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≪中欧論序説≫ 中欧の歴史と文化を知るために  (edel_weiss306の読書・旅日記)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/684.html
投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 8 月 08 日 22:30:55: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: Du sollst der Kaiser meiner Seele sein 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 8 月 08 日 21:58:43)

http://d.hatena.ne.jp/edel_weiss306/20111213/1323783870

 ミラン・クンデラの中欧意識

写真http://f.hatena.ne.jp/edel_weiss306/20090413194919

 1975年チェコからフランスに亡命した小説家ミラン・クンデラは2005年に出版した3冊目の評論『カーテン ─7部構成の小説論』(西永良成訳、集英社)の中で、ヨーロッパというものについて次のように述べている。ヨーロッパにあっては、国民という問題意識は、おそらく他のどこよりも複雑で深刻である。

 ヨーロッパにはいくつかの大国のかたわらに、いくつもの小国があり、そのいくつかがこの二世紀の間に政治的独立を獲得もしくは回復したという事実がある。そしてこうした状況が作り出す文化的多様性こそ、最大のヨーロッパ的価値なのである。これを定式化すると、「最小の空間のなかの最大の多様性」という風に言い表わせる。
 クンデラは、芸術作品を位置づける場合に、二つの基本的なコンテキストがあると指摘している。一つは小さなコンテキスト、すなわち自国民の歴史という小さなコンテキストであり、二つ目は大きなコンテキスト、つまり一国の歴史というものを越えた超国民的な歴史という大きなコンテキストである。たとえば音楽を考える場合、われわれにとって作曲家の母語が何であるかは、大した重要性をもっていない。一方小説は、その言語と結びついているので、小説はほとんどもっぱら国民的な小さなコンテキストにおいて研究されることが多い。つまり作家が生まれ育ち、所属するその国の歴史や言語という枠内で研究されるのである。

 しかし小説の本当の美的な価値は、文学の歴史のもっと大きな空間のなかで、すなわち世界文学という大きなコンテキストの中でしか把握できないのである。つまり観察者がローカルなコンテキストから遠ざかり、地理的な距離を置き、世界文学という大きなコンテキストの中に身を置くことによって、初めて対象となる小説のこれまで解明し得なかった未知の側面、その形式の革新性を発見できるのである。

 「世界文学(Die Weltliteratur)」という概念を最初に表明したのは、ゲーテである。「今日国民文学はもはやさしたるものを体現しない。私たちは世界文学の時代に入ろうとしているのであり、この進化を促進させることこそ私たち各人の義務である。」
 グローバルなコンテキストでの小説の評価という場合、われわれはその小説が書かれた言語の知識なしで、つまり翻訳によって可能なのであろうか、という問題にぶつかる。結論的にいえば、作品は結局、翻訳を通して別の国の読み手によって読まれることによって、深い理解に到達するのである。たとえば、伝統の外に出て「別様に書く」ことが可能であることを、ガルシア=マルケス(コロンビアの作家)に理解させたのはカフカであった。

 ヨーロッパの最良の価値である「最小の空間のなかの最大の多様性」は、現在その価値を失いつつある。クンデラは、自らを中央ヨーロッパ人として規定しているが、彼のアイデンティティの拠り所である中央ヨーロッパもしくは中欧は、「かつて一度も自らの命運の主人であったことも、自らの境界線の主人であったこともない」。中央ヨーロッパの諸国民は、めったに≪歴史≫の主体であったことがなく、ほとんど常に支配の客体であった。これらの諸国民が互いに近しかったのは、意志によってでも、共感によってでも、言語的な近さによってでもなく、類似の経験、共通の歴史的状況のゆえなのであった。

 中央ヨーロッパの中心は、よく言われるように、ウィーンという一都市に還元されてしまうのでなく、それは多中心的であって、ワルシャワから、ブダペストから、あるいはザグレブから見ると、それぞれが違った光のもとに出現する。だが、人がそれを眺める展望がどのようなものであれ、一つの共通の≪歴史≫が透けて見える。
 少し長くなるが、クンデラの言葉をそのまま引用してみよう。(便宜的に、少し表現を変えてある。)
 「チェコの窓から、私にはそこに十四世紀中葉プラハの、中央ヨーロッパ最初の大学が見える。十五世紀に、宗教改革を予告するフス革命が見える。十六世紀に、ボヘミア、ハンガリー、オーストリアと徐々に形成されるハプスブルク帝国が見える。二世紀にわたって、トルコの侵略から西欧を護ったいくつもの戦争が見える。バルト諸国にいたるまでの、あの広大な地域全体に建築的な統一性を刻印したバロック芸術の開花をもたらした反宗教改革が見える。十九世紀は、一民族(ドイツ民族)への同化、つまりゲルマン化されるのを拒否した幾多のさまざまな民族の愛国心を爆発させた。オーストリア人たちでさえ、帝国における支配的な地位にもかかわらず、彼らのオーストリア的アイデンティティと、そこに入ってしまえば自らが解消されてしまうことになる、大きなドイツ的実体とのあいだの選択を免れえなかったのだ。それから、どうしてシオニズムのことが忘れられるであろうか?シオニズムもまた中央ヨーロッパにおいて同じ同化の拒否、自らの言語をもつ国民として生きようとするユダヤ人たちの同じ意志から誕生したものなのだ。ヨーロッパの根本問題の一つ、すなわち小国民の問題が、他のどこでも、これほど意味深く凝縮され、模範的なかたちで顕在化したことはないのである。」

『ブダペシュト史─都市の夢─』

写真http://f.hatena.ne.jp/edel_weiss306/20090411213736

 中欧の歴史と文化を知るために、基本的な文献として南塚信吾著『ブダペシュト史─都市の夢─』を読んだ。

 歴史記述においては、記述者の歴史観によって、あるいは記述者の「目線」によって大きな差異が生ずることは否定できない。歴史記述は、単なる史料の羅列ではなく、記述者の歴史観によって綴られた物語である。史料と史料との間の隙間を想像力によって埋めながら、一つの物語を創出するのが歴史家の目標である。

 著者は、西(オーストリアを中心とする西ヨーロッパ)にも東(オスマン・トルコやセルビア)にも開かれた都市、ブダペストをドナウ川の一都市として捉え直し、地方および下層(市民、農民)からの視点によって、そこに住んだ人々の「夢」を探る。従来のようにヨーロッパ、とりわけハプスブルク帝国側からの視点によって捉えたブタペスト像とは全く異なる切り口で、ブダペストの実態を詳細な歴史資料に基づいて描き出そうとしている。

 都市を特定の価値観に基づいた文化表象として描き出す従来の都市論とは異質な都市の姿が、具体的な実態に即して記述されている。

≪ブダペストの歴史≫
マーチャーシュ王の時代……黄金時代
 1458年1月14日にハンガリー国王に選出された。
 ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝フリードリヒV世から王冠を買い戻して、フリードリヒV世の養子という身分でマーチャーシュは戴冠式を行なった。
これが原因で、後にハンガリー王権がハプスブルク家の手に入ることになった。
 ルネサンス王としてのマーチャーシュ……ナポリから迎えた妃ベアトリーチェの影響で、イタリア人文主義とルネサンス建築様式を大規模に取り入れた。
 ◎オスマン帝国下のブダとペシュト
 1526年8月29日、7〜8万人のオスマン軍と2万5000人のハンガリー軍が戦い、ハンガリー軍は壊滅し、国王ラヨシュ二世は死亡した。
 1541年以後、ハンガリーは3分割され、ブダ、ペシュトを含む中央部はオスマン帝国の直轄領となり、トランシルヴァニアはオスマンの保護国となり、ハプスブルク家が継承したハンガリー王国が北部に残った。国王はハプスブルクのフェルディナント一世、その首都はポジョニ(ブラティスラヴァ)に置かれることになり、宮廷機能も移った。
 オスマン支配は決して破壊と暗黒ではなく、ブダとペシュトにオスマン的な色彩を加えた。オスマン当局は、ブダ側に八つの温泉を作ったが、そのうち三つが「タバーン」に作られた。(現在のルダシュ温泉、ラーツ温泉、ゲレールト温泉にあたる。)
 オスマン時代に栄えた温泉……上記の三つの温泉は、下部温泉と呼ばれ、そのほか、ヨージェフ丘の下から出ている上部温泉(ルカーチ、チャーサール、キラーイ温泉)、オーブダにある温泉(ローマ、ピュンコジュト、チッラグヘジ)である。これらはローマ時代から知られていた温泉であり、ハンガリー人にとって温泉に入ることは、単に体をきれいにするという以上に一つの民間信仰的な儀礼の意味をもっていた。16世紀から17世紀末までのオスマン支配のあいだ、いわゆるトルコ式の浴場が建設された。トルコ式浴場には二つのタイプがあり、一つは湯舟のある温泉であり、いま一つは蒸し風呂であった。

 ◎ハプスブルク支配下の都市。脱オスマン色。

 1683年オスマン軍がウィーン攻撃に失敗した後、1699年1月に締結されたカルロビッツ条約によって、オスマン帝国はハンガリーから撤退した。
 ハプスブルク帝国の首都はウィーンであり、ハンガリー王国の行政組織と身分制議会は1541年以来ポジョニにあったから、ブダもペシュトも「首都」という機能は全く果たさなかった。両市は、当時中央ヨーロッパ地域の商業的中心であったハンガリー東部の都市デプレツェンにも劣る重要性しかもっていなかった。1690年以後、オスマン軍の撤退に伴い、ブダ地域の「タバーン」へは南から「ラーツ」が続々移住してきて、住民が増えた。18世紀初め2800人の住民のうち95%が「ラーツ」で、残りがハンガリー系とドイツ系の住民であった。この時期の「ラーツ」は、主にセルビア人であった。

 1703年にブダとペシュトはともにウィーンから特許を得て、「王国自由都市」の地位を回復した。これによって、ブダとペシュトははじめて法的に同等の都市としての地位を持つことになった。

 ハプスブルク皇帝でありかつハンガリーとチェコの国王をも兼ねるマリア・テレージアは、ブダとペシュト市の発展に大きな影響を与えた。マリア・テレージアの対抗宗教改革に押されて、18世紀にはブダとペシュトには多くのカトリック教会が作られた。

 首都の住民構成は、ハンガリー系とドイツ系と「ギリシア正教徒」系(「ラーツ」が中心)の三つであった。社会的対立は、まだ近代の「民族」的なものではなかった。対立は、市の行政を握るドイツ系の大商人・大手工業者に対して、成長してきたハンガリー商人が対立するという関係と、ドイツ系とハンガリー系の商人に対する「ギリシア正教徒」商人の対立という関係に見られた。それは明白に都市の棲み分けにも反映していた。

 大きく言って、ブダの「城丘」はドイツ系カトリックの「市民」の町で、ハンガリー系カトリックはわずかであったうえに、プロテスタントとユダヤ教徒は市民権を認められなかった。ハプスブルク家の考えによれば、ブダを取り返したのは、「皇帝」自身であり、それに近いドイツ系「市民」が指導権を握るのは当然であった。ブダの支配権を握り続けるドイツ系カトリックの「市民」は、ブダの「城丘」に入ってくるハンガリー系や「ラーツ」に対抗して、自らの地位を守ってくれるよう、皇帝に働きかけたのであった。これに対して、ブダの「城丘」の下のヴィーズィヴァーロシュは、ハンガリー系、南スラヴ系、ユダヤ教徒の町であった。タバーンは「ラーツ」の町であった。ユダヤ教徒はオーブダに多く避難していた。

 一方、ペシュトは、ハンガリー系カトリック、正教徒の南スラヴ系住民の町であったが、ハプスブルクの政策もあって、ドイツ系住民が増加し始めた。だが、ここでもプロテスタントとユダヤ教徒は市民権を認められなかった。

 近代的な意味での「民族」的対立の構図ではなく、各民族の棲み分けという色彩が強かった。

 1784−86年の人口調査。ブダの総人口は、23919人。ペシュトの総人口は、20704人。総人口のほぼ40%あまりが「市民権」を持たない住民であった。
 当時(1754年)のヨーロッパ主要都市の人口。ロンドンが86万、パリが50万あまり、ローマ、ベルリン、ミュンヘンが10万、ウィーンが17万5000人であった。

 ◎1830年代はブダとペシュトの改革期である。

 開明的な大貴族セーチェニ・イシュトヴァーンはさまざまな改革を導入しようとした。都市市民の目からは、改革をしようとする裕福な層の大部分は、開明貴族やドイツ系「市民」やユダヤ教徒であって、ハンガリー系「市民」ではない「よそ者」とみなされていた。都市の支配権を握る伝統的な「市民」層と新興の市民の間の対立。

 1840年代末には、大貴族らの保守党に対して自由主義的中貴族コシュート・ラヨシュは反対党のグループを構成し、さらにもう一方では若い知識人(詩人ペティーフ・シャーンドル)を中心とするラディカルなグループがあった。

 セーチェニは諸民族との協調を重視し、ハプスブルクに対しては融和的であったが、コシュートに代表される自由主義的中貴族層は、ハンガリーには「ハンガリー人という唯一の民族」しか認めないと公言し、非妥協的であった。

 国王が特許を与えることによって「市」を開設することができたから、ブダにもペシュトにもさまざまな「市」が立った。
 家畜市場、干し草市場、石炭市場、新市場(食料品、野菜、果物、香辛料など売買)。
 市場は、さまざまな商品が集まり、またさまざまな人々が集まる場所であった。もちろん市場は市の財政の上で重要であり、各種の商人にとっても大切な取引の場であった。しかも市場は社会的にも大きな意味を持っていて、事実上「市」の立つ日は民衆の祝祭日であった。見世物、人形劇場、サーカス、動物ショー、蠟細工、水芸人、花火その他の珍しいものが、人々を喜ばせた。特に現在のペシュトの聖イシュトヴァーン大聖堂がある広場が有名であった。また、「市」には文化、宗教、エスニシティを問わず、雑多な人が国の内外から集まってきた。すべての人が自分の言葉を話し、多言語的な「夢」の世界を現出していたのである。それは19世紀末近くまで、ブダやペシュトの社会に見られたのである。

 ◎1848年革命

 1830年代のセーチェニ・イシュトヴァーンの活動を受けて、1840年代にはコシュート・ラヨシュによる急進的な改革の時代がやってきた。コシュートは、オーストリアに対するハンガリーの一層の自立と立憲制の導入を求めた。

 1848年3月1日、パリで起きた二月革命の知らせがハンガリー身分制議会の開かれているポジョニに届いた。コシュートは3日に下院において、ハプスブルク帝国の立憲的改革を求める演説を行なった。そして、ハンガリーについては、農奴の解放、貴族の特権の廃止、独立政府、国防体制の改革などを求める提案をした。下院はこれを受け入れたが、保守的な上院はこれに反応しなかった。

 3月14日の夜、前日にウィーンで革命が起きたことがペシュトに知らされた。デモ行進が始まり、一万人の大集会が開かれ、出版の自由、検閲の廃止、法の前での平等、封建的諸関係の廃止などを盛り込んだ「十二項目」が、ペシュトの市参事会、次いでブダの参事会によって承認された。

 こうして革命化したペシュトの民衆の力を背景に、ポジョニの国会もウィーンの国王から譲歩を引き出すことに成功した。4月14日には国会がポジョニからペシュトに移ってきた。ブダとペシュトに別々にあった市議会は一緒に統一され、選挙が行われた。しかし言語の問題に関しては、公文書はすでにハンガリー語であるのに、市議会での言語はまだドイツ語であるという不整合が残っていた。ペシュトではハンガリー系の議員が多数を占めていたのに対し、ブダでは依然ドイツ語系の議員が多かったためである。

 「民族」「国民」「市民」における差異化の問題。

 ハンガリー人が、ドイツ人やチェコ人やルーマニア人やクロアチア人と言語・文化・歴史を異にする民族であると同時に、ハンガリー人という国民のレベルにおいても、その構成員である貴族や農民や「市民」や市民の間に身分上の区別があった。市民の間でも種々の権利を持つ都市の「市民」と「市民」の資格のない住民との区別があり、さらに下層の住民やロマとの間にも差異があった。差異の序列化、複雑化という問題。

 10月6日に起きたウィーン蜂起が10月31日に鎮圧されると、ハプスブルク帝国はハンガリーへの軍事的攻勢を強め、ついに12月31日国防委員会はペシュトを離れて、東のデブレツェンに移らざるをえなくなった。

 1849年1月5日、A.ヴィンディシュグレーツ将軍の指揮のもとにあるハプスブルク帝国軍は、ブダとペシュトに入城、翌1月6日にはバッチャーニ・ラヨシュを拘束した。これに対し、4月14日にはコシュートに率いられたハンガリー軍はデブレツェンにおいて「独立宣言」を発し、ハプスブルクとの独立戦争に入った。こうしてハプスブルク軍とハンガリー軍との激しい首都攻防戦が繰り広げられることになった。

 ロシア軍の支援を受けたハプスブルク帝国軍は力を盛り返し、7月8日にはコシュートと政府はペシュトをふたたび離れることになった。そして、7月18日ハプスブルク軍は、ペシュトとブダに再び入城したのである。7月19日に帝国軍司令官J.ハイナウはハンガリーに戒厳令をしき、12月に即位した若きハプスブルク皇帝フランツ・ヨーゼフの意向を受けて、厳しい報復を行なった。略式裁判によって多くの軍人、政治家が処刑された。

 首都が陥落したのち、ハンガリー軍は劣勢に追い込まれ、結局8月13日、ロシア軍の応援を得たハプスブルク軍に降伏することになった。コシュートら革命の指導者は国外に亡命した。ハプスブルク帝国軍に敗れたハンガリーは、その後20年弱のあいだ、ハプスブルクの軍事・専制的な支配のもとに置かれることになった。

  ハンガリーの義賊

写真http://f.hatena.ne.jp/edel_weiss306/20111029171127

 18世紀にハプスブルク家の支配が強まると、ハプスブルク家に忠誠を誓う地主階級や貴族に対抗して、権力への服従を拒む農民兵士やそれに加担する農民たちが現われてくる。
 18世紀半ば以降に現われたゲリラ的な武装集団は、べチャールと呼ばれる。
「ベチャール」は、元は貧しい若者たちの意味で、定住の地を失ってアウトロー的生活に入った農民や牧童たちのことを言う。彼らは小グループでハンガリー平原を移動して、富農を対象にしたゲリラ活動を行ない、一種の義賊的存在として民衆の間には好意を寄せる者が多かった。(ベチャールは、貧しい人民の側に立ち、富裕な市民や大規模な土地所有者である貴族から略奪する。)
 1848年は、フランスの2月革命をきっかけに各地で民族運動が高揚した。ハンガリーでも民族独立戦争が起こり、ベチャールもコシュート・ラヨシュの率いる軍に加わって戦った。

 1866年の普墺戦争で中央ヨーロッパの覇権をプロイセンに奪われたハプスブルク・オーストリアは、国内諸民族への政策について再検討せざるをえなくなり、ハンガリー人との妥協をはかって1867年のアウスグライヒによって、オーストリア・ハンガリー二重帝国が成立した。(この二重帝国は、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ね、両国は軍事、外交面を除いて、それぞれ独立の国家をなすという体制である。このアウスグライヒは、オーストリアのハプスブルク家とハンガリーのカトリック派の土地貴族たちとの妥協の成果だったので、ハンガリーの民族主義者や自由主義者の間には不満も強かった。
独立戦争以来ゲリラ活動を続けていたベチャールは、ハプスブルク家の「新絶対主義」の政策によるその後の支配体制のなかでも、ハンガリーの大平原を舞台にしてゲリラ活動を続けた。ベチャールのなかでも最も重要な人物は、「ベチャールの王様」と称されるロージャ・シャーンドル(1813-76)である。(ハンガリーでは、日本と同じく、姓・名の順になっている。)シャーンドルは、ハンガリー大平原にあるセゲド市の郊外に生まれた。
 日本でも上映されたハンガリー映画『密告の砦』は、このような歴史的背景を基にして作られた作品である。この映画の中でシャーンドルと呼ばれている首領は、ペチャールたちの間での伝説的な存在で、有名なハンガリーの国民的作家モーリツ・ジグモンド(1879−1942)には、彼を主人公とした長編小説がある。  

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