http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/710.html
Tweet |
(回答先: 西郷は「征韓論」などという乱暴なことを主張したことはただの一度もありません (西郷隆盛の生涯)西郷の遣韓論 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 4 月 29 日 02:13:10)
http://samuraiworld.web.fc2.com/rediscover_43.htm
江戸時代から明治維新までの日本の身分制社会の中で、武士人口の全人口に住める割合は、全国平均で約5パーセントと言われています。しかし島津氏の領国内では、この比率は約五倍くらいになると言われてきました。全国平均が約5パーセントくらいに対して、薩摩藩の場合、だいたい25パーセントから30パーセント近くをサムライ身分が示していました。明治4年時点における薩摩の士族の人口比を示した下の表を見ていただければ、薩摩の異常なサムライ人口がよくわかります。明治4年ですから、西南戦争が始まる前の、いまだ江戸時代の社会的雰囲気が色濃く残っている頃です。
討幕に向かう薩摩藩の武力、廃藩置県を断行するに当たっての担保としての武力、そして失業状態に置かれた彼ら士族たちの行き場のない絶望感を背景とする西南戦争と、幕末から明治初期まで、日本を動かしてきた中心的なところに、薩摩における異常なまでに多いサムライ人口が見て取れるのではないでしょうか。ある意味では、戦国時代の人口構成を、そのまま引きずっていたがゆえに、軍事的には強かったが、サムライという職業が不必要な時代になってしまうと、単なる重荷でしかなくなるという時代変革時における典型的なパターンが見られると思います。西郷やそれに従う桐野などは、失業した士族に新しい道を見つけてやるための授産所施設や開墾事業など、新規雇用政策のような努力はしたわけですが、それでもその数の多さとその頑な姿勢と柔軟性のなさの故に、明治政府との激突に至ったのも無理からぬ事と思われるのです。
ところで、その薩摩の武士のことですが、注意しなければならないことは、武士階級といっても薩摩藩の場合、郷士とか有事の際に兵役の義務を負う《人躾士》といって、他藩ではどうみても農民にしか見えない人々が、武士階級の中に組み込まれていたのです。桐野利秋が西郷隆盛に会いに城下へ出向いたとき、土産に《さつまいも》3本を持っていったところ、西郷の家のものに《カライモサムライ》と言って笑われ、西郷が戒めたことは有名な語り草になっていますが、鹿児島の城下以外に住んでいた《郷士》たちのほとんどは、《カライモサムライ》でした。主食に米が食えないほど貧困で、桐野利秋の家は極貧でサツマイモが主食だったようですが、そんな育ちの桐野利秋は軒さしの雨だれが地面に落ちるまでに三回も抜き差しができたほどの示現流の達人でした。そんな極貧生活をしていた人々も一応《サムライ》だったのです。
したがって薩摩国というところは、現代風に言えば、《人民戦線》の国といってもいいほどの潜在的軍事大国と思います。なにやらどこかの国と似ているようですが、徳川家康も容易に手出しができなかった理由も頷けます。また実は豊臣秀吉が、九州征伐に乗り出してきたときも、秀吉の軍は兵站が伸びきってしまっていて、ぎりぎりのところで島津氏が降参したというのが、実態だろうと考えています。島津義久の弟で後に秀吉に腹を切らされた島津歳久が大口から帰還する秀吉の籠めがけて矢を射ったのも、あながち歳久の腹いせでもなさそうです。秀吉は、できるだけ急いで大阪城に帰る必要があったと見ています。後方支援が希薄な秀吉軍は、薩摩の国内にとどまることは危険な状態ではなかったのでしょうか。
関が原で徳川家康に歯向かって領土をそのまま保全してもらったのは島津氏だけです。家康が島津氏を潰さなかった理由は多々あると考えられます。琉球を介した中国貿易の中継点としての利用価値、近衛家の存在。同時に家久の粘り強い交渉などの背景に、玉砕戦を省みない気風の薩摩の軍事力は忘れるべきではないと思います。当時島津義久、義弘兄弟と、彼らと寝食を共にしてきた家臣団は存命です。いまだ安定期になかった徳川政権がベトナム戦争のような状況を呈する薩摩との戦の中に身をおかなかったのは懸命だったというべきかもしれません。江戸幕府にとって、潜在的脅威は南海に君臨する薩摩藩だったわけです。
さて、薩摩はどうしてこのような他国とは異質な軍事大国になりえたのでょうか。薩摩の軍事大国の伝統は3つの流れが考えられます。
ひとつは、辺境の地で、中央政権から半ば《独立王国》として形成されてきたがゆえに、なんとしてでもこの領土を死守しなければいけないという土地と人間との一体化のなかで形成されてきた独特の意識とその風土から形成されている《猪突猛進》型精神的伝統。この精神的伝統をさらに根底から形成するに与ったのは、古代以来の《夷》の伝統にありと見ています。朝廷にまつろわぬものとして中央政府から制圧され編入されながらも、辺境故に中央の影響もほとんどなく、古代以来の伝統が深層に流れ続けてきたものと考えています。その伝統の核になっているものが夷人としての《隼人》ではないかと考えているのです。
二つ目は、島津氏とその家臣団とは、他国とは一味違った一体感を通して、死を恐れぬ戦闘集団として形成されていったということ。関が原の戦で、福島正則軍の前を突破していく島津軍団をして、福島正則に《死兵》と言わしめたほどの恐ろしい戦闘集団。最後の一兵までも突撃していく戦闘集団。それらは島津氏の戦法に如実に示されています。その一体感の母体になっているものは、薩摩独特の社会性にあると見ています。その基盤の上に、島津氏の長い支配体制によってさらに主君と家臣団との一体感が増幅されていったということ。
最後に、この二つの伝統の上に、思想的教育的な伝統が薩摩武士を完成させていきます。その最後の伝統は島津忠良こと日新斉の教えとそれを具体化した《郷中》(ごちゅう)教育です。倒幕に活躍した日本最強軍団薩摩軍は、この郷中教育の生み出したものです。
http://samuraiworld.web.fc2.com/rediscover_satsuma_homesexual.htm
サムライのことをいろいろ調べていて、一番気になることの一つに《男色》というのがあります。サムライについて書くとき、できるだけかっこいいイメージとして描きたいとう衝動もあるにはありますが、それでも調べれば調べるほどサムライたちの性については、現代日本人の常識とはかなり異質なものがあり、これを避けてサムライを語ることはできないと思うに至ったわけです。
サムライたちの《男色》についての豊かな実例は氏家幹人氏の《武士道とエロス》の中に述べられていますので、具体例に関心のある方は一読をお薦めします。
その本の中で、私が気になった箇所がありまして、それは男色の気風が強固に最後まで残っていたところとして薩摩の国に触れられている箇所です。私も現在《薩摩》の風土については並々ならぬ関心を持っていて、この地方の風土が《明治》という歴史的事件を通じて全国に与えた影響は皆さんが想像しているようなレベルではなく、それ以上のものというのが、現在の私の思いです。
その点については今後の課題として、今回は、薩摩の《男色》の伝統について、触れておきたいと思います。
氏家氏の本の中で触れられていたのは、江戸中期以降衰えていた男色の風潮が明治初期の頃、再び台頭してきた理由として、明治維新を実行した中心的藩であった薩摩の青年たちが東京に例の風潮をもたらしたとする見方が、当時の大方の了解であったことが紹介されています。そして、なぜ薩摩には、全国的には消えかかっていた男色の風潮が残されていたのか、その疑問点には、薩摩独特の教育制度であった《郷中教育》を挙げているわけです。《郷中教育》については、《薩摩紀行》シリーズの《薩摩は軍事大国だった》の中でその背景として指摘しておきましたが、薩摩が他の藩に比較して抜きん出で軍事的性格が強かった伝統と、《郷中教育》の中に潜んでいた《男同士のエロス的要素》とは、密接な関係があったと考えています。氏家氏が紹介しているオーストラリアのクラウスが観察した明治時代の日本兵の間における友情は、同性愛とも言うほどのもので、日本兵が死を恐れず、むしろ軽んずる傾向を、同志に対する《愛》と見抜いています。それはエロスを伴おうが、そうでなかろうが、、限りなくそれに近い感情によるものであろうで紹介していますが、その推測は、戦国時代のサムライたちのエトスにも該当するものであろうと、私は考えています。
薩摩のサムライたちの戦術の特色は、沖縄手の戦い、戸次川の戦い、根白坂の戦い、そして関が原の退却戦の中に読み取れるように、今日の感覚で言えば、ほぼ玉砕戦の様相を呈する戦い方にあります。兵士を盾にして、最後の一兵までも戦い抜く総力戦です。その薩摩兵の強さを支えていたのは、一人一人のサムライたちの兵士としての技術力の高さもあるでしょうが、間違いなく大将から一卒の兵士に至るまでの《心情的な一体感》であり、その士気の高さなしには彼らの戦術そのものは実行できなかったはずです。
日本最後の内戦と位置づけられる《西南戦争》にしろ、あの時、西郷隆盛が根占で弟子たちの弾薬庫襲撃をきいて腹を決めた西郷の思いは、かわいい弟子たちに対するある種の《愛情》であり、最後まで西郷に従う弟子たちの姿は、西郷に対する《愛》としか理解できないのです。それを《義》と読み替えることも間違いではないでしょうが、幼少の頃から寝食を共にしてきた《郷中教育》の中で育った彼らの間には、《義》だけでは包摂できない男同士の愛情らしきものがあったと思っています。それが戦国時代から江戸時代初期に当然視されていた性的関係を伴った愛情であろうが、なかろうが、現代の私たちが一般的に女性に対して向ける《愛》を彼らは、同志に対して抱いていたのだろうと思われます。
薩摩の中に強固に残されていたこの《男色》の伝統は、《郷中教育》の中に生まれたものではなく、実はもっと遡れると考えています。その伝統のルーツは、新羅の花郎の風習ではないかと推測しています。これについては、大和岩雄氏が、薩摩の稚児や二才(にせ)という若者集団を特別視している伝統と新羅の花郎との関係を積極的に主張していて、その根拠として指摘しているのが、古代における豊後豊前の新羅系移民の大隅移住の歴史的事件です。この大隅とは現在の国分市(霧島市)一帯のことで、稚児の風習が最後まで残っていた土地として国分を大和氏は指摘しています。
島津氏と薩摩とは、単なるめぐり合わせではないだろうと私は推測しているわけですが、その件については今後の調査を踏まえて改めて書きたいと思いますが、島津氏は古代からあった伝統を引き継ぐ形で薩摩の伝統へと高め、それが《郷中教育》の中に受け継がれていつたのではないかと思われます。島津七百年間、険しい自然地形に囲まれ他国との行き来がない、事実上の鎖国状態の故に、その伝統は 他の藩では既に死滅してしまったというのに、長く温存されていったのではないでしょうか。それが明治の時に政権を取ったために、東京に薩摩の風習が入るきっかけとなったということだろうと思います。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
- 宇佐八幡神は新羅の神だった (mansongeの「ニッポン民俗学」) 五月晴郎 2012/9/29 07:41:47
(0)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。