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尖閣諸島領有権問題:X氏の批判に応える3:敗戦処理〜「カイロ宣言」からSF講和条約へ、そして沖縄返還協定〜
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/762.html
投稿者 あっしら 日時 2013 年 8 月 07 日 14:21:34: Mo7ApAlflbQ6s
 


 これまで「政治板」に投稿していたシリーズですが、内容が近代史的要素を強く含むようになったので投稿する板をこちらに変更させていただきました。


「政治板」に投稿したものは次の通りです。

「尖閣諸島領有権問題:X氏の批判に応える1:尖閣諸島に対する日本領有を正当化できる根拠」( http://www.asyura2.com/13/senkyo151/msg/729.html

「尖閣諸島領有権問題:X氏の批判に応える2:関係改善が見えてきた日中関係:日中両国民の多数が納得できる解決策を」
http://www.asyura2.com/13/senkyo151/msg/749.html

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■ 尖閣諸島領有権と「カイロ宣言」及びサンフランシスコ講和条約


 今回は、シリーズの最初に書いた「尖閣諸島に対する日本領有を正当化できる根拠」をもう少し詳しく見ていく機会としたい。
 尖閣諸島に限定した視点ではなく、X氏も取り上げている近代日本史と日本の領土変遷という観点を意識しながら考えていきたい。

 尖閣諸島の領有権問題について、明や清の時代の古文書などを根拠として議論することを否定はしないが、それは、現時点での尖閣諸島に対する日本の領有権を認めたうえで取り上げられるべきテーマだと考えている。

 「尖閣諸島に対する日本領有を正当化できる根拠」は、尖閣諸島に対する日本政府の主権行使が、71年に中華民国が異議を唱えるまでのおよそ70年間、国際的に平穏なものであったという事実につきる。

 とりわけ、大敗北を喫した先の大戦(「アジア太平洋戦争」と呼びたい)の戦後処理では、それまで日本の主権が及んでいた領域について、領有に至った権原の正当性が考慮されることなく取り上げられるという事態も発生したが、その過程においてもなお、尖閣諸島の領有について中国側から異議が唱えられることはなかったという歴史的事実は重要であろう。

 日本に対する戦後処理の現実を考えると、戦勝国のなかに日本の尖閣諸島領有に異議を唱える国家があったなら、日本は尖閣諸島を放棄させられ、尖閣諸島は連合国によって正当な権利を有すると認められた国家に引き渡されていたと推測できるからである。


 当時、国際的に中国を唯一代表していた中華民国政府が、日本の敗戦処理過程で日本の尖閣諸島“窃取”(「カイロ宣言」的表現)に言及していれば、“窃取”の歴史的真偽性は別として、尖閣諸島は台湾に付属する島として日本が放棄すべき領域になっていた可能性が高いと思う。

(尖閣諸島問題が生じさせている日中間の軋轢に嫌気をきたしているひとなら、戦後処理の一環として、台湾ともども中華民国に引き渡されていたほうがよかったと思われるかもしれない)

 中華民国と中華人民共和国の両政府は、敗戦から26年後の71年に日米間で締結された沖縄返還協定をきっかけに日本の尖閣諸島領有に対し異議を唱え始めたが、連合国によって日本の領土・領域の問題が最初に取り上げられた43年の「カイロ宣言」から51年のサンフランシスコ講和条約(以降サ条約)及び日華平和条約(52年)の締結へと至る過程で、尖閣諸島の帰属(日本領有)を問題視することはなかった。

 愛国主義者でもない私がなぜ尖閣諸島に対する日本の領有権に関する正当性を強く主張するかと言えば、尖閣諸島周辺の「二重権力」状況を憂い解消すべきと考えるとともに、好悪は別として近代国際法にそぐわない論理でそれを否定すれば世界中で“ちゃぶ台返し”のような事態が頻発する可能性があるからである。
 尖閣諸島は小さな無人島の集まりに過ぎないが、世界中を見渡せば、先住者が共同体を営んでいた地域を含め、近代国際法に拠った“正当性”(無主地先占の論理)で“窃取”された領域はあまた存在する。

 私は根拠がないと考えているが、尖閣諸島の本島とも主張されている台湾そのものにも、中華民国及び中華人民共和国に正当な領有権があるのかという問題が潜在化している。
 米国は、中華民国と断交した後、連邦議会が国内法的位置付けの台湾関係法を制定した。台湾関係法も、サ条約の曖昧な条文とシンクロすることで、台湾地位未定論の根拠としてしばしば利用されている。

 実に愚行だと思っているが、実際、2009年、日本の在台湾窓口機関である「交流協会」の斎藤代表(実質的な大使に相当)が「台湾の地位は未確定」という趣旨の発言を行ったことで問題となった。斎藤氏は、結局、発言を撤回し代表を辞任するに至った。

(歴史の倫理的論理的“ちゃぶ台返し”を否定するつもりはないが、それが悲惨な武力衝突や内戦的状況を招くことを危惧している)

● 日清戦争にまで遡って領土問題を扱った「カイロ宣言」と戦後処理の基礎となった「ポツダム宣言」


 X氏が尖閣諸島領有権問題絡みで「カイロ宣言」について触れているので、X氏への問いに応えるかたちで、「アジア太平洋戦争」の結末が日本の領土・領域に及ぼした過程を説明したい。

 X氏は、私の「台湾でさえ、侵略によって手に入れたわけではなく、日清戦争というアジア秩序をめぐるガチンコの戦争で勝利し割譲を受けたものである」という説明に対し、次のような疑念を投げかけた。


【引用】
「???一体、貴方は、本当に、「カイロ宣言」を読んだ事があるのですか?
或いは、これは、次の様な問いに変えてもいい。
国際政治的な視点からみて、近代と現代の違いは、それでは何でしょうか?」


 今こうして読み返すと、X氏の問いかけは、なかなか失礼なものと思える。ご自身の見解はまったく示されないまま、私に対して?マークを連発しているだけだからである。この文章を読んでも、推測はともかく、私のどの部分に疑念を持たれているのかさえわからない。

※ なお、「国際政治的な視点からみた近代と現代の違い」については、別立ての投稿で回答させていただく。


 「アジア太平洋戦争」において、連合国が戦後日本の領土に関する扱いを最初に取り上げたのは「カイロ宣言」である。
 1943年(昭和18年)12月1日に米英中の首脳がカイロで会談し発した宣言である。そのなかから、外務省が翻訳した日本の領土にかかわる部分を示す。

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「カイロ宣言」

「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣

三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス

 右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス

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 「カイロ宣言」は、冒頭で連合国の戦争目的が私利私欲や領土拡張ではないことをうたいながら、満州は別として、「アジア太平洋戦争」が勃発する前に日本が国際的承認のもとに権原を得た領土や委任統治領の一部さえ奪うと表明している。

 「カイロ宣言」は、自国の利益や領土拡張が目的ではないと言った舌の根が乾かないうちに、台湾など中華民国(清)がかかわる領域ならまだしも、関係があるとしたら日本と同じ敗戦国ドイツである領域を日本から剥奪することを恥ずかしげもなく持ち出したのである。

 インドをはじめ世界最大の植民地帝国であった英国政府もかかわった「カイロ宣言」で、「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態」という非難がましい表現を使っていることには目をつぶろう。
 日本は、1914年に勃発したWW1の戦勝国として、ヴェルサイユ条約に基づき敗戦国ドイツが支配していた太平洋諸島を引き継ぎ、国際連盟から委任統治領として追認を受けた。現在のマーシャル諸島・ミクロネシア連邦・パラオ・米自治領北マリアナ諸島であり、WW2後に「カイロ宣言」に従うかたちで米国の信託統治領となった。

 WW1後の委任統治制度は、それまでの植民地主義的領土拡張の亜種でしかなく、今なお続く中東地域の“混迷”はそこに深淵があるとも言える。オスマントルコの解体後、英仏が中東を分割支配する根拠としたのが国際連盟の委任統治制度である。

 「文明の神聖なる使命」に基づき、「福祉及び発達」を目的として、ある領域について独立できるようになるまで“先進国”が分担して統治を代行するという“盗人にも三分の理”をよく表現したものが“委任統治”制度の内実である。

 現在、ムスリム同士の悲惨な殺戮戦が長期に続いているシリアも、トルコ軍を追い払ったアラブ人がアラブ臨時政府を樹立していたにもかかわらず、軍事的に占領したフランスがそれを解散させ、「独立の援助をするため」と称して委任統治を始めた。その統治を通じて、お得意の分断&対立を醸成するため、少数派であるアラウィ派のアサド一族を地元支配層として育成していった。


 「カイロ宣言」は、冒頭で「自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス」と高らかにもっともらしくうたいながら、戦後の米国領有を企図したものである「太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スル」を領土関連文言の最初に持ち出した恥ずべき文書である。

 アジア太平洋戦争中に発せられた連合国の日本領土に関する宣言としてはもう一つ、敗戦間際の1945年(昭和20年)7月26日に出された「ポツダム宣言」がある。そのなかで領土に関する内容が書かれている第8項を外務省の訳文で示す。


※ オリジナルの宣言は米英中の3ヶ国によって発せられたが、9月2日の休戦協定(俗にいう日本の“降伏文書”)でわかるように、8月9日に対日参戦したソ連が追加的に「ポツダム宣言」の主体国として加わった。

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「ポツダム宣言」

八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
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 43年12月の「カイロ宣言」が連合国勝利後に日本から取り上げる領土・領域を特定するかたちで書かれたとすれば、45年7月の「ポツダム宣言」は、敗戦後の日本が領土として保証される範囲を特定するかたちで書かれた。

 日露戦争で奪われた領土の回復と新たな領土拡張を目指すソ連の対日参戦が予定されていたこともあるが、日本にとって戦況がますます悪化していった1年半ほどのあいだに、領土にかかわる対日態度もより厳しいものになっていったことがわかる。

 「ポツダム宣言」の受諾により、極端に言えば、日本の主権が及ぶ地理的範囲(領土)が本州・北海道・九州・四国に限定されてしまう事態さえ受け容れなければならなくなった。
 連合国の意思によっては、伊豆大島でさえ譲り渡さなければならない立場に日本は置かれたのである。

 「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」から、領土をめぐって敗戦後の日本に突きつけられていた内容をみてきた。

 X氏の問いとの関係では、「カイロ宣言」の「満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコト」が“読むべきもの”に該当しそうな記述なのかもしれない。
 ここでも、無人の小さな島々でしかない尖閣諸島だから当然かもしれないが、尖閣諸島という名称は明示されていない。そのため、「カイロ宣言」だけでは、尖閣諸島が下関条約で日本に割譲された台湾に付属する島嶼かどうかわからず、問題はふりだしに戻る。

 ご自身の見解を示さないX氏の「???一体、貴方は、本当に、「カイロ宣言」を読んだ事があるのですか?」が、私の「台湾でさえ、侵略によって手に入れたわけではなく、日清戦争というアジア秩序をめぐるガチンコの戦争で勝利し割譲を受けたものである」という説明のどの部分に疑問を抱いているかわからないが、尖閣諸島の中華民国への引き渡しは、連合国の対日戦争目的として明示されているわけではない。

 まず、X氏は、まさか、「台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域」という表現が、日本が台湾本島や尖閣諸島を含む台湾領域を盗んだことを意味していると主張したいわけではないだろう。

 問題の尖閣諸島は脇におくとして、満州国の成立(独立)については、国際連盟でも合法性や正当性について疑義が提示され、国際的承認もなかなか進まなかったが、日清戦争の戦後処理の一つである日本への台湾割譲については、国際的な疑義が提示されることはなかった。

 それをはっきりわかりやすく浮かび上がらせてくれる歴史的事実が、日清戦争の戦後処理をめぐって起きたあの有名な「三国干渉」である。

 日清戦争で敗北した清は、下関条約で台湾とともに遼東半島を日本に割譲すると約した。しかし、日本に割譲されたはずの遼東半島は、仏独露による「三国干渉」を受けたことで、還付条約を締結するかたちで清に戻された。(還付報奨金として、賠償金の15%に相当する3千万両を獲得)
 同じ日清戦争の戦後処理でこのような経緯があったことに照らせば、台湾の割譲=日本の領有が国際的に承認されていたことは明瞭であろう。

(※ ことの是非はともかく、日清戦争の戦後処理の一つである遼東半島の日本への割譲が実現されていれば、日露戦争が起きていない可能性や起きたとしても歴史的経緯とはまったく違うものになっていた可能性を指摘することができる。日露戦争最大の激戦地であった旅順港や港を俯瞰する203高地は遼東半島の先端に存在するからである)

 日清戦争の戦後処理にまつわるこのような歴史的事実を鑑みれば、「カイロ宣言」にある“盗取シタ”という表現は政治的プロパガンダに過ぎない妄言であり、尖閣諸島どころか、台湾に関してさえ歴史的事実とは異なる不穏当かつ対日侮蔑的な表現である。


(このような政治的プロパガンダの妄言は、ヤルタ協定(米英ソ首脳会談)でも、「二 千九百四年ノ日本国ノ背信的攻撃ニ依リ侵害セラレタル「ロシア」国ノ旧権利ハ左ノ如ク回復セラルベシ 」というかたちで使われている。そして、ヤルタ協定として合意された「(甲)樺太ノ南部及之ニ隣接スル一切ノ島嶼ハ「ソヴィエト」聯邦ニ返還セラルベシ 」と「三 千島列島ハ「ソヴィエト」聯邦ニ引渡サルベシ」という内容が、敗戦後の日本に樺太南部や千島列島を放棄させる要因となり、今なお続く「北方領土」係争につながっている)


 ともかく、尖閣諸島の領有権をめぐる問題については、「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」に解を求める手掛かりが存在していないことがわかる。
 それゆえ、敗戦で日本が当事者能力を限定されまな板の上の鯉になってから、日本の領土がどのように処理されていったのかをみていかなければならない。


● 「ポツダム宣言」受諾から「休戦協定」=“降伏文書”署名まで

 敗戦で国際的な当事者能力を限定された日本政府が、まな板の上の鯉とも言える厳しい状況に置かれていたことは、尖閣諸島問題を考える上でも極めて重要だと考えている。

 1945年9月2日、東京湾に浮かぶミズーリ号艦上で、日本と連合国のあいだで「休戦協定」が締結された。連合国側の呼称に従い、日本でも一般的には“降伏文書”の調印と語られている出来事である。
 この「休戦協定」の締結により、日本軍は正式に連合国軍に無条件で降伏し、戦闘状態が終結した。そして、「ポツダム宣言」も国際法的に有効なものとなり、日本は、講和条約が発効するまでのあいだ、連合国による占領支配を受け容れることになった。

 ミズーリ号艦上で署名された「休戦協定」(降伏文書)の一部を抜粋して示す。
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「日本国と連合国の休戦協定」

合衆国、中華民国及「グレート、ブリテン」国ノ政府ノ首班ガ千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ発シ後ニ「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦ガ参加シタル宣言ノ条項ヲ日本国天皇、日本国政府及日本帝国大本営ノ命ニ依リ且之ニ代リ受諾ス右四国ハ以下之ヲ聯合国ト称ス


日本帝国大本営竝ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ聯合国ニ対スル無条件降伏ヲ布告ス


「ポツダム」宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト竝ニ右宣言ヲ実施スル為聯合国最高司令官又ハ其ノ他特定ノ聯合国代表者ガ要求スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ発シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本国政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス


 天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス

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 「休戦協定」で領土問題に関係する重要規定は、「「ポツダム」宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト竝ニ右宣言ヲ実施スル」という部分であろう。

 先に引用したように、「ポツダム宣言」には、「八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」とあり、「休戦協定」は「カイロ宣言」の内容をも包摂している。

 「カイロ宣言」については三首脳の署名もなかったことからその有効性に疑義が出されたりもしているが、「休戦協定」(日本(政府及び軍)・連合国最高司令官・米国・中国・英国・ソ連・豪州・カナダ・フランス・オランダ・NZの各代表が署名)により、「カイロ宣言」の法的有効性が明確になったと言える。
 これは、先ほど説明したように、今でも一部で語られているWW2後の台湾の地位が未確定である考え方を排除する一つの根拠となりえるだろう。

 「ポツダム宣言」受諾後の経緯として、8月17日に発令されたGHQ一般命令1号で、台湾にいる日本軍は、連合国軍中国戦区総司令官蒋介石に投降するものとされ、中華民国は、台湾行政長官として陳儀氏を派遣し、10月25日、日本軍の投降の手続きを行うとともに光復の宣言を行った。翌46年1月12日、中華民国政府は、台湾および澎湖諸島の住民の中華民国国籍の回復を宣言し前年10月25日に遡ってそれを発効させた。

 中華民国によるこのような主権行為が国際的に異議を唱えられることなく進められたことから、連合国において、下関条約で日本に割譲された台湾は、中華民国に引き継がれるという合意があったことが推定できる。

 であればなおのこと、当時の中華民国政府が、尖閣諸島を台湾の付属島嶼と考えていたり、尖閣諸島を回復すべき領土と考えていたならば、沖縄県に属していた尖閣諸島について、台湾省への編入を行うなどの行動を起こしえたはずである。
 しかし、小さくしかも無人の島の集まりでしかないせいなのかはわからないが、中華民国政府により、尖閣諸島が沖縄県から切り離され台湾に編入されるということはなかった。

 中国は、こののち内戦を経て、49年に、旧中華民国領域のほとんどを支配する中華人民共和国と戦後支配権を引き継いだ台湾・澎湖諸島と金門馬祖を支配する中華民国とに分裂する。


● 戦後日本の領土を確定させたサンフランシスコ講和条約

 47(昭和22)年頃から日本独立(講和)に向けた動きが始まったが、49(昭和24)年の中華人民共和国成立と50(昭和25)年の朝鮮戦争勃発を受けたかたちで、米国を中心とした一部(多数派)の連合国との講和で日本を独立させる交渉が加速化し、51(昭和26)年9月にサンフランシスコでの講和会議が開催され、9月8日に講和条約の締結がなされた。(49ヶ国が署名)
サ条約が発効し日本が独立したのは、米国の批准書寄託が終わった52(昭和27)年4月28日である。(旧)日米安全保障条約も同時に発効した。


サンフランシスコ講和条約から領土条項を引用する。
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第二章 領域

第二条

(a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(d) 日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。
(e) 日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。
(f) 日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。


第三条

 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

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 領土に関する第二章の条項を読むとすぐわかるのは、対日講和条約を主導的にとりまとめた米国に関連する領域については“日本が放棄した後”が明確に記されている一方、それ以外の領域については、“日本による権原放棄”が記されているだけというバランスの悪さである。

 日本の委任統治下にあつた太平洋諸島そして日本であった沖縄奄美・小笠原など、米国が信託を受けたり支配権を確保したりする領域については、あとからクレームが入る余地を残さないようその後の帰属について書かれているが、「樺太南部と千島列島」そして「台湾及び澎湖諸島」などは、日本が権限を放棄した後どこに帰属するのか明確にされていない。
 日本が放棄した後の帰属先は、戦中戦後の連合国内の合意や秘密協定などから推量するしかない。それゆえ、米国政界や日本の一部から、千島列島や樺太南部の領有権は定まっているわけでなくソ連(ロシア)が不当に占領しているという論が提起されたり、台湾についても国際法的地位は未確定という論が主張されたりすることになる。

 対日講和を主導した米国は、記述を曖昧にすることでサ講和条約に将来の紛争のタネを埋め込んだとも言えるのである。


(朝鮮半島については、なぜかとってつけたように、権原を放棄した日本国が朝鮮の独立を承認するという不可解な文言が付加されている。朝鮮についてルーズベルト大統領は、43年のテヘラン会談で「40年間は信託統治にすべき」と提案し、45年のヤルタ会談でも「20〜30年間は信託統治にすべき」と主張している。戦後、米英とソ連は中国を加えた4カ国で、朝鮮を5年間の信託統治を経て独立させることで合意した。サ講和会議は朝鮮戦争の真っ只中に開催されたが、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の二つの国家が既に存在していることを考慮したのか、将来の統一国家を含意したものかはわからない。この余分とも思える文言は、「台湾の国際法的地位は未確定」と主張する台湾独立派にとって不利な解釈になる可能性がある。台湾及び澎湖諸島について書かれた(b)項には“独立”云々という表現はないからである)


 講和会議にはソ連も参加したが、既に出来上がっていた講和条約案は、領土問題ではヤルタ協定で合意していたソ連の意向をある程度盛り込んではいるものの、ソ連を除外することを想定した内容で修正もされなかったことからソ連は署名しなかった。ソ連が講和会議に出席した目的は、樺太南部と千島列島の放棄(ソ連のものになることを含意)が最終条文にもきちんと残るかどうか確認しにきたものと言えるだろう。


(戦後世界秩序の盟主となった米国は、サ条約第二条(c)がソ連への譲渡を含意している根拠であるヤルタ協定について、アイゼンハワー政権時に「ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効」という“奇妙で不埒な”米国務省公式声明を出した。ヤルタ協定はソ連を対日戦に引き込むための米英ソ合意事項であり、それを“大統領個人の文書”とするような国際秩序破壊言動を平然とできるのは、唯一の超大国となった米国のみと言っているだろう。その声明に日ソの離間を図る意図がどれほどあったかはわからないが、日ソ(露)は今なお領土をめぐって係争を抱え続けている)


 ほぼ米国とだけ講和交渉を行った日本は、49(昭和24)年の時点で、ソ連を除外する米国主導の講和条約になるとの見通しをもっていた。
 なんとか一日も早く独立し国際社会に復帰したい日本とアジアにおける世界戦略の要石として日本を抑えつつ活用したい米国の思惑が交錯したりシンクロしたりするなかで、日米は講和に向けた交渉を続けた。
 日本政府上層部は、この交渉過程を通じて、対米従属意識をしっかり植え付けられた。
 それは、沖縄・小笠原諸島の“信託統治”(将来の独立を含意する)条項についてさえ抵抗をやめ、米国が日本の防衛責任を負わない(日本に自衛力がないことが理由)かたちでの米軍駐留を認める「日米安全保障条約」を受け容れたことでよくわかる。

 敗戦した日本は、占領期を通じて、現在なお続く政治的権力の対米従属の基礎がしっかりと固められたのである。

 日本の「戦後レジーム」は、まさに、占領期間に出来上がったものである。
 安倍氏は「戦後レジーム」の解体を語ってきたが、「戦後レジーム」は米国との関係性を軸とするものだから、その解体を叫ぶことで解体することはできない。
「戦後レジーム」の解体は虎の尾を踏む危険な話であり、貧弱な野党ならともかく、政権を担うような有力政治家がそれを取り上げれば確実に潰されることになる。

「戦後レジーム」を本気で解体したいのであれば、それを広言せず、日々の政治過程で気がつかれないようにゆっくり対米従属から離脱していく方法しかない。

 安倍首相の表立った勇ましい「戦後レジーム」解体発言は、愛国右派を気取るための空虚なセリフでしかないのである。
 対米従属を特質とする「戦後レジーム」にどっぷり浸ることで政治的権益を手にしている政治家たちが中心となって、より過激な国家主義的右派保守的発言を繰り返しているところに日本が抱えている宿痾を見ることができる。
 彼らは、自らの対米従属的特性を覆い隠したり、対米従属で鬱屈した国家間関係の憂さを晴らしたりするために、露骨なまでに国士や愛国者を気取った言動を行っているのである。

 戦勝国が、占領から離脱して独立国家になった敗戦国に、軍隊の駐留を認めさせるなど従属的立場を強いるような政策を強制することは、国際法に照らすと難しい。
 生殺与奪権を握っている占領支配期に、一般国民もだが日本の支配各層を精神的な鎖につなぎとめ、独立と支配権の継続をエサにして対米従属を利と考える支配層を育成しておかなければ、現在に至る日米関係は構築できなかったはずである。


(今の日本では日米同盟=米軍駐留こそ日本の安全保障と語る愚劣な政治家も多いが、当時の日本で、独立した後も外国の軍隊が国内に駐留し続けることを認める政策を心から認める人はごくわずかだった。だからこそ、米国は、ずぶずぶの“親英米派”であった吉田茂首相をサ講和会議に出席させるよう強く求めたのである。賠償問題(フィリピンやインドネシア)などもあるが、他の“まっとうな”全権が講和会議にやってきて、沖縄・小笠原諸島の“信託統治”条項に疑問を呈して紛糾させたり、サ条約だけに署名して、そのあとの日米安全保障条約締結からは逃げてしまうような事態を憂慮したのである。サ条約だけの締結であれば、サ条約第六条の(a)項に書かれている「連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない」という規定に従い、米国も、軍隊を日本から撤退させなければならなくなる。サ条約も批准されなければ発効はしないのだが、米国側が安保条約の非締結を理由に批准をサボタージュすれば、国際的にみっともない姿をさらすことになる。日米安全保障条約は、サ条約の署名が終わったあと、米陸軍第六司令部で日本側として吉田首相全権ひとりが署名するかたちで締結された)


 ソ連は対日講和会議に出席しながら講和条約への署名に至らなかったが、米英ソと並ぶ連合国の主要メンバーである中国は、中華人民共和国・中華民国のどちらも講和会議に招請さえされなかった。

 沖縄などを米国の生殺与奪に委ねるサ条約第三条は、尖閣諸島の領有権問題と大きく関わるものである。なぜなら、米国は、サ条約第三条を根拠に、72年まで尖閣諸島を含む南西諸島への支配を継続したからである。

 中華民国や中華人民共和国の政府は、今現在主張しているように、沖縄県に属する尖閣諸島が台湾の付属島嶼と判断し日本から返還されるべきものと考えていたのなら、51年の時点でサ条約第三条が適用される領域をきちんと確認すべきだったし、53年の琉球列島米国民政府布告第二十七号で、尖閣諸島がアメリカ民政府および琉球政府の管轄区域にふくまれていることが明確になった時点できちんとクレームをつけなければならなかったはずである。

 たとえ小さな無人島群のことであるにしても、それが、近代主権国家の政府に課された重要な役割の一つであり義務でもある。


(サ条約第三条では、南西諸島などについて、「合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する」となっているが、実質的に占領支配と言える状態が続くかたちになり、信託統治については移行を図ることさえなかった。信託統治に移行すれば軍事基地の強化が困難になるという点で躊躇もあっただろうが、穿った見方をすれば、対象領域の将来的独立を含意している信託統治をちらつかせることで、日本政府の対米従属度をより深めさせる意図があったとも言える。日本政府は、米国に対し、該当地域を信託統治に移行しないよう働き続けたはずである)

 中華人民共和国は、対日講和問題について、サ講和会議が開催される直前の8月15日に周恩来外相の名で声明を発している。

 その声明は、サ講和会議について、「中華人民共和国を除外している限り、これまた国際義務を反古にし、基本的に承認できない会議」であり、「連合国宣言は、単独で講和してはならないと規定している」ことに反するものと糾弾している。

 そして、日本の領土に関する条項についても、「領土条項における対日平和条約アメリカ、イギリス草案は、占領と侵略を拡げようというアメリカ政府の要求に全面的に合致するものである。一方では草案は、さきに国際連盟により日本の委任統治の下におかれていた太平洋諸島にたいする施政権の他、更に琉球諸島、小笠原群島、火山列島、西鳥島、沖之鳥島及び南鳥島など、その施政権まで保有することをアメリカ政府に保証し、これらの島嶼の日本分離につき過去のいかなる国際協定も規定していないにもかかわらず、事実上これらの島嶼をひきつづき占領しうる権力をもたせようとしている」などと、極めてまっとうな批判を展開した。

 前述したが、中華人民共和国の声明も、「台湾及び澎湖諸島」や「千島列島及び樺太南部」についても、日本が一切の権利を放棄すると規定しているだけで、中華人民共和国やソ連に引き渡すという連合国における合意について一言も触れていないと米国の意図を強く批判している。

 現在南シナ海領有権問題と言われ騒動になっている南沙諸島や西沙諸島についても、「西沙群島と西鳥島とは、南沙群島、中沙群島及び東沙群島と全く同じように、これまでずっと中国領土であったし、日本帝国主義が侵略戦争をおこした際、一時手放されたが、日本が降伏してからは当時の中国政府により全部接収された」と述べ、それらの島々に対する誰も犯すことのできない中国の主権を宣言している。

 これだけの批判を展開した周恩来氏の声明だが、尖閣諸島についてはまったく触れられていない。

 日本の領土処理に関する興味深い文書として、サ講和会議に出席したソ連が提議した領土の規定内容に関する修正文書がある。

 サ講和会議で9月5日に示されたもので、領土規定の第二条について、「(b)及び(f)項の代りに次の項を含めること。すなわち、「日本国は、満州、台湾及びこれに接近するすべての諸島、澎湖諸島、東沙島、南沙群島、マクスフィールド堆、並びに、西鳥島を含む新南群島に対する中華人民共和国の完全なる主権を認め、ここに掲げた地域に対するすべての権利、権原及び請求書を放棄する」という内容である。

 サ条約に較べるとずっと具体的で、日本が放棄した後の帰属先も明確になっている。
 最終のサ条約第二条(b)は、「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」というもので、(f)は、「日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」というものである。
 最終のサ条約は、日本政府により台湾の高雄市に編入されていた新南群島及び西沙群島の領有権について、台湾及び澎湖諸島と切り離し別立ての項としており、米国の“深慮遠謀”が窺える。

 ソ連案では「台湾及びこれに接近するすべての諸島、澎湖諸島」と書かれているので、ソ連案が採用されていれば、“台湾に接近する諸島”を特定する段階で、尖閣諸島がそれに該当するかどうか議論の対象になった可能性がある。

※ 西鳥島は、日本名で、南威島とも呼ばれる。現在、ベトナムが実効支配している。中国は、最近、ベトナムとのあいだで、南威島の領有権問題を棚上げすることに合意した。

● 米国の差配に従って締結した「日華平和条約」

 敗戦した日本の独立を認めるサンフランシスコ講和条約は、アジア太平洋戦争で最も長く戦った相手である中国との講和が除外されているという実に異様なものである。

 そのため、日本は、サ講和条約が発効する52年4月28日、中華民国とのあいだで日華平和条約を締結することになる。

 このシリーズの2つ目である「関係改善が見えてきた日中関係:日中両国民の多数が納得できる解決策を」で書いたが、日中戦争の災厄に見舞われた数億の人々が暮らす肝心の大陸を支配する中華人民共和国政府を敵対視し、日中戦争の一つの当事者であるにしても、内戦に敗れかつて日本領であった台湾をほぼ全領域とする中華民国とのみ平和条約を締結することで、日中の戦争状態に決着をつけたと主張した当時の日本政府は、米国支配層の意に従ったとは言え、恥ずべき態度を世界にさらしたと言えるだろう。

 国会のサ条約批准審議の過程でも取り上げられたが、まっとうな政治家や外交官は、政治的立場の違いは別として、先の大戦にきちんと決着を付けるためには大陸中国を実効支配している中華人民共和国との平和条約締結が必要不可欠と考えていた。

 日本政府が中国との講和条約の交渉・締結の相手として中華人民共和国もしくは中華民国のどちらを選択するかという問題について、米国と英国は、日本の決定に委ねるとしていた。
 しかし、狡猾な米国トルーマン政権は、対外政策でタカ派のダレス氏を対日講和条約について国務長官を補佐する特別大使として日本に派遣し、米国議会でサ条約の批准審議がスムーズに進むという説明を付けて、中華民国を講和交渉の対象とする意思があるか日本政府に質した。
 中国との講和について中華民国と交渉することに依存がないと回答した「吉田書簡」は、米国議会上院外交委員会でサ条約の批准審議が開始されるタイミングで公表された(52年1月15日)。

 我が国の支配層に対して好意的過ぎる見方かもしれないが、独立に向けサ講和条約の批准を人質に取られている日本は、米国連邦議会の意向をダシに、中華民国との講和条約締結を迫る米国政府の意向を受け容れるしかなかったとも言える。

 「日華平和条約」締結は、対米従属の大きな証の一つである。米国支配層は、このように、大きな政治的節目の一つ一つで対米従属を受け容れるしかない状況をつくり、その積み重ねにより、日本政府が“自ずと”対米従属を深めていくよう仕掛けたのである。

 「日華平和条約」は、サンフランシスコ講和条約を受けるかたちで残された主要交戦国である中国のある部分との講和を意図したものである。
 サ条約では第三条で尖閣諸島を含む領域が米国の施政権もしくは信託統治に置かれるものと規定しているので、「日華平和条約」は、日中間で尖閣諸島の領有権問題が浮上する隙間がほとんどなかったと状況で締結されたと言えるだろう。
 言い換えれば、世界の盟主である米国のものになった領域に異を唱える国家は希少で、とりわけ、米国の庇護下で生存を図る中華民国が米国に異を唱えることは難しい。
 そのようなわけで、「日華平和条約」はどのようなものだったのかを確認する目的で取り上げたいと思う。

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「日華平和条約」

第一条
 日本国と中華民国との間の戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する。

第二条
 日本国は、千九百五十一年九月八日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約(以下「サン・フランシスコ条約」という。)第二条に基き、台湾及び澎湖諸島並びに新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承認される。

第三条
 日本国及びその国民の財産で台湾及び澎湖諸島にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で台湾及び澎湖諸島における中華民国の当局及びその住民に対するものの処理並びに日本国におけるこれらの当局及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国政府と中華民国政府との間の特別取極の主題とする。国民及び住民という語は、この条約で用いるときはいつでも、法人を含む。


第四条
 千九百四十一年十二月九日前に日本国と中国との間で締結されたすべての条約、協約及び協定は、戦争の結果として無効となつたことが承認される。

第五条
 日本国はサン・フランシスコ条約第十条の規定に基き、千九百一年九月七日に北京で署名された最終議定書並びにこれを補足するすべての附属書、書簡及び文書の規定から生ずるすべての利得及び特権を含む中国におけるすべての特殊の権利及び利益を放棄し、且つ、前記の議定書、附属書、書簡及び文書を日本国に関して廃棄することに同意したことが承認される。

第十条
 この条約の適用上、中華民国の国民には、台湾及び澎湖諸島のすべての住民及び以前にそこの住民であつた者並びにそれらの子孫で、台湾及び澎湖諸島において中華民国が現に施行し、又は今後施行する法令によつて中国の国籍を有するものを含むものとみなす。また、中華民国の法人には、台湾及び澎湖諸島において中華民国が現に施行し、又は今後施行する法令に基いて登録されるすべての法人を含むものとみなす。

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 第二条でわかるように、「日華平和条約」でも、日本が領有権原を放棄した台湾及び澎湖諸島の帰属先は明記されていない。
 連合国に対し放棄を認めた日本側にすれば、その先どうなるかは連合国次第で日本の預かり知らぬことだから、放棄した領域の帰属先を“勝手に”明確化するような条約に署名するわけにはいかないと考え、中華民国側にすれば、日華間の平和条約でわざわざ取り上げたことで、実質的に、台湾及び澎湖諸島が中華民国に帰属すると両者が認めたことになると考えたのであろう。

 そうは言いながらも、第十条の規定で、日本も、間接的に台湾及び澎湖諸島に対する中華民国の主権=領有権を認めている。
 第十条には、「中華民国の国民には、台湾及び澎湖諸島のすべての住民及び以前にそこの住民であつた者並びにそれらの子孫で、台湾及び澎湖諸島において中華民国が現に施行し、又は今後施行する法令によつて中国の国籍を有するものを含む」とあり、台湾及び澎湖諸島に対する中華民国の主権行為を日華双方が認めている。

 日華平和条約は、第四条で、1941年12月9日より前に日本と中国との間で締結されたすべての条約類は戦争の結果として無効になったとしているが、日本を含む多国籍軍と清の戦争であった義和団事件(北清事変)の最終議定書の取り扱いについては、わざわざ第五条で別に取り上げている。
 このような取り扱いになったのは、中華人民共和国との関係になるので現実的な実効性は別として、最終議定書にある「公使館周辺区域における警察権の戦勝国への譲渡」や「海岸から北京までの諸拠点での戦勝国駐兵権」といった中国の主権制限条項が、日華平和条約時点でなお有効であったことを示唆する。先の大戦の敗北により、日本だけがその権利を喪失したわけである。
 清の時代のえぐい戦争に起因する戦勝国の権利が、中華民国そして中華人民共和国と50年の歴史を経てもなお生きているほど、近代国際法は厳しいのである。


 尖閣諸島の領有権問題が日中間の係争として火を噴くのは、沖縄返還協定の交渉内容が明らかになった時点である。
 中国が1895年以降初めて尖閣諸島の日本領有(支配)に抗議したのは、中華民国が、沖縄返還協定の調印(71年6月17日)直前の6月11日である、中華人民共和国が、その年の暮れ12月30日なのである。

 この期に及んでとも形容できる抗議が起きた理由として、二つの要因が考えられる。

 一つは、 1968年に、尖閣諸島周辺の海底にそれなりの規模の埋蔵量を有する油田がある可能性が指摘されたことである。これは、小さな無人島群でしかなく、せいぜい米軍が一部の島を射爆演習場としているところと思われてきた尖閣諸島を大きくクローズアップさせる契機となった。

 もう一つは、サ条約第三条に従えば、日本に返還されることにはなりにくい領域が返還される現実が生じ、いわゆる地政学的条件が変わる可能性を見たことである。
中華人民共和国は、ソ連というより自国を標的にしていると思える軍事基地機能強化を伴う米国の沖縄支配に反対し、日本に返還すべきとも主張していたが、かつての宿敵日本が中国大陸の南岸沿い領域を再び手中にし、台湾本島近くまで迫ることをこころよくは思わなかったはずである。
 中華人民共和国は、日本の尖閣諸島領有に抗議の声明を出す直前の71年10月には連合国(国連)での代表権を獲得している。米国との関係改善が進むなか、米国よりも日本のほうを脅威と考えるようになっていた。米国より日本を脅威と考え、米国に日本を抑え込む役割を期待する考えは今なお続いている。
 沖縄返還協定は、米中関係がちょうど変わるタイミングで締結されたのである。

 中華民国にしても、“沖縄返還協定”は東アジアにおける米国の軍事的プレゼンスが後退していく傾向の一つと映った。


 沖縄返還協定が発効し沖縄が日本となった72年、新たに首相となった田中角栄氏が訪中し「日中国交正常化」を果たした。
「日中平和条約」の締結は78年だが、田中訪中での「日中共同宣言」が、日中間の戦争状態を最終的に終わらせたと言えるだろう。

 尖閣諸島領有権問題が取り上げられ“棚上げ”にされたという有名な話は、この田中訪中時の周恩来首相(当時)との打ち合わせに関するものである。
 “棚上げ”問題は2で既に取り上げているので詳しくは書かないが、中華人民共和国政府(中国共産党指導部)が尖閣諸島に対する領有権に正当性を確信していたのなら、実効支配をしている日本政府に“棚上げ”を言う日和見主義的な対応はしなかったはずである。“棚上げ”はすなわち現状維持だからである。


 最近行われた民間世論調査で、日中両国民の90%以上が相手国に否定的な印象を持っており、その原因が尖閣諸島をめぐる領有権の対立にあると見られている。
 日中の友好関係をことさら演出する必要はなく、それぞれが、日常的な付き合いのなかで生じる感情やイメージに基づき相手国に対する好悪を判断すればいいと思っているが、統治者やメディアの“煽り”的言動で両国民が憎悪を募らせるのは愚の骨頂である。

 「雨降って地固まる」ではないが、ここまでこじれた日中関係を改善するにあたっては、その場しのぎや小手先の妥協ではなく、多くの国民が問題の本質を理解できる内容で解決を図ってもらいたいと切に願っている。


 

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コメント
 
01. 2013年8月07日 18:16:32 : XAcB9P8kJk
> 「尖閣諸島に対する日本領有を正当化できる根拠」は、尖閣諸島に対する日本政府の主権行使が、71年に中華民国が異議を唱えるまでのおよそ70年間、国際的に平穏なものであったという事実につきる。


「つきる」というなら、それが間違っていれば意見を変えるということでしょうか?


1895年の台湾割譲から1945年のポツダム宣言(カイロ宣言)までの50年間は、国際条約によって台湾は日本の領土とされていたので、誰もそれに異議を唱えることはなかった。釣魚台は台湾に属する島だと清国(中国)は認識していたので、当然異議はない。
70年のうち50年はこのような事情なので、それを「異議を唱えなかった期間」に加算するのは、国際裁判で通るとは思われない。

だからせいぜい20年だが、その20年のうちでも、蒋介石は異議を唱えていた。


> 日本に対する戦後処理の現実を考えると、戦勝国のなかに日本の尖閣諸島領有に異議を唱える国家があったなら、日本は尖閣諸島を放棄させられ、尖閣諸島は連合国によって正当な権利を有すると認められた国家に引き渡されていたと推測できるからである。

蒋介石は異議を唱えたが米国に拒否された。連合国といっても決定権はもっぱら米国にあった。大陸にもっとも近い島である尖閣を中国には渡さないことは、大陸の内戦状況を見ながらの米国の戦略だった。


>当時、国際的に中国を唯一代表していた中華民国政府が、日本の敗戦処理過程で日本の尖閣諸島“窃取”(「カイロ宣言」的表現)に言及していれば、“窃取”の歴史的真偽性は別として、尖閣諸島は台湾に付属する島として日本が放棄すべき領域になっていた可能性が高いと思う。


米国は歴史的経緯を無視して尖閣を保持した。蒋介石が文句を言ってもムダだった。そして米国は今、領有権には口出ししないと言っている。米国は事情を十分に知った上でいろいろと策をめぐらしているようだ。


02. 2013年9月23日 22:22:54 : aW2tRyOxNA
>あっしらさん

今回は、今まで以上に、長文になるが故に、ポイント毎にコメントを区切って、アップしております。

最初は主に貴方のコメント部分に対する批判、次はそのコメントの前提になってる貴方の認識の枠組みへ、そして、結語として、貴方の「尖閣」への最後の拠り所としている「ちゃぶ台返し」が、貴方の、単なる、思い込みでしかなかったとの、ダメ出しです。

これまでの貴方の当方への対応をみても、批判に対して、マトモに対することなく、打っ棄るか「見解の相違」で逃げるしかしてこなかった。 何故言いっ放ししか出来ないのか? 何故「説明」しか出来ないのか?何故「見解の相違」でしか応じられないのか?

 今回立てられたスレによってその理由が一段と明確になったと思われますのでー執拗に問い続けた甲斐があったというものですがー、此れまでの、一連のやり取りの中で浮き彫りになった貴方の思い込み乃至錯誤を改めて正すと共に、その由って来たる所以ー言うならば「見解の相違」の根幹に在るものーを明らかにすることによって、この問題の一応の決着を付けたいと思います。


03. 2013年9月23日 22:24:56 : aW2tRyOxNA
>「尖閣諸島に対する日本領有を正当化できる根拠」は、尖閣諸島に対する日本政府の主権行使が、71年に中華民国が異議を唱えるまでのおよそ70年間、国際的に平穏なものであったという事実につきる。


この部分の錯誤は1.のコメント氏が指摘している通りです。
殊に戦後の四半世紀はアメリカの支配下に置かれたのであり、従って「尖閣諸島に対する日本政府の主権行使」は不可能、よって貴方の主張は成り立ちません。 その事を示すのが、今から60年程前の「独立」間もない国会質疑において、当該地域に関して、「行政協定」を盾に不能とした政府答弁(1954年3月26日参議院大蔵委員会)です。
貴方は、どうやら、アメリカの支配(信託統治)下に在ること、そしてそれにクレームが無かったことが即ち日本の潜在主権を示すものと想ってる様ですが、勘違いも甚だしい。 中国側(中華民国)からすれば、「大陸反抗」という立場から「施政権」を認めていたわけですが、更にこれには、当時の中華民国政府が置かれた立場が如実に反映している、と見なければならない。
内戦に敗れて台湾に逃げ込んだ国民党政権は、事実上、アメリカの軍事力によってその存在が保障されてるに過ぎず、それ自体非常に脆弱なものであったからです(事実上の軍事的保護国ーその延長線上に『台湾関係法』が在ります)。 そういう意味では国民党政権も(日本の政権同様!)アメリカの傀儡的な性格が刻印されており、アメリカの支配(施政権)に対して正面から異議を申し立てることは出来なかった、と考えるべきなのです。
つまり、アメリカの支配に正面から異議を唱えなかったということでは日本と同等ー従って、この点においては(この段階では)どちらが有利か?とは本来言えないはずなのです。
文句が言えなかったからと言って、日本が沖縄を自国領として自明視していたのと同様、中華民国も釣魚諸島を自国領として自明視していたーということになるのだから。 また、だからこそ、当該地域の「施政権返還」が現実の政治日程に上って来るやいなや、直ちに反応したのです。


>71年に日米間で締結された沖縄返還協定をきっかけに日本の尖閣諸島領有に対し異議を唱え始めた

もちろん、これは誤りです。 正確に言えば、「施政権返還」が現実のものとなった段階で当該地域の帰属に言及し出したのは日本も中国(台湾)も同じ、但し、中華民国は、逸早く、1969年7月17日に公式声明を発表して、大陸棚を含めた、当該地域の領土画定の必要性を訴え、同年10月12日には国連に対して、同問題を提起、通告しております。

敗戦国であり、事実上軍事占領下に在って、殆ど異議を唱える事が出来なかった日本とは異なり、少なくとも形式的には対等であったのだから、それなりの対応は可能であったし、実際、上記の如く、国民党政権は、折に触れ、ギリギリの限度で、対応しているのです。
例えばそれ以前にも、サ条約発効後の53年11月、米国駐華大使に対して、「覚書」という形で示した、「琉球諸島の日本への帰属に不同意」の表明であったり、釣魚諸島への民間施設の設置(の許可)とか同海域での漁業調査など。
特に前者の場合、(琉球への宗主権まで含めた)この地域全体の(中国への)帰属をアメリカに認めさせることが、戦時中から一貫して、国民党政権の目標だったのですから、釣魚どころの話しではないのです。 勿論、その延長線上に、前にも言った様に、戦後の沖縄への(中華民国への)服属工作があるわけです
そうして、以上の事をアメリカ側から見たらどうなるか?
沖縄は、又中華民国が宗主権(潜在的統治権)を主張しているのだから、対日及び国府(台湾)への管制高地として、そうして釣魚諸島は対中国(台湾及び大陸)への足掛りとして、アメリカ側からは位置付けられていたー
敗戦後、日本は当該地域を中国名で米国に引き渡し、又現在に至るも米国(軍)は中国名で使用しているのだから、以上のように考えるのが一番自然な理解というものでしょう。


>中国側から異議が唱えられることはなかったという歴史的事実

全くのデタラメ! 何も知らないくせして、よくそんなデタラメを言えるものだと、呆れ返っております。
中華民国(台湾)については上記の通り、人民共和国(大陸)についても、以前から言ってる通り、当時(1951年9月18日)の周恩来外交部長(外相)が声明を発表して、「サンフランシスコ講和条約の無効」を宣言しております。 アメリカの施政権(支配)も含め、条約自体を根本から否定しているのだから、それこそ「異議を唱える」どころの話ではないでしょう。 前回その事を指摘すると、それは連合国側の事情であって、日本の与り知らぬ事と、完全に開き直っておりましたが、その事自体、如何に貴方がこの問題を解ってないかを示すものです。  

言うまでも無く、無理解の原因の一つは連合国が単一の政治的実体であるかのように錯視してる所に在ります(勿論、連合国=アメリカでもありません)。 アメリカのヘゲモニー下にあるとはいえ、形式的には、あくまで、主権国家の集まりであり、又当然、条約を結ぶ主体になるのは国家であって、「連合国という単一の政治的実体と日本」という関係ではない、しかも、強いられたとはいえ、日本はそれら(中国の異議、ソ連の調印不参加等)の事実を知りつつ無視し、アメリカ(片面講和)を選択したのだから、その結果生じた物事の責任の一端は、その限りにおいて、引き受けねばならないのですよ。
ーこういった事は、この問題に限らず、国際的諸関係とか国際問題を論じる際の初歩、基本中の基本というべきではありませんか。
@然るに、貴方の脳裏からスッポりと抜け落ちてる。 一体それは何故なのか?

>X氏は、まさか、「台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域」という表現が、日本が台湾本島や尖閣諸島を含む台湾領域を盗んだことを意味していると主張したいわけではないだろう。


再び???と記しましょうか、それとも今度は!!!の方がいいかな(笑) まさに、そのまさかです! どの様に見ても、又読んでも、「日本が台湾本島や尖閣諸島を含む台湾領域を盗んだことを意味している」としか理解出来ないでしょうに! むしろ逆に、ここで問わねばならない。
A貴方が、(カイロ宣言の当該)文章を読んでも、そのまま理解することが出来ないのは一体何故なのか?

@Aで鮮明になった基本的な処での認識や理解の致命的な欠陥の根本原因を探れば、無意識の裡に露呈してるスタンスに行き着きす。
「国際法」に対する言葉とは裏腹、「脱亜入欧」で示される、明治以来の近代化=西欧化路線を露ほども疑ってない貴方ご自身のスタンスに、です。 以下に明瞭に表れてる様に、「国際法」即ち西欧が作ったルールに従って正当に獲得したのだから、本来、文句を言われる筋合いは無いーと考えているのでしょう。

>「日清戦争というアジア秩序をめぐるガチンコの戦争で勝利し割譲を受けたものである」という説明のどの部分に疑問を抱いているかわからない


即ち、「台湾でさえ、侵略によって手に入れたわけではない」と、歴史的無知丸出し、唖然とする発言を連発する貴方にとって、西欧目線に立ち、西欧列強がやってる様に行動したのだから、何ら疾しいところはない、というわけです。

それでは貴方にお訊ねします。 大戦後、奔流となったアジア・アフリカ諸国の独立とは一体何でしょう?ー何処からの独立で、それは何を意味するのでしょうか? そうして、何よりも、それを可能にした国際政治上の転機となったのは何ですか?


04. 2013年9月23日 22:27:04 : aW2tRyOxNA
上記の発言及びこれまでの経緯から言っても、教科書的な「説明」は為し得ても、恐らくは、貴方にはその意味する処が理解出来てないでしょうから、先回りして、今度はこちらから解説することにします。

もちろん、「アジア・アフリカ諸国の独立」の裏側にあったのは、西欧列強が近代に獲得した「領土」を手放した、という事です。 当然の事ながら、それは、当の西欧からすれば、「国際法に則って正当に獲得した領土」だったはずです。

では、何故手放したのか?ー手放さざるを得なかったのか?
言うまでも無く、その理由の第一は、列強による「帝国主義」=植民地化のターゲットになった地域から澎湃として起こってきた抵抗や反撃、即ち反帝=反植民地主義を掲げ、民族独立を主張する動きが奔流の如く沸き起こり、西欧がその動きに抗する事が最早出来なくなった、というところに求められますが、しかしながら、更に見逃せない重要な要素として、そういった動きを容認或いは鼓舞する様に振る舞い、そうした流れに掉さす様にして、「民族自決(自己決定)」や「民族解放」を掲げた国家(米ソ)が登場して来て、国際政治に大きな力を持ってきたことが挙げられます。 決定的な転機となったのが第二次大戦でしょう。
一連の「戦後処理」の主導権を握ったアメリカが、それ故に国際政治のヘゲモニーを握れたということですが、ここで注目すべきなのは、「ヘゲモニー獲得」に如何なる政治力学が働いているのか?ということです。 
単なる軍事力だけではダメ、グラムシのいう「合意」こそが、この場合も、決定的なカギとなります。
即ち、戦勝国のみならず、それ以外の(国際社会の)圧倒的多数の(有形無形の)「合意」を得ている、ということ。
そうして、更にその「合意」の中身(意味)を探る時、当時の「連合国」加盟50ヶ国に止まらず、その後参加して来るアジア・アフリカ諸国(地域)も含めて捉えるべきであり、この事を理解するについて、権力をリーダーシップと置き換えてみれば、権力の源泉はオピニオンに在りとしたD.ヒュームの「政府の第一原理」の視点がなお有効であることが解かるでしょう。

つまり、アメリカのヘゲモニー(覇権)の源泉は、何より、その言説に求められるべきであり、アメリカのヘゲモニー獲得の裏返しが多くの植民地を抱える西欧列強が国際政治の主導権を失ったことを意味し、大戦以前においては欧州の枠組みに止めていた「民族自決」が世界に拡がったのはその現われと見做すべきなのです。 ー即ちそれは、「民族自決」という言説が国際政治上の原則に変わったのを意味し、19世紀来の帝国主義的な領土拡張行為が不正義と見做された、ということです。
従って、非常に単純化して解り易く言えば、ドイツと日本(の行為)を極端に誇張し、それを<悪>と断罪することによって、結果的に、西欧の帝国主義的な領土獲得行為までも否定した、ということです。 
英国やフランスの戦後過程(インド独立、アルジェリア、ベトナム戦争等)は「戦勝国」でさえそれが例外ではなかった事を示しているのです。
元より、彼ら(米ソ)の言説が西欧列強を世界の主舞台から叩き落すことを主眼としたものであり、西欧に替わって、自らがその後釜に座る狙いが隠されていたことは確かでしょう。
しかし、だからといって、列強が主導権を握っていたそれ以前の状態と比べた時、どちらがよりましか?と言えば、答えは明らかでしょう、取り分け植民地主義の犠牲になった諸国の側からすれば!

「宣言」も含め、大戦前後のアメリカの言動について、良く言えば「理想主義的」、悪く言えば「欺瞞的」「偽善的」という批判がありますが、見当違いも甚だしい、そもそもが「ヘゲモニー獲得」の為、国際社会の「合意」を得る為の政治(言動)なのですから。


05. 2013年9月23日 22:28:37 : aW2tRyOxNA
私が何を批判しているのか、お解かりだと思います。 下記の「カイロ宣言」についての貴方の認識はお粗末極まりないと言わねばならない。


>戦後の米国領有を企図したものである「太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スル」を領土関連文言の最初に持ち出した恥ずべき文書
>盗取シタ”という表現は政治的プロパガンダに過ぎない妄言
>台湾に関してさえ歴史的事実とは異なる不穏当かつ対日侮蔑的な表現


何故、お粗末極まりないのか? 単なる文章への感想(感情的反発)に止まり、政治的文言として、そこに在る政治性が丸で解ってないから、です。
貴方の視野から完全に脱落しているのが中国の存在です。 一体「カイロ宣言」はアメリカ単独によるものなのか? 違うでしょ。 米英中の三カ国の首脳が会談し、その成果が「宣言」として謳われたものなのだから。 そうして、チャーチルの署名が為されなかった事で判る通り、実質、この「宣言」は米中の合作によるもの、と言っていい。 そうしてそれは、アメリカの主張に従ったというよりも、中国の言い分を取り入れたというのが正解でしょう。 勿論、それ故にチャーチルは署名をしなかったのです。 何故なら、「宣言」に込められた思想及び論理の矛先は、やがては、植民地帝国イギリスへ向かうものなのだから。
そうして、その背後にクッキリと浮かび上がるのが、上で申した通り、(イギリスに取って代わり)アジア(のみならず世界においても)の覇者の位置を狙うアメリカの野望です。 同時に又、それは中国の同意を抜きにしたら成り立たない。 もし中国がこれに同意せず、「連合国」を離脱し、反対に日本と和睦した場合を考えてみればいいのです。
その時、「カイロ宣言」も「ポツダム宣言」も空無化し、「侵略者を打倒する」という大義名分を失うのです。
大義名分を失う、即ち何の為に戦ってるか解からない戦争程脆いものはないーその事は、やがて、ベトナム戦争の全過程を通じて、フランスが、次いでアメリカが思い知ることになるのです。 

他方、明日にも日本と妥協して戦線を離脱するかのような素振りを示しながら、自国の言い分を実現させて行くーこうして観れば、中国の強かさと共に、その政治巧者ぶりが際立っております。
単にこの時ばかりでなく、日中戦争全般に亘って垣間見えて来るのは、軍事を劣位においても、徹頭徹尾、政治的に対処しようとした中国側の姿勢です。 それは、国際政治に音痴の軍事官僚を頭領に戴いた日本の姿勢とはまさに対極に在る、と言っていい。
日本は、個々の戦闘には勝っても、戦争には負けたー軍事を政治の一手段とする政治※に負けたー日本は中国の何に負けたのか?というと、政治に負けたということをダメ押しておきます。
そうしてこの事は、今日の「領土問題」及び日中関係を観る点でも必須のもの、と考えます。

※とはいえ、国民党政権は、国際政治にのみ腐心して、肝心の国内政治を疎かにし、(軍事を劣位においた事の反動ですが)国民の合意を得ることに失敗して仕舞うー政権の基盤を失うことになり、それが逆に政権の対外(アメリカ)依存度を決定的にし、却って国際政治上の脆弱性に繋がって行くのは初めの方に記した通りです。


さて、これまで、縷々述べて来たことでお解りだと思いますが、貴方の(主要な)論点は悉く論破しました。 当然の事ながら、下記の貴方の主張の(最後の?)拠り所も虚妄と言うしかない。


>好悪は別として近代国際法にそぐわない論理でそれを否定すれば世界中で“ちゃぶ台返し”のような事態が頻発する可能性
>歴史の倫理的論理的“ちゃぶ台返し”を否定するつもりはないが、それが悲惨な武力衝突や内戦的状況を招くことを危惧
 

貴方の言葉を借りれば、第二次大戦ーアメリカのヘゲモニー獲得(再度強調すれば、中国の同意を得ることによってね!)こそが“ちゃぶ台返し”だったのですよ。 従って、釣魚島ー「尖閣問題」とは、「歴史の倫理的論理的“ちゃぶ台返し”」の後始末ー即ち大戦後の戦後処理の問題である、ということです。

何故日本政府が、「尖閣」に限らず、「領土問題」に関して「固有の領土」としているのか?
「固有の領土じゃない」としたら、それは作為的に追加されたものであり、直ちにそれは「戦後処理」に抵触して来る可能性が出て来るからです。 当然、かかる日本政府の立場から見ても、「固有の領土というわけではないけど、ロンダリングされて日本のものとなった」との、貴方の主張が受け入れられる余地は無いのです。 


それにしても、歴史的経過も事実も無視した斯かる世迷い事を何故トクトクと語ることが出来るのか?
歴史は言うまでもがな、現実についても、事実に対しても、その認識が何故これ程までに大甘なのか?杜撰で、お粗末なのか?を問う時、能力の問題は暫く措くとしても、どうしても、貴方の立ち位置にその殆どが帰せられる問題であることが浮き彫りになって来るのです。 

例えば、サンフランシスコ講和条約を止むを得ないと受け入れながら、それと密接・不可分ー少なくともそのアメリカ側からしたら因果或いは罪と罰ーの関係にあるカイロ・ポツダム宣言を拒絶するのはまさしく矛盾撞着というしかない。
しかも、「「カイロ宣言」・「ポツダム宣言」とサンフランシスコ講和条約を切り離すことはできない」とご自身言っておきながら、ですよ!
同様に、事実上の属国であることを認めながら、そも属国に領土なんて在って無いようなもの、という認識には行き着かない。
属国状態を脱して、初めて領土問題は当事者となることを考えれば、属国と領土問題とは排中律であることが解ろうというものですが。

単に貴方だけでなく、国民多数に見られる、斯かる相互に矛盾する物事を受け入れる態度の発端は、言うまでも無く、従属を独立と言い換えたサンフランシスコ講和条約に行き着きます。 サンフランシスコ講和条約以降の日本の在り様を総体として是とするー即ち従属を独立とした時、論理の倒錯は必須でしょう。 つまり、「独立したことにしましょ」というお約束事=フィクションの世界に入るのですから、そのお約束事と背反する事象は意識の外に排除されるー不都合な事実は見ないー見ないものは存在しないーという態度が罷り通る訳です。 結果、お約束事に沿った辻褄合わせや論理のアクロバットが、平然と、自然に、普通になされる。

貴方だけを批判するのではない、単に貴方のみを批判して終わりたくないのは、貴方の意識の在り様そのものが日本人の中に遍在しているからです。 従って、国民多数が自明の事と思い込んでる、サンフランシスコ講和条約によって戦争の後始末がつき、戦後が始まり、今に至ってる、という戦後意識ーそれこそが私が真に対象化したいものであり、貴方の言説をその取っ掛かりにしようと思ったわけです、貴方のイシハラ狆への信じ難き評価を知るに及んでね。
何故なら、イシハラ狆とは、斯かる国民多数の上げ底化された意識の、更に上澄みの部分を浮遊して来たに過ぎず、それ自体澱みに浮かぶ泡沫、即ちバブルでしかないのであり、そこにシンパシーを感じること自体お里が知れるものなのだから。

貴方は、恐らくは、御自分を、左とは言わぬまでも、リベラルと見做してるのでしょうが、斯かるイシハラ狆への親近感や田母神ショーグン並みと言っていい「カイロ宣言」評をみると、そのような区別に意味があるようには思えない、やはり、そのような相矛盾する要素を抱え込んでる意識の在り様そのものを対象化するしかない、というわけです。 

「戦後史の正体」(孫崎享)は、戦後意識を対象化しない限り、その全体像を窺い知ることは出来ない、自分が正常、普通、自然と見做していたことが、実はそうではなかった、ということなのですから。


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