蒋介石の言動であろう。たとえば1923年11月26日、蒋介石はコミンテルン執行委員会(EKKI)で・・・次のように・・・述べていたのである。
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 ・・・国民党は・・・全世界で資本主義の影響力と闘うため、・・・ロシア、ドイツ(もちろん<共産主義(太田)>革命成功後のドイツ)および中国(革命<(=国民党による中国統一)(太田)>成功後の中国)の同盟を提案する。・・・<この同盟ができれば、>我々は全世界で資本主義体制を廃絶することができる。コミンテルンの同志はドイツ革命を支援して可及的速やかに勝利に導くべきである、と我々は考える。同時に我々は、コミンテルンが、東アジア、とりわけ中国革命に特別の関心を寄せるよう期待する。
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 さらに2日後の11月28日、蒋介石はトロツキー・・・と会談<(前出)し、・・・「解放中国はロシアとドイツからなる社会主義ソヴィエト共和国のメンバーとなるだろう」・・・<と>述べている・・・。
 こうした考えは、もちろん・・・孫文のものでもあった。」(17〜18、20、23〜25頁)
 (注5)「蒋介石がコミンテルン執行委員会で発言したちょうど同じ日(1923年11月26日)、孫文は犬養毅宛に書簡を認め、次のように述べていたのである。
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 ・・・ヨーロッパにおいては、・・・ロシアとドイツが被抑圧者の中核となり、イギリスとフランスが横暴者の中核となり、アジアにおいては、インドと中国が被抑圧者の中核となり、横暴者の中枢は同じくイギリスとフランスであります。ところで、アメリカはあるいは横暴者の仲間となるか、あるいは中立を守るかのいずれかでありますが、被抑圧者の友人には決してならないことだけは断言できるのであります。ただ日本だけが未知数であります。被抑圧者の友となるか、それとも被抑圧者の敵となるかについては、私は、先生の志が山本[権兵衛]内閣において実行されうるか否かによって、判断致します。
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 すなわちここでは「連ソ」「連独」の論理と<後の>「大アジア主義」の論理が架橋されていたのだといえよう。・・・
 1924年11月28日、孫文は・・・神戸でいわゆる「大アジア主義」演説を行った。そこで孫文は、アジア民族の大連合には王道を主張するソヴィエト・ロシアも参加しうると主張し、「連ソ」路線に忠実な発言を行った。さらに、明らかにドイツを念頭に置きつつ、「圧迫を受けている民族はアジアにだけあるのではなく、ヨーロッパの中にもあるのです」と述べ・・・たのである。・・・さらに、これまた犬養宛書簡とまったく同様の論理で、・・・「[日本が]西方覇道の手先となるのか、それとも東方王道の干城となるのか、それはあなたがた日本国民が慎重にお選びになればよいことであります」・・・<という>呼びかけがなされた・・・。」(25、28〜29頁)
 筆者は、「日本は・・・これを拒否した」について、典拠を示していないが、自明であろう。
 (注6)「日ソ国交回復(1925年1月20日)後、・・・鈴木貞一(当時北京公使館付武官補佐官)<によれば、彼に対し>・・・ソ連側から「日本とドイツとロシアとこの三国で支那で革命運動を展開してアングロサクソンの勢力を駆逐する運動を一つやらないか」と<いう>提案<があっ>たという。・・・次に、ドイツ内部でも、・・・大戦後のドイツで・・・ドイツ国防軍・・・の再建を担ったゼークト将軍<は、>・・・ソヴィエト・ロシアとの秘密の軍事協力関係を推進したのである。さらに1933年1月30日にナチスが権力を握り、独ソ関係が悪化すると、ゼークトは・・・蒋介石政権のもとで1934年にドイツ軍事顧問団長に就任することになる。まさしくゼークトこそはドイツにおける中独ソ提携路線の象徴であった。・・・
 <また、>グレーゴア・シュトラッサーは1925年10月22日、ナチ党機関紙・・・で次のように主張していた。ドイツの外交上の敵は英仏であり、したがって「さしあたっては[独ソ]両国の利害およびすべての抑圧された国家の利害は一致している」。・・・
 最後に、日本においても、・・・第一次世界大戦前、アメリカ合衆国が・・・強大化する趨勢を前にして、後藤<新平>が「新旧大陸対峙論」のもとに日露中三国の提携を構想していた・・・。<そして、>1923年・・・後藤<は、対アメリカ対峙に加え>・・・労農政府を利導して、露領における我が経済的発展の好機を掌握し、彼我共栄の途を開くこと・・・露支の接近に先んじて、支那の妄動を制<すること>・・・<という>認識<に基づき、>・・・ヨッフェ・・・を日本に招き、日ソ国交樹立のために会談を行った・・・。
 一方後藤は、こうした日ソ(中)提携論に加え、・・・1927年・・・には、社交を旨とした旧来の「日独協会」に代えて、積極的な文化交流をめざす「日独文化協会」を設立し、初代会長に就任していたのである。」(32〜36頁)

3 コメント

 実際のところ、この論文中に私にとって目新しい話は基本的にないのであって、この論文の最大の意義は、孫文の中国国民党が、紛れもない容共政党、より端的に言えば共産党のフロントであった、とされてきたところ、そのことを、発掘された史料をもとに証明した点にあります。
 もとより、孫文が「ソ連ないしモンゴルに国民革命軍の根拠地を建設し、そこから北京政府打倒の軍事行動を起こす」計画(筆者はこれを「西北計画」と称する)を唱えていたという話や、それに関連して、孫文が事実上外モンゴルの独立・・というか、当時の実態としてはソ連への割譲・・を事実上認めたという話は目新しかったですし、蒋介石<(1887〜1975年)>自身、共産主義者に成りきっていたとしか思えない記述にはいささか驚きました。

 蒋介石の息子の蒋経国<(1910〜88年)>については、「父・蒋介石と対立し、中国共産党に入党する。同年10月には・・・、ソビエト連邦のモスクワ中山大学に留学し、・・・ソビエト共産党にも正式に入党する・・・。父・蒋介石が<1927年に>起こした上海クーデターによって中国国民党と中国共産党が敵対関係に入ると、ヨシフ・スターリンより事実上の人質にされ・・・た。1937年・・・、西安事件を機にソ連より帰国、父である蒋介石と和解し、翌年中国国民党に入党する。」とされています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E7%B5%8C%E5%9B%BD
が、少なくとも「父・蒋介石と対立」という点は、疑ってかかる必要がありそうです。
 また、蒋介石の共産主義者からファシストへの転向の原因と経緯を究明する必要もありそうです。
 (一番簡単な説明は、蒋介石は上海クーデターを起こす直前に宋美齢と・・正式の結婚としては3度目、事実婚を含めれば4度目の・・結婚をしており、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3
この逆玉の輿結婚にあたって大財閥の宋一族から共産党との絶縁を促された、というものですが、魚心あれば水心だったのではないか、という感は否めません。)

 いずれにせよ、転向しなかった孫文、転向した蒋介石という違いこそあれど、最初から共産党に入った人々を含め、当時の支那の指導者ないし指導者予備軍の人々の大部分が、共産主義ないしファシズム、すなわち、私の言うところの、民主主義独裁に心酔したことについては、民主主義独裁が、欧州における、キリスト教的終末論/千年王国思想の変形物であることからすれば、支那の終末論/千年王国的伝統(「終末論・太平天国・白蓮教」シリーズ(コラム#4898以下)参照)抜きに説明することは困難である、と思います。

 (蛇足ながら、筆者の、「中独ソ<及び日本>の連合構想」が、当時、「中国」のみならず、「ソ連・・・ドイツ・・・日本」においても存在した、との主張は、面白いけれど、かなり根拠薄弱なのではないでしょうか。)  

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